秋野豊

 十年前の七月二十日、私は不思議な体験をしたことがあります。フランスでの文化イベントを終え、帰国した知人と長野市内のホテルで待ち合わせ、ワインを楽しんでいた時でした。とても愉快な気分で会話をし、フランスでの土産話に聞き入っていました。その際、ふと窓からなにげなく景色を眺めていたのですが、外の空、ビル、木々、車、人々等から急に色が失せ、セピアの風景が見えたのです。あれ、夢を見ているのかな、いやいや悪酔いだなと思い、窓から目をそらしました。

 しばらくは、知人の話を聞くふりをして、躊躇はあったのですが、もう一度窓の外を見ることにしました。いつものオールカラーの景色でした。ああ、よかったと思いながらも、今度は急に虚無感が込み上げてきました。生きているのがイヤになってしまったのです。私は比較的気分の安定した人間で、こんな体験は初めてでした。これは、もうこの場を切り上げろとの合図だなと感じ、さっさと会話を切り上げ、帰宅することとしました。たぶん、知人は私のことを随分自分勝手なやつと思ったに違いありません。

 実は、この時、国連タジキスタン監視団(UNMOT)政務官の秋野豊氏が命を亡くしたのです。秋野氏の師から携帯電話に連絡をいただき、その事実を確認したのでした。それによって、私の不思議な体験の理由は納得できましたが、しかし、なぜ古き友人の死を地球の半周分ほども離れた私が感じたのかは、不思議のまま残ったのでした。

 私は、この体験から変に教訓めいた話は引き出すつもりはありません。ただ、セピア色の景色の中で感じた、あの挫折感はもう二度と味わいたくないということはあります。生きている中での惨めさと死に向かっての惨めさとの間には、まるで橋が架かっていないように思います。

 この七月、秋野豊メモリアルコンサートが開かれるという報に接し、もう十年も経ったのかという感慨です。四つ年上の同僚であった君は、私より若い四十八のままではあるけれど…

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裁判員制度(2)

 平成21年5月21日から、いよいよ裁判員制度が実施されるそうです。裁判員制度とは,国民が裁判員として刑事裁判に参加し、被告人が有罪かどうか,有罪の場合どのような刑にするかを裁判官と一緒に決める制度といわれています。「国民のみなさんが刑事裁判に参加することにより,裁判が身近で分かりやすいものとなり,司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながることが期待されています」というのが、最高裁判所の裁判員に関するHPの謳い文句です。

 ところで、この裁判員制度の導入を全く別の観点から再検討してみたいと思います。私は仕事柄、よく裁判所に足を運ぶのですが、最近の裁判所は、本庁あるいはどこの支部でも頻繁に建築工事等が行われています。今後、一般市民が多く裁判所に訪れることが予定されていますから、その受け入れのため、増築や改築がなされているということです。

 それにともなって、あるいは、たまたまかが議論の分かれるところですが、不動産競売などに関する施設、機器も大いに拡充・充実してきています。たとえば、入札資料を複写する際、長野地裁本庁・各支部は、長らく弁護士会のコピー機を市民に便宜的に利用させるという形式を踏むところが多く、料金も高く、手間が掛かる等の問題がありました。ところが、最近では、裁判所がコピー機を備え置き、市民が自分で複写でき、料金もかなり廉価になってきています。二十年以上もほとんど変わらなかったシステムが、急に改変されてきています。

 裁判所など司法施設に突然、予算が付き始めたようです。裁判所の現場を歩いている人間からすると、裁判員制度の導入ということをきっかけに、裁判所に予算が流れ始めたと感じられるのです。制度の導入が、実は予算獲得のため千載一遇の機会になっていはいないかという危惧です。

 いかに予算を厳格に規制し、執行するかが問題とされる昨今、裁判員制度の導入に関しては、このような観点からの議論をほとんど見ないのは不思議というものです。もともと、従来から、裁判所と一般市民との間にはかなりの距離があり、市民(感覚)からの監視が行き届かないことからの帰結でもありますが。

 現在は休止されていますが、かって、日本でも陪審制度が行われた時代がありました。これと同様に、裁判員制度が法律上、事実上ともに休止となる可能性があることには注意が必要です。穿った見方かもしれませんが、裁判員制度の導入が、司法部が手に入れた数少ない予算獲得のための便益とならないことを願っています。

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裁判員制度

 仕事で長野地裁諏訪支部に行ったときのことですが、裁判所の掲示板に「裁判員選任を装った悪質行為についてご注意下さい」という張り紙がありました。内容は、裁判員に選任されたので、連絡の必要上、住所、氏名、家族構成、職業などを教えて欲しいという虚偽の問い合わせがあり、個人情報を聞き出そうとする悪質事例の報告でした。実際、まだ裁判員の候補者を選ぶ段階にはなっていないので、このようなことがあるはずもなく、そもそも、裁判員に選ばれたとしても、裁判所が電話等でこのような個人情報を尋ねることもありえません。

 裁判員制度は、刑事司法の場に市民感覚を持ち込み、より公平な判決等を導き出すための方策として構築されたものですが、反対に市民社会の垢にまみれ、不公正な結果に至らしめるかもしれないと危惧しています。裁判官は遠く市民社会から離れた生活をし、ある面では非常識との誹りを免れない部分もあります。しかし、そのための方策として、一気に市民と同じ世界で法的判断を重ねるとするのはいかがなものでしょうか。

 市民感覚に富んだ裁判官を養成するための制度が必要です。それがあって、はじめての裁判員制度でなければならないし、現状では「市民」の捉え方が非常に観念的です。「市民」は全体として適切な判断を下すことは可能です。選挙結果などがその良い例です。が、一人一人の市民が常にだれでも的確な判断を下すことはなかなか難しいものです。机に座っている司法官僚の考えた制度なのでしょう。

 『市民の浮世絵美術館』を主宰する立場上、また刑事法学者であった経歴からしても、いずれはこのことに触れなければならないと考えていましたので、今後は、もう少し明確に主張していくつもりです。なぜ、『浮世絵美術館』の前に『市民』がついているのかの回答にもなるでしょうから。

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