山本勘助(8)
人形浄瑠璃・歌舞伎に太閤記物と呼ばれる一系統があります。豊臣秀吉の一代記に取材したもので、享保四年(1719)、近松門左衛門の『本朝三国志』を嚆矢とします。『本朝三国志』という題名からも判るとおり、中国の『三国志』の焼き直しともいえます。
また、川中島合戦物ということからいえば、やはり、近松門左衛門の人形浄瑠璃『信州川中島合戦』が享保六年(1721)に初演されており、二段目では、武田信玄が劉備玄徳の三顧の礼を学んで雪の中に山本勘助の住まいを訪れる場面が出てきます。この点から見ても、川中島合戦物も『三国志』を下敷きにしているということが理解できると思います。
ところが、太閤記物と浮世絵との観点でいうと、喜多川歌麿の大判三枚続の浮世絵『太閤五妻洛東遊観之図』が幕府の取り締まりに触れ、文化元年(1804)、歌麿の作品は絶版、すでに刊行されていた読本『絵本太閤記』までも絶版を命じられ、歌麿自身も手鎖五十日の刑等を受けています。ここに、太閤記物が浮世絵の世界で大きく展開する可能性が摘まれてしまいました。
さて、このような前段があって、その後、天保の改革の直後から、川中島合戦の浮世絵が歌川派の絵師等によって多数制作されます。美人や役者の浮世絵への規制がきつく、比較的規制の緩い武者絵に注目が当たったのかもしれませんが、太閤記物への展開が事実上不可能であったことが原因して、庶民に要望の多かった三国志の本朝版として、川中島合戦の浮世絵が多数制作されたのではないでしょうか?
したがって、武田信玄には軍師山本勘助が必要になるのです。ただし、そこからさらに一歩進めたのが、国芳とその版元達の知恵であったように思われます。すなわち、太閤記そのものも川中島合戦に重ね合わせてしまったのではないかという疑いです。
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