山本勘助(大尾)
浮世絵のオークション資料を見ていたところ、国芳の三枚続の武者絵がありました。瞬間的に、千曲川にて両軍対峙する川中島合戦の浮世絵かと思ったのですが、子細に検討すると、蘇我馬子と聖徳太子方が物部守屋方を攻め立てようかという構図でした。そこで関心が失せてしまったのですが、数ヶ月が過ぎたこの頃、この蘇我氏と物部氏の争いが、川中島合戦の浮世絵の背景には隠されているのではと気付いた次第です。といって、いまさら、先の作品は手に入りません…
用明天皇が崩御した年(587)、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の最後の戦いが行われ、物部守屋と中臣勝海は敗れ去ります。日本書紀にも記される有名な話ですが、その際、聖徳太子が仏教を守護する四天王に戦勝を祈願したことから、守屋は迹見赤檮(とみのいちい)に矢で射られ、秦河勝(はたかわかつ)に首を切られることとなります。蘇我氏の勝利という結果となり、戦後、聖徳太子は、四天王寺を建設します。
武田信玄が諏訪大社の旗を本陣に立てている作品は多いですし、自身、諏訪法性の兜を被っています。諏訪神社の御神山は、守屋山(物部守屋神社)ですので、物部氏側と見ることができます。つまり、神社側です。これに対して、上杉謙信は、四天王の代表・毘沙門天の化身といわれ、また、「毘」の軍旗に守られています。さらに、幼少より仏門に帰依し、一生独身の武将です。ということで、蘇我氏側、つまり、寺院側です。浮世絵作品でも、善光寺を背景に陣を敷くのは上杉方と決まっています。
では、上杉謙信が聖徳太子の見立てで、武田信玄が物部守屋の見立てなのかというと、そのように見る向きもありますが、私は物部守屋に見立てられているのは、血戦の場では、山本勘助の方ではないか考えています。川中島合戦で落命する勘助は、浮世絵の中では、数多くの矢を射られ、槍で突かれ、最後には首を切られて絶命する、壮烈な死を迎えるのですから。少なくとも、守屋と見立てられてもおかしくない、信玄の身替わりとなっています。
浮世絵作品における山本勘助は、信玄の陰の部分を担っているからこそ、五体不虞の軍師として登場するのです。ところで、勘助が進言・実行したとされる「啄木鳥(きつつき)の戦法」も、物部守屋の怨霊伝説と深く係わっています。聖徳太子が建立した四天王寺を、守屋は死後数千羽の啄木鳥となって襲ったといいます。それに対して、太子は、鷹をもって啄木鳥を撃退したと伝えられています。勘助を守屋と見立てれば、勘助の「啄木鳥の戦法」も素直に理解できます。また、謙信に見破られる結末も折り込み済みです。
なお、この勘助の壮絶な死は、後に、薩長あるいは明治政府軍に敗れる幕府軍側に擬(なぞらえ)られ、戊辰戦争の浮世絵へと繋がっていくのです。勘助が浮世絵の中で縦横な活躍を見せるのも、川中島合戦の見立ての多様性からきているのでしょうね。
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