92 紀の国坂赤坂溜池遠景

安政4年9月(1857)改印
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 『絵本江戸土産』三編の図版「赤坂桐畑永田馬場山王社」の書き入れには、「この辺すべて山水の景地なりといえども 常に見なれて 人是を称することなきぞ遺憾なるべき」とあり、また同絵本八編の図版「紀国坂」の書き入れには「赤坂御門外 紀州侯の御第(ごてい)の前よりこの所高見にして 遠近見わたし風景いわん方なし させる勝地にあらすといへとも 何となく風雅のさまあり」とあって、見慣れた、それほどの名勝地ではない旨の記述が気になります。本作品のどの点に名所要素があるのかが、読み解きの入口となります。

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 「紀の国坂」は御三家の一つ紀州藩邸上屋敷と外濠との間の坂のことです。本作品中、左の堀が一般に弁慶堀と呼ばれる堀に当たります(広重は17「外桜田弁慶堀糀町」で内堀を弁慶堀と呼んでおり、用法が違います)。題名にあるとおり、「赤坂溜池」に繋がる堀です。右手の大名行列は、2列の半分だけが描かれていますが、槍を持った先手2名、後手2名の形式は徳川御三家にのみ許された行列なので、場所柄、紀州徳川家のものと考えられます。DVD『江戸明治東京重ね地図・赤坂麻布』を参照すると、右に火の見櫓が見える一帯が紀州徳川家の上屋敷であり、左側堀を越えた所が彦根藩井伊家の中屋敷です。左手奥のこんもりした森が山王権現社のある山王台地で、その底辺に溜池があるはずです。その周辺から遠景までの建物は赤坂の町家で、町家の西にあった定火消屋敷の火の見櫓も描かれています。なお、左の濠に建てられている立札は、魚の捕獲や水浴び、ゴミの投棄などを禁ずる内容が記されているものと推測されます。禁止もしくは封じの立札です。

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 前景と後景との間にイメージの共有があるというのが、江戸百の構図の特徴です。前景の大名行列の先供は槍を持つだけではなく、厳しい顔付きで道を塞ぐように歩んでいます。道を塞ぐ「塞(さい)の神」の見立てとなっているのです。後景の日吉山王権現は、江戸城の南西裏鬼門を守る場所に位置しています。主祭神である大山咋命(おおやまくいのみこと)は神猿(まさる)に守られており、その神猿は猿田彦命を習合する神と考えられ、庚申・塞の神として江戸城を守っているのです。つまり、両者は結界を守る「塞の神」という繋がりがあり、「紀の国坂」から「赤坂溜池」を遠望する風景は、その2つが重なるまさに奇瑞の場所なのです。禁止の立札も結界を強調するもので、広重による意図的挿入です。二代広重の同絵本八編の図版「紀国坂」は、紀州徳川家の上屋敷から彦根藩井伊家の中屋敷側に視点が移っており、はたして先師の意図を理解していたのかどうかは不明です。

 さらに大胆な仮説を述べるならば、老中阿部正弘の死亡後、紀州藩の付家老水野忠央の幕政への影響力が拡大し、井伊直弼とともに紀州藩慶福(よしとみ)(後の家茂)を次期将軍に押す南紀派が形成され、慶喜を後継将軍に押す一橋派の勢力を後退させます。版元的な販売戦略の視点では、紀州藩の大名行列は、時勢の中心勢力南紀派を広重にさりげなく支持させているのではないでしょうか。この頃の広重は、以前に比べ本心を曝け出す傾向にあることも指摘しておきます。

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91 神田明神曙之景

安政4年9月(1857)改印
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 「神田明神」は、初めは神田橋御門内柴崎村にあった後、江戸城の開発に促され、江戸城鬼門の駿河台へ、そして最終的には元和2(1616)年、神田川の開削工事によって湯島台地に移転されました(『江戸名所圖會』巻之五、『新訂江戸名所図会5』p17参照)。『絵本江戸土産』五編の図版「神田明神の社」の書き入れには、「聖堂の北に在り 聖武帝の天平二年 大巳貴命(おおなむちのみこと)を鎮座す 後 平親王将門の霊を合せ祀るといひ伝ふ 祭礼隔年九月十五日 江都の大祭(めいまつ)り山王と当社なり 境内高くして石階あり 見渡せば下谷 浅草いうに及ばず 晴天には芝浦をも見する古今の遠景あり」と記されています。近在する湯島天満宮(13「湯島天神坂上眺望」)と同様、高台にあるため周辺には茶店が並び、眼下に広がる江戸市中の眺望を楽しむことができ、観光名所としては、愛宕権現社(81「芝愛宕山」)と共通する見晴らしの良い場所です。また、その例祭は神田祭と称され、山王権現社の山王祭(25「糀町一丁目山王祭ねり込」)とともに天下祭りとして江戸の人々に深く親しまれてきました。

 DVD『江戸明治東京重ね地図・本郷小石川』
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 神田祭は山王祭と隔年で行われる決まりなので、本年(巳)の9月15日がその祭礼に当たります。ということは、本作品の版行動機は、この神田祭の祭礼にあると理解されます。しかしながら、本作品が画題としているのは、9月の神田祭の様子ではなく、正月の若水汲みの儀式が終わって後、画中左より、神職、巫女、仕丁が初日の出を遥拝する風景と見えます。また注意すべきは、作品の中央に立つ1本の木によってその朝日の昇る辺りが隠されていることです。従前の広重作品の読み解きからすれば(76「佃しま住吉の祭」参照)、ここの部分に何か広重の含意があるのかどうかが気になります。

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 『武江年表(安政四年)』(『定本武江年表下』p95)の9月15日の条に、「神輿(みこし)・車(だ)楽(し)等、御城内へ入る。附祭踊伎(おどり)・邌物(ねりもの)は出さず(御雇大神楽・こま廻しも不出。婦女の警固、一切なし。十六日、礼参り。雨にて淋し)」と記されていて、この時の祭が、安政地震やその翌年の台風の被害によって、まだ十分には往時の壮観さを取り戻していないことが分かります。そこで、広重は神田祭自体を画題とせず、朝日を遙拝する情景に切り替え、かっての盛況な神田祭への回帰がこれより始まるという視点で江戸百作品を描き上げたと推測できます。その意味では、新たな時代への期待を込めた作品と言えましょう。反面、江戸市中の景気回復はまだ半ばとの状況が読めてきます。なお、大巳貴命(おおなむちのみこと)は、出雲の神・大国主命であり、縁結びの神として有名ですが、出雲の国づくりをした地の神でもあることを考えると、本作品は、国土の創造、江戸の震災からの復興を願ったものと読み解けるのではないでしょうか。諏訪の御柱を見ている立場からすると、日神が中央の木を依代にして神田明神の社に降臨してくる神々しい雰囲気が感じられます。朝日の紅の一文字ぼかし、境内の影と日の対比をぼかしによって表現する技法、また建物の紅や床机の黄色の配色の妙など、摺師の技によって支えら作品です。

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90 大はしあたけの夕立

安政4年9月(1857)改印
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 本作品はゴッホが模写したことで有名です。激しい夕立の表現は2種類の雨の線を重ね合わせたもので、巧みな彫の技に支えられています。また、黒雲の「あてなしぼかし」は高度な摺の技に負っています。では、絵師広重の工夫あるいは版元の企画性はどこにあるのでしょうか。

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 作品の題名には、「大はし」とありますが、「あたけ」(安宅)近くの橋と言えば、正確には「新大橋」に当たります。『江戸名所圖會』巻之一(『新訂江戸名所図会1』p150)には、新大橋は、「両国橋より川下の方、浜町より深川六間堀へ架す。長さおよそ百八間あり」、「両国橋の旧名を大橋といふ。ゆゑに、その名によつて、新大橋と号(なづ)けらるるとなり」と記されます。作品中、対岸の雨中影絵部分の左端に白壁の建物3棟が描かれています。これは、隅田川東岸の「御船蔵」辺りであることを示す一種の記号と考えられます(DVD『江戸明治東京重ね地図・本所深川』参照)。御船蔵には、廃船となった将軍の御座船・安宅丸(あたけまる)の供養塚があったので、この付近を安宅と呼んでおり、本作品は、隅田川西岸浜町から新大橋の背後に(東岸)安宅方向を見るという視点で描かれていることになります。

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 『武功年表』巻之九(『定本武功年表下』p69)によれば、「御船蔵前町より出火。此辺一円に武家町家焼る」とあり、さらに、翌年8月の台風によって御船蔵に大きな被害が出ており、『藤岡日記』第7巻(p597)の安政4年8月5日の条には、修理に関する費用支払いの記録があります。以上を前提に、原信田『謎解き 広重「江戸百」』(p128)は、本作品の隠されたメッセージは、この御船蔵の修復が完了したことを広報する趣旨であるとしています。ただし、御船蔵は幕府軍事施設なので、激しい驟雨によってその建物を隠すという表現を採ったと読み解いたのです。江戸百を震災等からの復興を描くシリーズであるという認識を前提とするならば、論理一貫した推論です。しかしながら、江戸百において近景と遠景とはイメージ的に強い関連性があるのが常なので、近景の新大橋が夕立に晒され、人々が逃げ惑う情景が遠景のカモフラージュにしか過ぎないという評価には疑問があります。そもそも、江戸百作品では御船蔵の部分がことさら白抜きになっているとの評価もできるうえ、題名にすでに御船蔵に由来する「あたけ」と入っていることを勘案すると、別の読み解きも可能であると思われます。

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 夕立の情景をかりに近景の新大橋を主題として描く場合、題名は「(新)大はしの夕立」で十分なところ、なぜ「あたけ」を加えているのかを、被災からの復興以外の観点で検討してみます。安宅(あたけ)という言葉は、読み方を変えると安宅(あたか)となります。安宅(あたか)と言えば、「歌舞伎十八番」の1つ『勧進帳』の「安宅(あたか)の関」が有名です。それは、源義経主従が奥州へ逃避行する際、安宅(あたか)の関を難儀して越えていく筋立で、とくに、弁慶が偽の勧進帳を読む場面、あるいは弁慶が主人である義経を心ならずも折檻し涙する場面が思い浮かびます。つまり、新大橋を安宅(あたか)の関と見立てて、夕立のため橋を渡るのに逃げ惑い苦労する庶民の姿を、勧進帳の弁慶・義経一行の関越えの苦労に重ね合わせて表現する仕掛けがあるという分析です。当時大流行し、大人気であった『勧進帳』『安宅(あたか)の関』の弁慶(7代市川團十郎)の涙雨の情緒を名所の夕立情景に取り込んだという発想です。そのためには、吾妻橋、両国橋、永代橋ではなく、安宅(あたけ)が見える新大橋でなければならないのです。このような読み解きが思い付きでないことは、歌川(三代)豊国『江戸名所百人美女 新大はし』(藤岡屋慶次郎・安政5年2月・1858)が、「新大はし」の副題の下で、娘が恋文を書き終えた姿を弁慶が勧進帳を読む場面に見立ている作品があることからも分かります。広重の江戸百作品は、夏の夕立の風景を単純に描くものではなく、庶民に大人気であった團十郎演ずる『勧進帳』『安宅(あたか)の関』の弁慶の慟哭の情緒を採り入れているのです。激しい夕立の様子が心に伝わります。

 では逆に御船蔵の修理が完了し、その費用の手当が行われた翌月、本作品が版行されていることについては、次のように考えます。御船蔵の修理完了は、版元にとっては本作品を売るための好機ということです。しかし、広重にとっては、たとえば、『絵本江戸土産』第2編「新大橋萬年橋并正木の杜」など過去培ってきた名所絵を土台とし、さらに歌舞伎人気を取り込むという手法を応用して本作品を磨き上げたと見るべきだと思われます。江戸百は、シリーズ全体の構想として震災からの江戸の復興を描くものではありますが、個々の作品には版元の販売戦略と広重の作画意図がそれぞれ別にあるということです。

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89 王子不動の瀧

安政4年9月(1857)改印
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 石神井(しやくじい)川は滝野川とも呼ばれ、王子権現の麓では音無川と名を変えますが、不動の滝は、滝野川辺りに流れ落ち、南岸の正受院(滝不動)の川下にあります(DVD『江戸明治東京重ね地図・王子飛鳥山』参照)。川で見つかった不動尊を祀ったことが名前の由来とされています。滝壺の切石から跳ねる水で霧が立ち込めたようだったと言い、病気治癒などの信仰の対象となっていました。元絵と思われる、『絵本江戸土産』四編の図版「不動の滝」の書き入れには、「この所 後は石神井川に臨む 弘治年中 和州の沙門学仙房 この傍に庵を結び不動の法を修す 後に霊像を感得すといへり」とあります。

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 87「王子稲荷の社」、88「王子装束ゑの木大晦日の狐火」が春冬であるのに対して、本作品は夏の滝垢離・水垢離あるいは納涼の様子を描き、季節的な描き分けによって、王子一帯が、季節を問わず行楽の名所であることを表現する意図と思われます。竪絵の特徴を存分に利用して滝の水を一条に表現し、かつ左右対象にぼかしを入れた摺技が目を引きます。江戸百作品は、概して縦に引き延ばさる傾向にあるので、実際には、これ程高さのある滝ではないはずです(「広重あるある」)。

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 江戸百作品には、休憩のための茶店も見えますが、王子周辺には神社仏閣はもちろん、酒屋・料理屋・茶店など多くの施設があって、版元的には、安政4年9月改印の時期、すなわち晩秋から年末の「ゑの木大晦日の狐火」、「王子稲荷」の初午詣り、不動尊の滝垢離・水垢離といった一連の風俗を採り上げて、季節を問わない行楽地・王子界隈に目を向けさせようという趣向でしょう。

 なお、不動の滝が流れ落ちる滝野川はその名のとおり多くの滝が流れ込む場所で、このような場所は滝の女神の霊地とされるのが普通です。にもかかわらず、火の眷属である不動明王の名を冠しているのには理由があります。たとえば、「瀬織津姫(せおりつひめ)」などの滝の女神は日神との和合神とされるので、男神たる日神に目を向け、その本地である大日如来の眷属不動明王に習合して祀られるのです。したがって、各地の滝が不動の滝と呼ばれることや滝近くに不動明王が祀られることは決して少なくありません。王子の不動の滝にも川筋で不動明王の像が見つかった伝承があるので、古において滝の女神が和合神として祀られてきた歴史があったことが推察されます。

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88 王子装束ゑの木大晦日の狐火

安政4年9月(1857)改印
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 本作品は、87-118「王子稲荷の社」と一体となった作品と考えられます。『江戸名所圖會』巻之五(『新訂江戸名所図会5』p181)には、『王子権現縁起』の引用があり、毎年大晦日の夜に、各地の稲荷神の使者(命婦)が、王子稲荷社に集まって来るとあります。その際、灯せる火の連なり(狐火)は松明や蛍の飛翔のようであり、その様子の相違によって明年の豊凶を知ることができるということです。そして、命婦が装束を整える場所に一本の大榎があって、それを描いた図版「装束畠 衣装檟(えのき)」(『新訂江戸名所図会5』p184~p185)の掲載があって、それが江戸百作品の元絵と考えられます。DVD『江戸明治東京重ね作品・王子飛鳥山』にも、「大晦日、関八州ノ狐共二万匹余、来リテ衣装ヲ改ム」と記載される程の名所です。なお、命婦の装束姿は人には見えないということで、江戸百作品でも素の狐の姿のままです。いずれにしろ、江戸百作品は実景図ではなくて、構想図あるいは想像図なのですが、特別視する必要はありません。今までも、どの作品にも絵空事的要素は少なからずあり、表現に味わいを出すものとして有用に使われていました。

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 広重の名所絵は、絵師の目に見えるままに描くものではなく、たとえば、本作品の場合は「王子権現縁起」(装束榎伝説)など見えない世界・物語の舞台として作品表現しているものであって、多くの場合は、その舞台裏の事情はを描かず、作品を見る者が知っていることを前提としているということです。本作品の場合は、極めてまれなことですが、その見えない部分(装束狐伝説)を描き加えているのです。この強力なイメージに引きずられて、前掲「王子稲荷の社」(あるいは後掲「王子不動之瀧」)が安政4年9月改印作品として同時版行されていると解するべきなのです。都下から離れており、年末にかけては客足が落ちる王子稲荷、王子権現辺りの料理屋・酒屋・茶屋などを、本作品の視覚効果によって、大いに盛り上げようという版元的魂胆もあるかもしれません。なお、江戸百の目次では、本作品がシリーズ最後を飾るものとなっています。

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 ちなみに、多くの滝のある王子界隈には、本来、滝を司る女神の霊地があってもおかしくないのですが、稲荷の神とは言え、「王子稲荷の社」に女神(天女)が祀られ、「王子装束ゑの木大晦日の狐火」伝説があって、全国の命婦が集まってくることの背後には、消えてしまった古の記憶が隠されているのではと感じられます。

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87 王子稲荷の社

安政4年9月(1857)改印
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 王子界隈の作品としては、すでに09「王子瀧の川」、44「王子音無川堰埭世俗大瀧ト唱」がありましたが、さらに本作品も含め計3点の浮世絵が続き、春夏冬の季節をそれぞれ描き分けています。王子稲荷社は関八州の稲荷の総元締で、除災、開運、商売繁盛の神として有名でした。『絵本江戸土産』4編の図版「王子稲荷社」には、「むかしはこれを岸稲荷といへり 本殿蒼稲魂神(うがのみたまのかみ)也 霊応新なるによりて参詣日々に絶えず」と書き入れられています。江戸土産作品が、「此辺茶屋」(DVD『江戸明治東京重ね作品・王子飛鳥山』参照)とある神社の東入口方向から見上げているのに対して、江戸百作品は視線を反対にとっており、画面左手に鳥居の一部が見え、そこから石段を上がった高台に本殿があります。茶屋などの建物の向こうに梅の花が見えていて、「正一位王子稲荷大明神」の幟が描かれていないのが気になりますが、2月の初午の頃を描いていると思われます。建物のさらに背後は田園風景が広がり、遠方に筑波山が覗いています。

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 『江戸名所圖會』巻之五(『新訂江戸名所図会5』p188)によれば、「月ごとの午の日にはことさら詣人群参す。二月の初午にはその賑はい言ふもさらなり。飛鳥山のあたりより、旗(さか)亭(や)・貨食舗(りようりや)、あるいは丘に対し、あるいは水に臨んで軒端をつらねたり。実にこの地の繁花は都下にゆづらず」とあります。この点を踏まえると、版元的には、初午の画題に引っ掛けて、安政4年9月(1857)改印以後年末に向けて、王子稲荷社周辺の酒屋や料理屋への遊客を誘う宣伝と捉えることが可能です。88「王子装束ゑの木大晦日の狐火」という名作と同時版行なので、合わせて王子界隈の味わいを伝える趣向と推測されます。

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 では、広重の作画意図はどこにあるのでしょうか。1つは、江戸土産作品とは異なった視点で作品を構成することです。もう1つは、同「王子装束ゑの木大晦日の狐火」は決して名所絵の範疇には収まらない想像図なので、「王子稲荷の社」という形で(あるいは89「王子不動之瀧」も含めて)、現実の名所案内作品を描かざるを得なかったのではないでしょうか。「王子稲荷の社」において、王子村の畑野の中に目立つ木立が見えますが、この辺りが「王子装束ゑの木」の実景なのかもしれません(重ね地図参照)。つまり、「王子稲荷の社」と「王子装束ゑの木大晦日の狐火」は対を成し、一方が実景図、他方が想像図と棲み分けながら、合わせて1つの名所絵構成を採っているという理解です。

 なお、稲荷の起源神話に登場する宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)は、別名「専女御饌津神(とうめみけつのかみ)」と呼ばれ、その専女の意味するところは老女であり、女神の尊称です。ここに、仏の眷属であり、白狐に乗る天女の姿をする荼枳尼天(だきにてん)が習合されると、私達のよく知る「お稲荷さん」(専女三狐神)が誕生します。したがって、「王子稲荷の社」には、「王子装束ゑの木大晦日の狐火」に描かれているように、全国の稲荷神社から狐の化身の命婦(みようぶ)(命婦は位階を持つ女性)が報礼に集まってくることになるのです。

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86 真乳山山谷堀夜景

安政4年8月(1857)
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 船で隅田川を利用して新吉原を目指した場合、山谷堀で船を降りて、日本堤を駕籠が徒歩で向かいます。そのため、山谷堀に架かる今戸橋の周辺には、船宿と新吉原に向かう前の景気づけとして料理屋・茶屋などが発展しました。本作品は夜景ですが、背後の隅田川に参集する屋根船の影が多く描かれ、今戸橋の掛かる山谷堀に向かっているのが分かります。そして、その橋の両側の高級料理屋から明かりが漏れ出ている様が描写されています。橋の南詰め背後の小高い山が真乳山です。この真乳山には、商売繁盛、無病息災、夫婦和合などにご利益のある聖天宮(しようてんぐう)があります。『絵本江戸土産』初編の図版「隅田川真乳山の夕景」には、「真土山夕越(こえ)くれば庵崎(いおさき)と むかしの人の詠じけん東都に名高き勝地にて この辺すべて旧跡多し」とあります。江戸百作品の背景は、この図版が元絵と考えられます。

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 本作品で一番気になるのは、背後の景色ではなく、画中左側に立つ女性で、美人絵という範疇からは離れ、リアルな人物像と感じられます。DVD『江戸明治東京重ね地図・橋場隅田川』を参照すると、竹屋の渡しを利用して三囲神社のある東岸にやってきたことが推測され、近景と遠景をイメージで繋げる広重の近景拡大の画法を考慮すると、対岸の今戸・山谷堀の船宿や料理屋の関係者と想像されます。地味な着物姿に、右手で褄を持つ仕草は芸者ではありません。

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 広重は、先行する作品『東都高名會席盡』や『江戸高名會亭盡』では、山谷堀あるいは今戸橋の会席亭として「玉庄」(金波楼)を紹介しています。この玉庄は、『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p69~p70)によれば、安政地震で潰れ、火災を起し、近隣を類焼し、その後再建されることもありませんでした。翌年、このような山谷堀の経済停滞の中、玉庄の跡地に、かつて堀の芸者であった女性が店の主人として「有明楼(ゆうめいろう)」を興しました。その名を「お菊」と言いますが、どうやら、本作品の女性は、この実在のお菊を描いたものと思われます。今戸橋の北詰めの明かりが有明楼の場所で、その対岸に立つ女性がその女主人お菊というのはもっとも納得できる絵組です。芸者姿でなく、店の女将と考えれば、地味な着物姿もあり得ます。なお、77「吾妻橋金龍山遠望」は金龍山背後の東本願寺の法主と猿若町の歌舞伎役者沢村訥升(助高屋高助)との鞘当を作品に織り込み、お菊を画題にしていた可能性がありました(同『江戸名所 真乳山猿若町金龍山』山田 屋・嘉永6年11月・1853参照)。また、画中女性が手にする提灯の模様は、銀杏の葉を4枚合わせた紋様に見え、これは真乳山聖天宮の意匠なので、本作品に描かれる女性が対岸のお菊であることはより確実だと思われます。聖天宮の強い加護があって、お菊の事業成功があったのだと訴えているようにも感じられます。

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 広重作画の動機は、地震で大きな被害を受けた山谷堀の復興を描写するという抽象的なものではなく、具体的に、芸者から江戸有数の料亭に育て上げた有明楼のお菊に敬意を示そうとしていると考えられます。名所絵の大家が敢えてお菊を採り上げた理由は、まさにそこにあって、これはお菊への応援歌ではないかと思われます。安政4年7月改印および安政4年8月改印の作品では、広重は自分の思い(作画動機)を以前に比べはっきりと出しているようです。やはり、先の老中首座阿部正弘の死が影響しているのでしょうか。

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85 真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図

安政4年8月(1857)改印
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 本作品と関連する江戸百作品は2つあって、1つは、30「隅田川水神の森真崎」で本作品とは描写の視点を逆に採っています。もう1つは、58「隅田川橋場の渡かわら竈」で、本作品の南に位置する橋場の渡からの眺めです。本作品の特徴は、近景拡大の画法を応用し、半円形の窓越しに水神社の鳥居、その背後の「水神の森」にあって隅田川に流れ込む「内川」、かつて関所があったことに因む「関屋の里」、そして筑波山が描き込まれているところにあります。近景拡大の画法は実景というよりはイメージ性を強調するものなので、近景にどうのような構想があり、遠景とどう関連しているかを考えることが読み解きのポイントです。

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 題名「真崎辺」と言えば真崎稲荷が有名であり、窓越しに見える白梅は初春を表しますから、稲荷神社へ2月の初午行事が思い浮かびます。『江戸名所圖會』巻之六(『新訂江戸名所図会5』p403)によれば、「この社前は、名にしおふ隅田川の流れ溶々として昼夜を捨てず、食店(りようりや)・酒肆(さかや)の軒端は河面に臨んで、四時の風光を貯(たくわ)ふ」とあります。この観点から、本作品は、真崎稲荷社前の料理屋・酒屋の丸窓から見た風景ということが推測されます。また画面の左側を見ると部屋に椿の白い花が花瓶に挿してあることに気付きます。DVD『江戸明治東京重ね地図・橋場隅田川』を参照すると、真崎稲荷の南側に「妙亀山総泉寺」とあって、椿の名所であることが確認されます。椿の花はこの総泉寺の暗号であった訳です。総泉寺はその山号からも分かるように、「梅若伝説」に有名な梅若丸の母が出家して妙亀尼と称して、梅若丸の菩提を弔うための庵を結んだことに由来すると言われています。


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 他方、題名「水神の森内川」と言えば、そこは木母寺が所在します。『絵本江戸土産』初編の図版「木母寺料理屋御前栽畑内川」には、「この寺内に梅若の塚あり 毎年三月十五日念仏供養をなす 境内名高き料理やありて四時賑わう 北にあたりて御前栽畠というあり 此所に作りし松多くありて 尤美景いふばかりなり」との書き入れがあります。つまり、隅田川西岸には妙亀尼の庵、東岸にはその子梅若丸の塚があって、対を成し、その間に真崎の料理屋の半円形の窓があるという位置関係において江戸百作品は構成されています。したがって、窓の外側の白梅は真崎稲荷の初午の行事を暗示するに止まらず、木母寺の梅若丸の記号、窓の内側の白い椿の花は総泉寺の妙亀尼の記号であり、その間の灰(墨)色の丸窓は隅田川、障子は橋場(隅田)の渡を象徴するものとして挿入されているというように読み解けます。さらに、題名「関屋の里」は関所を意味する地名ですが、梅若丸を欺して東国に連れ下った人買い商人「陸奥の信夫藤太」を意識しているのか、あるいは関屋の向こうに霊鷲山筑波山が見えることによって、妙亀尼・梅若丸両人の彼岸での冥福を表現しているのかもしれません。

 江戸百作品は、「真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図(風景)」に「梅若伝説」の情緒を採り入れて名所絵として再構成したものと考えられます。版元的には、真崎稲荷の社前も、木母寺周辺も多くの料理屋が軒を並べる所なので、そこに客を誘う営業目的は明らかで、一連の安政4年8月改印作品と同じく、中秋の行楽を狙った宣伝作品と考えられます。なお、真崎には、田楽で有名な甲子(きのえね)屋(や)があり(三代豊国・広重『東都高名會席盡 隅田川真崎 惣ろく』嘉永6年正月・1853)、当時、真崎稲荷の料理屋に顔を出して、吉原に行くという遊興のコースが想定されていたそうです。それに対応したのか、空や山際のぼかしや雁の飛ぶ姿は夕方が近いことを示しています。

資料
*木母寺縁起(『江戸名所圖會』巻之七:『新訂江戸名所図会6』p236~p237)

 梅若丸は洛陽北白川吉田少将惟房(これふさ)卿の子なり(春待ち得たる梅が枝に咲き出でたりし一花のここちすればとて、梅若丸と号くるなりとぞ)。比叡の月林寺に入りて習学せり。ある時、梅若丸は潜かに身を遁(のが)れて北白川の家に帰らんとし、吟(さま)ふて大津の浦に至る。頃は二月二十日あまりの夜なり。しかるに陸奥の信夫藤太といへる人商人に出であひ、藤太がために欺かれて、遠き東の方に下り、からうじてこの隅田川に至る。時に貞元元年甲子(976)三月十五日なり。路のほどより病に罹り、この日つひにここにおいて身まかりぬ。いまはの際に和歌を詠ず。
   訪ねきてとはばこたえよ都鳥すみだ河原の露と消えねと
 このとき出羽国羽黒の山に、下総坊忠円阿闍梨とて貴き聖ありけるが、たまたまここに会し、土人とともに謀りて児の亡骸を一堆の塚に築き、柳一株を植ゑて印とす。翌る年の弥生十五日、里人集まりて仏名を称へ、児のなき跡をとむらひ侍りけるに、その日梅若丸の母君(花御前、後に薙髪して妙亀尼と号く)、児の行衛を尋ね侘び、みづから物狂をしてき様して、この隅田川に吟ひ来り、青柳の陰に人の群れゐて称名せるをあやしみ、舟人にそのゆえを問ふ聞きて、わが子の塚なることをしり、悲嘆の涙にくれけるが、その夜は里人とともに称名してありしに、その塚のかげより梅若丸の姿髣髴として、幻の容を現し、言葉をかはすかと思へば、春の夜の明けやすく、曙の霞とともに消えうせぬ。母は夜あけて後、忠円阿闍梨に見(まみ)え、ありしことどもを告げて、この地に草堂を営み、阿闍梨をここにをらしめ、常行念仏の道場となして、児の亡き跡をぞ弔ひける。

*妙亀山に関係のある場所(『江戸名所圖會』巻之六:『新訂江戸名所図会5』p414~p417)
 「妙亀山総泉寺」、「浅茅原」、「妙亀塚」、「鏡が池」、「袈裟懸け松」など。

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84 深川八まん山ひらき

安政4年8月(1857)改印
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 題名にあるとおり、富ヶ岡八幡宮の山開きを描く作品です。『絵本江戸土産』二編の図版「富ケ岡八幡宮」の書き入れには、「この宮居 始めは砂村の海浜 俚俗元八幡と唱る地にありしを 寛永の頃 長盛法印といふもの 示現によりてここにうつす」とあり、また図版「其二同所山開」の書き入れには、「富が岡の別当の園中 景色いたつてよし 常には見することなし 年々山開き時にあたりて縦に遊覧背しむ」とあり、山開きは、富ヶ岡八幡宮・別当永代寺の林泉を一般公開する意であることが分かります。永代寺は正式には「別当大栄金剛神苑永代寺」なので、その山開きということなのでしょう。

 DVD『江戸明治東京重ね地図・永代橋木場』
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 山開きの時期に関し、『江戸名所圖會』巻之七(『新訂江戸名所図会6』p28)は、3月21日から同28日まで、弘法大師の御影を祀って供養するため永代寺の林泉を開くとあるのに対して、『東都歳事記』巻之一(『新訂東都歳事記上』p158)は、3月21日から4月15日まで庭中見物許すとあり、時代が下って期間が延びたようです。これに対応して、広重は近景に春の桜、遠景に夏のつつじを描き、2つの季節感を取り込んだ林泉を写すという特殊な構成を採っています。さらに興味深いのは、遠景に「深川富士」と呼ばれた富士塚が描かれ、頂上までの道も丁寧に描写されている点です。もともとは甲(兜)山という築山で、江戸土産作品ではまったく目立ない表現なのとは対称的で、江戸百を見た人は、山開きとは社地に築造された深川富士の山開きと観念したに違いありません(『絵本江戸土産』九編の二代広重図版「深川八幡富士」参照)。幕末に至っての富士講の興隆を広重が意識的に作品に取り込んだということでしょう。ただし、富士山(富士塚)の山開きは6月1日です。

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 『武江年表(安政二年)』(『新訂武江年表』p71)によれば、安政地震によって、「富岡八幡宮恙なし。別当永代寺は、大方潰れたり」とあり、別当永代寺、三十三間堂、さざえ堂などの建物の倒壊大破という一連の被害が確認できます。他方、『武江年表(安政四年)』(『新訂武江年表』p92)は、4月1日から2ヶ月間永代寺で行われた常州真壁郡大宝八幡宮の出開帳を記録しており、少なくとも出開帳ができる程の永代寺の復興が窺われます。山開きの時期にも重なり、広重作画の動機に影響を与えたかもしれません。しかしながら、安政4年8月改印作品としての版元的版行の動機はまた別にあったと思われます。先に引用した図版「富ケ岡八幡宮」の書き入れには続きがあって、そこには「深川の総鎮守にして祭礼八月十五日 四時(しいじ)の群参たゆる時なし」と記されています。つまり、本作品は、販売戦略的には、8月15日の秋の祭礼に向けてのものと位置づけられるということです。

 なお、前掲『江戸名所圖會』(前掲書p28)には、「当社門前一の華(とり)表(い)より内三、四町が間は、両側茶肆(ちやや)・酒肉(りようり)店(や)軒を並べて、つねに絃歌(げんか)の声絶えず。ことに社頭には二軒茶屋と称する貨食屋(りようりや)などありて、遊客絶えず。牡蠣(かき)・蜆(しじみ)・花(はま)蛤(ぐり)・鰻魚麗魚(うなぎ)の類をこの地の名産とせり」とあって、有名茶屋・料理屋が門前に賑わいを見せている常が記されています。広重作画の山開きの作品を版元が秋の祭礼時に版行する理由は、これらの営業的効果を念頭に置いていることは間違いなく、さらに7月9日より60日間、深川浄心寺において甲州身延山祖師七面宮の出開帳があるのですから、この時期の深川は大盛況です。広重の深川に関連する作品群は、これら深川の各種各様の行事によって、被災から復興する当地に花を添えるものとして作画版行されたと考えられます。

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83 深川三十三間堂

安政4年8月(1857)改印
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 『絵本江戸土産』二編の図版「深川三十三間堂」の書き入れには、「京都の蓮華王院を摸(うつ)すとかや 徹(とお)し矢を射てその芸を試むること 京の三十三間堂のごとし」とあります。京都のそれと同じく、南北66間(120m)、東西4間(7m)の四面が縁で囲まれた造りで、その西側の軒下で通し矢が行われていました。DVD『江戸明治東京重ね地図・永代橋木場』を参照すると、富ヶ岡八幡宮・永代寺の東側に近接していることが分かります。その富ヶ岡八幡宮では流鏑馬が行われていたので、射術稽古の施設として共に関連しています。浅草での建立、その後の移転の経緯につき、『江戸名所圖會』巻之七(『新訂江戸名所図会6』p28~p29)参照。堂の東側に掛け茶屋が置かれ、その裏手は材木市場の木場という位置関係が本作品から確認されます。

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 重要な情報として、『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p71)に、「三十三間堂、三分の二潰る」とあって、安政地震の被害を受けていることです。その後(明治5年)解体され、本尊の千手観音は深川の正覚寺に移されたそうです。被災の事情を勘案すると、本作品で建物の全てが描かれていないのは、地震によって建物が倒壊していたからという見解(原信田『謎解き 広重「江戸百」』189頁)がありますが、江戸土産作品において、既に横絵として部分が描かれているので、それを縦絵に変更しただけと言うこともできます。つまり、倒壊の有無ではなく、80「五百羅漢さざゐ堂」の版行作意図と同様、深川のランドマークとして別のメッセージがあって、三十三間堂を描いたと考えられるということです。

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 前掲「五百羅漢さざゐ堂」の場合は、7月9日からの深川浄心寺の出開帳が係わっているという考えでしたが、「深川三十三間堂」はその南側に位置しているので、この出開帳の話題が同様に動機にあると見ることができます。また、前掲重ね地図で確認したように、三十三間堂が富ヶ岡八幡宮・永代寺に近接している地理関係を前提にすれば、8月15日の深川八幡の祭礼と深く関連があることも当然推測されます。したがって、江戸百作品は、84「深川八まん山ひらき」と一体となった作品構成の中で理解すべきと思料します。もちろん、広い意味では、被災から復興する深川地域を盛り上げようとの意識であることは否定しません。

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