江戸百の作品構成の要諦

 江戸百の全作品の解説を終えて、1つの考えが浮かび上がりました。安政江戸地震が発生した直後の世相の中で、広重の「名所」とはいったい何を指しているのかという原点にあった問題への回答です。

 美しい景色が全て名所になるわけではありません。重要なのは、広重の「筆意」なのですが、本講座の視点では、広重の筆意=画の見せ方という捉え方をしています。切り取り、選択、強調など近景拡大の技法も含めた技術的な点だけではなく、庶民心情の底にある信仰・事蹟・評判・興味などの感情の拾い方もさらに重要です。たとえば、神仏の御利益、過去の歴史の舞台であること、歌舞伎・狂言・能などの見立て、幕府・将軍の動静などに対する庶民の関心の上に作画されていることを読み解く必要があります。

 とくに庶民信仰という観点から、少しばかり次元を変えた分析を展開してみます。広重の描く名所は古くからの結界や供養の地であることが多く、江戸百を包括的に見れば、結界の大きなネットワーク、すなわちそれを龍脈と呼ぶならば、江戸全体の龍脈を無意識の内に採り上げていると考えられます。そして、名所に指定され、視覚化された各地に庶民が足を運べば、気の流れが生まれ、結果として江戸が浄化され元気になるという訳です。目録を含めた120枚の作品は、結界のネットワーク(龍脈)を示すもので、その龍脈が修復されれば、江戸は強く災害から守られて、再び安政地震の様な災害に見舞われることがなくなるのです。江戸の結界を修復するというのが、江戸百の裏目的ではないかというインスピレーションです。

 最後に、浮世絵の本質は浄化であるという考えが本講座解説の根底にあることを付言しておきます。

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120 「江戸百景目録」

「一立斎廣重 一世一代 江戸百景 東叡山廣小路 魚屋栄吉梓」
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 春の部、夏の部、秋の部、冬の部、「総計 百十八景」という形式で、初代広重の署名が記された計118図の目録です。構成は、「梅素亭玄魚」によるものです。制作は、二代広重『赤坂桐畑雨中夕けい』が含まれていないので、安政5年10月(1858)以降と考えられ、翌6年正月(1859)頃、揃物として売り出す際の目録と推測されます。背景の梅の花もその季節に合わせたということでしょう。なお、玄魚は、76「佃しま住吉の祭」に描かれる布目摺の大幟に篆書文字を書き入れた人物で、能書家であるばかりでなく、デザインや構図などの企画にも参画していたことが想像され、広重と親しくしていたブレーンの1人と目されます。

 目録と個々の作品とを見比べると、たとえば、冬の04「千束の池袈裟掛松」、05「千住の大はし」、夏の84「深川八まん山ひらき」等、目録の季節感との相異が感じられ、制作前に各作品の春夏秋冬を厳密に決めていたとするよりは、目録制作時に改めて分類し直したと考えた方が自然です。広重の突然の死によって制作が中止されたことも考慮するとなおさらです。目録の構成に従えば、「春の部」の18「日本橋雪晴」に始まり、「冬の部」の88「王子装束ゑの木大晦日の狐火」で完結する形式となります。確かに、それぞれ巻頭・巻末に相応しい作品と言うことができます。とくに「日本橋雪晴」では、日本橋川のぼかしが川の中央から岸に向かって入れられており、手間の掛かるぼかしの技法が使われていることが分かります。また「王子装束ゑの木大晦日の狐火」では、狐火という信仰上の存在を名所絵の中に取り込み、名所を基礎づけている核心的伝承を表現しています。広重が江戸の風景の見せ方に工夫を凝らして名所絵としている、その苦労と矜持が示されているのです。

 一方、本講座が採用した制作順に読み解くという視点に従えば、01「玉川堤の花」に始まり、100「四ツ谷内藤新宿」で100枚に至り、115「両国花火」で広重は筆を置き、二代広重の118「びくにばし雪中」で終了することとなります。「玉川堤の花」は、玉川堤の桜という新たな名所を内藤新宿から売り出すための地域興しに係わる作品です。広重の作品が江戸に名所地を作り出すという意味で、相当な意気込みと決意で制作したことが強く感じられます。現実には老中首座阿部正弘に「御用木」をかってに名乗ったことを詰められて玉川堤の桜は実現しなかったのですが、広重の名所絵の持つ影響力・期待を印象づける一件となったことは明らかです。その当初の思いが、江戸百100枚目で、再び内藤新宿を広重が採り上げる原動力になっています。その意味で、幕府あるいは老中阿部を意識せざるをえない心情が常に広重にはあったはずで、江戸百の作品を読み解く際には、この心情への配慮が必要です。115「両国花火」は江戸がようやくここまで来たという広重の思いと深く結び付いた事実上の締めの作品であり、「びくにばし雪中」は広重の生活圏に所在する場所で、慣れ親しんだ景色が絵師の眼差しによって江戸の名所となる好例を示してといるということになります。

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119 赤坂桐畑雨中夕けい

安政6年4月(1859)改印
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 江戸百シリーズ中、唯一「二世廣重畫」と落款された二代広重(重宣)作品です。初代広重の安政3年4月改印の6「赤坂桐畑」に、「雨中」と「夕けい」を加えた題名となっていて、ちょうど丸3年目ということも含めて、何か意図がありそうです。「赤坂桐畑」あるいは「赤坂溜池」が日吉山王権現社を暗示する場所と考えるならば、本作品に関連する作品としては、その他に、日吉山王権現社祭礼を描く25「糀町一丁目山王ねり込」、紀伊徳川家の上屋敷の脇から山王台地を遠望する92「紀の国坂赤坂溜池遠景」等があります。本作品の特徴は、背景の墨色の濃淡によるシルエットと前掲の色彩豊かな描写の対比が優れている点にあり、桐の花が咲いているので季節は夏と想定されています。

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 赤坂御門から山王台地(山王権現社)の麓に伸びる赤坂溜池の南西側の土手には桐の木が植えられていて、本作品はその桐畑越しに赤坂御門へ向かう坂を見上げる構成です。実は、その見上げる坂の背後には、紀伊徳川家上屋敷、彦根藩井伊家中屋敷とその森が広がっていることが確認できます(DVD『江戸明治東京重ね地図・赤坂麻布参照)。雨あるいは夕景の中に両屋敷が隠されているのです。この当時の政治状況は、前年に、井伊直弼が大老職に就き、日米修好通商条約が締結され、また、コレラの大流行の中、紀伊徳川家の当主慶福が14代将軍家茂になっています。そして、年が明けて、いよいよ攘夷派(条約締結反対派)に対する弾圧が本格化し、安政の大獄が始まるという時期です。

 浮世絵の基本的読み解きを応用すれば、時の権力者の屋敷を雨と夕景に隠しながら、時代の権勢をさりげなく示していると理解することができます。深読みすれば、時代の権勢の上に降る雨は、時代そのものが雨に濡れていること、時代そのものが喪に服していることを表現するものでもあると考案することができます。少なくとも、将軍家定と初代広重の時代が終わり、新将軍家茂と二代広重の時代が始まったという視点が背後に隠されているように感じます。その一方で、手前の溜池脇の道を歩く武家とその従者の一行の先には、赤坂御門下の火の見櫓が見えていて、元定火消同心であった初代広重の存在を暗示しており、夕景の雨に濡れる火の見櫓は、広重自身の死を悼む涙雨の意味と解すべきでしょう。

 言うまでもなく、本作品は初代広重の前掲「赤坂桐畑」をベースにするもので、前掲作品では見慣れた何気ない風景がその切り取り方によっては江戸の新名所となることを示し、近景拡大の技法が完成された姿で提示されていました。つまり、初代広重にとっては作画上重要な作品に位置づけられるものであって、二代広重はその点に配慮を示しながらも、自分ならば「このように描きたい」という意思において独自性を見せていると考えられます。結果として、本作品は、広重の養女お辰と結婚し、二代目を襲名した重宣のお披露目となったという訳です。なお、本作品は、江戸百シリーズの目次には掲載されていません。

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118 びくにはし雪中

安政5年10月(1858)改印
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 本作品の「山くじら」などの看板を一目見て分かることは、広告目的の入銀作品であるということです。「びくにはし」は、江戸城東側の外堀から流れる出る京橋川に架かる最初の橋で、西の鍛冶橋を渡ると広重生家・八代洲河岸の定火消屋敷に至り、また東の京橋を渡ると広重の現在地・中野狩野新道に至ります(DVD『江戸明治東京重ね地図・日本橋八丁堀』参照)。このことから本作品は広重を機縁する、名所絵形式の追悼広告のようにも感じます。

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 題名にある比丘尼橋は、作品中央部の橋で、右手に外堀が位置します。橋を渡った奥の火の見櫓は、数寄屋橋御門のそれと考えられるので、町人地の比丘尼橋北側から武家地の南を望んだ構成と推測されます。比丘尼橋の名前の由来は、私娼の隠語としての比丘尼で、この辺に私娼がたむろしていた岡場所があったことに因みます(本来の姿については、広重『東海道五拾三次之内 沼津 黄昏圖』保永堂・天保4年・1833参照)。ただし、本作品で一番注視されるのは、橋ではなくて、近景左側の「山くじら」と中景右側の「○やき 十三里」という看板です。山鯨とは、猪の肉のことで、鯨は魚という理解において獣の肉を食べてはならないという禁制を逃れています。花札の絵柄から牡丹と呼ぶこともあります。私娼がたむろし、猪の肉を食わせる店(百獣屋(ももじや)の尾張屋)などがあって、外堀の近くであるとしても、当時は場末感があった土地柄ということです。「○やき」は、さつまいもの丸焼きという意味です。「十三里」は「栗(9里)より(4里)うまい」という焼き芋(計13里)のキャッチコピーです。本作品の犬たちもその匂いに集まっています。焼き芋を売っている場所は、橋の袂など町の出入口を警備する番屋と考えられ、草鞋販売を含めて副業ということになります。橋の手前の担ぎ屋台の男は、汁粉屋、甘酒屋、おでん屋等と思われ、雪景色に合わせた冬の味覚の紹介です。比丘尼橋に屯する女達の嗜好に合わせた画題選択であり、描かれていない私娼風俗を想像させる効果を狙ったものと思われます。名所絵というよりは宣伝優位の作品ですが、比丘尼橋周辺の冬の情緒は十分に伝わります。

 本作品も、初代広重が死去後の安政5年10月改印です。作品の構図は近景拡大の初代広重に従っているものの、外堀の石垣の遠近感に破綻が生じている点、近景、遠景の雪の平板な表現、落款の字体など、やはり、二代広重主体の作品との感が強いと思われます。二代広重の名を出さない理由は、前回同様、初代広重との間に入銀作品の約束があったからです。

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 なお、歌川国貞・大判3枚続『神無月 はつ雪のそうか』(鶴屋金助・文化14年頃・1817・静嘉堂文庫美術館)という作品では、ぼたん雪の中、「そうか」(惣嫁・嬬嫁・草嫁・総嫁)を初め、市井の女達が二八そばの屋台に集まって来る様子が描かれています。そうかは大坂での街娼の呼び名であり、広重作品では比丘尼という呼び名で私娼を表現していますが、いずれにせよ、同じ画題選択をしているという理解が必要です。その意味で、広重作品の担ぎ屋台の男は、作品の情緒性を拡大するという重要な役割を担っていることが分かります。

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117 上野山した

安政5年10月(1858)改印
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 36「下谷広小路」と同構図・同趣旨の入銀作品と分かります。「下谷広小路」に描かれる松坂屋が版元魚屋栄吉の店のすぐ近くにあったと同様、本作品の伊勢屋も版元の店に近在し、したがって、版元経由で江戸百シリーズに持ち込まれた広告作品ということです。

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 上野山の東麓一帯の山下側には火除け地があって、「上野山した」と俗称され、上野広小路に繋がっていました。本作品は、その出入口付近の情景で、寛永寺門前を流れる忍川に架かる三橋を渡り、寛永寺と山下の道を分ける石垣辺りの風景と推測できます(DVD『江戸明治東京重ね地図・東叡山下谷』参照)。題名には「上野山した」とありますが、どちらかというと、上野広小路(下谷)の方が近いと言えます。そには、「しそ飯」の暖簾が掛かる「伊勢屋」という店があり、塩で揉んだ青ジソを混ぜたシンプルな飯物が有名でした。店の1階にはヒラメなどの鮮魚が並び、2階には食事をする座敷が設けられているのが分かります。伊勢屋の左側の鳥居は五条天神で、日本武尊が東征の際、薬祖神(大己貴命・少彦名命)の加護に感謝して、両神を祀ったのが始まりです。その道を進むと上野山下に至ります。

 本作品の左隅に蛇の目傘をさした一行が描かれていますが、「下谷広小路」に見られると同じく、「連」の人々が花見に出かける風情と想像されます。前帯をしているところを勘案すると、花見時期など一時的に廓外に出ることが許された吉原の花魁道中のようにも見えます。

 落款の字体、群を作らないはずの燕(?)の描写、木々の微細な表現、近景の花見連と中景の店前の人々との遠近感のズレなどから判断すると、116「市ケ谷八幡」と同様、二代広重の手が相当入っていると思われます。なぜ二代広重の名を出さないかと言えば、初代広重との間に入銀作品としての約束をしているからと推測されます。なお、『絵本江戸土産』第5編の図版「上野黒門及三橋の図」との共通性はなく、ちょうど描いてない部分の作品に当たります。

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116 市ヶ谷八幡

安政5年10月(1858)改印
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 本作品は安政5年10月改印で、初代広重が死去した9月6日以後なので、初代ではなく、二代広重の作品ではないかという疑念が生じます。とくに落款の「重」の字が初代の字とは異なっていて、初代の「重」は最後の画の横棒が短く、重と読めないくらい崩されています。しかし、119「赤坂桐畑雨中夕けい」が「二世広重」と銘打っているのに対して、敢えて単に「広重」と落款したのは、実利的な問題の他、基本的には広重の草稿あるいは制作意図に従っているからと理解しています。

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 二代広重『絵本江戸土産』八編の図版「市谷八幡表門前」の書き入れには、「市谷の總鎮守にして殊に大社なり 傍に茶の木稲荷あり 石階の左右みな茶の木を植 その表門前市谷御門外にて 四谷赤坂への往還なれは 常に往来の間断なし」とあります。また、『江戸名所圖會』巻之四(『新訂江戸名所図会4』p17)によれば、「文明年間(1469-87)大田持資(道灌)江戸城擁護のため、相州鶴岡の八幡大神を勧請し」て創建したとあり、それ故、鶴岡八幡に対して亀岡八幡とも言われます。本作品のすやり霞の最上部、桜の木々に囲まれている拝殿本殿がその「市ケ谷八幡」に当たります。社地には、芝居小屋や楊弓の類があって、「つねに賑はし」と記されています。石段の中段左の方に屋根が見える建物は、茶木(ちやのき)稲荷と呼ばれる祠です。この稲荷の鳥居の傍らに、幕府公認の「時の鐘」があって、人々に時を知らせていました。本作品のすやり霞の下に広がる大路は、四ツ谷(内藤新宿)に通じ、水茶屋などが多く建つ門前町を形成していました。近景右の橋は、市ヶ谷御門を出た土橋に当たります。すやり霞左上部に描かれている火の見櫓と白壁は、尾張徳川家の広大な上屋敷がこの地にあることを示すものです(DVD『江戸明治東京重ね地図・市ヶ谷』参照)。

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 ところで、本作品の版行動機をどう理解するかですが、115「両国花火」において触れたように、安政5年7月6日に将軍家定が亡くなり、同年8月8日発喪、21日まで鳴物停止(なりものちようじ)であった事実、さらに、遡って同年6月20日、南紀派に推されて将軍家定の世子となっていた慶福(よしとみ)が、同年10月25日、第14代将軍に就任し、名を家茂と改め、ちょうど新将軍就任の時期に当たっていることが重要です。すなわち、源氏の氏神八幡神を描いて、徳川家の慶事を寿ぐ趣旨と理解されます。それ故、作品の季節も桜の春になっているのです。なお、市ヶ谷八幡が尾張徳川家の屋敷に比して大きすぎ、遠近法上の破綻があるという見解があり、それは二代広重の技量の問題でもありますが、題名を「市ケ谷八幡」として、将軍就任問題からは蚊帳の外にあった、御三家筆頭尾張徳川家に必要以上に触れないようにしていると解することも可能です。

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広重の死

『武江年表(安政五年)』巻之十(『定本武江年表下』p105、p107)

 「此頃、有名人にして此病(コレラ)に罹り物故せるは、…△浮世絵師 一立斎広重」
 「(安政五年)九月六日、浮世絵師一立斎広重死(六十二歳。安藤氏、称徳兵衛。歌川豊広の門人なり。普通の世態(うきよえ)画(が)におなじからず。善く名所山水を画き、又動物の写真によし。江戸、幷(ならびに)国々の名所を描きて行れし人なり。又草画もよろし。)金吾伝、浅草新寺町東岳寺に葬す」

三代豊国・横川竹次郎・魚栄堂『死絵』(安政5年9月改印)
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 「思ひきや落涙ながら 豊国画」
「立斎広重子は歌川家の元祖豊春の孫弟子にして、豊広の高弟なりけり。今の世の豊国国芳ともに浮世絵にて此三人にかたをならぶる者なし。常に山水のけしきを好み、また安政三辰の年より江戸百景をかゝれ、目の前に其けしきを見る如く、猶又狂歌江都名所図会を選み、此図を頼みしより、其月/\にあらはす出板摺本の図取見る人、筆のはたらきを感吟せり。然る所この菊月の六日、家の跡しき納り方迄書残し、辞世までよみおかれ、行年六十二を此世の別れ、死出の山路へ旅たゝれ、鶴の林にこもられしこそなごりをしけれ」
 「東路へ筆をのこして旅のそら西のみ国の名ところを見む 広重」
 「書 天明老人露けき袖をかゝげて筆をとる」


 安政5年7月改印111「江戸百景餘興 芝神明増上寺」、112「江戸百景餘興 鉄炮洲築地門跡」、安政5年8月改印114「はねたのわたし弁天の社」、そして115「両国花火」の各作品と「西のみ国の名ところを見む」という辞世の句とを対照すると、両者は何か呼応しているように感じられます。つまり、江戸から東海道を西に向かって上って行く広重の姿と各作品の画題が重なって見えてくるということです。これに入銀作品を加えたのが、江戸百の最終段階の状況と考えられます。入銀作品は、「西の御国」(西方極楽浄土)に向かう広重への路銀であったのかもしれません。広重がコレラの大流行した時期に亡くなったのは事実ですが、罹患後直ちに死に至るコレラが本当の死因なのかは最終的には確定でません。遺言状や辞世の句を残すだけの体力の余裕があったことから推察すると、徐々に衰える体調の中で、自身の死を漠然とあるいは無意識に感じていた可能性が浮かび上がり、それが各作品に反映されているのかもしれません。

 また、このような前提に立てば、安政5年9月6日に広重が死亡した時点で、すでに江戸百シリーズ110枚以降の追加作品中、未刊行(5枚)の数点は草稿が用意されていたか、あるいは企画の準備がある程度決まっていたとも考えられます。そのような事情があって、重宣(二代広重)が「広重」落款で版行したとも考えられます。初代広重を追悼する作品として、よく売れたのではないでしょうか。これに、重宣が二代広重を襲名することを知らしめるお披露目作品1点とシリーズ118枚分の目録「一立斎廣重一世一代江戸百景」(東叡山広小路 魚屋栄吉梓)1点を加えて、計120枚のシリーズが完成します。目録は、作品を四季ごとに分類していますが、必ずしも広重の意図と一致しているという訳ではありません。制作順に追っていった方が作品意図を理解しやすいことは、本講座で解説してきたところです。

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115 両国花火

安政5年8月(1858)改印
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 江戸百の両国界隈の浮世絵として、①安政3年8月改印の34「両国橋大川ばた」、②安政4年閏5月改印71「両ごく回向院元柳橋」、③安政4年7月改印72「浅草川大川端宮戸川」があり、本作品はこれらに引き続き④番目ということになります。①については、安政地震の翌年の台風被害によって大川端の葦簀張りの店舗が吹き飛ばされ、復興を描く作品意図が壊れてしまいました。②は回向院の勧進相撲が画題で両国橋は直接には描かれていません。③は両国橋上から大山講の一団が出発する盛況な様子を描いていますが、両国の花火の打ち上げが未だ行われていない時期の作品です。したがって、近景および中景にに描かれた梵天はその花火に代わるものと理解しました。なお、その神事形態には幸の神信仰との深い関係を感じます。以上の経過を踏まえると、やはり江戸の華である、両国の花火を江戸の再興の象徴として描いておきたいという広重の気持ちは十分に理解できます。

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 『江戸名所圖會』巻之一に図版「両國𣘺」(『新訂江戸名所図会1』p130~p132)があり、同書(p127)には、「この地の納涼は、五月二十八日に始まり、八月二十八日に終はる。つねに賑はしといへども、なかんづく夏月の間は、もっとも盛んなり」、「実に大江戸の盛時なり」と記されています。そして、両国の花火は、両国の川開き初日の5月28日、7月10日、そして川仕舞いの8月28日に行われました。江戸百の目録で本作品が秋に分類されているのは、川仕舞いの花火と評価したということになります。幕末期には、必ずしも毎年行われる訳ではなくて、安政地震後では、本作品制作の安政5年にようやく再開されるに至ります。したがって、本作品の版行動機が、待望の両国花火の打ち上げ実施にあったことは容易に理解されます。

 ところで、本作品をよく見ると屋形船が一艘しか描かれておらず、盛況な花火の打ち上げを描いているようでも、実は不景気の影が顔を覗かせているという見解があります(原信田『謎解き 広重「江戸百」』p155)。また、「夜遊びの楽しげな雰囲気はいっさい伝わってこない。むしろ、どこか儚(はかな)げな風情すら感じられる」との分析もあります(堀口『EDO-100 フカヨミ!』p142)。実際、『武江年表(安政五年)』巻之十(『定本武江年表下』p103)によれば、同年8月初めには江戸中にコレラ(ころり)が蔓延し、「八月朔日より九月末迄、武家・市中・社寺の男女、この病に終れるもの凡弐万八千人余、内火葬九千九百余人なりしといふ。実に恐るべきの病なり」という有様のため、両国花火を楽しんでいる状況ではなかったことが分かります。しかも、同年7月6日に将軍家定が亡くなっていて、8月8日発喪、21日まで鳴物停止(なりものちようじ)の寂しい雰囲気の中にありました(『藤岡日記第8巻』p275)。このような状況を考えれば、本作品は、祓い・慰霊・鎮魂という花火本来の意義に立ち返って描かれた作品と捉えることができます。安政地震、翌年の台風、現在の疫病の蔓延によって亡くなった多くの人々を弔い、そして何より元御家人である広重が将軍の死を悼む気持ちを表出させる作品となったと理解することは、ある意味自然なことです。

 しかし、作品が悲しみや寂しさを主題にして「憂き世」を専ら描いているという思考は、それを「浮き世」に転化するのが浮世絵の本質であるという観点からは、少しばかり誤りと思われます。広重の作画意図とすれば、本作品は、両国の夕涼みと花火の全盛の様を描いた『江戸名所図会』の前掲図版を竪絵として切り取った結果、屋形船は一艘という省略図法となりましたが、作品の営業性を考えても、この時の悲惨さを直接写すものではなく、世の中の暗い影を打ち消す花火としたかったに違いありません。江戸百全般に言えることですが、表向き、安政地震等被災からの悪影響はまるでなかったかの如く各作品を表現していた広重の人間性を考えれば、前向きな絵と理解したいと思います。なお、江戸百の最初に版行された作品の1枚、03「芝うらの風景」は将軍の御成り先を描いており、広重直筆の最終シリーズの1枚が将軍存命中最後の両国の花火を描いたものであるとするならば、元幕府御家人の広重にとっては、ちょうど将軍の一時代、その名所を描いたことになり、江戸百シリーズの追加編集作業もこの1枚によって実質的には終わったとものと感じられます。ちなみに、将軍家定の時代の名所を初代広重が描いたと捉えるならば、新将軍家茂の時代の名所は二代広重が引き継いで描くという大きな方向性が見えてくることを付け加えておきます。

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114 はねたのわたし弁天の社

安政5年8月(1858)改印
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 本作品は、江戸百シリーズ最南端を描いています。「はねたのわたし」は、武蔵国と相模国との境界である玉(多摩)川河口に位置し、羽田村から川崎大師河原まで通じていました。有名な六郷川の渡しの下流に当たります(前掲『東都近郊全圖』参照)。「弁天の社」は、『絵本江戸土産第三編』に図版「羽田辨財天社」があって、「本名を要嶋といふ 俗に羽田の弁天といへり 相州榎嶌本宮と同躰にして 弘法大師の作なり 宝永八年四月 海誉上人(かいよしようにん)の勧請といふ」と書き入れられています。江戸中期頃から、海上守護神として江戸商家や廻船問屋の信仰を集め、上宮が西町の別当金生山竜王院(真言宗)にあります。下宮の羽田弁財天の祭礼は、「正月五月九月十四日に行へり」(新編武蔵風土記稿・玉川弁財天の由緒)とあります。したがって、本作品の版行動機は、羽田弁財天の祭礼との関連が想像できます。

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 江戸百の終盤に来ての作品傾向は、111「江戸百景餘興 芝神明増上寺」、112「江戸百景餘興 鉄炮洲築地門跡」、そして本作品という具合に、東海道沿いの作品群によって構成されており、やや少なかった江戸南部の名所地を採り上げ、シリーズを補完しているように感じられます。これによって、玉川から(旧)利根川までという、江戸百の枠組みがほぼ完成したことになります。他方で、『武江年表(安政五年)』巻之十(『定本武江年表下』p103)によれば、「同(七)月末より都下に時疫行れて、芝の海辺・鉄炮洲・佃島・霊巌島の畔に始り、家毎に此病痾に罹らざるはなし(東海道中、駿河の辺よりはやり来しと云)」と記している点を勘案すると、当時東海道沿いを下り江戸に流行し始めたコレラの発生地域と重なる事実も気になります。名所地の神仏の加護によって、厄除けを願うという動機もあるのかもしれません。

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 近景に夏姿の船頭を大きく描き、背景左手の松原に羽田弁財天の社、中央に投網漁の船、その背後に常夜燈、遠景に房総半島を置いて、涼しい浦風を感じさせようとの思惑です。江戸から川崎大師参りをするには、東海道を上り、六郷の渡で玉川を越えて行くのが普通ですが、蒲田から羽田村へ出て、そこから羽田の渡で大師河原に渡って行く方法もあります。画中右側に旅人の笠が見えており、本作品では後者の方法を選んだと推測されます。つまり、川崎大師参りが本作品の隠れた画題であるということが分かります。羽田の渡を越えれば、相模国に入ることになりますが、深読みすれば、広重の江戸の名所案内の旅も終わって、いよいよ西国の旅へ向かうというような無意識の心理を読み取ることができるのではないでしょうか。翌9月に広重が亡くなることを思えば、広重が三途の川を渡るというイメージが重ねて見えますが、考えすぎでしょうか?

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113 日本橋通一丁目略図

安政5年8月(1858)改印
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 「日本橋通一丁目」とは、日本橋から東海道を南に進む街道沿いの町で、1から4丁ある最初の町に当たります(DVD『江戸明治東京重ね地図・日本橋八丁堀』参照)。本作品は、その通りを南から北を見て、東側の店舗群を描いています。また、本作品の構図は、109「大てんま町木綿店」、110「大伝馬町こふく店」と共通し、店舗広告を目的とした入銀作品であることもすぐに分かります。画中背後に並ぶ店舗は、右から「違い曲尺(かねじやく)」紋の呉服店「白木屋(しろきや)」と蕎麦屋の「東橋(喬)庵(とうきようあん)」と確認できます。

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 白木屋は、近江長浜の材木商大村彦太郎が、寛文2年8月(1662)に江戸に進出し、後に京呉服を扱うようになり、駿河町の越後屋、通旅籠(呉服)町の大丸屋と並ぶ、江戸三大呉服店の一つに成長した大店です。江戸百シリーズの追加発行のお陰で、何とか企画に参加でき、面目を保つことができたというところです。白木屋は、店も然(さ)ることながら、その敷地内にあった、井戸掘りの際に見つかった観音像「白木観音」と万病が癒えると言われた井戸水「白木名水」で有名でしたので、店の宣伝も兼ねた江戸の名所紹介というところです。「東橋(喬)庵」は、白木名水を使い、これも界隈で有名な二八蕎麦屋です。画中、ちょうど白木屋の前をその出前持ちが歩いています。なお、その右側にいるのは真桑瓜(まくわうり)の露天商です。徳川家康が美濃国真桑から栽培農家を呼び寄せたことから江戸に普及しました。

 日本橋通一丁目の情景には、緋木綿を垂らし、5人も入る大きな二重の傘をもって歩く住吉踊り(かっぽれ)の一行が描かれています。住吉大社の御田植神事(幸の神信仰)に起源を持ち、後に大道芸化した滑稽踊りで、傘の石突に御幣が付いているところに神事の痕跡が見られます。その前には呉服街を見て楽しむ商家の子女がやはり日傘をさして歩く姿が映し出されています。また、住吉踊りの一行の後ろには、編笠を被り片輪車の紋様の入った着物姿の粋な女太夫が三味線を弾きながら遊吟しています。なお、保永堂版東海道「日本橋」の後摺「行列振出」にも、住吉踊りの一行が正面から描かれており、日本橋通町の典型的情景と広重は意識していたようです。煩雑盛況な通りの表現は、明らかに白木屋等への景気づけと考えられます。美術的には、透視遠近法の構成に、多くの円形を重ねてリズミカルな視線の流れを演出しています。本作品版行の動機は、白木屋と東橋(喬)庵の広告を意図するものであることは先に述べたとおりですが、広重の作画動機として、名所絵性に拘れば、白木屋敷地内の白木観音(白木名水)に絡めて、安政5年8月改印の前月、旧暦7月10日が四万六千日分の観音の功徳を得ることのできる「四万六千日」の歳時日に当たることも考えられます。

 最後に、題名にある「略図」という言葉について触れておきます。北斎『冨嶽三十六景』に「江都駿河町三井見世略図」とあります。北斎を相当意識し、三井越後屋の作品題名に習って白木屋呉服店作品にも敢えて「略図」を付け、北斎を超えた名所絵師としてのプライドを示したのではないかというのが私見です。

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