100.つきの百姿 いてしほの月
明治19年(1886)1月印刷・明治25年(1892)4月出版/画工 月岡米次郎(芳年印)/板元 秋山武右エ門/彫工 圓活刀
謡曲『高砂』に登場する相生の松の精である、シテの尉とツレの姥を描いています。目出度い席での能であることは周知のことと思われます。「99.猿楽月」の参考作品・楊洲周延『千代田之御表 御大礼之節 町人御能拝見』にも両人が写されており、祝言を寿ぐ能であったことが確認できます。題名「いてしほの月」は、上ゲ歌の「高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり」からきています。この詞章がなぜ祝いの謡となるのかは、『高砂』が次のような内容になっているからです(前掲『日本古典文学大系 謡曲集上』p219以下参照)。すなわち、
醍醐天皇の延喜年間のこと、九州阿蘇神社の神主友成(ともなり)は、都見物の途中、従者を連れて播磨国の名所高砂の浦に立ち寄り、一組の老夫婦と出会います。松の木陰を掃き清める老夫婦は友成に、この松こそ高砂の松であり、遠い住吉の地にある住の江の松と合わせて相生の松と呼ばれていると謂われを教えます。『万葉集』の昔のように今の延喜帝の治世に和歌の道が栄えていることを、それぞれ高砂、住の江の松にたとえて賞賛し、老翁はさらに、和歌が栄えるのは、草木をはじめ万物に歌心がこもるからだと説き、樹齢千年を保つ常緑の松は特に目出度いものであるとして、松の由緒を語ります。やがて老夫婦は、友成に、自分たちは高砂と住吉の「相生の松」の化身であると告げると、住吉での再会を約して夕波に寄せる岸辺で小船に乗り、そのまま風にまかせて、沖へと姿を消して行きました。残された友成の一行は、老夫婦の後を追って、月の出とともに小舟を出し、高砂の浦から一路、住吉へ向かいます。住吉の岸に着くと、男体の住吉明神が姿を現し、月下の住吉明神は、神々しく颯爽と舞い、悪魔を払いのけ、君民の長寿を寿ぎ、平安な世を祝福するのでした。
月の出と同時に舟を出し、折から満ちてきた潮に乗じて、淡路の島影を遠くに眺め、鳴尾沖をも通り過ぎ、高砂から住吉に着くという詞章は、高砂の松と住吉の松とが相生の松であることを表現するものとして目出度く、祝言の謡となるのです。尉と姥の老い姿は千寿の松の象徴であり、尉のくまでは九十九、姥の箒(はく)は百(ひゃく)に掛けられていると考えられます。『月百姿』の完成を祝して、祝儀の謡である『高砂』を百番目に描き、船出の月を眺める尉と姥を写すことは、大変、納得ができます。月の出の船出は、『月百姿』の版行完成を意味し、長寿を寿ぐ点は『月百姿』が長く流布することへの願いであり、平安な世を祝福する点は『月百姿』に平和・希望が仮託されていると思われるからです。
ちなみに、「99.猿楽月」が家茂と和宮との成婚を祝す町入能を写すものとした場合、そこで謡われた『高砂』が最後に掲載されている点で、さらに、夫婦の情愛に仮託されたものを読み解く必要があります。私見ではありますが、江戸時代に回帰して再発見された月の事蹟と明治時代の日の事蹟との融和があって、初めて御世が千代に続くというメッセージがあるのではないでしょうか。
*葛飾北斎『北斎漫画』初編(文化11年・1814)「尉と姥」参照。
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