100.つきの百姿 いてしほの月

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明治19年(1886)1月印刷・明治25年(1892)4月出版/画工 月岡米次郎(芳年印)/板元 秋山武右エ門/彫工 圓活刀

 謡曲『高砂』に登場する相生の松の精である、シテの尉とツレの姥を描いています。目出度い席での能であることは周知のことと思われます。「99.猿楽月」の参考作品・楊洲周延『千代田之御表 御大礼之節 町人御能拝見』にも両人が写されており、祝言を寿ぐ能であったことが確認できます。題名「いてしほの月」は、上ゲ歌の「高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり」からきています。この詞章がなぜ祝いの謡となるのかは、『高砂』が次のような内容になっているからです(前掲『日本古典文学大系 謡曲集上』p219以下参照)。すなわち、

 醍醐天皇の延喜年間のこと、九州阿蘇神社の神主友成(ともなり)は、都見物の途中、従者を連れて播磨国の名所高砂の浦に立ち寄り、一組の老夫婦と出会います。松の木陰を掃き清める老夫婦は友成に、この松こそ高砂の松であり、遠い住吉の地にある住の江の松と合わせて相生の松と呼ばれていると謂われを教えます。『万葉集』の昔のように今の延喜帝の治世に和歌の道が栄えていることを、それぞれ高砂、住の江の松にたとえて賞賛し、老翁はさらに、和歌が栄えるのは、草木をはじめ万物に歌心がこもるからだと説き、樹齢千年を保つ常緑の松は特に目出度いものであるとして、松の由緒を語ります。やがて老夫婦は、友成に、自分たちは高砂と住吉の「相生の松」の化身であると告げると、住吉での再会を約して夕波に寄せる岸辺で小船に乗り、そのまま風にまかせて、沖へと姿を消して行きました。残された友成の一行は、老夫婦の後を追って、月の出とともに小舟を出し、高砂の浦から一路、住吉へ向かいます。住吉の岸に着くと、男体の住吉明神が姿を現し、月下の住吉明神は、神々しく颯爽と舞い、悪魔を払いのけ、君民の長寿を寿ぎ、平安な世を祝福するのでした。

 月の出と同時に舟を出し、折から満ちてきた潮に乗じて、淡路の島影を遠くに眺め、鳴尾沖をも通り過ぎ、高砂から住吉に着くという詞章は、高砂の松と住吉の松とが相生の松であることを表現するものとして目出度く、祝言の謡となるのです。尉と姥の老い姿は千寿の松の象徴であり、尉のくまでは九十九、姥の箒(はく)は百(ひゃく)に掛けられていると考えられます。『月百姿』の完成を祝して、祝儀の謡である『高砂』を百番目に描き、船出の月を眺める尉と姥を写すことは、大変、納得ができます。月の出の船出は、『月百姿』の版行完成を意味し、長寿を寿ぐ点は『月百姿』が長く流布することへの願いであり、平安な世を祝福する点は『月百姿』に平和・希望が仮託されていると思われるからです。

 ちなみに、「99.猿楽月」が家茂と和宮との成婚を祝す町入能を写すものとした場合、そこで謡われた『高砂』が最後に掲載されている点で、さらに、夫婦の情愛に仮託されたものを読み解く必要があります。私見ではありますが、江戸時代に回帰して再発見された月の事蹟と明治時代の日の事蹟との融和があって、初めて御世が千代に続くというメッセージがあるのではないでしょうか。

*葛飾北斎『北斎漫画』初編(文化11年・1814)「尉と姥」参照。
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99.月百姿 猿楽月

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明治24年(1891)1月15日印刷・明治25年(1892)4月出版/画工 月岡米次郎(大蘓印)/板元 秋山武右エ門/彫工 圓活刀

 題名にある「猿楽」とは、今日の能のことで、室町時代に成立し、江戸時代までは猿楽と呼ばれていました。狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことです。芳年の謡曲趣味が明快に表出した作品と言えます。ただし、本作品は武家の能一般を描く趣旨ではなく、江戸城本丸御殿(表御殿)に付属・常設される能舞台へ江戸町民の参観を許した、「町入能(まちいりのう)」「御能拝見」の特別儀式を描くものである点が重要です。町入能は、将軍宣下等の大きな祝儀や日光参詣等の重要な法事に際して催され、朝番昼番の2回に分けて、2500人ずつ計5000人余が選ばれました。許された者は肩衣(かたぎぬ)・袴を着けるのが決まりで、舞台の脇正面の庭で拝観し、雨天決行の儀式なので参入のときに雨傘1本、また退出のときには酒と菓子などが与えられました。本作品に描かれる町民が傘を持っているのは、そのためです。楊洲周延・大判3枚続『温故東之花三編 旧幕府御大礼之節町人御能拝見之図』(江川八左エ門・明治22年・1889)、同・大判3枚続『千代田之御表 御大礼之節 町人御能拝見』(福田初治郎・明治30年・1897)参照。

 本作品は、ぼかしを使って暁月を表現し、朝番の町入能を描いています。町入能は、文久2年(1862)2月11日、徳川14代将軍家茂と皇女和宮とが成婚した際が最後です。翌、文久3年(1863)に本丸御殿は焼失し、以降再建されていないことを考えると、芳年の狙いは、江戸城本丸御殿の最後の祭事であった、将軍成婚とそれに伴う町入能を描くことによって、江戸時代とその文化に回帰する自らの姿勢を示そうとしたのではないかと推測されます。衝立に描かれる「朝日に鶴」は成婚慶事を想像させます。なお、歌川(惺々)狂斎が、文久3年の『東海道名所之内(御上洛東海道)』(大黒屋金之助)において、「御能拝見」の作品を3点描き、その内の1枚が将軍家茂と皇女和宮の結婚の様子を源氏絵仕立てにしていることを勘案しても、やはり、芳年の本作品は、その時の町入能を切り取って写す意図であると考えられます。「32.神事残月(旧山王祭 芳年寫)」と同じ趣向の作品です。『月百姿』完結直前の作品が、暁月の江戸城内本丸御殿の様子を主題に選んでいることには深い意味があります。

 暁月の下、振り返って町人達に視線を送る1人の武士が江戸・将軍家茂を象徴するならば、衝立の朝日に羽ばたく鶴は明治・皇室和宮を象徴し、公武合体を体現することによって、本作品は過去の江戸時代と現代の明治時代との融合を示唆しているように思われます。つまり、芳年が『月百姿』で描こうとしたのは、月に照らされて初めて見ることのできる世界を現代に統合することです。

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*町入能について、松浦静山『甲子夜半(かっしやわ)』続編巻之一(文政4年11月17日・1821~):『甲子夜話続篇1』(平凡社・東洋文庫・1979)p3以下、市岡正一『徳川盛世録』(明治22年・1889)参照。

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98.月百姿 むさしのゝ月

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明治24年(1891)1月印刷・明治25年(1892)4月1日出版/画工 月岡米次郎(芳年印)/板元 秋山武右エ門/彫工 山本刀/太田記念美術館所蔵

 平安時代から江戸時代の初めにかけて、都人の武蔵野に対する文学的絵画的イメージは、一面が薄(すすき)の原というものです。たとえば、源通方(1189~1238)「武蔵野は月の入るべき嶺もなし 尾花が末にかゝる白雲」(『続古今和歌集』)、あるいは古歌「武蔵野は月の入るべき山もなし 草より出でて草にこそ入れ」などがよく知られています。江戸時代に入っては、新田開発が進み、「武蔵野の月も家より家に入る風情」(西村重長画『絵本江戸土産』「序」・菊屋安平衛・宝暦3年・1753・東北大学付属図書館・狩野文庫画像データベース)、「耕田林園となり、往古の風光これなし」(『江戸名所圖會』巻之三:『新訂江戸名所図会3』ちくま学芸文庫・1996、p374)という大きな変化を見せていますが…。

 本作品は往時の武蔵野のイメージを受けていることは間違いないのですが、月下、水面に映る自らの姿を省みる野狐の姿を単純に描くものと考えてはいけません。なぜならば、よく見ると、薄の穂が出ておらず、左下には東菊の花が咲き、春の朧月の季節であり、しかも、狐は頭部に緑の草を被り、水面の影にもそれが映っている特徴ある絵だからです。つまり、狐は単純に毛繕(けづくろ)いしているのではなく、何か粧(よそお)っている様子なのです。これは、石川雅望(まさもち)『しみのすみか物語』(永樂屋東四郎等・文化2年・1805・国文学研究資料館・鵜飼文庫、および夕陽亭文庫・2015・Kindle版)に挿絵とともに紹介される、次の説話の情景を表現しているのです。すなわち、

 信太の森のあたりに狐ありけり。他(あだ)し狐にも似ず、あさましく愚なりければ、化けて人をたぶらかす事もなし得ざりけり。われより若き狐どもの、よく化け習ひて、高名なるも有りければ、「いで我も化けやう習ひてまし」とて、その術を友達に問ひ聞きけり。敎へつる樣に、あたりなる池にひたりて藻を取り、頭に打ちかぶり見るに、しとと濡れて、なめらかなる物なれば、頭にえたまらですべり落ちぬ。取りて被き見るに、またすべりて落ちぬ。幾度も同じやうに取りつつ打ち被きぬれど、ただすべりにすべり落ちてたまらず。さて大に苛ちて藻を取りて、岸の額に投げ打ち、「あな物狂し、斯ういたづかはしき見んより、のら狐と言はれて世をやすく經なんこそまさらめ」と言ひて、「こうこう」と鳴きて草むらの中に這ひ入りけるを、釣する人のたしかに見たりけるとて、歸り來て語りけるになん。
*「いたづかはしき」:面倒な、「釣する人」:釣狐の意か?

 信太の森(大阪府和泉市の信太山の森。「葛の葉稲荷」があり、信太の狐の伝説地)の逸話を武蔵野に移し替えて、人に化けることのできないどじな狐が野良狐として生きていくことを決意する物語として、芳年は再構成しています。「77.玉兔 孫悟空」では、美人の公主は月の神・大陰星君の一喝で本源の兎に戻るのですから、満月に狐がいくら人に化けようとしても、三日月の「15.吼噦」の白狐のように上手くはいかないのです。江戸だ、東京だと言っても、元は狐が走り回る茫々たる武蔵野の原野が本源なので、そこに棲む若くない狐(芳年)は、人を騙して都会の狂騒に生きるよりは、野良狐(野に咲く花)として分相応に生きた方がよいと悟る、自戒的教訓的作品へと改作したように感じます。

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*絵手本、鈴木万年『大和錦』二の巻「白狐 朧月」田中治兵衛・明治22年6月15日(1889)参照。

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97.月百姿 梵僧月夜受桂子

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明治24年(1891)6月印刷・出版/画工 月岡米次郎(大蘇印)/板元 秋山武右エ門/彫工 山本刀

 目録には「阿羅漢」とあるので、阿羅漢(あらかん)が月夜に桂の子(かつらのみ)(金木犀の種)を受けるという図です。「25.つきのかつら(呉剛)」で触れたように、月には高さ500丈の桂の大木があって、春に花が咲き、秋に子(種・実)が成るという伝説があります。「月の桂の子」が中国に降ったという伝承について、曲亭馬琴『俳諧歳時記栞草』(『増補 俳諧歳時記栞草下』岩波文庫・2000、p124)参照。本作品は、阿羅漢がその降ってくる子を鉢で受けているものと分かります。阿羅漢とは、ここでは釈迦の弟子を意味し、迷いの輪廻から脱して涅槃に至ることができる、修業者が到達する最終の地位にある人のことです。「十六羅漢」、「五百羅漢」とも称され、1人図として作画されることも少なくありません。比べると、龍神を自在に扱える「半託迦尊者(はんだかそんじゃ)」を描く、北斎戴斗『羅漢図』(東京国立博物館)、八十七老卍・紙本著色『羅漢図』(弘化3年・1846・太田記念美術館)等から着想を得たのかもしれません。

 北斎作品では、捧げる鉢から立ち上る湯気が雷光とともに現れた龍神のようにも見え、阿羅漢が最高の悟りの境地に達していることを感じさせる表現です。他方、芳年は、龍神に代えて月の桂の子を鉢で受けるという構成を採って、阿羅漢の最終境地を絵にしたものと思われます。北斎と芳年が同じ状況を描いていることは、芳年作品の阿羅漢の袈裟に龍紋が描かれていることから確認できます。阿羅漢の頭部には大きな光背(後光)が描かれ、阿羅漢の悟りの高さを示していますが(「65.南海月」の観音参照)、同時に、直接は描かれていない名月に見立てられていることは言うまでもありません。

 「29.破窓月」、「61.悟道の月」などとも合わせて考えると、月(光)は、芳年にとっては、悟りの世界・境地を象徴する記号としての意味を有していると思われます。それ故、『月百姿』では、悟りの世界からの光に照らされ、人はそこに至るまでの因果因縁を思い出し、その過去を清算しているように感じます。思いに拘れば無明世界に落ち、色即是空となります。無心に光に照らされれば、空即是色となって、月の不思議にて、月の桂の子さえ降り注ぐという予期せぬ果報を受け取るのです。未来を照らす日の光とは反対に、月の光が過去を照らすものと分かれれば、近代明治が見落とした江戸以前の善きもの、弱きもの、優しきもの、哀しきもの、あるいは美しきもの等々を偲ぶものとして、芳年は各作品を制作しているものと理解されます。これらの作業は、に因縁する月岡芳年だからこそできることなのです。

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96.月の百姿 姥捨月

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明治24年(1891)6月印刷・12月出版/画工 月岡米次郎(たいそ印)/板元 秋山武右エ門

 信濃国更科の姨捨山(冠着山(かむりきやま))は、古くから「田毎の月」の名所地であるとともに、「姥捨(うばすて)伝説」の地としても広く知られています。本作品は、若者が老婆を背負って歩く姿を写すものなので、題名「姥捨月」と相俟って、姥捨伝説を画題としていることが分かります。その伝説にはいくつかの類型がありますが、古典を大切にする芳年なので、平安時代成立の『大和物語』百五十六話、『今昔物語』巻三十第九に記される物語を参考資料とし、中でも、尾形月耕『大和物語』「姨捨」(松木平吉・明治三十年?・大英博物館)が、『大和物語』の1話として芳年と同系列の作品を描いている点に鑑みて、『大和物語』(『日本古典文学大系9』岩波書店・1957、p327以下参照)の方を典拠とします。

 信濃の國に更級といふところに、男すみけり。わかき時に親死にければ、をばなむ親のごとくに、若くよりあひそひてあるに、この妻の心いと心憂きことおほくて、この姑(しゅうとめ)の、老いかゞまりてゐたるをつねににくみつゝ、男にもこのをばのみ心さがなく悪しきことをいひきかせければ、昔のごとくにもあらず、疎(をろか)なること多く、このをばのためになりゆきけり。このをばいとたう老いて、二重にてゐたり。これをなをこの嫁ところせがりて、今まで死なぬこととおもひて、よからぬことをいひつゝ、「もていまして、深き山にすてたうびてよ」とのみせめければ、せめられわびて、さしてむとおもひなりぬ。月のいと明き夜、「嫗ども、いざたまへ。寺に尊き業する、見せたてまつらむ」といひければ、かぎりなくよろこびて負はれにけり。高き山の麓に住みければ、その山にはるばるといりて、たかきやまの峯の、下り來べくもあらぬに置きて逃げてきぬ。「やや」といへど、いらへもせでにげて、家にきておもひをるに、いひ腹立てけるおりは、腹立ちてかくしつれど、としごろおやの如養ひつゝあひ添ひにければ、いとかなしくおぼえけり。この山の上より、月もいとかぎりなく明くていでたるをながめて、夜一夜ねられず、かなしくおぼえければかくよみたりける、
 わが心なぐさめかねつ更級や 姨捨山に照る月をみて
とよみて、又いきて迎へもて來にける、それより後なむ、姨捨山といひける。慰めがたしとはこれがよしになむありける。

 男が月を見て詠んだ歌は、『古今集』巻十七にある読人知らずのもので、本作品の題名にしても良いかとも思われます。「としごろおやの如養ひつゝあひ添ひにければ、いとかなしくおぼえけり」とあって、姨を棄ててきた山に照る月を見て、自分の心はどうにも慰められないということなのです。一見、老義母虐待の物語のようですが、その本質は、反語的に敬老訓話と理解しなければなりません。月を見て過去の親心を思い出し、月の不思議にて孝心に気付いたということで、明治時代の孝徳教育に配慮された題材選択となっているのです。松尾芭蕉『更科紀行』に、「おもかげや姨ひとり泣く月の友」という句がありますが、過去を優しく思い出させる月の役割が前提となっており、本作品と同じ思想にあるものです。なお、近景に斜めする松の幹の表現は、『月百姿』の他作品でも散見される構図割りで、広重『名所江戸百景』に多用される近景拡大の視点と同じであり、元々は京都四条派の絵本などに見られる手法です。ちなみに、謡曲『姨捨』(『謡曲集上』新潮日本古典集成、p235以下参照)では、前段は、信濃まで月見に来た都の風流人と里の女との間で交わされる姨捨山の伝説の物語、後段はこの山に捨てられた老女の精が現れ、昔を懐かしみ月を愛でつつ静かに舞う形式で、本作品とは趣向が異なります。

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95.つきの百姿 嵯峩野の月

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明治24年(1891)印刷・出版/画工 月岡米次郎(大蘇印)/板元 秋山武右エ門/彫工 直山刀

 本作品は、歌川豊斎『歌舞伎座十一月狂言』「弾正弼仲國 小督局 女童」(明治24年11月・1891)と対照すると気付くのですが、明治24年11月、9代目團十郎が「新歌舞伎十八番」として『仲國』を演じたのを受け、團十郎の歌舞伎を宣伝する意図で『月百姿』に採り入れられたものと推測されます。もとより、「小督」あるいは「仲国」は、『平家物語』巻六「小督」、『源平盛衰記』第二十五巻「小督局事」に記される話で、その後、謡曲や箏曲などにも採られて広く知られているところです。また、浮世絵の画題としての作例も少なくありません(楊洲周延『雪月花 山城 嵯峨月 禅定仲國 小匂の局』小林鉄次郎・明治17年8月2日・1884参照)。謡曲趣味の芳年ですが、謡曲には小督の琴に合わせて仲国は男舞を舞い、横笛を吹く場面はないので、歌舞伎に採り入れられた『平家物語』の原典に依拠していると思われます。

 『平家物語』「小督」(『平家物語二』岩波文庫、p262以下参照)によると、小督は、高倉帝に仕え寵愛を受けた女房で、宮中随一の美人であり、琴の名手でした。高倉帝の中宮は平清盛の娘であり、同様に小督に思いを寄せる冷泉少将隆房も清盛の娘婿であり、清盛は小督に2人の婿を取られてなるものかと怒り、これを知った小督は宮中を抜け出て嵯峨野に身を隠したのでした。高倉帝は悲しみ、小督の琴に合わせ笛を吹いた弾正弼源仲国に小督の行方を尋ねるように頼み、仲国が帝に給わった馬に乗り、名月の嵯峨野法輪寺辺りを尋ね歩くと、「松の一むらあるかたに、かすかに琴ぞ聞えける。峰の嵐か松風か、たずぬる人のことの音か、おぼつかなくは思へども、駒をはやめてゆくほどに、片折戸したる内に琴をひきすまされたる」という有名な詞章にもある場面となります。しかも、「想夫恋」を弾いていたので、「此楽をひき給けるやさしさよ。ありがたうおぼえて、腰より横笛(ようじょう)ぬきいだし、ちッとならいて門をほと\/とたゝけば、やがてひきやみ給ひぬ」という、本作品の描くところとなるのです。仲国は小督に帝より預かった文を渡し、密かに小督を宮中に連れ戻したのですが、清盛の知るところとなり、捕らえられ尼にされ、宮中から追放されたのでした。「年廿三」とあり、その後病で亡くなったとあります。

 小督が琴を弾いたのは、明日大原に隠遁する名残に、かつて宮中で月夜に琴を弾いたことを思い出してとあり、まさに月の不思議にて、その琴に仲国が帝の分身となって現れたということです。その月夜の合奏、すなわち、帝との思い出に満足していれば、大原で別の生活があったのかもしれませんが、宮中に戻ったことによって、心ならずも尼となり、命を失うことになります。「87.法輪寺の月(横笛)」が示すように、月夜に現世の思いを直接叶えようとすることは危険なのです。「78.千代能かいたゝく桶の…」では、美人に生まれた千代能は桶の水に映る月影に悟りを得たのですが…。

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*9代目團十郎の「新歌舞伎十八番」では、活歴や能に取材する作品が多いと言えます。

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94.つき百姿 桜さくすみたの川に… 水木辰の助

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桜さくすみたの川にこくふねも くれて関屋に月をこそ見れ 水木辰の助

明治24年(1891)6月印刷・出版/画工 月岡米次郎(大蘇印)/板元 秋山武右エ門/彫工 直山刀

 本作品「水木辰の助」の制作は、『新編歌俳百人撰』(本講座作品48、54参照)が元資料と考えられ、三代豊国の挿絵を立ち姿に改めています。その解説には、次のように記されています。すなわち、「水木辰之助は元禄の頃諸人に愛られし歌舞妓の女形なり。元禄四年京四条より始て江戸に下り市村竹之丞座にて槍踊猫の所作等を勤めて江戸中こぞりて賞美し此狂言を見ざるをはぢとせしとぞ。其角が辰之助へおくりし吟に すゝはきや諸人のまねる槍をどり。これ等にて其比流行し事を思ふべし。又七変化の所作といへるものは辰之助よりはじまりし也。桜さくの歌は辰之助を贔屓にせる富家と共に隅田川にあそびし時の詠なり」と。

 紫の縮緬帽子を被る姿は女形の典型ですが、これは、承応元年(1652)に若衆歌舞伎が禁じられ、前髪を剃り落とすことになった後、辰之助が始めたものもので、水木帽子と呼ばれます。元禄時代の女形歌舞伎役者の中でも、所作事(舞踊)に優れる辰之助を描いて、江戸時代の民衆文化を懐かしむ懐古趣味に属する作品の1つです。その意味では、「45.盆の月」と同系列で、共に元禄(踊り)が主題であることが重要です。

 大きな満月が低い位置から辰之助をライトアップしています。着物の袖の渦模様は、隅田川を象徴するものですが、月影のようにも感じられます。3年後の明治27年(1894)、日清戦争が始まり、武骨な戦争の時代に突入する間際の時代背景を考えると、桜咲く隅田川に舟を浮かべて関屋の里に月を見る風情、しかも歌舞伎の女形の踊りの名手を採り上げているところは、月に照らされる過去の平和と日に照らされる未来の戦争の分水嶺を感じさせる作品です。作品形式は、『月百姿』では数少ない役者絵ですが、表現は実写(歌舞伎の活歴?)風です。

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*本作品の歌中の「関屋」については、広重『絵本江戸土産』第8編「関屋の里」の詞書には、「木母寺(もくぼじ)より十町はかり東北にあたれり。ここは、東都の名所にして古えよりその名高く、春秋の眺望(ながめ)には遊人(ゆうじん)騒客(そうきゃく)ここに遊びて一時延気(えんき)の場(じょう)となすめり」とあります。隅田川東岸、隅田堤の寺島村から千住河原辺りの名で、風雅な名所であり、高名な料理屋等もあって、辰之助一行が楽しんだ様子が偲ばれます。
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93.月百姿 三日月の頃より待し… 翁

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三日月の頃より待し今宵哉 翁

明治24年(1891)印刷・出版/画工 月岡米次郎(子英印)/板元 秋山武右エ門/彫工 山本刀

 本作品で描かれている状況は、松亭金水『松亭漫筆』(嘉永3年・1850・国文学研究資料館・鵜飼文庫)「誹諧の説附芭蕉翁三日月の句の説」の渓斎英泉挿絵を写すものと推測できます。以下に、その説示を引用します。誹諧が都鄙を問わず流行していた風潮を示す逸話で、翁、すなわち、松尾芭蕉が諸国行脚をしていた折りの8月満月の夜、ある片田舎に宿を求め徘徊していると、その里の男達が大勢集まって月見の宴を開いており、その景色の美しさに誹諧を始めたとあります。座の中の男が翁の行脚姿を見かけて招き入れ、一句を詠めと言います。翁は辞退したのですが、聞き入れないので、静かに「三日月の」と上の五文字を吟じたところ、男達はこれを聞いて、「明月の句に三日月とは」と嘲り笑ったが、翁は気にもとめず、「頃よりまちし今宵かな」と吟じ終わりました。すると、たちまち男達は感心し前後左右に座を正し、「かゝる秀句を吐きたまふは、いかなる人にて候ぞ。名乗給へ」と言うので、翁は微笑んで、「われこそは芭蕉庵桃青といふものなれ。誹諧修行のためとて、斯は行脚いたすなり。各方も、この道嗜み給ひて、優くも、筵を開き給ふなる、いと愛たき事なり」と答えたそうです。男達は先刻の無礼を詫びて、村の風流を好む者を呼び集め、新たに翁を歓待し篤く敬ったと言います。

 鄙びた農村に明月の俳句を吟じる風流の心があることを表現する絵と見るならば、「86.たのしみは夕皃たなの…」、「90.調布里の月」に通じる平和な田園生活の喜びを詠う作品と評価できましょう。ただし、『松亭漫筆』の同説示は、さらに続けて、鎌倉時代成立の『古今著聞集』にも同様の説話があり、その改編とも考えられ、「芭蕉翁三日月の句」は俗伝の類に過ぎないとも記しています。このことを踏まえて推論するならば、芳年作品の意図は、一種、明月を題材とした教訓的笑い話の紹介かとも思われ、たとえば、落語ネタからの転用と評価できるのではないでしょうか。この点では、「18.月夜釜(小鮒の源吾…)」に通じる諧謔嗜好の作品と評価できましょう。芳年の落語界との交流を考えると、明月に俳聖が現れた月の不思議話と正面から読み解くよりは、『月百姿』完結間近における「閑話休題」的意味合いの作品のように感じられます。翁の真面目な顔と男の癖のある表情の対比も笑いを誘う工夫なのかもしれません。ちなみに、「三日月の句」の原拠について、松尾芭蕉ではなく、小林一茶、あるいは宗祇等々争いがありますが、未詳と見るのが正確なところでしょう。つまり、巷間流布した笑い話に材を採った創作に近い作品ということです。

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92.つきの百姿 月の四の緒 蟬丸

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明治24年(1891)8月印刷・出版/画工 月岡米次郎(芳年印)/板元 秋山武右エ門/彫工 義久刀

 蝉丸は、『小倉百人一首』に「これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」の歌が採られていることで有名です。『百人一首一夕話』巻の二(『百人一首一夕話上』岩波文庫、p114)には、「姓氏詳かならず。古説に仁(にん)明(みよう)天皇の時の道人なり、常に髪を剃らず世の人翁と号し或ひは仙人といひ、また延喜帝の第四の皇子などいへるは、いづれも拠り所なき説共にて時代も違へり。また蟬丸の像を盲人の様に描く事、笑ふに堪へたり」とありますが、芳年は文芸世界の伝統に従って盲人として描いています。題名にある「四の緒」とは4弦であるところから琵琶の異称で、1人琵琶を弾く蝉丸の姿が本作品にあります。この琵琶の音を「逆髪(さかがみ)」の女が聴けば謡曲『蝉丸』となり、男が聴けば平安後期の説話集『今昔物語』巻二十四「源博雅朝臣行会坂盲(めしい)許語」となります。謡曲趣味の芳年ではありますが、安達吟光の中判錦絵『大日本史略図絵 逢坂の関の草庵に蝉丸琵琶を弾く』(大倉孫兵衛・明治18年12月・1885・国立国会図書館デジタルコレクション)を参照すると、源雅博が聴く、後者を念頭に置いているものと思われます。

 『今昔物語』(『今昔物語集 本朝部中』岩波文庫・2001、p307以下)には、次のような話が紹介されています。

 「…琵琶に『流泉・啄木』と云ふ曲有り。此は世に絶ぬべき事也。只此盲のみこそ此を知たるなれ。構て此が弾を聞かむ」と思て、夜、彼の会坂の関に行にけり。然れども、蟬丸其の曲を弾く事無かりければ、其後三年の間、夜々(よなよな)会坂の盲が庵の辺に行て、其曲を、「今や弾く。今や弾く」と窃に立聞けれども、更に不弾りけるに、三年と云八月の十五日の夜、月少し上陰て、風少し打吹たりけるに、博雅、「哀れ、今夜は興有か。会坂の盲、今夜こそ流泉・啄木は弾らめ」と思て、会坂に行て立聞けるに、盲、琵琶を掻鳴して、物哀に思へる気色也。
 博雅、此れを極て喜く思て聞く程に、盲、独り心を遣て詠じて云く、
  あふさかのせきのあらしのはげしきに しゐてぞゐたるよをすごすとて
琵琶を鳴すに、博雅、これを聞て、涙を流して、哀れと思ふ事限無し。
 盲、独言に云く、「哀れ、興有る夜かな。若し我れに非ず□□者や世に有らむ。今夜、心得たらむ人の来(こよ)かし。物語せむ」と云を、博雅、聞て、音を出して、「王城に有る博雅と云ふ者こそ、此に来たれ」と云ければ、盲の云く、「此申すは誰にか御座(おわしま)す」と。博雅の云く、「我は然々の人也。強(あながち)に此道を好むに依て、此の三年、此の庵の辺に来つるに、幸に今夜汝に会ぬ」。盲、此を聞て喜ぶ。其の時に、博雅も喜び乍ら庵の内に入て、互に物語などして、博雅、「流泉・啄木の手を聞かむ」と云ふ。盲、「故宮は此なむ弾給ひし」とて、件の手を博雅に令伝(つたえしめ)てける。博雅、琵琶を不具(ぐせざ)りければ、只口伝を以て此を習て、返々す喜けり。暁に返にけり。

 「19.朱雀門の月(博雅三位)」では、月下、笛を奏でると朱雀門の鬼が現れ、笛の競演とその交換がなったのですが、その話と同様、蝉丸の立場では、中秋の名月での蝉丸の琵琶の音に、鬼ならね、琵琶の名手博雅が現れ、『流泉・啄木』の伝授がなされたという、月の不思議となります。博雅の立場では、中秋の名月の夜、3年通い詰めた思いが成就し、口伝にて『流泉・啄木』を継受した、月の不思議となります。「74.足柄山月(義光)」にも見られるように、管弦の継受は月下に行われるという発想が根底にあるようです。

Adachiginko

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91.月百姿 つきの發明 寶藏院

Tsuki91
明治24年(1891)6月印刷・出版/画工 月岡米次郎(魁印)/板元 秋山武右エ門/彫工 義久刀

 「寶藏院」(1521年~1607年)は、「89.雪後の暁月(小林平八郎)」など歴代の武術者を紹介する、笠亭仙果『武稽百人一首』(嘉永6年正月・1853・国文学研究資料館・八戸市立図書館)にその名が見え、つまり、武芸者であるということです。同書には、「寶藏院覚禅房法印胤栄(いんえい)」とあって、興福寺子院・宝蔵院の院主で、素槍中心の槍術に対し、十文字槍を使用した宝蔵院流槍術を始めた人物として紹介されています。「突けば槍うてば鳶口ひけば鎌 何につきてものがれざらまじ」という、十文字槍の機能を象徴する歌が掲載されています。三大仇討ちの1つと言われる『伊賀越仇討』(鍵屋の辻の決闘)で「36人切り」の武勇を示す、荒木又右衛門に槍術を教えた人物として知られています。

 胤栄と月の逸話につては、尾形月耕が挿絵を担当する、『絵本柳荒美談』(金松堂出版・明治18年・1885・国立国会図書館デジタルコレクション、p5以下)の「寶藏院樂傳坊槍術に妙を得る事」に詳しく、次のように記されています。すなわち、2つの説があるのですが、1つに、「或月の上旬三日の黄昏の事」、さっと飛び出す獺(かわうそ)を手練として素槍で突損じて水面を窺っている時、他に、胤栄が10歳ばかりの不思議な美童に真剣勝負を挑まれ、童子は人間ではないと思い至り、天下一の手際という高慢な気持ちも失せ、妖怪との勝負に神にも祈る気持ちで、一心に水面に向かい念じている時とあります。「不思議なるかな三日月の水に移(ママ)りて尖鋭(ひっさき)へ掛り宛然(さながら)十文字の如く見えければ扨々(さてさて)槍先の水に移(ママ)りて自然と十文字に成しは面白し是ぞ天の教示なりと大いに歡び」、十文字槍を拵(こしら)えたとあります。後の話では、妖怪は以後現れなかったともあります。「是よりして世上月の水に移(ママ)りし所より三日月十文字とて専ら是を用ひける 清光月(せいこうげつ)の傳とて柳生流の剱術も是より始りけるとなん」と記されています。なお、槍と鉄砲が戦の主流となり、寺院勢力と武士勢力の政教分離がまだ未分化であった戦国・安土桃山時代という背景を忘れては理解できない話ですが…。

 池に映った三日月と素槍の影が重なり、宝蔵院流の三日月十文字の槍術が生まれたという縁起譚で、もちろん、本作品はその月の妙を描くものではありますが、絵の楽しみは、三日月と素槍の重なる形象の面白さに主眼があるように感じられます。「20.信仰の三日月(幸盛)」と同列かもしれません。また、「65.南海月」の水月観音や「78.千代能かいたゝく桶の…」の桶に映る月影と共通する、悟りの機縁をなす月という思想がそこには見付けられます。なお、荒木又右衛門は、初め胤栄の弟子になりますが、後に柳生十兵衛が槍術を圧倒するのを見て、柳生(新陰流)に入門します。したがって、宝蔵院や胤栄の話は、荒木、柳生などの資料に登場しているのです。『伊賀越仇討』で高名を馳せる荒木又右衛門の背景に、宝蔵院主胤栄の槍術があって、それは月の不思議から生まれたという話題構成でしょうか。

Ehonryukobidan

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