狂歌入り東海道に聞く!

 『狂歌入り東海道』の絵を見ていて強く思うことがあります。それは、東海道が日本橋から三条大橋まで続く一本の街道ではなく、川で分断し、追分で分岐するいくつもの脇街道を持つ大道であるということです。広重が、宿場それ自体よりは、橋梁、船渡し、徒歩渡し、そして何よりも、度々追分を制作の基点に置いていることからも十分に確認できます。実際、旅行者には名所風景よりも、それらの方が重要な情報だからです。したがって、たとえば、掛川宿の作品では、秋葉街道への追分の鳥居が絵の主題になっており、同時に、狂歌も秋葉街道を詠っているという訳です。

 ところが、四日市宿において、広重は伊勢街道の日永の追分(鳥居)を主題から外しています。江戸からお伊勢参りに向かう際、四日市宿がその拠点となることは誰しも知っていることとは言え、絵にしないで良い程の重要度なのでしょうか。そこでもう一度作品を見返してみると、三重川に架かる土橋の手前側に、柄杓を持つ抜参りの少年3人と、猿田彦(天狗)の面を背負う金比羅参り(代参)の男が橋を渡ろうとしているのに気付きます。実は、前掲『東海道中膝栗毛 五編上』(岩波文庫p36以下)に、追分の茶屋で弥次さんと金比羅参りの男が饅頭の賭け食いをする場面があって、結局は弥次さんは300文騙し取られるのですが、弥次さんは抜参りの少年達がその饅頭を男から貰って食べているのを見て、これも功徳だとして溜飲を下げ、伊勢へと向かうのです。これが日永の追分(鳥居)脇の茶屋でのことと分かれば、四日市の作品にも間違いなく、伊勢街道の追分情報が入っていると言うことができます。

 『狂歌入り東海道』の狂歌を見ていていくつかの事を学びました。たとえば、戸塚宿の狂歌では「とつかは」という言葉が、あわてて動作をする意味として地口に使われています。つまり、戸塚宿には元から何か慌ただしい雰囲気があるということです。これを念頭に置くと、保永堂版において侍が馬から飛び降りる様子が描写され、女一人旅が敢えて描き入れられている理由も、とつかはとする情景描写と読み解くことができます。また、袋井宿の狂歌から「袋井」の地口として、「ふく」(膨、吹、腹など)があることを知ります。とすると、保永堂版において竈(かまど)からもうもうと煙が上がっている情景も、風もしくは煙「吹く袋井」という地口をベースにした表現と読み解くことができます。

 『狂歌入り東海道』は、絵による意外にも正確な街道情報と、狂歌による地口・ユーモアの遊びの部分との組み合わせで構成されています。この後者の部分が『狂歌入り東海道』の特徴なのは言うまでもないのですが、重要なのは、その特徴を使って他の東海道シリーズを読み解くことができるという点です。これは、構想的性格が強い保永堂版を理解するにはかなり優れた視点です。ただし、本講座の中心的課題ではないので、いくつかの具体例を提示するに止めておきます。その余の議論については、国貞『東海道五十三次之内』(美人東海道)をも利用して、また機会を改め提言したいと考えています。

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〈56〉東海道大尾 京 内裏

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「おもひ立 さい先よしと いそ五十路 こえてみやこを けふみつの空 紅翠亭郡子」

 「内裏」とはありますが、御所門前を描く狂歌入り版です。やはり、中判揃物である、国貞『東海道五十三次之内』(美人東海道)にも56枚目に「京都ノ圖」があって、平板な狂歌入り版の様子がよく分かる作品となっています(下記図版参照)。石積みの上に屋根付きの土塀があり、一段奥まった門前に板塀があり、参内する人はこの板塀の両脇から入って行くのでしょう。門前の道路には、公家を駕籠で運ぶ行列が見え、その奥には被き姿の2人の女とお供を従える女将風な女が描かれています。束帯姿で笏を持つ2人の公家は、あるいは武士が御所に参内する正装なのかもしれません。武士と小姓が日傘を差し掛けています。江戸ではあまり見られない風俗として紹介されています。重要な点は、都には公家やその頂点をなす天皇が居り、武士階級の上に存在していることが暗示されていることです。同じことは、お伊勢参りによって、伊勢神宮に皇祖天照大神が坐すことを江戸庶民が自覚する点にも当てはまります。江戸時代末期、将軍家から天皇家への大政奉還が庶民に自然に受け入れられる下地も、ここにあります。

 狂歌は、「おもひ立 さい先よしと」、つまり、思い立ったが吉日と、いそいそと「五十路」(50の宿路)を越えて、ついに都に今日で(50と)3つ目の空を見るという内容です。「いそ五十路」でいそいそと五十路(いそじ)、「けふ」で今日と京、「みつ」で見つと3つをそれぞれ掛け、また、みやことけふ(京)の縁語を用い、十二分に言葉遊びを堪能するものとなっています。くわえて、50+3で、東海道五十三次を詠い込んでおり、狂歌の最後を飾るに相応しい秀歌で締めくくっています。都を象徴するような「紅」(赤)と「翠」(緑)を組合わせた狂歌師の名前も、粋な命名です。

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〈55〉東海道五拾三次 京 三条大橋ノ圖

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「鳴神の 音にきこえし 大橋は 雲の上ふむ こゝちこそすれ 鶴の屋松門」

 東海道の西の起点、鴨川に架かる三条大橋を正面から粟田口方向を見据える構図での作品です。近景の擬宝珠の並ぶ高欄の背後、中景には京都を代表する東山三十六峰が描かれ、右側中腹に清水寺の大屋根が確認できます。通例、画中に五重塔「八坂塔」が描かれることが多いのですが、狂歌入り版では見付けることができません。なお、広重『東海道風景図会』「京三條大橋」には、嵐雪の「蒲団着てねたるすがたや東山」という句が紹介されており、これが江戸っ子が思う東山を象徴しているのかもしれません。遠景には都の北東鬼門を守る、比叡山のイメージが写されています。三条大橋の三条が仏教用語「三乗」(声聞乗、縁覚乗、菩薩乗)に通じ、その橋が仏教の聖地比叡山(延暦寺)と一直線に繋がっている構成は、京都が仏都(浄土)であることを強く感じさせます。したがって、三条大橋を僧侶が渡ってくる姿も京都ならではの情景です。橋を渡る人々は、江戸日本橋と対比されており、柴や梯子を売る大原女、被き姿の女性達、茶筅売り、日傘を差す武家の一行などが行き交う様子があり、都の風俗を紹介する趣旨です。言うまでもなく、京都には多くの名所・見所がありますが、それらは、広重『京都名所之内』に譲ることとなります。

 狂歌は、「鳴神の音」(雷鳴)のように天下にその名を轟かせる三条「大橋」を渡るのは、まるで「雲の上」を歩むような「こゝち」(心地)がするという、高欄の三条大橋を詠ったものです。「雲」は「鳴神」の縁語ですが、「天」にも通じ、御所のある京都への憧れも隠されているのかもしれません。日本橋の狂歌「日本橋 たゞ一すぢに 都まで 遠くて近き はるがすみかな」を思い起こすと、日本橋では春霞に隠れていた都が、三条大橋ではついに雲の上から見通すことができるまで間近になった感激が伝わり、狂歌の呼応関係も読み取ることができます。前掲『東海道風景図会』の柳下亭種員の跋詞には、「日毎/\に京着(きょういり)の、旅人にぎはふ東山、兜軍記に由縁ある、清水寺や五條坂へも間近き三條大はしが、即ち巻の終にて」とあり、普通ならば、ここで東海道五十三次の揃物シリーズは終わるのですが、狂歌入り版は中判揃物なので、大判1枚で2丁摺るということから、次に紹介する「大尾」作品がさらに続き、56枚目での完結となります。

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〈54〉東海道五拾三次 大津

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「君が代の たからを積みて 門出の 仕合よしと いさむうしかひ 常磐園松成」

 琵琶湖の大津湊を描いていることは分かりますが、狂歌入り版が実景とするならば、いったいどこの場所でしょうか。ヒントは、画中右端に見切れる石場の常夜灯です。前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「大津」を参照すると、湖畔の膳所(ぜぜ)城(「城主本多下総守」)の西側に「ばせをつか」「義仲寺」があり、それを過ぎたところに「立ハ石場」とあります。湖側に「矢ばせより舟つき」とあり、この辺りを前景にして、中景に「大津町九十八丁」、遠景に「三井寺」のある比叡山と比良の山々を一望する視点構成と思われます。近景の茶屋と大津湊から堅田浦の遠望が、何か前掲「品川」にも似た雰囲気を醸し出しています。品川は旅の見送り・出迎えの宿場(湊)であり、また、大津も旅人との再会を祝う「酒迎(さかむか)え」の宿場(湊)として知られています。

 琵琶湖周辺には多くの名所がありますが、具体的情景は広重『近江八景之内』に譲ることとして、狂歌入り版は単純な湊の茶屋風景です。ここの茶屋では、おそらく、背景の堅田浦で獲れた「源五郎鮒」の鮓(すし)が名物として売られていたはずです。『東海道名所圖會 巻の一』(前掲『新訂東海道名所図会上』p155)に、「むかしより淡海の名産に、源五郎鮒というあり。これは佐々木家一国を領せし時、家来に錦織(にしごり)源五郎という者、漁者(ぎょしゃ)を司る」、「これによってその支配司を、魚の名に呼ぶならわしとはなりにけるとぞ聞こえし」とあります。なお、同図鑑にはこの辺りから「阪本道」、「三井寺道」があることが記されており、戦国時代の坂本城、比叡山焼き討ちが想起され、明智光秀の見ていた風景が思い浮かぶばかりです。

 狂歌入り版の場所から西方に進むと東海道は宿場内を左に折れ、上り坂となります。この情景を描いたのが、広重『木曽海道六拾九次之内』「大津」です。そして、その坂道を上り終わり、下った所にあったのが山城国に近い「走井」で、それを画題とするのが保永堂版副題「走井茶店」です。そこには、大津湊に集積された各地の物資が牛車で東海道を通って京都に運ばれる様子が描かれています。まるで狂歌は、この保永堂版を見て詠っているかのような内容です。この世の(大事な)宝物を積んで、牛飼いが「仕合」「吉」の腹掛けを牛に着け、勇んで「門出」(出発)する様子です。「仕合」「吉」「門出」はいずれも荷牛・馬の腹掛けに染め抜かれた文字で、縁起を担いで、荷物の安全到着を願ったものと考えられます。

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〈53〉東海道五拾三次 草津

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「たのしみの 日数かさねて 春雨に めぐむ草津の 旅の道芝 芝口屋丘住」

 草津宿の西にあった「矢倉」立場の風景で、有名な「うばもちや」「うばか餅」(姥が餅)の店の活況を描いています。作品の右側の軒先には、琵琶湖の矢橋(やばせ)湊へ至る矢橋街道との追分道標があるはずですが、大きな荷物を背負う馬と馬子が立っており、よく見えません。代わりに、「京橋仙女香」の看板が掛かっており、店とスポンサーの宣伝を優先させたことが分かります。他方、草津宿の東側には、東海道と中山道との追分の道標があって、こちらは、広重『木曽海道六十九次之内』「草津追分」の題材となっています。保永堂版は副題「名物立場」として、『東海道名所圖會 巻の二』の図版(前掲『新訂東海道名所図会上』p246~p247)を元絵としており、また狂歌入り版でも、視点を空中においてほぼ同様の店先風景を写しています。同名所図会、保永堂版(構想図)、狂歌入り版(実景図)のいずれもほとんど同じ定番の情景ですが、その理由は、姥が餅屋がいずれの作品においても、強力なスポンサーになっていると考えれば不思議ではありません。

 なお、荷を背負う馬の左側に、先導者と2人の瞽女が店から出てくる姿が描かれており、保永堂版「二川」の「名物かしは餅」を買い求める瞽女一行と同じ趣向と分かります。姥が餅については、近江源氏(六角氏)に連なる人物あるいは由緒ある家柄の幼児を、乳母が密かに養育するために売り出した餅に始まると言われています。前掲名所図会(p246)の図版には、「春風の吹くにつけてもあがれ/\ さたうをかけて姥がもちやくちや」とあるので、甘い餅であったと推測できます。ちなみに、室町時代後期の連歌師宗長が「武士(もののふ)のやばせの船は早くとも いそがば廻れ瀬田の長橋」と詠んだことから、「急がば回れ」という言葉が生まれたそうです。


 狂歌は、楽しい旅を重ね、春雨に芽吹く「草津」宿の草が旅の道案内(道芝)をしてくれるという程の意味で、春に絡めて「草津」の「草」と「道芝」の「芝」の縁語で遊んでいます。前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「草津」には、「湖水南北十九里東西八九里或は一里斗の所形琵琶に似たるゆゑびは湖といふなり」と記され、「矢橋」(矢橋の帰帆)、「のぢ」(野路の玉川)、「瀬田大橋」(瀬田の唐橋)など風光に優れる名所・歌枕の地が多く、確かに旅の道案内も必要でしょう。

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〈52〉東海道五拾三次 石部

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「都女の はらをかゝへて わらふめり はらみ村てふ こゝの名どころ 頭巾亭鈴掛」

 狂歌入り版の「水口」「石部」の両図は、保永堂版の「旅人留女」を描く「御油」、「旅舎招婦ノ圖」を描く「赤阪」に対応しているように感じられます。とすると、狂歌入り版「石部」において、近景の部屋で按摩に肩を揉ませ寛ぐ男の前で手を突く女は遊女(飯盛女)でしょうか。頭に多くの飾りを付け、大きな帯を締める姿は芸者風に見えます。若い女であることは確かです。左奥の部屋では、2人の男が内風呂を使っており、「火の用心」の注意書きが見えています。庭には梅と椿の花が咲いています。この季節ならば、本来は障子は閉められているはずですが、旅人達の様子を伝えるため、描法として開いています。

 「京発ち石部泊まり」という言葉があるように、京都を発った旅人の1泊目が石部宿であることから選ばれた画題と思われます。くわえて、この宿が、人形浄瑠璃・歌舞伎『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』(お半・長右衛門)や『恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)』(重の井の子別れ)などの舞台であったことから推測すると、近景の若い女と中年男との出会いの場面は、京都信濃屋の娘・お半と呉服商帯屋・長右衛門の見立てと読み解けます。『東海道名所圖會 巻の二』「目川」の図版(前掲『新訂東海道名所図会上』p253)を写す、保永堂版よりも構想的です。なお、お半と長右衛門はこの石部で同衾し、お半は妊娠して桂川での心中事件へと発展します。

 石部の西側、立場「梅の木」と「目川」の間に、「てはらみ」(手孕・手原)という地名があります(前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「石部」)。狂歌は、「はらをかゝへて」と「はらみ村」との地口を楽しみ、京都と石部を舞台としたお半・長右衛門を前提に、「都女」が「こゝの名どころ」(石部の名所)である「はらみ村」でお半が「孕む」のもむべなりと笑うだろうと詠んだのです。石部はらみ村に行けば、それは孕むでしょう(笑い)という訳です。

*「てはらみ」から「ほぶくろ」に向かう辺りで、近江富士「三上山見ゆる」となります(前掲図鑑参照)。

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〈51〉東海道五拾三次 水口

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「四つ五つ ふればあがると 子供等が みな口/\に いひてあそべり 梅花堂煉方」

 水口の旅籠街を描く作品で、箱根峠と並ぶ難路鈴鹿峠(雨の土山)を無事越えてきた安堵感を表現する1枚と思われます。絵に写された状況は、夕暮れ時の旅人と留女の賑やかな攻防戦で、旅人が旅籠の前を通り過ぎることは峠越えよりも難しそうです。水口には「水口石」(力石)という大石があって、「大井子」という怪力の女が動かしたという伝説があります(歌川国芳『東海道五十三對』「水口」参照)。これを踏まえると、留女が旅人を捕まえて旅籠に引き入れることは簡単なことです。水口の伝統芸(?)と言えましょう。画中左端に町役人が御用提灯を持つ姿があるのは、公用の客を迎える準備です。留女の動とは対照的な静を表しています。

 広重が旅籠や茶屋を大きく描く場合、大抵、仙女香(スポンサー)、版元、広重自身などの宣伝が入っています。本作品にも、左の2階屋には「歌川や」、右の旅籠には「さの屋」(佐野㐂)とあることに気付きます。もちろん、絵師と版元の宣伝であることは間違いありませんが、その宣伝の対象は狂歌入り版シリーズそのものです。箱根峠を越えて雪の三島から新シーズンが始まったように、鈴鹿峠を越えて水口の旅籠で一休みして、いよいよ最終シーズンに向かうという雰囲気を感じます。なお、水口から京都まであと1日程度の道程です。狂歌はこの事実を念頭に、東海道を双六に見立て、あと駒を4つ、5つ進めれば上がり、京都に到着すると双六に興ずる子供達がみな口々に言っているという分かりやすい内容です。「みな口」は「水口」の地口です。

 これに対して、保永堂版は副題「名物干瓢」として、水口城主加藤家が下野から持ち込んだ干瓢の製法を描いています。『東海道名所圖會 巻の二』(前掲『新訂東海道名所図会上』p271)には、「名物は葛籠(つづら)細工の店多し」、前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「水口」には、「きせる 藤こり どせう」、「しらきく 名酒」とあり、なぜ広重は干瓢を選んだのか不思議です。保永堂版は構想図という観点に立ち返れば、干瓢の細長い皮の連なりを東海道の宿場の繋がりと見立てているようにも感じます。とすると、綴ってきた東海道シリーズも、干瓢に掛けてもう少しで終わる(完)という感慨が伝わってきます。

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〈50〉東海道五拾三次 𡈽山 鈴鹿山之圖

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「急ぐとも 心してゆけ すべりなば あと戻りせん 雨の土山 柴の門茶女」

  保永堂版「𡈽山」は副題「春之雨」が示すように降雨の景色ですが、これについては、『鈴鹿馬子唄』の「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」を意識したものであると言われることが多いようです。この観点からすると、狂歌入り版には雨の土山とそうでない作品がありますが、雨の土山の方が自然であるということになりそうです。しかし、狂歌入り版には「鈴鹿山之圖」という書き入れがあることに注意しながら、もう一度、鈴鹿馬子唄を読み直してみると、坂(下)は晴れ、鈴鹿(峠)は曇り、(坂下に相対するあるいはかつての間・あいの宿)土山は雨と唄っているので、鈴鹿峠は曇りでよいと気付きます。つまり、鈴鹿峠では土山の雨を前提に雨具を身に付ける旅人の姿および曇天を表す墨色の一文字暈かしで十分であるという訳です。その場合、狂歌入り版・雨の土山は、保永堂版・雨の土山の人気に推された後摺りと見ることになりましょう。雨の土山の方が、確かに売れそうです。

 『東海道名所圖會 巻の二』(前掲『新訂東海道名所図会上』p288)によれば、沢村の立場入口が、「近勢(近江・伊勢)国堺」とあり、前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「坂下」には、坂下の西方に「上り坂八丁廿七曲」の急坂、「立バさは」、「いせ近江の界」があり、そこを過ぎると「かにか坂」の下り坂になるとあるので、狂歌入り版はこの国境辺りの様子と推測できます。茶色の合羽姿の2人は雨の土山からやって来た旅人、その後ろの青色の合羽と簔姿の旅人は雨の土山に向かう旅人と考えられます。茅(藁)葺きの屋根は、峠の茶屋でしょうか。前掲「阪之下」と同様、構図は西洋遠近法、タッチは漢画風「米点(べいてん)」(米法山水)を駆使した作品です。ちなみに、保永堂版は構想図なので、土山に雨が降るのは、画中に描かれている坂上田村麻呂を祀った田村神社の神威がなせる業と理解できます。前掲名所図会(p286~p287)の図版中に、鈴鹿の鬼退治に際し、「千の矢さきが雨となり 酒ともなりて鬼殺しなり」と書き入れられています。


 狂歌は、旅を急いでいても落ち着いて行こう、足が滑るならば後戻りしよう、雨の土山では、という旅の注意喚起となっています。箱根峠に匹敵する難路と言われる所以です。

*上記浮世絵画像は、上図が慶応大学メディアセンター、下図が国立国会図書館デジタルコレクションのものです。

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〈49〉東海道五拾三次 阪之下 筆捨山之圖

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「すゞか山 ふる双六は たび人の さきへ/\と いそぐ驛路 森風亭波都賀」

 「筆捨山之圖」という書き入れがあり、関から坂下に向かう途中にある筆捨山が画題であることが分かります。保永堂版は、『東海道名所圖會 巻の二』の図版(前掲『新訂東海道名所図会上』p298~p299)を写した感がありますが、狂歌入り版は、墨の点を打ち重ねる「米点(べいてん)」(米法山水)を使いながら、より簡略的に実景を表現しているということができます。同名所図会(p293)に、鈴鹿川は「幾瀬もあるゆえ八十瀬の名あり」と、また同名所図会(p295)に、筆捨山は「麓に八十瀬川を帯びて、山頭まで所々に巌あり。その間々(あいあい)みな古松にして、枝葉屈曲にして作り松のごとし。本名は岩根山という」と記されています。したがって画中に見える川は八十瀬川です。関から坂下に進むという視点では、関の西方に「大黒石・蛭子石・観音岩・女夫岩」や「転石」などの奇岩が続き、さらにその西側に筆捨山が見えることになります。

 室町時代後期、狩野派に新しい作風を完成した狩野元信が東国に下る途中、天候の激しい変化に山を描く筆を捨てたという故事から、筆捨山という名が付いたと言われています(前掲名所図会p295参照)。筆捨山の方を指差す俳諧(狂歌)師は、こんな故事を話しているのかもしれません。遠景に描かれているのが伊勢国と近江国との境界をなす鈴鹿山でしょうか。

 また坂下は絵だけでなく、鈴鹿川、鈴鹿山、鈴鹿の関などを題材として、多くの歌が詠まれている歌枕の地でもあります。たとえば、広重『東海道風景図会』「坂の下」には、藤原俊成(新勅撰)の和歌「降そめていく日(か)に成りぬすゝか川 八十瀬もしらぬ五月雨の頃」が掲載されています。注目点は、「降る(ふる)」と「鈴(すず)」という縁語関係です。狂歌入り版の狂歌にも、「すゞか山」と「ふる双六」という言葉があって、鈴を振るという縁語を用い、古代律令時代の旅の合図である駅鈴を想起させています。そして、最後の「駅路」に繋がるという訳です。つまり、鈴鹿山に至り、旅の駅鈴が促し、上がりを目指し賽子を振る双六遊びのように、旅人は駅路を先へ先へと急ぐという程の意味になります。実際、鈴鹿を越えれば近江国に入り、もう少しで、上がりの京都に至ります。

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〈48〉東海道五拾三次 関

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「くゞつめに 引とめられて 定宿の 言訳くらき 関の旅人 森の屋御影」

 保永堂版「關」が副題「本陣早立」なので、狂歌入り版も同様に本陣早立を描いていると見る解説も少なくないのですが、駕籠に同行する武士一行が一文字笠を脱いでいること、行列の先頭に立つ槍持ちと挟み箱担ぎが後ろに控えていることを勘案すると、駕籠が本陣に到着し、迎えの武士や宿役人が待ち受けている様子を描いているものと解されます。幔幕を広重を意味する「ヒ」と「ロ」を組み合わせた紋で飾るのは、保永堂版で広重の父の実家「田中」を意匠する紋を付けた仕掛けと同じユーモアです。

 関宿は、愛発(あらち)・不破とともに、古代3関の1つ鈴鹿の関の置かれた場所で、名前もそこに由来しています。また、宿場の東には伊勢街道との分岐があり、西には大和街道との分岐があって、それぞれ、東の追分、西の追分と呼ばれており、交通の要所に発展した宿場であることが重要です。それ故、繁栄する宿場を表現する観点から、保永堂版・狂歌入り版ともに宿場を代表する本陣を描いているのです。関宿では、川北本陣と伊東本陣が道を挟んで向かい合っており、保永堂版の方は川北本陣、とすると狂歌入り版は伊東本陣かと解説されることが多いのですが、広重の意図は、保永堂版で『東海道名所圖會』などを参考に構想した本陣を狂歌入り版で実景表現の本陣に描き直して、取材的根拠を事後的に補完するつもりであったのではと思われます(アリバイ作り説)。つまり、狂歌入り版が伊東本陣とは限りません。

 関には東西に追分があるだけでなく、隣の亀山が堅苦しい武家の城下町であったことから、宿場として相当の繁昌を見せ、「関は千軒、女郎屋は估券 女郎屋なくして関たたん」と歌われる程、多くの飯盛女がいました。「くゞつめ」(遊女)が目的で関を定宿とする旅人の後ろめたい気持ちを詠ったのが、本狂歌です。絵(武士)と狂歌(遊女)の見事な棲み分けです。

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