歌川(三代)豊国と歌川広重の関係
◇おわりに
『江戸名所百人美女』に寄せて、最後に(三代)豊国と広重の関係について触れ、そこから1つの問題提起をしたいと思います。
百人美女には、国貞時代および三代豊国時代の過去に版行した浮世絵作品と同じ構図の美人絵が何点も収録されています。本人自身の作品だけではなく、初代豊国作品と同じ構図のものも少なからずあります。たとえば、初代豊国『五人美女』(文政初・1818年頃)の9月のこま絵の1図と前掲69「吉徳稲荷」(安政5年2月改印)とはほぼ同じ構図です。また、同『五人美女』の正月のこま絵の1図と前掲98「今戸」(安政5年3月改印)とは、構図だけでなく、ともに版元が山本屋平吉という点でも同じです。一般的傾向として、過去作品の方が百人美女に比べ、丁寧に美人を描いているように見受けられます。この点を捉えて、晩年の美人絵は類型的であるという批判もありえますが、百人美女シリーズは、美女百人を描くことだけが目的なのではなくて、江戸の名所と美人の関係を読み解く判じ物として制作されているという視点で理解する必要があります。つまり、作品の趣向が違うということです。ともかく、歌川派の浮世絵が過去に出版・版行された作品を共有しながら、趣向を変えて、次の作品を生産していった過程を忘れてはなりません。
さて、三代豊国の百人美女は企画の趣旨から言って、広重の江戸百を強く意識しています。一例として、前掲66「御船蔵前」における美人の着物の裾模様を見てみましょう。広重の『大はしあたけの夕立』を受けて、逃げ惑う人々や犬などの様子が着物の裾に描かれています。広重作品の「(新)大はし」背後の「あたけ(安宅)」に「御船蔵前」があるからです。江戸百の代表作を百人美女がリスペクトしていることがよく判ります。もちろん、両絵師の間に良好な人間関係がなければなりませんが、そもそも江戸百と百人美女の版元等制作者側に共通の企画意図がなければ成立しない現象です。この両絵師の良好な人間関係とそれに係わる版元等制作者側の共同企画(共通の意図)という観点で、並行的に見直したい事象があります。すなわち、広重の保永堂版『東海道五拾三次』(保永堂版東海道)と国貞の『東海道五拾三次之内』(美人東海道)との関係です。従来、広重の保永堂版東海道の版行が先にあって、その人気に便乗する形で、後発の国貞が美人を描き加えて美人東海道が成立したと揶揄するような言われ方をします。しかしながら、両作品の絵師と版元等が相互依存的に両シリーズを版行する意図であったと見ることもできるのではないでしょうか。そのように仮定すると、保永堂版東海道に潜む謎のいくつかに答えを出すことができるという実益もあります。
具体的に言えば、保永堂版東海道における「雪の降らない蒲原の雪景色」の制作理由が推測可能なのです。蒲原は、『東海道名所図会』(寛政9年)に紹介される「六本松の故事」があって、奥州に向かう源義経を追う浄瑠璃姫が命を失くした宿場として知られています。牛の背に乗り峠越えをする垂髪(すいはつ)の浄瑠璃姫を国貞が先に想定し、その背景として奥州への旅あるいは命懸けの旅を表現するために、広重が副題「夜之雪」を構想したと考えると、大変辻褄が合います。国貞作品を成立させるために、広重作品がお膳立てをしたと理解するのです。
広重のこのような役割は、もちろん、広重の歌川派内での主流派ではない立場を反映したものですが、しかし、版元等が介在して出来上がった国貞と広重の良好な人間関係は、結果として優れた財産となり、歌川派共有の資産になってヒット作品を生み出していったものと思われます。その延長線上最後を飾るのが、広重・江戸百と三代豊国・百人美女なのです。それ故、本ブログが両絵師の作品をなるべく対照させながら考察した所以もここにあるという訳です。*歌川(香蝶楼)国貞『東海道五拾三次之内 蒲原圖』(佐野屋喜兵衛・中判錦絵)
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