歌川(三代)豊国と歌川広重の関係

◇おわりに

 『江戸名所百人美女』に寄せて、最後に(三代)豊国と広重の関係について触れ、そこから1つの問題提起をしたいと思います。

 百人美女には、国貞時代および三代豊国時代の過去に版行した浮世絵作品と同じ構図の美人絵が何点も収録されています。本人自身の作品だけではなく、初代豊国作品と同じ構図のものも少なからずあります。たとえば、初代豊国『五人美女』(文政初・1818年頃)の9月のこま絵の1図と前掲69「吉徳稲荷」(安政5年2月改印)とはほぼ同じ構図です。また、同『五人美女』の正月のこま絵の1図と前掲98「今戸」(安政5年3月改印)とは、構図だけでなく、ともに版元が山本屋平吉という点でも同じです。一般的傾向として、過去作品の方が百人美女に比べ、丁寧に美人を描いているように見受けられます。この点を捉えて、晩年の美人絵は類型的であるという批判もありえますが、百人美女シリーズは、美女百人を描くことだけが目的なのではなくて、江戸の名所と美人の関係を読み解く判じ物として制作されているという視点で理解する必要があります。つまり、作品の趣向が違うということです。ともかく、歌川派の浮世絵が過去に出版・版行された作品を共有しながら、趣向を変えて、次の作品を生産していった過程を忘れてはなりません。

 さて、三代豊国の百人美女は企画の趣旨から言って、広重の江戸百を強く意識しています。一例として、前掲66「御船蔵前」における美人の着物の裾模様を見てみましょう。広重の『大はしあたけの夕立』を受けて、逃げ惑う人々や犬などの様子が着物の裾に描かれています。広重作品の「(新)大はし」背後の「あたけ(安宅)」に「御船蔵前」があるからです。江戸百の代表作を百人美女がリスペクトしていることがよく判ります。もちろん、両絵師の間に良好な人間関係がなければなりませんが、そもそも江戸百と百人美女の版元等制作者側に共通の企画意図がなければ成立しない現象です。この両絵師の良好な人間関係とそれに係わる版元等制作者側の共同企画(共通の意図)という観点で、並行的に見直したい事象があります。すなわち、広重の保永堂版『東海道五拾三次』(保永堂版東海道)と国貞の『東海道五拾三次之内』(美人東海道)との関係です。従来、広重の保永堂版東海道の版行が先にあって、その人気に便乗する形で、後発の国貞が美人を描き加えて美人東海道が成立したと揶揄するような言われ方をします。しかしながら、両作品の絵師と版元等が相互依存的に両シリーズを版行する意図であったと見ることもできるのではないでしょうか。そのように仮定すると、保永堂版東海道に潜む謎のいくつかに答えを出すことができるという実益もあります。

 具体的に言えば、保永堂版東海道における「雪の降らない蒲原の雪景色」の制作理由が推測可能なのです。蒲原は、『東海道名所図会』(寛政9年)に紹介される「六本松の故事」があって、奥州に向かう源義経を追う浄瑠璃姫が命を失くした宿場として知られています。牛の背に乗り峠越えをする垂髪(すいはつ)の浄瑠璃姫を国貞が先に想定し、その背景として奥州への旅あるいは命懸けの旅を表現するために、広重が副題「夜之雪」を構想したと考えると、大変辻褄が合います。国貞作品を成立させるために、広重作品がお膳立てをしたと理解するのです。

 広重のこのような役割は、もちろん、広重の歌川派内での主流派ではない立場を反映したものですが、しかし、版元等が介在して出来上がった国貞と広重の良好な人間関係は、結果として優れた財産となり、歌川派共有の資産になってヒット作品を生み出していったものと思われます。その延長線上最後を飾るのが、広重・江戸百と三代豊国・百人美女なのです。それ故、本ブログが両絵師の作品をなるべく対照させながら考察した所以もここにあるという訳です。


Bijint_32kanbara*歌川(香蝶楼)国貞『東海道五拾三次之内 蒲原圖』(佐野屋喜兵衛・中判錦絵)

 

 

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100「内藤新宿」

上州屋金蔵  安政5年5月

資料  「内藤新宿千駄ヶ谷圖」  江戸百「四ッ谷内藤新宿」


9948 前掲93「しん宿」では、夕刻、行灯から離れる宿場女郎(飯盛女)の様子を描いていましたが、本作品では、どうやら昼間の情景のようです。しかも、美人は簪をたくさん挿しており、お職と呼ばれた売れっ子女郎のようです。『江戸名所図会3』(p309)の「内藤新宿」の解説を読むと、宿場は元禄の頃開設されましたが、一旦、享保の初めに廃止されたとあります。それが、明和9(1772)年に再興されて今日の繁栄に至ったそうです。なぜ再興された宿場経営が上手くいったのかは、幕府の宿場女郎に対する規制が緩められ、飯盛女の数が実質的に増えたこと等が理由であると推測できます。「四谷新宿馬糞の中で、あやめ咲くとはしをらしい」という唄が流行る所以です(三田村鳶魚『江戸の旧跡・江戸の災害 鳶魚江戸文庫21』中公文庫・1998、p205以下の「内藤新宿」参照)。

 こま絵には、内藤新宿の中町辺りでしょうか、桜と蔦の模様が付いた暖簾の掛かった2軒の旅籠らしき建物が描かれています。前景美人の着物には桜の柄、枕には蔦の紋が入っているので、いずれか(あるいは両方)の旅籠が飯盛女を置いた事実上の遊女見世であったことになります。2枚敷きの布団と美人という組み合わせが同じである前掲24「新吉原満花」と見比べると、格式は大きく落ちますが、複数の客の相手をする「廻し」の情景を描いていることが判ります。内藤新宿の方は昼間であるので、さらに休憩客を何人も取っているのではないかと想像できます。山田(前掲書p117)は、根拠は不明ですが、「中町にあった浅葉屋という見世の遊女」と説明し、本作品を見世の宣伝と捉えているようです。しかし、この結論には、何か読み込みが足りないような気がします。

 三田村『江戸の旧跡・江戸の災害』(前掲書p216~p217)には、内藤新宿で幕末に最もはやった女郎屋に「豊倉」というのがあり、この豊倉の「お倉」こそが、新宿での「全盛の女」と言われたとあります。そして、上手に客を取り回すので、落語「七人回し」に仕立てられたそうです。さらに、この落語が歌舞伎に取り入れられ、嘉永5(1852)年3月、市村座上演の『重褄閨の小夜衣(かさねづまねやのさよぎぬ)』の芝居へと発展します。いわゆる「白糸主水」の心中物で、坂東しうかが白糸を演じています。概要は、2児を置き去りにし家の崩壊も省みず、宿場女郎と心中を遂げる武士鈴木主水の話です。妻お安が白糸に縁切りを頼む場面に使われた清元は、常磐津に改調されて現存しています。なによりも、内藤新宿を舞台化したところに新鮮味があり、好評を博しました。

 江戸庶民に評判になったということは重要です。なぜなら、その評判を浮世絵に取り込み、本作品の美人は、まさに坂東しうか演ずる「七人回し」の白糸をモデルに制作されていると考えられるからです。よく観察すれば、美人の顔は、しうかの似顔絵で女形風です。また、多くの客を取り回す白糸がモデルならば、本作品が宿場女郎の「廻し」を描いているのも十分納得できます。芝居を念頭に置けば、画中、美人は相手役の主水と何か話しているのかもしれないとも想像できます。

 ちなみに、本作品は百人美女の100枚目かもしれません。広重の「四ッ谷内藤新宿」が「尻の1枚」(シリーズ100枚目)であるとするならば、それに対応する本作品も尻の1枚と考えるのが自然だからです。百人美女シリーズが完成する安政5年5月になって、再び「内藤新宿」が選ばれたのは、広重・江戸百の100枚目が内藤新宿で終わっているからであり、それは、三代豊国・百人美女の広重・江戸百に対するリスペクトからきているものと思われます。もしそうでないとすると、前掲99「御殿山」が最後を飾るということになります。その場合には、三代豊国が考案し、大流行をもたらした源氏絵の中の代表的構図でシリーズを締めようとしたという考えに至ります。ただし、この場に及んで、なぜ「内藤新宿」が百人美女に実質2度目の登場となったかがうまく説明できなくなります。そもそも、三代豊国・百人美女が広重・江戸百の100枚目達成に合わせて版行されていることが出発点です。

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99「御殿山」

上州屋金蔵  安政5年5月

資料  「芝三田二本髙輪邉繪圖」  江戸百「品川御殿やま」


10056 「御殿山」は、『江戸名所図会2』(p35)には、「慶長・元和の間、このところに省耕の御殿ありしゆゑに、御殿山の号あり」と記され、太田道灌の父「道真居住の旧址」とあります。その後、「寛文の頃、和州吉野山の桜の苗を植ゑさせたまひ、春時爛熳として、もつとも荘観たり」というように、桜の名所となりました。徳川家光も御殿に立ち寄った旨の記述があります。なお、『定本武江年表上』(p230)の「元禄十五年」 の項には、「品川御殿焼亡」(品川御殿、御再建なし)とあります。切絵図には、「櫻ノ名所ナリ」と記載されているのですが、本作品制作当時、江戸百に描かれているように、品川沖に御台場を築くために大きく削り取られてしまいました。こま絵は、同江戸名所図会掲載図版「御殿山看花」(p38~p39)をトリミングした情景で、近景に桜と花見客、遠景に品川沖の帆船を描いています。つまり、実景としてではなく、前景美人を読み解くヒントとして掲載されていると見るべきでしょう。

 安政5年3月、5月の作品は、シリーズの締め括りを考えて、比較的庶民の気を引くような美人絵が多いのですが、本作品も上半身裸の構図です。紅葉袋(糠袋)を使って、金盥の湯で、首、襟足、背中を拭い、白粉やその他の化粧を準備する様子です。美人の背後に鏡と化粧台が置いてあります。つぶし島田に髪を結い、新藁を束ねて手絡代わりに使っています。新藁の使用は女性特有の病気が治るという慣習によるものなのかもしれませんが(山田・前掲書p133)、湿った髪に元結を結ぶと元結の糊が付いてしまうので、何本か束ねた新藁を使うという実用性でもありましょう。こま絵との関連を考えれば、化粧をして御殿山の花見に出かける様子であり、品川も近いので、品川の芸者筋の美人という理解も1つあります。

 ところで、本作品には構図的に非常に近い先行作品があります。能の演目『草紙洗小町』に見立てた作品です。大伴黒主が書き加えた草紙を洗うと、墨が流れ去って小野小町の歌だけが残り、小町の盗作疑惑が晴れるという筋立てです。本作品の美人を見ても判る通り、「洗う」という所作のみが共通で、かなりこじつけ気味の見立てです。しかしながら、本作品も小野小町見立てであるという可能性が出てきます。シリーズ最終盤に、美人の代表として小町を持ってきたという理解です。

 ただし、『草紙洗小町』作品には、さらに元絵とも言うべき作品があります。柳亭種彦『偐紫田舎源氏』(12編)に、旧暦4月の賀茂(葵)祭に光氏が行列参加し、正妻二葉の上もお付きの女どもに勧められて出かけるという場面があり、そこに挿入された国貞の源氏絵がそれです。つまり、本作品は、室町時代を舞台とする足利将軍家の雅な生活を描く源氏絵からの転用という理解です。

 さて、こま絵が御殿山を描いているという原点に立ち返るならば、前景美人は、奥御殿の化粧風景を描写する源氏絵に見立てられていると考えるのが最も自然です。すでに版行が許されている源氏絵風の美人という形式をとって、美人の上半身裸の姿を描き加えたということです。もし本作品がシリーズ最後を飾るものならば、三代豊国の源氏絵の代表作で締めるという構成意図となります。ただし、当ブログは別の考えを持っています。

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98「今戸」

山本屋平吉  安政5年3月

資料  「今戸輪淺繪圖」  江戸百「真乳山山谷堀夜景」


9873 切絵図で確認すると、日本堤に沿って流れる山谷堀が隅田川に合流する所に架かる橋が「今戸バシ」で、その北方向に広がる地が「今戸」と判ります。『江戸名所図会5』図版「山谷堀 今戸橋 慶養寺」(p430~431)には、船宿が描かれています。これは、隅田川を利用して新吉原に向かう場合、今戸橋で降りて、日本堤を歩くことになるので、その中継点として今戸橋の両岸には船宿や料亭が発達したからです。こま絵の風景は、まさに今戸橋とその背後の真乳山を望む構図で、前景に屋根船と猪牙舟が浮かんでいます。

 原点に戻って考えると、三代豊国の百人美女は広重の江戸百を深く意識して制作されています。そこで、上記江戸百作品と比較対照すると、百人美女のこま絵と江戸百の背景とは、昼と夜の違いはありますが、同じであることが判ります。そして、江戸百には、謎の美人(?)が隅田川の東岸を歩く姿がリアルに描かれています。この美人と百人美女の女性との間には、何か繋がりがあるのでしょうか。なお、江戸百の美人については安政地震で潰れた料亭「玉庄」(金波楼)の跡地に「有明楼(ゆうめいろう)」を興し、山谷堀の経済復興に大いに貢献した、(元)堀の芸者「お菊」ではないかと推理されています(原信田・前掲『謎解き 広重「江戸百」』p124以下参照)。したがって、本作品の美人がこの有明楼の女将・お菊かどうかを、以下、探ってみます。

 黒襟の縞柄の着物を着る美人は、真っ赤に熾きた炭を火箸で摘まんで、火鉢から櫓炬燵に移しています。かなり行儀の悪い格好で、足を広げています。帯を解き、伊達締めだけで、懐紙も脇に置いてかなりくつろいだ姿です。湯呑茶碗も普段遣いのもののようです。既婚女性に多いおばこを結っており(前掲36「今戸」参照)、芸者上がりの女将の部屋のようです。雰囲気は、江戸百のお菊に似ていますが、美人女将に描かれているので(?)、これだけでは同一人物かどうか確信が持てません。しかしながら、櫓炬燵の掛け布団には菊の花柄が入っているので、間違いなく、お菊と思われます。つまり、広重の素っ気もないお菊の姿を、三代豊国は、鉄火風に、生活感ある女将姿に描き変えて対抗したということです。芸者ならばもう少し粋に描いたかもしれませんが、有明楼の女将ならば男気を強調した方がある意味自然です。今戸復興の功労者を顕彰する作品と考えられます。なお、前掲36「今戸」も(元)堀の芸者と見るべきでしょう。

 実は、本作品の構図は、同じ版元山本屋平吉から版行された、初代豊国『五人美女』の1枚とほぼ同じです。髪型も同様です。ただし、右足の露出度は初代豊国の方が多く、より色気が強調されています。もちろん、時代が違うので、お菊を描いたものではありませんが…。ともかく、歌川派の浮世絵が過去に出版・版行された作品を共有しながら、次の作品を生産していった過程がよく判ります。ちなみに、前掲69「吉徳稲荷」と同じ構図の作品も、初代豊国『五人美女』の中にあります。

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97「上野山下」

山口屋藤兵衛  安政5年3月

資料  「東都下谷繪圖」  江戸百「上野山した」


9765 「上野山下」とは、広くは上野の山(東叡山)の東麓一帯の呼称です。そこには、延焼を防ぐために広小路が設けられ、火除け地となっていました。切絵図を見ると、「下谷廣小路」、「三橋」、「山下ト云」とあり、狭くはこの「山下ト云」という所が「上野山下」に当たります。上野山下を通って北に進み、金杉を経て千住大橋へと至る道は、奥州街道(日光街道)の裏道として利用されていました。火除け地であった広小路には、両国広小路と同様、水茶屋や料理茶屋の他、葦簾張りの見世物小屋、楊弓場などが許されており、遊興の地として大きな賑わいを見せていました(『江戸名所図会5』掲載図版「山下」p332~p334参照)。こま絵には、提灯を吊るした2階建の料理茶屋とやはり提灯を吊るした葦簾張りの水茶屋が2つ描かれています。背後に桜ヶ岡の桜が見えているので、春の花見の繁忙期の頃の料理茶屋などを宣伝する趣旨と判ります。

 前景の美人は、小紋の着物の裏地と中着が同じ市松模様で、赤い襦袢を大胆に覗かせ、大人の色気を感じさせています。髪は島田くずし(しの字髷)を結っており、上野山下の料理屋に出入りする芸者であろうと想像されます。背後に帯が置かれているところを見ると、着替えている最中です。ところが、その美人の視線は着物の鶴の裾模様に向けられています。本作品の面白さは、この美人の視線の意味を理解するところにあります。

 上野は古くは「烏穢野(うえの)」と書いて、松や杉が茂って人跡が絶えたところで、飛ぶ鳥の糞ばかりであったと言われていました(山田・前掲書p152)。ただし、江戸時代には、江戸城鬼門を守る寛永寺の聖地となったので、幕府を忖度し、文献に烏穢野と記すものを見つけることは困難です。しかし、不忍の池と木々に覆われた上野の山の環境を考えれば、このことは十分に納得できます。なによりも、江戸百を見れば、空に多くの鳥が飛ぶ様が描かれているのです。したがって、上野山下が糞害の地であったとすれば、本作品は、歩いて料理茶屋にやってきた美人がその着物に糞が付いていないか、裾が汚れていないか気にしている様子を描くものと判ります。諧謔性の強い作品です。また、同江戸百には、蛇の目傘をさして上野の山へ花見に向かう一行が描かれています。確かに粋な姿ではありますが、その実質は糞害から髪や着物を守るための工夫であったのかもしれません。さらに、江戸百の別作品『下谷広小路』にも、上野の山へ花見に向かう一行が傘をさしている様子が描かれています。これにも同様の理解が可能です。本作品の美人の仕草には、江戸庶民の上野の山への本心が隠されているのかもしれません。

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96「今川はし」

丸屋久四郎  安政5年3月

資料  「日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖」  江戸百に対応図版なし


9655 『江戸名所図絵1』(p91)は、「今川はし」について、「本銀町の大通りより元乗物町へ渡る橋をいふ。この堀を神田堀と号く。元禄四年辛(かのと)未掘り割りたりとぞ。その頃この地の里正(なぬし)を今川某といひければ、すぐに橋の号に呼びけるといふ。いま、この橋詰の左右に陶器鄽(せとものだな)あり」と記しています。掲載図版「今川橋」(同書p92~p93)を見ると、今川橋周辺に多くの陶器店が商いをしている様子が描かれています。切絵図には「今川橋跡」とあって、堀のほとんどが埋め立てられ、町家になっていることが判ります。こま絵に目を転じると、橋の南西側に渦巻き状の標看板を掛ける店舗が描かれています。この商標は「水飴屋」を表すもので、当時、神田今川南橋詰から本銀町(ほんしろがねちょう)通りに、「長井小右衛門」の水飴屋があったことが知られています。文化文政期の、今川橋から日本橋までの大通りを俯瞰描写した『熈代勝覧』(小学館・2006、p107)にも発見されます。本作品は、この水飴屋を宣伝する趣旨であるということです。

 そもそも、水飴は、米や粟(あわ)を原料として、澱粉質を麦もやしなどに含まれる酵素で糖化して造る甘味料で、砂糖は使いません。『古今名物御前菓子秘伝抄』(享保3・1718年)によれば、水飴の作り方は、もち米の上白米1升を炊き、麦のもやし5勺(約90ml)を細かくして一緒に桶に入れて混ぜ、水をひたひたに加えて10時間ほど置き、それを布袋に入れて漉し、鍋に入れて加熱して練り詰めるとあります。この練る様が、渦巻きもしくは同心円の暖簾や看板となったものと思われます。前掲45「堀の内祖師堂」で「粟の水あめ」が土産として売られていましたが、お百度を踏む様子が飴を練る工程の渦巻き・同心円と似ているという判じ物と理解されます。

 さて、美人は、お湯を張った金盥で髪を洗っています。傍らには、糠袋、櫛、櫛払い、手拭いが用意されています。算木の亀甲繋ぎの着物に麻の葉模様の絞りの帯を締めていますが、上半身は濡れないように裸のまま髪を洗っています。確かに色っぽい仕草であり、シリーズ中に1枚欲しい作品であることは理解できます。しかし、髪を洗う美人の仕草と化粧品や洗髪用品ならばともかく、水飴屋の宣伝とどう結びつけたら良いのでしょうか。前述したように、飴を練る工程と髪を洗う様子が似ているという視点で想像してみます。実は、水飴をさらに練り詰めたものを固飴と呼び、その固飴が温かく柔らかいうちに、何度も引き伸ばして空気を含ませていると白い飴ができます。この飴を牽引する行為と、湯で濡らした髪に櫛を入れて引っ張る様子が似ているので、水飴屋の宣伝に洗髪する美人が挿入されていると読み解けます。たぶん、長井小右衛門の水飴屋は、手間のかかる白飴を販売していたのではないでしょうか。

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95「薬げんぼり」

藤岡屋慶次郎  安政5年3月

資料  「日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖」  江戸百「両ごく回向院元柳橋」


9553 切絵図を見ると、「薬研堀」は両国橋の南、隅田川の西岸、「元柳橋」が架かった地にあり、「両國廣小路」に接しています。また、「薬研堀埋立地」という場所があって、元はもっと大きな堀であったことが確認できます。薬研堀の名は、漢方薬などを造る際、薬種を細粉に挽く器具である「薬研」に形が似ていることに由来し、薬研堀埋立地および米沢町には、実際、秘薬の販売元として有名な「四ツ谷忠兵衛」などの薬屋・薬問屋がありました(『江戸買物獨案内』参照)。両国広小路に繋がるので、周囲は「東都第一の繁華にして観場(みせもの)、芝居、辻講釈、或いは納涼花火の景眺、夜の遊興絶え間なし」(広重『絵本江戸土産1編』「両国橋」)です。また、同『絵本江戸土産6編』「向両國茶屋元柳橋濱町」には、「両国橋より南の方の小川に架(わた)すを元柳橋といふ。その川下を間部河岸と唱えて四季ともに月夜の勝景、いと閑静にして意気揚々たるのながめあり」とあり、さらに江戸百によれば、富士の遠景も望めます。殷賑を極める中にも、風光明媚な環境にあったということです。なお、寛政の3美人の1人、高島おひさは薬研堀の茶屋娘です。

 こま絵には2階屋が描かれ、1階には柳の枝模様の暖簾が掛けられた入口があって、2階の軒下には「やなきゆ」(柳湯)と書かれた提灯がぶら下がっています。つまり、こま絵は「湯屋」です。こま絵が店等の宣伝となっている場合、前景美人はそれに関連して同じく宣伝となるような仕草をし、あまり判じ絵的要素がないのが本シリーズの特徴です。風呂上がりに、番台に手を掛け、浴衣を羽織って、濡れた足を手拭いで拭いている様子です。着物の裾部分から、赤い湯文字(腰巻)がチラリと覗いていますし(前掲39「木場」参照)、藍染の着物の間から体の一部も白く見えているようです。口に咥えた糠袋も、さらに湯上り美人の色香を漂わせる術です。風呂敷の上に置いてある縞柄の着物と襦袢は着替えというわけです。風呂屋で敷くから、まさに風呂敷です。これらを見張るのが番台仕事の1つなのですが、実際には、盗られることもあり、それを「板の間稼ぎ」と呼びます。

 江戸の湯屋には2階があり、男湯の客については、入浴後そこで休息しながら談笑や囲碁将棋などを楽しみました。また、小窓などから女湯が覗ける設備がある湯屋もありました(堀口茉純『江戸はスゴイ』PHP新書・2016、p109以下参照)。こま絵の湯屋の2階には男達がおり、そこから覗いて見える情景が1階の美人の湯上がり姿ということでしょうか。そんな男達の視線を浴衣の蛸が絡め取るということで、この大蛸は美人の守り本尊です。両国広小路に近い薬研堀の環境を考えると、芸者筋かもしれませんし(前掲52「花川戸」の芸者・湯上がりお俊)、浴衣の蛸模様は海の仕事を暗示するので、海鮮・活作りの料理屋関係者かもしれません(前掲35「日本はし」の蛸料理)。

 1つ疑問なのは、湯女(ゆな)もいなくなってしまったこの時代、湯屋をこま絵で宣伝する必要があるのかという点です。こま絵が特定の湯屋の宣伝ではない場合を考えてみると、たとえば、「薬研」→「矢弦」≒「弓(射る)」→「湯(入る)」という地口が先にあって、こま絵に湯屋を、前景に湯上がり美人を描く判じ物という可能性が浮かび上がってきます(前掲34「かやば町」の夕薬師)。このような手間を取るのは、シリーズ終盤の営業政策として、蛸が美人に絡みつく艶っぽい構図をどうしても1枚入れたかったからです。葛飾北斎の文政期(1820年代)頃の艶本『喜能会之故真通』(きのえのこまつ)の「蛸と海女」という北斎春画を、三代豊国が幕府の許可の範囲(「あぶな絵」)内に収めると本作品のようになるという発想です。美人が足を拭く手拭いに「彫巳」という文字があり、本作品は、彫の名手彫巳の特別作品であることが判ります。浴衣の海の泡を担当したのではないかと推測されるのですが、これは浴衣の蛸が単なる柄ではないことの証拠かと思われます。ちなみに、浴衣に傘(雨)が絡んだ作品として、前掲27「新はし」、前掲63「神樂坂」などがありますが、本作品とは違って、岡場所を感じさせる雰囲気です。

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94「千住」

丸屋久四郎  安政5年3月

資料  「根岸谷中日里豊島圖」  江戸百「千住の大はし」


9449 「千住」に関して、『江戸名所図会5』(p366)は、荒川に架かる「千住の大橋」の項で、「奥州海道の咽喉なり。橋上の人馬は絡繹として間断なし。橋の北一、二町を経て駅舎あり」と触れる程度です。広重『絵本江戸土産6編』には、やはり、「千住川大橋」として、「日光街道の出口にして隅田川の川上なり。奥羽及び常陸下野みなこの所より行くによりて宿の賑い品川に次ぐ」とあって、日光街道、奥州海道、水戸街道の起点として非常に盛況な宿場であったことが理解できます。重要なことは、千住は、品川、内藤新宿、板橋と並んで、街道起点の四宿として、旅籠に「飯盛女」という形で事実上の遊女を置くことが黙認されていたということです。こま絵を見ると、木戸の後ろに宿場建物が並ぶ様子が描かれており、その意味するところは、宿場それ自体に重点があるということです。なお、背後の山は、南側からの遠望で地理的には日光方向ですが、おそらくイメージとしては、双耳峰の筑波山かもしれません。

 本作品の美人は、前掲93「しん宿」と同様、宿場の女という観点で考えれば、飯盛女、つまり、宿場女郎と読み解けます。潰し島田に一本刺しの笄で、縞柄の夜着の帯を解き、御簾紙を持って行灯の火を落としています。足元に煙草盆と煙管などが置いてあるので、客が居ることが判ります。前掲93「しん宿」と対比すると、これからお勤めが始まるという姿です。行灯も煙草盆も簡素な造りで、まして楊枝を咥えている姿は、場末感を醸し出しています。前掲37「王子稲荷」や前掲83「栁島」など、楊枝を咥える仕草は、人を化かす女狐あるいは毒婦という印象があります。本作品もそんな場末の美人なのでしょうか。

 同江戸名所図会掲載図版「千住川」(p368~p369)を参照すると、橋を渡る手前東(右)側に、「山王」の祠が描かれています。荒川区教育委員会の境内前案内板には、「日枝神社は、江戸時代山王社とよばれた旧中村町(千住宿)の鎮守であり、正和5年(1316)に建てられたと伝える。この社の入り口にあたる旧砂尾堤土手北端に歯神清兵衛を祀った小祠がある。いずれかの藩士清兵衛が虫歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹し、遺言によってその霊を祀ったという。俗に山王清兵衛とよばれ、歯痛に悩む者が祈願して効き目があれば、錨をくわえた女性の絵馬を奉納する慣わしで、千住の歯神として有名であった」と記されています。勤めを果たせない程虫歯が痛く、結果として切腹に至ったということでしょう。他に、川田壽『続江戸名所図会を読む』「千住川」(東京堂出版・1993、p261)参照。

 千住の宿場に向かうには、橋の手前(下流側)に山王清兵衛稲荷を見ながら進むことを考えれば、楊枝を咥えた美人は、千住の歯神に奉納された絵馬の錨を咥えた美人を写したものであると想像できます。酉の市に行くということが新吉原で遊ぶことの言い訳であったのと同様、千住の歯神に詣ることが、千住の宿場女郎(飯盛女)と安く遊ぶことの言い訳であったのかもしれません。いずれにせよ、前景は千住の歯神に奉納された絵馬仕立てになっています。なお、錨を咥えた美人は、船を止める錨に掛けて、虫歯の痛みが「止まる」という意味です(前掲39「木場」参照)。

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93「しん宿」

山本屋平吉  安政5年3月

資料  「内藤新宿千駄ヶ谷圖」  江戸百「四ッ谷内藤新宿」


9347 「しん宿」のこま絵は、石垣や榜示杭など、宿場の鼻(端)の典型的風景で、かつての四谷大木戸跡を写しています。四谷大木戸跡は、前掲86「四ツ谷」でもすでに紹介されていますが、本作品の内藤新宿では、視線を逆にとって、江戸城を背後に玉川上水の水番所辺りの森と宿場建物の屋根を描いています。すやり霞に隠れた部分に内藤駿河守の屋敷があるものと思われます。こま絵の視線から考えて、内藤新宿の宿場が前景美人を読み解くヒントになっているはずです。

 『江戸名所図会3』(p309)には、「内藤新宿」は、「甲州街道の官駅なり(この地は、旧へ内藤家の第宅(ていたく)の地なりしが、後町屋となる、ゆゑに名とす)。日本橋より高井戸までの行程、およそ四里あまりにして、人馬ともに労す。よつて元禄の頃、この地の土人官府に訴へて、新たに駅舎を取り立つる、ゆゑに新宿の名あり」とあります。また、甲州街道と青梅街道との追分にも当たります。舟運に適した川が近在しないので、荷物を馬で運ぶことになり、それ故、江戸百作品のように、内藤新宿の図絵や浮世絵は行き来する馬(馬糞)と馬子を描くことになります。

 同江戸名所図会掲載図版「四谷内藤新驛」(p312~p313)が当該宿場の一端を特徴的に描いています。すなわち、左手の店「和國屋」に、宿場女郎達の立ち姿が見えている点です。本来ならば、公許の新吉原以外の場所では遊里はあってはいけないはずですが、五街道の江戸の玄関口に当たる宿場町、品川、千住、板橋、内藤新宿については、「飯盛女」という形式で遊里化が黙認されていました。1旅籠2名などという規制はあるとはいえ、寺社仏閣の参道などにできた非公認の「岡場所」とは違います。内藤新宿のこのような宿場の特性を考慮すれば、前景美人の読み解きは容易です。いわゆる、宿場女郎(飯盛女)というわけです。江戸に近い内藤新宿に宿泊するということはほとんどないので、この宿場女郎目当ての休憩客が自然と多くなり、まさに、「(馬)糞の中に咲いた花」という状況になります。行灯の下に2つの湯呑があるので、客がいることを暗示しています。御簾紙を咥えて、縞模様の着物に帯をしない様は、一仕事終わって、次の客間に向かおうとしているのでしょうか。なにぶん新吉原と違って、料金が安い分多くの客を取らなければならず、いわゆる「廻し」の状態が普通なので仕方ありません。

 前掲25「品川歩行新宿」に比べ、遊女の簪の数や屏風等の道具類がない点で、本作品の方が質素な感じがします。他方、後掲94「千住」程の場末感はないように見えます。さらに、前掲73「三田聖坂」の三角(岡場所)では遊女は魚籃観音に見立てられていますが、仇な美人として描かれ、それぞれに微妙な違いが読み取れます。

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92「よし原」

山本屋平吉  安政5年3月

資料  「今戸輪淺繪圖」  江戸百「廓中東雲」


9242 「よし原」(新吉原)の歴史については、前掲24「新吉原満花」を参照して下さい。前掲作品では、こま絵に新吉原大門を描き、前景美人が慌てて布団から出て、御簾紙を口に咥え、上着を羽織り、帯端を持って、次の客の間に向かう、「廻し」の様子が描かれています。これは、着物の「対膨ら雀」の紋と、編笠を被った雀と長提灯を咥えた雀が向かい合う裾模様から、新吉原大門前で、2人の客が1人の遊女を取り合う歌舞伎の「鞘当」の場面に擬えた構想であることが判ります(前掲68「浅草田町」参照)。複数の客を次々に回して行くという意味で、まさに「新吉原満花」の繁盛を示している状況です。再び採り上げられた新吉原では、何が主題となるのでしょうか。

 本作品のこま絵は、前作品とは視点を反対に取って、仲の町の桜並木側から大門方向を描き、薄暗い夜空に「門」と書かれた青い旗が見えていますが、これは門番所の在り処を示しています。前景美人は、蔓木瓜(つるもっこう)模様の中着を着た禿に髪を梳いてもらっています。その美人の赤い絞りの中着は、縁を源氏香模様の別布で囲まれた額縁仕立てで、2人とも普段着姿と想像されます。禿が付いているので、この美人は花魁級の遊女と思われます。後朝(きぬぎぬ)の別れの後、二度寝をした遊女達は、朝風呂、朝食を済ませ、重要な営業行為である客への手紙を書いたり、つかの間の自由時間を過ごします。その後は、文使いや髪結いなどの人々が遊女の元にやってくることになります。ちょうど、そんな時間帯の様子を描いているのが本作品で、馴染み客への文を読み返しているようです。本作品の花魁は、左膝で文を押さえ、横着をして左手だけでいらない部分をちぎったようです。

 さて、新吉原の三大年中行事と言えば、3月の桜、7月の玉菊燈籠、8月の俄となります。こま絵はその3月の桜を描いていますから、遊女達は営業に大忙しという訳です。また、この時期に、「紋日」という特別営業日が重なると、揚げ代が高騰し、遊女達の負担はかなり重くなります。なぜならば、遊女達の衣装・髪代や座敷の調度品、布団などの諸経費は自分持ちですし、紋日などに遊女が客を取れない場合、所定の揚げ代は自腹となる特別ルールがあったからです(堀口茉純『吉原はスゴイ』PHP新書・2018、p138以下参照)。となれば、行事中の紋日は、遊女はあらゆる手練手管を使って馴染の予約を取り付けなければなりません。その重要なツールが文という訳で、本作品の前景美人の仕草が生まれたということです。「手紙が受け取ってもらえず」という理解(山田・前掲書p105)とは異なって、朱縁の巻紙を出す準備をする、美人の真剣な眼差しを表現していると解釈します。

 しかしながら、三代豊国がこの程度の趣向で満足するとは思えません。美人と文(巻紙)との組み合わせは、たとえば、前掲58「新大はし」などを参照すると、『勧進帳』の「安宅の関」に見立てられることがあります。同じ視点で本作品を見ると、こま絵にあえて門番所の旗が描かれ、美人が真剣に文を読む姿は、明らかに安宅の関を越えるため、一心に勧進帳を読む弁慶と看做すことができ、髪を梳く禿は、その意味が、本来、肩までで切りそろえ垂らした稚児の髪型と判れば、「安宅の関」に登場する源義経と看做すことができるのです。つまり、本作品は、禿と遊女を義経と弁慶主従に見立てた作品と結論づけられます。

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