アンドレアス・マークス『木曽海道六拾九次』

  Andreas Marks: Hiroshige & Eisen: The Sixty-Nine Stations Along the Kisokaido / Die neunundsechzig Sationen des Kisokaido / Les soixante-neuf stations de la route Kissokaido, Taschen, Koln, 2017

 上記の、アンドレアス・マークス『木曽海道六拾九次』を浮世絵講座で紹介し、あわせて、及川茂「海外事情 最近の欧文による浮世絵研究文献」(国際浮世絵学会『浮世絵芸術』No.176・2018、p48)の解説を読み上げました。すなわち、「浅野秀剛氏の小論によれば、英泉の署名を持つ『桶川』と『本庄』の二図は、本書に掲載された例しか存在しないそうである。残るところは、『板鼻』で、署名入りの作品が見つかれば、本シリーズの全作品の絵師が確定されたことになる」と。

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 ところが、次回の講座で生徒さんの一人から、以下の資料の提供を受けました。『世界名画全集 別巻 広重・英泉 木曾海道六十九次』(平凡社・1961)です。同書p27に掲載される「板鼻」の作品を見ると、確かに「英泉画」と入っています。同書は、図版の提供に関して、「東京国立博物館・安達豊久」と記しています。安達豊久と言えば、浮世絵復刻を手掛けたアダチ版画の創業者です。安達氏の仲介によって、個人愛好家から作品(画像)を借り受けたのかもしれませんが、「英泉」としっかりと彫られたこの作品は、現在どこにあるのでしょうか。同書に掲載される図版の画質がよくないので、是非、元絵を見て確認してみたいものです。

 なお、前掲書p23の「本庄宿」にも、「英泉画」とある作品が掲載されていることを付け加えておきます。いずれにしろ、SNSなどを駆使すれば、個人愛好家などからおもしろい情報が提供されるかもしれません。今はそういう時代です。

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木曽海道六拾九次に聞く!

◆おわりに

 広重・英泉の木曽海道六拾九次は、構造的には、保永堂版東海道五拾三次(55枚)に15枚を加えた70枚と考えた方が理解しやすいと言えます。つまり、55枚の部分は、英泉と保永堂とがタッグを組んで主導権を握り、木曽街道ブームという2匹目のドジョウを狙ったということです。ところが予想外にも、英泉を頼みとできない事情があったのか、早い段階で広重が参入することになり、55枚の完成それ自体も大変苦労する始末です。55枚を超えた残り15枚部分に保永堂が本当に関心があったのか疑問ですが、その余の部分は、結局、広重と錦樹堂との組み合わせで何とか完成に至ります。経緯を考えると、木曽海道六拾九次は広重と錦樹堂の功績と判断して良いのではないでしょうか。

 中山道を旅する重要な目的の1つに善光寺参りがあります。しかし、善光寺道と中山道は追分宿で分岐する結果、庶民に関心の高い善光寺道沿いのいくつかの名所が木曽海道六拾九次から排除されてしまいます。たとえば、川中島(合戦)、善光寺、更級・田毎の月などです。ところが、『岐蘓路安見絵図』や『東海木曾兩道中懷寳圖鑑』を見ると、追分から塩尻(洗馬)の間の中山道の北側に善光寺道が並行して描かれていて、道中絵図を売るには善光寺道を無視できないことが判ります。とすれば、木曽海道六拾九次を制作する絵師も同じことを考えるはずで、中山道の各情景を描く際、善光寺道の名所情緒を取り入れて表現するであろうことが想像できます。「小田井」で善光寺、「岩村田」「塩名田」で千曲川・川中島(合戦)、「望月」「芦田」「長久保」で更級・田毎の月の情緒を読み込む所以です。

 木曽海道六拾九次に一番ゆかりのある人物と言えば、木曽をその名に背負う「朝日将軍木曽義仲」です。名月、驟雨などの背後に、木曽義仲およびその一族の思いが仮託されていないか度々確認してきたところです。生前の朝日(将軍)と亡き後の名月という対比構造は、絵師にはかなり魅力的な題材と思われます。

 中山道を木曽街道と呼ぶのは、まさに木曽路を通るからです。その木曽路が始まる「本山」「贄川」では、その重みを意識した作品の読み解きが必要になります。また、木曽路を終え、美濃路が始まる「落合」において、広重のスケッチ帖を元絵とする作品が開始されることも象徴的です。美濃路は、刻々と「関ヶ原」に近づいて行くため、今日、私達が思う以上に絵師は相当気を遣って考案しているはずです。そのため、各作品をスケッチ帖に基づく実景描写であると安易に評価することだけは避けるよう努めました。もちろん、広重のスケッチ帖は、浮世絵制作の機微を知ることができ、大変、意義深いものがあります。しかし、構想作品であろうと、実景作品であろうと、浮世絵に変わりはないので、制作・営業意図や商品性という部分を見落とさないように作品を見つめました。その結果、構想作品にも有用な事実情報が提供されていること、実景作品にも深い構想が施されていることがそれぞれ判りました。

 最後は、自画自賛になってしまいましたが、木曽海道六拾九次に何度も問い(聞き)続けた結果、従来にはない新しい見方が得られたのであれば、望外の幸せです。(完)

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木曽海道六拾九次一覧

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まぼろしの山城国 「三條大橋」

広重の狂歌絵本『岐蘇名所圖會』初篇(嘉永4・1851年~) 春友亭


Photo 広重・英泉の木曽海道六拾九次には、残念ながら、山城国「三条大橋」もしくは「京師」の図はありません。保永堂版東海道の「京師」副題「三條大橋」で代替する趣旨かもしれません。また、制作上の制約という観点で言えば、日本橋1枚と宿場69枚の計70枚の偶数は、見開き2枚1組の画帳を念頭に置いた場合、作品数としてはちょうど良い枚数になります。ただし、もし、木曽海道シリーズに該当作品があれば、どんな名所絵になっていたのかは興味のあるところです。なお、上記は、広重の狂歌絵本『岐蘇名所圖會』初篇に描かれる作品です。人物群は、保永堂版東海道「三條大橋」とほぼ同じで、人物の向きを反対にとって表現されたものとなっています。被衣(かずき)を被った公家の子女と下女に日傘を差しかけて貰う商家の子女が擦れ違う様が描かれ、その前後にやはり日傘を差す武士と茶筅(ちゃせん)売りが歩いています。背景に、比叡山、日ノ岡山、粟田口が見えています。

 ちなみに、後掲『岐蘓路安見絵図』(三条橋)には、「平安城は山城国愛宕郡宇多の邑にあり。桓武天皇の帝の時、山城の国長岡の京より今の都に宮所をうつさせ給ふ」と記され、愛宕山を背景に二条城が描かれています。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(三条橋)

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70 近江国 「大津」

「七拾 木曽海道六拾九次之内 大津」  廣重画 錦樹堂


Dijital071 草津宿を発って、瀬田川に架かる大橋、小橋(勢田の唐橋)を渡り、湖畔に膳所(ぜぜ)城を見て進むと、街道左手に木曽義仲の墓所・義仲寺があります。そこには、松尾芭蕉の墓もあります。その先の立場を石場、この辺りの浜を打出の浜と言い、大津宿の東端に当たります。大津は天智天皇の大津宮の造営以来、政治的重要性はもちろんのこと、軍事上の要地であり、陸水運による物資の供給地として発展しました。近世においては、延暦寺・園城寺(おんじょうじ)(三井寺)の門前町として栄えました。『木曽路名所図会』(巻之1)には、「此駅は都よりはじめての所なればにや旅舎(たびや)人馬多くこぞりて喧(かまびす)し。濱邉のかたは淡海國に領ぜらる。諸侯の蔵屋しきならび入舩出舩賑ひ都(すべ)て大津の町の数九十六町あり…」とあります。札の辻の北側山頂にあった長等山(ながらさん)園城寺(三井寺)については、大友皇子の殿舎を後に寺に作り直したので「園城」の字を用いると記しています。なお、その観音堂は西国巡礼第14番の札所に当たります。

 後掲『岐蘓路安見絵図』(大津)を見ると、「三井寺道」の分岐点に高札場があり、いわゆる「札の辻」と呼ばれる場所から街道が(直角に)折れ、「相坂」(逢坂峠)に向かっているのが判ります。その先に「はしり井」があり、西方には伏見街道の追分があるという地理関係です。走井は、保永堂版東海道「大津」副題「走井茶屋」の画題です。これに対して、木曽海道シリーズで広重が描いたのは、札の辻から少し上った坂より琵琶湖方向を遠望する構図と考えられます。札の辻辺りが大津宿の中心ですから、その場所を見下ろす視点となります。広重のスケッチ帖に、「大津柴屋町遊女」(『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』p215)と題する図がありますが、風景スケッチではないので、当作品の元絵とは考えらません。つまり、当作品は書き下ろし作品ということになります。

 作品内容を見ると、左側、牛車で荷を上方へ運ぶ情景は、大津湊が物流の拠点であることを示すものです。対して右側、縁飾りの付いた菅笠で坂を歩く女3人は、前掲「草津」と同様に、女達にも普及した寺社参詣・物見遊山あるいは見送り帰りの姿を表現するのかもしれません。街道両側に並ぶ旅籠・料理茶店などの先、遠近法上の消失点上に、札の辻(京町)・琵琶湖・白帆・比良の山々を描き、開放感のある空に雁の群れ、そして一文字ぼかしを入れる安定した構図です。しかし、店々の旗・暖簾・壁などに各種の文字が散りばめられていて、賑わしい印象を受けます。左側には、錦樹堂の版元印、「いせり」、「大當」、「新板」、「大吉」等、右側には、「丸金」、「中仙堂?」、「丸金」、「全」、「ヒロ」、「重」等と書かれています。一番大きな文字である壁の「全」は、全シリーズ完成を宣言するものです。版元・錦樹堂(伊勢屋利兵衛)と絵師・広重の当シリーズ版行がこれにて終了し、大当・大吉で金になることを願掛け(雁翔け)する、一種、楽屋落ちの最終作品です。大空の雁の群れをこのような意味に読み解いてみました。

 確かに制作者側の気持ちはよく判りますが、まだ京都まで3里残っていることを忘れてはなりません。伏見街道との追分を過ぎて逢坂山を越えると山城国に入り、日ノ岡山を越えると、ようやく粟田口(あわたぐち)から三条大橋に至ります。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(大津)

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69 近江国 「草津」

六拾八 木曽海道六拾九次之内 草津追分」  (一立斎)廣重画 錦樹堂


Dijital070 絵番号68は69の誤記です。さて、『木曽路名所図会』(巻之1)は、草津につき、「此駅東海道木曾路街道尾張道等喉口なれば賑し。宿中に立木明神のやしろ上善寺駒井氏が活人石(くわつじんせき)等あり。訪ねて見るべし」、また、「東仙道東海道別れ道宿端れに石標あり。右へ曲れは東海道石部の駅に出る。直道(すぐみち)は東山道木曾路なり。これまで東海道名所図會にくはしく出したれば漸(やうやう)貝原氏の木曽路之記にあるのみを補遺してこゝに拾ふ也」と記しています。なお、「草津川」について触れるところがあり、「常にはかり橋あり。霖雨(りんう)出水には歩行わたり也。渡しの者出て催(もよほ)す。水源は金勝谷(こんぜだに)よりながれて末は山田にて湖水に入」とあります。当作品の題名に「草津追分」とあるように、草津は、東海道と中山道の追分の宿であり、辺りに草津川が流れていることが特記事項と判ります。その余のことは、『東海道名所図会』に譲るという発想です。この発想は、広重にも影響を与えていると考えられ、その余のことは保永堂版東海道に譲るという思考でしょう。

 『岐蘓路安見絵図』で草津宿辺りを確認すると、中山道が草津川を越えた地点の左側に高札場があり、同所を左手に折れると「東海道入口」となることが判ります。中山道を直進すると、矢倉の立場に矢橋(やばせ)(船場)に向かう道があり、その辻に「うばがもちや」があります。広重が、保永堂版東海道「草津」副題「名物立場」で描いた餅屋です。佐々木源氏・六角氏の子孫であった幼児を乳母が餅を売って養ったという伝承があります(佐々木氏居城・観音寺山について、前掲「愛知川」参照)。

 当作品において、広重は、草津川北岸から高札場のあった追分方向を低い視点で描いています。制作過程は、スケッチ帖の後掲図版を元絵とするもので、追分の常夜燈や描かれた人物などもあわせて同スケッチ帖から転載されたものと考えられます。右肩に傘を担いで仮橋を渡る女の姿は、前掲「武佐」の手前の旅人が傘を荷物と一緒に背負う様子を思い起こさせます。雨傘なのか、日傘なのか、この辺りの風土を感じさせます。他方、京に向かう3人の春装束の女達は、寺社参詣もしくは物見遊山の旅と見えます。当作品の人物は女と子供が主体で、都近郊の平和な情景を伝えるものです。草津川両岸の砂地は天井川を表現し、背景の山々は都(山城国)を暗示するものです。イメージとしては比叡山、実景は音羽山辺りでしょうか。

 なお、『東海道名所図会』(巻之2)に、図版「草津追分」があり、追分の石標と高札場辺りを写しています。しかし、木曽海道シリーズの広重作品とは画趣を異にしていて、当作品への影響はないと考えられます。


*注1:『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』画像番号13(p215)

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68 近江国 「守山」

「六拾八 木曽海道六拾九次之内 守山」  廣重画 錦樹堂


Kisokaido69 『木曽路名所図会』(巻之1)は、「當宿の入口に守山川あり。橋爪に称名寺といふ西本願寺末の寺あり。蓮如上人建立也。金ケ森より此所に移したるとなり。守山古歌に詠ず」と書し、その最初の項目として、「守山観音堂は駅中にあり。天台宗にして東門院守山寺(しゆさんじ)と号す」と記しています。比叡山の東門を守る、この守山寺が宿名の元になっています。また、宿場の北にあった「野洲川(やすがは)」について、「東海道横田川の下流也。末は湖水に入。此河水をせき入て布をさらしたる者多し。至て白し」と記し、図版「野洲布晒」、「野洲川」を掲載しています。もう1つの図版は、「三上山三上神社」で、「一名杉山ともいふ。神社の上にあり。登路(のぼりみち)十八町巡り五十町。俗に蜈蚣(むかで)山ともいふ。秀郷の由縁よりいひならはしたる。絶嵿に八大龍王の祠あり」との説明があります。宿場を流れる守山川(吉川・境川)、布晒で有名な野洲川、そして近江富士と言われる三上山が主な名所ということです。なお、前掲「鳥居本」で触れた、朝鮮通信使節が利用した近江の下道(浜道・朝鮮人街道)は守山が分岐点に当たります。

 「野洲川」の図版と、大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p270)の記述「野洲河原ひろくして、むかひの河原に布をさらせるあり」とを参照すると、当作品に描かれる川は野洲川とは考えられず、おそらく、宿場南で中山道に交差し琵琶湖に流入する守山川と判定されます。本来は街道に直交する川ですが、街道に沿うように曲げられて描かれています。木曽海道シリーズにおいて、広重が時々見せていた手法です。広重のスケッチ帖に元絵を発見できないので、構想作品に戻ったと言えます。守山川に架けられた土橋辺りから、街道東側の旅籠・茶店などに視点を向け、その前後の山に咲く桜を見ながら、なによりも背景の三上山を眺望するという構図重視の作品です。そのため、街道西側の建物が見えないという不思議な図取りです。三上山を富士に例えて、満開の桜で飾り、雅な雰囲気を狙ったのかもしれません。三上山の位置からすると右側が京方向となります。なお、当作品中央辺りの黒色の屋根の店には錦樹堂の意匠が、黄色の屋根の店には「伊せ利(いせり)」という同版元の宣伝がそれぞれ入れられています。

 藤原秀郷(俵藤太)が琵琶湖の大蛇に味方し、三上山の百足を退治したという伝説を踏まえれば、背景の三上山に対して、宿場に並行して描かれた守山川は大蛇を意味していると考えられます。変則的な構図も、俵藤太伝説を広重なりに解釈した結果と考えれば、納得できます。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(守山)

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67 近江国 「武佐」

六拾六 木曽海道六拾九次之内 武佐」  (一立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido68 絵番号66は67の誤記です。さて、『木曽路名所図会』(巻之1)には、「これより西の方へよりて八幡(はちまん)の町へ行道法五十町許あり」とあり、武佐が、近江八幡に近いことを第1に挙げています。実際、武佐は、東海道および八風峠を越えて伊勢に至る八風街道との交差点に位置しています。続いて、近江八幡は、「此辺の都會の地にして商人(あきびと)多し。産物は蚊地(かやぢ)及び布嶋。畳表。圓座。燈心。蒟蒻等なり」とあって、この地域が、(近世)近江商人の中心地であることを紹介しています。近江八幡には、「比牟禮社」、「西國巡礼三十一番の札所也」とある「長命寺」などもあり、武佐は信仰・巡礼地への分岐点に当たります。なお、同名所図会の図版「鏡山」から、武佐が歌枕の地であることも知ることができます。

 当作品の画題が舟橋であることは一目瞭然です。広重の後掲スケッチ帖に元絵があって、広重の実体験から制作されています。大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p271)が、「横関川は舟の上に板ばしゝてわたれり」と記しているので、場所は、武佐の宿場から南に進んだ、横関川の渡しであることが判ります。また、『中山道分間延絵図』(武佐)も、横関川の渡しについて、「此川平常渡船場小水之節右舟二艘綰(わが)キ合セ舟橋トナシ往来ヲ通ス」と注意書きを加えています。おそらく、江戸からの順路、北岸から南岸を見る視点で描かれたものと思われます。街道をさらに進んだ西横関川村の左に「水口道」があり、さらに歩み、鏡山(谷)から下り横関川と合流して琵琶湖に流れる、善光寺川を徒歩で渡ると、古の駅であった立場・鏡の宿に至ります。

 当作品の、中央付近に大きな木を配置する構図は、広重得意の技法です。ここで問題となるのは、当作品中の人物やその余の情景をどう理解するかです。近景此岸で、舟橋を渡る旅人達を眺めているのは、渡しを管理する村役人でしょう。対して、遠景彼岸の小屋は、船渡し時期に使用される人足の休憩所でしょうか。遠くにあって、川幅の大きな変化が読み取れます。前面の木の左側にいる、連れと一緒の巡礼姿の男は、西国巡礼31番札所・長命寺から32番札所・観音正寺への巡行を想起させます。木の右側にいる、荷物を背負い腰を曲げ杖を衝く老人は、名産品蚊帳地を商う近江商人を意図するものと思われます。広重のスケッチ帖に似た人物が発見され、興味のあるところです。


*注1:『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』画像番号16(p215)

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66 近江国 「愛知川」

「六拾六 木曽海道六拾九次之内 恵智川」  (一立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido67 『木曽路名所図会』(巻之1)には、「此宿は煎茶の名産にして能(よく)水に遇ふなり。銘を一溪茶といふ」とあります。宿名の由来となった、宿場の南を流れる愛知川について、同名所図会は、「水源(みなもと)萱尾瀧常に東風(こち)ふく時は水出る。諺云(ことわざにいふ)勢田の龍神此瀧へ通ひ給ふときはかならず水出るといふ」と記し、季節によっては大河となることを示唆します。その他に、同名所図会は、「繖山(きぬがさやま) 観音正寺」について、「本街道清水鼻の左の山上にあり。西國巡礼三十二番の札所」と記し、図版「観音寺山 鷦鷯(さゝき)城址 観音寺」を掲載します。以上の要素が、広重作品にどう展開されているかが読み解きの視点です。なお、東海道「土山」および「伊勢」に至る街道の分岐もあり、交通の要衝です。

 当作品にも、やはり、スケッチ帖に後掲元絵があります。宿場の西口(南)側にある愛知川とそこに架けられた橋が描かれていて、「むちんはし はし銭いらす」と書かれた標柱が特徴的です。『岐蘓路安見絵図』(越知川)にも、「常はかりばし」とあり、天保2(1831)年に架けられた板橋です。橋の背後には、スケッチ帖とは若干異なって、雲あるいは霞の向こうに山の頂が描かれています。当作品の視点は、愛知川の北岸にあるので、南岸右手に展開する観音寺山であることが判ります。名所案内的要素をなるべく取り込むように制作されていることに気付かされます。橋を渡る武士一行、此岸の虚無僧、旅の親子連れ(スケッチ帖に似た人物が描かれています)などの他に、近景の牛に荷を積んで歩く女の姿は目立ちます。牛で荷を運ぶのは、西国に特徴的な風俗と考えられ、京も近いという仕掛けでしょうか。『旅景色』(p89)は、その荷を「彦根きゃら」の原料の蝋と推測しますが、前掲「一溪茶」あるいはその原料という推理はどうでしょうか。この牛を引く女は、同スケッチ帖にその元絵をやはり発見でき、広重の体験が下敷になっています。

 前述のように、愛知川を渡り、土山道・伊勢道の追分を過ぎると、清水鼻の立場の右手に観音寺山(繖山)はあります。近江源氏佐々木氏、後に同族・六角氏の居城でしたが、織田信長に滅ぼされました。この辺り一帯の五個荘は天秤棒1本で商売をした(中世)近江商人発祥の地と言われています。さらに街道を進むと、右手に老蘇(おいそ)の森に囲まれた奥石(おいそ)神社があり、その先の右手に安土山と総見寺を遠望しながら街道を歩むと、次の宿場・武佐に至ります。


*注1:『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』画像番号15(p215)

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65 近江国 「高宮」

「六拾五 木曽海道六拾九次之内 高宮」  (一立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido66 『木曽路名所図会』(巻之1)には、「此駅は布嶋類を商ふ家多し。此ほとり農家に髙宮嶋細布多織出すなり。これを髙宮布(たかみやぬの)といふ。宿中に多賀鳥居あり。是より南三拾町許」とあります。つまり、当宿場を特徴づけるものは、高宮布(麻織物)と多賀大社の鳥居ということです。その多賀大社は、祭神が 伊邪那岐(いざなぎ)大神で、後に、伊邪那美(いざなみ)大神も合祀されています。『古事記』にも、「伊邪那岐の大神は淡海の多賀に座すなり」とあります。天照大御神の親神を祀っているので、同名所図会は、「伊勢参宮の案道(ともがらみち)を枉(まげ)てこゝに多く詣(けい)するなり」と記しています。なお、高宮が多賀大社の門前町であったことが、すなわち、多賀=高、大社=宮で、高宮の名の由来です。

 広重の後掲スケッチ帖に「高宮川」と題する作品があり、ほぼ間違いなく、これが元絵と考えられます。高宮川は、宿場の西口(南)にあって、犬上川とも言われます。当作品は、川の南岸から高宮を見通す視点で、北岸に常夜燈、宿場、背景の山並を遠近法的に紹介する形式です。同スケッチ帖から判断して、広重は、水位が低くなって橋脚だけが残された景色に興味を持ったのかもしれません。これに歩行で川をジグザクに渡る旅人達を加えたのみならず、麻あるいは苧殻(おがら)を背負う2人の農婦を前景に描いたのは、宿中で織られた高宮布(上布)と関連付け、高宮宿の名産を紹介するためです。そうであるならば、当作品の両側に描かれた松は、宿場の出入口を表現しているというよりは、多賀大社の鳥居に見立てたと考えた方が、名所を画中に取り込む広重の真意に添うのではないでしょうか。なお、麻・苧殻を背負う農婦は、広重の同ステッチ帖の「近江路の人物」にその元絵を発見します。つまり、広重の実見に基づいているということです。


*注1:『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』画像番号15(p215)

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