『不二三十六景』と『冨士三十六景』

おわりに 2


08_2 次の作品は、嘉永5年制作と考えられる、広重『不二三十六景』「甲斐大月原」という中判横絵作品です(山梨県立博物館『北斎と広重』2007、p92)。桂川の河岸段丘上から大月原越しに富士を眺望しています。1本の杉の大木と富士とが重なる構図は、どこか北斎の『冨嶽三十六景』「甲州三嶌越」を彷彿とさせます。しかし、この作品の特徴は、茫漠とした風景を前に1人の法体姿の人物が佇み、非常に寂寥感が漂っているところにあります。これは、広重自身の姿ではないでしょうか?そう考えるのには理由があって、天保12年4月と11月に、広重は甲州旅行に出掛け、御嶽、身延山などに遊歴している事実があり、法体姿の人物は、この時の体験が作品の着想になっているという暗号と解することができるからです。


 さらに深読みをすると、この甲州旅行もしくは『不二三十六景』制作に絡めて、広重自身に何か寂しい思いがあったことが作品内容に反映していると推測できます。たとえば、身内に不幸があって、その悲しみを富士の名所絵に仮託したという考え方です。実のところ、広重の上述の甲州旅行は、天保10年10月23日に亡くなった妻の3回忌の年に当たっていますし、『不二三十六景』制作時期には、伊豆大島に流刑(後に死亡)になった寺の住職の娘を養女としていて、何か後向きの家庭事情が想像できるのです。


Fuji_31 さて、『不二三十六景』から6年ほど経て制作されたのが、安政5年4月改印の『冨士三十六景』「甲斐大月の原」の大判竪絵です。本作品は、御坂山地の上に顔を出す富士とその前に広がる大月原とを対比させ、野菊、桔梗、女郎花など咲くすすき野原を写し取っています。私の第一印象は、秋のお彼岸の頃を思い浮かべるような優しい作風だなというものでした。月日の積み重ねの中で、作品の趣は明るさを取り戻し、秋のお彼岸(お墓参り)のような印象を受けるのは私だけでしょうか。歳月が絵師の体験を熟成させ、「絵になる風景」に昇華されたのは間違いないと思います。この『冨士三十六景』は、広重の死後出版された遺作なのですが、このような優しい雰囲気の作品で終わってくれたことに、何かほっとするものがあります。


 広重の心中にあった寂寞たる想いが昇華されたというのは、かなり個人的インスピレーションに基づく読み解きですが、2014年自身の還暦を過ぎ、2015年妻の3回忌を終え、広重の心情にかなり近しい物を感じという意味において、一言、触れた次第です。

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広重の冨士三十六景に寄せて

おわりに


 『広重の冨士三十六景』は、2014年、長野県カルチャーセンターで行なった浮世絵講座資料を元にブログとしてアップしたものです。「浮世絵に聞く!」シリーズとしては5番目に当たります。一番初めのブログ『冨嶽三十六景・北斎の暗号』においては、北斎作品が富士信仰者あるいは富士講信者の目にどのように写ったかを思案しながら、作品構図に潜む仕掛けやトリックを読み解こうと努力しました。他方、『広重の冨士三十六景』では、江戸庶民にとって名所の日常景とはどんなものなのかに注意を尽くして鑑賞するように努めました。地元故に関心が持たれているので付言しますが、両作品の比較から、北斎『冨嶽三十六景』「信州諏訪湖」は、広重作品と同じく、高島城のある諏訪湖東岸ないしは北東岸の衣ヶ崎周辺からの眺望を想定しているという考えに至っています。詳しくは、本ブログ「28 信州諏訪之湖」を参照下さい。いずれにしろ、実景とは異なった構想図として作品を見ています。その他の点でも、両ブログを読み比べていただければ幸いです。


 なお、私の浮世絵に関する諸活動の経過について触れておきます。すなわち、長野冬季五輪の前年、1997年10月、長野浮世絵研究会を発足し、同時に「市民の浮世絵美術館」活動に着手しました。その精神は、一般市民生活で手に入る程度の資料で十分に浮世絵は愉しむことができるというものです。インターネットの普及によって、閲覧できる図版や手に入る研究資料・書籍など飛躍的に増えたことが大きく影響して、一般市民が浮世絵を愉しめる環境はかなり整ったように思われます。こうした活動の一貫で浮世絵展を企画・開催する他に、2006年10月から長野県カルチャーセンターで「浮世絵を読む」という講座を開設しました。その後、浮世絵について判らないことがあれば、同種の他の浮世絵を参照すれば大概理解できるという趣旨で、つまり、「浮世絵のことは浮世絵に聞け!」という意味で、「浮世絵に聞く!」と銘打った講座に改めました。この頃より、ある程度、オリジナルな解説ができるようになったというのが正直な感想です。浮世絵講座自体は、ありがたいことに、本年(2015年10月)で開講10年目に入ります。


 さて、冒頭に述べた2014年は、ちょうど私の還暦の年に当たりました。したがって、ブログ『広重の冨士三十六景』は、結果的に還暦を記念するものになったことを報告いたします。個人的所感ですが、大学卒業後、大学院(法学研究科)に進み、さらに助手として刑法学の研究を積み重ねてきた月日を思うと、現在、浮世絵の研究者を目指している自分が不思議に感じられます。また、浮世絵講座において、同じシリーズ物の作品を統一的観点から説明しようとする自身の態度には、法解釈における「体系的思考」が確実に影響を与えていると自覚されます。過去の遺産でしょうか。


 ともあれ、英泉・広重『木曾街道六拾九次』や広重『名所江戸百景』など浮世絵講座ではすでに扱いながらも、まだブログにアップしていない浮世絵シリーズがいくつかあります。いずれも長い揃い物なので一度には無理ですが、機会を改めて、絵師の世界観や作品体系を読み下しながら、少しずつ掲載していきたい考えです。長野冬季五輪を機縁に始まった活動なので、少なくとも、東京夏季五輪まではなんとか継続しつつ、「浮世絵に聞く!」シリーズを総括したいと決意しています。今後とも、よろしくお願い申し上げます。

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36 房州保田(ほた)ノ海岸

Fuji_36 「34 上総黒戸の浦」、「35 上総鹿楚(埜)山」と段々南に下がってきて、いよいよ、本作品は安房国の保田の海岸からの富士見図です。『浮世絵師歌川列伝』(中公文庫・p172)には、広重の日記を読み解いて、「(嘉永)五年閏二月廿五日、広重再び上総に赴き、また鹿野山に上り、安房に入り小湊誕生寺および清澄寺に参詣し、東房州海岸の風景を眺め、更に西海岸に出でて那古、勝山、保田、鋸山の絶景を探り、四月八日江戸に帰る。」と解説されています。その第一の目的は、「専ら海岸線の奇勝を探るにあるのみ」と結論づけています。


 先行する『不二三十六景』「安房鋸山」では、上総国と安房国との国境に聳える鋸山からの展望を作品化していますが、その鋸山の麓海岸にあったのが、本作品の保田湊に当たります。作品の棲み分けが想定されています。


 『冨士三十六景』の本作品の構成は、右端に鋸山の麓にある明鐘岬の奇岩を見て、その海岸に打ち寄せる波飛沫の背景に浦賀水道、三浦半島を望み、遥かに富士を眺望するものです。海岸の波が富士に相似する三角形を成しているのは、北斎流の技法の応用です。これに対して、海岸沿いの街道を旅人が富士を見ながら歩いている日常景は、広重の特徴です。とくに、手前の法体姿の旅人は、明らかに広重の旅姿に重ね合わせられた人物と考えられます。シリーズ最後の1枚を広重の自画像と思しき人物を登場させて締めることによって、シリーズ全てが広重の旅の体験から生まれた印象を与える効果が生まれています。考えてみれば、シリーズ最初の1枚「1 東都一石ばし」は、広重生家の八代洲河岸を遠望するものでした。シリーズ最後の本作品においては、名所絵の大家としての自負を法体姿の広重の旅姿に見る思いです。


 『房総行日記』(嘉永5年)には、誕生寺堂前の桜の木ぶりが梅に似ているのを見て「梅の木に似たる桜のかたへには 鶯に似し法華経の声」という(狂)歌が紹介されています(前掲書p173)。また、木更津船に乗り遅れて、「葉桜や木更津舟ともろともに 乗りおくれてぞ眺めやりけり」という歌もあって(同書p175)、広重本人は、漂泊の人、西行気取りなのかもしれません!

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35 上総鹿楚(埜)(かのう)山

Fuji_35 弘化元年3月と嘉永5年2月、広重は2度に亘って「鹿埜山」の参詣に出かけています。鹿野山は、木更津から海岸線を南に行った場所(君津市)にあって、安房国の清澄山、鋸山と並ぶ房総半島の名山です。山中北東の白鳥の峰には、日本武尊を祀る白鳥神社があり、富士山や筑波山を望む景勝の地です。本作品もその白鳥神社の参道から富士を展望するもので、広重の旅の経験が元になっての作品と考えられます。


 『浮世絵師歌川列伝』(中公文庫)に引用される日記によれば、「(弘化元年三月)廿七日。天気。四ッ時頃より、鹿野山参詣。庄兵衛殿、勇吉殿、四人連れ、七ッ過頃鹿野山に着。…」「廿八日。天気。同所白鳥大明神祭礼にて参詣。商人群集す。…」とあります(p171)。また、「嘉永五子年閏二月二十五日。夜四ッ時、江戸橋出舟。…昼食食い、鹿野山に赴く。夕刻宿に着。」とも記されています(p173)。


 本作品以前には、『不二三十六景』「上総鹿楚(埜)山鳥居崎」があって、参道の坂を上った鳥居を潜った所から、旅の女が馬上より三浦半島越しの富士を眺める様が描かれています。傍らに桜が咲いているのを勘案すると、広重の旅の時期と符合します。『冨士三十六景』の方は、坂道を上って左に折れた所にあった鳥居を潜る前の視点で作品を描いています。その分、杉の大木を作品中央部に配し、遠近を強調する構成に努めています。


Hokusai17 富士と杉の大木との重なり、あるいは富士と鳥居との組み合わせは、北斎『冨嶽三十六景』「甲州三嶌越」あるいは「登戸浦」を彷彿とさせる構図ですが、両作品の思想的背景は全く異なっています。北斎は富士(講)信仰であり、広重は日常景への回帰を意図しています。ただし、北斎は構図重視故に実景から離れ、広重は日常景故に実景に近いという見解もありますが、意外にも北斎の方が実際の地理に正確であることもままあって、この点に関し両者の違いは相対的なものであると思われます。

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34 上総黒戸の浦

Fuji_34 畔戸(くろと)の浦は、小櫃(おびつ)川の河口に位置し、現在の千葉県木更津市に当たります。広重の弘化元年の『鹿埜山行日記』によれば、江戸橋より船を利用して木更津に渡り、その北方に位置する久津間道を歩んだとあって、「左に海辺見晴らしよし」とも記されています(中公文庫『浮世絵師歌川列伝』p171参照)。したがって、その時あるいは嘉永5年『房総行日記』に際しての体験を元に本作品は描かれた可能性があります。


 小櫃川河口から鳥瞰的に江戸湾上に富士を遠望する構成で、手前に漁をする船、中景に停泊する五大力船(木更津船)、遠景に帆を張って江戸湾を行き交う船がそれぞれ描かれています。このシリーズを通して貫かれている、日常景の中に富士を配置する作品です。海岸線が丸みを帯びていて、自然と目が向かうその中心部分は、紙の地色が白く光を反射しているかのように見えます。技巧的表現です。なお、停泊する五大力船(木更津船)の綱が三角形を形成しているのは、富士の相似形を富士自身の前に置く、北斎に由来する構図です。


 本作品以前には、『不二三十六景』「上総木更津海上」があります。中央に五大力船(木更津船)を停泊させ、そこから遠浅の海岸を歩いて浜に向かう人々を描いています。そして船の帆柱を中心に三角形を作る綱の背後に富士を覗かせるという、北斎を意識した構図を応用しています。この横絵の作品を竪絵にする際、松の生えた海岸線を加えたのが本作品ですが、その処理方法は、「28 信州諏訪之湖」と同じと考えられます。


 ちなみに、五大力船(木更津船)とは、基本は海船造りの構造ですが、河川を航行できるように吃水が浅く船体の幅が狭くなっています。したがって、海からそのまま河口に乗り入れて市中の河岸に横付けすることができます。江戸橋木更津河岸と上総国木更津湊で貨客輸送を行なっていた船はとくに木更津船と呼ばれます。これに対して、弁財船(千石船)は菱垣(ひがき)廻船・樽(たる)廻船・北前船など、内航海用の大型船を指します。


Hokusai24 北斎『冨嶽三十六景』「上総ノ海路」に登場する帆船が、その弁財船(千石船)に当たります。浦賀水道を進む船越しに富士を遠望する作品で、明らかに帆を張る綱が富士に相似する三角形を形成し、富士を掴まえる構図となっています。これは、富士(講)信仰を背景に、近景に富士の御利益世界を描き上げる趣旨と考えられます。船体の窓から乗船客の顔が覗いているのは、まるで、富士の人穴や石室に参集する富士(講)信仰者のようでもあります。

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33 下総小金原

Fuji_33 小金原は水戸街道・小金宿(千葉県松戸市)の原を意味し、そこに野馬を放牧する江戸幕府直轄の牧の管理施設が置かれたので、利根川(江戸川)東部一体に広がる牧全体を指し示す名称でもあります。本作品の場合も、いくつかに分かれて広がる小金牧を意味し、故に野馬が描かれているというわけです。「14 武蔵越かや在」が日光街道から選択された富士見の新名所であったのに対して、「33 下総小金原」は水戸街道から選択された富士見の新名所ということになります。


 本作品では水を飲む馬を近景に大きく描いていて、いわゆる近像型構図を採用しています。このような場合、作品制作の材料に乏しいことが少なくありません。本件にも、やはり先行する広重作品はないようです。ただし、「11 鴻之臺とね川」からは、利根川(江戸川)東岸の下総国より西方に富士が遠望できたことは容易に想像できます。


 ところで、『木曽路名所図会』(巻之五)は、江戸から香取・鹿島神社までの名所や街道の宿場などを紹介する部分に当たります。その図版「釜ケ原」はいわゆる小金牧を描写するもので、おそらく広重が参考にしたのではないかと推測されます。同名所図会には、牧から筑波山と富士峰が眺望でき、「野飼の駒五、六十ばかり此野原に放たれて何れも草をあさりて遊ぶさま、いとをかし。…見るに親馬動けば其子もそれにつれてゆき戯れる様、画にかくとも及ばし。」とあります。この辺りの資料から着想を受けて、広重はツツジ咲く牧で戯れる馬の背後に富士を遠望する構図を創作したのではないでしょうか。

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32 甲斐犬目峠

Fuji_32 作品の順番とは逆に、富士講の信者は、江戸からは、内藤新宿、府中、小仏峠、上野原、犬目峠、猿橋、大月と歩きます。犬目峠は、上野原を2つ越えた野田尻宿と猿橋2つ手前の下鳥沢宿との間にある峠で、甲州街道が桂川の河岸段丘上を対岸の山々を見ながら進む関係上ほとんど富士が見えない中、初めて富士を遠望できる場所と言うことができます。


 天保12年の広重『甲州日記』(中公文庫『浮世絵師歌川列伝』p159以下)にも、「犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休」と記述されているので、本作品はその体験に基づいていることは間違いありませんが、実景やその際のスケッチとは異なった絵画構成となっています。たとえば、本作品近景に展開される桂川の断崖絶壁は峠を越えて桂川上流部に至らないと見えない部分で、広重が度々描いている猿橋(『甲陽猿橋之図』、『六十余州名所図会』「甲斐さるはし」)などを彷彿とさせます。したがって、本作品は、犬目峠から桂川の対岸に見えるはずの富士(それを眺める旅人)と峠を下った桂川上流の絶壁(その傍を歩む旅人)とをコラボさせた、2つの名所を紹介する秋の紅葉観光案内的作品に位置づけることができます。技法的には、作品中央部の紫雲が本作品を2つに分けているのでしょう。コラボ作品としては、「22 伊豆の山中」参照。


 本作品の原型は、『不二三十六景』「甲斐犬目峠」にあります。峠の上に描かれる茶屋は、明らかに広重が体験した「しからきといふ茶屋」をイメージするものです。意外なことに、北斎『冨嶽三十六景』「甲州犬目峠」の方がまだ犬目峠の実景に近いと言うことができます。作品の中央部に湧き上がる霧を描くことによって、そこに桂川があることを暗示するに止めています。


Hokusai08 なお、北斎の場合には、広重と違って、富士信仰者・講信者へ向けてのメッセージあるいはトリックが仕掛けられていることが多い点に注意が必要です。富士講信者には、甲斐国にて初めて目にする富士という意味で重要な富士見の名所を描いたことの他に、峠を天然の富士塚の如くに描いて、そこから朝日に照らされる(あるいは夕景でしょうか)ツートンカラーの富士が眺望できる僥倖を知らしめていると理解できましょう。ある意味で、富士を直視する北斎の方が、広重よりも富士に対する愛着が深いとも考えられます。その証拠に、広重『冨士三十六景』には、富士そのものと直接対決する、北斎『冨嶽三十六景』「凱風快晴」および「山下白雨」に対応する作品はありませんし、富士講信者を直接描く「諸人登山」に対応する作品もありません。

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31 甲斐大月の原

Fuji_31 甲斐国では、甲州街道は、信濃国から、甲府、大月、猿橋、犬目峠、上野原を経て相模国に進みます。広重が浮世絵作品にした地域が何ヵ所か含まれ、本作品は、甲州街道と上吉田村(富士吉田市)に至る谷村道(富士道)との分岐点であった大月宿から画題を選んでいます。富士講の信者が江戸から甲州街道で富士を目指す場合、小仏峠を越えた後富士が見えるのは、桂川の河岸段丘上の谷間を歩くので、後掲「32 甲斐犬目峠」と本作品「31 甲斐大月の原」との2ヵ所に限られます。そして、富士講信者は大月から富士道を通って富士吉田に出て、北口登山道から富士に登るということになります。

 交通の要衝というイメージですが、『不二三十六景』「甲斐大月原」などを見ると、茫漠とした野原が広がっていたようです。同作品は、1人の法体姿の旅人が秋風吹く一面のすすき野(大月原)から御坂山地の上に顔を出す富士を眺め、寂寥感が漂う雰囲気です。おそらく、桂川対岸の岩殿山麓辺りからの遠景と想像されます。甲州を旅し、実際の風景を体験した広重の思い出を重ねたものでもありましょう。広重の旅日記・旅絵日記については、『甲州日記』(天保12・1841年4月)、『甲州日記写生帳』(同年11月)などを参照。


 これに対して、本作品は、絵師の視点を相当下に置いて、大月原に分け入って、すすきだけではなく、野菊、桔梗、女郎花(おみなえし)などの綺麗な色の花々を加え、華やかささえ感じさせる作風となっています。年月を積み重ね、個人的体験を超えた絵師の熟成した技を見せる作品となったのかもしれません。明るい色使いが主体となっている、本シリーズを代表する作品の1つです。

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30 甲斐御坂越

Fuji_30 甲州街道の宿場甲府の1つ手前にある石和(いさわ)宿から南東方向に、甲斐国と駿河国とを繋ぐ鎌倉往還が走っています。その山間部の峠にあったのが御坂峠で、河口湖を抜けて、往還は富士山麓を通って駿河国に至ります。広重の発想は、木曽街道と甲州街道の分岐点・下諏訪から江戸に向かって、甲州街道周辺の富士見の名所を渉猟していこうということだと思われます。峠を登りきったところで、旅人の目には、富士と河口湖が飛び込んできます。本作品は、まさにその旅人の感覚を絵にしています。直前の「29 信濃塩尻峠」とは視点が反対で、遠ざかる小さな富士ではなくて、出会いの大きな富士として描かれています。前作品の左側の崖と比べて本作品の右の崖が半分位の高さに抑えられているのも、出会った富士の雄大さを損なわないための工夫でしょう。河口湖の右手の島は富士五湖唯一の中島・鵜の島です。左端の岬は産屋ヶ崎、右奥の山は足和田山です。


 昭和に入ってから、この峠にあった茶屋が天下茶屋と呼ばれ、 昭和13年の9月からは太宰治が数ヶ月滞在し、小説『富嶽百景』の舞台となっています。「富士には、月見草がよく似合ふ」という言葉が有名です。ちなみに、当ブログで「(浮世)絵になる風景」という言葉を度々使ってきましたが、それは太宰治の言う、「私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも註文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかつた。」と表現した風景を逆に肯定したものです。御坂峠からの富士は、まさに「絵になる風景」の典型です。


Hokusai29 北斎『冨嶽三十六景』には「甲州三坂水面」があり、中世の富士信仰の中心地、富士御室浅間神社が作品の中央部分に描かれているのは、富士信仰を表現する北斎作品としては当然です。しかし、描かれる2つの富士を巡っていくつかの見解があります。まず、逆さ富士の部分が、湖上の富士をそのまま写した姿ではないことにはすぐ気付きます。次に、峠から見た夏の富士は大沢崩れがあって駿河側から見た富士です。河口湖畔からの逆さ富士は雪を被った冬の富士です。実景でない富士2つを1枚の作品で楽しむ仕掛けがあります。私見ですが、峠から見える富士は実体ではなくて、湖水(鏡)に映った逆さ富士こそが実体であると北斎は示唆しているのではないでしょうか。そのうえで、水神(弁天)を祀った鵜の島、富士山岳信仰の富士御室浅間神社、そして法華経の妙法寺をそれぞれ富士信仰の本質と感じた北斎が、それを白鳥が羽ばたくかのような聖なる姿で表現したものと考えます。また、河口湖に富士神霊の姿を捉えた北斎は、そこに釣り船を一艘浮かべ、諏訪湖では見ることができなかった、「富士の上漕ぐあまの釣船」の奇観を描いたのです。いずれにしろ、風景画では決してなく、名所絵でも足らず、北斎の信仰をユーモアをもって告白する作品です。

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29 信濃塩尻峠

Fuji_29 渓斎英泉・歌川広重『木曾街道六拾九次』において、英泉「塩尻嶺 諏訪湖ノ湖水眺望」では、諏訪湖と塩尻峠は1図に納まっており、その視点は江戸方向に歩む旅人のものでした。これに対して、広重は作品を2図に分けて、諏訪湖からの眺望とは別に、本作品では、峠の坂を下り京(洗馬・本山)方向に進む旅人の背後に見返すような富士の姿を描いています。広重が2つに分けたのは、諏訪湖と塩尻峠との2つの図版を載せる『木曽路名所図会』(巻之三、四)と同じ思考に拠ったのかもしれません。いずれにしろ、木曽街道(中山道)から見える最後の富士を描き留めておこうという発想です。


 本作品では、くの字に曲がった街道の視線の先に富士が描かれ、紅の一文字ぼかしは夕暮れ時を表現し、空には雁の帰巣姿があって、旅人が宿へ急ぐ姿も重ねられています。富士の右手に見える山々は、今日、南アルプスと呼ばれるものです。後掲「30 甲斐御坂越」に比べると絵師の視点が高く、街道は谷底にあり、また旅人や富士を見下ろすような感覚で描写されています。

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