木曾街道六十九驛 目録

版元:湊屋小兵衛 年代:嘉永5(1852)年10月


Kn72 当該シリーズの収集家が一冊の画帳として整理する便宜として出されたのが、この目録と思われます。目録と各作品の主題・主役は基本的には一致していますが、唯一、作品六十九の「草津」だけは、作品は「冠者義高」、目録は「馬士八蔵」となっていて、斬った者から斬られた者へと視点の移動があります。目録が先とするならば、当初の予定とは変わったということでしょう。おそらく、冠者義高を演じた八代目團十郎人気を前面に押し出して、一枚摺作品を販売しようとしたのではないでしょうか。

 同時に、嘉永6(1853)年2月頃、当該シリーズの特別豪華版とも言うべき揃物の版行が計画されていた事実を考慮する必要があります。その一月前が八代目團十郎の「冠者義高」作品の販売時期と推測すると、先の揃物を宣伝するための話題作りに一役買った可能性が考えられるのです。なお、この特別豪華版は、残念なことに、幕府取締の対象になって、版木は没収されて削られ、摺絵も裁断されてしまいました。シリーズ完成から僅かの期間でのことなので、国芳の木曽街道の残存枚数が少ないのは、これが原因と考えられます。この特別豪華版販売のために制作されたのが、『これが江戸錦絵合』という別目録です。詳細は、大久保純一『浮世絵出版論』(2013・吉川弘文堂)127頁以下参照。


*国芳の木曽街道を題材にしたブログ展開も、今回をもって一応の完結といたします。個人的なことになりますが、妻の余命が僅かであることが明確になってから、ブログを書き始めています。これは、何か別のことに集中して、最後の時まで気を紛らわせようと考えていたからです。実質的には、妻の亡くなる前日(6月10日)にブログを書き終えることができました。こんな経緯から、この度のブログ本は妻との闘病生活が残したものであり、そして、まさに妻に捧げるものとなってしまったことをご理解いただければ幸いです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

(七十一) 京都 鵺大尾

版元:湊屋小兵衛 年代:嘉永5(1852)年10月


Kn71  江戸日本橋からの千代田城、富士山の景色を背景に描く伊達騒動物から始まった当該シリーズも、最後は、京の御所を舞台にした妖怪退治の物語で締めくくられることとなります。「鵺」(ぬえ)とは、もともとは夜に鳴く鳥「トラツグミ」のことでしたが、不気味な鳴き声の「得体のしれない化け物」自体を鵺と呼ぶようになりました。鵺に関する伝説上有名な話が、ここに描かれる源三位頼政の鵺退治です。

 『平家物語 巻第四』あるいは『源平盛衰記 第十六』によれば、近衛天皇の在位中の仁平年間(1151~1153年)、毎夜、東三条の森から黒雲が清涼殿の上を覆い、天皇が大変怯えられることがありました。そこで勅命によって源頼政がこの変化を退治することとなり、先祖の源頼光より受け継いだ弓によって黒雲目掛けて矢を射ったところ、命中し、射落したものを郎党の井(猪)早太が刺し殺しました。松明を灯してその姿を確認すると、頭は猿、体は狸、手足は虎、尾は蛇という怪物で、鳴き声は鵺であった言います。なお、この化物はばらばらにされて淀川に流されたそうです。魔を払うことも重要な役割であった平安時代の武士の(陰陽師的)性格を端的に示すものです。頼政と早太の姿は下方に小さく描かれるに止まり、中心は鵺と呼ばれる化物の姿です。その特徴的な「鵺の尾」に掛けて、シリーズ「大尾(最後)」の作品として頼政の鵺退治が画題に選ばれたと考えられます。標題は、弓、松明、黒雲と鵺退治の場面を象徴するもので飾られています。

Kom71  コマ絵は、御所を舞台にした鵺退治を画題としたことから、御所車の意匠です。描かれるのは、黒雲の現れる東三条の森の方向、東山の風景かと思われます。英泉・広重版木曽街道は「大津」で終わっているので、広重の保永堂版東海道の「京師 三條大橋」を参照すると、三条大橋から東山方向を望む風景であり、共通する趣向と考えられます。

 『平家物語』や『源平盛衰記』に記される頼政の鵺退治の意味について考えてみます。鵺や鵺退治に関しては、陰陽五行説の各要素を割り振った感があり、頭の猿は、申、方位は西南西、要素は金、足の虎は、寅、方位は東北東、要素は木、尾の蛇は、巳、方位は南南東、要素は火、そして、郎党の井(猪)は、亥、方位は北北西、要素は水、以上の交点に体の狸、方位は中心、要素は土と分析できます。しかしながら、そこから一定の意味が読みとれるわけでもなく、鵺やその退治が全ての要素の集合によっていることが示されるだけで、つまりは得体がしれない存在、事件ということが明らかになるだけのようです。また、鵺が東三条の森から現れ、北方の山に落下し、バラバラにされて淀川に流された経緯は、西から東に変わる自然現象ではないこと、菅原道真の怨霊・雷神を示唆すること、風水による気の流れに従って処理されたことなどが読みとれます。結局、鵺は正体が不明であること、あるいは逆にこの世の法則そのものであることが浮き上がってきます。

 後者の点を押し進めると、頼政の鵺退治は、この世そのものに矢を放ったという意味となります。保元・平治の乱を生き残り、平家全盛の時代に三位という高位において源氏の惣領であった頼政ですが、以仁王の令旨に応えて平家追討の第一声を上げたにも係わらず、あっけなく敗退自害となりました。ただし、全国の源氏の旗挙げの魁となり、これが機縁となって平家滅亡、源氏の天下が生まれます。しかし、志半ばで倒れた頼政には、具体的功績がなく、顕彰することができないので、『平家物語』や『源平盛衰記』の作者は、怨霊思想の観点から、正体不明の鵺退治の話を加えることにしたと考えられます。悪魔払い・怨霊封じの儀式を時代そのものに矢を放った英雄譚に昇華させ、頼政を慰めたのです。

 時代そのものを「時代の権力」そのものと読み替えるならば、たとえば、猿(申)は日枝の神・比叡山、虎(寅)は武士平家、蛇(巳)は藤原摂関家、狸は東三条の森に巣くう法皇の隠喩で、いずれも時の天皇を悩ませた存在と見ることができます。これを退治した頼政が天皇から獅子王という御剣を下されたことは、物語の伏線としては深い意味があると思われます。

 では、国芳がこの頼政の鵺退治を作品の画題としたことには、いかなる意味があるのでしょうか。御所を悩ませる妖怪・鵺が庶民の恨みから生まれた怨霊とするならば、天保の改革あるいはその当事者を揶揄したと受け取られた、国芳の大判三枚続作品『源頼光公館土蜘作妖怪図』』(みなもとのよりみつこうやかたつちぐもようかいをなすず)創作時の精神未だに健在ということになります。また、江戸の将軍、幕政、幕閣などを妖怪と見るならば、源頼政の放つ矢は幕府に一矢報いるものと理解されます。さらにペリー来航間近の時代背景を考えれば、尊皇攘夷を待望する庶民心理でしょうか。歴史は、攘夷の期待が裏切られ、尊皇倒幕へと至ります。

 シリーズの最初「日本橋」は、歌舞伎の伊達騒動物を引き合いに出して、三浦屋の高尾太夫に袖にされた仙台藩主を登場させています。すなわち、遊女の意地に負けた武士を揶揄するものです。この事実を重ね合わせると、武士を揶揄し、幕府に一矢を向ける国芳の木曽街道六十九次は、少なくとも、武士社会の崩壊間近な時代の雰囲気を十分に感じさせるシリーズとなっていると言うことはできるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

七十 大津 小万

版元:湊屋小兵衛 年代:嘉永5(1852)年7月 彫師:柳太郎


Kn70  国芳作品は、寛延2(1749)年大坂竹本座初演の浄瑠璃『源平布引瀧』の第三段、別名「実盛物語」から構成されています。源義朝亡き後、源氏の白旗は、義朝の弟義賢、奴折平(源氏の侍多田行綱)、そしてその妻「小万」へと託されます。しかしながら、追っ手に迫られ、小万は源氏の白旗を口にくわえて琵琶湖に飛び込み逃げます。その場面を絵にしたのが本作品で、左岸には捕り手の一団が見えています。なお、小万の背後に壮麗な船がありますが、これは竹生島詣の平宗盛の御座船で、一旦はこの船に小万は助けられるのですが、乗り合わせていた斎藤別当実盛に、小万の片腕は白旗もろとも斬られてしまいます。密かに源氏に加担する実盛が白旗を平家に捕られるのを避けるためのことです(詳細は、『カブキ101物語』90頁参照)。

 水の流れと水中での人物表現は、国芳の真骨頂です(作品二「板橋」参照)。「大津」の宿場が琵琶湖に面していることから、琵琶湖に飛び込んだ烈女「小万」が主役とされています。標題は、小万の父と子が琵琶湖で漁をすること、また刀は小万の形見であることに因んで、それぞれ周りに描かれているのだと思われます。

Kom70  コマ絵は明らかに源氏の白旗です。英泉・広重版木曽街道の「大津」は、宿場町から琵琶湖を望む風景となっています。国芳のコマ絵は、従来の作品を見てくるとこの水の流れは清水を表現していると推測され、しかも、山並が描かれていることを勘案すると、英泉・広重版とは視線を反対に向けて、逢坂山(逢坂の関)付近にあった関の清水をイメージするものではないでしょうか。保永堂版東海道の「大津」は「走井」を題材としていたので、それとの重複を避けたという見解です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

六十九 草津 冠者義髙

版元:湊屋小兵衛 年代:嘉永6(1853)年1月


Kn69  「冠者義髙」と言えば、清水の冠者義髙という人物がいます。木曽義仲の嫡男で、義仲と源頼朝との対立後、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下り、人質になった人物です。

 ところが、国芳が画題としているのは、嘉永6(1853)年正月中村座初演の歌舞伎『襷廓三升伊達染』(こぞってみますくるわのだてぞめ)の「馬斬り」の場面だと判ります。三代豊国にもほぼ同じ場面を描く二枚続の役者絵があります。これらは、『太閤記』を世界とする狂言を題材にしたもので、懐手の侍は、小田春永(織田信長)の子・三七郎義孝(織田信孝)で、義孝は真柴久吉(羽柴秀吉)が高野山に納める祠堂金三千両を積んだ馬を堺の大和橋で襲い、馬士を切り捨て金を奪います。そこに捕手が駆けつけるのですが、義孝との名を聞いて一同平伏し、義孝は悠々馬を引いて立ち去るという結末です。「冠者義髙」とは、三七郎義孝(信孝)と考えるべきです。なお、作品番号六十七は、六十九の誤りです。

 三七郎義孝(頼孝とも呼ばれます)は八代目市川団十郎、馬士の八蔵は中村鶴蔵の役者絵で、このシリーズでは唯一でしょうか、はっきりと役者の似顔絵となっています。国芳の当該木曽街道シリーズが役者絵を基本に据えているという、当講座の見解を証明するものだと思われます。背後の蔵には、「大當」の文字の他に、版元湊屋、絵師国芳の意匠が入っています。また、標題は、草鞋などの馬士(馬子)支度で囲まれています。

 さて、宿場名「草津」がどうして「冠者義髙」と繋がるのでしょうか。当該シリーズの「目録」を見ると「草津 馬士の八蔵」と記され、国芳は、「冠者義髙」に斬られる「馬士の八蔵」の方に注意を促しています。とすると、「草津(追分)」→「馬子の追分節」→「馬士(馬子)の八蔵」という迂遠な繋がりが答えとなるのでしょう。ちなみに、追分節は木曽街道の「追分」がその発祥です。

Kom69  コマ絵の形は、既述した「馬斬り」の場面に掛けて、馬士の草鞋です。英泉・広重版木曽街道の「草津追分」は、天井川である草津川を北側から追分の常夜灯方向を望む情景を描いています。これに対して、国芳のコマ絵は石垣が二つ見えています。おそらく、草津の宿場の入り口にあった見附のイメージではないかと思われます。名所旧跡は多いにもかかわらず、「守山」「草津」と急に風景が曖昧になってきたように感じられます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

六十八 守山 達磨大師

版元:高田屋竹蔵 年代:嘉永5(1852)年7月


Kn68  「達磨大師」は、5世紀後半から6世紀前半の人。インドから中国に来て、中国禅宗の開祖となりました。なお、その容貌に特徴があって、眼光鋭く髭を生やし耳輪を付けた姿で描かれることが多いです。また、達磨が嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされる「面壁九年」の伝説が有名です。ここから、その修行によって、達磨の手足が腐ってしまったという逸話が起こりました。これが、玩具としてのだるまさんの由来で、縁起物として現在でも広く親しまれています。

 宿場名「守山」から、山盛りの蕎麦を発想し、これに「面壁」=「麺へぎ(盆)」の修行で有名な「達磨大師」を当てるという、俗雅一体となった作品となっています。麺を食べる達磨のアイデア自体は、本作品の前に複数存在し、横大判『流行達磨遊び』や平木浮世絵美術館によると読本『風俗大雑書』などにその例があります。弟子の芳年の『月百姿』にも、典型的な達磨の姿を見ることができます。画中の二八蕎麦屋の背後に見えるのは大川で、ひょっとすると、柳橋から猪牙船に乗って吉原に出かけようというのかもしれませんし、店の手前に揃えられた下駄も、座禅を組む達磨には滑稽な履き物と映ります。標題は、画中の提灯の絵にも描かれる、達磨の払子(ほっす)で囲まれています。

Kom68  コマ絵は、頭を右にして寝ている、玩具のだるまさんの意匠です。英泉・広重版木曽街道の「守山」は、三上山を望む守山宿の風景です。国芳のコマ絵は、順当ならば同じく三上山の方向を見るものでしょうが、全体図の達磨大師を勘案すると、視点を反対方向にとって遠く比叡山の方向を見るものではないでしょうか。


 なお、中国禅宗の燈史を伝える『景徳傅燈録』(けいとくでんとうろく)によれば、達磨大師は釈迦から数えて28代目の弟子に当たるとされています。コマ絵の背後に敢えて「二八蕎麦屋」の看板が描かれていることや、そもそも達磨大師と蕎麦の画題それ自体がこの伝承を踏まえてのことだと理解されましょう。(2016年3月31日付記)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

六十七 武佐 宮本無三四

版元:住吉屋政五郎 年代:嘉永5(1852)年6月 彫師:須川千之助


Kn67  当該シリーズでは、松井田の「松井民次郎」、塩尻の「髙木虎之介」、醒ヶ井の「金井谷五郎」など、少なからず武芸者が登場していますが、その極めつけが「宮本無三四」です。国芳が浮世絵の画題とした武蔵は、巌流島で佐々木小次郎を破った実録の武者ではなく、講釈などから様々に脚色された架空の物語の中にある英雄像です。武蔵に関する国芳の作品では、大判三枚続『宮本武蔵、肥前にて背美鯨をさしとおす』図が秀逸で、野衾(のぶすま)退治の作品としては、大判『美家本武蔵 丹波の国の山中にて年ふる野衾を斬図』が先行しています。弟子の芳年の『美勇水滸伝』にも同様の作品があります。宿場名「武佐」と「無三四(武蔵)」が掛けられています。ところで、作品番号四十八は六十七の誤りですが、あまりにも違いすぎます?

 作品の構図は、飛騨地方など山間の地で使われた籠渡を使って、蝙蝠に似せて描かれた野衾を退治しようとする武蔵です。二刀流の達人が片手しか使っていないところがミソです。標題の周りは、山間の渓谷のイメージです。

Kom67  コマ絵の形は、深山に生える漢方でも最上薬の茸である霊芝です。英泉・広重版木曽街道の「武佐」は、日野川の舟橋の風景ですが、国芳のコマ絵は、その先にあった鏡山の情景ではないでしょうか。『木曽路名所図会』巻之一の図版「鏡山」と似ています。なお、同年10月の年月印の三代豊国の役者木曽街道は、「鏡山」と特定しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

六十六 越川 鷺地平九郎

版元:上総屋岩吉 年代:嘉永5(1852)年7月


Kn66  「鷺地(池)平九郎」は、太平記の世界、楠正成、楠正行(まさつら)親子の活躍を彩る人物です。山田意斎(案山子)の読本『楠正行戦功図会』(前編は文化4・1821年、後編は文化7・1824年)に登場します。富田林の農民の子ながら、足利直義の軍を討つために参集し、湊川合戦では17人の大将の首級をあげ、正成に見せたとあります。正成の家臣の鷺池九郎右衛門の養子となり、以後、鷺池平九郎と名乗ります。国芳の浮世絵にも度々描かれ、『本朝水滸傳剛勇八百人一個』などがあります。弟子の歌川芳年も『和漢百物語』で採り上げています。うわばみ、大猪などを退治する構図が多いのですが、本作品は前掲『楠正行戦功図会』を参照したのでしょうか、湊川合戦であげた首級を討った大鉞(まさかり)の血を川で洗っているところです。「血の川」→「(え)ちかわ」→「越川」という繋がりでしょう。標題は、槍、大槌、甲冑など、鷺池平九郎の武勇に因んで戦道具で囲まれています。

Kom66  コマ絵の意匠は、鷺池平九郎の名から、鷺鳥をかたどったものです。英泉・広重版木曽街道の「恵智川」は、宿場の南を流れる恵智(愛知)川とそこに架かる無賃橋を描いています。国芳のコマ絵は、愛知川の宿場から西国巡礼32番目の札所・観音正寺がある観音寺山を遠望している図と考えられます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

六十五 髙宮 神谷伊右衛門

版元:小林屋松五郎(文正堂) 年代:嘉永5(1852)年8月 彫師:須川千之助・大久


Kn65_2 釣りをする「神谷伊右衛門」、通例は田宮(民谷)伊右衛門と来れば、『東海道四谷怪談』三幕目の「深川隠亡堀(おんぼうぼり)」がすぐに思い出されることと思います。作品二十一の「追分」での事件に引き続いて、帰宅した伊右衛門は按摩の宅悦に殺害されたお岩と折檻し殺害した小仏小平とを戸板の裏表に打ち付け、不義密通の罪を被せ、川に流します。そして、件の釣りの場面となります。日が暮れ帰りかける伊右衛門の前に戸板が流れつきます。引き上げると、お岩の死骸が形相凄く呪うので、突き放すと裏返って、今度は小平の死骸になるという緊迫の名場面です。国芳には、時々見られる手法ですが、まさに戸板返し直前を本作品で描いています。宿場名「高宮」との関連は、「(た)かみや」→「神谷」伊右衛門と繋げているのでしょう。なお、作品中の遠景の小さな人物は、お岩の妹お袖の形式的な夫で実の兄である、直助(鰻曳き)権兵衛かもしれません。標題の周りは、伊右衛門の釣り道具で囲まれています。

Kom65  コマ絵の意匠については、一体として見ればジャバラ折にされた文のようにも見えるのですが、折れ線の山の部分に補助線を入れれば、四本の矢羽根が浮かび上がってきます。すなわち、国芳の全体図が『東海道四谷怪談』から画題を選んでいたことに因んで、「四つの矢」→「四谷」という地口をコマ絵のデザインにしているのです(作品二十四参照)!もともと、塩冶(浅野)家の家紋は、丸に違い鷹の羽ですので、その羽組を壊して、不忠の伊右衛門を象徴させるという意図です。

 英泉・広重版木曽街道の「高宮」は、犬上川の仮橋とその向こうにある宿場の風景を南(京)側から描いています。コマ絵の風景も、おそらく、同じ地点から宿場を眺めているように思われます。英泉・広重版が、松の木を額縁のように使ったのとは異なって、一本の大木越しに描いていますが…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

六十四 鳥居本 平忠盛 油坊主

版元:高田屋竹蔵 年代:嘉永5(1852)年6月 彫師:朝仙


Kn64  「平忠盛」と「油坊主」の話は、元は『平家物語 巻第六』「祇園女御」に語られていて、白河上皇と忠盛との緊密な関係を示す逸話として知られています。そして、同時に多くの絵師が描く古典的画題でもあります。歌舞伎では、「だんまり」に取り入れられる場面です。

 平忠盛は、父親の代から白河院に仕え、荘園の取り立てや瀬戸内の海賊平定などによって、院から篤い信頼を得ていた人物です。平清盛の父と言った方が判りやすいかもしれません…。『平家物語』に紹介される話によると、白河院には祇園社(現在の八坂神社)の近くに祇園女御という側室がおり、ある雨の降る夜、院が祇園社の境内を通ると、青白く光るものがあり、院は鬼か、怪物かと思い、御供の忠盛に斬るように命じました。ところが、忠盛が斬らずに正体を確かめると、社の灯籠の灯に油を注いで歩く承仕法師(じょうじぼうし)でした。この坊主の被っていた藁笠に灯籠の灯が映えて、青白く光って見えただけのことでした。そこで、院は忠盛の沈着さを褒め、褒美に祇園女御を下賜されたという事です。そして、生まれたのが清盛ということで、「清盛は白河院の皇子か?」という伝説が生まれます。祇園社の「鳥居の本」での事件ということで、宿場名「鳥居本」に掛けられました。標題は、灯籠とこぼれた油の間に油坊主が身につけていた藁笠と下駄で囲まれています。

Kom64  コマ絵の意匠は、作品五十「御嶽」の悪七兵衛と同じく、平家の「浮線蝶」紋かとも思えるのですが、ヒゲの数からすると、「対の揚羽蝶」紋ではないでしょうか。英泉・広重版木曽街道の「鳥居本」は、摺針峠の「望湖堂」からの琵琶湖の眺めを描いています。『木曽路名所図会』巻之一にも「磨針峠」の図版がありますが、いずれも、国芳のコマ絵とは異なっているようです。コマ絵は、摺針峠を離れて「鳥居本」の宿場を見遣っているように思われます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

六十三 番場 歌之介 吃又平

版元:伊勢屋兼吉 年代:嘉永5(1852)年9月


Kn63  宝暦5(1708)年、近松門左衛門原作大坂竹本座初演、人形浄瑠璃『傾城反魂香』(『カブキ101物語』170頁参照)を元として、歌舞伎では脇役「吃又平」を主人公とする「将監(しょうげん)閑居」(吃又)の場だけが演じられていて、国芳もこの場面を画題としています。「歌之介」は、狩野元信の弟子で、元信が仕える主君六角頼兼の姫銀杏の前が危難にあったことを土佐将監に知らせにくる役柄です。又平の弟弟子が使者に立ち姫を助けに行くのに対して、又平は追っ手があるかないかの見張り番をさせられることになります。国芳が描いているのは、まさに、この場面です。この後、画中にも見える手水鉢に描いた絵が反対側に抜けるという又平の奇跡があって、将監より土佐光起(みつおき)の名を貰い、大津絵師から土佐派の絵師に出世する有名な場面となります。しかし、その直前を描いたのは、宿場名「番場」と「見張り番をする場面」とを掛ける必要があったからでしょう。
                                                            
 なお、又平の名画の奇譚については、国芳は何度か画題としていて、『東海道五十三對 大津』においても広重との合作で描いています。標題の周りは、大津絵の主人公の持ち物、たとえば、藤娘の笠・藤、鬼の奉加帳・鉦、矢の根男の矢、槍持ち奴の槍、瓢箪鯰の瓢箪などで囲まれています。

Kom63  コマ絵は、歌之介や吃又平など、土佐派絵師の話ですから、筆の意匠となっています。英泉・広重版木曽街道の「番場」は、宿場の出入り口を西側から描いています。国芳のコマ絵はそれとは異なって、街道脇に水の流れが見えています。これをヒントにすると、番場宿から摺針峠に向かう途中にある小摺針峠の泰平水ではないかと推測されます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧