「町人絵師ではない」広重の東海道五十三次

 広重は、幕府の定火消し同心として安藤家の職責を果たした後に、浮世絵師として自立していて、端(はな)からの町人絵師ではありません。そのような広重の生い立ちは、創作された作品の登場人物の姿や表情に意外にも反映されています。これは、町人絵師国貞の美人東海道との対照から、浮かび上がってきた事柄です。突き詰めれば、「武士的感覚」と「町人的感覚」との違いのお話です。個別的には、当ブログで宿々ごとに採り上げてきましたが、典型的な事例をいくつか挙げて再度説明します。

 たとえば、「見附」においては、天竜川の渡船の船頭と船人足に注目下さい。広重の構図では、もし船が揺れたら川に落ちてしまいそうなスキが二人にあります。一方、国貞作品では、重心が安定していて、後ろ姿にも気配りが感じられます。また、「御油」においては、広重は、旅籠の窓から両肘をついて物憂げな顔をした女中を描いています。ところが、国貞は、その女中に客の荷物を運ばせているのです。客商売からすれば、国貞の人物表現が正解と思われます。広重の物憂げ顔の女は、心情表現としてはおもしろいのですが、その場の状況からは見当違いの姿なのです。

 もちろん、そのような広重の表現が全て不適切だと言うつもりはありませんが、町人的感覚とは違うものであるということが重要です。したがって、今日私たちが広重作品に感じるのと同様の情緒を江戸庶民が持っていたかどうかは疑問です。武士的感覚からの表情、表現、姿など、納得いかないと思った者もいたと思われる反面、新鮮なものと受けとめた者もいたでしょう。圧倒的支持だったとは思われないのですが…。

 広重作品に頻繁に登場する、表情を見せない後ろ姿の人物などは、一定の形式と姿勢を以て時間を過ごす、侍の語源となった「候う」姿から来ているのでしょうね。姿勢を崩さなければ、心と気持ちは別空間に行っていても何のお咎めもないのが武士世界の一端なのです。そのような幽体離脱(?)状態を、広重は意識していた節があって、広重の初期斎号の「一幽斎」の採用も同様の思考から来ているものと推測しています。幽玄世界を目指す趣向は、武家の生活体験から生まれたという主張です。

 広重が武士であったということは、創作上有利に働く点も少なくなく、その筆頭は、体系的知識や教養を学んでいることから、作品の構成に破綻が少なく、常識的で穏当な表現となるということです。幕府の取締を常に意識する浮世絵業界にとって、これは重要な資質と思われます。とくに名所絵という新分野においては、体系的知識・教養は作品の良きバックグラウンドになったことでしょうし、結局は、北斎がこの分野から放逐されてしまった理由も、この点にあったのだと確信しています。

 ちなみに、同じ武士でありながら、職責を全うした広重と途中挫折した(渓斎)英泉の作品表現にも相当の違いがあるのですが、その二人が合作して、『木曾街道六拾九次』を版行していることは、以上の文脈からすれば、大変興味ある事実です。広重と英泉の比較からは、一体どんな分析が得られるでしょうか。とても気になるとは思いますが、それは、また、機会を改めて…。

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「風景画ではない」広重の東海道五十三次

 広重の東海道五十三次は、従来言われていたような実景描写を旨とする風景画ではなくて、一種の構想図です。したがって、その構想理由を探ることが作品の味わいには極めて重要で、国貞の美人東海道シリーズとの比較も、このような思考からの試みでした。実際、当ブログで行った作業は試論の域を出ないものですが、それでも、いくつかの成果が得られたように思われます。それを、結論代わりに、以下に総括しておきます。

◆広重の雨の景色
 広重は、雨や雪の風景を表現するのに巧みで、快晴の風景を好む北斎とは対照的です。保永堂版東海道五十三次に限っては、雨の風景は以下の三宿です。

①「大磯 虎ヶ雨」
 虎ヶ雨は俳句の季語にもなる、曾我の仇討ちがあった旧暦5月28日の雨です。ちょうど梅雨時の雨ですが、『曾我物語』を題材に、その兄十郎の恋人虎御前の涙雨を想像させる工夫において選ばれたものです。

②「庄野 白雨」
 当ブログの分析では、日本武尊の死を悼む慟哭の雨と理解しました。つまり、白雨を白鳥の陵を象徴・暗示させる意図的な天候選択と捉えました。まさに、道中、白雨に祟られて大変だったという構成です。そして、その熱田の神(日本武尊)の祟りを、亀山の雪で断ち切ったと考えています。亀は縁起の良い動物ですし…。

③「土山 春之雨」
 「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る…」という鈴鹿馬子唄がテーマになっていることは間違いありません。ただし、作品を見ると、坂上田村麻呂を祀った田村神社が描かれています。征夷大将軍となった坂上田村麻呂には多くの伝説が生まれ、ここ鈴鹿山にもその一つがあります。田村神社の神域に入ったことを表す雨と見ることができます。なお、徳川幕府将軍が、征夷大将軍であることも忘れてはなりません。

◆広重の雪の景色
 シリーズ中の最高傑作とも評価される「蒲原」に雪が降らないことは、度々指摘されるところです。ところが、では、なぜ雪景色なのかということはあまり語られていません。実景描写の風景画という視点から離れれば、色々な可能性が浮かび上がってきます。

①「蒲原 夜之雪」
 蒲原の夜の雪には、「奥州への旅立ち」を果たせなかった浄瑠璃姫の悲哀とその死の情緒が表現されていると考えます。雪の持つ、死と再生の観念は、物語の表現には非常に有効です。昼間の現実の雪ではなく、まさに夜の、思いの中の雪なのです。 

②「亀山 雪晴」
 亀山は、元禄14年、城下で石井兄弟が父と兄の敵を苦節28年にして討ち果たした、元禄曾我の舞台です。仇討ちの達成された後の、心の雪晴なのです。広重の武家的感覚から、また画中の大名行列を考えても、忠臣蔵の仇討ち後と同様の達成感が雪景色に込められているのだと思います。

◆広重の風、霧などの景色
 風がテーマになっている作品は、「掛川 秋葉山遠望」、「池鯉鮒 首夏馬市」、「四日市 三重川」などがあります。凧の糸が切れて飛んでいく「掛川」の風は、秋葉権現・天狗の団扇の風です。突如鯨の背のような山が現れた「池鯉鮒」の風は、池鯉鮒神社の主の存在を想像させます。「四日市」には蜃気楼伝説があり、旅笠を飛ばす風は神幸する伊勢太神宮の仕業です。一陣の風に神を見、それぞれを神風と感じるのが日本人の心なのではないでしょうか。また、「三島 朝霧」は、三島明神の静謐と神威を醸し出す妙手と考えるべきです。

 このように、広重の天候の選択には、日本人が今日忘れつつある、自然と人との心理的共感関係が影響を与えています。雨には死を悼む気持ちや畏れ多いものを隠す感情が、雪にはその死を断ち切り、再生し、思いを鎮める意図が、風や霧には、見えない存在を躍動・顕現させる工夫が隠されています。実景描写を第一義とする「風景画」というアプローチでは、目に見えるものしか見えてきません。おそらく、この辺りに、今日的「風景画」と江戸時代の「名所絵」との相違があるのではないでしょうか。

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56.東海道五十三次之内 京都ノ圖 (国貞)

Kunisada056_n1  国貞の美人東海道には、「京三條大橋」の外に、さらにもう一枚「京都ノ圖」が加えられ、計56枚の美人図となっています。画帳に仕立てる際の枚数上の配慮・便宜という形式的理由もありましょうが、大奥の御殿女中から始まって十二単衣の御所の女御で終わる構成を貫きたかった実質的理由もあると思われます。背景は、秋里籬島『都名所図会 巻之一』(安永9年刊)の「内裏之圖」を参考にしていると思われます。加えられた十二単衣の美人図は、後に、源氏絵で一時代を画す国貞ですから、お手のものと言えましょう。これこそ、美人の誉れ高い、小野小町見立てなのかもしれませんし、この一枚を加えることが、美人画の大家・国貞の自負の表れとも考えられます。

 広重の保永堂版東海道は、何よりも、日本橋が大名行列をもって始まった点、そして、城と大名行列ないしは武家一行の描写や本陣の紹介も多々あって、大名や武士生活を描く趣向が特徴的です。その延長線で、幕府権威を直接非難するようなことは避けて、政治や権威とは全く無関係な、たわいのない笑いを旨とする、俳諧・諧謔趣向を貫いています。といっても、広重も浮世絵師ですから、浮世の風俗や流行っている行事などは自然な対応で受け入れ、したがって、『東海道中膝栗毛』の大ブーム、伊勢参りに代表される全国寺社参り、講中旅行や巡礼は、重要なテーマとして採用されています。

 広重の武家的感覚からすれば、江戸日本橋を出発した大名が京三条大橋に到着すれば、シリーズは完結するのかもしれませんが、国貞は、日本橋に町民を描き、京都に御所(天子)を加えて、広重の足りない部分を補足しました。これは、シリーズ各作品全てに亘って言えることで、それ故、広重と国貞の二シリーズを比較することが、さらに広重作品のより深い理解にも繋がるのです。これが、当ブログの基本思考でした。

 さて、広重は意識していなかったかもしれないのですが、版行された東海道シリーズは、結果として、人々の目を、伊勢、近江、京(山城)、浪花へと向けさせることとなりました。実際に、広重も、『東海道中膝栗毛』の続編に従って、弥次・喜多と歩調を合わせ、『近江八景』、『京都名所之内』、『浪花名所図会』の各シリーズを版行していきます。このことは、家康、幕府将軍、東照大権現の世界から、秀吉、天皇家、天照大御神の世界へと意識が移動していくことを意味します。こうして、人々は、武士の都・江戸の他に、皇族・貴族の都・京都、商人の都・浪花があることを自覚するのです。

*掲載作品は、市民の浮世絵美術館蔵です。

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55.東海道五拾三次 大尾 京師 三條大橋 :京三條大橋

 東海道は、逢坂山を越えると、やがて伏見街道との分岐点・山科の追分、その先で逢坂山の北側を回ってきた小関越えの道と合流します。「山城国」に入って、いよいよ東海道の西の起点・三条大橋までもう少しです。

Kunisada055_n  「江戸日本橋之圖」から始まって「京三條大橋」で終わる構成ということで、国貞は、橋脚部分をカットした構図ですが、賀茂川に架かる三条大橋の袂から東山を望む景色を描きました。橋の上の人物表現は、『伊勢参宮名所図会 巻之一』「三條橋」を踏襲しているようです。江戸では禁止されていた被衣(かずき)姿の女性がいるのも、京を意識させるためのものです。重ね合わされた美人は、京都北部の山から薪や柴を売りに来る大原女です。「掛川」の美人風景とほぼ同じ構図であることに気付きます。荷物を運ぶ牛は、蒲原を想起させ、牛を山村や田舎のイメージとして利用しています。よく見ると、柴の上に梅の花が挿してあり、北野天満宮(天神)見立ての可能性があります。

 広重は、橋の左詰に武士の一行を描き加えて、日本橋を発った大名行列がようやく京三条大橋に着いたことを表現しています。特徴的なのは、橋の上の、茶筅売りと被衣姿の女性で、いずれも、都の風俗を代表するものとして描かれています。背後の風景に目を向けると、緑の山の中腹に清水寺があり、その先に八坂の五重の塔が見えています。中央の大きな屋根は双林寺、さらに左の大屋根は知恩院と思われます。名所紹介ということです。茶色の山景は、おそらく、比叡山をイメージするものでしょうが、そうだとするとかなり右に寄せられたことになります。

 ちなみに、三條大橋は、豊臣秀吉の命で増田長盛が架け替え、橋杭は我が国初の石造りであったとあります。この解説は、実は、『都名所図会』にあるものです。広重が『東海道名所図会』を参考にしていたことは明らかで、同種類の『都名所図会』をも知っていた可能性はあります。にもかかわらず、広重は橋杭を木製として描いています。東海道シリーズを全体として見てくると、広重は、各種図会を参考にする場合には、構図や配置は別として、基本的には個々の構築物などを修正することなく、そのまま描き写しています。したがって、広重の「京師 三條大橋」は、同図会をそのまま転用したと考えられます。理由は、世に普及している資料に作為を加えない方が、幕府の取締対策として安全であるからです。また、仕事も速いですし…。

 当時、石造りであった三条大橋の橋杭を広重が木製に描いた事実は、広重がこの時点で京都に旅していない証拠であるというのは不正確な表現で、初めから、東海道シリーズは、先行する各種図会などの資料をもとにした広重の構想図であり、それは、当ブログが個々に検討し、明らかにしてきたところです。版元の第一の営業意図は、手軽なサイズで、かつ錦絵(オールカラー)として制作する点にあったと推測されます。「まのあたりにそこへ行ったここちがする」とか「真景」とかいう商売文句に騙されてはいけません。

*掲載作品は、国立国会図書館蔵です。

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54.東海道五拾三次之内 大津 走井茶屋 :大津ノ圖

 「大津」に入るには、東海道は古来より有名な「瀬田の唐橋」を渡っていきます。三上山(近江富士)に棲む大百足を矢で射って退治する、藤原秀郷が龍女と出会ったのがこの橋でした。大百足退治の結果、多くの宝物と尽きることのない米俵を貰ったことから、俵藤太と呼ばれました(当ブログ・チリメン本『俵藤太』参照)。

Kunisada054_n  国貞は、例によって、『東海道名所図会』より、大津絵を売る店先と旅人達の情景を描いています。「鬼の念仏」(夜泣き直し)の看板が目を引きますが、その他に、「外法大黒」(無病長寿)、「雷」(雷除け)、「鷹匠」(五穀豊穣)、「藤娘」(良縁)、「瓢箪鯰」(水難除け)、「槍持奴」(道中安全)、「弁慶」(火難除け)、「矢の根男」(悪魔退治)などがあります。最後の「矢の根」は、大百足を矢で射って退治した俵藤太伝説からも理解できると思われます。「大津」には、関寺小町の伝説がありますが、ここに描かれる美人は、京島原遊女の先取りかもしれません。また、着物の杓の柄からすると、女性に人気のあった走井の茶屋を想起させようとしているように思われます。

 国貞の画題を避けつつ、広重もまた『東海道名所図会』より、副題にある「走井茶屋」を選びました。走井は、背後の山から勢いよく走り下る山水が、井戸より溢れんばかりに湧き出す名所です。広重作品には、名物茶屋(餅屋)の前の井戸で、男が桶に手を入れている様子が描かれています。これは、琵琶湖のもう一つの名物、源五郎鮒を冷やしているのでしょう。「水口」以来、引き続き、名物紹介の絵となっています。

 ただし、これでは『東海道名所図会』そのままなので、物資流通、集積の大津湊を意識して、米俵や柴を牛車で運ぶ人足を加え、京(逢坂山)に向かわせたようです。米俵を運ぶ最初の牛車は俵藤太伝説、木材を運ぶ牛には関寺(牛塔)伝説があるので、後の二台が関寺(牛塔)伝説を暗示するものならば、なかなかのアイデアです。なお、後版では、背後の山が削られています。これは、イメージとして入れた逢坂山の位置が大きくずれているという指摘を受けてのことでしょう。牛車の来る方向は、琵琶湖湖畔ですから、山はあってはいけません…。

*掲載作品は、国立国会図書館蔵です。

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53.東海道五拾三次之内 草津 名物立場 :草津ノ圖

Kunisada053_n  国貞の「草津」は、「東海道」と「中仙道木曽街道」の追分道標を描いていますが、これは『東海道名所図会』を写したものです。よく見ると、石の道標の上に紐で結ばれた猿が逃げており、その下には猿回しの師匠に吠えかける二匹の犬が描かれています。たぶん、東海道の犬と木曽街道の猿との出会いをおもしろおかしく表現するもので、子供や子守をする女達も集まって騒いでいるようです。前面に描かれた美人は、これに対して、被衣(かずき)を被った上品な出で立ちで、都が近いことを想像させます。

 ところで、国貞の前掲「岡崎」でも猿が描かれていましたが、そこでの読み説きを思い出していただくと(当ブログ・東海道五拾三次之内「岡崎」参照)、犬に追われる猿(回し)には、別の解釈も可能なのです。すなわち、猿を豊臣と見るならば、二匹の犬は徳川になります。犬に追い立てられて追分の道標に逃げている猿の姿は秀吉ではなくて、秀頼と見るべきでしょう。二匹の犬は、家康と秀忠です。石山本願寺の跡地に建った大坂城を巡る攻防、すなわち、大坂の陣を暗喩しているのです。道標の前の高札場も、何となく、城の天守閣に見えてきませんか。鞭を振って犬を追い払っている者は、豊臣恩顧の武者、なかでも、真田丸を築いて奮戦した真田幸村(信繁)かもしれません。となれば、大坂冬の陣です。

 被衣姿の美人は、近江浅井氏の出身、秀頼の母・淀君(茶々)と解してはいかがでしょうか。

 さらに、国貞作品で、犬と猿との喧噪を子供や子守姿の女達が見守っているのは、草津が、名物「姥ヶ餅」(うばがもち)のご当地だからです。近江源氏の嫡流・佐々木氏の子孫を養うために乳母が作って売った餅が由来となっています。そこに、歌舞伎『近江源氏先陣館』において、大坂冬の陣が鎌倉時代の近江源氏の戦いに置き換えられ、佐々木盛綱・高綱が真田信幸・幸村になぞらえられている事実を重ね合わせると、国貞の作品は微妙な問題を含んでいることになります。

 広重は、副題「名物立場」が示すように、草津宿郊外の「うばのちや」を、やはり、『東海道名所図会』より切り取りました。名物の「姥ヶ餅」を売る立場茶屋の情景を克明に描いていますが、都に向かう早駕籠と草津方向に進む荷物人足を加えた以外に、広重自身のオリジナリティーはほとんどありません。右側の道標は、琵琶湖矢橋湊と東海道を分けるもので、琵琶湖が近いことが暗示されています。水口、石部、草津といずれも名物紹介に走り、ネタ詰まりとシリーズ完結への焦りが読み取れます。なお、幕府御家人の広重には、国貞のような大坂の陣を仮託しようとの思惑はないと考えられます。

*掲載作品は、国立国会図書館蔵です。

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52.東海道五拾三次之内 石部 目川ノ里 :石部之圖

Kunisada052_n 国貞は、『伊勢参宮名所図会 巻之二』「石部」を見据えて、「水口」の暇な情景に対して、「石部」では講札の下がる旅籠の客あしらいをする女中や女客を運ぶ駕籠人足などを描き、明らかに両宿場を対照させています。前景の美人については、石部に遊女はいないということからすると、後述「伊勢踊り」(伊勢音頭)を意識した、舞姿の女性という趣向でしょうか。作品は、「京立ち石部泊り」という言葉に対応した旅籠の様子で、一見すると、どこの宿場にもありそうな状況です。しかし、深読みのしすぎかもしれませんが、駕籠には女が乗り、入口には男が腰掛けていて、もし、この二人が、石部を舞台にした心中物『桂川連理柵』(かつらがわれんりのしがらみ)を意識したものならば、この旅籠は、お半と長右衛門が結ばれたところとなります。

 『東海道名所図会』には、「目川とは村の名なれど、今は名物の菜飯に田楽豆腐の名に襲ひて、何国にも目川の店多し。豆腐百珍の一種となるも、かれが全盛なるべし。」との記述があり、「いせや」という店の紹介がなされています。広重「目川ノ里」の作品がこれを写したものであることは、一目瞭然です。いよいよ、作品の完結を急いだ状況が読み取れます。「目川ノ里」は、石部というよりは草津に近い立場(たてば)にあります。この題材選択は、国貞との棲み分けの結果と考えるべきです。

 さて、広重の作品では、店の前にたむろする旅人達が、踊りをしている一行を振り返っています。これは、京都を中心に起こった「伊勢踊り」で、伊勢参りの人達かと思われます。ここでまた、関西方面からの伊勢参りの情景が加えられることとなりました。店の背後は、琵琶湖の辺で、さらにその背後の山は、湖水越しの比叡山ということになります。

*掲載作品は、国立国会図書館蔵です。

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51.東海道五拾三次之内 水口 名物干瓢 :水口之圖

Kunisada051_n  国貞は、ここでも『伊勢参宮名所図会 巻之二』「水口」を利用して、宿場内の旅籠、茶屋等を描き、手持ち無沙汰風の女中と客待ちの駕籠屋など、休憩中といった感じに構成しました。外に、六部らしい旅人が歩いています。なお、建物の雰囲気は、視点は変えてありますが、『東海道名所図会』の「目川」の「いせや」に似ているような気がします。さて、これらを背景として、前に立つ振り袖美人の意図はどこにあるのでしょうか。前掲「土山」で紹介した歌舞伎『恋女房染分手綱』の「重の井子別れ」の舞台がここ「水口」であったことを考えると、美人は、重の井が乳人となった調姫(しらべひめ)を彷彿とさせます。

 対照的に、広重は、郊外の「名物干瓢」作りの夏景色としました。広重には、不思議な作業と思われた干瓢作りの紹介です。画題に困ると時々登場する大名行列をここでも描くというわけにもいかないところが、当図の本当の動機と感じられます。東海道シリーズの完結にひた走りですが、包丁一本で、紐のように長く切っていく技とその吉景に、自らの作品制作への思いを重ね合わせているとも思われます。本作品を含めて、あと5枚で完結する、その最初の一枚目です。画面の中央当たりに大木を持ってくる構図は、「袋井」「濱松」など情景重視の作品に多く、また、名物紹介は、「丸子」「二川」「鳴海」など、庶民視線を意識した作品群に相当します。

*掲載作品は、国立国会図書館蔵です。

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50.東海道五拾三次之内 土´山 春之雨 :土山之圖

Kunisada050_n  「土山」は、鈴鹿峠を越えてだらだらと下る坂の先にある宿で、これより「近江国」に入ります。国貞の美人東海道を見ると雨に濡れる旅人が足を早める様が描かれていますが、『東海道名所図会』には、「西立場に多賀神社へ参詣道の標石あり」とあり、国貞は、その絵図を『伊勢参宮名所図会 巻之二』「土山」に見つけ、それを元絵に作品を仕立てています。そして、それに合わせて傘を持って雨支度をした立ち姿の美人を重ねました。この美人は、縦二枚続作品でよく見る構図です。国貞も、広重も、『仮名手本忠臣蔵』の各種要素を作品中に取り込んでいることは既に見てきたとおりですが、江戸庶民は、当該「土山」の美人を目にして、たぶん、同忠臣蔵五段目の「雨の山崎街道」を想像したように思われます。都はずれの山崎街道、蛇の目傘を差す斧定九郎の見立てです。旅も京近く、近江に入ってきましたし…。

 さて、広重もやはり副題「春之雨」とあるように雨の景色です。では、これは国貞の考案を拝借したのかというと、それは違い、土山の雨の天気がつとに有名であった結果です。すなわち、「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」という鈴鹿馬子唄を受けたものなのです。それでも、広重は、天気は同じですが、国貞とは異なって、赤合羽と青色半合羽で身を包み、粛々と歩む大名行列を登場させ、オリジナリティーを主張しました。

 広重の作品は、田村川に架かる板橋を大名行列が渡る構図ですが、『東海道名所図会』および『伊勢参宮名所図会』を参考にすると、その先に見える森の中には平安時代の武官・坂上田村麻呂を祀った古社の田村神社があることが判ります。この雨は、降雨量が多い土地柄だけから描かれたものではなく、たとえば、雨は亀山の方が多い位ですので、この古社に係わって降る雨と考えるのが自然でしょう。かつて、関所が置かれる程の要地であり、また、後に盗賊・夜盗とされて成敗されてしまった者達の怨念を征夷大将軍坂上田村麻呂の霊力で抑えたのが、おそらく田村神社であって、そのような鈴鹿山の坂上田村麻呂伝説を背景に、土山に降る雨は田村神社の怪しい雰囲気を伝える演出として選ばれたのでしょう。(「三島」の三島神社も霧に包まれていました。)副題「春之雨」は、山の神が里に下りてくる春の意です。なお、広重作品で、大名一行が田村神社に頭を下げているように見えるのは偶然ではなく、御家人広重の、征夷大将軍に対する敬意の表れと見ることもできましょう。

 ちなみに、鈴鹿馬子唄には、さらに「与作思えば照る日もくもる 関の小万の涙雨」とあります。これは、『丹波与作待夜小室節』(歌舞伎『恋女房染分手綱』)の哀愁話ですが、雨を単純に自然現象と考えない日本人の心情を伝えるものとして敢えて紹介しておきます。

*掲載作品は、国立国会図書館蔵です。

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49.東海道五拾三次之内 阪之下 筆捨嶺 :坂の下之圖

Kunisada049_n  国貞の美人東海道は、『東海道名所図会』および『伊勢参宮名所図会』そのままに、宿の本陣を描いていますが、この構図がスケールアップされて広重の「關」の参考になった可能性があります。「亀山」が鼓、この「坂の下」が横笛と雅な雰囲気を醸し出す美人描写が増えてきます。大名や公家が宿泊する本陣ということで、良家の上品な美人表現となったのでしょう。

 広重は、副題「筆捨嶺」のとおり、昔、狩野元信が描こうとしたにもかかわらず、天候の変化が激しく果たせず、ついに筆を捨てたという伝説のある岩根山を、『東海道名所図会』より題材に選びました。奇岩と滝筋に古木などが生える風景を主体にした絵組みで、市之瀬村の立場茶屋からその風光を眺める旅人達を組み合わせました。手前に農夫が引く牛を置いたのは、おそらく、急坂を表現し、その坂の下にある八十瀬川沿いの「坂之下」宿を暗示させるものでしょう。「坂之下」自身は、難所の鈴鹿峠の東麓に位置し、宿泊客中心の宿として発展しました。

 茶屋の中では、俳句の一つでも詠もうというのでしょうか、筆と紙を手にする旅人が描かれています。筆を捨てることなく、筆捨嶺に果敢に挑戦しようとする愉快な姿と見てよいでしょう。考えてみれば、幕府御用絵師狩野元信が描けなかった風景を浮世絵師広重が描いたのですから、画中の人物は心情的には広重の等身で、ここに作品の趣向が隠されています。

*掲載作品は、国立国会図書館蔵です。

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