補説3 『東海道名所図会』の記事の影響

 当ブログの分析によると、『東海道五十三對』シリーズの過半30点以上は、その詞書きと絵のいずれかを、あるいは両方とも、秋里籬島編、鍬形蕙斎・竹原春斎等挿絵『東海道名所図会』(寛政9・1797年刊)を参考にしています。その他に、歌舞伎、人形浄瑠璃、十返舎一九著『東海道中膝栗毛』などの読み本などが下資料となっています。

 とりわけ強調しておきたいのは、東海道を巡る百科事典とも言いうる『東海道名所図会』の影響が非常に大きく、『東海道五十三對』シリーズのみならず、広重の保永堂版東海道、国貞の美人東海道などを読み解く際にも、当図会を手元に置いて鑑賞することが肝要であるということです。つまり、従来画題や画趣が不分明な作品は、その前提に同図会があったことを思って読み解いてみると、意外にも、その作品の内容がよく見えてくることがあるということです。少なくとも、『東海道五十三對』を通して知り得た各宿場・宿駅の情報を思い出しながら、各種の東海道シリーズの浮世絵を見ていくと、格段に作品の理解が進み、不分明な要素が減るに違いないと感じられます。

 たとえば、広重の保永堂版東海道の「蒲原」を考えてみましょう。『東海道五十三對』は、『東海道名所図会 巻之四』から浄瑠璃姫に関する六本松の故事を援用しています。この記事を念頭に置いて保永堂版東海道「蒲原」の景色を想像してみると、その「夜之雪」は、奥州に旅立った義経を追って「蒲原」で亡くなった浄瑠璃姫の思いを絵にしたものではないかとの思惟が浮かんできます。浄瑠璃姫の死と北国奥州への想いが「夜之雪」景色によって表現されていると考えるならば、もとより、実景図ではなくて構想図ですから、「蒲原」に雪が降るかどうかはそれほど重要ではありません。

 また、広重の保永堂版東海道の「四日市」を考えてみましょう。『東海道五十三對』は、『東海道名所図会 巻之二』から那古海の蜃気楼の話を援用しています。この記事を念頭に置いて保永堂版東海道「四日市」の景色を想像してみると、副題「三重川」に架かる橋からは那古海が鮮やかに見えわたるというのですから、画中に描かれる二人の旅人の背後には那古海が広がり、春夏には蜃気楼が見えるはずです。とすると、作品に描かれる風の様は、伊勢太神宮が熱田宮へ神幸する際の神風かもしれませんし、季節は秋ではなくて、(春)夏の風ということになります。

 当ブログが『東海道五十三對』を取り上げた第一の理由は、『東海道名所図会』の図版はもちろんのこと、まさに記事も、『東海道五十三對』を越えて、保永堂版東海道の構想に思いのほか影響を与えているということを探るためです。この一点を理解していただければ、ひとまずは、当ブログの目的は達成されたことになります。以上を踏まえて、広重の保永堂版東海道が何を具体的に構想していたかについては、他日、改めて、当ブログ上で展開したいと思います。


*すでにブログ上で公開した『浮世絵に聞く!』シリーズは、以下の通りです。

1.『冨嶽三十六景・北斎の暗号』

2.『広重と国貞の東海道五十三次』

3.『国芳の木曾街道六十九次』

4.『三代豊国、国芳、広重の東海道五十三對』

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補説2 複数の絵師と版元による合同制作

 『東海道五十三對』シリーズの作品数を問題とします。その際、「戸塚」は1点と数えた場合、「国芳画」と書かれた作品数が30点、「広重画」「広重戯筆」「広重写」と書かれた作品数22点、「(三代)豊国画」と書かれた作品8点となっています。広重と三代豊国の作品数が合計30点となっているところを勘案すると、国芳と広重・三代豊国で30点ずつ折半して制作したことが推測されます。広重と三代豊国とは良好な関係を築いていましたから、両者を足すことに問題はないと思われます。

 さらに、国芳が版元伊場屋仙三郎から『東海道五十三對』以外にも多くの作品を版行している事実を重ね合わせると、国芳・伊場仙コンビが企画の出発点にあったことは間違いないでしょう。しかも、国芳のパトロンとも言われる狂歌師梅屋鶴寿が多くの狂歌を提供していることも、国芳側が主導権を持っていたことの傍証となります。

 『東海道五十三對』シリーズの版元毎の作品数を見てみると、以下のようになります。

 ①伊場屋仙三郎 16図
 ②伊場屋久兵衛 11図
 ③遠州屋又兵衛 11図
 ④伊勢屋市兵衛  8図
 ⑤小嶋屋重兵衛  7図
 ⑥海老屋林之助  6図

 東海道の起点の「日本橋」を伊場屋仙三郎が担当していることを勘案すると、やはり伊場仙が企画の中心いたことが想像されます。ちなみに、「京」は伊場屋久兵衛で、その数も二番目に多いことから、「伊場屋」両者の連携で推進されたとも言えましょう。総括すれば、国芳・伊場仙コンビが企画を主導したことが伺えます。

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補説1 異版・変わり図の存在

 『東海道五十三對』について、以下の5ヶ所の宿場に異版あるいは変わり図の存在が認められます。

◇戸塚 : 広重(伊場屋仙三郎)→広重(伊場屋仙三郎)狂歌の変更   
◇箱根 : 国芳(伊場屋久兵衛)箱王丸→広重(伊場屋仙三郎)湯上がりの女性
◇原  : 広重(伊場屋仙三郎)竹取物語→広重(遠州屋又兵衛)与右衛門の悪漢退治
◇見附 : 国芳(伊場屋仙三郎)源頼朝の金札鶴→広重戯筆(遠州屋又兵衛)弥次喜多のスッポン騒動
◇大津 : 国芳・広重(伊場屋仙三郎)傾城反魂香→広重戯筆(伊場屋仙三郎)大津絵たちの舞踊

 「戸塚」に関しては、他の4点とは違って、作品の絵とより深く関連する狂歌に変更したことによる修正版あるいは完成版と考えられ、後版に異なった意図があるとは思えません。しかし、「箱根」「原」「見附」の広重の3点の異版は趣向を大きく変えており、また「大津」を含めた4点は本来の『東海道五十三對』シリーズと比べてやや重厚感に欠ける作品と感じられます。解説によっては、複数の版元と複数の絵師とによる短期間での制作に由来する混乱の結果と評価する説もありますが、シリーズの宣伝(予告)用作品の臭いがします。もしくは広重作品に限っての異版ということからすると、東海道物の第一人者である広重人気にあやかり、営業や制作資金回収用の作品とも言えます。いずれにしても、版元にある程度の計算があっての作品群であると考えるべきです。

 なお、上に挙げた「見附」「大津」の他に、「二川」(伊場屋久兵衛)は弥次喜多のお化け騒動を描き、「広重戯筆」と添えられています。広重晩年の大作シリーズ『名所江戸百景』の中に、『江戸百景余興』と断った作品があります。百枚を越えても、なお、制作を続ける広重の自嘲の弁とされていますが、『東海道五十三對』の「広重戯筆」作品も、これと同様、シリーズの完成とはやや距離を置いた、スピンオフ作品の可能性があります。

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「日本橋」 歌川国芳 伊場屋仙三郎

012 「手遊ひも ふり出す槍の にほんはし なまこえりさへ みゆる魚市 梅屋」


 「日本橋」は、少女が持つ奴人形(玩具)が槍を振り出す(上げる)様と双六の振り出しとを掛けつつ、その振り出し(出発点)日本橋にあった河岸から「なまこ襟」を連想した梅屋の歌に始まります。残念ながら、縞模様を着る島田髷の美人の襟は「なまこ襟」ではありませんが、その視線の先に河岸となまこ襟とが見えるのでしょう。少女の襟模様は、奴に合わせているようです。これらの江戸風俗に、日本橋の典型的風景である、富士山と千代田(江戸)城とが背後に描かれています。

 『東海道五十三對』シリーズが、詞書き・図版共に『東海道名所図会』に広く基づいていた視点を貫くと、国芳作品は、同図会巻之六の蕙斎政美描く「日本橋」の図版を写しているとも言いえます。従来、江戸の景色ゆえに、敢えて同図会を見て描いたと言うことは全くありませんでしたが、千代田(江戸)城の表現はかなり共通性があります。

 本作品は、『東海道五十三對』「京」と一対となっています。その「京」は、三條大橋の賑わいをにしき織りの経(たて)糸と緯(ぬき)糸に掛けた歌で締められていました(「綾にしき 織れるミやこは たてぬきに ゆきかう人も しげき大橋 梅喜」)。また、広重描く少女は公達姿の京人形を持っており、鹿子模様を散らした着物姿で日傘を肩に担ぐ美人は、先笄(さきこうがい)と呼ばれる上方で好まれた髷を結っています。背後の風景は、『東海道名所図会 巻之一』の「平安城 三條橋」を写したものですし、絵の中の詞書きは、『都名所図会』からの引用です。以上は、先に「京」で述べたことの再確認です。

 江戸風俗・情景と京風俗・情景との対照をその趣向として、都に肩を並べる江戸の矜持を江戸っ子とともに楽しんだことが伺えます。

*保永堂版東海道「日本橋」は副題「朝之景」として、日本橋を南から北に見る視点で、大名行列の朝立ち風景に河岸の男達を配する巧みな構成を採用しています。江戸の日本橋ですから、敢えて『東海道名所図会 巻之六』の日本橋周辺の図版を参考資料にしているとの指摘はありませんが、大名行列を配した点は同図会の方が先行していると言えます。同図会に従って、作品を「京」から「江戸」に向かって見てくると、同図会の影響が意外に大きいことが浮かび上がってくるのではないでしょか。

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「品川」 歌川国芳 伊場屋久兵衛

02_new「廿日闇 邪魔なす雲を 打ち払ふ 丸にゐの中の 月の卜風 梅屋」

 『東海道名所図会 巻之六』「武蔵 品川」には、「品川の駅は東都の喉口にして 常に賑わしく 旅舎軒端をつらね 酒旗(さかや)・肉肆(さかなや)・海荘(はまざしき)をしつらえ 客を止め 賓を迎えて 糸竹の音 今様の歌艶しく 渚には漁家(いさりのいえ)おおく 肴わかつ声々 沖にはあごと唱うる海士の呼び声おとずれて 風景足らずということなし。」(現代仮名遣いに改めています)と紹介されていて、保永堂版東海道「品川 日之出」もその線に沿って描かれていますし、国貞の美人東海道も「糸竹の音 今様の歌艶しく」を遊女によって表現しています。

 ところが、『東海道五十三對』の「品川」は、それと全く趣を異にしています。『東海道名所図会』に画題を見付けられない場合は、歌舞伎や人形浄瑠璃にそのネタを探してきた当ブログの分析方法を応用すると、これは、品川の鈴が森を舞台とする歌舞伎『浮世柄比翼稲妻』(うきよづかひよくのいなずま)「鈴が森」(『カブキ101物語』146頁参照)の白井権八であることが判ります。歌にある「丸に井」というのは、白井権八の紋を指します。暗闇の中、お尋ね者の権八を捕まえようとする雲助と権八が争っているところに、駕籠でやって来た幡随長兵衛が「お若いのお待ちなせえ」と呼び止める名場面です。

 国芳の絵では、背後の松原に駕籠でやってくる長兵衛が小さく見えます。長兵衛は実在の任侠で、初演の七代目団十郎以来、代々の団十郎の当たり芸となっています。また、右手の「南無妙法蓮華経」と刻まれた石塔は、舞台では正面に据えられるもので、それゆえ、国芳作品が舞台を素材にしていることが判ります。若衆姿の権八が見得を切る先には、雲が架かる月が描かれています。

*保永堂版東海道「品川」と、国貞の美人東海道については、本文に触れた通りです。

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「川崎」 歌川国芳 小嶋屋重兵衛

(新田左兵衛佐義興 大嶋周防守 井弾正)

03_new「新田義興は 竹澤右京亮江戸遠江守が姦計に欺れて矢口の渡にて亡され 其霊魂とヽまりて江戸が帰るさニ 霊魂雷に成て雲中より現れ 敵を取殺す。後 霊魂を慰めんが為ニ 新田大明神と崇祭る。其霊験 今に於て倍新也。」


 上の詞書きは、すでに述べた『東海道五十三對』「保土ヶ谷」と同じく、『東海道名所図会 巻之六』の「矢口のわたし」の図版に記される詞書きと「新田明神祠」の文章からの引用です。しかし、「川崎」の六郷川(多摩川)にあった矢口の渡しでの稗史、新田義興等の霊を慰める新田神社の縁起などは、おそらく、これも「保土ヶ谷」で紹介した『神霊矢口渡』を通して広く庶民に知られていたと思われます。

 国芳の絵は、延文3(1358)年に、竹沢右京亮および江戸遠江守の奸計によって多摩川の矢口の渡しを過ぎる際に船を沈められ、両岸から伏兵の攻撃を受けて、無念の最後を迎えた新田左兵衛佐義興等を描いていて、上記詞書きの前段部分に当たります。『東海道名所図会』自体は、その図版で祟をなす後段部分を絵にしています。なお、『東海道五十三對』「保土ヶ谷」は、『神霊矢口渡』の二段目切「新田館の段」に基づいて描かれています。同じ題材を二つの宿場で扱っているのは、それだけ人気のあった話題であったということでしょう。

 『東海道五十三對』および『東海道名所図会』は、「平塚」では「馬入川」の来歴に関し、雷鳴落雷を源行家・義経、安徳天皇の怨霊が頼朝を襲ったという理解を示していました。また、「保土ヶ谷」「川崎」の六郷川(多摩川)の矢口の渡しには、新田義貞の子義興の怨霊が落雷となって江戸遠江守の命を奪った話があり、それが『神霊矢口渡』の一つの主題であり、同時に新田神社の縁起紹介ともなっていました。これらは、いずれも、怨霊信仰の事例です。同図会の上記図版の詞書きが、祟りの雷神と化した菅原道真を引用しているのですから、間違いないことです。そして、これを鎮めるには、社に神としてとして「崇め奉る」のが代表的方法です。

 さて、穿った別の見方を付け加えれば、頼朝の死は江戸幕府将軍の死を暗示する題材に使用できますし、江戸遠江守の死は、江戸=江戸幕府将軍の死を暗示する道具仕立てにできると思われます。さすがに、『東海道五十三對』には表向きそこまでの意図はないと思われますが、上方の編者秋里籬島の『東海道名所図会』の題材収集には、いま述べた他意があるように感じられるのですが、いかがでしょうか。

*保永堂版東海道「川崎」は副題「六郷渡舟」とあり、六郷川(多摩川)の渡し船の景です。当時の六郷川渡口は、「矢口渡口」とは別の所に設けられています。『東海道名所図会』の「武州 川崎」は、第一に「大師河原平間寺」に触れ、次ぎに「玉川」、そして「矢口渡口」「新田明神祠」と続きます。広重は、六郷渡しが厳密には矢口の渡しとは異なるという事情から、御大師参りの人々を乗せた船の渡河風景を描いたものと思われます。『東海道五十三對』は、来歴の紹介を中心に据えて、「矢口渡口」「新田明神祠」に比重を置いています。

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「神奈川」 歌川三代豊国 遠州屋又兵衛

(姥島のげ村)

04_new「神奈川の驛 浦島づか

雄略天皇の御時 丹後国に浦島子といふあり。ある日独小舟に乗りて海上に釣りし時 霊龜顕れ 波の龜に乗り龍の都へ至りぬ。日を送りて家に帰らんと思ひ 此事を神女に告けれハ 神女別れを恋慕ふといへとも止らず。終に別れとなり かたみに玉筺をもらひて喜び古郷へ帰りしに 数百歳を経て 七とせの孫に逢ひしとかや。」


 『東海道名所図会 巻之六』「武蔵 神奈川」に「駅の北の端に浦島寺といふあり。本尊正観音 浦島が守仏といふ。」とあります。そして、浦島が竜宮より帰って、箱根山で玉手箱を開き、老翁となって、ここで親の廟所を見付け、この地に止まったのが寺(観福寿寺)の始まりと記されています。このような縁から、詞書きは、浦島太郎伝説を採り上げています。

 三代豊国の絵では、美人が釣りを楽しんでいますが、保永堂版東海道「神奈川 臺之景」には魚釣りの小舟が浮かんでいることを考えれば、その行楽姿をスケールアップしたことが判ります。もちろん、美人画を描く隠れた意図があることは明らかです。亀の模様を染めた着物と手拭いを描いているのは、詞書きの浦島太郎伝説を受けてです。この美人は、海老で鯛を釣ろうとしているのでしょうか、それとも、海老が掛かってしまったのでしょうか。海老を老翁となった浦島と考えると、「のげ村」で海老が捕れるのも浦島の因縁かもしれません。さらには、美人には乙姫が、海老には浦島が仮託されていると考えることもできます。

 丹後出身の浦島ゆかりの塚が武蔵国神奈川にあるというのは不思議ですが、共に海と観音信仰で繋がることを考案すると、海部族の影響を示す伝説かと思われます。

*保永堂版東海道「神奈川」は副題「臺之景」とあります。これは『東海道名所図会』に「神奈川臺とて風景の勝地にして申酉(西南)の方に富士山見ゆる」と記されているのに対応しています。

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「保土ヶ谷」 歌川国芳 海老屋林之助

(由良兵庫 女房みなと 篠塚八郎)

05_new「足利基氏 竹沢右京亮とはかりて義興を討んことを談ず。また竹沢江戸遠江守をかたらひ 両人鎌倉を背きたるよしにて偽り 竟(つひ)に矢口の渡口にて義興を亡ぼす。篠塚八郎此よしを注進して由良兵庫に知らする。」


 上の詞書きは、『東海道名所図会 巻之六』の「矢口のわたし」の図版に記される詞書きと「新田明神祠」の文章からの引用ですが、その種本は、同図会も記載する『太平記』です。それによると、義興は、新田義貞の次男で、義貞の死後も、各地で合戦を繰り返しており、鎌倉管領足利基氏は何としても討ち果たそうと考えて、竹沢右京亮と江戸遠江守の両人に謀かることとしました。その策というのが、矢口の渡りの船の底を穿ち、差し込んだノミを抜いて船を沈めるというものです。六郷川(多摩川)での出来事なので、「神奈川」か「川崎」の方がよりご当地かと思われますが、ここ「保土ヶ谷」でこの話を展開しています。

 描かれるのは、義興の家臣篠塚八郎が同家臣由良兵庫に義興の最後を伝える場面です。『東海道名所図会』の図版は、江戸遠江守が本国に帰る際、矢口の渡りで義興の怨霊(落雷)に襲われる場面を描いているので、本作品とは異なっています。その理由は、国芳は、蘭学者平賀源内が福内鬼外(ふくうちきがい)の筆名で書いた浄瑠璃の代表作『神霊矢口渡』(『カブキ101物語』138頁参照)の方から画題を採っているからです。

 『神霊矢口渡』は、浄瑠璃義太夫節、時代物、五段で、明和7年(1770)1月、江戸・外記座(げきざ)で初演されました。『太平記』を原拠に、新田義貞の遺族の事跡を脚色し、中心は矢口の渡しに伝わる新田明神の縁起(怨霊鎮魂)を描いた四段目「頓兵衛内」(とんべえうち)で、歌舞伎でも多く上演されています。ただし、国芳は、その二段目切「新田館の段」から、篠塚八郎が、主君の最後を知らせるために戻り、そのまま喉に刀を突き立てて自刃して果てるところを描いています。篠塚八郎の死に様が誇張された型を示しているのは、人形浄瑠璃仕立て(人形振り)になっているからです。

*保永堂版東海道「保土ヶ谷」は、副題「新町橋」の袂に実在した二八蕎麦屋を描き、また伊勢参り一行の帰り姿があります。

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「戸塚」 歌川広重 伊勢屋仙三郎

062_new ◇初版 斎号:一立斎

「重の屋光雄
白雲に よう似た花へ 舞う蝶も とまりとまりの 枝の夕霧」

06_new ◇後版 意匠:ヒロ

「重の屋光雄
かまくらを 出る鰹に つれたちて やほないなかに なく郭公」


 広重の絵は同じなのに、上部の狂歌が違う作品があります。斎号「一立斎」とある作品の方が初版で、そこに埋木をし「ヒロ」の意匠を入れた方が後版であることは、摺り跡を確認すると判ります。描かれる女性は、簪を刺した整ったその髷姿から武家風の出で立ちと見えます。おそらく、戸塚の宿と武家の女性の旅姿ということから、多くの庶民は、忠臣蔵のお軽を想像することでしょう。忠臣蔵の三段目の「裏門」の場から発展した清元の舞踊劇「道行旅路花婿」(落人)(『カブキ101物語』160頁参照)では、富士を背景に腰元お軽と早野勘平はお軽の実家に落ち延びます。戸塚の夕暮れ時、松の木の背後に富士のシルエットを浮かび上がらせているのは、そのための舞台装置です。

 しかしながら、初版の狂歌は、忠臣蔵を想起させる材料にやや欠けるきらいがあると指摘されたのでしょう。後版では、あえて「かまくら」という言葉を入れて、鎌倉の足利館から落ちてゆくお軽と勘平の道行きに結びつけたものと推測されます。また、画中の郭公(ほととぎす)もうまく狂歌に採り入れています。この一事によって、作品の売れ行きが大きく左右されるのですから、広重が風景を描く際、歌舞伎などの影響を読み込むのは当然です。

*保永堂版東海道「戸塚」は副題「元町別道」となっていて、画中にも「左かまくら道」の文字が見えています。そして、女の旅人が笠の紐を解こうとしていることに気づきます。これは、『東海道五十三對』の「戸塚」と重ね合わせると、やはり、忠臣蔵の「道行旅路花婿」を意識していると考えざるをえません。

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「藤澤」 歌川国芳 伊勢屋市兵衛

07_new「小栗小次郎ハ鎌倉権現堂にて強盗横山の家にとまり 毒酒ニてすてに殺さるへきを 照手が貞操にて其場を忍びいで鬼かげといふ荒馬に乗つて藤沢寺へ駈入 急難遁(のか)れける。されども其毒気にあたり 終にかぎやみとなつて熊野本宮にいたる。照手 百千の苦をしのびて車につきそい これを引行。熊野権現の利生によつて本復なし かたき横山をうちとり照手をともなひ本國へかへり家をおこし 美名をかヾやかす。」


 『東海道名所図会 巻之六』「相模 藤澤」は、「藤澤山無量光院清浄光寺」(とうたくさんむりょうこういんしょうじょうこじ)の記述に始まります。すなわち、藤沢は、時宗の本山・藤沢寺(遊行寺)の門前町と言うことができ、詞書きも、その藤沢寺(藤沢道場)あるいは小栗堂(長生院)にちなんで、小栗判官と照手姫伝説を紹介しています。詞書きの内容は、同図会の「小栗伝」と図版内の説明文に主に従い、それに長生院に伝わる伝説や人形浄瑠璃・歌舞伎などでよく知られた内容を加えたと考えられます。いずれにせよ、藤沢寺や熊野権現の利生譚から派生した物語です。

 国芳の絵は、毒酒で殺された小栗判官が閻魔大王によって現世に戻され、照手(照天)姫の献身と熊野の湯之峰温泉の薬効によって本懐し、足が萎えて歩けなくなった小栗判官が力強く復活した場面を描いています。小栗の横にある車は、業病で歩けなくなった小栗判官を乗せて、熊野まで照手姫が引いたいざり車(車椅子)です。

 なお、詞書きにある「かぎやみ」は、「がきやみ」、すなわち「餓鬼病」あるいは「餓鬼阿弥」の誤植かと思われます。業病一般、あるいは餓鬼のようにやせおとろえ、耳鼻も欠け落ちて 生気のない者を指します。

*保永堂版東海道「藤澤」は副題「遊行寺」となっていて、門前町藤沢を描く趣向です.。藤沢が東海道と江の島や大山を結ぶ分岐点になっていることもあって、江の島神社の鳥居に、江の島詣でや大山詣での人々が描かれています。

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