「町人絵師ではない」広重の東海道五十三次
広重は、幕府の定火消し同心として安藤家の職責を果たした後に、浮世絵師として自立していて、端(はな)からの町人絵師ではありません。そのような広重の生い立ちは、創作された作品の登場人物の姿や表情に意外にも反映されています。これは、町人絵師国貞の美人東海道との対照から、浮かび上がってきた事柄です。突き詰めれば、「武士的感覚」と「町人的感覚」との違いのお話です。個別的には、当ブログで宿々ごとに採り上げてきましたが、典型的な事例をいくつか挙げて再度説明します。
たとえば、「見附」においては、天竜川の渡船の船頭と船人足に注目下さい。広重の構図では、もし船が揺れたら川に落ちてしまいそうなスキが二人にあります。一方、国貞作品では、重心が安定していて、後ろ姿にも気配りが感じられます。また、「御油」においては、広重は、旅籠の窓から両肘をついて物憂げな顔をした女中を描いています。ところが、国貞は、その女中に客の荷物を運ばせているのです。客商売からすれば、国貞の人物表現が正解と思われます。広重の物憂げ顔の女は、心情表現としてはおもしろいのですが、その場の状況からは見当違いの姿なのです。
もちろん、そのような広重の表現が全て不適切だと言うつもりはありませんが、町人的感覚とは違うものであるということが重要です。したがって、今日私たちが広重作品に感じるのと同様の情緒を江戸庶民が持っていたかどうかは疑問です。武士的感覚からの表情、表現、姿など、納得いかないと思った者もいたと思われる反面、新鮮なものと受けとめた者もいたでしょう。圧倒的支持だったとは思われないのですが…。
広重作品に頻繁に登場する、表情を見せない後ろ姿の人物などは、一定の形式と姿勢を以て時間を過ごす、侍の語源となった「候う」姿から来ているのでしょうね。姿勢を崩さなければ、心と気持ちは別空間に行っていても何のお咎めもないのが武士世界の一端なのです。そのような幽体離脱(?)状態を、広重は意識していた節があって、広重の初期斎号の「一幽斎」の採用も同様の思考から来ているものと推測しています。幽玄世界を目指す趣向は、武家の生活体験から生まれたという主張です。
広重が武士であったということは、創作上有利に働く点も少なくなく、その筆頭は、体系的知識や教養を学んでいることから、作品の構成に破綻が少なく、常識的で穏当な表現となるということです。幕府の取締を常に意識する浮世絵業界にとって、これは重要な資質と思われます。とくに名所絵という新分野においては、体系的知識・教養は作品の良きバックグラウンドになったことでしょうし、結局は、北斎がこの分野から放逐されてしまった理由も、この点にあったのだと確信しています。
ちなみに、同じ武士でありながら、職責を全うした広重と途中挫折した(渓斎)英泉の作品表現にも相当の違いがあるのですが、その二人が合作して、『木曾街道六拾九次』を版行していることは、以上の文脈からすれば、大変興味ある事実です。広重と英泉の比較からは、一体どんな分析が得られるでしょうか。とても気になるとは思いますが、それは、また、機会を改めて…。
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