百景から三十六景を読み解く 2
◇百景「木枯の不二」と三十六景「駿州江尻」との対比
木枯らしかどうかは分かりませんが、強風に吹き飛ばされそうな旅人を描く作品として、三十六景「駿州江尻」が直ちに思い浮かびます。頭巾を被り街道を旅する女の懐から懐紙が風に飛ばされる様子を連写的に表現しており、そのため、この点にのみ目が行ってしまう作品です。賛同しているわけではありませんが、泰然と構える富士と風に吹き惑わされる旅人達という、対立的構図と読み解くのが一般的です。
百景初編「木枯の不二」と比較対照しながら、作品をもう一度見直してみましょう。「駿州江尻」の画面中央部に小さな祠らしきものが描かれています。その後ろの白い部分が江尻の「姥が池」ならば、龍(水)神の祠かもしれません。そのうえで、本作品の構想を先読みすると、「木枯の不二」にもあった祠と同様、この祠は富士神霊の依代として(実景かどうかとは別に)挿入されたもので、近景に富士世界が展開されていることを暗示する記号と思われます。つまり、強風に晒され女の懐紙が飛び散るのは、富士が強風に晒され、裾野の山が吹き飛ばされそうになっている様子に同調しているのです。庶民と富士との緊密な関係を願う富士講信者は、近景と遠景とに同じ富士世界が展開していることを期待しています。
「木枯の不二」の鳴子を吊り下げた綱を思い返せば、「駿州江尻」における富士の稜線はまさに風に吹き飛ばされそうな綱に見え、街道を旅する女から飛び散った懐紙や何か布切れが、まるで引っ掛かっているように描かれていると捉えるべきです。こんな強風が吹いていても、富士と庶民との親しい関係はまったく不変であるからこそ、富士講信者の気持ちを鷲掴みする作品となるのではないでしょうか。したがって、既述した一般的読み解きに対しては、富士が泰然としているのではなく、富士と庶民の関係が泰然・不変なのだと訂正したいと思います。
なお、街道を旅する人々は、前景に4人、中景に3人で、計7人となります。この点には、北斗七星を信仰基点とする北斎の妙見信仰が表れており、その場合、その中心に北辰星に相当する富士があるというのが北斎の思考です。ちなみに、有泉・前掲『楽しい北斎』(p96)は、「姥が池」ではなく入り江と考え、作品右側において、「強風に吹き飛ばされまいと腰を落としている人物は、大きく江(入り江)に尻を突き出しており」、ここから題名の「駿州江尻」の地口が導かれると解いています。面白い読み解きですが、富士もその裾野(尻)を入り江に突き出していることにさらに気付けば、地口見立てとして完璧になります。よく見れば、「駿州江尻」は富士の右側の裾野がかなり伸びた構図になっており、富嶽シリーズ中、このような描写は例外的ですから、富士も入江に尻を突き出していると言っても良いでしょう。
◇おわりに
上記解説も含めて、本稿の関連箇所で百景と三十六景両シリーズを対比させながら、いままでの評価を見直す方向での議論を意図的に行ってきました。従来、北斎の類い稀な表現力から、ともすれば「風景画」的側面に注意が集中し、作品に仕掛けられた「からくり絵」的要素を多くは見落としてきたように思います。近時は、当時の時代背景を考慮し、「名所絵」ブームの中において見直し、さらに「富士講」の影響を勘案し、作品を解説する動きもありますが、残念ながら、それは総論においてであって、各論的に個々の作品を分析するまでには及んでいないようです。
そこで本稿では、百景作品を使って、まず富士講信者の目にはどう映るであろうかを念頭に置いて読み解きました。次に、北斎が篤く信仰していた妙見堂ないしは日蓮宗の観点からさらに作品を概括してみました。名所絵的要素や風景画的構成については、後回しにするという方法論です。これが正解なのかどうかは分かりませんが、百景作品についてかなり面白い理解が得られたように思います。
さらに論を進め、百景作品から得られた資産を三十六景全作品の再評価のために使用すれば、かなり興味ある結論に至るはずです。大胆な芸術的構図と見るか、大がかりな仕掛けと見るかが、作品評価の分かれ目です。私達は、北斎の優れた筆致に長い間騙されて、じつはからくりを読み解く楽しみを失ってきたように思います。本稿では、北斎が富士と戯れていたと同じように、北斎作品と戯れることを主眼としました。読み解きの帰結はともかく、この点での努力だけでも認めていただければ幸いです。
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