清水寺と善光寺

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 ここに紹介する大判3枚続の源氏絵は、安政3(1856)年正月改印の歌川(三代)豊国『源氏十二ヶ月之内 卯月』(藤岡屋慶次郎)です。その他にも、「猛秋」「晩秋」「師走」「雪見月」などの作品があります(『浮世絵で愉しむ源氏物語』双葉社・2014年、34頁以下参照)。本作品は、背後の山に清水寺の舞台が描かれているので、場所は京都(音羽山)が想定されます。また、「卯月」とあって、初夏の、白い花咲く卯の花巡りを描いていることが判ります。左の作品上部の空には夏鳥ほととぎすが舞い、それを合巻『偐紫田舎源氏』(にせむらさきいなかげんじ)の主人公光氏一行が見上げています。源氏絵という形式を踏んでいますが、旧暦安政2年10月の安政江戸地震後初めてのお正月作品ということを考えると、光氏を徳川将軍に擬(なぞら)えて、安政地震後も何も変わらぬ平穏平和な将軍生活を紹介する趣向と解すべきでしょう。この頃、多くの源氏絵が制作されているのも、源氏絵ブームということのみならず、幕府(将軍)ひいては江戸の安寧と復興を希求する庶民心理を反映してのものと捉えるべきです。


 清水寺は西国巡礼の第16番霊場に当たり、本尊は千手観音、開基は延鎮大師とされています。江戸でも清水寺の舞台造りは有名で、上野の山にはそれを模した清水(観音)堂が建てられており、広重の『名所江戸百景』「上野清水堂不忍ノ池」にも、満開の桜に囲まれる風情が描かれています。もちろん、本家本元の清水寺の桜も美しく、なかでも、地主(じしゅ)の桜は有名でした。清水寺の舞台は、じつは延鎮が霊木に彫った千手観音を祀る本堂に当たります。南側を向く舞台とは反対の北側の内々陣に祀られているので、お詣りは本来は北を向いて行わなければなりません。


 さて、その本堂建物の北側には、崖を一つ隔てて、さらに拝殿と本殿があり、そこに地主神社があります。これが、清水「寺」の地主「神社」の桜の謂れ(場所)に当たると思われます。寺の本堂の北側に、寺の創建よりはるかに古い(一説には縄文時代の)石を祀った神社があるという位置関係は、善光「寺」本堂の北側にその創建よりも古いと推測される年越の「宮」があったというのと同じ構造であることに気付きます。地主神社は、おそらく、かって音羽山(清水寺)が琵琶湖に浮かぶ半島であった時代の水神と深く係わるものと推測されます。善光寺・年越の宮の前身・水内(みのち)神社も本来は水神と思われ、その役割にも共通性があります。琵琶湖と半島、千曲川と山など、かつての同じような地理が目に浮かんできませんか。庶民文化の基底部分には、やはり神仏習合の世界があるようです。ちなみに、清水寺の仁王門前には、本来は神社の守り神・狛犬が鎮座しています。

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信濃国善光寺略絵図 大峯堂 長谷屋久左衛門

Edo_zenkoji03 江戸期の善光寺略絵図として有名なのは、浮世絵師渓斎英泉の名が入った蔦屋伴五郎版ですが、ここに紹介する略絵図は、それとは別の作品です。制作時期については、山門の東側に「地震横死塚」が描かれているので、弘化4年(1847)年3月24日起こった善光寺地震以降であることは確かです。蔦屋版との先後については、参拝する人々の位置などかなり細かい点を見ると大峯堂版では人が1人だけ欠けていたりするので、蔦屋版が先行する作品なのかもしれません。ただし、そもそもいずれも本堂が実際とは異なって描かれているので、実見に基づくものではなく、同じ下資料から制作されたほぼ共通の作品と見ることができます。


Kashima 具体的には、蔦屋版には実在しない「塔地所」が本堂前東側に枠取りされているのに対して、大峯堂版ではそこに地震横死塚があり、また経蔵近くの「秋葉社」には「鹿嶋社」が併記されているなど、大峯堂版の方が精確な描写に心掛けているようです。さらに、大勧進と大本願との間にある「社家」(神官家)を、蔦屋版は北から「天王、アジャリ池、社家」と記し、大峯堂版は「天王、社家、アジャリ池」と実際と同じに並べているので、やはり、大峯堂版の方が蔦屋版の改訂版と推測されます。なお、大峯堂版が敢えて鹿島神社を加えたことには意味があって、鹿島の神が要石で地震(ナマズ)を抑える力があると江戸時代考えられていたことから、直前の善光寺地震の甚大な被害を慮ってことです。古事記の時代まで遡れば、仁王門を入った東側にある、諏訪の建御名方神(たけみなかたのかみ)を打ち破ったのが鹿島の武甕槌神(たけみかずちのかみ)です。善光寺境内に、両神が並び立っているのは、神仏混淆と八百万の神の世界だからでしょうか。


 本略絵図にも、本堂の北側に、建御名方富命彦神別神を祀る「年越ノ宮」が描かれています。善光寺境内から外れますが、年越の宮の北方1.3キロの地附山中腹に同宮の奥社である駒形獄駒弓神社(こまがたたけこまゆみじんじゃ)があります。もちろん、祭神は建御名方富命彦神別神です。善光寺の最古層の話になりますが、神社の名前からすると、年越の宮の前身である水内神社には、馬の飼育に優れる海人族や、駒=高麗(高句麗)とすれば、この地に牧を開いた朝鮮半島系渡来人との係わりがあったことが想像されます。この点で、信州の古墳に顕著で、朝鮮半島系の墓制かと問題提起された「積石塚古墳」との関連も非常に気になるところです。

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信濃国善光寺略絵図 蔦屋伴五郎 

Edo_zenkoji01 本絵図は江戸時代後期の善光寺を紹介するものです。制作時期は、弘化4(1847)年3月24日の善光寺地震による「横死人ノ塚」が描かれていること、絵図の制作者として嘉永(1848)元年7月22日に亡くなった浮世絵師渓斎英泉の名があることから、弘化4年から嘉永元年の間のことと推測されます。英泉は広重とともに『木曾街道六拾九次』の制作に参加しているので、信州に縁の深い絵師と言うことができます。なお、本堂前東側に「塔地所」とあることからすると、本絵図は、江戸期以前に存在した五重の塔やその他被災した善光寺各施設の再建資金(浄財)を集める目的に使用された可能性が考えられます。


Edo_zenkoji02 「別當大勧進」「大本願」の間に「社家」と記載される建物が描かれています。善光寺地震の後、大本願敷地内から当地に移転したとされる諏訪神社の神官家のことです(小林計一郎『善光寺研究』参照)。諏訪社」自体は、仁王門を潜って東側に鳥居と共に描かれています。善光寺境内において、諏訪神社とその社家が少なからぬ勢力を持っていたことが確認できます。なお、社家の北側にある「天王」は(牛頭)天王社のことで、現在では弥栄(やさか)神社と名前が変わっていますが、社家とともに祇園祭を中心となって執行しています。


 別當大勧進と大本願の敷地の北東部分にそれぞれ鳥居が描かれています。いずれも、寺の鎮守社という位置づけと考えられます。同じ視点で眺めれば、善光寺本堂の北側に描かれる「年越ノ宮」も善光寺全体の鎮守社と看做すことができます。この宮の正体は、その祭神名が「健御名方富命彦神別神」(たけみなかたとみのみことひこがみわけのかみ)とあることから、諏訪(健御名方命)の御子神と推測されます。ただし、善光寺境内に諏訪神社が別に存在するにもかかわらず、さらに御子神として祀られる神があるとすれば、この地の地主神の水内神(みのちのかみ)以外には考えられません。本絵図は、水内神社が、諏訪の御子神として諏訪神社の分社・末社とされつつも、善光寺の鎮守社として静かに存在していたことを示す貴重な資料です。


 本絵図には、水内神、諏訪神という神社の2要素と大本願、大勧進という寺の2要素の計4要素が一体となって「善光寺」を形成している姿が写し取られています。これは、諏訪神社が、上社(前宮、本宮)と下社(春宮、秋宮)の4要素によって構成されているのと類似する構造とも考えられ、両寺社の相関関係には一段と興味が惹かれるところです。たとえば、善光寺大本願が尼僧寺院である伝統は、諏訪下社の祭神八坂刀売命(健御名方命の妃)の役割とも何か関連があるように想像されます…。

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信濃国善光寺略絵図 七泉堂

Zenkoji_meiji2 明治初期の本絵図には、善光寺境内にあった諏訪社、熊野社、天王社、山王塚、諸神塚、秋葉社などの神社施設が描いてあるにもかかわらず、鳥居とあわせてその名前などが一切省かれています(赤丸印参照)。これは、明治初年の神仏分離令に基づいて、神道施設と仏教施設とを分離しようとした意図を受けているからです。歴史的経緯を見れば、善光寺の創建に諏訪神社あるいは水内神社などが下支えしたと考えられるのですが、現在の境内にはその影響を示す証拠をほとんど見ることができません。その意味で、本絵図はその過渡期の様子を示すものとして、かなり貴重な資料です。


 仁王門を潜った東側にある諏訪社は、かって本堂が存在した表(南)側に位置し、もしそこに御柱が建てられていたと仮定すると、旧本堂と釈迦堂の前に2本の柱があったことになります。これが、後に現本堂と釈迦堂の2本の回向柱に発展したと推理することもでき、諏訪神社の御柱と善光寺の回向柱との相関関係を想像させる、おもしろい資料ということができます。


Toshikosi_do 見落としがちですが、善光寺本堂の裏(北)側には年越堂が描かれています。「堂」とあり仏教施設のように見えますが、江戸時代までは「宮」として扱われていました。それが証拠には、取り壊された後、明治12年近隣の城山に(旧)県社となって再建されています。その祭神は、「健御名方富命彦神別神」(たけみなかたとみのみことひこがみわけのかみ)です。その祭神の名前からすると諏訪の御子神と看做されますが、ここに一つのからくりが隠されています。上の絵図からも判るように、同じ境内に諏訪神社があるにもかかわらず、さらに諏訪の御子神をも祀るのは、古くは当地に存在した水内神社を諏訪神社の末社と化して支配した実態を表すものではないでしょうか。


 水内神はかつては諏訪神と並ぶ程有力な地元神であって、日本書紀にも登場しています。善光寺本堂の北側一番奥にあった、この隠された神社こそ、実は水内神社の後裔と考えられるのです。飯山市や信州新町にも同じ健御名方富命彦神別神を祭神としている神社があり、これらは善光寺にあった水内神社の分社と考えられます。つまり、千曲川から犀川流域一帯が水内神社の支配地域であったことを示しているのです。なお、これによって、年越堂で行われる堂童子の秘儀は仏事ではなく神事であることも判ります。その目的は、廃絶された水内神が怨霊化することを封じることにあったのではないかと想像しています。

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大回向柱と中回向柱

Zenkoji 御開帳の期間中、善光寺本堂の前には「大回向柱」が建っています。実は、回向柱はもう1柱あって、それは、世尊院釈迦堂の前に建っていて、「中回向柱」と呼ばれています。仁王門を潜り仲見世の中を歩いて行くと、右手に折れる道があり、そこに中回向柱と世尊院釈迦堂が見えてきます。大回向柱と同様、釈迦堂内の釈迦涅槃仏の右手とやはり善の綱によって結ばれています。大回向柱に触れると来世(阿弥陀仏)のご利益が、中回向柱に触れると現世(釈迦仏)のご利益が得られるそうです。両施設ともに参詣することをお薦めします。


 僭越ながら善光寺に参詣する立場から敢えてものを申すと、善光寺本堂と釈迦堂とが相隣接して建立されていれば、お参りも合わせて行うことができて便利なのにと思うことがあります。実は現在の本堂が再建される前、旧本堂は現在の釈迦堂の辺りに相並んであったと言われています。その意味では、ちゃんと庶民の信心に応えていたということです。防火対策もあって本堂は北の現在地に移動再建され、釈迦堂とは離れてしまいましたが、同時に回向柱が奉納される祭事において、かつては一体施設であった事実を今日に伝えているということができます。私は、旧本堂のあった土地への鎮魂と供養のために、釈迦堂前に中回向柱が建てられているのではないかと考えています。


 では、善光寺本堂と釈迦堂とが相並んで建立されていた時代、御開帳では、回向柱も2本並列して建っていたのでしょうか。これは、神社の鳥居を潜ってお寺にお参りするような形式で、なかなか想像できない風景です。たぶん、2本どころか、1本の回向柱も建てられていなかったように思います。なぜならば、当時、善光寺境内には北向きの諏訪神社もしくは熊野社と左右対になった諏訪社があって、直接、善光寺または本堂を守護していたと考えられ、故に諏訪の水神を呼び込む回向柱は必要なかったと推測されるからです。そのかわり、諏訪神社自身には御柱が建てられていたことでしょう。


 その後、善光寺本堂が北に数百メートル移動して再建される際、度重なる火災を反省して、松代藩の支援を受け、新旧の本堂前に直接回向柱を建てるより強力な火伏せの守護形式が発案されたのではないでしょうか。同時に神式から仏式に形態が整えられもしました。しかしながら、善光寺境内に(回向)柱が建つこと自体は、境内の中にあった諏訪神社の(御)柱を見慣れていた庶民からすれば、ほとんど抵抗感はなかったものと思われ、それが回向柱による守護方法変容の成功の一因でもあるでしょう。結果として、その後火災は発生しておりません。また、現在、善光寺境内には諏訪神社や諏訪社などの鎮守社もまったく存在しなくなってしまいました。


 世尊院釈迦堂前の中回向柱を見ながら、これも諏訪社の名残なのかもしれないと改めて考えていました。

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善光寺御開帳

Dscn1092 4月16日、娘と孫の惺大と一緒に御開帳で賑わう善光寺に参詣してきました。大回向柱に触れようと並んでいたところ、ちょうど、「お数珠頂戴」の機会に恵まれ、家族3人共に数珠を頭に頂戴させていただきました。梵字の書かれた回向柱の上部の角には切込が入っていて、巨大な卒塔婆(仏塔)であることが判ります。その柱には善の綱が結ばれ、本堂内陣の一光三尊の前立本尊・阿弥陀如来の右手と繋がり、触れた者には仏のご利益があるという有難いものです。


 江戸時代の善光寺再建以来、松代藩が回向柱を奉納する習わしで、木遣りを唄う様など、「諏訪御柱祭」を彷彿とさせるものがあります。諏訪の神様は、もともと水神と考えられていますから、諏訪信仰に篤い松前藩が奉納する回向柱が同時に御柱ならば、火災から善光寺を守るという観点からは勝れた守護方法かもしれません。巌や大木に神が宿るという信仰は、日本人にはごく自然な思考なので、それをうまく応用し、神への信仰と仏への信心をうまく融合させた行事と思われます。善光寺と諏訪大社への参拝を同時に体験できる(?)、極めて貴重な行事が7年目ごとの御開帳ですので、この時期ぜひ善光寺に足を運ぶことをお薦めします。


Dscn1097 善光寺本堂内瑠璃壇には、諏訪神社にゆかりの深い「守屋柱」が建っています。ここからも、善光寺創建・再建当時の諏訪神社の大きな力というものを感じます。神仏習合世界の一つの例として大変興味があります。ところで、『日本書紀』には、持統天皇5年8月23日「使者を遣わして、竜田風神、信濃の須波水内等の神を祭らしむ」とあって、善光寺のある水内(みのち)には須波=諏訪とは別の有力な水内の神がいたことが記されています。この水内の神は、善光寺の創建・再建時にはまったくその名が出てきません。ここからは、上水内郡飯綱町に住んでいる私の想像ですが、たぶん水内の地元神は、善光寺・諏訪の仏と神の連合軍に放逐・上書きされてしまったのではないでしょうか。たとえば、今は諏訪神社分社となっているところが古い時代の水内神社の残照なのかもしれません。前から気になっていたことですが、全国的にも有名な地元の戸隠神社や飯縄神社と善光寺があまり深い関連性を持っていないのも、このような地元神の放逐・上書き関係が遠因としてあるように感じられます。

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怨霊と善光寺(2)

 善光寺の御開帳で、長野市内はいつにも増して参拝客で一杯です。これから五月の末まで、六百万人以上の善男善女が全国から集まるというのですから、その威光は言うまでもありません。

 ところで、地図を見ながら、善光寺から南西の方向に直線を引くと、それは丁度、奈良県の飛鳥に至ります。したがって、善光寺の大伽藍が現在地に建設されたことには、都を鬼門(北東)の方角から護るという風水の思想が背景にあることが推測され、善光寺縁起によっても、同寺院が現在地に遷座したのは皇極帝の642年、伽藍創建は644年、すなわち、飛鳥朝の時代であると言うのですから、まさに事実と符合します。

 善光寺が都を護る風水上の装置として建設されたとして、では、次ぎに都を何から護ろうとしたかについてもう少し考えてみましょう。ここでは、創建当時の事情に限定して探ってみます。創建当時の事情となれば、善光寺縁起は、本田善行が難波の堀江で見つけ、602年、現在の飯田市(元善光寺)に祀ったのがその初めだと言います。

 話は、ここでいきなり愛知県の甚目寺に飛びます。なぜなら、その由緒を辿ると難波の堀江に捨てられたのは実は善光寺本尊だけではなく、同寺院に現存する聖観音菩薩も一緒に捨てられたいうのです。そして、再び、地図を取り出して、飯田市(元善光寺)、甚目寺を直線で結び、その先を見ると大阪市に至るのですが、そこは難波の堀江、あるいは善光寺本尊を投げ捨てた張本人、物部守屋を封じる四天王寺のある地域となるのです。これは、偶然の一致なのでしょうか?

 四天王寺から見て、おそらく夏至の日の出の方向に沿って、聖観音菩薩、善光寺本尊が一列に並ぶように配置された可能性があります。日の出の方向が優位することはいうまでもありません。物部守屋の怨霊封じのためにまず初めに飯田市(元善光寺)に善光寺本尊は祀られたのですが、その後、より優れた方法によって鎮魂し、かつ都を護るために、長野市の現在地に遷座されたと推論してみました。その「より優れた方法」については、また、別の機会に触れてみたいと思います。

 従前、善光寺が怨霊封じと係わっており、そのキーワードとして、百済、蘇我氏、聖徳太子を挙げましたが、その全てに関係する人物として、物部守屋がここで浮かび上がってきました。物部守屋は、信州を舞台とする川中島合戦の浮世絵とも深い係わりがあり、別の観点で気になっていた人物です。また、物部氏は古代出雲の古族とも言われます。その点でも、出雲系諏訪大社のある信州とは深い縁があります。

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怨霊と善光寺(1)

 善光寺縁起によると、御本尊たる三尊仏は遠く印度から百済を経て、欽明天皇十三年(552年)、日本に渡ったとされており、この時、大臣・蘇我稲目は尊像を信受することを天皇に奏上し、大連・物部尾輿、中臣鎌子は異国の蕃神として退けることを主張しました。結果的には、この尊像は蘇我稲目に預けられ、稲目は家を寺に改めて、これが我国最初の仏教寺院向原寺となりました。

 しかし、稲目と尾輿との対立の中で、尊像は難波の堀江に投げ捨てられてしまいます。物部氏が亡びた後、信濃の国の本田善光が国司に伴って都に参り、たまたまこの難波の堀江にさしかかった際、水中より燦然と輝く尊像が出現したといいます。善光はその尊象を背負って信濃に持ち帰りました。そして、皇極帝の時代に、善光らは都に召されて伽藍造営の勅許が下されることとなり、三国伝来の三尊仏を安置し、開山・善光の名をそのまま寺号として「善光寺」となりました。

 以上の善光寺縁起の中で注目されるのは、善光寺の尊仏が百済(聖明王)からもたらされた点、および蘇我氏に縁がある点です。当時の天皇家の外交政策は、親百済ですから、百済伝来の尊仏のために本堂を創建することには十分政治的意味があります。しかし、天皇家(大王家)と蘇我氏との政治的対立は、退っ引きならないほどの緊迫関係にあります。いわゆる「大化の改新」の発端となった、乙巳の変(いっしのへん)は皇極帝の時の事件です。その蘇我氏縁の尊仏のために本堂を建設すること、さらには蘇我氏滅亡後もそのまま伽藍を存在させることがありえるのでしょうか?

 善光寺縁起はもちろん、時代を下ってからの創作かもしれませんが、ここに善光寺創建に纏わる政治的意図が隠されているように思われます。後の奈良朝、聖武天皇・光明皇后の時代、東大寺に大仏が建立されます。都の東北鬼門の方向に当たり、風水の理論に従っていることがわかりますが、他方で、この大仏建立には藤原氏出身の光明子の立后に反対し、死に追いやられた長屋王の怨霊を鎮める目的があったとされています。それによって、皇統(天武朝)の継続を願ったというのです。

 舒明天皇の皇后であった皇極(斉明)天皇が、飛鳥朝の東北鬼門の地・信州に善光寺の創建を勅許したのは、怨霊を鎮めるというもっと具体的動機があったことが推測され、それは蘇我氏縁の尊仏を安置するという点から勘案すれば、蘇我氏一族の鎮魂にあったのではないか、あるいは、善光寺縁起という形でかくのごとく位置づけたのではないかと想像されるのです。また、善光寺縁起には、難波の堀江に捨てられた尊仏が聖徳太子の前に一端浮かび上がったともあります。善光寺の創建には、蘇我氏に亡ぼされた太子一族への鎮魂ということもあるでしょか。皇極帝は、それによって蘇我氏に奪われそうな皇統の継続を願ったのかもしれません。

 いずれにしろ、何から、あるいは何の怨霊から都を守ろうとしたのかは考えなければならないことだと思われます。

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風水と善光寺

 中国四川省の大地震の発生で、チベット問題が報道されることも極端に少なくなりましたが、先般の北京オリンピック聖火リレーでは、善光寺がリレー出発地点の申出を辞退し、善光寺が仏教寺院であることを改めて認識した次第です。

 ところで、善光寺土産の浮世絵や錦絵などには、「本堂建立ノ初ハ人皇三十六代皇極帝ノ勅願ナリ」と記されているのが普通です(皇極帝は実際には三十五代、斉明帝としては三十七代)。大化の改新、百済滅亡など国内外の情勢不安な飛鳥朝の時代ということになります。善光寺縁起では、百済に縁の深い尊仏が本尊(秘仏)とされていますから、百済と繋がりのある皇極帝の時代に勅願があって本堂が建立されたというのは、十分に納得できる事象です。

 しかしながら、こようような縁があるとしても、なぜ遠く離れた信州に善光寺が建立され、今日のような発展を遂げることとなるのでしょうか。このことについて、最近、おもしろい視点を発見しました。すなわち、風水の考え方が基礎にあるのではないかというもです。

 丑寅(北東)の方角は鬼門と言われ、そこから宇宙の気が中心に流れるというのが、風水の理論です。そして、中心に良い気を流し、悪い気を流さないために、丑寅の方角には、寺院などが置かれ、気の浄化が図られます。地図などを見ていただけばわかるとおり、実は善光寺は、都(飛鳥・奈良・京都)の北東方向に所在し、つまりは、都を守る風水上の装置として創建されたと考えられるのです。

 善光寺からさらに丑寅の方向には、奥州藤原氏の黄金の仏都、平泉があります。中尊寺金色堂は、奥州藤原氏が東北の地から仏教の力で平安京を守るという使命を果たすため建設されたのでしょう。

 おもしろいことに、善光寺と中尊寺はともに世界遺産への登録を目指しているのですが、仏教的遺産への欧米諸国の理解が深くなく、苦戦を強いられています。国際的にも高く評価される、都(飛鳥・奈良・京都)との繋がりのなかで、平和を祈る世界遺産として再構成するのも一考かと思うのですが、いかがでしょうか?

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一光三尊仏

Takadal 大分以前のことになりますが、義母の法事を札幌市で行った際、宗派が真宗高田派であるということを聞いたことがありました。初めて聞いた名でしたから、特に記憶に残りました。そこで、最近、右の三代豊国の浮世絵(三枚続)に出会い、調べてみるとおもしろいことに気付きました。

 真宗高田派の総本山は、現在、三重県の津市にあるそうです。実は、義父の父は三重県の津市出身で、戦前、旧国鉄の職員となり、最終地を北海道で迎え、そのまま、北海道に定住したそうです。つまり、出身地の習俗をそのまま、北海道まで伝えたということになります。

 ところで、津市にあるのに、なぜ高田派というかといえば、もともと、本山が栃木県の二宮町高田にあったので、その山号・高田山に由来しています。右の浮世絵に描かれる立札に、「下野国 高田山」とあるのがそれに当たります。ここでは、元本山と呼んでおきます。

 さて、この元本山は、関東布教の根拠地として浄土真宗の開祖・親鸞によって建立された寺として知られ、その本尊が信州善光寺の本尊である秘仏を模した一光三尊仏なのです。浮世絵には、「信州善光寺如来一躰分身」と書かれています。善光寺に由来する一光三尊仏を本尊とするということで、話は振り出しに戻って、善光寺の地に住む私達家族まで繋がるのです。

 浮世絵の説明として、是非とも加えておかなければならないのは、当作品は、本尊などを他所に持ち出して開帳する、「出開帳」(でかいちょう)を描くものである点です。出開帳は、寺社が建物等の建設・維持管理などのための資金捻出方法で、高田派の場合は、本山と元本山とに別れ、資金能力が落ちてしまったことに対する苦心の策なのだと思われます。出開帳を成功させるためには、「信州善光寺如来一躰分身」は大きな役割を果たしたものと想像されます。

 出開帳は、安政六年「未年三月廿一日より五十日之間」「浅草唯念寺」で行われたとあり、当時の様子を記録する『武江年表』安政六年の項にも、「参詣多し」とあります。上の作品は、安政五年八月の年月印が押されていますから、半年ほど前からの予告作品ということができます。浮世絵が宣伝広告の機能を果たした例です。

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