怨霊と善光寺(2)

 善光寺の御開帳で、長野市内はいつにも増して参拝客で一杯です。これから五月の末まで、六百万人以上の善男善女が全国から集まるというのですから、その威光は言うまでもありません。

 ところで、地図を見ながら、善光寺から南西の方向に直線を引くと、それは丁度、奈良県の飛鳥に至ります。したがって、善光寺の大伽藍が現在地に建設されたことには、都を鬼門(北東)の方角から護るという風水の思想が背景にあることが推測され、善光寺縁起によっても、同寺院が現在地に遷座したのは皇極帝の642年、伽藍創建は644年、すなわち、飛鳥朝の時代であると言うのですから、まさに事実と符合します。

 善光寺が都を護る風水上の装置として建設されたとして、では、次ぎに都を何から護ろうとしたかについてもう少し考えてみましょう。ここでは、創建当時の事情に限定して探ってみます。創建当時の事情となれば、善光寺縁起は、本田善行が難波の堀江で見つけ、602年、現在の飯田市(元善光寺)に祀ったのがその初めだと言います。

 話は、ここでいきなり愛知県の甚目寺に飛びます。なぜなら、その由緒を辿ると難波の堀江に捨てられたのは実は善光寺本尊だけではなく、同寺院に現存する聖観音菩薩も一緒に捨てられたいうのです。そして、再び、地図を取り出して、飯田市(元善光寺)、甚目寺を直線で結び、その先を見ると大阪市に至るのですが、そこは難波の堀江、あるいは善光寺本尊を投げ捨てた張本人、物部守屋を封じる四天王寺のある地域となるのです。これは、偶然の一致なのでしょうか?

 四天王寺から見て、おそらく夏至の日の出の方向に沿って、聖観音菩薩、善光寺本尊が一列に並ぶように配置された可能性があります。日の出の方向が優位することはいうまでもありません。物部守屋の怨霊封じのためにまず初めに飯田市(元善光寺)に善光寺本尊は祀られたのですが、その後、より優れた方法によって鎮魂し、かつ都を護るために、長野市の現在地に遷座されたと推論してみました。その「より優れた方法」については、また、別の機会に触れてみたいと思います。

 従前、善光寺が怨霊封じと係わっており、そのキーワードとして、百済、蘇我氏、聖徳太子を挙げましたが、その全てに関係する人物として、物部守屋がここで浮かび上がってきました。物部守屋は、信州を舞台とする川中島合戦の浮世絵とも深い係わりがあり、別の観点で気になっていた人物です。また、物部氏は古代出雲の古族とも言われます。その点でも、出雲系諏訪大社のある信州とは深い縁があります。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

怨霊と善光寺(1)

 善光寺縁起によると、御本尊たる三尊仏は遠く印度から百済を経て、欽明天皇十三年(552年)、日本に渡ったとされており、この時、大臣・蘇我稲目は尊像を信受することを天皇に奏上し、大連・物部尾輿、中臣鎌子は異国の蕃神として退けることを主張しました。結果的には、この尊像は蘇我稲目に預けられ、稲目は家を寺に改めて、これが我国最初の仏教寺院向原寺となりました。

 しかし、稲目と尾輿との対立の中で、尊像は難波の堀江に投げ捨てられてしまいます。物部氏が亡びた後、信濃の国の本田善光が国司に伴って都に参り、たまたまこの難波の堀江にさしかかった際、水中より燦然と輝く尊像が出現したといいます。善光はその尊象を背負って信濃に持ち帰りました。そして、皇極帝の時代に、善光らは都に召されて伽藍造営の勅許が下されることとなり、三国伝来の三尊仏を安置し、開山・善光の名をそのまま寺号として「善光寺」となりました。

 以上の善光寺縁起の中で注目されるのは、善光寺の尊仏が百済(聖明王)からもたらされた点、および蘇我氏に縁がある点です。当時の天皇家の外交政策は、親百済ですから、百済伝来の尊仏のために本堂を創建することには十分政治的意味があります。しかし、天皇家(大王家)と蘇我氏との政治的対立は、退っ引きならないほどの緊迫関係にあります。いわゆる「大化の改新」の発端となった、乙巳の変(いっしのへん)は皇極帝の時の事件です。その蘇我氏縁の尊仏のために本堂を建設すること、さらには蘇我氏滅亡後もそのまま伽藍を存在させることがありえるのでしょうか?

 善光寺縁起はもちろん、時代を下ってからの創作かもしれませんが、ここに善光寺創建に纏わる政治的意図が隠されているように思われます。後の奈良朝、聖武天皇・光明皇后の時代、東大寺に大仏が建立されます。都の東北鬼門の方向に当たり、風水の理論に従っていることがわかりますが、他方で、この大仏建立には藤原氏出身の光明子の立后に反対し、死に追いやられた長屋王の怨霊を鎮める目的があったとされています。それによって、皇統(天武朝)の継続を願ったというのです。

 舒明天皇の皇后であった皇極(斉明)天皇が、飛鳥朝の東北鬼門の地・信州に善光寺の創建を勅許したのは、怨霊を鎮めるというもっと具体的動機があったことが推測され、それは蘇我氏縁の尊仏を安置するという点から勘案すれば、蘇我氏一族の鎮魂にあったのではないか、あるいは、善光寺縁起という形でかくのごとく位置づけたのではないかと想像されるのです。また、善光寺縁起には、難波の堀江に捨てられた尊仏が聖徳太子の前に一端浮かび上がったともあります。善光寺の創建には、蘇我氏に亡ぼされた太子一族への鎮魂ということもあるでしょか。皇極帝は、それによって蘇我氏に奪われそうな皇統の継続を願ったのかもしれません。

 いずれにしろ、何から、あるいは何の怨霊から都を守ろうとしたのかは考えなければならないことだと思われます。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

風水と善光寺

 中国四川省の大地震の発生で、チベット問題が報道されることも極端に少なくなりましたが、先般の北京オリンピック聖火リレーでは、善光寺がリレー出発地点の申出を辞退し、善光寺が仏教寺院であることを改めて認識した次第です。

 ところで、善光寺土産の浮世絵や錦絵などには、「本堂建立ノ初ハ人皇三十六代皇極帝ノ勅願ナリ」と記されているのが普通です(皇極帝は実際には三十五代、斉明帝としては三十七代)。大化の改新、百済滅亡など国内外の情勢不安な飛鳥朝の時代ということになります。善光寺縁起では、百済に縁の深い尊仏が本尊(秘仏)とされていますから、百済と繋がりのある皇極帝の時代に勅願があって本堂が建立されたというのは、十分に納得できる事象です。

 しかしながら、こようような縁があるとしても、なぜ遠く離れた信州に善光寺が建立され、今日のような発展を遂げることとなるのでしょうか。このことについて、最近、おもしろい視点を発見しました。すなわち、風水の考え方が基礎にあるのではないかというもです。

 丑寅(北東)の方角は鬼門と言われ、そこから宇宙の気が中心に流れるというのが、風水の理論です。そして、中心に良い気を流し、悪い気を流さないために、丑寅の方角には、寺院などが置かれ、気の浄化が図られます。地図などを見ていただけばわかるとおり、実は善光寺は、都(飛鳥・奈良・京都)の北東方向に所在し、つまりは、都を守る風水上の装置として創建されたと考えられるのです。

 善光寺からさらに丑寅の方向には、奥州藤原氏の黄金の仏都、平泉があります。中尊寺金色堂は、奥州藤原氏が東北の地から仏教の力で平安京を守るという使命を果たすため建設されたのでしょう。

 おもしろいことに、善光寺と中尊寺はともに世界遺産への登録を目指しているのですが、仏教的遺産への欧米諸国の理解が深くなく、苦戦を強いられています。国際的にも高く評価される、都(飛鳥・奈良・京都)との繋がりのなかで、平和を祈る世界遺産として再構成するのも一考かと思うのですが、いかがでしょうか?

| | コメント (0) | トラックバック (2)

一光三尊仏

Takadal 大分以前のことになりますが、義母の法事を札幌市で行った際、宗派が真宗高田派であるということを聞いたことがありました。初めて聞いた名でしたから、特に記憶に残りました。そこで、最近、右の三代豊国の浮世絵(三枚続)に出会い、調べてみるとおもしろいことに気付きました。

 真宗高田派の総本山は、現在、三重県の津市にあるそうです。実は、義父の父は三重県の津市出身で、戦前、旧国鉄の職員となり、最終地を北海道で迎え、そのまま、北海道に定住したそうです。つまり、出身地の習俗をそのまま、北海道まで伝えたということになります。

 ところで、津市にあるのに、なぜ高田派というかといえば、もともと、本山が栃木県の二宮町高田にあったので、その山号・高田山に由来しています。右の浮世絵に描かれる立札に、「下野国 高田山」とあるのがそれに当たります。ここでは、元本山と呼んでおきます。

 さて、この元本山は、関東布教の根拠地として浄土真宗の開祖・親鸞によって建立された寺として知られ、その本尊が信州善光寺の本尊である秘仏を模した一光三尊仏なのです。浮世絵には、「信州善光寺如来一躰分身」と書かれています。善光寺に由来する一光三尊仏を本尊とするということで、話は振り出しに戻って、善光寺の地に住む私達家族まで繋がるのです。

 浮世絵の説明として、是非とも加えておかなければならないのは、当作品は、本尊などを他所に持ち出して開帳する、「出開帳」(でかいちょう)を描くものである点です。出開帳は、寺社が建物等の建設・維持管理などのための資金捻出方法で、高田派の場合は、本山と元本山とに別れ、資金能力が落ちてしまったことに対する苦心の策なのだと思われます。出開帳を成功させるためには、「信州善光寺如来一躰分身」は大きな役割を果たしたものと想像されます。

 出開帳は、安政六年「未年三月廿一日より五十日之間」「浅草唯念寺」で行われたとあり、当時の様子を記録する『武江年表』安政六年の項にも、「参詣多し」とあります。上の作品は、安政五年八月の年月印が押されていますから、半年ほど前からの予告作品ということができます。浮世絵が宣伝広告の機能を果たした例です。

| | コメント (0) | トラックバック (1)