蛍狩りと名月

Genjie_yoshitora

『雪月花之内 秋の月』
絵師:歌川(一猛斎)芳虎
彫師:片田彫長
板元:丸屋鉄次郎
形式:大判3枚続
年代:文久2(1862)年10月

 源氏絵は、柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』の挿絵を歌川国貞(三代豊国)が担当したところから、絵自体が人気を博し独立発展した経緯があるので、その読み解きに際しては、原典である紫式部『源氏物語』や柳亭種彦『偐紫田舎源氏』などの名場面と対比することが多いと言えます。しかしながら、同じ源氏絵の形式を採る作品であっても、たとえば、原典紹介、徳川将軍家の生活案内、名所紹介、事件の暗示、その他宣伝広報など、その主目的をいくつかの類型に分けることができます。

 本作品『雪月花之内 秋の月』は、秋の名月を題材にしているにもかかわらず、華麗に描かれているのは、夏の蛍狩りの場面です。この季節のずれをどう理解するかが問題です。『江戸名所図会4』(ちくま学芸文庫p146、p147)に「落合土橋」の紹介があって、「この地は蛍に名あり。形おほいにして光も他に勝れたり。山城の宇治、近江の瀬田にも越えて、玉のごとくまた星のごとくに乱れ飛んで、光景もつとも奇とす。夏月夕涼多し」とあり、同図会に掲載される図版「落合土橋」には(同所p158、p159)、大変示唆的な解説が付されています。すなわち、「草葉にすがるをば、こぼれぬ露かとうたがひ、高くとぶをば、あまつ星かとあやまつ」とあり、続けて、「秋の田の露おもげなるけしきかな」と謎かけて、それを「」と読み解いています。つまり、夏の蛍の情緒を秋の星や秋露の風情と見ているのです。本作品はこの考案をひっくり返して、秋の名月、星々、さらには露を逆に蛍に見立てていると考えられます。秋の夜空に輝く名月の風情、夏の蛍狩りの如しというわけです。

 秋の寂寥感ではなく、このような賑わしい夏の幻想的表現を本作品が採ったのは、決して偶然ではなく、意図的なことと思われます。なぜならば、本作品が制作された文久2年(1862)の2月11日、皇女和宮と徳川家茂との婚礼があったからです。公武合体の気風は、本作品だけではなく、この時期の源氏絵一般の制作動機に影響があったものと推測されます。ましてや、絵師芳虎は、幕末の時流のあり方を何かと揶揄する国芳一派の高弟であることも忘れてはなりません。一番大きな光を放つ名月を(源氏)蛍の光と看做せば、それは光氏=徳川将軍(家茂)の威光の大きさを表すものと考えられますし、他方で月を和宮と看做せば、それを蛍狩りする光氏=徳川将軍(家茂)の姿が象徴的に描かれていることになります。この読み解きは、徳川将軍家の私事に立ち入り、いささかリスキーかもしれません。

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神風(かむかぜ)の伊勢

Hiroshige44 十辺舎一九『東海道中膝栗毛』5編下は、「神かぜや伊勢と都のわかれ道なる、追分の建場より、左のかたの町をはなれて、野道をたどり行くほどに…」で始まります。東海道四日市の宿場まで旅してきた「弥次・北八」コンビが、いよいよ日永村の追分で東海道を離れ、伊勢参宮道に足を進める場面です。二人の旅の仔細はここでは触れませんが(岩波文庫『東海道中膝栗毛(下)』p42以下参照)、注意を要するのは、伊勢が神風の国であるという認識です。このことは、『日本書紀』垂仁天皇25年3月の条において、天照大神の祭祀を倭姫命に託した一節、「是神風伊勢国則常世之浪重浪帰国也、傍国可怜国也。欲居是国。」にも記されています。


 上述のことを頭に止めおきながら、広重の保永堂版東海道五十三次『四日市』を見ると二人の旅人が強風に弄ばれていて、これは神風吹く伊勢の地を象徴する情景を描く意図であるということがよく判ります。つまり、風は単に自然現象という意味を越えて、四日市と深く結びついた文化的歴史的事跡を表すものとして選択されているのです。このような分析を応用すると、おもしろい結果に至る例を次に紹介します。それが、広重・保永堂版東海道五十三次『庄野』の「白雨」です。


Hiroshige46 「白雨」というのは、急に降り始めた強い雨、すなわち夕立のことで、本作品からはおそらく雷鳴をも伴った激しい豪雨ではないかと想像されます。重要なことは、これがただ雨の様子を描いたものではなくて、庄野を象徴する文化的歴史的事跡と関連するという視点です。広重が作品制作の基礎資料にしたと考えられる、秋里籬島『東海道名所図会』を参照すると、当時、庄野は日本武尊の陵・能褒野(のぼの)の地であると考えられていました。同図会は、『古事記』を引用しながら、「白鳥塚」など日本武尊ゆかりの史跡を幾つか紹介しています(ぺりかん社『新訂東海道名所図会(上)』p313以下参照)。ところで、日本武尊は熊襲、出雲、東国制圧の英雄ではありますが、一方で、東征を成功に導いた「草薙の剣」が天武天皇に祟りするなど祟の神(鬼)とも考えられていました。この事跡が判れば、本作品の白雨は、旅人が激しい雨に「祟られた」情景であって、それは庄野が日本武尊の絶命の地であるという認識に支えられていることが読み解けてきます。


 その他にも、広重・保永堂版東海道五十三次では、『大磯』の雨、『三島』の朝霧、『蒲原』の雪、『掛川』の風、『亀山』の雪、『土山』の雨など、作品における天気の変化は、情緒として選ばれただけではなくて、各宿場を特徴づける文化的歴史的事跡を物語らせるために設定されていると理解されてきます。なお、広重の晩年の大作『名所江戸百景』においても、雨を描いた作品には特定の意図が隠されているように思われます。

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『木曾街道六拾九次』と英泉、広重の主導権争い

 東海道五十三次を念頭に置いた場合、宿場の数53、日本橋と三条大橋を加えた数55が重要な数字であることは説明を要しないでしょう。そして、その53の符帳は35になりますが、たとえば品川から35番目は日本橋から36番目ということで、おそらく起点1を加えた36も大事な数字だと思われます。この符帳35を中心とする絵番号の観点で『木曾街道六拾九次』(以下、木曽街道と略します)を調べてみると、前回までのブログからおもしろい結果が得られました。すなわち、起点1も含めて、絵番号35、36、53、55の全てが英泉の作品であったことです。東海道五十三次の街道ブームを作った広重自身が、それを象徴する絵番号に一切触れることができなかったのです。

 では、別の観点からさらに木曽街道シリーズの絵番号を分析してみましょう。もとより、木曽街道シリーズは保永堂が英泉を頼みとして制作に取り掛かった経緯がありますから、絵番号1から10までの作品が、この両者のコンビであることは納得のいくところです。次の10枚については、最初の絵番号11「本庄宿 神流川渡場」、最後の絵番号20「沓掛ノ驛 平塚原雨中之景」ともに英泉の作品です。英泉の主導権が見えています。

 絵番号21は「追分宿 浅間山眺望」、絵番号31は「塩尻峠 諏訪ノ湖水眺望」、絵番号41は「野尻 伊那川橋遠景」となっていて、10枚1セットの浮世絵販売を前提にした場合、その最初の1枚目は、絵番号1と絵番号11も含めて、全て英泉の作品です。そして、初めにも言ったとおり、絵番号1は「日本橋 雪の曙」、絵番号55は「河渡 長柄川鵜飼舩」の英泉作品ということは、木曽街道を東海道になぞらえた場合、その初めと終わりを英泉が取ってしまったのですから、英泉の主導権は決定的です。このような結果に至ったのは、東海道シリーズの版元保永堂と絵師広重の関係が良好ではなく、その事態が木曽街道シリーズの制作にまで影響を与えたことは想像に難くありません。

 一方、絵番号56からシリーズ最後の絵番号70までは、基本的には、版元錦樹堂と絵師広重のコンビ作品です。つまり、木曽街道シリーズは、東海道シリーズになぞらえられた55枚に、オリジナル部分15枚を加えた体系として構想されていたということが浮かび上がってきます。東海道と言えば広重のはずなのに、絵番号55までの間で主導権を取れなかった広重の忸怩たる思いには同情せざるをえません。

 これではあまりに広重がかわいそうなので、広重を慰める事実はないかともう一度調べ直してみました。そうすると、上野国の最初は「新町」で広重、最後は「坂本驛」で英泉、信濃国の最初は「軽井沢」で広重、最後は「馬籠驛」で英泉、美濃国の最初は「落合」で広重、近江の最初は「柏原」で広重となっていて、やや広重に気を使っています。これで広重が納得したかどうかは判りませんが。

Kiso70 木曽街道シリーズ最後の作品を紹介しておきます。絵番号70「木曽海道六拾九次之内 大津」です。琵琶湖を望んで旅籠が左右に並ぶ遠近法を応用した情景の中に、多くの文字が入れられています。右側の旅籠の壁に「全」とあるのは、これでシリーズが全てが完結したという意味でしょう。またその屋根の2番目と3番目の飾りには、「ヒとロ」の意匠と「重」の文字があって、広重自身をアピールしています。1番前の飾りの「金」など各所に見える丸金の文字は、入金を願ってのことでしょうか。左側の旅籠の1階と2階には、「大當 いせ利」、「山に林」の商標、「新板」、「大吉」など版元錦樹堂の宣伝と作品の大当たりの願いが読み解けます。符帳35を中心にシリーズの制作過程をほんの一部垣間見ただけですが、本作品からは、広重が木曽街道シリーズに込た思いの丈が十二分に伝わってくるのではないでしょうか。また、広重の忍耐強さと誠実な性格もあわせてに感じられます。

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35という符帳2:英泉・広重『木曾街道六拾九次』

 35という符帳について、もう少し述べてみます。題材は、渓斎英泉と歌川広重の合作『木曾街道六拾九次』です。『東海道五拾三次』と同じ版元「保永堂」(竹内孫八)が、英泉に頼んで天保6(1835)年の春頃から制作版行したと考えられます。もともとは広重に依頼するのが自然でしたが、『東海道五拾三次』ないしは『近江八景』などの仕事が完結していなかったのか、ひとまず、英泉と組んで始められました。その後、広重が加わり、版元も「錦樹堂(伊勢利)」(伊勢屋利兵衛)との共同になり、最終的には、広重・錦樹堂コンビとなり完成しました。

 前回のブログで、35は53の符帳で、東海道53次を象徴し、同時に作品が大ヒットしたことから、制作者にとってはラキーナンバーであるということに触れました。そのことが、実際の浮世絵作品にどう影響を与えているかを、『木曾街道六拾九次』を例にとって検討してみます。まず、各作品に振られている絵番号から分析していきます。そうすると、問題の35番目は、英泉・保永堂「岐阻街道 奈良井宿 名産店の圖」となっています。この絵番号は、日本橋を1番目としているので、板橋宿から数えて35番目、つまり絵番号36番目を見てみても、英泉・保永堂「木曾街道 藪原 鳥居峠硯ノ清水」となっています。なんと広重は自分の分身とも言える符帳35番を取ることができなかったのです。では、単純に絵番号53番目を見てみましょう。英泉・保永堂「木曾街道 鵜沼ノ驛 従犬山遠望」です。さらに、起点と終点を加えた数の絵番号55番目はというと、英泉・保永堂「岐阻路ノ驛 河渡 長柄川鵜飼舩」となっています。ことごとく、英泉・保永堂の作品です。

 以上の事実を知ったうえで考えてみると、広重が『木曾街道六拾九次』「関ヶ原」に35という数字を添えた意図が明確になってきます。悪く言えば意趣返し、よく言えばささやかな抵抗です。私達は、東海道五十三次の制作者というと絵師広重を思い浮かべますが、実は版元保永堂こそ重要な一人なのです。この両者の関係が良好ならば、35あるいは起点・日本橋1を加えた36等のラッキーナンバーは、広重に振るのが自然です。言うまでもなく、両者の協力で東海道五十三次は大ヒットしたのですから。絵番号の振り分け具合から察するには、両者のあまり良くない関係が想像できます。多くの解説書では、英泉と版元との折り合いが悪くて、木曽街道シリーズでは絵師の交代に至ったとよく語られますが、もともとは、広重と保永堂との関係齟齬が原因で、それが逆に英泉に波及したのかもしれないとも思われます。

Kiso34 次に、同シリーズの「木曽海道六拾九次之内 贄川」と題された作品を見てみましょう。注目するのは、旅籠に架かる看板や講札に書かれる文字です。右側より、「版元いせ利」、「大吉利市」、「仙女香 京ばし坂本氏」、「松島房二郎刀」、「摺工松邑安五郎」、「仝亀多市太郎」と読めます。仙女香の宣伝は別として、旧版元保永堂ではなく、新版元錦樹堂を含めた制作者一同が揃って宣伝する姿が見えてきます。広重は本来この姿を、東海道シリーズの「御油」のように、絵番号35番目あるいは少なくとも36(起点1+35)番目で行いたかったはずです。しかし、両方とも英泉・保永堂に先取りされてしまったので、贄川作品では、絵番号を通例のように題名の前に挿入することを避けています。変えて、旅籠の前で馬子が客の荷物を下している馬の尻掛けに「三十四」とあります。符帳35を基準にすれば、34は尻の1枚に当たるなど、広重の色々な気持ちが推察できます。

Kiso63 最後に、広重の符帳35への思いがその後どうなったかを追跡してみましょう。絵番号63番目「木曽海道六拾九次之内 番場」が材料です。63は36の符帳と考えれば、起点の1+35を意味し、広重にはやはり重要な数字です。本作品は、宿場風景を東の見付方向から透視遠近法を用いて描いていて、茶店の看板に入れられている各種宣言文句を読んでみると、右側には、「一膳めし」、「酒さかな」の他に、「山形に林 いせや」という版元錦樹堂の商標があり、左側には、「そばきり」、「一ぜん(めし)」の奥に、「ヒロ 歌川」という絵師広重の意匠があります。版元と絵師の名前が書かれた作品が挟まれていて、そこに制作者側の何らかの意図を感じますが、これこそ絵番号35(36)番目あるいは広重作品35番目で行えなかった、符帳35へのこだわりが表出した結果なのではないでしょうか。少し考え過ぎかもしれませんが…。

 なお、絵番号63番目の作品はもう1点あって、版元保永堂・錦樹堂、絵師広重の「木曽海道六拾九次之内 鳥居本」がそれに当たります。この作品は、版元保永堂と絵師広重とが一緒に制作参加していて、錦樹堂の仲介(存在)によって、保永堂と広重の対立が決定的になることが何とか避けられたことを示す貴重な1枚と推測しています。なぜなら、広重が執着していた35を保永堂が最終局面で、63→36→1+35という形で広重に割り振ることを認めているからです。これも、深読みかもしれませんが。ちなみに、通例は、鳥居本作品の「絵番号63は64の誤りである」と軽く片付けられています。

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35という符帳:保永堂版東海道「御油 旅人留女」

 絵師歌川広重が作品の制作番号を意識していたことを示す代表的事例として、タイトルにある保永堂版東海道「御油 旅人留女」を採り上げます。当ブログで問題とするのは、本作品に描かれている宿場の情景説明ではなくて、旅籠の中にぶら下げられた看板と講中札に描かれている文字です。

Hiroshige36 丸い看板には「竹之内板」とあり、これは版元「保永堂」(竹内孫八)を意味します。講中札には、左より「一立斎圖」、「摺師平兵衛」、「彫工治郎兵ヱ」、「東海道続絵」とあり、最後の半分の文字は「三拾五番」と読めます。これらは、絵師(広重)、摺師、彫師を紹介し、本作品シリーズ『東海道五十三次』を宣伝するものです。一番右側の半分の数字35番は、御油宿が品川宿から数えて35番目に当たることを表しています。このように本シリーズの制作者全てが紹介されているということは、本作品には何かそうしたい(そうしなければならない)制作者側の事情があるのではないでしょうか。これをもう少し検討してみようというのです。

 制作者側が一同揃って「本シリーズの購買をよろしくお願いします」と頭を下げているのは確かなのですが、品川から数えて35番目の東海道の宿場町御油でなぜそれを行ったかです。実は、その理由は本作品それ自体にヒントがあります。すなわち、35番という数字です。本作品には、「東海道五拾三次の内」「御油 旅人留女」という言葉が入っています。これから判ることは、35が53を引っくり返した数字であるということです。つまり、53の符帳として、35という数字が使われているということなのです。だから、30番目「舞坂」でもなく、40番目「鳴海」でもなく、35番目「御油」なのです。東海道シリーズの制作者側には、この53の符帳35は記念的重要な数字であるし、広重にとっては、ヒット作を象徴するする縁起の良い数字であることになります。今日でも、業界用語として、文字をひっくり返すことはよくあることです。

Kiso59 35という符帳に上記のような東海道を象徴し、かつラッキーナンバー的意味合いがあるということが判ると、英泉・広重『木曾街道六拾九次』「関ヶ原」に描かれる茶屋の看板に、「三五 そばきり うんどん」という言葉が入っている謎も解けてきます。通例は、広重が描いた作品を東(「新町」)から数えるとちょうど35番目に当たるのでと説明されています。しかし、そのような機械的理由が決定的なのではなくて、35が広重にとってラッキーナンバーだからこそ、当該木曽街道シリーズでも大当たりするようにと願って入れられていると考えなければならないでしょう。しかも、「関ヶ原」作品には、「木曽道六拾九次之内」という文字が入っていて、街ではなく敢えて海という文字を使って、東道シリーズと対であるかのような印象を与えています。そのうえで、作品の通し番号としては「五拾九」番目という数字が入っているにもかかわらず、広重作品としては35番目ですよと添えるのは、保永堂版東海道を大ヒットさせたのは自分であるという、広重の強いプライドを物語るものとして感じざるをえないのですが、いかがでしょうか。

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後半の1枚目:冨士三十六景「相模七里か浜」

 『冨士三十六景』は、広重の死後に刊行された富士を画題とする竪大判の浮世絵シリーズです。北斎『冨嶽三十六景』を意識した作品体系であることは間違いないでしょう。目録の改印は安政6(1859)年6月になっているので、広重の死亡した安政5年9月6日から起算すると、約9ヶ月後、しかも、各36枚の作品改印の安政5年4月から起算すると、約1年2ヶ月以上経っての版行であったことが判ります。おそらく、『名所江戸百景』の完成が遅れたことや万延元(1860)年が富士出現の庚申縁年に当たっているという富士信仰上の(販売)事情が左右してのことと推測されます。

Fuji19_2 さて、ここでも前回ブログと同様、『冨士三十六景』の各作品解説をすることが目的ではありません。版元名と絵師の意匠が入っている作品が、シリーズ中に挟み込まれている事例の一つとして採り上げています。タイトルに挙げた「相模七里か浜」では、七里ヶ浜の日常景として、海岸線を江ノ島方向に歩く旅人とそれに群がる子供達に目が行きます。また、揃いの着物を着て茶屋で一休みする女達の姿も見えます。いずれも、江ノ島参詣の情景と理解できます。注目すべきは、茶屋に架かる暖簾に、「日本はし」、「魚かし」の他に、「蔦吉」と「ヒとロ」の意匠などが書かれている点です。言うまでもなく、「蔦吉」は版元蔦屋吉蔵、「ヒとロ」の意匠は絵師広重をそれぞれ示しています。とすると、本作品が制作サイドの観点からは、シリーズを区切る最初の1枚目であるという可能性が出てきます。

 目録の順番によれば、本作品はちょうど19枚目に当たります。つまり、本作品の前作品「さがみ川」が18枚目で、まさに36枚シリーズの前半部分が終わったことを意味します。言い換えれば、本作品は後半部分の最初の1枚目に相当するということです。つまり、シリーズ中に挿入された「版元名と絵師の意匠などを入れた作品」は、制作サイドの進行に関する何らかのサインと見ることができるということです。これがいつも妥当するとは限りませんが、一つの重要な指標と見ることはできるのではないでしょうか。

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続きの1枚目:名所江戸百景「神田紺屋町」

 昨年末のブログで、『名所江戸百景』100枚目の作品として、「四ツ谷内藤新宿」が「尻の1枚」に当たるのではという話をしました。そこで、年を改めた今回は、101枚目、つまりシリーズ継続の最初の1枚目を話題にしてみたいと思います。各作品内容に関する詳しい解説は、『名所江戸百景』全作品について別機会に行いたいと考えておりますので、今回は一種数字遊び的観点での話題展開になることを初めにお断りします。

98_75 安政4年11月改印の7作品がちょうど96枚目から102枚目に当たるのですが、その中で気になる1作品があります。それが、タイトルにも挙げた「神田紺屋町」です。本作品は、神田鍛冶町の東側にあった染物職人が集まる「紺屋町」(1〜3丁目)を画題にしています。作品の構図は、縦方向を強く意識した構成で、櫓に干された染物に注目すると、干された浴衣地には「魚」という文字と、「ヒとロ」を組み合わせた文字がそれぞれ染められています。前者は版元「魚栄堂」(魚屋栄吉)、後者は絵師「広重」の意匠です。つまり、版元と絵師の宣伝が入れられているのです。このような場合は新板の広告であることが多く、それ故『名所江戸百景』でも、これが100枚達成後、最初(再開)の1枚目であると考えられるのです。

 たとえば、北斎『冨嶽三十六景』においても、36枚版行後の追加の10枚の最初の1枚目は「本所立川」で、その画中右下の立て掛けた材木等に、右から「馬喰丁弐丁目角 西村」、「西村置場」」、「永壽堂仕入」、「新板三拾六不二仕入」などの書き入れがあって、やはり、版元「永寿堂」(西村屋与八)と新板の宣伝に当てられています。北斎『冨嶽三十六景』を意識していた広重が、これと同じ構造を『名所江戸百景』で採ったとしても全く不思議なことではありません。そもそも、広重は、ある時期からシリーズ100枚目達成後も、少なくとも10枚程度の追加は予期していたように思われます。

 では、追加の10枚達成後、つまり、111枚目はどうなっているかというと、おもしろい事実に遭遇します。安政5年7月改印の作品が、110枚目から112枚目に相応します。題名を挙げると、『名所江戸百景』「大伝馬町こふく店」、『江戸百景余興』「芝神明増上寺」、『江戸百景余興』「鉄炮洲築地門跡」となります。後者2作品は、『名所江戸百景』ではなく、『江戸百景余興』となっていて、広重は生真面目にも、これら2作品が、追加の10枚をも越える再追加作品であることを語っているのです。おそらく、さらに10枚程度の追加を考えていたのかもしれません。しかし、その途中で病に倒れ、結局、二代広重作品も含めて計9枚が付け加えられています。

 ちなみに、『名所江戸百景』最初の1枚目はどの作品でしょうか。安政3年2月改印作品がそれに当たり、計5点が版行されています。その内、「芝うらの風景」にのみ、「彫千」という名工彫師の名前が入っていることを考えると、これが最初の1枚目であることは間違いないでしょう。

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尻の1枚:名所江戸百景「四ツ谷内藤新宿」

100_views_edo_086 半蔵門から西方に進む甲州街道は、四谷大木戸を越えて、最初の宿場・内藤新宿に至ります。『名所江戸百景』において内藤新宿を描いた作品は、安政3年2月改印の「玉川堤の花」に一度登場しています。『江戸名所図会』(巻之3)によれば、信州高遠藩内藤家の下屋敷跡に宿場を開設したことが命名の由来とされていて、同図会の図版「四谷大木戸」には木戸を行き交う多くの人馬が描かれています。また広重『絵本江戸土産』(第4編)の図版「四ツ谷大木戸内藤新宿」にも、馬子が人と荷物を積んだ馬を引いて歩む姿が描写されています。『名所江戸百景』では、高輪大木戸が牛のイメージだったのに対して(「高輪うしまち」参照)、ここ内藤新宿は明らかに馬のイメージです。それ故、広重が内藤新宿を馬のクローズアップで表現したことはよく理解できます。

 とはいえ、なぜ広重は、背後から馬の尻と尾を描くという視点を採ったのでしょうか。前方には馬子がいることが判りますし、左手背後には旅籠、さらにその奥には内藤家のあった森が情景描写されています。馬の足元には馬糞まで転がっていて、江戸っ子は滑稽な風情を笑い飛ばしたでしょうが、海外では品がないと比較的消極的な評価を受けることが多いようです。作品の真意を考えるに当たっては、安政4年11月改印の本作品を含む計7作品がシリーズ96から102枚目に当たり、ちょうど100枚目を達成する記念すべき時期のものであることに注目すべきでしょう。すなわち、広重が本作品をまさにシリーズ100枚目と認識し、それを洒落て、シリーズの「尻」、「大尾」を表す馬の「尻」、「尾」を描写したと読み解けるのです。

 私見では、「玄武」、「朱雀」、「青龍」、「白虎」の四神に当たる「深川万年橋」(亀)、「浅草田圃酉の町詣」(鷲)、「亀戸梅屋敷」(臥龍梅)、「虎の門外あふひ坂」(虎の門)が96から99枚目、「四ツ谷内藤新宿」が尻の100枚目で、この5枚によって『名所江戸百景』100枚版行を記念していると考えられます。付け加えれば、『冨嶽三十六景』の36枚目は、「東海道江尻田子の浦略図」です。つまり、「江尻」=「絵の尻」と読み替えることができ、同様な洒落と解することができるのではないでしょうか。

 原信田実『謎解き 広重「江戸百」』(集英社新書・2007)112頁は、本作品の制作動機を「九月十一日の中野筋へのお成り」としています。制作動機は確かにそうかもしれませんが、馬を背後から描いた諧謔は、100枚目到達を宣言する意図と見ます。なお、三代豊国が安政4年11月改印の作品として、『江戸名所百人美女』を一挙に48枚版行します。これも広重の『名所江戸百景』がこの時期ついに100枚を達成したことを受けての記念事業であり、タイアップしながら、両作品を画帳仕立てにして高額で販売しようとの魂胆があったと考えています。すなわち、三代豊国側には、広重の『名所江戸百景』版行事業を横取りする気はもちろんなかったはずですし、逆に、100枚達成まで待っていたと見るべきです。

 従来、「四ツ谷内藤新宿」の馬の尻を描いた作品について、広重の制作意図を明確に説明したものはないように思うので、ここに敢えて掲載させていただきました。折しも、年末で、本ブログの更新もこれが最後の予定です。ブログの尻に、馬の尻を描いた浮世絵の話という訳です。おそまつ。(^O^)

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竹箆太郎(5)

Fairy173 ジェイムス夫人英訳のちりめん本『竹箆太郎』 には、このシリーズにしては珍しく、序文が付いています。そこでは、竹箆太郎と同様、犬を起源とする話として、‘Mitsumine’あるいは‘Mitakesan’の‘Okuchishinjin’の紹介がなされています。これは、「御岳」(みたけ)の「大口真神」(おおくちまがみ)のことを指していると思われ、物語の最初のページにも、この「大口真神」を描いた幟が引用されています。ジェイムス夫人の念頭には、このニホンオオカミのイメージがあったことが推測され、幟の中にも、「竹箆太郎大明神」と書かれています。

 この、もう一つの(怪)犬伝説は、武蔵御嶽(みたけ)神社に伝わる古譚で、日本武尊が東征の際、深山の邪神の放った深い妖霧に道を見失い、窮地に陥ったのを白狼に導かれたことに由来します。白狼は、その後、「大口真神」としてその地に留まり、魔物の退治を仰せつかったといいます。以来、魔除け、火難除けの神として「お犬様」の霊験の信仰が始まったそうです。ちなみに、ジェイムス夫人は、‘the large mouthed god’と英訳しています。

 この信仰は、ニホンオオカミが描かれた護符を受けに行く「御嶽講」(みたけこう)として、今日でも残っているそうで、この経緯は、長野県川上村出身の由井英監督のドキュメンタリー映画、『オオカミの護符』にて撮影されているとの報道に接しました。

 ところで、御嶽神社は現在の青梅市に当たりますので、ジェイムス夫人の話の収集地は東京近郊と推測されます。実は、歌舞伎の怪猫奇譚『竹箆太郎』では、退治されるのは猫です。江戸などの歌舞伎の観客や読み物の読者にとっては、猿よりも身近な猫の方が現実感があるように思われますし、そのような資料に基づいて彼女が英訳したとなれば、怪犬と怪猫の戦いというストーリーにならざるをえません。彼女の意図は、それほど強いものではないかもしれませんね。

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竹篦太郎(4)

Kuniyoshi71 左図は、国芳『木曽街道六十九次之内』「京都 鵺 大尾」嘉永五(1852)年十月の作品です。このシリーズのほとんどは、単純な駄洒落から一枚の浮世絵作品を描き上げる趣向のものですが、京都に関してはそのような言葉遊びの要素は少ないようです。大尾(最終頁の意味)と蛇の尾は掛けられているかも知れませんが。

 鵺(ヌエ)は、頭は猿、(胴体は狸)、尾は蛇、手足は虎の姿をした怪物であるといいます。この鵺を退治したのが、平安時代末期の武将、源頼政で、その場所は、京都(紫宸殿)ということなので、京都に鵺を持ってきています。

 左上の駒絵は紫宸殿の形をしており、そこに描かれているのは、山頂から黒い雲が降り立つ風景です。実は、この紫宸殿を被う黒雲の正体が、鵺であり、黒雲から発する稲妻の中に鵺が描かれています。

 駒ヶ根の『早太郎(竹箆太郎)伝説』では、雷鳴(雷)の正体は狒狒(猿)であり、山犬の早太郎に敗れますが、鵺に象徴されるものも、当作品も描いているように、おそらく、雷鳴(雷)に違いないように思われます。『平家物語』では、源頼政は、家来の猪早太(井早太)を連れ、先祖の源頼光より受け継いだ弓を手にして怪物退治に出向き、山鳥の尾で作った矢で射止め、すかさず猪早太が取り押さえて止めを刺したとなっています。「早太郎」に「猪早太」と、登場人物の名に共通するものがあるのは、同じモチーフだからです。また、矢で射るのは、怨霊払いの儀式ですが、鵺に象徴される雷鬼は【金】属神であるので、頼光=雷光(雷神)の力を借り、【火】で鋳(い)るの意味において、陰陽五行の思想から説明できます。

 さらに分析すると、鵺退治の伝説は、北東の寅(虎)、南東の巳(蛇)、南西の申(猿)、北西の亥(猪)といった干支(易)の合成からできていることに気付きます。つまりは、後付によって伝説化されたということでしょう。なお、『早太郎(竹箆太郎)』の犬と猿の対決も、北西の戌と南西の申に相当します。

 干支(易)の応用、早太の助太刀、勇者(若武者、頼政)の活躍など、基本構成要素に共通する点が多いということは、両伝説は、同じ思想背景を持った者の(再)構成と推測しています。

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