洞爺湖と昭和新山

Toyako

Showashinzan
 北大に入学した昭和47年、車に引っ越し荷物を積んで、父親の運転で愛知県豊田市から札幌市にやって来ました。青函連絡船に乗って、「はるばる来たぜ函館へ」(函館の女)と口ずさみ、大沼公園や駒ヶ岳を眺めつつ、洞爺湖沿いに車を走らせ、なんと室蘭本線に蒸気機関車が煙を吐いている光景を見て、ディズニーの「冒険の国」にやってきたかと大いに感激していました。

 父親の古いカメラを貰い受け、道中の写真を撮っていたのですが、洞爺湖でフィルムがなくなってしまいました。一通り観光地の写真は撮っていたので、それほど気にしていませんでした。ところが、昭和新山を見た時、「しまった、この景色は絶対記念写真に収めておきたい」と強く感じ、売店でフィルムを買おうとしたのですが、(ブローニー)6×6という特殊なフィルムサイズで手に入れることができなく、泣く泣く記憶に止めておくしかなかったという残念な思い出があります。そこで、今回はリベンジということで、2024年10月11日の留寿都探索後、息子達と一緒に昭和新山の記念撮影に行ってきました。胸のつっかえを取ることができました。よかった!、よかった!

 今の人だったら、たぶん有珠山の方を観光するのでしょうが…。洞爺湖周辺は、どこに行っても地底からの強いエネルギーを感じ、別次元へのポータルになっているような気がしました。

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 その夜は、札幌市に戻って北24条界隈の居酒屋で息子2人と各種海鮮を堪能しました。長男は札幌市在住なので、その案内です。フワフワの鯵の天ぷらは、おかわりしてしまいました。それにしても、息子2人に女っ気がないのはどういうことだろう。父親はモテモテだったのになあ(笑)。

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留寿都のログハウス

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 北大法学部助手時代(1981~1985)、国税局の公売を利用して、助手の給料でも買い受けできる程の価格の土地を入手しました。場所は虻田郡留寿都村で、地積は1万坪超の広大なものです。羊蹄山の展望に優れた景観が大変お気に入りでした。法学研究者としていくら優れた論文を書いても、世の中が良くなったという手応えが全くなかった当時、私にとっては最高の精神的リフレッシュの場所でした。

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 テレビドラマ『北の国から』がブームになるよりも前からだと思うのですが、その土地に生えているカラマツを利用してログハウスを建てるなど、北海道開拓時代をなぞるような楽しみを見つけ出していました。一面の熊笹をビーバー(草刈機)で根気よく刈って、プライベートな家族キャンプ場として利用しました。そこには2棟のログハウスを建設しています。ここでの人間らしい生活体験が、結局、法学研究者からの転身の動機となったのです。

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 北大の同級会が札幌で開かれたことをきっかけとして、当地に約40年ぶりに訪れてみました。土地への出入り口がなかなか見つからず、土地を熊笹が覆い、木々は想像以上に大きく成長しており、熊と出会うのではないかという恐怖をも感じながら、やっと見つけることができました。豪雪地域なので、倒壊し屋根だけ残っている残念な状態でした。札幌から長野に移住する際、土地は処分したのですが、その後の所有者は特段何も管理していなかったのでしょう。原始の姿に戻りつつあります。

 留寿都での経験の延長線上で、長野の自宅の敷地にも小さなログハウスが一棟建っています。それを眺めながら、長野でもう一棟ログハウスを建てたいという思いが浮かんできました。妻はすでに亡くなっていますが、子や孫達のためのゲストハウスならば、何となるかもしれません。いずれにしろ、人生最後のログハウスになるでしょうけれど。

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北大第2農場

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 北大の観光地として一番有名なのはポプラ並木です。そして、その背後には広大な「第1農場」があって、北大がその前身である札幌農学校であることを実感できる場所です。私も旧友達とともに足を運び、倒木がかなり進んだポプラ並木の姿にわが身を照らして記念撮影をした次第です。なお、掲載写真は大学4年当時(1975)の私の雄姿です。裾の広いジーンズが時代を物語っています。

 

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 一方、『北海道大学歴史資産ガイドマップ』(部分)を見ると、低温科学研究所の北側にも広大な「第2農場」があることが分かります。私の思い出の場所はこちらの第2農場の方です。

 

 大学卒業式当日の卒業コンパに、因縁の女子学生が参加していました。入学時、最初に声を掛けてくれたにもかかわらず、その日に喧嘩をし、数年後やっと和解したものの、とくに恋愛関係に発展するというわけでもなく、はや4年が終わるという日です。どういう話の流れか、彼女をタクシーでアパートまで送ることになりました。第2農場を突き抜ける未舗装の道の途中で車を止めて、4年間の学生生活をともに楽しく送ることができたことを感謝し、私は徒歩で東、彼女は車で西へと向かい別れました。

 

 ところがしばらくして、車がバックしてきます。ただし、暗闇なので車はバック運転に難儀し、途中で停車しました。後部ドアが開き、彼女が私の名前を大声で呼んでいるようです。何度も何度も大きな声が聞こえます。どうしたのかと思うものの、暗くて走れないので、足を速めて戻ります。「どうしたの」と聞くと、「早く来てよ!」と叱責口調です。「生まれて今日までこんなに大きな声で男の子の名前を呼んだことがないし、今後も生涯絶対にない」と立腹?、興奮?、動顚?しています。そして、「他の男の子だったらいやだけど、あなただから仕方がないなと思って…」と呟きました。

 

 彼女は私が車に忘れ物をしたと勘違いし、人生一回限りの大声を出して私を呼び戻したのです。でも、その勘違いが私には北大最後の良き思い出となりました。第2農場は彼女の理知と理性を吹っ飛ばす程広く、2人の別れを静寂の中に飲み込んでしまいました。なお、タクシーの運転手さんが、「ちょっと散歩してくる」と言って、変な気を使ったのが場壊しでしたが…。

 

 あれ以来彼女には一度も会っていません。48年前、卒業式当日の夜のことです。

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クラーク博士・ポプラ並木と北大中央ローン

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 北大のクラーク像およびポプラ並木の前で記念写真を撮るOBの姿です。左写真中央、右写真右端が私です。逆光等があるとしても、卒業して48年も経つとただの老人会の集まりのように見えますね。クラーク会館で集合し、ポプラ並木を経由して、生協食堂北部店で食事を取るというコースです。遠かった!

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 私にはクラーク像の背後に広がる中央ローンに深い思い出があります。北18条門で出会った女子学生とやっと和解できた場所だからです。正門から附属図書館に向かう途中、楡の木の脇を反対方向から歩いてくる彼女と偶然出会いました。相変わらずあいさつに返事はありませんでしたが、その日はそこで立ち話が始まり、彼女はここ数年の思いを一気に語りました。途中、「どうして黙っているの?」と何度か言われた記憶があります。そうそう、ここでちゃんと返事をしないとかつての二の舞になると考えて、思いを理解したこと、過去のことよりこれからの時間を楽しく共有したいと答えたように思います。大木から地面に垂れ下がる枝の葉が頭に当たるので、2人は南門の方に退避しました。

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 北大の南門からは南側正面に北海道庁旧本庁舎(赤レンガ)が見えます。彼女が一度も行ったことがないというので、「行かないの」という強引な誘い(?)を受けて、2人で見学することにしました。「こういうところで働きたい」という言葉が印象的でした。現在、赤レンガは修復中なので、ここでは現況を紹介できません。以前、別の機会にとった写真です。

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 こんな顛末があって、2人は和解ができました。北大キャンパスに聳え立つ大木達がいつも良い演出をしてくれます。敷地内の木々に感謝です。なお、北大入学当時のクラーク像との2ショットを載せておきます。かっこよかったなあ…

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北大の北18条門

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 北大の北18条門は現在綺麗に整備されており、門から教養部(現在の情報教育部辺り)周辺にあったポプラ等の大木は伐採されてほとんどなくなっています。今から50年以上前、門を入った西側にあった大木の下、私は同大学の女子学生から重い告白を受けたことがあります。入学したばかりで皆の顔や名前などほとんど分からない時です。

 「おはよう」という女性の声が聞こえたのですが、私に向けられたものとはまったく気付きませんでした。さらに何度かその声が耳に届くので、やっと足を止めその声の主を探しました。今度は「どうして返事しないの!」と詰問されました。「私にはとても重い意味があるのに」と続きます。その場所が先の大木のところで、彼女は北側、私は南側と大木を挟んで話をすることになったのです。私にとってはちょっとした、彼女にとっては他の学生の前で無視され、相当傷つけられたボタンの掛け違いで、彼女を心底怒らせてしまったようです。それ以来、私があいさつしても彼女からの返事はなく、和解するまでに数年掛かってしまいました。

 2024年10月、大学入学から52年、北18条門周辺に足を運んでみました。多くの人は門の北側にある重要文化財・札幌農学校第2農場を観光しているようです。しかし、私には伐採・整備され何もなくなった門内のただの通り道が非常に懐かしく思われました。振り返ってみれば、私が話していたのは女子学生ではなく、大木(木の妖精?)であったのかもしれません。

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蛍日記 2-14 カワニナの屋外水槽飼育終了

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 向かいの家の井戸水をポンプアップし、ホースで大型水槽(100L)に引き込み、水の濾過・循環器を使ってカワニナを飼育していましたが、2年目の作業も終わり、10月14日、水槽に残った500個以上の子貝を蛍の堰に放流してきました。水温が5度を下回ると、屋外水槽では子貝達は生息できないので、自然に流れる堰で越冬してもらとうということです。来年からは、屋外水槽は使わず、蛍の堰で直接飼育していきたいと考えています。今年のように気温30度を超える日々が、7月から9月の3ヶ月まるまる続くと水槽での飼育はかなり大変だからです。水温30度位がカワニナの生存限界のようで、その水温を超えないように井戸水で調整するよりは、自然の流水に任せた方が合理的だからです。その分堰の環境を整備する必要はありますが。

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 累計で2000個以上のカワニナを堰に放流したことになり、仲間のM氏も子貝を堰に放流しているので、3000個に近い子貝が堰に放たれたことになります。蛍の幼虫にとっては大した数ではないかもしれませんが、同時並行して進める蛍の堰の環境整備への第一歩だと考えれば、決して無駄な努力ではないでしょう。来年からは、親貝を直接蛍の堰に捲くということになります。

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 ただし、保険をかけるという意味で、室内水槽に200個程は残し、来春まで観察することにしました。初めは100個程を室内水槽に移すつもりでいましたが、屋外水槽の循環器を洗浄していたところ、100個以上の子貝が見つかって、結局200個以上となってしまったという訳です。実際、屋外水槽の水替えに際して、砂粒のような子貝は相当水と一緒に流してしまっており、発想を逆にして、その水は家の横を流れる中村堰に捨てるように対処しました。この中村堰は少し距離はありますが、下流で蛍の堰に流れ込むので、まんざら無駄にはなってはいないと思われるからです。ちなみに、室内水槽にはサーモスタットが用意されており、水温調整には不安はありません。11月に入ると、井戸水のポンプが凍結する虞があって、水道水を中和して使用することになり、その点は要注意ですが、もともと水源が綺麗なのか、昨年はほとんど支障はありませんでした。

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蛍日記 2-13 蛍の生息地探訪 滝沢川上流

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 蛍の堰が流れ込む滝沢川から下流は、以前述べたように蛍の生息地になっています。では、堰に水を取り込む川の上流部はどうなっているでしょうか。古町地区を流れる滝沢川の最上流部にある石原橋辺りには複数の入水口があって、1枚目の写真はその内の1つです。ちょっとした滝口のようになっており、その手前側から堰に水を取り入れています。

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 25年程前のことになりますが、、入水口の上流部(2番目の写真右側)で、地区の子供達と一緒に魚つかみをした思い出があります。写真の右側上部に石原橋が写っています。しばらくは地区の育成会事業として続いたのですが、その後何年かして危険だということで中止になってしまいました。確かに橋は仮橋なので危ないのですが、川遊び自体は危険だとは思わないのですけれど…。

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 それはともかく、この堰の入水口の下流部は神社を囲む森になっており(3番目の写真)、そこを流れる川筋は蛍の生息地になっています。農家があの石原橋を渡って、軽トラックで田圃に行く途中通過するだけなので、蛍が生息するということは知られていないようです。実は石原橋の上流部にはさらに別の堰の入水口があって、その上流部も蛍の生息地になっています。堰の出水口は一種人工の滝のようになっており蛍がいるのは分かるのですが、入水口近辺が蛍の生息地になっている理由はどこにあるのでしょうか。水を取り入れるための段差の影響か、雑木の伐採、草刈りなど一定の管理維持がなされているからなのか。

 今年、蛍の堰の入水口も新たに整備工事がなされたと聞いています。来年は、この工事結果も含めて、滝沢川最上流部の蛍の生育環境を確認してみたいと考えています。ただし、この辺りは、熊が山から下りてくるルートでもあるので、秋の今はどうしても探索する勇気が持てません!

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蛍日記 2-12 蛍の堰の近況・カワニナ放流2

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 9月18日に500個、9月25日に500個、計1,000個のカワニナの子貝を蛍の堰に放流しました。今年の異常な暑さを考えると、カワニナには自然水流のある堰の方が水槽よりも適していると思われます。来年からは、堰あるいは滝沢川で直接カワニナを生育する計画で、そのためにはカワニナの餌となる珪藻類の繁茂が必要となり、堰に太陽の光が十分に当たるように心掛けています。したがって、堰周りの雑草を刈り込まなければならないということです。堰幅が狭いので、気を付けないとすぐに水面が草に覆われてしまいます。

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 その方法は、除草剤は絶対に避けて、草刈機で草を綺麗に刈ります。前回掲載した近隣地区(中宿の堰)と比べると格段に整備されていることが分かると思います。仲間のM氏が草を刈ってくれました。彼の畑の脇でもあるので、それほどの負担にはなっていないと信じています。なお、蛍の幼虫が上陸し蛹になる頃は、堰から地上に上りやすいように水面近くの草は一部残して草刈りしている気遣いをしているそうです。ところで堰を写した写真をよく見ると、右側の畑の部分に白い花が一面に咲いているのに気付きます。そばの花です。これは、酷暑の夏から新そばの季節が間違いなく近づいていることの証です。飯綱町は、隣の戸隠ほど有名ではありませんが、意外にもそば処なのです。

 記紀に、日本は古来より、「豊葦原瑞穂(とよあしはらみずほ)の国」と言われ、田圃に広がる稲穂の風景は2千年全く変わらず、この点は田舎生活の醍醐味となっています。しかし、豊葦原の言葉が示す、葦の生える湿地は無くなり、蛍の生息地は風前の灯です。さらに、日本を指す言葉に、「秋津島(あきつしま)」、すなわち蜻蛉がいっぱい群れる島という言い方があります。しかし、蜻蛉は田舎でもめっきり少なくなっており、とくに「蜻蛉の群」を見て秋津島を感じることは全くありません。日本の近代稲作は、米に比重を掛けすぎているのかもしれません。蛍の飛翔を復活させる試みは、1つの生態系としての日本の原風景を残したいという気持ちから始めたことです。蛍が飛翔すれば、やがて蜻蛉も群れることになるでしょう。

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蛍日記 2-11 耕作放棄地

 当(古町)地区以外にも蛍の生息地は何カ所かあります。源氏蛍だけでなく、平家蛍の生息も確認されています。飯綱高原の霊仙寺湖近隣の堰には、7月頃に風が吹くと飛ばされそうになる小さな平家蛍がいますし、飯綱町全体に範囲を広げれば人家の少ない場所には意外に多くの蛍が飛翔しています。地元の人達が意識していないだけだと思われます。

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 今回は、当地区の隣・中宿地区の蛍生息地の近況を報告します。蛍日記2-5で一度触れていますが、ここに本当に蛍がいるのかというような場所です。堰の一部を撮した写真(上)を引きの写真(下)で見直すと、手前右側から流れてきた水は手前左側で直角に折れて、後方のライスセンター施設の前を走る道路に向かって直線的に流れ、道路下を潜って左に折れ、最終的には滝沢川に流れ込みます。写真を見ると道路際に電柱があって、そこに街灯が付いているので、夜、道路を走る車や歩く人から蛍はほとんで確認できません。蛍を見るには、いささか情緒がない場所です。

 この中宿の「蛍の堰」を再度採り上げたのには理由があって、写真からも分かるように、右側の本来ならば水田であった場所が未耕作地になっていることです。その右側には畑跡があって、今はススキが背を高くした原野になっており、さらにその右側は朽ちた家屋とサイロが残っています。何十年にも亘って空き家・空き地となっているという事実に大変興味があるということです。堰自体は擁壁化されているので、滝沢川から生息地を広げた蛍は、その工事によって一時消滅したのかもしれませんが、緩い流れと耕作放棄地の脇という環境からどうやら復活したのではと推測されます。   

 他の堰では水田耕作が継続的に行われた結果、蛍は定着できなかったのでしょう。近時、滝沢川自体が滝口から石原橋と大橋を経由して、新井橋に至るまで全て浚渫されてしまい、蛍を見ることができず、当該中宿の蛍はここに陸封されてしまったいう訳です。古町の「蛍の堰」も中宿の「蛍の堰」も、事実上の未耕作地あるいは耕作放棄地の脇を流れているということが重要です。

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蛍日記 2-10 ジャガイモ投げ!

 異常な暑さを乗り切るため、カワニナの野外飼育へと舵をきり、蛍の生息環境を整備する方向に一歩進めるつもりです。そこで、昨年は蛍の堰で行った餌やりを、本年は滝沢川で「イモ投げ」という形で行うこことにしました。8月30日のことです。

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 家庭菜園で新ジャガをたくさん収穫したので、冷蔵庫に保存してきた旧ジャガ(?)をカワニナの餌として再利用したということです。比重の関係で水に沈むイモ類の特性を利用して、川に直接投げ込む方法です。ただし、新芽が出掛かった部分には毒があるので、芽の周辺を摘むことにします。以前、室内水槽にジャガイモをそのまま入れた際、芽を取らなかったので、少なからぬ子貝が昇天してしまった経験があります。葉っぱ類と違って、意外に長く水槽内にそのまま形を留めており、イモ類は餌として有用です。

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 「イモ投げ」の場所は、蛍の堰が流れ込む滝沢川の下流辺りです。堰と川とがTの字を作っている場所は、小規模な滝壺状になっており、一定の水深があって、経験的にカワニナの生息地となっていることが多いと言えます。その下流には蘆・茅等の生えている洲が続き、蛍の幼虫が生息していると推測され、適地ではないかと判断されます。その時ふと思ったのですが、これで川にお酒でも注いでいたら、遠目には、何か神事でも行っているように見えたかもしれません。蛍神事の始まりです!

 村の古老が、少年時代には、この滝沢川に鮭が上ってきたと話しているのを聞いたことがあります。下流は鳥居川を経て千曲川に繋がっているので、日本海産鮭の遡上もありうべきことでしょうね。護岸工事が完璧すぎて、容易に川床に降りることができないのが大変残念ですし、夜ともなれば落下の危険性があって、蛍の観測には十分な注意が必要な場所へと変転してしまいました。

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