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120 「江戸百景目録」

「一立斎廣重 一世一代 江戸百景 東叡山廣小路 魚屋栄吉梓」
Meishoedo100_120
 春の部、夏の部、秋の部、冬の部、「総計 百十八景」という形式で、初代広重の署名が記された計118図の目録です。構成は、「梅素亭玄魚」によるものです。制作は、二代広重『赤坂桐畑雨中夕けい』が含まれていないので、安政5年10月(1858)以降と考えられ、翌6年正月(1859)頃、揃物として売り出す際の目録と推測されます。背景の梅の花もその季節に合わせたということでしょう。なお、玄魚は、76「佃しま住吉の祭」に描かれる布目摺の大幟に篆書文字を書き入れた人物で、能書家であるばかりでなく、デザインや構図などの企画にも参画していたことが想像され、広重と親しくしていたブレーンの1人と目されます。

 目録と個々の作品とを見比べると、たとえば、冬の04「千束の池袈裟掛松」、05「千住の大はし」、夏の84「深川八まん山ひらき」等、目録の季節感との相異が感じられ、制作前に各作品の春夏秋冬を厳密に決めていたとするよりは、目録制作時に改めて分類し直したと考えた方が自然です。広重の突然の死によって制作が中止されたことも考慮するとなおさらです。目録の構成に従えば、「春の部」の18「日本橋雪晴」に始まり、「冬の部」の88「王子装束ゑの木大晦日の狐火」で完結する形式となります。確かに、それぞれ巻頭・巻末に相応しい作品と言うことができます。とくに「日本橋雪晴」では、日本橋川のぼかしが川の中央から岸に向かって入れられており、手間の掛かるぼかしの技法が使われていることが分かります。また「王子装束ゑの木大晦日の狐火」では、狐火という信仰上の存在を名所絵の中に取り込み、名所を基礎づけている核心的伝承を表現しています。広重が江戸の風景の見せ方に工夫を凝らして名所絵としている、その苦労と矜持が示されているのです。

 一方、本講座が採用した制作順に読み解くという視点に従えば、01「玉川堤の花」に始まり、100「四ツ谷内藤新宿」で100枚に至り、115「両国花火」で広重は筆を置き、二代広重の118「びくにばし雪中」で終了することとなります。「玉川堤の花」は、玉川堤の桜という新たな名所を内藤新宿から売り出すための地域興しに係わる作品です。広重の作品が江戸に名所地を作り出すという意味で、相当な意気込みと決意で制作したことが強く感じられます。現実には老中首座阿部正弘に「御用木」をかってに名乗ったことを詰められて玉川堤の桜は実現しなかったのですが、広重の名所絵の持つ影響力・期待を印象づける一件となったことは明らかです。その当初の思いが、江戸百100枚目で、再び内藤新宿を広重が採り上げる原動力になっています。その意味で、幕府あるいは老中阿部を意識せざるをえない心情が常に広重にはあったはずで、江戸百の作品を読み解く際には、この心情への配慮が必要です。115「両国花火」は江戸がようやくここまで来たという広重の思いと深く結び付いた事実上の締めの作品であり、「びくにばし雪中」は広重の生活圏に所在する場所で、慣れ親しんだ景色が絵師の眼差しによって江戸の名所となる好例を示してといるということになります。

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