117 上野山した
安政5年10月(1858)改印
36「下谷広小路」と同構図・同趣旨の入銀作品と分かります。「下谷広小路」に描かれる松坂屋が版元魚屋栄吉の店のすぐ近くにあったと同様、本作品の伊勢屋も版元の店に近在し、したがって、版元経由で江戸百シリーズに持ち込まれた広告作品ということです。
上野山の東麓一帯の山下側には火除け地があって、「上野山した」と俗称され、上野広小路に繋がっていました。本作品は、その出入口付近の情景で、寛永寺門前を流れる忍川に架かる三橋を渡り、寛永寺と山下の道を分ける石垣辺りの風景と推測できます(DVD『江戸明治東京重ね地図・東叡山下谷』参照)。題名には「上野山した」とありますが、どちらかというと、上野広小路(下谷)の方が近いと言えます。そには、「しそ飯」の暖簾が掛かる「伊勢屋」という店があり、塩で揉んだ青ジソを混ぜたシンプルな飯物が有名でした。店の1階にはヒラメなどの鮮魚が並び、2階には食事をする座敷が設けられているのが分かります。伊勢屋の左側の鳥居は五条天神で、日本武尊が東征の際、薬祖神(大己貴命・少彦名命)の加護に感謝して、両神を祀ったのが始まりです。その道を進むと上野山下に至ります。
本作品の左隅に蛇の目傘をさした一行が描かれていますが、「下谷広小路」に見られると同じく、「連」の人々が花見に出かける風情と想像されます。前帯をしているところを勘案すると、花見時期など一時的に廓外に出ることが許された吉原の花魁道中のようにも見えます。
落款の字体、群を作らないはずの燕(?)の描写、木々の微細な表現、近景の花見連と中景の店前の人々との遠近感のズレなどから判断すると、116「市ケ谷八幡」と同様、二代広重の手が相当入っていると思われます。なぜ二代広重の名を出さないかと言えば、初代広重との間に入銀作品としての約束をしているからと推測されます。なお、『絵本江戸土産』第5編の図版「上野黒門及三橋の図」との共通性はなく、ちょうど描いてない部分の作品に当たります。
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