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118 びくにはし雪中

安政5年10月(1858)改印
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 本作品の「山くじら」などの看板を一目見て分かることは、広告目的の入銀作品であるということです。「びくにはし」は、江戸城東側の外堀から流れ出る京橋川に架かる最初の橋で、西の鍛冶橋を渡ると広重生家・八代洲河岸の定火消屋敷に至り、また東の京橋を渡ると広重の現在地・中野狩野新道に至ります(DVD『江戸明治東京重ね地図・日本橋八丁堀』参照)。このことから本作品は広重を機縁とする、名所絵形式の追悼広告のようにも感じます。

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 題名にある比丘尼橋は、作品中央部の橋で、右手に外堀が位置します。橋を渡った奥の火の見櫓は、数寄屋橋御門のそれと考えられるので、町人地の比丘尼橋北側から武家地の南を望んだ構成と推測されます。比丘尼橋の名前の由来は、私娼の隠語としての比丘尼で、この辺に私娼がたむろしていた岡場所があったことに因みます(本来の姿については、広重『東海道五拾三次之内 沼津 黄昏圖』保永堂・天保4年・1833参照)。ただし、本作品で一番注視されるのは、橋ではなくて、近景左側の「山くじら」と中景右側の「○やき 十三里」という看板です。山鯨とは、猪の肉のことで、鯨は魚という理解において獣の肉を食べてはならないという禁制を逃れています。花札の絵柄から牡丹と呼ぶこともあります。私娼がたむろし、猪の肉を食わせる店(百獣屋・ももじや・の尾張屋)などがあって、外堀の近くであるとしても、当時は場末感があった土地柄ということです。「○やき」は、さつまいもの丸焼きという意味です。「十三里」は「栗(9里)より(4里)うまい」という焼き芋(計13里)のキャッチコピーです。本作品の犬たちもその匂いに集まっています。焼き芋を売っている場所は、橋の袂など町の出入口を警備する番屋と考えられ、草鞋販売を含めて副業ということになります。橋の手前の担ぎ屋台の男は、汁粉屋、甘酒屋、おでん屋等と思われ、雪景色に合わせた冬の味覚の紹介です。比丘尼橋に屯する女達の嗜好に合わせた画題選択であり、描かれていない私娼風俗を想像させる効果を狙ったものと思われます。名所絵というよりは宣伝優位の作品ですが、比丘尼橋周辺の冬の情緒は十分に伝わります。

 本作品も、初代広重が死去後の安政5年10月改印です。作品の構図は近景拡大の初代広重に従っているものの、外堀の石垣の遠近感に破綻が生じている点、近景、遠景の雪の平板な表現、落款の字体など、やはり、二代広重主体の作品との感が強いと思われます。二代広重の名を出さない理由は、前回同様、初代広重との間に入銀作品の約束があったからです。

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 なお、歌川国貞・大判3枚続『神無月 はつ雪のそうか』(鶴屋金助・文化14年頃・1817・静嘉堂文庫美術館)という作品では、ぼたん雪の中、「そうか」(惣嫁・嬬嫁・草嫁・総嫁)を初め、市井の女達が二八そばの屋台に集まって来る様子が描かれています。そうかは大坂での街娼の呼び名であり、広重作品では比丘尼という呼び名で私娼を表現していますが、いずれにせよ、同じ画題選択をしているという理解が必要です。その意味で、広重作品の担ぎ屋台の男は、作品の情緒性を拡大するという重要な役割を担っていることが分かります。

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