119 赤坂桐畑雨中夕けい
安政6年4月(1859)改印
江戸百シリーズ中、唯一「二世廣重畫」と落款された二代広重(重宣)作品です。初代広重の安政3年4月改印の6「赤坂桐畑」に、「雨中」と「夕けい」を加えた題名となっていて、ちょうど丸3年目ということも含めて、何か意図がありそうです。「赤坂桐畑」あるいは「赤坂溜池」が日吉山王権現社を暗示する場所と考えるならば、本作品に関連する作品としては、その他に、日吉山王権現社祭礼を描く25「糀町一丁目山王ねり込」、紀伊徳川家の上屋敷の脇から山王台地を遠望する92「紀の国坂赤坂溜池遠景」等があります。本作品の特徴は、背景の墨色の濃淡によるシルエットと前掲の色彩豊かな描写の対比が優れている点にあり、桐の花が咲いているので季節は夏と想定されています。
赤坂御門から山王台地(山王権現社)の麓に伸びる赤坂溜池の南西側の土手には桐の木が植えられていて、本作品はその桐畑越しに赤坂御門へ向かう坂を見上げる構成です。実は、その見上げる坂の背後には、紀伊徳川家上屋敷、彦根藩井伊家中屋敷とその森が広がっていることが確認できます(DVD『江戸明治東京重ね地図・赤坂麻布参照)。雨あるいは夕景の中に両屋敷が隠されているのです。この当時の政治状況は、前年に、井伊直弼が大老職に就き、日米修好通商条約が締結され、また、コレラの大流行の中、紀伊徳川家の当主慶福が14代将軍家茂になっています。そして、年が明けて、いよいよ攘夷派(条約締結反対派)に対する弾圧が本格化し、安政の大獄が始まるという時期です。
浮世絵の基本的読み解きを応用すれば、時の権力者の屋敷を雨と夕景に隠しながら、時代の権勢をさりげなく示していると理解することができます。深読みすれば、時代の権勢の上に降る雨は、時代そのものが雨に濡れていること、時代そのものが喪に服していることを表現するものでもあると考案することができます。少なくとも、将軍家定と初代広重の時代が終わり、新将軍家茂と二代広重の時代が始まったという視点が背後に隠されているように感じます。その一方で、手前の溜池脇の道を歩く武家とその従者の一行の先には、赤坂御門下の火の見櫓が見えていて、元定火消同心であった初代広重の存在を暗示しており、夕景の雨に濡れる火の見櫓は、広重自身の死を悼む涙雨の意味と解すべきでしょう。
言うまでもなく、本作品は初代広重の前掲「赤坂桐畑」をベースにするもので、前掲作品では見慣れた何気ない風景がその切り取り方によっては江戸の新名所となることを示し、近景拡大の技法が完成された姿で提示されていました。つまり、初代広重にとっては作画上重要な作品に位置づけられるものであって、二代広重はその点に配慮を示しながらも、自分ならば「このように描きたい」という意思において独自性を見せていると考えられます。結果として、本作品は、広重の養女お辰と結婚し、二代目を襲名した重宣のお披露目となったという訳です。なお、本作品は、江戸百シリーズの目次には掲載されていません。
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