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留寿都のログハウス

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 北大法学部助手時代(1981~1985)、国税局の公売を利用して、助手の給料でも買い受けできる程の価格の土地を入手しました。場所は虻田郡留寿都村で、地積は1万坪超の広大なものです。羊蹄山の展望に優れた景観が大変お気に入りでした。法学研究者としていくら優れた論文を書いても、世の中が良くなったという手応えが全くなかった当時、私にとっては最高の精神的リフレッシュの場所でした。

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 テレビドラマ『北の国から』がブームになるよりも前からだと思うのですが、その土地に生えているカラマツを利用してログハウスを建てるなど、北海道開拓時代をなぞるような楽しみを見つけ出していました。一面の熊笹をビーバー(草刈機)で根気よく刈って、プライベートな家族キャンプ場として利用しました。そこには2棟のログハウスを建設しています。ここでの人間らしい生活体験が、結局、法学研究者からの転身の動機となったのです。

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 北大の同級会が札幌で開かれたことをきっかけとして、当地に約40年ぶりに訪れてみました。土地への出入り口がなかなか見つからず、土地を熊笹が覆い、木々は想像以上に大きく成長しており、熊と出会うのではないかという恐怖をも感じながら、やっと見つけることができました。豪雪地域なので、倒壊し屋根だけ残っている残念な状態でした。札幌から長野に移住する際、土地は処分したのですが、その後の所有者は特段何も管理していなかったのでしょう。原始の姿に戻りつつあります。

 留寿都での経験の延長線上で、長野の自宅の敷地にも小さなログハウスが一棟建っています。それを眺めながら、長野でもう一棟ログハウスを建てたいという思いが浮かんできました。妻はすでに亡くなっていますが、子や孫達のためのゲストハウスならば、何となるかもしれません。いずれにしろ、人生最後のログハウスになるでしょうけれど。

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北大第2農場

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 北大の観光地として一番有名なのはポプラ並木です。そして、その背後には広大な「第1農場」があって、北大がその前身である札幌農学校であることを実感できる場所です。私も旧友達とともに足を運び、倒木がかなり進んだポプラ並木の姿にわが身を照らして記念撮影をした次第です。なお、掲載写真は大学4年当時(1975)の私の雄姿です。裾の広いジーンズが時代を物語っています。

 

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 一方、『北海道大学歴史資産ガイドマップ』(部分)を見ると、低温科学研究所の北側にも広大な「第2農場」があることが分かります。私の思い出の場所はこちらの第2農場の方です。

 

 大学卒業式当日の卒業コンパに、因縁の女子学生が参加していました。入学時、最初に声を掛けてくれたにもかかわらず、その日に喧嘩をし、数年後やっと和解したものの、とくに恋愛関係に発展するというわけでもなく、はや4年が終わるという日です。どういう話の流れか、彼女をタクシーでアパートまで送ることになりました。第2農場を突き抜ける未舗装の道の途中で車を止めて、4年間の学生生活をともに楽しく送ることができたことを感謝し、私は徒歩で東、彼女は車で西へと向かい別れました。

 

 ところがしばらくして、車がバックしてきます。ただし、暗闇なので車はバック運転に難儀し、途中で停車しました。後部ドアが開き、彼女が私の名前を大声で呼んでいるようです。何度も何度も大きな声が聞こえます。どうしたのかと思うものの、暗くて走れないので、足を速めて戻ります。「どうしたの」と聞くと、「早く来てよ!」と叱責口調です。「生まれて今日までこんなに大きな声で男の子の名前を呼んだことがないし、今後も生涯絶対にない」と立腹?、興奮?、動顚?しています。そして、「他の男の子だったらいやだけど、あなただから仕方がないなと思って…」と呟きました。

 

 彼女は私が車に忘れ物をしたと勘違いし、人生一回限りの大声を出して私を呼び戻したのです。でも、その勘違いが私には北大最後の良き思い出となりました。第2農場は彼女の理知と理性を吹っ飛ばす程広く、2人の別れを静寂の中に飲み込んでしまいました。なお、タクシーの運転手さんが、「ちょっと散歩してくる」と言って、変な気を使ったのが場壊しでしたが…。

 

 あれ以来彼女には一度も会っていません。48年前、卒業式当日の夜のことです。

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クラーク博士・ポプラ並木と北大中央ローン

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 北大のクラーク像およびポプラ並木の前で記念写真を撮るOBの姿です。左写真中央、右写真右端が私です。逆光等があるとしても、卒業して48年も経つとただの老人会の集まりのように見えますね。クラーク会館で集合し、ポプラ並木を経由して、生協食堂北部店で食事を取るというコースです。遠かった!

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 私にはクラーク像の背後に広がる中央ローンに深い思い出があります。北18条門で出会った女子学生とやっと和解できた場所だからです。正門から附属図書館に向かう途中、楡の木の脇を反対方向から歩いてくる彼女と偶然出会いました。相変わらずあいさつに返事はありませんでしたが、その日はそこで立ち話が始まり、彼女はここ数年の思いを一気に語りました。途中、「どうして黙っているの?」と何度か言われた記憶があります。そうそう、ここでちゃんと返事をしないとかつての二の舞になると考えて、思いを理解したこと、過去のことよりこれからの時間を楽しく共有したいと答えたように思います。大木から地面に垂れ下がる枝の葉が頭に当たるので、2人は南門の方に退避しました。

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 北大の南門からは南側正面に北海道庁旧本庁舎(赤レンガ)が見えます。彼女が一度も行ったことがないというので、「行かないの」という強引な誘い(?)を受けて、2人で見学することにしました。「こういうところで働きたい」という言葉が印象的でした。現在、赤レンガは修復中なので、ここでは現況を紹介できません。以前、別の機会にとった写真です。

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 こんな顛末があって、2人は和解ができました。北大キャンパスに聳え立つ大木達がいつも良い演出をしてくれます。敷地内の木々に感謝です。なお、北大入学当時のクラーク像との2ショットを載せておきます。かっこよかったなあ…

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北大の北18条門

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 北大の北18条門は現在綺麗に整備されており、門から教養部(現在の情報教育部辺り)周辺にあったポプラ等の大木は伐採されてほとんどなくなっています。今から50年以上前、門を入った西側にあった大木の下、私は同大学の女子学生から重い告白を受けたことがあります。入学したばかりで皆の顔や名前などほとんど分からない時です。

 「おはよう」という女性の声が聞こえたのですが、私に向けられたものとはまったく気付きませんでした。さらに何度かその声が耳に届くので、やっと足を止めその声の主を探しました。今度は「どうして返事しないの!」と詰問されました。「私にはとても重い意味があるのに」と続きます。その場所が先の大木のところで、彼女は北側、私は南側と大木を挟んで話をすることになったのです。私にとってはちょっとした、彼女にとっては他の学生の前で無視され、相当傷つけられたボタンの掛け違いで、彼女を心底怒らせてしまったようです。それ以来、私があいさつしても彼女からの返事はなく、和解するまでに数年掛かってしまいました。

 2024年10月、大学入学から52年、北18条門周辺に足を運んでみました。多くの人は門の北側にある重要文化財・札幌農学校第2農場を観光しているようです。しかし、私には伐採・整備され何もなくなった門内のただの通り道が非常に懐かしく思われました。振り返ってみれば、私が話していたのは女子学生ではなく、大木(木の妖精?)であったのかもしれません。

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江戸百の作品構成の要諦

 江戸百の全作品の解説を終えて、1つの考えが浮かび上がりました。安政江戸地震が発生した直後の世相の中で、広重の「名所」とはいったい何を指しているのかという原点にあった問題への回答です。

 美しい景色が全て名所になるわけではありません。重要なのは、広重の「筆意」なのですが、本講座の視点では、広重の筆意=画の見せ方という捉え方をしています。切り取り、選択、強調など近景拡大の技法も含めた技術的な点だけではなく、庶民心情の底にある信仰・事蹟・評判・興味などの感情の拾い方もさらに重要です。たとえば、神仏の御利益、過去の歴史の舞台であること、歌舞伎・狂言・能などの見立て、幕府・将軍の動静などに対する庶民の関心の上に作画されていることを読み解く必要があります。

 とくに庶民信仰という観点から、少しばかり次元を変えた分析を展開してみます。広重の描く名所は古くからの結界や供養の地であることが多く、江戸百を包括的に見れば、結界の大きなネットワーク、すなわちそれを龍脈と呼ぶならば、江戸全体の龍脈を無意識の内に採り上げていると考えられます。そして、名所に指定され、視覚化された各地に庶民が足を運べば、気の流れが生まれ、結果として江戸が浄化され元気になるという訳です。目録を含めた120枚の作品は、結界のネットワーク(龍脈)を示すもので、その龍脈が修復されれば、江戸は強く災害から守られて、再び安政地震の様な災害に見舞われることがなくなるのです。江戸の結界を修復するというのが、江戸百の裏目的ではないかというインスピレーションです。

 最後に、浮世絵の本質は浄化であるという考えが本講座解説の根底にあることを付言しておきます。

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120 「江戸百景目録」

「一立斎廣重 一世一代 江戸百景 東叡山廣小路 魚屋栄吉梓」
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 春の部、夏の部、秋の部、冬の部、「総計 百十八景」という形式で、初代広重の署名が記された計118図の目録です。構成は、「梅素亭玄魚」によるものです。制作は、二代広重『赤坂桐畑雨中夕けい』が含まれていないので、安政5年10月(1858)以降と考えられ、翌6年正月(1859)頃、揃物として売り出す際の目録と推測されます。背景の梅の花もその季節に合わせたということでしょう。なお、玄魚は、76「佃しま住吉の祭」に描かれる布目摺の大幟に篆書文字を書き入れた人物で、能書家であるばかりでなく、デザインや構図などの企画にも参画していたことが想像され、広重と親しくしていたブレーンの1人と目されます。

 目録と個々の作品とを見比べると、たとえば、冬の04「千束の池袈裟掛松」、05「千住の大はし」、夏の84「深川八まん山ひらき」等、目録の季節感との相異が感じられ、制作前に各作品の春夏秋冬を厳密に決めていたとするよりは、目録制作時に改めて分類し直したと考えた方が自然です。広重の突然の死によって制作が中止されたことも考慮するとなおさらです。目録の構成に従えば、「春の部」の18「日本橋雪晴」に始まり、「冬の部」の88「王子装束ゑの木大晦日の狐火」で完結する形式となります。確かに、それぞれ巻頭・巻末に相応しい作品と言うことができます。とくに「日本橋雪晴」では、日本橋川のぼかしが川の中央から岸に向かって入れられており、手間の掛かるぼかしの技法が使われていることが分かります。また「王子装束ゑの木大晦日の狐火」では、狐火という信仰上の存在を名所絵の中に取り込み、名所を基礎づけている核心的伝承を表現しています。広重が江戸の風景の見せ方に工夫を凝らして名所絵としている、その苦労と矜持が示されているのです。

 一方、本講座が採用した制作順に読み解くという視点に従えば、01「玉川堤の花」に始まり、100「四ツ谷内藤新宿」で100枚に至り、115「両国花火」で広重は筆を置き、二代広重の118「びくにばし雪中」で終了することとなります。「玉川堤の花」は、玉川堤の桜という新たな名所を内藤新宿から売り出すための地域興しに係わる作品です。広重の作品が江戸に名所地を作り出すという意味で、相当な意気込みと決意で制作したことが強く感じられます。現実には老中首座阿部正弘に「御用木」をかってに名乗ったことを詰められて玉川堤の桜は実現しなかったのですが、広重の名所絵の持つ影響力・期待を印象づける一件となったことは明らかです。その当初の思いが、江戸百100枚目で、再び内藤新宿を広重が採り上げる原動力になっています。その意味で、幕府あるいは老中阿部を意識せざるをえない心情が常に広重にはあったはずで、江戸百の作品を読み解く際には、この心情への配慮が必要です。115「両国花火」は江戸がようやくここまで来たという広重の思いと深く結び付いた事実上の締めの作品であり、「びくにばし雪中」は広重の生活圏に所在する場所で、慣れ親しんだ景色が絵師の眼差しによって江戸の名所となる好例を示してといるということになります。

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119 赤坂桐畑雨中夕けい

安政6年4月(1859)改印
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 江戸百シリーズ中、唯一「二世廣重畫」と落款された二代広重(重宣)作品です。初代広重の安政3年4月改印の6「赤坂桐畑」に、「雨中」と「夕けい」を加えた題名となっていて、ちょうど丸3年目ということも含めて、何か意図がありそうです。「赤坂桐畑」あるいは「赤坂溜池」が日吉山王権現社を暗示する場所と考えるならば、本作品に関連する作品としては、その他に、日吉山王権現社祭礼を描く25「糀町一丁目山王ねり込」、紀伊徳川家の上屋敷の脇から山王台地を遠望する92「紀の国坂赤坂溜池遠景」等があります。本作品の特徴は、背景の墨色の濃淡によるシルエットと前掲の色彩豊かな描写の対比が優れている点にあり、桐の花が咲いているので季節は夏と想定されています。

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 赤坂御門から山王台地(山王権現社)の麓に伸びる赤坂溜池の南西側の土手には桐の木が植えられていて、本作品はその桐畑越しに赤坂御門へ向かう坂を見上げる構成です。実は、その見上げる坂の背後には、紀伊徳川家上屋敷、彦根藩井伊家中屋敷とその森が広がっていることが確認できます(DVD『江戸明治東京重ね地図・赤坂麻布参照)。雨あるいは夕景の中に両屋敷が隠されているのです。この当時の政治状況は、前年に、井伊直弼が大老職に就き、日米修好通商条約が締結され、また、コレラの大流行の中、紀伊徳川家の当主慶福が14代将軍家茂になっています。そして、年が明けて、いよいよ攘夷派(条約締結反対派)に対する弾圧が本格化し、安政の大獄が始まるという時期です。

 浮世絵の基本的読み解きを応用すれば、時の権力者の屋敷を雨と夕景に隠しながら、時代の権勢をさりげなく示していると理解することができます。深読みすれば、時代の権勢の上に降る雨は、時代そのものが雨に濡れていること、時代そのものが喪に服していることを表現するものでもあると考案することができます。少なくとも、将軍家定と初代広重の時代が終わり、新将軍家茂と二代広重の時代が始まったという視点が背後に隠されているように感じます。その一方で、手前の溜池脇の道を歩く武家とその従者の一行の先には、赤坂御門下の火の見櫓が見えていて、元定火消同心であった初代広重の存在を暗示しており、夕景の雨に濡れる火の見櫓は、広重自身の死を悼む涙雨の意味と解すべきでしょう。

 言うまでもなく、本作品は初代広重の前掲「赤坂桐畑」をベースにするもので、前掲作品では見慣れた何気ない風景がその切り取り方によっては江戸の新名所となることを示し、近景拡大の技法が完成された姿で提示されていました。つまり、初代広重にとっては作画上重要な作品に位置づけられるものであって、二代広重はその点に配慮を示しながらも、自分ならば「このように描きたい」という意思において独自性を見せていると考えられます。結果として、本作品は、広重の養女お辰と結婚し、二代目を襲名した重宣のお披露目となったという訳です。なお、本作品は、江戸百シリーズの目次には掲載されていません。

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118 びくにはし雪中

安政5年10月(1858)改印
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 本作品の「山くじら」などの看板を一目見て分かることは、広告目的の入銀作品であるということです。「びくにはし」は、江戸城東側の外堀から流れる出る京橋川に架かる最初の橋で、西の鍛冶橋を渡ると広重生家・八代洲河岸の定火消屋敷に至り、また東の京橋を渡ると広重の現在地・中野狩野新道に至ります(DVD『江戸明治東京重ね地図・日本橋八丁堀』参照)。このことから本作品は広重を機縁する、名所絵形式の追悼広告のようにも感じます。

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 題名にある比丘尼橋は、作品中央部の橋で、右手に外堀が位置します。橋を渡った奥の火の見櫓は、数寄屋橋御門のそれと考えられるので、町人地の比丘尼橋北側から武家地の南を望んだ構成と推測されます。比丘尼橋の名前の由来は、私娼の隠語としての比丘尼で、この辺に私娼がたむろしていた岡場所があったことに因みます(本来の姿については、広重『東海道五拾三次之内 沼津 黄昏圖』保永堂・天保4年・1833参照)。ただし、本作品で一番注視されるのは、橋ではなくて、近景左側の「山くじら」と中景右側の「○やき 十三里」という看板です。山鯨とは、猪の肉のことで、鯨は魚という理解において獣の肉を食べてはならないという禁制を逃れています。花札の絵柄から牡丹と呼ぶこともあります。私娼がたむろし、猪の肉を食わせる店(百獣屋(ももじや)の尾張屋)などがあって、外堀の近くであるとしても、当時は場末感があった土地柄ということです。「○やき」は、さつまいもの丸焼きという意味です。「十三里」は「栗(9里)より(4里)うまい」という焼き芋(計13里)のキャッチコピーです。本作品の犬たちもその匂いに集まっています。焼き芋を売っている場所は、橋の袂など町の出入口を警備する番屋と考えられ、草鞋販売を含めて副業ということになります。橋の手前の担ぎ屋台の男は、汁粉屋、甘酒屋、おでん屋等と思われ、雪景色に合わせた冬の味覚の紹介です。比丘尼橋に屯する女達の嗜好に合わせた画題選択であり、描かれていない私娼風俗を想像させる効果を狙ったものと思われます。名所絵というよりは宣伝優位の作品ですが、比丘尼橋周辺の冬の情緒は十分に伝わります。

 本作品も、初代広重が死去後の安政5年10月改印です。作品の構図は近景拡大の初代広重に従っているものの、外堀の石垣の遠近感に破綻が生じている点、近景、遠景の雪の平板な表現、落款の字体など、やはり、二代広重主体の作品との感が強いと思われます。二代広重の名を出さない理由は、前回同様、初代広重との間に入銀作品の約束があったからです。

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 なお、歌川国貞・大判3枚続『神無月 はつ雪のそうか』(鶴屋金助・文化14年頃・1817・静嘉堂文庫美術館)という作品では、ぼたん雪の中、「そうか」(惣嫁・嬬嫁・草嫁・総嫁)を初め、市井の女達が二八そばの屋台に集まって来る様子が描かれています。そうかは大坂での街娼の呼び名であり、広重作品では比丘尼という呼び名で私娼を表現していますが、いずれにせよ、同じ画題選択をしているという理解が必要です。その意味で、広重作品の担ぎ屋台の男は、作品の情緒性を拡大するという重要な役割を担っていることが分かります。

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117 上野山した

安政5年10月(1858)改印
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 36「下谷広小路」と同構図・同趣旨の入銀作品と分かります。「下谷広小路」に描かれる松坂屋が版元魚屋栄吉の店のすぐ近くにあったと同様、本作品の伊勢屋も版元の店に近在し、したがって、版元経由で江戸百シリーズに持ち込まれた広告作品ということです。

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 上野山の東麓一帯の山下側には火除け地があって、「上野山した」と俗称され、上野広小路に繋がっていました。本作品は、その出入口付近の情景で、寛永寺門前を流れる忍川に架かる三橋を渡り、寛永寺と山下の道を分ける石垣辺りの風景と推測できます(DVD『江戸明治東京重ね地図・東叡山下谷』参照)。題名には「上野山した」とありますが、どちらかというと、上野広小路(下谷)の方が近いと言えます。そには、「しそ飯」の暖簾が掛かる「伊勢屋」という店があり、塩で揉んだ青ジソを混ぜたシンプルな飯物が有名でした。店の1階にはヒラメなどの鮮魚が並び、2階には食事をする座敷が設けられているのが分かります。伊勢屋の左側の鳥居は五条天神で、日本武尊が東征の際、薬祖神(大己貴命・少彦名命)の加護に感謝して、両神を祀ったのが始まりです。その道を進むと上野山下に至ります。

 本作品の左隅に蛇の目傘をさした一行が描かれていますが、「下谷広小路」に見られると同じく、「連」の人々が花見に出かける風情と想像されます。前帯をしているところを勘案すると、花見時期など一時的に廓外に出ることが許された吉原の花魁道中のようにも見えます。

 落款の字体、群を作らないはずの燕(?)の描写、木々の微細な表現、近景の花見連と中景の店前の人々との遠近感のズレなどから判断すると、116「市ケ谷八幡」と同様、二代広重の手が相当入っていると思われます。なぜ二代広重の名を出さないかと言えば、初代広重との間に入銀作品としての約束をしているからと推測されます。なお、『絵本江戸土産』第5編の図版「上野黒門及三橋の図」との共通性はなく、ちょうど描いてない部分の作品に当たります。

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116 市ヶ谷八幡

安政5年10月(1858)改印
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 本作品は安政5年10月改印で、初代広重が死去した9月6日以後なので、初代ではなく、二代広重の作品ではないかという疑念が生じます。とくに落款の「重」の字が初代の字とは異なっていて、初代の「重」は最後の画の横棒が短く、重と読めないくらい崩されています。しかし、119「赤坂桐畑雨中夕けい」が「二世広重」と銘打っているのに対して、敢えて単に「広重」と落款したのは、実利的な問題の他、基本的には広重の草稿あるいは制作意図に従っているからと理解しています。

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 二代広重『絵本江戸土産』八編の図版「市谷八幡表門前」の書き入れには、「市谷の總鎮守にして殊に大社なり 傍に茶の木稲荷あり 石階の左右みな茶の木を植 その表門前市谷御門外にて 四谷赤坂への往還なれは 常に往来の間断なし」とあります。また、『江戸名所圖會』巻之四(『新訂江戸名所図会4』p17)によれば、「文明年間(1469-87)大田持資(道灌)江戸城擁護のため、相州鶴岡の八幡大神を勧請し」て創建したとあり、それ故、鶴岡八幡に対して亀岡八幡とも言われます。本作品のすやり霞の最上部、桜の木々に囲まれている拝殿本殿がその「市ケ谷八幡」に当たります。社地には、芝居小屋や楊弓の類があって、「つねに賑はし」と記されています。石段の中段左の方に屋根が見える建物は、茶木(ちやのき)稲荷と呼ばれる祠です。この稲荷の鳥居の傍らに、幕府公認の「時の鐘」があって、人々に時を知らせていました。本作品のすやり霞の下に広がる大路は、四ツ谷(内藤新宿)に通じ、水茶屋などが多く建つ門前町を形成していました。近景右の橋は、市ヶ谷御門を出た土橋に当たります。すやり霞左上部に描かれている火の見櫓と白壁は、尾張徳川家の広大な上屋敷がこの地にあることを示すものです(DVD『江戸明治東京重ね地図・市ヶ谷』参照)。

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 ところで、本作品の版行動機をどう理解するかですが、115「両国花火」において触れたように、安政5年7月6日に将軍家定が亡くなり、同年8月8日発喪、21日まで鳴物停止(なりものちようじ)であった事実、さらに、遡って同年6月20日、南紀派に推されて将軍家定の世子となっていた慶福(よしとみ)が、同年10月25日、第14代将軍に就任し、名を家茂と改め、ちょうど新将軍就任の時期に当たっていることが重要です。すなわち、源氏の氏神八幡神を描いて、徳川家の慶事を寿ぐ趣旨と理解されます。それ故、作品の季節も桜の春になっているのです。なお、市ヶ谷八幡が尾張徳川家の屋敷に比して大きすぎ、遠近法上の破綻があるという見解があり、それは二代広重の技量の問題でもありますが、題名を「市ケ谷八幡」として、将軍就任問題からは蚊帳の外にあった、御三家筆頭尾張徳川家に必要以上に触れないようにしていると解することも可能です。

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広重の死

『武江年表(安政五年)』巻之十(『定本武江年表下』p105、p107)

 「此頃、有名人にして此病(コレラ)に罹り物故せるは、…△浮世絵師 一立斎広重」
 「(安政五年)九月六日、浮世絵師一立斎広重死(六十二歳。安藤氏、称徳兵衛。歌川豊広の門人なり。普通の世態(うきよえ)画(が)におなじからず。善く名所山水を画き、又動物の写真によし。江戸、幷(ならびに)国々の名所を描きて行れし人なり。又草画もよろし。)金吾伝、浅草新寺町東岳寺に葬す」

三代豊国・横川竹次郎・魚栄堂『死絵』(安政5年9月改印)
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 「思ひきや落涙ながら 豊国画」
「立斎広重子は歌川家の元祖豊春の孫弟子にして、豊広の高弟なりけり。今の世の豊国国芳ともに浮世絵にて此三人にかたをならぶる者なし。常に山水のけしきを好み、また安政三辰の年より江戸百景をかゝれ、目の前に其けしきを見る如く、猶又狂歌江都名所図会を選み、此図を頼みしより、其月/\にあらはす出板摺本の図取見る人、筆のはたらきを感吟せり。然る所この菊月の六日、家の跡しき納り方迄書残し、辞世までよみおかれ、行年六十二を此世の別れ、死出の山路へ旅たゝれ、鶴の林にこもられしこそなごりをしけれ」
 「東路へ筆をのこして旅のそら西のみ国の名ところを見む 広重」
 「書 天明老人露けき袖をかゝげて筆をとる」


 安政5年7月改印111「江戸百景餘興 芝神明増上寺」、112「江戸百景餘興 鉄炮洲築地門跡」、安政5年8月改印114「はねたのわたし弁天の社」、そして115「両国花火」の各作品と「西のみ国の名ところを見む」という辞世の句とを対照すると、両者は何か呼応しているように感じられます。つまり、江戸から東海道を西に向かって上って行く広重の姿と各作品の画題が重なって見えてくるということです。これに入銀作品を加えたのが、江戸百の最終段階の状況と考えられます。入銀作品は、「西の御国」(西方極楽浄土)に向かう広重への路銀であったのかもしれません。広重がコレラの大流行した時期に亡くなったのは事実ですが、罹患後直ちに死に至るコレラが本当の死因なのかは最終的には確定でません。遺言状や辞世の句を残すだけの体力の余裕があったことから推察すると、徐々に衰える体調の中で、自身の死を漠然とあるいは無意識に感じていた可能性が浮かび上がり、それが各作品に反映されているのかもしれません。

 また、このような前提に立てば、安政5年9月6日に広重が死亡した時点で、すでに江戸百シリーズ110枚以降の追加作品中、未刊行(5枚)の数点は草稿が用意されていたか、あるいは企画の準備がある程度決まっていたとも考えられます。そのような事情があって、重宣(二代広重)が「広重」落款で版行したとも考えられます。初代広重を追悼する作品として、よく売れたのではないでしょうか。これに、重宣が二代広重を襲名することを知らしめるお披露目作品1点とシリーズ118枚分の目録「一立斎廣重一世一代江戸百景」(東叡山広小路 魚屋栄吉梓)1点を加えて、計120枚のシリーズが完成します。目録は、作品を四季ごとに分類していますが、必ずしも広重の意図と一致しているという訳ではありません。制作順に追っていった方が作品意図を理解しやすいことは、本講座で解説してきたところです。

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115 両国花火

安政5年8月(1858)改印
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 江戸百の両国界隈の浮世絵として、①安政3年8月改印の34「両国橋大川ばた」、②安政4年閏5月改印71「両ごく回向院元柳橋」、③安政4年7月改印72「浅草川大川端宮戸川」があり、本作品はこれらに引き続き④番目ということになります。①については、安政地震の翌年の台風被害によって大川端の葦簀張りの店舗が吹き飛ばされ、復興を描く作品意図が壊れてしまいました。②は回向院の勧進相撲が画題で両国橋は直接には描かれていません。③は両国橋上から大山講の一団が出発する盛況な様子を描いていますが、両国の花火の打ち上げが未だ行われていない時期の作品です。したがって、近景および中景にに描かれた梵天はその花火に代わるものと理解しました。なお、その神事形態には幸の神信仰との深い関係を感じます。以上の経過を踏まえると、やはり江戸の華である、両国の花火を江戸の再興の象徴として描いておきたいという広重の気持ちは十分に理解できます。

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 『江戸名所圖會』巻之一に図版「両國𣘺」(『新訂江戸名所図会1』p130~p132)があり、同書(p127)には、「この地の納涼は、五月二十八日に始まり、八月二十八日に終はる。つねに賑はしといへども、なかんづく夏月の間は、もっとも盛んなり」、「実に大江戸の盛時なり」と記されています。そして、両国の花火は、両国の川開き初日の5月28日、7月10日、そして川仕舞いの8月28日に行われました。江戸百の目録で本作品が秋に分類されているのは、川仕舞いの花火と評価したということになります。幕末期には、必ずしも毎年行われる訳ではなくて、安政地震後では、本作品制作の安政5年にようやく再開されるに至ります。したがって、本作品の版行動機が、待望の両国花火の打ち上げ実施にあったことは容易に理解されます。

 ところで、本作品をよく見ると屋形船が一艘しか描かれておらず、盛況な花火の打ち上げを描いているようでも、実は不景気の影が顔を覗かせているという見解があります(原信田『謎解き 広重「江戸百」』p155)。また、「夜遊びの楽しげな雰囲気はいっさい伝わってこない。むしろ、どこか儚(はかな)げな風情すら感じられる」との分析もあります(堀口『EDO-100 フカヨミ!』p142)。実際、『武江年表(安政五年)』巻之十(『定本武江年表下』p103)によれば、同年8月初めには江戸中にコレラ(ころり)が蔓延し、「八月朔日より九月末迄、武家・市中・社寺の男女、この病に終れるもの凡弐万八千人余、内火葬九千九百余人なりしといふ。実に恐るべきの病なり」という有様のため、両国花火を楽しんでいる状況ではなかったことが分かります。しかも、同年7月6日に将軍家定が亡くなっていて、8月8日発喪、21日まで鳴物停止(なりものちようじ)の寂しい雰囲気の中にありました(『藤岡日記第8巻』p275)。このような状況を考えれば、本作品は、祓い・慰霊・鎮魂という花火本来の意義に立ち返って描かれた作品と捉えることができます。安政地震、翌年の台風、現在の疫病の蔓延によって亡くなった多くの人々を弔い、そして何より元御家人である広重が将軍の死を悼む気持ちを表出させる作品となったと理解することは、ある意味自然なことです。

 しかし、作品が悲しみや寂しさを主題にして「憂き世」を専ら描いているという思考は、それを「浮き世」に転化するのが浮世絵の本質であるという観点からは、少しばかり誤りと思われます。広重の作画意図とすれば、本作品は、両国の夕涼みと花火の全盛の様を描いた『江戸名所図会』の前掲図版を竪絵として切り取った結果、屋形船は一艘という省略図法となりましたが、作品の営業性を考えても、この時の悲惨さを直接写すものではなく、世の中の暗い影を打ち消す花火としたかったに違いありません。江戸百全般に言えることですが、表向き、安政地震等被災からの悪影響はまるでなかったかの如く各作品を表現していた広重の人間性を考えれば、前向きな絵と理解したいと思います。なお、江戸百の最初に版行された作品の1枚、03「芝うらの風景」は将軍の御成り先を描いており、広重直筆の最終シリーズの1枚が将軍存命中最後の両国の花火を描いたものであるとするならば、元幕府御家人の広重にとっては、ちょうど将軍の一時代、その名所を描いたことになり、江戸百シリーズの追加編集作業もこの1枚によって実質的には終わったとものと感じられます。ちなみに、将軍家定の時代の名所を初代広重が描いたと捉えるならば、新将軍家茂の時代の名所は二代広重が引き継いで描くという大きな方向性が見えてくることを付け加えておきます。

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114 はねたのわたし弁天の社

安政5年8月(1858)改印
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 本作品は、江戸百シリーズ最南端を描いています。「はねたのわたし」は、武蔵国と相模国との境界である玉(多摩)川河口に位置し、羽田村から川崎大師河原まで通じていました。有名な六郷川の渡しの下流に当たります(前掲『東都近郊全圖』参照)。「弁天の社」は、『絵本江戸土産第三編』に図版「羽田辨財天社」があって、「本名を要嶋といふ 俗に羽田の弁天といへり 相州榎嶌本宮と同躰にして 弘法大師の作なり 宝永八年四月 海誉上人(かいよしようにん)の勧請といふ」と書き入れられています。江戸中期頃から、海上守護神として江戸商家や廻船問屋の信仰を集め、上宮が西町の別当金生山竜王院(真言宗)にあります。下宮の羽田弁財天の祭礼は、「正月五月九月十四日に行へり」(新編武蔵風土記稿・玉川弁財天の由緒)とあります。したがって、本作品の版行動機は、羽田弁財天の祭礼との関連が想像できます。

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 江戸百の終盤に来ての作品傾向は、111「江戸百景餘興 芝神明増上寺」、112「江戸百景餘興 鉄炮洲築地門跡」、そして本作品という具合に、東海道沿いの作品群によって構成されており、やや少なかった江戸南部の名所地を採り上げ、シリーズを補完しているように感じられます。これによって、玉川から(旧)利根川までという、江戸百の枠組みがほぼ完成したことになります。他方で、『武江年表(安政五年)』巻之十(『定本武江年表下』p103)によれば、「同(七)月末より都下に時疫行れて、芝の海辺・鉄炮洲・佃島・霊巌島の畔に始り、家毎に此病痾に罹らざるはなし(東海道中、駿河の辺よりはやり来しと云)」と記している点を勘案すると、当時東海道沿いを下り江戸に流行し始めたコレラの発生地域と重なる事実も気になります。名所地の神仏の加護によって、厄除けを願うという動機もあるのかもしれません。

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 近景に夏姿の船頭を大きく描き、背景左手の松原に羽田弁財天の社、中央に投網漁の船、その背後に常夜燈、遠景に房総半島を置いて、涼しい浦風を感じさせようとの思惑です。江戸から川崎大師参りをするには、東海道を上り、六郷の渡で玉川を越えて行くのが普通ですが、蒲田から羽田村へ出て、そこから羽田の渡で大師河原に渡って行く方法もあります。画中右側に旅人の笠が見えており、本作品では後者の方法を選んだと推測されます。つまり、川崎大師参りが本作品の隠れた画題であるということが分かります。羽田の渡を越えれば、相模国に入ることになりますが、深読みすれば、広重の江戸の名所案内の旅も終わって、いよいよ西国の旅へ向かうというような無意識の心理を読み取ることができるのではないでしょうか。翌9月に広重が亡くなることを思えば、広重が三途の川を渡るというイメージが重ねて見えますが、考えすぎでしょうか?

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113 日本橋通一丁目略図

安政5年8月(1858)改印
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 「日本橋通一丁目」とは、日本橋から東海道を南に進む街道沿いの町で、1から4丁ある最初の町に当たります(DVD『江戸明治東京重ね地図・日本橋八丁堀』参照)。本作品は、その通りを南から北を見て、東側の店舗群を描いています。また、本作品の構図は、109「大てんま町木綿店」、110「大伝馬町こふく店」と共通し、店舗広告を目的とした入銀作品であることもすぐに分かります。画中背後に並ぶ店舗は、右から「違い曲尺(かねじやく)」紋の呉服店「白木屋(しろきや)」と蕎麦屋の「東橋(喬)庵(とうきようあん)」と確認できます。

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 白木屋は、近江長浜の材木商大村彦太郎が、寛文2年8月(1662)に江戸に進出し、後に京呉服を扱うようになり、駿河町の越後屋、通旅籠(呉服)町の大丸屋と並ぶ、江戸三大呉服店の一つに成長した大店です。江戸百シリーズの追加発行のお陰で、何とか企画に参加でき、面目を保つことができたというところです。白木屋は、店も然(さ)ることながら、その敷地内にあった、井戸掘りの際に見つかった観音像「白木観音」と万病が癒えると言われた井戸水「白木名水」で有名でしたので、店の宣伝も兼ねた江戸の名所紹介というところです。「東橋(喬)庵」は、白木名水を使い、これも界隈で有名な二八蕎麦屋です。画中、ちょうど白木屋の前をその出前持ちが歩いています。なお、その右側にいるのは真桑瓜(まくわうり)の露天商です。徳川家康が美濃国真桑から栽培農家を呼び寄せたことから江戸に普及しました。

 日本橋通一丁目の情景には、緋木綿を垂らし、5人も入る大きな二重の傘をもって歩く住吉踊り(かっぽれ)の一行が描かれています。住吉大社の御田植神事(幸の神信仰)に起源を持ち、後に大道芸化した滑稽踊りで、傘の石突に御幣が付いているところに神事の痕跡が見られます。その前には呉服街を見て楽しむ商家の子女がやはり日傘をさして歩く姿が映し出されています。また、住吉踊りの一行の後ろには、編笠を被り片輪車の紋様の入った着物姿の粋な女太夫が三味線を弾きながら遊吟しています。なお、保永堂版東海道「日本橋」の後摺「行列振出」にも、住吉踊りの一行が正面から描かれており、日本橋通町の典型的情景と広重は意識していたようです。煩雑盛況な通りの表現は、明らかに白木屋等への景気づけと考えられます。美術的には、透視遠近法の構成に、多くの円形を重ねてリズミカルな視線の流れを演出しています。本作品版行の動機は、白木屋と東橋(喬)庵の広告を意図するものであることは先に述べたとおりですが、広重の作画動機として、名所絵性に拘れば、白木屋敷地内の白木観音(白木名水)に絡めて、安政5年8月改印の前月、旧暦7月10日が四万六千日分の観音の功徳を得ることのできる「四万六千日」の歳時日に当たることも考えられます。

 最後に、題名にある「略図」という言葉について触れておきます。北斎『冨嶽三十六景』に「江都駿河町三井見世略図」とあります。北斎を相当意識し、三井越後屋の作品題名に習って白木屋呉服店作品にも敢えて「略図」を付け、北斎を超えた名所絵師としてのプライドを示したのではないかというのが私見です。

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112 江戸百景餘興 鉄炮洲築地門跡

安政5年7月(1858)改印
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 「鉄炮洲」は京橋川の河口から南側の細長い砂州を指し、佃島の対岸に当たります。その鉄炮洲の背後の湿地帯を埋め立てたのが、「築地」です(DVD『江戸明治東京重ね地図・築地石川島』参照)。『絵本江戸土産』2編の図版「其二 築地御門跡」の書き入れには、「是を本願寺御門跡といふ 開山 親鸞聖人なり 十一月廿二日より廿八日まで 開山ゑまた御講と云て 参詣群集おびたたし 當御堂は 東都におひて真宗第一の御堂なり」とあります。関東における浄土真宗本願寺派(西本願寺)の総窓口です。明暦3(1657)年の大火によって焼失しましたが、佃島の信者を中心に、延宝7(1679)年、浜を埋め立て本堂が再建されました。『武江年表(安政三年)』巻之十(『定本武江年表下p86』)によれば、安政地震の翌年8月の台風によって、築地西本願寺の御堂は、「一時に潰れて微塵となれり」とあります。本作品の制作時点でも、未だ本堂は修復中で、普請の完成は文久2年(『武江年表(文久二年)』巻之十一、『定本武江年表下p146)とあります。

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 本作品に描かれた大屋根が実在しないことを踏まえれば、まさに題名の「餘興」とも表現できますが、もとより、それ以前から微塵になった大屋根は地域の目印として描き続けられています。このような事情があって、すやり霞の向こうに「絵空事」として配置されていると理解するならば、本作品の意図は別にあるはずです。すなわち、同じく「餘興」である、111「芝神明増上寺」が陸路江戸見物の旅人を近景に描写していることと対照すれば、本作品は、海路品川沖を通り江戸湊を目指すという視点での作品構成と読み解くことができます。この先の風景は、76「佃しま住吉の祭」、50「鉄炮洲稲荷橋湊神社」へと繋がり、海上交通の要路であることが分かります。つまり、江戸の名所に至る東海道(陸路)の出入り口には芝神明・増上寺があり、海路の出入り口には築地門跡があるという旅程を示しながら、神仏による加護をもってシリーズを締め括ろうという題材選択が意識されているのです。なお、版元との関連では、中景の小舟では釣りをしている人物が描かれ、この辺りの海が江戸でも有数の漁場であることが分かります。

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 103「愛宕下藪小路」は外国各使節の到来、111「江戸百景餘興 芝神明増上寺」は将軍家定の逝去をそれぞれ黙示(予言)する作品かもしれないと指摘しましたが、本作品にも同様の黙示があり、後述するように、それは将軍家定の逝去というよりは広重自身に係わることの様に感じられます。

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111 江戸百景餘興 芝神明増上寺

安政5年7月(1858)改印
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 作品の111、112枚目には、題名に『名所江戸百景』ではなくて、『江戸百景餘興』と書かれています。これに関して、原信田『謎解き 広重「江戸百」』(p151以下)は、三代豊国の『江戸名所百人美女』が安政4年11月に版行され、翌安政5年5月までには100点の制作を終えているのに対して、「百枚を超えてもなお制作を続けている広重の言い訳」、「広重の自嘲とも照れ隠しとも受け取れる」としています。また同時に、その実質的意図について、作品111については、「江戸見物に田舎からやって来た一行はあの地震のときに運命をともにした者ではない」、作品112については、地震後の翌年の台風で崩壊し、「絵に描かれた大屋根が現実のものではない」とそれぞれ捉えて、江戸の復興を描く江戸百シリーズの本旨からやや外れることを表現するものと理解しています。

 しかしながら、『名所江戸百景』の基礎資料と考えられる『絵本江戸土産』初編~7編からの延長線上に江戸百シリーズがあることを考慮すると、江戸百の目的を江戸の復興を描くことのみに特定することには注意が必要で、シリーズ中に、絵空事の虚構や地震に無関係な情景も含まれていることは否定できません。したがって、残る理由は、三代豊国の『江戸名所百人美女』の完成に対する自嘲という程度の意味合いが強いのではないでしょうか。作品を制作順に並べて見ると、馬の尻で100枚を終え(大尾)、棟梁送りで110枚・棟上げも終え(投了!)している事情を勘案して、江戸百ではなく、浮世絵師として晩年最後の大作にどう終止符を打つかという(余生のけじめ)観点で、若干の作品調整を行いたいということに実質的意図があるのかもしれません。名所絵の先輩的存在としての北斎に対抗する作品である、『冨士三十六景』等の準備も実質的に終わっていることを考えて、広重の関心は浮世絵師(名所絵師)としての最後のけじめをどうつけるかにあり、このような観点からの補遺とスポンサーからの駆け込み的要望に応えるため、「餘興」以降の10枚1単位程度の版行が構想されたものと推測されます。

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 作品自体の解説に戻ると、「増上寺」の五重の塔については、すでに40「増上寺塔赤羽根」において有馬屋敷の水天宮とともに描かれています。今回は、本作品右側に屋根の千木(ちぎ)が見える芝神明とともに、増上寺の朱塗りの大門(だいもん)が本作品の左側奥手に描写されています(DVD『江戸明治東京重ね地図・大名小路増上寺』参照)。『絵本江戸土産』七編の図版「芝神明の社」の書き入れには、「飯倉神明(いいくらしんめい)は 一条院 寛弘年中託宣ありてこゝに祀る 社領十五石となん 祭礼毎年九月十一日より同廿日に畢(おわ)る 氏子の家々醴(あまざけ)を醸り 近隣に贈り 詣人を饗す 且 その社地にて千木箱および生姜を売るを恒例とす 参詣の人是を求め 生姜は来正月の膳となす 蓋その獲所をしらす」とあり、図版「芝増上寺」の書き入れには、「芝にありて三縁山といふ 本尊は如来 運慶の作 酉誉上人(ゆうよしようにん)開基にて 関東十八ヶ寺談林の中なり 御當家世々の御霊屋あり その尊きこと言語に及ばず 比あらざる仏地あり」とあります。つまり、芝神明は、伊勢神宮の内宮・外宮の祭神を祀り、関東における伊勢信仰の中心的な役割を担う社であり、増上寺は、浄土宗の関東大本山であって、徳川家の菩提寺でもあるということです。

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 『藤岡日記第8巻』(p275)によれば、「八月八日」の条に、「公方様薨御ニ付、「普請・鳴物停止之旨」があったことが記されています。これは、将軍徳川家定が実際には7月6日に亡くなったことがこの時公式に報道されたことを示す資料ですが、安政5年7月改印の本作品が将軍の御霊屋のある芝増上寺を画題とすることと何らかの関係があるのかもしれません。103「愛宕下藪小路」において真福寺が外国使節の宿泊所になったことを予見するかのような作品であったことなどを勘案すると、本作品の版行動機に非公式の情報が影響を与えているように感じられます。なお、深読みすれば、同「愛宕下藪小路」に描かれていた桜川は、本作品中の赤い大門前の橋下を流れ、金杉川を経て芝浦に至るという関連性もあります。

 他方、広重の作画動機という点で気になるのは、画中大門の前にいる旅装束の男女の一行とその奥に見える僧侶の一団の描写です。僧侶は、七ツ刻(午後4時頃)に市中に托鉢に出かける「七ツ坊主」と呼ばれる一団で、夕方であることを表しています。したがって、田舎から出てきた旅の一行は、増上寺の参詣を終え、おそらく東海道に出て(江戸に至り)宿泊するのではと想像されます。つまり、翌日以降の江戸名所見物を暗示する道具立てと考えられるのです。お上りさん風的な旅装束の一行を挿入して、一区切りの付いた江戸百に描かれる名所地への見物を慫慂(しようよう)し、もしこのまま帰郷するというならば、江戸土産として江戸百を買い求めることを薦めるのが本作品の意図であると推測できます。もちろん、上掲江戸土産にも記されていたように、芝神明の「祭礼毎年九月十一日より同廿日に畢(おわ)る」ということなので、芝神明の祭礼やそれに合わせて行われる市や各種小屋などの広報も兼ねていたと考えられます。

 ちなみに、歌舞伎『め組の喧嘩』は、文化2(1805)年、芝神明の境内で町火消し「め組 」の鳶職と江戸相撲の力士たちとの乱闘事件をモデルにしています。寺社奉行と町奉行との縄張り争いも加わって大きな事件になってしまいましたが、「七ツ坊主」の托鉢は、このような乱闘を避けるための治安維持を目的とした自警団というのがその実態です。

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110 大伝馬町こふく店

安政5年7月(1858)改印
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 前作品「大てんま町木綿店」が大伝馬町1丁目辺りの情景であったのに対して、本作品は通旅籠町(大伝馬町3丁目)にあった呉服店の下村家大丸屋を描いたものです。大伝馬町の方が呉服屋としてのブランド力があったので、本作品では敢えて題名には「大伝馬町」と書かれているように思われます(DVD『江戸明治東京重ね地図・日本橋八丁堀』参照)。大丸屋は、京都出身の下村彦左衛門が創業した呉服太物商で、37「するがてふ」の越後屋、113「日本橋通一丁目略図」の白木屋を含め江戸三大呉服大店の1つに当たります。なお、太物とは、呉服本来の絹織物に対する綿織物・麻織物など太い糸の織物の総称です。画中左上の店の看板には、「げんきん かけねなし」「大○」「しもむら 呉服太物類 大丸屋」などの文字が書かれていて、越後屋が始めた「現金掛け値なし(定価)」販売を大丸屋も導入していることが分かります。また、看板暖簾に目を向けさせる本作品が、前作品に続いて宣伝目的の入銀作品であることも明らかです。なお、大丸屋は、江戸進出に際して、丸に大の字を染め抜いた萌黄地の風呂敷を大量に作り、商品を包んで運び、江戸っ子の間で大変評判となりました。その風呂敷販売によって、風呂敷は、商人ばかりか、一般庶民が品物を運ぶ際に使う当たり前の道具として定着したと言われています。

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 本作品右側の賑々しい一団は、建物の上棟式を終えた人々で、「棟梁送り」と呼ばれる行列を組んでいます。先頭の大工の棟梁は衣冠束帯姿をして、鏡を中心に日の丸の扇を3本繋ぎ合わせ、その上に3本の御幣を乗せ、その下を五色の布の吹流しで飾った棒を担いでいます。また、棒には、鏡の下に、櫛、赤い手絡(てがら)、かもじなど女性の髪結い道具が飾られています。次の2人が担ぐのは破魔矢で、鶴と亀の彫り物で飾られ、それぞれ天と地を表し、その和合による縁起を担いでいます。これらは、いずれも、幸の神あるいは幸姫命(女神)による厄難除けの神事との係わりから理解すべき風習ではないかと思われます。一つの神事であり、江戸庶民には縁起の良いものとして歓迎されていた「棟梁送り」を敢えて描き入れたのは、大丸屋の経営・商売が無事安全に継続することを願ってるというサービスカットです。深読みすれば、上棟式の「終わり」が描き加えられているのは、やはり、江戸百シリーズ(追加の10枚)版行を「終わり」にするという趣旨と解することができます。

 しかしながら、入銀作品を加えながら、これほど好調に100+10枚を版行してきた江戸百シリーズの版行を、版元または広重が単純に終了させることができるかどうかは、また別の問題です。本作品と同じ安政5年7月改印の作品に、『江戸名所餘興』という題名の作品が登場してくる理由も、この視点から考えなければなりません。つまり、前作品の版行から3ヶ月の空白があるのは、その解決策を見極めようとしていたのではないかと考えられるということです。

 ちなみに、元文元(1736)年、京都・東洞院船屋町に大丸総本店「大文字屋」が開店され、その経営理念は「先義後利」と定められました。その経営理念に引かれたのか、幕末期、本浮世絵講座担当者・川原家先祖の一人「孫人」が武士を捨て番頭に就いたと我が家には伝わっています。後に、前田家に再び苗字帯刀を許されるのですが、その番頭時代の資金がものをいったのかもしれません。

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109 大てんま町木綿店

安政5年4月(1858)改印
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 『江戸名所圖會』巻之一(「新訂江戸名所図会1」p78~p79)に図版「大傳馬町木綿店」があり、同図会(p71)の「祇園会御旅所」の解説には、「大伝馬町二丁目の乾(いぬい)(北西)の角にあり(このところは、すべて両側ともに、呉服物の問屋のみ住す。この街に、年々正月・十月の十九日の夜は、夷講の儲けとして、魚の市をたてて、はなはだにぎはへり)」と記されています。かって奥州街道は、日本橋から通町を北に進み、本町で東に折れ、大伝馬町、通旅籠町、通塩町、通油町、横町、浅草御門を経ていたのですが、千住大橋完成後は、一帯は呉服店や木綿店の問屋街として発展しました。

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 本作品を見ると、「たばたや」「ますや」「しまや」と書かれた暖簾が並んでいて、明らかに題名の「大てんま町木綿店」を宣伝する趣旨(入銀作品)であることが分かります。DVD『江戸明治東京重ね地図・日本橋八丁堀』にも、「たばたや」と「ますや」を見付けることができます。とくに「たばたや」は、伊勢松坂の長谷川家江戸店であることに注意が必要です。安政3年9月改印の作品36「下谷広小路」が、安政地震直後、伊勢松坂の伊藤家上野店の営業再開を広告し江戸の経済的復興を告げつつ、入銀を得て江戸百シリーズの制作を軌道に乗せようとした経済的意図があったことを思い出すならば、それを仲介した実績があった版元魚屋の押しによって、より一層の繁栄を示す大てんま町の各木綿店から、江戸百100枚の版行を祝っての協賛があったと推測してよいでしょう。

 屋根に天水桶を載せ、黒漆喰塗の長屋形式の木綿店を透視遠近法で描きつつ、通りには、江戸百シリーズでは、異例の美人姿を正面から描いています。芸者衆をモデルとして起用した宣伝ポスターであることが如実に示されています。言い換えれば、商家の大店を描いて江戸の繁栄の姿を写すとともに、その繁栄を実質的に支える商人から多くの広告費を得て、江戸百シリーズを経済的にも成功裡に終わらせる魂胆です。なお、隔年に開催された天下祭である山王祭(25「糀町一町目山王祭めり込」)と神田明神祭(91「神田明神曙之景」)において、大伝馬町が一番山車の「諫鼓鳥」を出していたことは大伝馬町の豊かさを象徴するものであって、本作品版行の所以です。

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108 木母寺内川御前栽畑

安政4年12月(1857)改印
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 元絵である『絵本江戸土産』初編の図版「木母寺料理屋御前栽畑内川」の書き入れには、「この寺内に梅若の塚あり 毎年三月十五日念仏供養をなす 境内名高き料理やありて四時賑わう 北にあたりて御前栽畠(ごせんさいばた)というあり 此所に作りし松多くありて 尤美景いふばかりなり」と記されています。木母寺およびその縁起の詳細については、85「真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」を参照して下さい。概説すれば、京北白川吉田少将惟房卿の子であった梅若丸が、商人(あきんど)陸奥の信夫(しのぶ)藤太に騙され、隅田川河畔に連れて来られ、その地で病にて亡くなり、その一周忌にたまたま母が探し尋ね来てわが子を埋めた塚に出会うという、悲哀を骨子とする物語の地であるということです。内川辺りを画題とする作品として、他に、30「隅田川水神の森真崎」があります。また、御前栽畑は本作品中央の橋が架かった左手で、木母寺から内川を隔てた北の出洲に当たり、幕府専用の野菜畑のあったことで知られています(DVD『江戸明治東京重ね地図・橋場隅田川』参照)。

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 木母寺周辺は梅若伝説やそれに係わる歌枕の地として周知されており、名所絵には相応しい場所であり、上に触れたように江戸百でも何点かの先行作品が描かれています。したがって、本作品が再びここを採り上げた理由については、注意深く考える必要があります。この点では、前掲江戸土産の書き入れ「境内名高き料理やあり」という指摘が重要と思われます。本作品を見ると船から2人の芸妓が降りて一軒の料理屋に向かっていることに気付かされます。この料理屋は蜆料理で著名な「植半」(植木屋半兵衛)という店で、広重『江戸高名會亭盡 木母寺雪見 植木屋』(藤岡屋彦太郎・天保6~9年、1835~1838)、三代豊国・広重『東都高名會席盡 猿島惣太 植半』(藤岡屋慶次郎・嘉永5年12月、1852)などにも紹介されている程です。後者の作品では、歌舞伎『隅田川花御所染』を題材に、吉田家の家臣猿島惣太が植木職人となっており、吉田家の次男梅若丸を主君筋と知らずに殺してしまったことを受けて、木母寺の境内にあった料理屋「植木屋半兵衛」を植木職人となっていた猿島惣太に見立てています。

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 総括すれば、本作品は、名所絵の形式を採りながら料理屋を宣伝する入銀作品と見るべきで、100枚を達成したことによって江戸百シリーズの広告効果が上がったことを証明する1枚とも言えましょう。作品の季節は秋です。しかし、版行意図は、正月明け、明年3月15日の梅若の忌日に向けて、料理屋・茶屋を宣伝する趣旨かと思われます。

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107 山下町日比谷外さくら田

安政4年12月(1857)改印
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 本作品左下の門松の左手に山下御門があり、また同中段右手の石垣の先、右の羽子板の手元方向に数寄屋橋御門があって、御門を避けた構図になっています。この辺り一帯は、DVD『江戸明治東京重ね地図・日本橋八丁堀』からも分かるとおり、武家屋敷地で、何棟も建つ火の見櫓が大名火消しのものであること、また空に揚がる凧や絡んだ凧は武家の子弟が揚げているものであると想像されます。近景には、門松、竹と役者絵の描かれた羽子板(遊び)、奴凧(揚げ)という町人のお正月風俗が関連付けられ加えられています。遠景に富士山が見えることから、数奇屋河岸の町人地であった辺りからの視点であると考えられます。正面に見える赤い門と番所のある屋敷は肥前佐賀藩主鍋島家の上屋敷で、近景拡大の技法では近景と遠景との間に相関関係があることが多いので、正月の風物繋がりで、稲藁で鼓の胴の形に作った有名な「鼓の胴の松飾り」を見せたかったのだと想像されます。初代藩主・鍋島勝茂の謹慎処分(寛永15年2月、1638の島原の乱の際の軍令違反)が年末に急に解け、正月飾りを用意する時間がなかったため、米俵などを使って作ったことが吉例の始まりとされています。江戸百シリーズが100枚を達成した翌月であることから、制作者側の気分一新・再出発という気持ちも含めて、本作品は翌月正月を寿ぐ目的で、安政4年12月改印として版行されたものと思われます。

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 なお、同じくお正月の凧揚げ風景でありながら江戸湾を見通す名所であった38「霞がせき」と比べると、名所性という点ではそれほど評価が高い場所とは言えません。しかしながら、本作品の描かれた場所の地理関係をDVD重ね地図で再確認してみると、日比谷御門を抜け、堀沿いに馬場先御門の方向に進むと八代洲河岸の定火消屋敷に至ります。また、数寄屋橋御門を抜けると大名小路を通っても、八代洲河岸の定火消屋敷に至ります。しかも、京橋の北側に広重の自宅があるのです。広重が幼少期、また定火消同心時代、日々見ていた懐かしい情景であることが分かります。その懐かしい原風景を名所絵という形式で描き加えたのが本作品であり、105「京橋竹かし」、106「日本橋江戸ばし」と一体的に理解しなければなりません。これらも、江戸百シリーズが100枚を達成したことを受け、総括的編集を行う最終的段階に入っているからこその成せる技です。

 ちなみに、安政地震後の出火によって全焼した鍋島屋敷が再建された可能性を示唆する見解もありますが(原信田『HP江戸百』「番外編その3 山下町」)、それよりも広重の個人的動機により強く根ざしているのではないでしょうか。

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106 日本橋江戸ばし

安政4年12月(1857)改印
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 18「日本橋雪晴」で描かれた情景とは反対側の、日本橋の東方向を切り取って構成されたのが本作品です。江戸橋から先の風景は、95「鎧の渡し小網町」と重なっています。日本橋と江戸橋との間の日本橋川南岸にある、四日市河岸と木更津河岸が本作品の背景です(DVD『江戸明治東京重ね地図・日本橋八丁堀』参照)。『江戸名所圖會』巻之一(『新訂江戸名所図会1』p157)によれば、四日市は「草物または野菜の類、その余乾(ひ)魚(うお)などの市ありて、繁昌の地なり」とあり、また、木更津は「房州木更津渡海往還の船ここに集ふゆゑに、名とす」とあります。擬宝珠のある日本橋の欄干の一部を近景拡大し、盤台に入った鰹の棒(ぼ)手振(てぶり)を近景に描いて、日本橋の北側にあった魚河岸を暗示さています。本作品の主題は、題名にある「日本橋江戸ばし」というよりは、その背後にあった魚河岸あるいは青物河岸であることが示唆されます。105「京橋竹がし」に引き続き、広重の生活圏にあった名所風景が画題となっています。

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 02「堀江ねこざね」に関し、原信田『謎解き 広重「江戸百」』(P47)は、当地が「江戸」の名所に選ばれたのは、「想像をたくましくすれば、版元の出身地だからではないか」と述べています。出身地かどうかは別にしても、同作品には、江戸に塩や魚などの物資を運ぶ行徳船場の船帆が遠景に描かれていて、制作動機がもともと魚屋であった版元自身の関心にあったことは否めません。同様の視点で本作品を眺めると、日本橋の魚河岸あるいは木更津河岸・行徳河岸の存在それ自体が本作品の作画動機となっていて、それは版元魚屋栄吉の存在に係わってのものと考えられます。つまり、本作品は、前掲「京橋竹がし」も含めて、広重の生活圏にあった河岸などの近隣関係者を漏れなく描き入れて、江戸百シリーズ完成への感謝を表していると見るべきでしょう。

 なお、前掲「日本橋雪晴」に関し、原信田・前掲書(P76)は、「版元の魚栄は町人社会に重心を置いて大漁安全を願っているのではないか。そうした祈願を込めた絵」と見ていますが、そうならば、本作品も、同様に、初鰹を描いて魚屋(魚河岸)の繁栄を祈願・表現しようと企図しているとも考えられます。安政4年12月改印以降の作品群は、江戸百シリーズ全体を調整するという編集目的から作画・版行され、脱漏した名所の補充や入銀(にゆうぎん)作品による営業利益の確保等があると理解して間違いないでしょう。その分、各作品の制作意図を統一的に理解することは難しいと言えます。

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105 京橋竹がし

安政4年12月(1857)改印
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 75「市中繁栄七夕祭」が広重自宅から西方の京橋辺りから富士山を遠望する構図であるのに対して、本作品は京橋川上流側から南方に初秋の満月(旧暦7月15日)を見上げる趣向です(DVD『江戸明治東京重ね地図・日本橋八丁堀』参照)。広重の生活圏内から見つけ出した名所風景ということになります。『絵本江戸土産』六編の図版「京橋竹川岸」の書き入れには、「日本橋の通り 南の方 京橋の左右 諸国の竹林を伐てこの所に聚め鬻(ひさ)く 大小の竹竿 幾億千万夥(おびただ)しともいわん方なし 遥に是をうち望まば 信濃の国に在といふ園原山の木賊(とくさ)だに かばかりならじと見ゆるなるべし」とあります。

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 江戸土産作品が並ぶ竹棹を信濃国東山道の古里園原の木賊と見立てるならば、江戸百作品の月は同じく更科の名月とこそ読み解くべきでしょう。定規とコンパスを巧みに使った描法はおそらく北斎を意識したもので、広重自身はより自然な構図に仕立て直しています。この辺りに広重の作画動機があるように思われます。橋脚の広すぎる間隔は建築構造上はありえない絵空事ですが、この幻想的な表現は、印象派の画家ホイッスラーの「バターシーの古橋、青と金のノクターン」のモチーフになったと言われています。

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 前掲「市中繁栄七夕祭」でも触れましたが、京橋一帯は安政地震による火災で焼き尽くされました。したがって、竹河岸の繁栄は復興の象徴と見ることができます。そのうえで見落としてならないのは、京橋の上を歩く人々です。橋の右(南)側には、みやげの竹槍と木の太刀を持つ男達が描かれており、彼らは大山詣りからの帰り姿なのです。橋を渡った数町先の中橋広小路の木戸際に、大山詣り送迎の待合茶屋・小川と環菊があることが重要です(原信田『HP江戸百』「その39-山帰り」)。大山講は6月27日に山開きをし(72「浅草川大川端宮戸川」)、終焉は7月17日なので、本作品は7月15日の満月を描いていることになります。復興景気に沸く、大工、鳶、左官など職人の威勢が上がるに連れて、その職人を主体とする大山詣りも盛況となり、それが竹河岸の繁栄と重ねられているということです。さらに本作品には、広重らしいユーモアが添えられています。橋の左(北)から3人目の人物が持っている提灯に「彫竹」という文字が見えます。彫竹とは一流彫師の代名詞横川竹二郎のことで、竹河岸の細線を正確に彫り上げた彫師への感謝を表しています。江戸百発刊時の03「芝うらの風景」の「彫千」に始まり、竹河岸と彫竹を掛けて「彫竹」で終えるという遊び心です。

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104 御厩河岸

安政4年12月(1857)改印
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 29「浅草川首尾の松御厩河岸」において一度登場した「御厩河岸」を視点を変えて再度描いたのが、本作品です。『絵本江戸土産』初編の図版「御厩河岸駒形堂金龍山遠望」からの発展形式と考えられ、その書き入れには「両国橋より北の方凡そ八町の上にあり このわたし場の川中にいたれば遥に見ゆる筑波の嶺 隅田川の屈曲せる岸に真白き駒形堂 梢を貫く五重の塔はこれ金龍山浅草寺 実に比なき光景なり」とあります。DVD『江戸明治東京重ね地図・浅草両国』と対照すると、御厩河岸には渡しがあり、画中一部石垣が見えている御厩河岸(三好町)と対岸石原橋南の「備後福山藩老中阿部正弘」の下屋敷の前とを繋いでいることが分かります。本作品が表現する情景は、対岸から船に乗って夜鷹が此岸の御厩河岸に渡ってくる様子で、おそらく、本所吉田町から出かけてきて、柳原の土手辺りに行くのでしょう。藍の手ぬぐいを被り、赤い帯を締め、白粉を塗った顔が夕刻の薄闇に際立って見えます。同船している男は、夜鷹の営業を差配する「牛(ぎゆう)」と呼ばれる人物です。

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 夕方、御厩河岸に船で現れる夜鷹の姿は、江戸っ子にはお馴染みの風物かもしれませんが、その背景に、先の老中筆頭阿部の下(家蔵)屋敷が暗示されていることには、広重の特別な意図が感じられます。なぜならば、長命寺の桜餅の店の看板娘おとよが阿部存命中、まさにこの石原町の下屋敷に囲われていたからです。深読みすれば、三代豊国が安政4年11月改印作品として『江戸名所百人美女』「長命寺」におとよを画題としたのを受けて、広重も版元と企画を練り、三代豊国作品の翌月、阿部の所業を隠れた画題とする本作品を描いたと見ることもできます(原信田『謎解き 広重「江戸百」p148)。

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 安政4年11月改印作品でシリーズ100枚を達成した広重の心境から想像すると、シリーズの最初に制作した1枚「玉川堤の花」に係わる「内藤新宿桜樹一件」によって広重と阿部とは浅からぬ因縁があり、シリーズとしては「四ツ谷内藤新宿」の馬の尻の絵で締めたものの、やはり、半年前に亡くなった阿部自身について広重には何か思いの残るものがあって、ここは彼岸に渡ってしまった阿部を、夕景の「御厩河岸」の現在の風景と対比しながら揶揄しているのかもしれません。広重には三代豊国がおとよや夜鷹を堂々と描いているという安心感もあったでしょうし、版元にはこのネタはまだ使えると思っていたようにも感じられます。

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103 愛宕下藪小路

安政4年12月(1857)改印
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 『江戸名所圖會』巻之1(『新訂江戸名所図会1』p251)によれば、「藪小路」は、「愛宕の下通り、加藤候の邸(やしき)の北の通りをいふ。同町艮(北東)の隅、裏門の傍らに、少しばかりの竹叢あり。ゆゑに、しかいへり」とあります。DVD『江戸明治東京重ね地図・大名小路増上寺』を見ると、藪小路は虎の門の溜池の落し口まで繋がっているのが分かります。それは本作品では、右側に描かれる竹薮を角として画中手前右側方向にあるはずです。雪の中を人々が歩いている道は「愛宕下広小路」で、本作品中央部分の森がある辺りの愛宕山の麓を通り、円福寺からさらに増上寺に至ります。この道に沿って描かれている溝水が桜川で、外堀より流出し、増上寺の大門前を流れて、赤羽川に注ぎます。このような地理を念頭に置くと、本作品は、98「虎の門外あふひ坂」と一体関係にあることが理解できます。

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 本作品中央部、白い雪との対比が大変効果的な赤い門は、「愛宕下」の「磨尼珠山真福寺」の大門です。前掲図会によれば、「桜川の西岸に傍ひてあり」、「当寺本尊、薬師如来の霊像は、弘法大師の作なり」、「毎月八日・十二日は縁日にして、参詣多し」とあって、本作品はその雪中の参詣姿を描いていることが分かります。虎の門の金比羅権現社(寒参り)と合わせて、愛宕下の薬師詣でを紹介する趣旨です。近景の「竹に寒雀」は冬の雪に合せた情景です。

 結果的に、本作品は時代を象徴する予言的作品となりました。すなわち、年が明けた安政5年3月頃より、真福寺は、日本との修好通商条約の締結を目的として来日したオランダ・ロシア・フランス各使節の宿泊所として利用されるようになるからです(『武江年表(安政五年)』、『定本武江年表下』p100~p101参照)。それ以前にアメリカの使節も江戸に来ていますが、広重がどの程度それら事情を意識していたかは不明です。また、同年7月の条には、「同月末より都下に時疾行れて」、芝の海辺などに流行の兆しが見えていることが記されています。結局、広重も罹患し命を落としたかもしれないのですが、真福寺が病気の苦しみを除くことを誓願した薬師如来を本尊としている点でも何か未来を予測する画題選択に感じられます。

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