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102 筋違内八つ小路

安政4年11月(1857)改印
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 題名にある「筋違内」というのは、筋違御門の内側という意味です。『絵本江戸土産』五編の図版「筋違八ツ小路」の書き入れには、「筋違橋の内也 その廣き事図の如し ここを八ツ小路といへるは この所より見渡せは 諸方への分れ路八ツあるに因てかく唱ふとぞ 初編に出せる八ツ見橋とその意おなし」とあります。江戸城から上野寛永寺に続く御成道と、日本橋を北に向かい本郷を出発する中山道がここで交差し、筋違橋が神田川に対して斜めに渡されています。この筋違御門の内側には火除地である広小路が展開し、8つの小路が交わっており、「八つ小路」、「八辻原」などと呼ばれました(DVD『江戸明治東京重ね地図・本郷小石川』参照)。この辺りは、武家地と町家地との境界でもあります。本作品は、八つ小路の広さを表現するために、鳥瞰的視点で描かれています。

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 画面中央の大番所と冠木門の背後が昌平橋(93「昌平橋聖堂神田川」)です。松と柳の木が植えられた土手の右奥、すやり雲の背後の森が神田明神社(91「神田明神曙之景」)です。左側の林の下辺りが聖堂(93「昌平橋聖堂神田川」)でしょうか。大番所の左の屋敷は、重地図で確認すると、旗本天野弥五右衛門の屋敷で、北東角が切れているところまで正確に描写されています。左下の武家行列は、女性の付き人や薙刀が見えることから、大奥か、大名の奥方など高貴な身分の女性の一行と思われます。画中手前にあって描かれていない筋違御門の所在を暗示する存在で、おそらく外堀筋違御門から内堀神田橋御門の方に向かっているのではないでしょうか。大番所をよく見ると火が灯っていて夕方なので、武家行列の主人公を敢えて女性にしたのは、ここで大奥の江島が門限(夕七つ)に遅れたことから大事件になった「江島生島事件」を匂わせているのかもしれません。右下隅の葦簀は、火除地である広小路に仮設された茶屋です。内堀方向を向く江戸土産作品とは視点を異にし、江戸百作品は筋違御門から堀の外を遠望する構成です。

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 目次では春の情景とされながら、安政4年11月改印として版行された動機を次に考えてみます。『武江年表(安政四年)』(『定本武江年表下』p93)に、「五月、筋違橋御門外加賀原千九百八十坪をして、築地講武所付町屋敷に命ぜらる。町名を筋違橋御門外講武所付町屋敷と云。七月頃に至て家作成り、繁昌の町屋と成り…」とある記事が示唆的です。つまり、都市再開発によって、筋違橋御門の外側に「講武所付町屋敷」が造成されたことを記録するものなのです(重地図参照)。江戸百作品では、その場所はちょうど神田明神社の下部のすやり雲右端辺りに相当しています。題名「筋違内八つ小路」に関心があると見せかけて、筋違外の講武所付町屋敷の築造にそれとなく話題を振っていることが読み解けてきます。

 なお、講武所は、老中首座阿部正弘によって安政の軍制改革の一環として計画され、正式には、安政3(1856)年、幕府子弟のための武芸・軍事知識の講習所として設置されました。その築地講武所の維持経費を賄うために町屋に敷地を貸出したのが、先の「講武所付町屋敷」なのです。本作品版行の主目的は江戸の都市再開発の話題性を取り込むことですが、幕府の政治動向に婉曲的に触れることになっています。101「神田紺屋町」と合わせて、本作品は、江戸の再開発地域を画題としていると言うことができます。

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101 神田紺屋町

安政4年11月(1857)改印
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 日本橋から北の地区は商業の中心地で、とくに今川橋(跡)から北の一帯は職人町として発展していました。本作品は、そのなかでも神田鍛冶町の東側にあった染物職人が集まる「紺屋町」(1〜3丁目)を画題としています。『江戸名所圖會』巻之一(『新訂江戸名所図会1』p113)に、「神田鍛冶町の通りを横切りて、東の方へ流るる」藍染川があり、これは「紺屋町の辺りを流るるゆゑに」、そう呼ばれるとの記載があります。江戸を代表する藍染の浴衣や手ぬぐいの大半は紺屋町一帯の染物屋で染められており、本作品のような情景はある意味で見慣れた江戸の風物とも言えましょう。目次では秋に分類されています。ちなみに、「場違い」という言葉は、ここ紺屋町(本場)以外で染められた染物のことを意味したのがそもそもの語源と言われます。

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 本作品は干した布の縦方向を強調した構図で、北斎『富嶽百景』「紺屋町の不二」を相当意識しており、この点に広重の作画動機があると思われます。また、北斎『冨嶽三十六景』36枚が完了した後に追加10枚(裏富士)を版行している様式も広重は踏襲しており、本作品からさらに10枚は追加発行するつもりであったと考えられます。北斎の追加10枚の実質的1枚目の「本所立川」には、「馬喰丁弐丁目角 西村」「西村置場」「永壽堂仕入れ」「新板三拾六不二仕入」など版元と作品の宣伝が入っていますが、広重の本作品にも、干された浴衣地に「魚」=「魚栄堂」(魚屋栄吉)、組み合わせ文字「ヒロ」=広重が染められており、北斎同様に本作品が実質101枚目であるという意図を読み取ることができます。画中左側は、手前より片輪車、市松模様、輪違い紋様の染めです。なお、左右の干された浴衣地の間からその先に2箇所の布干し台、葦簀(よしず)、蔵など紺屋町の情景が見え、本作品の視点が江戸城の櫓と富士が見える西方を向いていることが分かります。大空に飛ぶ鳥が開放感を生み出し、北斎の干した布を昇竜に擬えた発想をより自然に表現している点に広重の自負を感じます。

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 『武江年表(安政四年)』(『定本武江年表下』p93)に、「閏五月より始り、神田なる防火の封彊(どて)十ヶ所(文政中築立られし所也)を取崩し、町屋に改られ、町会所付請負地と号す。右封彊の土を以て、今川橋通りの川筋、本銀町(ほんしろがねちよう)一丁目北より(龍閑際ばかり纔(わずか)に残る)大伝馬塩町北迄の間、幅八間余の川を埋て新規町屋と成し、講武所付請負地と号す。八月に至り、右川通埋堙(まいいん)の事成て、翌年に至り次第に家作建揃ひたり(今川橋幷東西に在し四ツの小橋を廃せらる)」とあります。つまり、江戸の再開発によって周辺の火除地が削られ、神田堀が埋められ、ほとんどが町屋となり、結果、DVD『江戸明治東京重ね地図・日本橋八丁堀』の各所に(町会所付あるいは講武所付)請負地と記載される場所が生まれるのです。紺屋町2丁目の南にあった火除地も請負地になっています。このような経緯から分かることは、紺屋町周辺の再開発が本作品の版行動機と想像されることです。なお、94「馬喰町初音の馬場」も再開発地域の近隣なので、同じ版行動機があった可能性があります。

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