« 2024年4月 | トップページ | 2024年6月 »

100 四ツ谷内藤新宿

安政4年11月(1857)改印
Meishoedo100_100
 半蔵門から西方に進む甲州街道は、四谷大木戸を越えて、最初の宿場・内藤新宿に至ります。信州高遠藩内藤家の下屋敷跡に宿場を開設したことが命名の由来です(『江戸名所圖會』巻之三、『新訂江戸名所図会3』p309)。内藤新宿を採り上げるのは、江戸百の実質上の1枚目、01「玉川堤の花」に続いて2度目であり、本作品が江戸百の実質上の100枚目であることを意識して読み解くことが肝要です。

Map10094
 『絵本江戸土産』四編の図版「四ツ谷大木戸内藤新宿」の書き入れには、「四谷通りの末にして甲州街道の出口なり この宿美麗なる旅店(りよてん)多く軒をならべ その賑ひ品川南北の駅路に劣らす」とあります。同図版には、馬子が人や荷物を積んだ馬を引いて歩む姿が描写され、ここ内藤新宿が明らかに馬のイメージの宿場であることを示しています。それ故、広重が内藤新宿を馬のクローズアップで表現したことはよく理解できます。江戸百作品中右上、題名が書かれた赤短冊と赤色紙が馬の尻尾に重なり、その下の道には馬糞が転がっています。ユーモア精神が沸騰した広重を知るには好都合な作品です。江戸っ子は滑稽な風情を笑い飛ばしたでしょうが、それにしても、西洋遠近法をここまで不粋に浮世絵に応用した広重の思惑はどこにあったのでしょうか。馬の「尻」あるいは「尾」が強調されているところが重要です。「頭」の1枚目から始まった江戸百シリーズも、いよいよ、「尻」あるいは「(大)尾」の100枚目を迎えたという洒落なのです。この滑稽さが理解できない欧米人には、本作品はあまり人気がないことを付け加えておきます…。

100edomiyage
 江戸百作品の右側には馬列が続き、その先には大量の薪を積む白馬が見えているので、そちらが江戸方向であることが分かります(DVD『江戸明治東京重ね地図・四ツ谷内藤新宿』参照)。左側には遊女(飯盛女)を置く旅籠などが描かれていて、菖蒲(あやめ)咲く風情に喩えられる場所なのです。つまり、左右の情景を合わせると、「馬糞の中に菖蒲咲く」という言葉とおりの内藤新宿の描写となります。老中首座阿部正弘が絡む「内藤新宿桜樹一件」がなけれ、内藤新宿は桜の名所になっていたかもしれないところ、結局は、従来とおり、「馬糞の中に菖蒲咲く」と揶揄されるような有様なのです。広重、版元魚屋栄吉にしても、先年の事件によって、江戸百の企画自体が潰れてしまった可能性すらあって、それを考えれば、100枚目を「四ツ谷内藤新宿」で締めるのは冒険に過ぎると思われるのですが、やはり、阿部正弘の死は制作者側に相当な心理的開放感を与える事象だったと想像できます。なお、原信田『謎解き 広重「江戸百」』(p112)は、本作品の制作動機を「九月十一日の中野筋へのお成り」としています(『藤岡屋日記第8巻』p13)。すでに『絵本江戸土産』に同じ画題の作品があることを思うと、広重の作画動機としてはやや弱い気がしますし、馬の尻を描いた意図を読み解かないと広重に申し訳ないように感じます。

 96「亀戸梅屋舗」の青竜、97「深川萬年橋」の玄武(亀)、98「虎の門外あふひ坂」の白虎、99「浅草田圃酉の町詣」の朱雀(鷲)によって四神相応の縁起を担ぎ、本作品の「四ツ谷内藤新宿」によって尻の100枚目という形式を踏み、江戸百の100枚目完成を祝賀祝福していると考えられます。この100枚目の版行を首を長くして待っていたのが三代豊国で、安政4年11月改印の作品として、『江戸名所百人美女』を一挙に48枚版行します。これも広重の江戸百の100枚達成を受けての記念事業であり、タイアップしながら、両作品を画帳仕立てにして高額で販売しようという版元の魂胆なのです。と言いながらも、実は江戸百はこれで完結したという訳ではありません。101「神田紺屋町」、102「筋違内八ツ小路」と以後も続いていきます。そこには、北斎が『冨嶽三十六景』36枚版行後も、追加の10枚(裏富士)を計画したことと同じ趣向であったことが考えられます。一言で言えば、大人の事情ということです。なお、付け加えれば、『冨嶽三十六景』の36枚目は、「東海道江尻田子の浦略図」となっています。つまり、江尻=絵の尻という訳で、広重のアイデアは北斎にあったのかもしれません。

| | コメント (0)

99 浅草田圃酉の町詣

安政4年11月(1857)改印
Meishoedo100_99
 『絵本江戸土産』六編の図版「浅草酉の町」の書き入れには、「浅草大音寺前に在り 日蓮宗長国寺に安置し給ふ 鷲(わし)大明神と世にはいへど 実は 破軍星を祀りし也とぞ 十一月酉の日には 参詣の諸人群衆なし 熊手と唐の芋をひさくを當社の例とす」とあります。破軍星とは、北斗七星の柄先の星で勝負に勝つ星です。また『東都歳時記』巻之四(『新訂東都歳事記下』p170~p174)に、「(十一月)酉の日 酉の祭(まち)(酉のまちは、酉のまつりの縮語なり。酉の町と書けるは拠なし。また酉の市ともいふ。二の酉・三の酉、ともに参詣あり)」ともあって、題名の「酉の町詣」は、酉の祭り詣での意味であることが分かります。鷲大明神(祭神天日鷲神・日本武尊)は、本来は、出世、武運、開運の神でしたが、当時よりは商売繁盛の神として有名になり、境内や畦道の露天では、福をかきこむ意味でおかめなどの各種飾りの付いた熊手が売られており、画中の連子窓(れんじまど)越しに人々が列をなして歩いているのがその状況に当たります。

Map9937
 さらにDVD『江戸明治東京重ね地図・浅草両国』を見れば、「鷲明神社(別当長国寺)」と新吉原遊廓が近接していることが確認されます。つまり、本作品は、浅草下谷田圃にあった鷲大明神の酉の祭りを、新吉原遊廓の連子窓越しに遠望するという構図を採っているということです。本作品を詳細に観察すると、群れ飛ぶ鳥の先に富士が見えていることから、新吉原京町1丁目辺りからの夕方の眺めと推測されます。近景の鷹羽模様の手拭い、吉原雀の壁模様、熊手の簪は、遠景の酉の町との関連性を強調するための道具で、遊廓の客(吉原雀)が酉の祭りの帰りに土産の熊手の簪を持って立ち寄り、休憩しているということを物語っているのです。気になるのは、連子窓から外をきつい視線で眺める白猫です。これは、美人絵への幕府取締への考慮もあって、鳥襷紋様の屏風の影で客と床に入っている遊女(猫=寝子)の暗号と考えるべきでしょう。そのことは、左隅の熊手の簪が、よく見るとおかめと茸とが組み合わされている滑稽なものとなっていることからも推察できます。日本古来の和合の神を見る思いです。このような熊手の簪が酉の祭りで売られているということは、酉の祭りと新吉原遊廓との間に密接な関連がすでにあるという証拠でもあります。実は、酉の日には新吉原を囲むお歯黒ドブに橋が架けられ、直接お客が遊郭に入ることができるというサービスがあって、「酉の町(祭)詣」が「吉原通い」の隠語として使われていることがよく分かります。なお、本作品の連子窓は、一見すると遊女を「籠の鳥」に見立てているかのようですが、白猫が寝子=遊女とを考えると、客=鳥を捕って食う猫、すなわち客が鳥に擬えているのではないでしょうか。実際、客は遊女に喰われています…。

99edomiyage
 江戸百作品の版行動機は、安政4年11月改印のこの月の8日が「一の酉」の日に相当するという合理的理由がありますが、それは版元の動機(商機)であって、広重自体は、『絵本江戸土産』第6編「浅草酉の町」などの考案を錦絵化して発展させたと考えた方が自然です。作画動機という観点では、鳥居清長『美南見十二候(九月 いざよう月・漁火)』(天明4年頃・1789・千葉市美術館所蔵)の存在を指摘しておきたいと思います。連子窓を通して秋の景物である十六(いざよい)の月の出る夜景を眺めている遊女と、畳の上で文を読みくつろぐ2人とを描いたものです。褪色して分かりにくいのですが、遊廓の近くに茂る松から闇に浮かび上がる朱色の漁火、そして入江の対岸の奥深い背景表現がきちんと描写されています。両作品を比べれば、広重作品が遊廓を描いたものであることが直ちに分かると同時に、そこから遊女を削除し、連子窓の外の景色を丁寧に描く手法を踏襲していることが確認できます。清長が連子窓に手拭いを掛けたのに対して、広重は窓の下に置くという形に変えていますが、そこにも共通の様式を感じます。ただし、清長の描いた場所は、南、すなわち品川遊廓からの海岸線ですが、広重は、北、すなわち新吉原遊廓から浅草田圃方向に視線を送る構図という違いがあります。八頭身の美人絵を確立した印象が強いので見落としてしまいがちなのですが、背景を丁寧に描く清長の描法部分に広重は目を向けて、名所絵を確立する基礎としたことが推察されます。この辺りに、広重の名所絵師としてのプライドがあるのではないでしょうか。

99chibashibijyutsukan
 本作品「浅草田圃酉の町詣」には、もう1つ重要な意味付けがあります。96「亀戸梅屋舗」の青竜、97「深川萬年橋」の玄武(亀)、98「虎の門外あふひ坂」の白虎に続いて、朱雀(鷲)を加えて、四神相応(しじんそうおう)の名所絵として構成したことです。これによって、江戸百の100枚達成を霊獣によって祝福する意図なのです。なお、本作品は、江戸百の目次においては冬に分類されています。しかし、『東都歳事記』掲載図版(『新訂東都歳事記下』p172~p173)に、其角の「春を待つことのはじめや酉の市」という句が記されていることを考えると、酉の祭りが意外にも春の兆しを感じさせる行事であるという季節感が感じられます。

| | コメント (0)

98 虎の門外あふひ坂

安政4年11月(1857)改印
Meishoedo100_98
 92『紀の国坂赤坂溜池遠景』から遠望できた溜池は、山王台地の西側を回り込んで(06『赤坂桐畑』)、赤坂から虎の門まで広がり、余水が石堰を越えて外濠に流れ、その滝は流れ落ちる水の音から、「赤坂どんどん」と呼ばれました。本作品の左手の坂は葵坂、その岡を葵が岡と呼び、屋根だけ見えている辻番所の傍らに葵が植えられていたことに因みます。溜池の堤に榎の古木があり、これは印の榎と呼ばれる溜池築造の記念樹で、坂の背後に描かれる大樹がそれに当たります。堰の右上に見えているのは内藤右近将監上屋敷です(DVD『江戸明治東京重ね地図・赤坂麻布』参照)。

Map9818
 『絵本江戸土産』三編の図版「虎の門金比羅社葵坂」を見ると、本作品右側手前には、讃州丸亀藩(京極佐渡守)の敷地内にあった金毘羅社が描かれており、書入れには、「讃州丸亀の神社をこの所に摸(うつ)して霊験ことに新なりとて毎月十日参詣夥(おびただ)し」とあります。本作品の近景に、二人の裸体の男が「金毘羅大権現」「日参(ひまいり)」という長提灯と鈴を持つ姿が描かれているのも、この金毘羅社(祭神大物主)を暗示する記号なのです。『東都歳事記』巻之四(『新訂東都歳事記下』p175)には、『(十一月)寒の入り』として、「良賤寒舞い」、「神仏裸参り」などの記述があります。

98hokusai080
 北斎『諸国瀧廻り』「東都葵ヶ岡の滝」という作品があり、江戸百作品はこの名所風景を凌駕する構成を意図し、技量向上を願って行なう金毘羅社への寒参りの風俗を重ね、付随する情景として、坂を行き来する人々、「大平しっぽく」(うどん)と「二八そば」、さらに2匹の猫(犬?)など寒中を想像させる道具を画中に仕掛けています。ところで、背景にある雁行に浮かぶ月は、初版ではあてなしぼかしの黒雲と三日月なのですが、寒の入りを考えると後版の逆三日月(26〜27日頃)の方が自然です。改印11月の3日と仮定するとまだ寒の入り前になり、安政4(1857)年は12月6日が大寒なので、本作品の季節は12月3日と見るべき事になりましょうか。原信田『謎解き 広重「江戸百」』(p147)は、本作品は、上水の配水樋の修復工事がこの頃本格化したことを制作動機としていて、歳事表現を超えて、裸参りの職人によってその工事(職人)を図像表現したものであると理解しています。この点については、広重というよりは版元の版行動機というのが正確で、江戸再開発事業を契機として販売されたと言うべきです。

98edomiyage
 なお、本作品の題名「虎の門(外)」は、四神相応の西方を守る「白虎」に由来しています。広重の作画動機という観点では、96「亀戸梅屋舗」の青竜、97「深川萬年橋」の玄武(亀)に続いて、本作品には白虎を読み取ることができます。さらに深読みすれば、坂の途中にいる2匹の動物を白猫と看做せば、作品中に「白虎」を暗示する仕掛けが施されていると考えることも可能です。ただし、路上での屋台売りの近くに犬を屯させる表現が広重に多いのも事実です(118「びくにはし雪中」参照)。ちなみに、金毘羅社の銅鳥居(文政4年・1821奉納)には、白虎を含め四神の立体的な彫刻が施されています。

| | コメント (0)

97 深川萬年橋

安政4年11月(1857)改印
Meishoedo100_97
 「深川萬年橋」は、江戸と下総を結ぶ小名木川が隅田川と交錯する地点南北に架けられた橋です(DVD『江戸明治東京重ね地図・本所深川』、『絵本江戸土産』二編の図版「新大橋萬年橋并正木の杜」参照)。本作品はその万年橋の上から富士山を西方に眺望する視点を採り、先行作品の北斎『冨嶽三十六景』「深川万年橋下」を相当意識し、それを超えることを意図しています。得意の近景拡大の画法を採用して、手桶に吊されたイシガメを万年橋の欄干脇に配置し、隅田川越しに残雪の富士を眺望する広重渾身の富士図となっています。

Map9757
 本作品の紐で手桶に吊された亀は、「放生会(ほうじようえ)」に使われる「放し亀」を描いたものです。放生会とは、8月15日頃、各地の寺社、とくに八幡神社で行われていた風習で、捕らわれていた動物(亀、鰻、鳥など)を放し逃がしてやる儀式として知られています。仏教の殺生戒に関連し、放生会によって功徳を積むという神仏習合の儀式です。本作品の場合は、題名に「深川萬年橋」とあるので、深川の富岡八幡宮の放生会祭礼が想定されます。『東都歳事記』巻之三(『新訂東都歳時記 下』p65)の「(八月)十五日」の条には、「八幡宮祭礼。富賀岡八幡宮(別当、永代寺。十四日より賑はへり)」とあり、それに続いて、各地の八幡神社の放生会が列挙されています。放生会が近づくと寺社の境内や橋・川の近くで露店が出たりしたので、本作品は万年橋での放し亀の風俗を切り取ったものと考えられます。

97edomiyage
 さて江戸百の本作品をシリーズ100枚達成を祝す記念碑と位置づけて読み解くと、次のような仕掛けを見つけることができます。すなわち、万年生きるという縁起の良い亀と万年橋が掛けられていることはすぐに分かりますが、さらにその背後の富士頂上の雪に注目すべきです。夏も終わり秋の8月15日にも係わらず、万年雪の積もった姿が敢えて描かれているのは、さらに万年を重ねるための絵心です。また、富岡八幡宮の放生会祭礼に絡んだ亀だとすると、近景での放生会の功徳と遠景での西方極楽浄土を象徴する夕陽の富士とが感覚的に繋がるという福徳ある景色を描いていることになります。富岡八幡宮の別当は永代寺なので、万年に永代と縁起の良い言葉がいくつも重ねられていることにもなります。とくに強調したい点は、96「亀戸梅屋舗」を「青竜」の見立てと分析する流れからすると、紐に括られた亀の姿は、蛇の巻きついた亀という形象の「玄武」と読み解くができるということです。四神相応の思想が構成の根本にあるのではないかということを指摘しておきます。

97hokusai04
北斎『冨嶽三十六景』「深川万年橋下」


| | コメント (0)

96 亀戸梅屋舗

安政4年11月(1857)改印
Meishoedo100_96
 シリーズ百景がいよいよ完結へと至る時期に当たるのが、安政4年11月改印の作品群です。その意味で、記念碑的な作品構成が図られている可能性がある考えてと読み解く必要があります。

 90「大はしあたけの夕立」と並んで、ゴッホが模写したことで有名な作品で、大胆な遠近法を応用した点も含めて、ゴッホに強い印象を与える程の何か深い意図があるのでしょうか。『絵本江戸土産』初編の図版「亀戸梅屋敷」の書き入れには、「梅花四方に薫ずるをもて清香庵と自ら称す 臥龍の一樹舊(ふり)にけれど 年々歳々新たなる花の盛りの賑ひは 他邦にいまだ聞くも及ばず」と記されています。24「亀戸天神境内」の北東に位置し、22「吾嬬の森連理の梓」、65「柳しま」など向島界隈の名所地に囲まれた一角に所在します(DVD『江戸明治東京重ね地図・寺島亀戸』参照)。

Map9668
 近景拡大の手法で描かれた梅の大樹は、画中左側に立札の一部が見えているので、梅屋敷を代表する「臥龍梅(がりようばい)」という銘木と分かります。この臥龍梅は、『江戸名所圖會』巻之七(『江戸名所図会6』p130)によれば、「その花一品にして重(ちよう)弁(べん)潔白なり。薫香至って深く、形状あたかも竜の蟠(わだかま)り臥すがごとし」、「枝ごとに半ばは地中に入り地中を出でて枝茎を生じ、いずれを幹ともわきてしりがたし」とあります。親幹、子幹、孫幹と繋がった、子孫繁栄を象徴する形状ということです。ただし、『武江年表(寛政四年)』(『定本武江年表中』p130)の同年(1792)7月21日の条に、「亀戸梅屋敷の梅旧根、焼失するよし…」とあるので、代替わりし、その伝説が継承された梅の木であると推測されます。なお、同図会同巻(『新訂江戸名所図会6』p132)に、塩梅が名産となっていて、「ここに遊賞する人かならず沽(こ)ふて家土産(いえづ)とす」との書き入れもあるので、背景に描かれる茶店営業や塩梅販売の一種宣伝も含意されているとの理解が必要です(45「蒲田の梅園」参照)。

96edomiyage
 安政地震との関係では「亀戸町少々焼」とあり(『武江年表(安政二年)』、『定本武江年表下』p70)、また翌年8月25日の台風では、「深川・本所の地、大方床の上二、三尺水の上りたるが多し」とあり、さらに風によって各所の樹木が大きな被害を受けたことが記されています(『武江年表(安政三年)』、『定本武江年表下』p85)。梅の木に相当の被害があったことは容易に想像できます。したがって、江戸百作品の作画動機に梅屋敷の再整備(老木の回復など)があったと類推することは決して難しくなく、臥龍梅が近景にトリミングされているのは、被害のあった幹や枝を避けたと理由付けすることも可能です(83「深川三十三間堂」参照)。しかしながら、2月が見頃の梅屋敷の絵をなぜ安政4年11月改印作品として版行したかの直接の動機と評価するには、かなり不足するものがあります。

 そこで作画版行の動機は、外的要因ではなく、制作者側の心理的事情に負っていると考えた方が自然であって、冒頭に述べたように、「シリーズ百景がいよいよ完結へと至る時期」ということが重要なのです。すなわち、そもそもお目出度い花木・梅の老木が造形する縁起良き竜神(青竜)の姿を描いて、江戸百シリーズ完結への道程を寿ぐという魂胆なのだと考えます。また、江戸百作品描写に関して言葉を付け加えるならば、作品背景の赤のぼかし(さらには紫の一文字ぼかし)が非常に印象的です。広重が梅園を描く際にしばしば採用する手法で、これに関し、堀口『EDO-100フカヨミ!』(p75)は、このピンクは梅の木から立ち昇るその香ばしい匂いを色で表現したものと述べています。非常に示唆に富む見解です。私見を加えるならば、紅白仕立てにして春の高揚する雰囲気を寿ぐ工夫であるとともに、水を含んだ春先の木々の重なりが薄いピンクに見える自然観察に基づいているとも思われます。11月は来年の暦の出る月であり、また春の兆しへの期待の月でもあるので、明年の縁起の良い梅見の作品を版行することには十分な理由はあります。

 ちなみに、深読みすれば、臥龍梅の命名に関し、水戸光圀によるとか、徳川吉宗縁の梅であるとかの逸話がありますが、ちょうど将軍後継を巡る一ツ橋派と南紀派とを想起させる点で、時期柄意味深な画題と言うことができます。

| | コメント (0)

95 鎧の渡し小網町

安政4年10月(1857)改印
Meishoedo100_95
 『武江年表(安政四年)』(『定本武江年表下』p96)によれば、「十月朔日・二日、回向院にて、去々卯年、地震の時、非命に終りし輩追福として、法事修行あり」とあり、安政4年10月改印の作品が1点だけなのは、「三回忌」に配慮したことが考えられます。

 江戸開府以前、この辺から東南は海で、永承年間(1046-53)、源義家が奥州征伐に臨んでここから下総国に渡ろうとした際、暴風と激浪を鎮めるため鎧を海中に投じたことから「鎧が淵」と呼ばれ、凱陣後、東夷鎮護のため、日本武尊の古例に習って(22「吾嬬の森連理の梓」参照)、鎧塚が築かれました(『江戸名所圖會』巻之一、『新訂江戸名所図会1』p160)。現在の東京証券取引所の場所がそこに当たり、「兜町」と呼ばれる所以です。『絵本江戸土産』六編の図版「鎧の渡」の書き入れには、「小網町の川岸にあり この所より 行徳及び上総 木更津 登戸(のぶと)の便舩あるをもて 行路の貴賎おのづから集まり 夜陰におよびてこの所を出帆す」とあります。

Map956
 日本橋川の西側渡し場から対岸の小網町を見る視点で、画中右の商家の女性が挿す髪飾りと帯の赤を白壁とを対比させ、しかも、黄色で引かれた空のぼかしが真夏の盛りをうまく表現しています。DVD『江戸明治東京重ね地図・日本橋八丁堀』を見ると、鎧の渡しの此岸・茅場町には山王権現社の神輿(25「糀町一丁目山王祭ねり込」)が渡る、永田馬場山王御旅所とその別当寺・薬師堂があります。同図会同巻(『新訂江戸名所図会1』p165)によれば、薬師堂の「縁日は毎月八日、十二日(正・五・九月二十日には開帳あり)にして、門前二、三町の間、植木の市立てり」とあるので、本作品の作画の季節は山王祭の6月を想定しているかもしれませんが、版行の動機は9月の縁日・開帳・植木市に絡めたものです。同図会に掲載される図版(『新訂江戸名所図会1』p172~p173)には「此辺傘屋多し」と注記されているので、女性の日傘はそれを示す記号と考えられます。本作品の近景左の船は高瀬舟、遠景に見えるのは灘の銘酒「正宗」の菰被りを積み込んだ荷足船です(50「鉄炮洲稲荷橋湊神社」参照)。「傘」や「正宗」を点景とする山王御旅所・薬師堂辺りの名所案内(宣伝広告)の役割を果たしています。

95edomiyage
 なお、地震によって土蔵壁は壊れましたが2年も経って修理はすでに終了し、本作品に見るように美しい白壁土蔵が並ぶ名所風景があったことと思われます。ちなみに、ちょうどこの頃はアメリカ合衆国の使節ハリスと副使ヒウスケンが通商を求めて江戸に着いた時期に当たります。

| | コメント (0)

94 馬喰町初音の馬場

安政4年9月(1857)改印
Meishoedo100_94
 「馬喰町」は、軍馬を管理する「御馬工郞高木源兵衛(おんばくろうげんびようえ)」が住まいしたことに由来し、そもそも江戸で一番古い馬場があり、「慶長五年関が原御陣のとき、御馬揃へありしところなりといひ伝ふ」(『江戸名所圖會』巻之一、『新訂江戸名所図会1』p119)とあります。1657年の明暦の大火後に縮小され、DVD『江戸明治東京重ね地図・日本橋八丁堀』に見たとおり、多くは町家地になって、馬場の名を残すだけの広場になり、かつて初音森稲荷があったので「初音の馬場」と呼ばれました。安政地震の被害については、『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p69)は、「去冬と当春の炎に罹りて家作あらたなる故、おのづから痛少く」、ただし、「土蔵の壁は皆、震ひ落せり」とあります。つまり、被災からの復興を版行動機とする程ではなかったということです。

Map9410
 重ね地図を参照すると、馬場の北側に郡代屋敷があります。そこでは幕府直轄地や関八州の民政や訴訟を取り扱い、周辺には、係争問題を持って郡代にやってくる人々を泊める公事宿や商人の旅籠が多く集まっています。また、日光・奥州への出入口に当たる浅草御門もすぐ近くです。したがって、江戸外から多くの人が集まることから、その人々にとっては本作品中央左の火の見櫓は馬喰町のランドマークであることが分かります。櫓の足が板などで隠されていないので、これは町火消しの火の見櫓の特徴です。本作品は、91「神田明神曙之景」、93「昌平橋聖堂神田川」と合わせ、神田川水系の名所地を一体的に紹介している作品の1つと見られます。

94edomiyage
 『絵本江戸土産』六編の図版「馬喰町初音馬場」と比べると、「柳原封疆(どて)」との位置関係から視点を反対に採るもので、火の見櫓よりも近景に干された反物(作品によっては、布目摺が施されています)に目が向く構成と分かります。『江戸名所圖會』巻之一(『新訂江戸名所図会1』p122)の図版「馬喰町馬場」を見ると、火の見櫓が立ち、火除け地も兼ねていたと思われる馬場の南側の通りの中途に紫屋(染物)の店があって、張板が軒に立掛けられるなどの作業風景が描かれています。江戸百作品は、この染物店(だな)の前から火の見櫓を見通す視点で描いることになります。紫屋の宣伝を兼ねながら、馬喰町のランドマーク火の見櫓を反物で飾っているのでしょう。39「駒形堂吾嬬橋」の紅屋の宣伝と同じ手法です。言うまでもなく、定火消同心であった広重とっては、火の見櫓は深く関心ある画題です。江戸百作品は、柳の芽吹きから春の景と判断されます。

 なお、ここで定火消、大名火消、町火消の火の見櫓の違いについて触れておきます。定火消の火の見櫓は、中央に大きな太鼓と四隅に半鐘が設置され、高さ約9メートル、外周の蔀は素木生渋塗です。大名火消の櫓には板木、町火消の櫓には半鐘が下げられているのみです。見た目の大きな違いは、町方の火の見櫓の脚は、板で囲ってはならないことです。したがって、本作品に描かれる火の見櫓は、町火消のものであることが分かります。江戸百シリーズでは、定火消、大名火消の火の見櫓は区別がつかないほど小さく描かれていて、建設場所から特定するしかないようです。たとえば、比較的大きく描かれる92「紀の国坂赤坂溜池遠景」の右手の火の見櫓は、火の見櫓の脚が板で囲われており、堀側に半鐘がないことなどから紀州藩上屋敷の火の見櫓と考えられます。

| | コメント (0)

93 昌平橋聖堂神田川

安政4年9月(1857)改印
Meishoedo100_93
 91「神田明神曙之景」にも引用のDVD『江戸明治東京重ね地図・本郷小石川』を見れば一目瞭然ですが、聖堂と神田明神社とは隣接しており、本作品と前掲作品とは一体として理解する必要があるというのが大前提です。

Map9345
 『絵本江戸土産』五編の図版「昌平橋聖堂」の書き入れには、「右に出せる筋違橋と並び架るを昌平橋といひ 西の方へ昇るを昌平坂といふ ここに聖堂あり 大成殿には孔子及び十哲の像を祀らるるよし 春秋釈奠(しやくてん)の礼あり 学問修行のものここに寄宿す 本朝第一の学校なり」とあります。本作品の右下に欄干の一部が描かれているのが、孔子の故郷魯の昌平に因んで命名された「昌平橋」です。神田川に沿って登る坂が「昌平坂」で、林の北(奥)側に聖堂と学問所があり、林家が大学頭(だいがくのかみ)となり、官学、儒学(朱子学)の殿堂となっています。釈奠(孔子祭)が2月、8月にあって(『江戸名所圖會』一之巻、『新訂江戸名所図会1』p117)、本作品の作画動機に係わっているかもしれません。ただし、聖堂の北側に神田明神社があることを勘案すると、9月15日の神田明神の祭礼に引っ掛けて作画版行したと見るべきと思われます(83「深川三十三間堂」と84「深川八まん山ひらき」の関係と同じ)。

93edomiyage
 安政地震の被害が練塀の一部にあったようですが、『藤岡屋日記第7巻』(p409)によれば、安政3年12月29日、地震から2ヶ月弱で修復が完了していることが分かります。したがって、被災からの復興は江戸百作品の画題ではないと考えられます。江戸百作品で気になる点は雨が降っており、雨によって昌平坂の練壁を隠したのではという疑問が浮かびますが、江戸土産作品ですでに描いた事実があり、この疑問も当たりません。とすれば、9月15日に規模を縮小して開催された神田祭について、『武江年表(安政四年)』(『定本武江年表下』p95)に「十六日、礼参り。雨にて淋し」という記述があることを受けたと考えるのが最も自然です。25『糀町一丁目山王祭ねり込』では安政3年6月15日に行われた夕立の山王権現祭りを描写しており、同様に当該江戸百では安政4年9月16日に行われた雨天の礼参りを暗示していると解するのです。山王権現祭り、神田祭り、いずれの天下祭りも雨天に祟られ、幕府の意気込みとは裏腹に、神々はそれほど祝福していなかったのかもしれません。なお、「怪力乱神(かいりよくらんしん)を語らず」なので、孔子は雨を降らせません。

 ちなみに、本作品が、孔子の故国・中国の「瀟湘八景」に擬えて、神田川を瀟湘の「(夜)雨」として描いた可能性を指摘することはできます。神田川のこの辺りは、当時、三国志ゆかりの「小赤壁」と呼ばれることもあり、また御茶ノ水は「茗渓」に見立てられるなど、中国の名所を想起させる場所だからです。

| | コメント (0)

« 2024年4月 | トップページ | 2024年6月 »