100 四ツ谷内藤新宿
安政4年11月(1857)改印
半蔵門から西方に進む甲州街道は、四谷大木戸を越えて、最初の宿場・内藤新宿に至ります。信州高遠藩内藤家の下屋敷跡に宿場を開設したことが命名の由来です(『江戸名所圖會』巻之三、『新訂江戸名所図会3』p309)。内藤新宿を採り上げるのは、江戸百の実質上の1枚目、01「玉川堤の花」に続いて2度目であり、本作品が江戸百の実質上の100枚目であることを意識して読み解くことが肝要です。
『絵本江戸土産』四編の図版「四ツ谷大木戸内藤新宿」の書き入れには、「四谷通りの末にして甲州街道の出口なり この宿美麗なる旅店(りよてん)多く軒をならべ その賑ひ品川南北の駅路に劣らす」とあります。同図版には、馬子が人や荷物を積んだ馬を引いて歩む姿が描写され、ここ内藤新宿が明らかに馬のイメージの宿場であることを示しています。それ故、広重が内藤新宿を馬のクローズアップで表現したことはよく理解できます。江戸百作品中右上、題名が書かれた赤短冊と赤色紙が馬の尻尾に重なり、その下の道には馬糞が転がっています。ユーモア精神が沸騰した広重を知るには好都合な作品です。江戸っ子は滑稽な風情を笑い飛ばしたでしょうが、それにしても、西洋遠近法をここまで不粋に浮世絵に応用した広重の思惑はどこにあったのでしょうか。馬の「尻」あるいは「尾」が強調されているところが重要です。「頭」の1枚目から始まった江戸百シリーズも、いよいよ、「尻」あるいは「(大)尾」の100枚目を迎えたという洒落なのです。この滑稽さが理解できない欧米人には、本作品はあまり人気がないことを付け加えておきます…。
江戸百作品の右側には馬列が続き、その先には大量の薪を積む白馬が見えているので、そちらが江戸方向であることが分かります(DVD『江戸明治東京重ね地図・四ツ谷内藤新宿』参照)。左側には遊女(飯盛女)を置く旅籠などが描かれていて、菖蒲(あやめ)咲く風情に喩えられる場所なのです。つまり、左右の情景を合わせると、「馬糞の中に菖蒲咲く」という言葉とおりの内藤新宿の描写となります。老中首座阿部正弘が絡む「内藤新宿桜樹一件」がなけれ、内藤新宿は桜の名所になっていたかもしれないところ、結局は、従来とおり、「馬糞の中に菖蒲咲く」と揶揄されるような有様なのです。広重、版元魚屋栄吉にしても、先年の事件によって、江戸百の企画自体が潰れてしまった可能性すらあって、それを考えれば、100枚目を「四ツ谷内藤新宿」で締めるのは冒険に過ぎると思われるのですが、やはり、阿部正弘の死は制作者側に相当な心理的開放感を与える事象だったと想像できます。なお、原信田『謎解き 広重「江戸百」』(p112)は、本作品の制作動機を「九月十一日の中野筋へのお成り」としています(『藤岡屋日記第8巻』p13)。すでに『絵本江戸土産』に同じ画題の作品があることを思うと、広重の作画動機としてはやや弱い気がしますし、馬の尻を描いた意図を読み解かないと広重に申し訳ないように感じます。
96「亀戸梅屋舗」の青竜、97「深川萬年橋」の玄武(亀)、98「虎の門外あふひ坂」の白虎、99「浅草田圃酉の町詣」の朱雀(鷲)によって四神相応の縁起を担ぎ、本作品の「四ツ谷内藤新宿」によって尻の100枚目という形式を踏み、江戸百の100枚目完成を祝賀祝福していると考えられます。この100枚目の版行を首を長くして待っていたのが三代豊国で、安政4年11月改印の作品として、『江戸名所百人美女』を一挙に48枚版行します。これも広重の江戸百の100枚達成を受けての記念事業であり、タイアップしながら、両作品を画帳仕立てにして高額で販売しようという版元の魂胆なのです。と言いながらも、実は江戸百はこれで完結したという訳ではありません。101「神田紺屋町」、102「筋違内八ツ小路」と以後も続いていきます。そこには、北斎が『冨嶽三十六景』36枚版行後も、追加の10枚(裏富士)を計画したことと同じ趣向であったことが考えられます。一言で言えば、大人の事情ということです。なお、付け加えれば、『冨嶽三十六景』の36枚目は、「東海道江尻田子の浦略図」となっています。つまり、江尻=絵の尻という訳で、広重のアイデアは北斎にあったのかもしれません。
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