90 大はしあたけの夕立
安政4年9月(1857)改印
本作品はゴッホが模写したことで有名です。激しい夕立の表現は2種類の雨の線を重ね合わせたもので、巧みな彫の技に支えられています。また、黒雲の「あてなしぼかし」は高度な摺の技に負っています。では、絵師広重の工夫あるいは版元の企画性はどこにあるのでしょうか。
作品の題名には、「大はし」とありますが、「あたけ」(安宅)近くの橋と言えば、正確には「新大橋」に当たります。『江戸名所圖會』巻之一(『新訂江戸名所図会1』p150)には、新大橋は、「両国橋より川下の方、浜町より深川六間堀へ架す。長さおよそ百八間あり」、「両国橋の旧名を大橋といふ。ゆゑに、その名によつて、新大橋と号(なづ)けらるるとなり」と記されます。作品中、対岸の雨中影絵部分の左端に白壁の建物3棟が描かれています。これは、隅田川東岸の「御船蔵」辺りであることを示す一種の記号と考えられます(DVD『江戸明治東京重ね地図・本所深川』参照)。御船蔵には、廃船となった将軍の御座船・安宅丸(あたけまる)の供養塚があったので、この付近を安宅と呼んでおり、本作品は、隅田川西岸浜町から新大橋の背後に(東岸)安宅方向を見るという視点で描かれていることになります。
『武功年表』巻之九(『定本武功年表下』p69)によれば、「御船蔵前町より出火。此辺一円に武家町家焼る」とあり、さらに、翌年8月の台風によって御船蔵に大きな被害が出ており、『藤岡日記』第7巻(p597)の安政4年8月5日の条には、修理に関する費用支払いの記録があります。以上を前提に、原信田『謎解き 広重「江戸百」』(p128)は、本作品の隠されたメッセージは、この御船蔵の修復が完了したことを広報する趣旨であるとしています。ただし、御船蔵は幕府軍事施設なので、激しい驟雨によってその建物を隠すという表現を採ったと読み解いたのです。江戸百を震災等からの復興を描くシリーズであるという認識を前提とするならば、論理一貫した推論です。しかしながら、江戸百において近景と遠景とはイメージ的に強い関連性があるのが常なので、近景の新大橋が夕立に晒され、人々が逃げ惑う情景が遠景のカモフラージュにしか過ぎないという評価には疑問があります。そもそも、江戸百作品では御船蔵の部分がことさら白抜きになっているとの評価もできるうえ、題名にすでに御船蔵に由来する「あたけ」と入っていることを勘案すると、別の読み解きも可能であると思われます。
夕立の情景をかりに近景の新大橋を主題として描く場合、題名は「(新)大はしの夕立」で十分なところ、なぜ「あたけ」を加えているのかを、被災からの復興以外の観点で検討してみます。安宅(あたけ)という言葉は、読み方を変えると安宅(あたか)となります。安宅(あたか)と言えば、「歌舞伎十八番」の1つ『勧進帳』の「安宅(あたか)の関」が有名です。それは、源義経主従が奥州へ逃避行する際、安宅(あたか)の関を難儀して越えていく筋立で、とくに、弁慶が偽の勧進帳を読む場面、あるいは弁慶が主人である義経を心ならずも折檻し涙する場面が思い浮かびます。つまり、新大橋を安宅(あたか)の関と見立てて、夕立のため橋を渡るのに逃げ惑い苦労する庶民の姿を、勧進帳の弁慶・義経一行の関越えの苦労に重ね合わせて表現する仕掛けがあるという分析です。当時大流行し、大人気であった『勧進帳』『安宅(あたか)の関』の弁慶(7代市川團十郎)の涙雨の情緒を名所の夕立情景に取り込んだという発想です。そのためには、吾妻橋、両国橋、永代橋ではなく、安宅(あたけ)が見える新大橋でなければならないのです。このような読み解きが思い付きでないことは、歌川(三代)豊国『江戸名所百人美女 新大はし』(藤岡屋慶次郎・安政5年2月・1858)が、「新大はし」の副題の下で、娘が恋文を書き終えた姿を弁慶が勧進帳を読む場面に見立ている作品があることからも分かります。広重の江戸百作品は、夏の夕立の風景を単純に描くものではなく、庶民に大人気であった團十郎演ずる『勧進帳』『安宅(あたか)の関』の弁慶の慟哭の情緒を採り入れているのです。激しい夕立の様子が心に伝わります。
では逆に御船蔵の修理が完了し、その費用の手当が行われた翌月、本作品が版行されていることについては、次のように考えます。御船蔵の修理完了は、版元にとっては本作品を売るための好機ということです。しかし、広重にとっては、たとえば、『絵本江戸土産』第2編「新大橋萬年橋并正木の杜」など過去培ってきた名所絵を土台とし、さらに歌舞伎人気を取り込むという手法を応用して本作品を磨き上げたと見るべきだと思われます。江戸百は、シリーズ全体の構想として震災からの江戸の復興を描くものではありますが、個々の作品には版元の販売戦略と広重の作画意図がそれぞれ別にあるということです。
| 固定リンク
「名所江戸百景」カテゴリの記事
- 江戸百の作品構成の要諦(2024.12.15)
- 120 「江戸百景目録」(2024.12.14)
- 119 赤坂桐畑雨中夕けい(2024.12.14)
- 118 びくにはし雪中(2024.12.14)
- 117 上野山した(2024.12.13)
コメント