92 紀の国坂赤坂溜池遠景
安政4年9月(1857)改印
『絵本江戸土産』三編の図版「赤坂桐畑永田馬場山王社」の書き入れには、「この辺すべて山水の景地なりといえども 常に見なれて 人是を称することなきぞ遺憾なるべき」とあり、また同絵本八編の図版「紀国坂」の書き入れには「赤坂御門外 紀州侯の御第(ごてい)の前よりこの所高見にして 遠近見わたし風景いわん方なし させる勝地にあらすといへとも 何となく風雅のさまあり」とあって、見慣れた、それほどの名勝地ではない旨の記述が気になります。本作品のどの点に名所要素があるのかが、読み解きの入口となります。
「紀の国坂」は御三家の一つ紀州藩邸上屋敷と外濠との間の坂のことです。本作品中、左の堀が一般に弁慶堀と呼ばれる堀に当たります(広重は17「外桜田弁慶堀糀町」で内堀を弁慶堀と呼んでおり、用法が違います)。題名にあるとおり、「赤坂溜池」に繋がる堀です。右手の大名行列は、2列の半分だけが描かれていますが、槍を持った先手2名、後手2名の形式は徳川御三家にのみ許された行列なので、場所柄、紀州徳川家のものと考えられます。DVD『江戸明治東京重ね地図・赤坂麻布』を参照すると、右に火の見櫓が見える一帯が紀州徳川家の上屋敷であり、左側堀を越えた所が彦根藩井伊家の中屋敷です。左手奥のこんもりした森が山王権現社のある山王台地で、その底辺に溜池があるはずです。その周辺から遠景までの建物は赤坂の町家で、町家の西にあった定火消屋敷の火の見櫓も描かれています。なお、左の濠に建てられている立札は、魚の捕獲や水浴び、ゴミの投棄などを禁ずる内容が記されているものと推測されます。禁止もしくは封じの立札です。
前景と後景との間にイメージの共有があるというのが、江戸百の構図の特徴です。前景の大名行列の先供は槍を持つだけではなく、厳しい顔付きで道を塞ぐように歩んでいます。道を塞ぐ「塞(さい)の神」の見立てとなっているのです。後景の日吉山王権現は、江戸城の南西裏鬼門を守る場所に位置しています。主祭神である大山咋命(おおやまくいのみこと)は神猿(まさる)に守られており、その神猿は猿田彦命を習合する神と考えられ、庚申・塞の神として江戸城を守っているのです。つまり、両者は結界を守る「塞の神」という繋がりがあり、「紀の国坂」から「赤坂溜池」を遠望する風景は、その2つが重なるまさに奇瑞の場所なのです。禁止の立札も結界を強調するもので、広重による意図的挿入です。二代広重の同絵本八編の図版「紀国坂」は、紀州徳川家の上屋敷から彦根藩井伊家の中屋敷側に視点が移っており、はたして先師の意図を理解していたのかどうかは不明です。
さらに大胆な仮説を述べるならば、老中阿部正弘の死亡後、紀州藩の付家老水野忠央の幕政への影響力が拡大し、井伊直弼とともに紀州藩慶福(よしとみ)(後の家茂)を次期将軍に押す南紀派が形成され、慶喜を後継将軍に押す一橋派の勢力を後退させます。版元的な販売戦略の視点では、紀州藩の大名行列は、時勢の中心勢力南紀派を広重にさりげなく支持させているのではないでしょうか。この頃の広重は、以前に比べ本心を曝け出す傾向にあることも指摘しておきます。
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