86 真乳山山谷堀夜景
安政4年8月(1857)
船で隅田川を利用して新吉原を目指した場合、山谷堀で船を降りて、日本堤を駕籠が徒歩で向かいます。そのため、山谷堀に架かる今戸橋の周辺には、船宿と新吉原に向かう前の景気づけとして料理屋・茶屋などが発展しました。本作品は夜景ですが、背後の隅田川に参集する屋根船の影が多く描かれ、今戸橋の掛かる山谷堀に向かっているのが分かります。そして、その橋の両側の高級料理屋から明かりが漏れ出ている様が描写されています。橋の南詰め背後の小高い山が真乳山です。この真乳山には、商売繁盛、無病息災、夫婦和合などにご利益のある聖天宮(しようてんぐう)があります。『絵本江戸土産』初編の図版「隅田川真乳山の夕景」には、「真土山夕越(こえ)くれば庵崎(いおさき)と むかしの人の詠じけん東都に名高き勝地にて この辺すべて旧跡多し」とあります。江戸百作品の背景は、この図版が元絵と考えられます。
本作品で一番気になるのは、背後の景色ではなく、画中左側に立つ女性で、美人絵という範疇からは離れ、リアルな人物像と感じられます。DVD『江戸明治東京重ね地図・橋場隅田川』を参照すると、竹屋の渡しを利用して三囲神社のある東岸にやってきたことが推測され、近景と遠景をイメージで繋げる広重の近景拡大の画法を考慮すると、対岸の今戸・山谷堀の船宿や料理屋の関係者と想像されます。地味な着物姿に、右手で褄を持つ仕草は芸者ではありません。
広重は、先行する作品『東都高名會席盡』や『江戸高名會亭盡』では、山谷堀あるいは今戸橋の会席亭として「玉庄」(金波楼)を紹介しています。この玉庄は、『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p69~p70)によれば、安政地震で潰れ、火災を起し、近隣を類焼し、その後再建されることもありませんでした。翌年、このような山谷堀の経済停滞の中、玉庄の跡地に、かつて堀の芸者であった女性が店の主人として「有明楼(ゆうめいろう)」を興しました。その名を「お菊」と言いますが、どうやら、本作品の女性は、この実在のお菊を描いたものと思われます。今戸橋の北詰めの明かりが有明楼の場所で、その対岸に立つ女性がその女主人お菊というのはもっとも納得できる絵組です。芸者姿でなく、店の女将と考えれば、地味な着物姿もあり得ます。なお、77「吾妻橋金龍山遠望」は金龍山背後の東本願寺の法主と猿若町の歌舞伎役者沢村訥升(助高屋高助)との鞘当を作品に織り込み、お菊を画題にしていた可能性がありました(同『江戸名所 真乳山猿若町金龍山』山田 屋・嘉永6年11月・1853参照)。また、画中女性が手にする提灯の模様は、銀杏の葉を4枚合わせた紋様に見え、これは真乳山聖天宮の意匠なので、本作品に描かれる女性が対岸のお菊であることはより確実だと思われます。聖天宮の強い加護があって、お菊の事業成功があったのだと訴えているようにも感じられます。
広重作画の動機は、地震で大きな被害を受けた山谷堀の復興を描写するという抽象的なものではなく、具体的に、芸者から江戸有数の料亭に育て上げた有明楼のお菊に敬意を示そうとしていると考えられます。名所絵の大家が敢えてお菊を採り上げた理由は、まさにそこにあって、これはお菊への応援歌ではないかと思われます。安政4年7月改印および安政4年8月改印の作品では、広重は自分の思い(作画動機)を以前に比べはっきりと出しているようです。やはり、先の老中首座阿部正弘の死が影響しているのでしょうか。
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