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74 金杉橋芝浦

安政4年7月(1857)改印
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 40「増上寺塔赤羽根」に描かれていた赤羽橋の下流に架かる橋が「金杉橋」で、その新堀(金杉)川河口から南西は高輪まで、北東は汐留橋まで一帯の海を「芝浦」と言います(03「芝うらの風景」参照)。本作品は、その金杉橋から北東方向に芝浦を望むもので、水平線左手に突き出ている岬状の陸地は築地で、築地本願寺の三角屋根が見えています。ただし、この時、安政地震翌年の台風被害で本堂は倒壊していたはずです。金杉橋に描かれる人々は、赤い玄題旗、紫の講中の旗を付けた傘蓋(さんがい)、講中名などを記したまねきなどを持って江戸に向かっているように見えます。近景拡大の画法を応用した作品なので、イメージ性を優先させる構図であるという観点から読み解く必要があります。

 DVD『江戸明治東京重ね地図・大名小路増上寺』
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 本作品の中央の傘蓋とその下にたなびく旗に記される「井桁に橘」の紋は池上本門寺など日蓮宗のもので、「一天四海皆帰妙法 南無妙法蓮華経」の文字が記されています。その右の「江戸講中」の旗の上の「まねき」には「身延山」の文字があって、日蓮宗本山を示します。なお、橋の左手の「魚栄梓」は版元への気遣い、つまり宣伝です。以上のことから、本作品は10月10日から13日(日蓮忌日)まで、池上本門寺で行われる日蓮宗の御会式(おえしき)との関連で解説されることが多いのですが、本作品は目次では秋に分類され、旧暦上初冬の御会式とするには不自然です。

 
 この点に関し、次のような注目すべき資料があります。すなわち、『武江年表(安政四年)』(『定本武江年表下』p94~p95)に、「七月九日より六十日の間、深川浄心寺に於て甲州身延山祖師七面宮開帳(参詣群集し、毎朝未明より開門を待て参詣す。講中の輩、神事の時持ち出る万度といふものゝ如く、思い思いの行燈をつくり、燈火を点じてこれをかつぎ、群をわかちて一様の衣類を着し、太鼓を打、題目を唱へて往来する事たへず)」と記されているのです。つまり、傘蓋の下に御本尊があって、赤い玄題旗の影に隠れる深川浄心寺での御開帳に向かう一行とそれを出迎える日蓮宗徒の金杉橋上での喧騒を描き上げているのです。なぜ金杉橋かと言えば、日蓮宗派の金杉毘沙門堂(正伝寺)が近隣しており(『江戸名所圖會』巻之一、『新訂江戸名所図会1』p286)、幕府に忖度して、浄心寺で騒ぐ様子を表現することを避け、浄心寺に向かう一行を金杉橋(正伝寺)で出迎える様子を写すことに変えたからです。72「浅草川大川端宮戸川」に描かれた職人達の大山詣においても、各講の間での激しい喧嘩沙汰が実際にあり、その話題が先の作品制作の動機として意識された可能性がありますが、商人達に熱狂的に信仰された日蓮宗の喧騒にも同様な話題性と版行動機があって本作品が生まれました。

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