72 浅草川大川端宮戸川
安政4年7月(1857)改印
隅田川は、千住大橋の上流では「荒川」と呼ばれ、浅草(浅草寺)・吾妻橋辺りでは「浅草川」、両国橋辺りでは「大川(端)」、日本橋川(小網神社)辺りでは旧名として「宮戸川(みやとがわ)」と呼称されました(『絵本江戸土産』初編図版「宮戸川吾妻橋」)。本作品は、両国橋(大川端宮戸川)から吾妻橋(浅草川)方向を眺める構図で、遠景に筑波山がありますが、実際にはもっと北東(右)方向に位置しています。
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近景拡大の構図によって、前景左側には多くの御幣を付けた梵天と呼ばれる神事の道具が描かれ、同じものが右側の船上にも見えており、舳先の人物は法螺貝を吹いています。『江戸名所圖會』巻之一の図版「両国橋・部分図」(『新訂江戸名所図会1』p132)にも見えるように、橋下の大川で水垢離した一行が大山詣に出発する儀式を描くものなのです。『東都歳事記』巻之二(『新訂東都歳事記上』p269)には、「相州大山参詣の輩、(六月)二十五日の頃より江戸を立つ」、「石尊垢離取り(大山参詣の者、大川に出でて垢離を取り、後禅定す)」とあります。
では、単純に安政4年7月(1857)改印作品として、時期柄、6月末の大山詣の庶民風俗をのみ写すものなのでしょうか。本作品制作の前資料である『絵本江戸土産』6編の図版「両国柳橋料理屋會席」は、柳橋の袂にあった料亭を中心とする構成となっており、有名な「万八」も当地にありました。たとえば、広重『江戸高名会亭盡 柳橋夜景 万八』(藤岡屋彦太郎・天保3~5年参照)の書き入れには、「神田川の末流 既に大川へ出る方に架たるを柳橋といふ この辺料理や多く 殊に両国に近くして常だも賑はふ 況(まいて)夏月の納涼 また秋冬にいたり 海川の漁舩多く この所より出る」と記されています。江戸百作品の前景に見える梵天の背後に描かれている建物が、その万八に当たります。つまり、江戸百作品は、大山の山開きの6月27日の数日前、垢離取りをした一行が大川を両国橋を歩いてあるいは船で渡る様子を描きつつも、その先にあった柳橋の料理屋万八などの名店宣伝を意図し、さらに霊鷲山たる筑波山の遠望風景を重ね、聖俗の名所が重層する名所風景を紹介しているのです。
大山詣が、鳶、左官、大工などの職人に大いに流行ったことを考えると、安政地震からの復興景気の一番の享受者を描き、勢いを取り戻しつつある世情をよく表しています。一方で、この年、両国の花火の打ち上げが行われていない事実と突き合わせれば、梵天の飾りを花火に見立てたとも言えましょうか。なお、柳橋と新吉原との間を猪牙船が走り、両国の東西を水垢離のための船などが往復し、その基点に柳橋および料亭万八があるという構造は頭脳的です。
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