45 蒲田の梅園
安政4年2月(1857)改印
「蒲田」は東海道品川宿から京に向かう(上る)途中の大森の南に位置し、品川より1里半程の近距離にあります(『東都近郊全圖・部分図』参照)。『絵本江戸土産』2編の図版「蒲田の梅園」には、「この辺すべて梅園多し 春如月の頃にいたれば 清香四方に馨(かんば)しく 紅白宛(あたか)もさらさの如く 実に遊観の勝景なり」との書き入れがあります。構図的には、江戸土産作品の右半分程を切り抜いた形式で、そこに近景拡大の技法を応用して駕籠を描き加えています。この駕籠挿入の意図が本作品読み解きの鍵となります。
その前に、本作品の「蒲田の梅園」について触れると、現在でも大田区「聖蹟蒲田梅屋敷(公園)」としてその一部が残っており、その「梅屋敷の由来」の説明によると、『梅屋敷は、山本忠左衛門が和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地三千坪に、その子久三郎が文政の頃(1818-29)に、梅の木百本をはじめとしてかきつばたなどの花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたことに始まるといわれています」とあります。もともと「和中散」は近江国梅ノ木村では、庭内に梅の木を植え、茶屋を設けて足を休める客に和中散を売る商法を採っていたので、その形式を久三郎が真似たことが分かります。したがって、本作品は一見すると梅の香の漂いを紅色のぼかしで表現し、それを楽しむ人々が池、茶屋、四阿屋(あずまや)周辺を散策している名所絵と感じられますが、梅園が実は和中散の売薬所でもあることを知れば、和中散の販売広告であると知ることになります。安政4年2月(1857)改印は、まさに梅の開花時期に当たり、それを機縁として和中散の広告を打ったと理解されます。なお、画中に2つの石碑が見えますが、これも久三郎の句碑です。
江戸百作品に描かれた藍染めの座布団を敷く駕籠に話を戻すと、東海道から駕籠を走らせてきた客が駕籠の屋根に上着をひょいと載せ、駕籠を待たせての梅見と洒落込んだ様子に見えますが、先客を描くことによって、他の客足を蒲田の梅園に向けさせようとの広告効果を狙った仕掛けなのです。近景の駕籠がまるで宙に浮いているように見える構図上の不自然さは、広重の遠近法の未消化な部分であり、深い意味はないと思われ、本シリーズの他作品にも時々あることを指摘しておきます(03「芝うらの風景」等)。
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