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84 深川八まん山ひらき

安政4年8月(1857)改印
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 題名にあるとおり、富ヶ岡八幡宮の山開きを描く作品です。『絵本江戸土産』二編の図版「富ケ岡八幡宮」の書き入れには、「この宮居 始めは砂村の海浜 俚俗元八幡と唱る地にありしを 寛永の頃 長盛法印といふもの 示現によりてここにうつす」とあり、また図版「其二同所山開」の書き入れには、「富が岡の別当の園中 景色いたつてよし 常には見することなし 年々山開き時にあたりて縦に遊覧背しむ」とあり、山開きは、富ヶ岡八幡宮・別当永代寺の林泉を一般公開する意であることが分かります。永代寺は正式には「別当大栄金剛神苑永代寺」なので、その山開きということなのでしょう。

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 山開きの時期に関し、『江戸名所圖會』巻之七(『新訂江戸名所図会6』p28)は、3月21日から同28日まで、弘法大師の御影を祀って供養するため永代寺の林泉を開くとあるのに対して、『東都歳事記』巻之一(『新訂東都歳事記上』p158)は、3月21日から4月15日まで庭中見物許すとあり、時代が下って期間が延びたようです。これに対応して、広重は近景に春の桜、遠景に夏のつつじを描き、2つの季節感を取り込んだ林泉を写すという特殊な構成を採っています。さらに興味深いのは、遠景に「深川富士」と呼ばれた富士塚が描かれ、頂上までの道も丁寧に描写されている点です。もともとは甲(兜)山という築山で、江戸土産作品ではまったく目立ない表現なのとは対称的で、江戸百を見た人は、山開きとは社地に築造された深川富士の山開きと観念したに違いありません(『絵本江戸土産』九編の二代広重図版「深川八幡富士」参照)。幕末に至っての富士講の興隆を広重が意識的に作品に取り込んだということでしょう。ただし、富士山(富士塚)の山開きは6月1日です。

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 『武江年表(安政二年)』(『新訂武江年表』p71)によれば、安政地震によって、「富岡八幡宮恙なし。別当永代寺は、大方潰れたり」とあり、別当永代寺、三十三間堂、さざえ堂などの建物の倒壊大破という一連の被害が確認できます。他方、『武江年表(安政四年)』(『新訂武江年表』p92)は、4月1日から2ヶ月間永代寺で行われた常州真壁郡大宝八幡宮の出開帳を記録しており、少なくとも出開帳ができる程の永代寺の復興が窺われます。山開きの時期にも重なり、広重作画の動機に影響を与えたかもしれません。しかしながら、安政4年8月改印作品としての版元的版行の動機はまた別にあったと思われます。先に引用した図版「富ケ岡八幡宮」の書き入れには続きがあって、そこには「深川の総鎮守にして祭礼八月十五日 四時(しいじ)の群参たゆる時なし」と記されています。つまり、本作品は、販売戦略的には、8月15日の秋の祭礼に向けてのものと位置づけられるということです。

 なお、前掲『江戸名所圖會』(前掲書p28)には、「当社門前一の華(とり)表(い)より内三、四町が間は、両側茶肆(ちやや)・酒肉(りようり)店(や)軒を並べて、つねに絃歌(げんか)の声絶えず。ことに社頭には二軒茶屋と称する貨食屋(りようりや)などありて、遊客絶えず。牡蠣(かき)・蜆(しじみ)・花(はま)蛤(ぐり)・鰻魚麗魚(うなぎ)の類をこの地の名産とせり」とあって、有名茶屋・料理屋が門前に賑わいを見せている常が記されています。広重作画の山開きの作品を版元が秋の祭礼時に版行する理由は、これらの営業的効果を念頭に置いていることは間違いなく、さらに7月9日より60日間、深川浄心寺において甲州身延山祖師七面宮の出開帳があるのですから、この時期の深川は大盛況です。広重の深川に関連する作品群は、これら深川の各種各様の行事によって、被災から復興する当地に花を添えるものとして作画版行されたと考えられます。

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