« 82 月の岬 | トップページ | 84 深川八まん山ひらき »

83 深川三十三間堂

安政4年8月(1857)改印
Meishoedo100_83
 『絵本江戸土産』二編の図版「深川三十三間堂」の書き入れには、「京都の蓮華王院を摸(うつ)すとかや 徹(とお)し矢を射てその芸を試むること 京の三十三間堂のごとし」とあります。京都のそれと同じく、南北66間(120m)、東西4間(7m)の四面が縁で囲まれた造りで、その西側の軒下で通し矢が行われていました。DVD『江戸明治東京重ね地図・永代橋木場』を参照すると、富ヶ岡八幡宮・永代寺の東側に近接していることが分かります。その富ヶ岡八幡宮では流鏑馬が行われていたので、射術稽古の施設として共に関連しています。浅草での建立、その後の移転の経緯につき、『江戸名所圖會』巻之七(『新訂江戸名所図会6』p28~p29)参照。堂の東側に掛け茶屋が置かれ、その裏手は材木市場の木場という位置関係が本作品から確認されます。

Map8359
 重要な情報として、『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p71)に、「三十三間堂、三分の二潰る」とあって、安政地震の被害を受けていることです。その後(明治5年)解体され、本尊の千手観音は深川の正覚寺に移されたそうです。被災の事情を勘案すると、本作品で建物の全てが描かれていないのは、地震によって建物が倒壊していたからという見解(原信田『謎解き 広重「江戸百」』189頁)がありますが、江戸土産作品において、既に横絵として部分が描かれているので、それを縦絵に変更しただけと言うこともできます。つまり、倒壊の有無ではなく、80「五百羅漢さざゐ堂」の版行作意図と同様、深川のランドマークとして別のメッセージがあって、三十三間堂を描いたと考えられるということです。

83edomiyage
 前掲「五百羅漢さざゐ堂」の場合は、7月9日からの深川浄心寺の出開帳が係わっているという考えでしたが、「深川三十三間堂」はその南側に位置しているので、この出開帳の話題が同様に動機にあると見ることができます。また、前掲重ね地図で確認したように、三十三間堂が富ヶ岡八幡宮・永代寺に近接している地理関係を前提にすれば、8月15日の深川八幡の祭礼と深く関連があることも当然推測されます。したがって、江戸百作品は、84「深川八まん山ひらき」と一体となった作品構成の中で理解すべきと思料します。もちろん、広い意味では、被災から復興する深川地域を盛り上げようとの意識であることは否定しません。

|

« 82 月の岬 | トップページ | 84 深川八まん山ひらき »

名所江戸百景」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 82 月の岬 | トップページ | 84 深川八まん山ひらき »