77 吾妻橋金龍山遠望
安政4年8月(1857)改印
吾妻橋、金龍山(浅草寺)、富士山を遠望する構図および隅田川の中洲の描写から、今戸橋(山谷堀)と対岸隅田堤(三囲稲荷)を船で繋ぐ「竹屋ノ渡」辺りからの眺望かと推測できます。近景拡大の画法によって描かれる屋根船には芸者姿が想像でき、今戸橋周辺の船宿・料理屋から隅田堤の桜見物に出かけるか、あるいはその帰りの様子と見えます。画面に散らされる花吹雪も隅田堤の桜を暗示するものです。本作品の制作意図を考えるに当たって、『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p69~p70)の安政地震に関する、「今戸橋畔拍戸(りようりや)金波楼(玉屋庄吉)、潰れて火起り、近隣類焼せり」という記事は重要です。風光が勝れることを紹介するだけではなく、今戸橋界隈が被災から再興し旧に復した様子を祝福しており、本作品には広重の愛情さえ感じられるからです。
では、広重が具体的に何に愛情を示したのかを読み解いてみましょう。まず初めは、安政大地震で潰れた料亭屋金波楼・玉庄(広重『江戸高名會亭盡 今戸橋之圖玉庄』藤岡屋彦太郎・天保後期・1835-42参照)跡に、安政3年、堀(山谷堀)の芸者お菊が女将となって有明楼(ゆうめいろう)を開業し、「豪士冶郎此の樓に一酔せざる者無し」(成島柳北『柳橋新誌』岩波文庫・1940、p40)と言われるほどの成功を収めたことです。お菊は、芸者時代、浅草猿若町の芝居小屋の人気役者澤村訥升のみならず、東本願寺の法主にも贔屓され、恋の鞘当ての主人公になった話題の人物でした(堀口茉純『EDO-100 フカヨミ!』p21)。次に、DVD『江戸明治東京重ね地図・浅草両国』を参照すると、金龍山を基点に、その前方には猿若町の芝居小屋、その後方には東本願寺が位置し、芸者の乗る屋根船からの視線が直線上に並ぶという意味深な構成を採っていることが分かります。つまり、本作品は、有明楼の女将となって活躍するお菊の芸者時代に焦点を当て、その門出を桜吹雪で祝うもので、そこに広重の愛情が示されていると思われるのです。86「真乳山山谷堀夜景」にはお菊の女将姿が描かれており、名所絵師広重にしては大変珍しいことであって、その点を勘案しても、本作品は気心知れたお菊への祝意の1枚と読み解きたいと思います。
ではなぜこの時期の版行に至ったかというと、以下の事象と関係があると推測されます。すなわち、原信田『謎解き 広重「江戸百」』(131頁以下)は、『武江年表(安政四年)』(『定本武江年表下』p94)が、娼家の仮宅での営業が6月に終わり、新宅(新吉原)に引き移ったことを記しているのを受けて、船を仕立てた娼家の一行が吾妻橋と今戸橋から上陸した際の行装(こうそう)(『藤岡屋日記第七巻』p569以下参照)を広報する作品と評価していることです。ただし、屋根船に遊女の姿はなく、具体的に新吉原を暗示する記号を見つけることはできない点で、新吉原再開の行装は今戸橋(山谷堀)の料理屋などの繁昌に影響を与えるという意味で、この時期の制作動機に並行的に作用した可能性は十分にありますが、既述したように、直接的意図は別にあるものと思われます。
*『柳橋新誌』の草稿は、安政6年から万延元年(前掲書p95)。
| 固定リンク
「名所江戸百景」カテゴリの記事
- 江戸百の作品構成の要諦(2024.12.15)
- 120 「江戸百景目録」(2024.12.14)
- 119 赤坂桐畑雨中夕けい(2024.12.14)
- 118 びくにはし雪中(2024.12.14)
- 117 上野山した(2024.12.13)
コメント