29 浅草川首尾の松御厩河岸
安政3年8月(1856)改印
浅草辺りを流れる隅田川を「浅草川」と呼び、その浅草にあった幕府の御米蔵の四番堀と五番堀の中間埠堤(ふてい)にあった大きな松が「首尾の松」で、その上流に「御厩河岸之渡」がありました(DVD『江戸明治東京重ね地図・浅草両国』参照)。幕府の厩があったことがその名の由来です。『絵本江戸土産』7編に図版「首尾の松大川端椎の木屋舖」には「隅田川の末流 吾妻橋と両国橋の中間 西の岸にあり 一株の古松屈曲なし 枝は水面に垂(たれ)て遠望すれは 龍の蟠(わだかま)るにも似たり」と書き入れられています。
なお、「首尾の松」の謂れについては諸説ありますが、本作品をよく見ると首尾の松の対岸に森が描かれており、それは、平戸新田藩松浦氏の屋敷の先にある、椎の木の森(「嬉の森(うれしのもり)」)なのです。江戸土産作品の題名にも「椎の木屋舖」とあるので、広重が意識していたことは間違いありません。この森に関して、『墨水銷夏録』(三谷一馬『江戸吉原図聚』中公文庫・1992、p67)は、「松浦邸の椎の木を、嬉の森といふは、吉原通ひの人、舟にて帰るに、此所にて暁なれば、帰るに首尾もよく、嬉しといふより名づけたるなり、向うの岸の松を、首尾の松といふも、これと同じ」との説明が参考になりましょう。
江戸百作品には、近景に屋根船、首尾の松、埠堤の竹垣、中景に御厩河岸の渡し舟、椎の木(森)、遠景に吾妻橋、上空の星空がそれぞれ浅草川を軸に描かれています。安政地震という文脈に置けば、浅草・本所一帯は大きな被害を受けた場所なので、近景・中景に注意を惹き付け、遠景の吾妻橋から隅田川東岸に広がる地域への関心を減らす工夫と捉え、また宵の時間帯として暗闇と星空によって景色全体を曖昧にしているという読み解きが導き出せます。しかしながら、狂歌仲間との付き合いを大事にしていた広重が、名所の核心に、見立て・掛詞・機知・頓知などの狂歌的発想を置いていたとするならば、別の読み解きが可能です。すなわち、屋根船の舳先に2足の下駄があることから、松のある辺りに屋根船を舫(もや)いつけ、何か用事をこしらえた船頭が陸に上がっている間に、首尾の松に掛けて、札差商人の客と柳橋芸者との船中で「しっぽり首尾をする」情景を想像することも自由であるということです。屋根船の青簾には、初摺りでは女の頭と肩が草色の影法師となって見えるはずですし、後摺りでは明らかに黒々とした影が浮かんでいます。つまり、版元の意図は別として、広重は「首尾の松」と屋根船での「男女の首尾」とを掛け、これこそがここの名所であると読み解いて作画しているのです。
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