27 廣尾ふる川
安政3年7月(1856)改印
玉川上水は、甲州街道最初の宿場町内藤新宿の南側の町家裏を開渠の素掘りを流れ、四ツ谷大木戸の水番所からは石樋を地中に埋めて、暗渠で、1つは江戸城、2つは北方番町方面、3つは平河町・永田町を経て虎ノ門方向に流れています。余水は、大木戸から内藤駿河守の屋敷を通って流れ、上流では渋谷川、広大な野原のあった広尾辺りでは古川、下流では新堀川と名を変え、増上寺の傍らを経て、金杉橋から江戸湾に注ぎます。『絵本江戸土産』7編に図版「麻布古川相模殿橋廣尾之原」があり、「江都第一の郊原にして 人のよく知る所なり されば 四時艸木の花更に人力を假らずといへども 自然咲つづき 月の夜しがら古の歌に見えたる武蔵野の気色は これかと思ふばかり寂寥として餘情深し」との書き入れがあります。古の武蔵野の荒寥とした情緒を思い起こさせる原野の名所として採り上げられているようです。
DVD『江戸明治東京重ね地図・三田高輪』と対照すると、本作品は、古川に架かる相模殿橋(四ノ橋)の下流から上流方向に視線を採る構成で、遠くに桜が咲いています(光林寺か天現寺?)。橋の右が麻布台、左が白金台に相当します。橋の袂にある2階建ての料理屋は、狐鰻で有名な蒲焼きの「尾張屋」です。11「品川すさき」を読み解く際、洲崎の風光は料亭「土蔵相模」から見てこそが第一であると分析しましたが、本作品においても同様の思考で、広尾の江都第一の郊原の景は、料理屋「尾張屋」にてこそ楽しむべしと解釈することになりましょう。尾張屋についての情報は、原信田『謎解き 広重「江戸百」』(p169)が、「広重が初めて描く場所だが、狂歌仲間の推挙が働いているようである」と述べるとおりでしょう。『絵本江戸土産』七編の図版「再出 御殿山當時のさま」で描き直しがあり、安政3年5月の序文のある『狂歌江都名所圖會』九編に広重自身が品川の狂歌を載せていることから、広重が狂歌仲間と品川旅行した体験が想起されるのですが、本作品の元絵である「麻布古川相模殿橋廣尾之原」が『絵本江戸土産』の品川と同じ7編に掲載され、また『狂歌江都名所圖會』十二編に「狐鰻」の店が狂題となっている事実を考えると、本作品の作画動機に狂歌仲間からの何らかの情報があったとしても不思議ではありません。いずれにせよ、パブ記事風の営業宣伝臭がします。
地震からの復興や幕府の動静から全く離れ、狂歌仲間が物事を滑稽に捉える感性と同じ様に江戸の名立たる要素を江戸百に読み込んでいるのではないかと思われます。たとえば、「廣尾ふる川」が名所なのは、風光だけではなく、実は「狐鰻」の店にあるという諧謔性です。相模殿橋の右奥には毘沙門天(虎)を祀る「天現寺」があり、その参詣客が狐鰻に立ち寄り大繁盛しているのですが、それはまさに「虎の威を借る狐」だと揶揄しているとも考えられます。
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