安政4年8月(1857)改印
本作品と関連する江戸百作品は2つあって、1つは、30「隅田川水神の森真崎」で本作品とは描写の視点を逆に採っています。もう1つは、58「隅田川橋場の渡かわら竈」で、本作品の南に位置する橋場の渡からの眺めです。本作品の特徴は、近景拡大の画法を応用し、半円形の窓越しに水神社の鳥居、その背後の「水神の森」にあって隅田川に流れ込む「内川」、かつて関所があったことに因む「関屋の里」、そして筑波山が描き込まれているところにあります。近景拡大の画法は実景というよりはイメージ性を強調するものなので、近景にどうのような構想があり、遠景とどう関連しているかを考えることが読み解きのポイントです。
題名「真崎辺」と言えば真崎稲荷が有名であり、窓越しに見える白梅は初春を表しますから、稲荷神社へ2月の初午行事が思い浮かびます。『江戸名所圖會』巻之六(『新訂江戸名所図会5』p403)によれば、「この社前は、名にしおふ隅田川の流れ溶々として昼夜を捨てず、食店(りようりや)・酒肆(さかや)の軒端は河面に臨んで、四時の風光を貯(たくわ)ふ」とあります。この観点から、本作品は、真崎稲荷社前の料理屋・酒屋の丸窓から見た風景ということが推測されます。また画面の左側を見ると部屋に椿の白い花が花瓶に挿してあることに気付きます。DVD『江戸明治東京重ね地図・橋場隅田川』を参照すると、真崎稲荷の南側に「妙亀山総泉寺」とあって、椿の名所であることが確認されます。椿の花はこの総泉寺の暗号であった訳です。総泉寺はその山号からも分かるように、「梅若伝説」に有名な梅若丸の母が出家して妙亀尼と称して、梅若丸の菩提を弔うための庵を結んだことに由来すると言われています。
他方、題名「水神の森内川」と言えば、そこは木母寺が所在します。『絵本江戸土産』初編の図版「木母寺料理屋御前栽畑内川」には、「この寺内に梅若の塚あり 毎年三月十五日念仏供養をなす 境内名高き料理やありて四時賑わう 北にあたりて御前栽畠というあり 此所に作りし松多くありて 尤美景いふばかりなり」との書き入れがあります。つまり、隅田川西岸には妙亀尼の庵、東岸にはその子梅若丸の塚があって、対を成し、その間に真崎の料理屋の半円形の窓があるという位置関係において江戸百作品は構成されています。したがって、窓の外側の白梅は真崎稲荷の初午の行事を暗示するに止まらず、木母寺の梅若丸の記号、窓の内側の白い椿の花は総泉寺の妙亀尼の記号であり、その間の灰(墨)色の丸窓は隅田川、障子は橋場(隅田)の渡を象徴するものとして挿入されているというように読み解けます。さらに、題名「関屋の里」は関所を意味する地名ですが、梅若丸を欺して東国に連れ下った人買い商人「陸奥の信夫藤太」を意識しているのか、あるいは関屋の向こうに霊鷲山筑波山が見えることによって、妙亀尼・梅若丸両人の彼岸での冥福を表現しているのかもしれません。
江戸百作品は、「真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図(風景)」に「梅若伝説」の情緒を採り入れて名所絵として再構成したものと考えられます。版元的には、真崎稲荷の社前も、木母寺周辺も多くの料理屋が軒を並べる所なので、そこに客を誘う営業目的は明らかで、一連の安政4年8月改印作品と同じく、中秋の行楽を狙った宣伝作品と考えられます。なお、真崎には、田楽で有名な甲子(きのえね)屋(や)があり(三代豊国・広重『東都高名會席盡 隅田川真崎 惣ろく』嘉永6年正月・1853)、当時、真崎稲荷の料理屋に顔を出して、吉原に行くという遊興のコースが想定されていたそうです。それに対応したのか、空や山際のぼかしや雁の飛ぶ姿は夕方が近いことを示しています。
資料
*木母寺縁起(『江戸名所圖會』巻之七:『新訂江戸名所図会6』p236~p237)
梅若丸は洛陽北白川吉田少将惟房(これふさ)卿の子なり(春待ち得たる梅が枝に咲き出でたりし一花のここちすればとて、梅若丸と号くるなりとぞ)。比叡の月林寺に入りて習学せり。ある時、梅若丸は潜かに身を遁(のが)れて北白川の家に帰らんとし、吟(さま)ふて大津の浦に至る。頃は二月二十日あまりの夜なり。しかるに陸奥の信夫藤太といへる人商人に出であひ、藤太がために欺かれて、遠き東の方に下り、からうじてこの隅田川に至る。時に貞元元年甲子(976)三月十五日なり。路のほどより病に罹り、この日つひにここにおいて身まかりぬ。いまはの際に和歌を詠ず。
訪ねきてとはばこたえよ都鳥すみだ河原の露と消えねと
このとき出羽国羽黒の山に、下総坊忠円阿闍梨とて貴き聖ありけるが、たまたまここに会し、土人とともに謀りて児の亡骸を一堆の塚に築き、柳一株を植ゑて印とす。翌る年の弥生十五日、里人集まりて仏名を称へ、児のなき跡をとむらひ侍りけるに、その日梅若丸の母君(花御前、後に薙髪して妙亀尼と号く)、児の行衛を尋ね侘び、みづから物狂をしてき様して、この隅田川に吟ひ来り、青柳の陰に人の群れゐて称名せるをあやしみ、舟人にそのゆえを問ふ聞きて、わが子の塚なることをしり、悲嘆の涙にくれけるが、その夜は里人とともに称名してありしに、その塚のかげより梅若丸の姿髣髴として、幻の容を現し、言葉をかはすかと思へば、春の夜の明けやすく、曙の霞とともに消えうせぬ。母は夜あけて後、忠円阿闍梨に見(まみ)え、ありしことどもを告げて、この地に草堂を営み、阿闍梨をここにをらしめ、常行念仏の道場となして、児の亡き跡をぞ弔ひける。
*妙亀山に関係のある場所(『江戸名所圖會』巻之六:『新訂江戸名所図会5』p414~p417)
「妙亀山総泉寺」、「浅茅原」、「妙亀塚」、「鏡が池」、「袈裟懸け松」など。
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