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89 王子不動の瀧

安政4年9月(1857)改印
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 石神井(しやくじい)川は滝野川とも呼ばれ、王子権現の麓では音無川と名を変えますが、不動の滝は、滝野川辺りに流れ落ち、南岸の正受院(滝不動)の川下にあります(DVD『江戸明治東京重ね地図・王子飛鳥山』参照)。川で見つかった不動尊を祀ったことが名前の由来とされています。滝壺の切石から跳ねる水で霧が立ち込めたようだったと言い、病気治癒などの信仰の対象となっていました。元絵と思われる、『絵本江戸土産』四編の図版「不動の滝」の書き入れには、「この所 後は石神井川に臨む 弘治年中 和州の沙門学仙房 この傍に庵を結び不動の法を修す 後に霊像を感得すといへり」とあります。

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 87「王子稲荷の社」、88「王子装束ゑの木大晦日の狐火」が春冬であるのに対して、本作品は夏の滝垢離・水垢離あるいは納涼の様子を描き、季節的な描き分けによって、王子一帯が、季節を問わず行楽の名所であることを表現する意図と思われます。竪絵の特徴を存分に利用して滝の水を一条に表現し、かつ左右対象にぼかしを入れた摺技が目を引きます。江戸百作品は、概して縦に引き延ばさる傾向にあるので、実際には、これ程高さのある滝ではないはずです(「広重あるある」)。

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 江戸百作品には、休憩のための茶店も見えますが、王子周辺には神社仏閣はもちろん、酒屋・料理屋・茶店など多くの施設があって、版元的には、安政4年9月改印の時期、すなわち晩秋から年末の「ゑの木大晦日の狐火」、「王子稲荷」の初午詣り、不動尊の滝垢離・水垢離といった一連の風俗を採り上げて、季節を問わない行楽地・王子界隈に目を向けさせようという趣向でしょう。

 なお、不動の滝が流れ落ちる滝野川はその名のとおり多くの滝が流れ込む場所で、このような場所は滝の女神の霊地とされるのが普通です。にもかかわらず、火の眷属である不動明王の名を冠しているのには理由があります。たとえば、「瀬織津姫(せおりつひめ)」などの滝の女神は日神との和合神とされるので、男神たる日神に目を向け、その本地である大日如来の眷属不動明王に習合して祀られるのです。したがって、各地の滝が不動の滝と呼ばれることや滝近くに不動明王が祀られることは決して少なくありません。王子の不動の滝にも川筋で不動明王の像が見つかった伝承があるので、古において滝の女神が和合神として祀られてきた歴史があったことが推察されます。

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88 王子装束ゑの木大晦日の狐火

安政4年9月(1857)改印
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 本作品は、87-118「王子稲荷の社」と一体となった作品と考えられます。『江戸名所圖會』巻之五(『新訂江戸名所図会5』p181)には、『王子権現縁起』の引用があり、毎年大晦日の夜に、各地の稲荷神の使者(命婦)が、王子稲荷社に集まって来るとあります。その際、灯せる火の連なり(狐火)は松明や蛍の飛翔のようであり、その様子の相違によって明年の豊凶を知ることができるということです。そして、命婦が装束を整える場所に一本の大榎があって、それを描いた図版「装束畠 衣装檟(えのき)」(『新訂江戸名所図会5』p184~p185)の掲載があって、それが江戸百作品の元絵と考えられます。DVD『江戸明治東京重ね作品・王子飛鳥山』にも、「大晦日、関八州ノ狐共二万匹余、来リテ衣装ヲ改ム」と記載される程の名所です。なお、命婦の装束姿は人には見えないということで、江戸百作品でも素の狐の姿のままです。いずれにしろ、江戸百作品は実景図ではなくて、構想図あるいは想像図なのですが、特別視する必要はありません。今までも、どの作品にも絵空事的要素は少なからずあり、表現に味わいを出すものとして有用に使われていました。

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 広重の名所絵は、絵師の目に見えるままに描くものではなく、たとえば、本作品の場合は「王子権現縁起」(装束榎伝説)など見えない世界・物語の舞台として作品表現しているものであって、多くの場合は、その舞台裏の事情はを描かず、作品を見る者が知っていることを前提としているということです。本作品の場合は、極めてまれなことですが、その見えない部分(装束狐伝説)を描き加えているのです。この強力なイメージに引きずられて、前掲「王子稲荷の社」(あるいは後掲「王子不動之瀧」)が安政4年9月改印作品として同時版行されていると解するべきなのです。都下から離れており、年末にかけては客足が落ちる王子稲荷、王子権現辺りの料理屋・酒屋・茶屋などを、本作品の視覚効果によって、大いに盛り上げようという版元的魂胆もあるかもしれません。なお、江戸百の目次では、本作品がシリーズ最後を飾るものとなっています。

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 ちなみに、多くの滝のある王子界隈には、本来、滝を司る女神の霊地があってもおかしくないのですが、稲荷の神とは言え、「王子稲荷の社」に女神(天女)が祀られ、「王子装束ゑの木大晦日の狐火」伝説があって、全国の命婦が集まってくることの背後には、消えてしまった古の記憶が隠されているのではと感じられます。

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87 王子稲荷の社

安政4年9月(1857)改印
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 王子界隈の作品としては、すでに09「王子瀧の川」、44「王子音無川堰埭世俗大瀧ト唱」がありましたが、さらに本作品も含め計3点の浮世絵が続き、春夏冬の季節をそれぞれ描き分けています。王子稲荷社は関八州の稲荷の総元締で、除災、開運、商売繁盛の神として有名でした。『絵本江戸土産』4編の図版「王子稲荷社」には、「むかしはこれを岸稲荷といへり 本殿蒼稲魂神(うがのみたまのかみ)也 霊応新なるによりて参詣日々に絶えず」と書き入れられています。江戸土産作品が、「此辺茶屋」(DVD『江戸明治東京重ね作品・王子飛鳥山』参照)とある神社の東入口方向から見上げているのに対して、江戸百作品は視線を反対にとっており、画面左手に鳥居の一部が見え、そこから石段を上がった高台に本殿があります。茶屋などの建物の向こうに梅の花が見えていて、「正一位王子稲荷大明神」の幟が描かれていないのが気になりますが、2月の初午の頃を描いていると思われます。建物のさらに背後は田園風景が広がり、遠方に筑波山が覗いています。

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 『江戸名所圖會』巻之五(『新訂江戸名所図会5』p188)によれば、「月ごとの午の日にはことさら詣人群参す。二月の初午にはその賑はい言ふもさらなり。飛鳥山のあたりより、旗(さか)亭(や)・貨食舗(りようりや)、あるいは丘に対し、あるいは水に臨んで軒端をつらねたり。実にこの地の繁花は都下にゆづらず」とあります。この点を踏まえると、版元的には、初午の画題に引っ掛けて、安政4年9月(1857)改印以後年末に向けて、王子稲荷社周辺の酒屋や料理屋への遊客を誘う宣伝と捉えることが可能です。88「王子装束ゑの木大晦日の狐火」という名作と同時版行なので、合わせて王子界隈の味わいを伝える趣向と推測されます。

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 では、広重の作画意図はどこにあるのでしょうか。1つは、江戸土産作品とは異なった視点で作品を構成することです。もう1つは、同「王子装束ゑの木大晦日の狐火」は決して名所絵の範疇には収まらない想像図なので、「王子稲荷の社」という形で(あるいは89「王子不動之瀧」も含めて)、現実の名所案内作品を描かざるを得なかったのではないでしょうか。「王子稲荷の社」において、王子村の畑野の中に目立つ木立が見えますが、この辺りが「王子装束ゑの木」の実景なのかもしれません(重ね地図参照)。つまり、「王子稲荷の社」と「王子装束ゑの木大晦日の狐火」は対を成し、一方が実景図、他方が想像図と棲み分けながら、合わせて1つの名所絵構成を採っているという理解です。

 なお、稲荷の起源神話に登場する宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)は、別名「専女御饌津神(とうめみけつのかみ)」と呼ばれ、その専女の意味するところは老女であり、女神の尊称です。ここに、仏の眷属であり、白狐に乗る天女の姿をする荼枳尼天(だきにてん)が習合されると、私達のよく知る「お稲荷さん」(専女三狐神)が誕生します。したがって、「王子稲荷の社」には、「王子装束ゑの木大晦日の狐火」に描かれているように、全国の稲荷神社から狐の化身の命婦(みようぶ)(命婦は位階を持つ女性)が報礼に集まってくることになるのです。

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86 真乳山山谷堀夜景

安政4年8月(1857)
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 船で隅田川を利用して新吉原を目指した場合、山谷堀で船を降りて、日本堤を駕籠が徒歩で向かいます。そのため、山谷堀に架かる今戸橋の周辺には、船宿と新吉原に向かう前の景気づけとして料理屋・茶屋などが発展しました。本作品は夜景ですが、背後の隅田川に参集する屋根船の影が多く描かれ、今戸橋の掛かる山谷堀に向かっているのが分かります。そして、その橋の両側の高級料理屋から明かりが漏れ出ている様が描写されています。橋の南詰め背後の小高い山が真乳山です。この真乳山には、商売繁盛、無病息災、夫婦和合などにご利益のある聖天宮(しようてんぐう)があります。『絵本江戸土産』初編の図版「隅田川真乳山の夕景」には、「真土山夕越(こえ)くれば庵崎(いおさき)と むかしの人の詠じけん東都に名高き勝地にて この辺すべて旧跡多し」とあります。江戸百作品の背景は、この図版が元絵と考えられます。

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 本作品で一番気になるのは、背後の景色ではなく、画中左側に立つ女性で、美人絵という範疇からは離れ、リアルな人物像と感じられます。DVD『江戸明治東京重ね地図・橋場隅田川』を参照すると、竹屋の渡しを利用して三囲神社のある東岸にやってきたことが推測され、近景と遠景をイメージで繋げる広重の近景拡大の画法を考慮すると、対岸の今戸・山谷堀の船宿や料理屋の関係者と想像されます。地味な着物姿に、右手で褄を持つ仕草は芸者ではありません。

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 広重は、先行する作品『東都高名會席盡』や『江戸高名會亭盡』では、山谷堀あるいは今戸橋の会席亭として「玉庄」(金波楼)を紹介しています。この玉庄は、『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p69~p70)によれば、安政地震で潰れ、火災を起し、近隣を類焼し、その後再建されることもありませんでした。翌年、このような山谷堀の経済停滞の中、玉庄の跡地に、かつて堀の芸者であった女性が店の主人として「有明楼(ゆうめいろう)」を興しました。その名を「お菊」と言いますが、どうやら、本作品の女性は、この実在のお菊を描いたものと思われます。今戸橋の北詰めの明かりが有明楼の場所で、その対岸に立つ女性がその女主人お菊というのはもっとも納得できる絵組です。芸者姿でなく、店の女将と考えれば、地味な着物姿もあり得ます。なお、77「吾妻橋金龍山遠望」は金龍山背後の東本願寺の法主と猿若町の歌舞伎役者沢村訥升(助高屋高助)との鞘当を作品に織り込み、お菊を画題にしていた可能性がありました(同『江戸名所 真乳山猿若町金龍山』山田 屋・嘉永6年11月・1853参照)。また、画中女性が手にする提灯の模様は、銀杏の葉を4枚合わせた紋様に見え、これは真乳山聖天宮の意匠なので、本作品に描かれる女性が対岸のお菊であることはより確実だと思われます。聖天宮の強い加護があって、お菊の事業成功があったのだと訴えているようにも感じられます。

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 広重作画の動機は、地震で大きな被害を受けた山谷堀の復興を描写するという抽象的なものではなく、具体的に、芸者から江戸有数の料亭に育て上げた有明楼のお菊に敬意を示そうとしていると考えられます。名所絵の大家が敢えてお菊を採り上げた理由は、まさにそこにあって、これはお菊への応援歌ではないかと思われます。安政4年7月改印および安政4年8月改印の作品では、広重は自分の思い(作画動機)を以前に比べはっきりと出しているようです。やはり、先の老中首座阿部正弘の死が影響しているのでしょうか。

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85 真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図

安政4年8月(1857)改印
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 本作品と関連する江戸百作品は2つあって、1つは、30「隅田川水神の森真崎」で本作品とは描写の視点を逆に採っています。もう1つは、58「隅田川橋場の渡かわら竈」で、本作品の南に位置する橋場の渡からの眺めです。本作品の特徴は、近景拡大の画法を応用し、半円形の窓越しに水神社の鳥居、その背後の「水神の森」にあって隅田川に流れ込む「内川」、かつて関所があったことに因む「関屋の里」、そして筑波山が描き込まれているところにあります。近景拡大の画法は実景というよりはイメージ性を強調するものなので、近景にどうのような構想があり、遠景とどう関連しているかを考えることが読み解きのポイントです。

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 題名「真崎辺」と言えば真崎稲荷が有名であり、窓越しに見える白梅は初春を表しますから、稲荷神社へ2月の初午行事が思い浮かびます。『江戸名所圖會』巻之六(『新訂江戸名所図会5』p403)によれば、「この社前は、名にしおふ隅田川の流れ溶々として昼夜を捨てず、食店(りようりや)・酒肆(さかや)の軒端は河面に臨んで、四時の風光を貯(たくわ)ふ」とあります。この観点から、本作品は、真崎稲荷社前の料理屋・酒屋の丸窓から見た風景ということが推測されます。また画面の左側を見ると部屋に椿の白い花が花瓶に挿してあることに気付きます。DVD『江戸明治東京重ね地図・橋場隅田川』を参照すると、真崎稲荷の南側に「妙亀山総泉寺」とあって、椿の名所であることが確認されます。椿の花はこの総泉寺の暗号であった訳です。総泉寺はその山号からも分かるように、「梅若伝説」に有名な梅若丸の母が出家して妙亀尼と称して、梅若丸の菩提を弔うための庵を結んだことに由来すると言われています。


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 他方、題名「水神の森内川」と言えば、そこは木母寺が所在します。『絵本江戸土産』初編の図版「木母寺料理屋御前栽畑内川」には、「この寺内に梅若の塚あり 毎年三月十五日念仏供養をなす 境内名高き料理やありて四時賑わう 北にあたりて御前栽畠というあり 此所に作りし松多くありて 尤美景いふばかりなり」との書き入れがあります。つまり、隅田川西岸には妙亀尼の庵、東岸にはその子梅若丸の塚があって、対を成し、その間に真崎の料理屋の半円形の窓があるという位置関係において江戸百作品は構成されています。したがって、窓の外側の白梅は真崎稲荷の初午の行事を暗示するに止まらず、木母寺の梅若丸の記号、窓の内側の白い椿の花は総泉寺の妙亀尼の記号であり、その間の灰(墨)色の丸窓は隅田川、障子は橋場(隅田)の渡を象徴するものとして挿入されているというように読み解けます。さらに、題名「関屋の里」は関所を意味する地名ですが、梅若丸を欺して東国に連れ下った人買い商人「陸奥の信夫藤太」を意識しているのか、あるいは関屋の向こうに霊鷲山筑波山が見えることによって、妙亀尼・梅若丸両人の彼岸での冥福を表現しているのかもしれません。

 江戸百作品は、「真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図(風景)」に「梅若伝説」の情緒を採り入れて名所絵として再構成したものと考えられます。版元的には、真崎稲荷の社前も、木母寺周辺も多くの料理屋が軒を並べる所なので、そこに客を誘う営業目的は明らかで、一連の安政4年8月改印作品と同じく、中秋の行楽を狙った宣伝作品と考えられます。なお、真崎には、田楽で有名な甲子(きのえね)屋(や)があり(三代豊国・広重『東都高名會席盡 隅田川真崎 惣ろく』嘉永6年正月・1853)、当時、真崎稲荷の料理屋に顔を出して、吉原に行くという遊興のコースが想定されていたそうです。それに対応したのか、空や山際のぼかしや雁の飛ぶ姿は夕方が近いことを示しています。

資料
*木母寺縁起(『江戸名所圖會』巻之七:『新訂江戸名所図会6』p236~p237)

 梅若丸は洛陽北白川吉田少将惟房(これふさ)卿の子なり(春待ち得たる梅が枝に咲き出でたりし一花のここちすればとて、梅若丸と号くるなりとぞ)。比叡の月林寺に入りて習学せり。ある時、梅若丸は潜かに身を遁(のが)れて北白川の家に帰らんとし、吟(さま)ふて大津の浦に至る。頃は二月二十日あまりの夜なり。しかるに陸奥の信夫藤太といへる人商人に出であひ、藤太がために欺かれて、遠き東の方に下り、からうじてこの隅田川に至る。時に貞元元年甲子(976)三月十五日なり。路のほどより病に罹り、この日つひにここにおいて身まかりぬ。いまはの際に和歌を詠ず。
   訪ねきてとはばこたえよ都鳥すみだ河原の露と消えねと
 このとき出羽国羽黒の山に、下総坊忠円阿闍梨とて貴き聖ありけるが、たまたまここに会し、土人とともに謀りて児の亡骸を一堆の塚に築き、柳一株を植ゑて印とす。翌る年の弥生十五日、里人集まりて仏名を称へ、児のなき跡をとむらひ侍りけるに、その日梅若丸の母君(花御前、後に薙髪して妙亀尼と号く)、児の行衛を尋ね侘び、みづから物狂をしてき様して、この隅田川に吟ひ来り、青柳の陰に人の群れゐて称名せるをあやしみ、舟人にそのゆえを問ふ聞きて、わが子の塚なることをしり、悲嘆の涙にくれけるが、その夜は里人とともに称名してありしに、その塚のかげより梅若丸の姿髣髴として、幻の容を現し、言葉をかはすかと思へば、春の夜の明けやすく、曙の霞とともに消えうせぬ。母は夜あけて後、忠円阿闍梨に見(まみ)え、ありしことどもを告げて、この地に草堂を営み、阿闍梨をここにをらしめ、常行念仏の道場となして、児の亡き跡をぞ弔ひける。

*妙亀山に関係のある場所(『江戸名所圖會』巻之六:『新訂江戸名所図会5』p414~p417)
 「妙亀山総泉寺」、「浅茅原」、「妙亀塚」、「鏡が池」、「袈裟懸け松」など。

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84 深川八まん山ひらき

安政4年8月(1857)改印
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 題名にあるとおり、富ヶ岡八幡宮の山開きを描く作品です。『絵本江戸土産』二編の図版「富ケ岡八幡宮」の書き入れには、「この宮居 始めは砂村の海浜 俚俗元八幡と唱る地にありしを 寛永の頃 長盛法印といふもの 示現によりてここにうつす」とあり、また図版「其二同所山開」の書き入れには、「富が岡の別当の園中 景色いたつてよし 常には見することなし 年々山開き時にあたりて縦に遊覧背しむ」とあり、山開きは、富ヶ岡八幡宮・別当永代寺の林泉を一般公開する意であることが分かります。永代寺は正式には「別当大栄金剛神苑永代寺」なので、その山開きということなのでしょう。

 DVD『江戸明治東京重ね地図・永代橋木場』
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 山開きの時期に関し、『江戸名所圖會』巻之七(『新訂江戸名所図会6』p28)は、3月21日から同28日まで、弘法大師の御影を祀って供養するため永代寺の林泉を開くとあるのに対して、『東都歳事記』巻之一(『新訂東都歳事記上』p158)は、3月21日から4月15日まで庭中見物許すとあり、時代が下って期間が延びたようです。これに対応して、広重は近景に春の桜、遠景に夏のつつじを描き、2つの季節感を取り込んだ林泉を写すという特殊な構成を採っています。さらに興味深いのは、遠景に「深川富士」と呼ばれた富士塚が描かれ、頂上までの道も丁寧に描写されている点です。もともとは甲(兜)山という築山で、江戸土産作品ではまったく目立ない表現なのとは対称的で、江戸百を見た人は、山開きとは社地に築造された深川富士の山開きと観念したに違いありません(『絵本江戸土産』九編の二代広重図版「深川八幡富士」参照)。幕末に至っての富士講の興隆を広重が意識的に作品に取り込んだということでしょう。ただし、富士山(富士塚)の山開きは6月1日です。

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 『武江年表(安政二年)』(『新訂武江年表』p71)によれば、安政地震によって、「富岡八幡宮恙なし。別当永代寺は、大方潰れたり」とあり、別当永代寺、三十三間堂、さざえ堂などの建物の倒壊大破という一連の被害が確認できます。他方、『武江年表(安政四年)』(『新訂武江年表』p92)は、4月1日から2ヶ月間永代寺で行われた常州真壁郡大宝八幡宮の出開帳を記録しており、少なくとも出開帳ができる程の永代寺の復興が窺われます。山開きの時期にも重なり、広重作画の動機に影響を与えたかもしれません。しかしながら、安政4年8月改印作品としての版元的版行の動機はまた別にあったと思われます。先に引用した図版「富ケ岡八幡宮」の書き入れには続きがあって、そこには「深川の総鎮守にして祭礼八月十五日 四時(しいじ)の群参たゆる時なし」と記されています。つまり、本作品は、販売戦略的には、8月15日の秋の祭礼に向けてのものと位置づけられるということです。

 なお、前掲『江戸名所圖會』(前掲書p28)には、「当社門前一の華(とり)表(い)より内三、四町が間は、両側茶肆(ちやや)・酒肉(りようり)店(や)軒を並べて、つねに絃歌(げんか)の声絶えず。ことに社頭には二軒茶屋と称する貨食屋(りようりや)などありて、遊客絶えず。牡蠣(かき)・蜆(しじみ)・花(はま)蛤(ぐり)・鰻魚麗魚(うなぎ)の類をこの地の名産とせり」とあって、有名茶屋・料理屋が門前に賑わいを見せている常が記されています。広重作画の山開きの作品を版元が秋の祭礼時に版行する理由は、これらの営業的効果を念頭に置いていることは間違いなく、さらに7月9日より60日間、深川浄心寺において甲州身延山祖師七面宮の出開帳があるのですから、この時期の深川は大盛況です。広重の深川に関連する作品群は、これら深川の各種各様の行事によって、被災から復興する当地に花を添えるものとして作画版行されたと考えられます。

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83 深川三十三間堂

安政4年8月(1857)改印
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 『絵本江戸土産』二編の図版「深川三十三間堂」の書き入れには、「京都の蓮華王院を摸(うつ)すとかや 徹(とお)し矢を射てその芸を試むること 京の三十三間堂のごとし」とあります。京都のそれと同じく、南北66間(120m)、東西4間(7m)の四面が縁で囲まれた造りで、その西側の軒下で通し矢が行われていました。DVD『江戸明治東京重ね地図・永代橋木場』を参照すると、富ヶ岡八幡宮・永代寺の東側に近接していることが分かります。その富ヶ岡八幡宮では流鏑馬が行われていたので、射術稽古の施設として共に関連しています。浅草での建立、その後の移転の経緯につき、『江戸名所圖會』巻之七(『新訂江戸名所図会6』p28~p29)参照。堂の東側に掛け茶屋が置かれ、その裏手は材木市場の木場という位置関係が本作品から確認されます。

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 重要な情報として、『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p71)に、「三十三間堂、三分の二潰る」とあって、安政地震の被害を受けていることです。その後(明治5年)解体され、本尊の千手観音は深川の正覚寺に移されたそうです。被災の事情を勘案すると、本作品で建物の全てが描かれていないのは、地震によって建物が倒壊していたからという見解(原信田『謎解き 広重「江戸百」』189頁)がありますが、江戸土産作品において、既に横絵として部分が描かれているので、それを縦絵に変更しただけと言うこともできます。つまり、倒壊の有無ではなく、80「五百羅漢さざゐ堂」の版行作意図と同様、深川のランドマークとして別のメッセージがあって、三十三間堂を描いたと考えられるということです。

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 前掲「五百羅漢さざゐ堂」の場合は、7月9日からの深川浄心寺の出開帳が係わっているという考えでしたが、「深川三十三間堂」はその南側に位置しているので、この出開帳の話題が同様に動機にあると見ることができます。また、前掲重ね地図で確認したように、三十三間堂が富ヶ岡八幡宮・永代寺に近接している地理関係を前提にすれば、8月15日の深川八幡の祭礼と深く関連があることも当然推測されます。したがって、江戸百作品は、84「深川八まん山ひらき」と一体となった作品構成の中で理解すべきと思料します。もちろん、広い意味では、被災から復興する深川地域を盛り上げようとの意識であることは否定しません。

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82 月の岬

安政4年8月(1857)改印
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 『絵本江戸土産』二編の図版「同所(高輪)月の岬」の書き入れによれば、「この所 北は山 東南は海面にして 万里の波濤眸(まなじり)をさへぎる 実にや中秋の月 この所の眺めを最第一とす 月の岬の名も空しからず」とあって、江戸土産作品中には高輪の「八ツ山」が描かれています。したがって、広重が想定する「月の岬」は、月に浮かぶ八ツ山を挟む芝浦の海岸線のシルエットではないかと思われます。先に触れた11「品川すさき」と合わせて考えれば、江戸百作品に写される妓楼は、同作品の左隅に描かれていた、海鼠壁で有名な「土蔵相模」かもしれません。

 DVD『江戸明治東京重ね地図・三田高輪』
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 障子には遊女(飯盛女)の影が映り、奥には三味線を置いた芸者が見えていますが、座敷に料理の器が残され、行灯の下には煙草入れが散らばり、廊下に徳利や器等が運び出され、賑やかな宴が終わった様子です。確かに海上に中秋の名月が浮かび、一群の雁が飛翔する風情ではありますが、題名の「月の岬」がまったく描かれていない不思議な構成です。しかしながら、この点にこそ広重のアイデアがあって、実は障子に写った遊女の影を月の光に浮かぶ岬のシルエットに見立てているのです。月の岬にあった妓楼の近景拡大表現なので、岬自体は自ずと描き得ず、進んで、遊女の影で岬のシルエットを描写した手法は非常に巧みです。なお影絵の応用も含めて、鳥居清長・大判2枚続『美南見十二候 八月 月見の宴』(天明4年頃・1784・ボストン美術館所蔵)が着想の元絵となっており、そこから人物を捨象して作画したのではないかと想像しています。
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 以上のような見立てに作品の趣向があるならば、また安政4年8月改印という観点からも、中秋の名月を謳って相模屋などの妓楼・料亭への行楽を誘うという営業的意図が版元の思惑ではないでしょうか。これに対して、『武江年表(安政四年)』(『定本武江年表下』p95)に、「同(七月)二十六日、夜にて大雨。(二十六夜)月の出を待つの所々」、「急雨にあひたり」とあり、月見が中止になったことから、「後の祭」(宴の終わり)を暗示するような絵としたという見解がありますが(原信田『謎解き 広重「江戸百」』p138)、本作品の月は十五夜の満月なので画題が違うと言わざるを得ません。「廿六夜待」については、60「高輪うしまち」参照。

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81 芝愛宕山

安政4年8月(1857)改印
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 「芝愛宕山」は江戸城の南にあって標高は25.7mの山に過ぎませんが、台地の東端にある地勢から、江戸の町並みや江戸湾が一望できる名所です(DVD『江戸明治東京重ね地図・大名小路増上寺』参照)。山頂には徳川家康の命によって創建された愛宕権現社があって、『絵本江戸土産』三編の図版「愛宕権現」の書き入れには、「本地勝軍地蔵尊也 城州愛宕と同じからず 火災を除き給ふと云 慶長十五年 諸堂社悉く成就す 石階(せきかい)六十八級(きゆう) 畳々(じようじよう)として雲を凌(しの)ぐ 山上の眺望たぐひなし」とあります。本作品の左側遠景にはランドマークとして築地本願寺の大屋根が見えていますが、往年のあるいは将来再建されるべき姿を描いたもので、安政4年8月改印当時の風景ではありません(意図的に遠景に墨色が重ねられ目立たなくなった作品もあります)。なお、山頂に続く男坂の一直線の急な石階段には、馬術の達人・讃岐高松藩士曲垣平九郎が馬で一気に駆け上ったという伝説があり、「出世の石段」と呼ばれています。なお、愛宕山権現は、「永く、火災を避けたまふの守護神なり」(『江戸名所圖會』巻之一、『新訂江戸名所図会1』p253)とあるので、広重が深く関心を持っていたことは言うまでもありません。

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 さて、この奇抜な格好をした人物は何をしているのでしょか。そのヒントは広重の名を記した黄色の枠に記される「正月三日毘沙門使」で、これは別当愛宕下真福寺の地主神毘沙門の使いによる強飯(ごうはん)と呼ばれる儀式なのです。前掲『江戸名所圖會』の図版・部分図「愛宕山円福寺毘沙門使ひ」(前掲書p260~p262)の書き入れに詳細に説明されており、「愛宕山円福寺毘沙門使ひは、毎歳正月三日に修行す。女坂の上愛宕やといへる茖肆(みずじやや)のあるじ、旧例にてこれを勤る」とあって、以下要約すると、正月の飾り物で兜を造って被り、麻上下を着て、大太刀を持ち、擂粉木(すりこぎ)を差し、大きな杓子(しやくし)を杖にして、従者と共に3人で本殿から男坂を円福寺に下り、そこで俎板(まないた)に立って、集まっている寺僧に「飲みやれ」と9杯、7杯の飯を強制的に勧めるものです。本作品は、その強飯が終わって、毘沙門の使が愛宕権現社に帰ってきたところを描いています。

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 この毘沙門の使者は女坂上の水茶屋愛宕屋の主人が勤めるのが旧例とあるので、江戸百作品に描かれる人物はその主人ということになります。しかしながら、「正月三日毘沙門使 広重」という書き入れは、そうではなくて、広重がその使いに扮したという具合に読むことができます。それ故当該人物は、広重の自画像であるという有力な主張があります(堀口茉純『EDO-100フカヨミ』p129は、「食いしん坊のコスプレ老人」と見えると解説)。従来、自己主張の少ない広重が、75「市中繁栄七夕祭」では出生地と現住所地を描き入れ、79「請地秋葉の境内」ではスケッチをとる自画像を挿入している一連の流れを考慮すると、江戸百作品で毘沙門使いに扮した自身を写したとしても何の不思議もありません。また、本作品に先行する広重『江戸名所芝愛宕山吉例正月三日毘沙門之使』(山田屋庄次郎・嘉永6年11月・1853)では、毘沙門之使の人物はすりこぎ棒を脇に挟み、太刀を手にしているのに対して、江戸百作品では太刀は持たず、すりこぎ棒に手を掛けており、前者は正式な強飯の儀式姿(水茶屋愛宕屋の主人)を描いていると思われるのに対して、江戸百作品はやや簡易な姿(シワ顔の広重)に見えます。一度先行作品で正式に描いているので、後行作品では基本的描写は受け入れつつ遊び心を組み入れ、広重の見立絵にしたと推測されます。

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 老中阿部との遺恨が消えたのか、いずれにしても、広重に何か心境の変化があったことを感じさせる作品です。徳川家康が創建を命じた、火伏せの神である愛宕権現社ならば、幕府御家人であり、定火消同心であった広重が武士ではなく、浮世絵師として自立した今の姿を表現するには相応しい名所であると考えたのかもしれません。深読みすれば、愛宕権現社に浮世絵という形式で絵馬を奉納する気持ちであったとも推認できます。本作品左上の扁額に、「安政四年巳年○月吉日」とあるのは、その広重の心情を表すものと理解できます。ところで、正月3日の広重扮する毘沙門使いの強飯の儀式を、季節の異なる安政4年8月改印作品として版行した理由については改めて考える必要があります。前掲『江戸名所圖會』(前掲書p263)に、「月ごとの二十四日は、縁日と称して参詣多く、とりわき六月二十四日は、千日参りと号(なづ)けて、貴賤の群参稲麻のごとし」とある点からして、四季の植木・花木の市が立って壮観な縁日の話題を作品版行の動機にしていると思われます。あわせて、本来ならば水茶屋愛宕屋の主人の役回りを広重が扮している事実は、愛宕屋の主人と広重の仲の良さを示しており、あわせて、本作品が愛宕屋の宣伝にも資すればという気持ちが隠されているように想像されます。

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80 五百羅漢さざゐ堂

安政4年8月(1857)改印
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 五百羅漢寺は、本所「五ツ目渡場」の竪川南方にあり、本堂左右の階檀に列ねる五百羅漢の等身像で有名な木像3階螺旋構造の禅寺です。『絵本江戸土産』初編の図版「五百羅漢さざゐ堂」の書き入れには、「黄檗(おうばく)派の禅院にて 開山鉄眼禅師なり 寛保の頃 三匝堂を補理(しつらひ) 五百の羅漢の像を置く 俗に栄螺をいふは非ならむ 他邦に聞くも及ばぬいとも稀代の梵刹なり」という最大限の讃辞があります。ところが、『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p71)は、安政地震によって、「五ツ目五百羅漢寺本堂大破、左右の羅漢堂並びに天王堂(布袋・四天王・関羽を安ず)潰、三匝(さんそう)堂(俗にさゞえ堂といふ)大破に及べり」と記していて、本作品のような立ち姿を見ることができなかったはずです。しかも、その後三匝堂が再建されることはありませんでした。

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 ではなぜ本作品が版行されたのかということですが、たとえば、役者絵シリーズでは物故した往年の名優があわせて紹介されることは普通であり、それと同じ理由で、かつての名所建築を採り上げたという見方です。『江戸名所圖會』巻之七(『新訂江戸名所図会6』p76以下)に、各図版を含めて最大に近い頁数を割いていることからも、この見方には十分な理由があります。ただしそうとしても、なぜ安政4年8月改印作品として、この時期に採り上げたのかは疑問として残るところです。

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 近景拡大の画法を採用しているので、意識が近景に引き寄せられますが、遠景に視線を移すと、朝焼けの彼方に木場が描かれていることに気付かされます。ここにDVD『江戸明治東京重ね地図・本所深川』を重ねると、木場の西側に「浄心寺」があることが分かります。浄心寺と言えば、74「金杉橋芝浦」で既述したように、「七月九日より六十日の間、深川浄心寺に於て甲州身延山祖師七面宮開帳(参詣群集し、毎朝未明より開門を待て参詣す」という状況で、多くの参詣人が群集していました。つまり、本作品は、幕府が心配する程の喧噪の様子を呈した浄心寺をネタとして版行していると考えられます。近景に「五百羅漢さざゐ堂」を写すそぶりで、遠景に話題となっている事象を隠しているのです。江戸土産作品では五百羅漢さざゐ堂を描くことが目的でしたが、江戸百作品ではその背景にあった浄心寺を暗示させることが重要で、近景拡大の画法はその目眩ましに使われているということです。

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79 請地秋葉の境内

安政4年8月(1857)改印
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 水面に影を落とす、緑の松と秋の紅葉が印象的な作品です(作品によっては、紅葉が丹焼けして黒くなっています)。77「吾妻橋金龍山遠望」の近景にあった竹屋の渡の東側に当たります。『絵本江戸土産』七編の図版「請地秋葉権現境内」の書き入れには、「請地は隅田川の東岸にて 俚俗に向島といふ とくに祀れる秋葉の社 物舊神寂(ものふりかんさび)て神威炳然(いちじる)し 殊にこの社地景色よく 都下の騒客群集す」とあり、その作画の視点を変えて描いたのが本作品です。『江戸名所圖會』巻之七(『新訂江戸名所図会6』p200)によれば、もともとは隅田川東岸の湿地帯に浮かぶ「浮地(うきち)」という呼称を好字の「請地(うけち)」と言い換えたもので、地頭が支配した本来の請地という意味ではありません(「地名あるある」)。また、「遠州秋葉権現を勧請し、稲荷の相殿とす(千代世(ちよせ)稲荷といふ)」とあり、「門前酒肆(さかや)・食店(りようりや)多く、おのおの生洲を構へて鯉魚を畜ふ」と続きます。

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 本作品は「請地秋葉の境内」を描くものですが、周辺の環境は、DVD『江戸明治東京重ね地図・向島』と切絵図(尾張屋清七『隅田川向嶋繪圖』安政3年・1856)を参照すると、「長命寺桜もち」「言問団子」、また「料理家大七」「料理家武蔵」「料理家平石(岩)」等と記され、有名店に囲まれた地域であることが分かります。以上の状況を踏まえると、本作品は、池に映える、秋葉権現社の神紋ともなっている紅葉の赤と松の緑という錦の彩を名所として紹介する体裁で、周辺の有名店に遊客を誘い、秋の行楽を宣伝するポスター的役割を果たしていると思われます。竹屋の渡の反対側にある今戸橋の有明楼にも十分メリットのある作品構成です。

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 安政4年7月・8月改印作品に関しては、広重の個人的関心に絡めた作品が多いという印象を持つのですが、広重が秋葉権現社に関心を持つことは、秋葉権現が火伏せ(防火)の神であることから容易に理解できます。また、本作品中の茶屋に筆を持つ法体姿の人物が描かれており、これが広重の自画像だとするならば、書画や狂歌の仲間と料亭・料理屋などで遊んだ旅の体験に本作品が係わっていることを想像させるものではないでしょうか。本作品の仕掛けは、浮世絵にしては珍しい水面に映る影と広重の自画像ということになります。

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78 上野山内月のまつ

安政4年8月(1857)改印
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 安政3年4月改印作品、08「上野清水堂不忍ノ池」と比べると、安政地震で焼けた中島弁天境内の茶屋を描いている点でその再建を知らせる作品のように見えます。しかし、同年同月改印作品、13「湯しま天神坂上眺望」においてすでに画題とされているので、この点に作品の見所を置いているとは思えません。『絵本江戸土産』五編の図版「(同所)上野池之端料理屋」の書き入れには、「料理屋軒をならべて遊人の需に応ず」とあり、また図版「其二上野不忍之池全図中嶋弁天之社」の書き入れには、「池中赤白の蓮華を開きて夏月の奇観双ぶかたなし 中嶋の辨財天廻りに数多の酒楼あり」とあって、この文言の延長線で考えれば、当地の風光美を謳って不忍池や中島弁天社に所在する料理屋・酒楼への遊客を誘うものなのかもしれません。

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 ところが江戸百作品は江戸土産作品とは異なって、近景の「月の松」と呼ばれる面白い枝振りの松の向こうに、本郷台地にあった武家屋敷の様子を詳しく描いています。DVD『江戸明治東京重ね地図・本郷小石川』を参照すると、月の松の中に見える火の見櫓は、広大な敷地を持つ加賀藩上屋敷のものであることが分かります。「加賀鳶」と言えば大名火消の代表格ですから、元定火消同心の広重に関心がない訳がありません。そして本郷通の西側を見ると、同地図には、「御老中備後福知山藩(広島)阿部伊勢守正弘十一万石」と記載されていることに気付きます。先般亡くなった老中阿部の下屋敷です。安政4年8月(1857)改印は、新盆も過ぎた中秋時ですが、老中阿部を偲んで、蓮の名所不忍池の彼岸にある本郷台地(阿部の屋敷)を月の松の中に写したのかもしれません。他方、近景拡大の構図はイメージ優先であることを考えると、不忍池の此岸には池の端に料亭・酒楼が多数あって遊客・酒客が絶えず、この景色はどこかの料亭の窓越しに見えたという絵組の妙(構想)を狙ったものとも読み解けます。もちろん、実際には月の松は清水堂を下った池の畔にあったのですが。

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 ちなみに、広重と老中阿部とには「内藤新宿桜樹一件」による因縁があることは既述のとおりですが、将軍でもない老中の死に江戸っ子がどれ程の関心を持っていたかについて、長命寺の桜餅屋(山本屋)の娘おとよとの醜聞について触れておきます。歌川(三代)豊国『江戸名所百人美女』「長命寺」(上州屋金蔵・安政4年11月・1857)に描かれる美人おとよ(18歳)を老中阿部が側室として召した事実があって、安政3年の風刺物ではやっかみもあって当然批判の対象とされました(三田村鳶魚『大名生活の内秘』中公文庫・1997、p321以下)。その翌年の阿部の死ですから、何を言われたかは想像できます。したがって、本作品作画・版行の背景に阿部の死の話題があっても決して不思議ではないのです。

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77 吾妻橋金龍山遠望

安政4年8月(1857)改印
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 吾妻橋、金龍山(浅草寺)、富士山を遠望する構図および隅田川の中洲の描写から、今戸橋(山谷堀)と対岸隅田堤(三囲稲荷)を船で繋ぐ「竹屋ノ渡」辺りからの眺望かと推測できます。近景拡大の画法によって描かれる屋根船には芸者姿が想像でき、今戸橋周辺の船宿・料理屋から隅田堤の桜見物に出かけるか、あるいはその帰りの様子と見えます。画面に散らされる花吹雪も隅田堤の桜を暗示するものです。本作品の制作意図を考えるに当たって、『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p69~p70)の安政地震に関する、「今戸橋畔拍戸(りようりや)金波楼(玉屋庄吉)、潰れて火起り、近隣類焼せり」という記事は重要です。風光が勝れることを紹介するだけではなく、今戸橋界隈が被災から再興し旧に復した様子を祝福しており、本作品には広重の愛情さえ感じられるからです。

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 では、広重が具体的に何に愛情を示したのかを読み解いてみましょう。まず初めは、安政大地震で潰れた料亭屋金波楼・玉庄(広重『江戸高名會亭盡 今戸橋之圖玉庄』藤岡屋彦太郎・天保後期・1835-42参照)跡に、安政3年、堀(山谷堀)の芸者お菊が女将となって有明楼(ゆうめいろう)を開業し、「豪士冶郎此の樓に一酔せざる者無し」(成島柳北『柳橋新誌』岩波文庫・1940、p40)と言われるほどの成功を収めたことです。お菊は、芸者時代、浅草猿若町の芝居小屋の人気役者澤村訥升のみならず、東本願寺の法主にも贔屓され、恋の鞘当ての主人公になった話題の人物でした(堀口茉純『EDO-100 フカヨミ!』p21)。次に、DVD『江戸明治東京重ね地図・浅草両国』を参照すると、金龍山を基点に、その前方には猿若町の芝居小屋、その後方には東本願寺が位置し、芸者の乗る屋根船からの視線が直線上に並ぶという意味深な構成を採っていることが分かります。つまり、本作品は、有明楼の女将となって活躍するお菊の芸者時代に焦点を当て、その門出を桜吹雪で祝うもので、そこに広重の愛情が示されていると思われるのです。86「真乳山山谷堀夜景」にはお菊の女将姿が描かれており、名所絵師広重にしては大変珍しいことであって、その点を勘案しても、本作品は気心知れたお菊への祝意の1枚と読み解きたいと思います。

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 ではなぜこの時期の版行に至ったかというと、以下の事象と関係があると推測されます。すなわち、原信田『謎解き 広重「江戸百」』(131頁以下)は、『武江年表(安政四年)』(『定本武江年表下』p94)が、娼家の仮宅での営業が6月に終わり、新宅(新吉原)に引き移ったことを記しているのを受けて、船を仕立てた娼家の一行が吾妻橋と今戸橋から上陸した際の行装(こうそう)(『藤岡屋日記第七巻』p569以下参照)を広報する作品と評価していることです。ただし、屋根船に遊女の姿はなく、具体的に新吉原を暗示する記号を見つけることはできない点で、新吉原再開の行装は今戸橋(山谷堀)の料理屋などの繁昌に影響を与えるという意味で、この時期の制作動機に並行的に作用した可能性は十分にありますが、既述したように、直接的意図は別にあるものと思われます。


*『柳橋新誌』の草稿は、安政6年から万延元年(前掲書p95)。

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76 佃しま住吉の祭

安政4年7月(1857)改印
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 安政4年7月改印の作品は、近景拡大の画法を使って、祭事行事の名所地を採り上げる傾向があります。また、安政4年2月改印45「永代橋佃しま」では、その1ヶ月前の1月10日(立春)頃の佃島白魚漁を春の風物詩として、安政4年7月改印の本作品では、その1ヶ月前の6月28から行われた「住吉の祭」を夏の風物詩として描いていることが分かります。近景に「住吉大明神 佃島氏子中」「安政四年丁(ひのと)巳(み)六月吉日」「整軒宮玄魚拝書」と記される住吉神社の大幟が配置され、それと重なるように住吉明神社神輿の水渡(みずと)御(ぎよ)が写されています。

 DVD『江戸明治東京重ね地図・築地石川島』
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 「佃しま」と「住吉の祭」の来歴は、『江戸名所圖會』巻之一(『新訂江戸名所図会1』p197以下)によれば、佃島は、徳川家康が上方に在する頃、摂州佃村の漁船を利用したことが機縁となって、江戸に幕府を開いた後、その漁民を江戸に呼び寄せ、鉄炮洲の干潟に土地を授けたのが由来です。そして、本国の産土神(うぶすながみ)を分社して建立したのが住吉明神社で、住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)と神功皇后を祀っています。例祭は、毎年6月28日・29日両日とあります。同巻図版「佃島住吉明神社」(同書p193)を参照すると、水渡御の様子と江戸百作品背後の陸地が房総半島であることが確認できます。なお、江戸百作品の右側に描かれている提灯とチェック模様の屋根は、季節柄、虫売りの屋台と思われます。作品中央の布目摺が施され大幟には、能書家であり江戸百の目次を制作した玄魚が篆書文字を書き入れています。ここから江戸百のデザインやアイデアに玄魚が参画していた可能性が推測されます。

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 神輿の鳳凰が陸(神社)に向いているので、島を一周して引き返してくるところと判断されます。とは言え、その神輿の様子が住吉明神社の大幟の背後に目立たなく描かれている点は気になります。72「浅草川大川端宮戸川」では大山参りの梵天の影に料亭万八、74「金杉橋芝浦」では赤い玄題旗の影に出開帳の深川浄心寺がそれぞれ隠されていたのと共通し、ある意味では、これらは広重お得意の画法(「広重あるある」)と言うことができます。この点で指摘されるべきは、安政4年6月27日に老中阿部(正弘)伊勢守が死去したため、6月28日から晦まで3日間「鳴り物停止」となり(『藤岡屋日記第7巻』p569)、28日からの住吉明神社の例祭と重なっていることです。つまり、翌29日の水渡御は行えず、鳴り物停止の3日が過ぎた7月1日になってようやく果たされたと考えられます。深読みすれば、「佃しま住吉の祭」を画題とすることは、開国を決断した先の老中首座阿部伊勢守の死に触れるということになり、抑制的な表現を取らざるをえなかったのではないでしょうか。他方、そもそも、佃島、住吉明神社は徳川幕府とゆかりが深く、また、住吉明神社の祭神は航海や外交を司る海神(わたつみ)なので、幕府の外交責任者にして開国を果たした阿部とは深い関連があり、その阿部を絡めるには最適な題材選択です。01「玉川堤の花」での「内藤新宿桜樹一件」以来、阿倍は江戸百と広重自身に浅からぬ因縁があるのですから。

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75 市中繁栄七夕祭

安政4年7月(1857)改印
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 江戸百は名所絵シリーズですから、本作品がどこから「市中」を遠望するものであるのかを特定しなければ成立しません。その手掛かりは、近景下部に描かれている4つの土蔵です。安政地震の被災記録である、仮名垣魯文『安政見聞録上』(安政3年・1856)の歌川芳綱の挿絵で確認すると、南伝馬町3丁目にあった「四方蔵」であることが分かります。また、広重は、天保13(1842)年頃は南伝馬町東の大鋸(おが)町に、弘化3(1846)年頃は京橋方向の常磐町に、嘉永2(1849)年頃は大鋸町近くの中橋狩野新道に居住したと言われていて(『八丁堀霊岸嶋日本橋南之圖』尾張屋清七・文久3年・1863、DVD『江戸明治東京重ね地図・日本橋八丁堀』参照)、本作品は広重の自宅辺りからの眺望であると推測される点が重要です。したがって、本作品右下に見える物見台に掛かる白地に紺の浴衣は広重自身のもの、右手遠方に見える火の見櫓は広重が生まれた八代洲河岸の定火消屋敷のもの、その背後の櫓は馬場先御門の櫓ではないかと推測されることになります。

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 先の芳綱の挿絵を見れば、あえて『武江年表(安政三年)』の安政地震の記事を引用しないでも、被災の結果、南伝馬町、常盤町など京橋一帯が焼失し、本作品に描かれる地域が大きな被害を受けたことは一目瞭然です。広重の自宅は何とか焼失を免れたようですが、上記の事実を前提にすると、七夕飾りを付けた大笹が林立する町家や武家屋敷の情景は、地震によって灰燼に帰した時とはまったく好対照の「市中繁栄」を表現しています。大笹が風に吹かれて、飾りが舞飛ぶ様子は、これから夕立でも来そうな感じです。おそらく、かっての火災に対して「雨の守り」(火伏せ)という安心感を謳っているのかもしれません(67「水道橋駿河台」参照)。「七夕祭」を画題としたのは、安政4年7月改印の作品だからです。

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 作品制作経過は、北斎『冨嶽百景』初編「七夕の不二」を受けて、広重『不二三十六景』「大江戸市中七夕祭」(嘉永5・1852年頃)が描かれ、安政地震を踏まえて江戸百作品が生まれたものと推測され、その意味では江戸百作品が置かれている文脈は先行作品とは全く異なったものであることを理解する必要があります。なお、実際に安政地震から1年半後の状況が江戸百作品程度まで復興していたかどうかは分かりませんが、復興過程を先読みし、かつてと変わらぬ描写を採り、七夕の市中繁栄の様子を遠景の富士が象徴する西方極楽浄土と重ねて見ているのは間違いないと思われます。

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74 金杉橋芝浦

安政4年7月(1857)改印
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 40「増上寺塔赤羽根」に描かれていた赤羽橋の下流に架かる橋が「金杉橋」で、その新堀(金杉)川河口から南西は高輪まで、北東は汐留橋まで一帯の海を「芝浦」と言います(03「芝うらの風景」参照)。本作品は、その金杉橋から北東方向に芝浦を望むもので、水平線左手に突き出ている岬状の陸地は築地で、築地本願寺の三角屋根が見えています。ただし、この時、安政地震翌年の台風被害で本堂は倒壊していたはずです。金杉橋に描かれる人々は、赤い玄題旗、紫の講中の旗を付けた傘蓋(さんがい)、講中名などを記したまねきなどを持って江戸に向かっているように見えます。近景拡大の画法を応用した作品なので、イメージ性を優先させる構図であるという観点から読み解く必要があります。

 DVD『江戸明治東京重ね地図・大名小路増上寺』
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 本作品の中央の傘蓋とその下にたなびく旗に記される「井桁に橘」の紋は池上本門寺など日蓮宗のもので、「一天四海皆帰妙法 南無妙法蓮華経」の文字が記されています。その右の「江戸講中」の旗の上の「まねき」には「身延山」の文字があって、日蓮宗本山を示します。なお、橋の左手の「魚栄梓」は版元への気遣い、つまり宣伝です。以上のことから、本作品は10月10日から13日(日蓮忌日)まで、池上本門寺で行われる日蓮宗の御会式(おえしき)との関連で解説されることが多いのですが、本作品は目次では秋に分類され、旧暦上初冬の御会式とするには不自然です。

 
 この点に関し、次のような注目すべき資料があります。すなわち、『武江年表(安政四年)』(『定本武江年表下』p94~p95)に、「七月九日より六十日の間、深川浄心寺に於て甲州身延山祖師七面宮開帳(参詣群集し、毎朝未明より開門を待て参詣す。講中の輩、神事の時持ち出る万度といふものゝ如く、思い思いの行燈をつくり、燈火を点じてこれをかつぎ、群をわかちて一様の衣類を着し、太鼓を打、題目を唱へて往来する事たへず)」と記されているのです。つまり、傘蓋の下に御本尊があって、赤い玄題旗の影に隠れる深川浄心寺での御開帳に向かう一行とそれを出迎える日蓮宗徒の金杉橋上での喧騒を描き上げているのです。なぜ金杉橋かと言えば、日蓮宗派の金杉毘沙門堂(正伝寺)が近隣しており(『江戸名所圖會』巻之一、『新訂江戸名所図会1』p286)、幕府に忖度して、浄心寺で騒ぐ様子を表現することを避け、浄心寺に向かう一行を金杉橋(正伝寺)で出迎える様子を写すことに変えたからです。72「浅草川大川端宮戸川」に描かれた職人達の大山詣においても、各講の間での激しい喧嘩沙汰が実際にあり、その話題が先の作品制作の動機として意識された可能性がありますが、商人達に熱狂的に信仰された日蓮宗の喧騒にも同様な話題性と版行動機があって本作品が生まれました。

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73 綾瀬川鐘か淵

安政4年7月(1857)改印
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 「(旧)綾瀬川」について、69「堀切の花菖蒲」で一度触れており、本作品は隅田川に流れ込む「(新)綾瀬川」の「鐘か淵」が画題で、綾瀬川繋がりから、3月の隅田川東岸への将軍の鷹狩りを動機としている可能性があります。他方、DVD『江戸明治東京重ね地図・向島』を参照すると近くには「丹頂池」があり、鶴を画題とする、70「簔輪金杉三河しま」の鶴御成り(鷹狩り)に関連する作品とも考えられます。つまり、御成りから派生した話題性を拾って作品制作に至ったという思考です。さらに3作品には共通項があり、『武江年表(安政四年)』十之巻(『定本武江年表下』p94)の朝倉無声の増補の、「五月二十七・八日、大雨」、「千住洪水、往来の出水、人の家を越ゆ」との記述に関連する地域(堀切村、三河島村、千住村、隅田村)を対象にしていることです。ただし、先にも触れましたが、閏5月の災害だとすると、本作品以外の2点については、制作日数の観点ではやや苦しい読み解きになります。

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 鐘ヶ淵の命名に関しては、『江戸名所圖會』巻之七(『新訂江戸名所図会6』p247)に、「鐘が潭」として、「同所(牛田)、隅田川・荒川・綾瀬川の三俣のところをさして名づく」とあり、また「普門院」または「橋場長昌寺」の鐘が「この潭に沈没せり」故に名付けられたとあります。なお、同巻(p242~p243)の図版「鐘カ潭丹頂の池綾瀬川」が本作品の元絵かもしれません。

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 綾瀬川の堤には、小暑(6月)の頃淡いピンクの花を付ける合歓(ねむ)の木が植えられていて、舟で訪れその景色を楽しむ名所の一つでした。江戸百作品が隅田川の堤から綾瀬川方向を見ているとするならば、綾瀬川堤に生える合歓の木という情景とは一致しませんが、近景拡大の構図においては、近景は実景ではなくイメージや構図優先の性格が強いので、そういうものとして理解しておく必要があります。46「川口のわたし善光寺」を見ると、秩父方面から多くの材木が運ばれて来ており、通常は、それが一旦千住大橋北詰の材木問屋で注文に応じて筏に組み直されて江戸に運ばれます。画中の筏もその1つかもしれません。合歓の木の後ろには、釣りをしている舟が見えて閑静な気配が漂っています。筏の男は、両腕と両足の肌を出した夏姿です。その先には、綾瀬橋が遠望できます。湿地を象徴する鷺が飛び立つ一瞬を捉えた作品で、洪水があったことを忘れさせる風景です。

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72 浅草川大川端宮戸川

安政4年7月(1857)改印
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 隅田川は、千住大橋の上流では「荒川」と呼ばれ、浅草(浅草寺)・吾妻橋辺りでは「浅草川」、両国橋辺りでは「大川(端)」、日本橋川(小網神社)辺りでは旧名として「宮戸川(みやとがわ)」と呼称されました(『絵本江戸土産』初編図版「宮戸川吾妻橋」)。本作品は、両国橋(大川端宮戸川)から吾妻橋(浅草川)方向を眺める構図で、遠景に筑波山がありますが、実際にはもっと北東(右)方向に位置しています。

 DVD『江戸明治東京重ね地図・浅草両国』
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 近景拡大の構図によって、前景左側には多くの御幣を付けた梵天と呼ばれる神事の道具が描かれ、同じものが右側の船上にも見えており、舳先の人物は法螺貝を吹いています。『江戸名所圖會』巻之一の図版「両国橋・部分図」(『新訂江戸名所図会1』p132)にも見えるように、橋下の大川で水垢離した一行が大山詣に出発する儀式を描くものなのです。『東都歳事記』巻之二(『新訂東都歳事記上』p269)には、「相州大山参詣の輩、(六月)二十五日の頃より江戸を立つ」、「石尊垢離取り(大山参詣の者、大川に出でて垢離を取り、後禅定す)」とあります。

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 では、単純に安政4年7月(1857)改印作品として、時期柄、6月末の大山詣の庶民風俗をのみ写すものなのでしょうか。本作品制作の前資料である『絵本江戸土産』6編の図版「両国柳橋料理屋會席」は、柳橋の袂にあった料亭を中心とする構成となっており、有名な「万八」も当地にありました。たとえば、広重『江戸高名会亭盡 柳橋夜景 万八』(藤岡屋彦太郎・天保3~5年参照)の書き入れには、「神田川の末流 既に大川へ出る方に架たるを柳橋といふ この辺料理や多く 殊に両国に近くして常だも賑はふ 況(まいて)夏月の納涼 また秋冬にいたり 海川の漁舩多く この所より出る」と記されています。江戸百作品の前景に見える梵天の背後に描かれている建物が、その万八に当たります。つまり、江戸百作品は、大山の山開きの6月27日の数日前、垢離取りをした一行が大川を両国橋を歩いてあるいは船で渡る様子を描きつつも、その先にあった柳橋の料理屋万八などの名店宣伝を意図し、さらに霊鷲山たる筑波山の遠望風景を重ね、聖俗の名所が重層する名所風景を紹介しているのです。

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 大山詣が、鳶、左官、大工などの職人に大いに流行ったことを考えると、安政地震からの復興景気の一番の享受者を描き、勢いを取り戻しつつある世情をよく表しています。一方で、この年、両国の花火の打ち上げが行われていない事実と突き合わせれば、梵天の飾りを花火に見立てたとも言えましょうか。なお、柳橋と新吉原との間を猪牙船が走り、両国の東西を水垢離のための船などが往復し、その基点に柳橋および料亭万八があるという構造は頭脳的です。

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71 両ごく回向院元柳橋

安政4年閏5月(1857)改印
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 両国橋は、明暦の大火(1657年)の悲惨な被害の反省を受けて建設され、その東詰に「明暦の大火に焼死・溺死せるところの十万八千余人の亡者を、回向あるべき旨命ぜられ」、「回向院」が建てられました(『江戸名所圖會』巻之七、『江戸名所図会6』p61、p75)。「元柳橋」は、『絵本江戸土産』6編の図版「其二 向両国茶屋元柳橋濱町」の書き入れには、「両国橋より南の方の小川に架すを元柳橋といふ」とあります。『東都歳事記』巻之五の図版「勧進相撲」(『新訂東都歳事記下』p158~p159)を参照し、富士山の残雪を考慮すると、本作品は回向院の春の勧進相撲を画題として、相撲櫓を近景拡大の技法によっ描いていると分かります。ただし、櫓の一番上に飾られる「出幣(だしつぺい)」の向きが東都歳事記図版とは反対向きです。また、広重は、画面右側にあった両国橋を削り、逆に左側の元柳橋を隅田川の対岸に据え、遠景に富士山を望む構図を選択する等絵組に変更を加え、これによって、富士山よりも高いかのような相撲櫓と冠雪する富士山に相似する出弊を強調しています。つまり、近景拡大の構図は、実景よりも構図性を優先させていることが確認されます。

 DVD『江戸明治東京重ね地図・浅草両国』
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 版行過程を想像すると、『武功年表(安政4年)』(『定本武江年表下p93』)に、「同(四月)十六日より六十日の間、上総国柴山観音寺本尊十一面観音…本所回向院に於て開帳」とあり、さらに「三月二十一日、江戸到着の日、角觝人(すもうとり)、仏龕(ぶつがん)を舁(かつ)ぐ」とあることから、この時の回向院での出開帳あるいは力士の興行を受けて、本作品が版行された可能性があります。

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 江戸百作品を安政地震という文脈に置けば、勧進相撲の行われる回向院は、明暦の大火被災者だけでなく、安政地震の犠牲者のための供養の場所でもあり、元柳橋の下の「薬研堀(やげんぼり)」は安政地震の直後、近所の茶屋や空き家を借りて接骨治療が行われ場所なので、本作品は、安政地震の「被災の記憶」を「復興の期待」に転じる作品と見ることができます。深読みすれば、近景の相撲櫓(回向院)を此岸の本尊・阿弥陀如来の浄土、中景の元柳橋(薬研堀)を薬師如来の浄土、遠景の白雪の富士山を彼岸の西方極楽浄土とそれぞれ看做すことができ、その宗教的聖地を一望できるという意味で、当地は『名所江戸百景』に相応しい格別の名所となるのです。青空に綺麗に見える富士山は興行日和を表現するだけではなく、「ハレ(晴れ)の日」として鎮魂と復興を象徴するものなのです。

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70 簔輪金杉三河しま

安政4年閏5月(1857)改印
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 66「よし原日本堤」に描かれた堤は、浅草聖天町から下谷三之輪(「簔輪」)に至り、日光(奥州)街道と交差し、その南西側に「金杉」村、「三河しま」村があります。千住大橋・荒川上流地域に当たり、一帯は湿地が広がり、冬季にはその湿地を目指して三河島周辺には丹頂鶴が飛来します。そのため、農閑期を利用して幕府役人がその鶴に餌付けをし、将軍の鷹狩りが行われ、さらに捕らえられた鶴を天皇に献上する慣わしでした。この鷹狩りを「鶴御成り」と呼びます。DVD『江戸明治東京重ね地図・三河島根岸』を参照すると、三河島周辺には湖沼が点在しており、本作品はそこに舞い降りた丹頂鶴の様子を描くものであることが分かります。鶴御成りに際しては、三河島では観音寺か法界寺、新堀村では定光寺(雪見寺)で中食(ちゆうじき)をとったと言います。本作品の中景辺りの風景がそうでしょうか。

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 安政4年5月25日、「橋場筋江、為御鷹野被為成候」(『藤岡屋日記第7巻』p529)との記録があるので、版行意図として、その話題性を意識した可能性があります。とすれば、69「堀切の花菖蒲」が3月の隅田川東岸、本作品が5月の隅田川(荒川)西岸の鷹狩りの地を対としてそれぞれ版行したと理解さることができます。ただし、同日記には、「今朝霧雨ニ而御成御見合」とも記されます。

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 別の考えとして、『武江年表(安政四年)』十之巻(『定本武江年表下』p94)の朝倉無声の増補に、「五月二十七・八日、大雨」、「千住洪水、往来の出水、人の家を越ゆ」とあるので、閏5月改印作品として版行した理由は、梅雨末期の大雨による洪水で鶴御飼場がどうなったかと関心を抱いたのかもしれません。なお、鶴の到来する冬の風景は季節違いですが…。また前掲「堀切の花菖蒲」の版行も、洪水被害という話題性に重心があったのかもしれません。ちなみに、大雨被害は「5月」ではなく、「閏5月」の可能性もあって(『齋藤月岑日記六』p205)、その場合には、江戸百作品制作には時間が不足していると考えられるので、上述の将軍の御成り(鷹狩り)の話題を動機とするという見解に戻ります。『絵本江戸土産』5編裏扉の図版「三河島みかわしま」には、「鶴の啼しかたからとけ薄こほり 煙浦」との俳句が記され、本作品の原型になります。

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69 堀切の花菖蒲

安政4年閏5月(1857)改印
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 堀切は向島の北辺の(新)綾瀬川に沿った低湿地で、切絵図(『新版隅田川向嶋繪圖』尾張屋清七・安政3年・1856)に「百姓伊右エ門花菖蒲之名所ナリ」と記載される程で、実際には、(小高)伊左衛門が文化年間(1804-17年)にその湿地を利用して各地の花菖蒲を収集植栽したのがその始まりと言われています。『絵本江戸土産』7編の図版「堀切の里花菖蒲」の書き入れには、「綾瀬川の東にあり 数万株の花菖蒲(はなあやめ) その色更に数を知らす 眺望類ひあらされば 毎年卯月下浣(すえつかた)より皐月に至りて 遠きを厭はす舟に乗り 箯(あんだ)に駕し(が)て都下の美女(たおやめ)競ふときは いつれか花と見紛ふはかり 水陸の遊観なり」と記されています。見頃が、「毎年卯月下浣より皐月」ということなので、安政4年閏5月改印の作品に選ばれたことが容易に想像できます。『絵本江戸土産』7編に掲載されている事実と地理的関係とを考えると、47「小梅堤」、56「四ッ木通り用水引きふね」、52「にい宿のわたし」などと同時期の取材に基づいているものと思われます。

 DVD『江戸明治東京重ね地図・向島』
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 本作品において向こう岸の花畑に紫色の着物を身に付ける2人の美人が見え隠れしていますが、「都下の美女競ふときはいつれか花と見紛ふはかり」という状況を絵にしたことが分かります。さらに推論すれば、近景拡大の技法で描かれた前面の3本の花菖蒲は、逆に花菖蒲の園に佇む3美人の姿を表現したものということになり、名所絵という形式での美人絵となります。さらに、本作品には背後の中央左の松の間に堂宇の屋根が見えていて、これが堀切にあった「極楽寺」ならば、堀切の地を極楽世界と看做しているのかもしれません。

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 安政4年3月11日、将軍の亀有筋への御成りがあり、両国橋から船に乗って隅田村水神脇から上り、綾瀬川、篠原村、下千葉村より亀有村へ向かい、途中猟を行い、その道を再び引き返しています(『藤岡屋日記』第七巻、p466)。版行の動機という観点では、この御成りが係わってた可能性は十分にあります。

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68 深川洲崎十万坪

安政4年閏5月(1857)改印
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 「深川洲崎」と言えば「洲崎弁財天社」のある地で、「この地は海岸にして佳景なり」(『江戸名所圖會』巻之七、『新訂江戸名所図会6』p29)とあり、弥生の潮干狩りの地としても有名です。DVD『江戸明治東京重ね地図・砂村六万』を参照すると、深川洲崎の北には92「深川木場」があり、さらに東に「六万坪」および「十万坪」の埋立地があることが分かります。十万坪は、北を小名木川、西を横川、東を十間川、南を三十間川に囲まれたほぼ正方形の埋立地で、享保8(1723)年から3年をかけて千田庄兵衛を中心として開発されました。なお、十万坪の南東から砂村川が流れ、12「砂むら元八まん」に繋がり、蒼茫たる景色が容易に想像できます。『武江年表(安政四年)』(『定本武江年表下』p91)によれば、「同(二月)二十日より六十日の間、深川洲崎吉祥院弁才天開帳」とあるので、大きな視点では、これが本作品の版行動機にあったと考えられます。

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 荒涼とした雪の原野を背景に、大鷲が翼を広げ、鋭い目つきで空から獲物を狙う奇抜な近景拡大の構図は、広重作品を代表する名品です。雪景色については、『江戸名所圖會』巻之七の図版「二軒茶屋雪中遊興の図」(『新訂江戸名所図会6』p30~p31)に、「取りわけて初雪の頃などには、都下の騒人ここにつどひ来つつ」とあって、当時の人々は深川洲崎辺りの雪は佳景の一つと意識していたと考えられます。前掲「深川木場」も雪景色でした。ただし、それだけに止まらず、雪は塵芥で埋め立てられたまさに穢土の十万坪に静謐さと浄土性を付与する表現技法と見ることができます。遠景の筑波山が久遠の釈迦が説法する双耳峰の霊鷲山を象徴し、その霊鷲山を受けて前景に大鷲を配する構図は、よく練られたものと思われます。加えて、その2つの仏性の存在の間にある十万坪は、十万億土彼方の仏国土=浄土に見立てられているという意味でもさらに技巧的です。狂歌世界の影響を強く感じます。いずれにせよ、本作品は穢土(埋立地)に浄土を発見し、このような奇景こそ名所であるという広重の名所絵観がよく表れています。

 ちなみに、本作品中、深川洲崎(弁天社)の海岸近くに浮かぶ木の桶は、棺桶か水桶かなどと争われていますが、ここ洲崎が江戸の雑多物が流れくる場所であることだけでなく、歌舞伎『東海道四谷怪談』の「戸板返し」の場面で、戸板の裏表に打たれたお岩と小仏小平の死体が流れ着いたのが砂村(隠亡堀(おんぼうぼり))ということを想起させようとの魂胆があってのことです。つまり、歌舞伎の名場面の場所であることを作品購買の動機付けに応用しているということで、浮世絵が庶民文化であることを端的に物語っています(90「大はしあたけの夕立」参照)。広重の作画動機もこの点に始まるのではないかと思われます。

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67 水道橋駿河台

安政4年閏5月(1857)改印
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 安政4年閏5月改印の作品として、時期に合わせ、端午の節句の様子を描いたことが分かります。『斎藤月岑日記』(『大日本古記録 齋藤月岑日記六』p193)によれば、安政4年5月5日は前日から大雨で、本作品の右下の道を歩く人々が傘を差しているのも実景描写を意識していたのかもしれません。『絵本江戸土産』5編の図版「水道橋」には、「右(お茶の水)の川上に神田上水の筧をかけられ 猶其川上の橋をかく呼ぶは水道筧のある故になるべし 橋より内を小川町と唱へ 外をば小石川と呼ぶ」と書き入れられています。「駿河台」はまさに駿河国のように富士山の眺望に勝れた場所で、その富士を遠景に捉えつつ、近景に鯉幟を描く広重得意の近景拡大の構図で、遠近法の効果が際立ちます。

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 DVD『江戸明治東京重ね地図・御城』と対照させながら、本作品を見ると、近景および神田川沿い(三崎町周辺)には鯉幟が立っているものの、中景には吹き流しや武家幟・幟旗ばかりとなっています。これは、端午の節句に武家は鍾馗や戦道具に関連する武家幟や幟旗を揚げるのが通例で、鯉幟は裕福な町家の流行であったからです。神田川に架かる水道橋を江戸城側に渡った駿河台は武家屋敷の連なる地域なので、この辺りの描き分けは注意深く行われています。富士山もよく眺望できる晴れの日、中景左には江戸城田安門(千代田城)もあって、しかも、身分を超えて端午の節句を祝う情景であり、天下泰平の世の中を江戸の名所として描いているという印象です。

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 江戸百作品において、くびれる鯉と幟柱とが造る三角形の空間が遠景の富士に相似している点は見逃せません。実際の富士山と鯉が造る富士山の2つの御利益が重なり、また鯉自体が立身出世の象徴であるという縁起も加わって、大変お目出度い名所風景となっているからです。さらに、2つの富士に挟まれた駿河台をよく見ると、武家屋敷の中に、3つの火の見櫓が建っていることが確認できます。これは定火消同心屋敷の櫓であり、この地域の防火設備に対する信頼を醸成しつつ、定火消同心であった広重の強い関心をも表しています。なお、「水道橋駿河台」近隣は台地の窪みに出来た谷底低地であるため、安政地震の中心的被災地の1つです(『武江年表』巻之九、(『定本武江年表下』p69)。被災からまだ2年も経っていない状況下では、実際の情景が広重が描いたとおりであったとは思えません。しかし、安政地震という文脈では、江戸百作品は水道橋駿河台の復興を示唆し、被災前と変わらない江戸がここにはあることを広報しているものと理解されます。

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66 よし原日本堤

安政4年4月(1857)改印
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 本作品は、『絵本江戸土産』6編の図版「日本堤山谷」と「衣紋坂見帰柳」とを接合した構成で、書き入れには、「聖天町の末より千住にいたる長堤なり 所々見どころ多しといへども 就中吉原大門入口の辺より見わたせば 芒々たる廣野にして遥に小塚原の地蔵を見る 雪の日 殊に絶景なり」、および「右日本堤より西の方へ入れば新吉原町也 その下り口に一本の柳あり これを見返り柳といふ またその下り口を衣紋坂といふ これは この廓へ来る人ここにて衣紋をつくろふゆえの名 柳は後朝(こうちよう)この辺より跡を見かへる故の名なるべし」と記されています。DVD『江戸明治東京重ね地図・橋場隅田川』によって補足すると、日本堤は、「浅草聖天町」から「下谷三之輪」まで続く長さ1.5km程の長大な堤防で、荒川の氾濫から江戸を守るために築かれたものです。明暦3(1657)年、遊廓が日本橋から浅草に移転するとその通い道として利用され、これは道普請も兼ねた方策です。ちなみに、新吉原に通うには、日本橋や柳橋の船宿から舟で隅田川を遡り、山谷堀で降りて日本堤に上り、徒歩か駕籠で向かうのが普通です。

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 本作品では、堤の上には葭簀(よしず)張りの掛け茶屋が並び、堤の中程で西に折れて下る衣紋坂があり、大門に至ります。その分岐する所にあるのが見返り柳で、画中上部の堤が切れる辺りに描かれています。すやり雲には遊廓の照り返しの紅色があって、新吉原の所在を指し示しています。なお、新吉原の西南方の田圃には酉の市で有名な「鷲(おおとり)神社」があり、旧暦11月の酉の日の祭礼には多くの人々が訪れます。それは同時に新吉原に出かける口実でもあり、酉の市と新吉原とは深い関連があります(99「浅草田圃酉の町詣」参照)。目次が本作品を冬に分類している所以です。月齢10日頃の月なので、おそらく「一の酉」頃の吉原通いの情景と想定されます(安政2年は12日、安政3年は7日、安政4年は8日)。月に鴈も冬の季節感ですが、鳥繋がりで鷲神社に掛けているのかもしれません。

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 江戸百作品は、57「廓中東雲」と同一の版行動機に基づく作品です。したがって、安政4年4月19日に起こった仮宅での2組の心中事件を下敷きにし、同年6月からの新宅での営業再開の予告を意図していると考えられます。新吉原の営業再開を手放しで喜び勇んで伝えることには幕府への忖度もあって、35「猿わか町よるの景」と共通する、落ち着いた情緒表現が意識的に選択されているように思われます。

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65 柳しま

安政4年4月(1857)改印
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 安政4年4月改印の中では、唯一隅田川東岸地区にある本所柳島からの作品です。47「小梅堤」の東方に当たります。この辺りには、柳島の妙見堂、亀戸天神、梅屋敷などの行楽地が展開し(DVD『江戸明治東京重ね地図・寺島亀戸』参照)、縦横に走る水路を利用して文人墨客など多くの人々が訪れています。『絵本江戸土産』初編の図版「柳嶋妙見の社」には、「本所亀戸の西北にあたる 北辰妙見大菩薩の霊験殊にあらたなりとて 朔望の外 縁日には貴賎の群集ひきもきらず いとも尊き霊神なり」と書き入れられています。安政地震の関連では、『武功年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p70)には、「中の郷太子堂・押上最教寺・柳島妙見宮の門前拍戸(りようや)橋本潰る」とあって、被災地域であったことが分かります。

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 本作品は、画中の左下方から斜め右上に描かれる横十間川とそこに架かる柳島橋、および中景を横切る北十間川とが交錯する辺りに焦点を当て、赤い塀で囲まれた妙見堂とその北側にあった懐石茶屋「橋本」とを画題としていることが分かります。「柳島の妙見様」で知られる妙見堂は、日蓮宗妙見山法性寺境内にあって、北極星を神格化した北辰妙見大菩薩が祀られ、災難を取り除き、福を招くと信じられ、北辰を雅号の由来とする葛飾北斎や歌舞伎役者中村仲蔵などにも篤く信仰されていたことで知られています。

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 広重の名所絵の構造を知るためには、本作品はとても良い教材となります。すなわち、1つに、近・中景に妙見堂、遠景に霊鷲山に見立てられる筑波山を配し、まさに宗教的御利益が重なるという意味で見所の場所であることを表現しています。そのために、筑波山は実景とは異なって、すやり霞を応用してかなり西(左)側に移動されられています。さらにもう1つに、若鮎料理などで有名な橋本という、世俗的な行楽の地でもあることを添えているのです。風光のみならず、これらの要素が積み重なって、「柳しま」は江戸の名所となるのです。なお、本作品を被災からの復興という文脈に置けば、前掲「小梅堤」が地震によって潰れた高級料亭「小倉庵」を隠れた画題としていたと同様、懐石茶屋「橋本」の営業情報が伝えられていると読み解くことができます。本作品は目次では春に分類されていますが、それは橋本が春から初夏に掛けての若鮎料理などで有名なことと関連しており、その点で安政4年4月の改印版行も自然なことと思われます。

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64 目黒元不二

安政4年4月(1857)改印
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 安永6(1780)年、高田村の藤四郎が富士山の麓から溶岩塊を運び、宝泉寺領に人造の富士山を築いたのが富士塚の初めで(49「高田の馬場」参照)、築山に登って富士山を拝めば御利益が得られるとの信仰から江戸各地に造られることになりました。「目黒元不二」もその1つで、62「目黒新富士」に遡ること7年前の文化9(1812)年、目黒川崖線上に富士講の先達伊右衛門の指導によって造られ、その富士講の紋「丸に旦」に因んで「丸旦富士」、新富士に対して「元不二」と呼ばれました。DVD『江戸明治東京重ね地図・上中目黒』で見ると、渋谷方面から来る「大山道」が三田用水を渡った先にある「目切坂」の上部に造られていることが分かります。

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 『絵本江戸土産』7編の図版「目黒元不二下道」の書き入れには、「江都に冨士と称するもの往々に造り築きて その数多くなりぬれど わきてこの所は自然の風景他に倍りたる勝地にて その道は三保ケ崎の容(さま)を模して 並松のむら立ちもまた物舊(ものふり)たり」とあります。この富士塚は高さ12m程の山容の綺麗な築山で、頂上には浅間神社が祀られています。本作品を見ると、山麓から頂上に登山用の小道があり、中腹辺りの一本松が特徴的です。左下には床机に座して桜の花を見る人々が描かれ、その芝の先が崖状になっているという構図です。大山道沿いなので、多くの人が訪れたであろうことが容易に想像できます(目黒区HP「歴史を訪ねて」)。

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 江戸百に描かれる富士塚を、江戸土産作品によって補完的に見直すと、松もしくは松原が特徴的な塚であることが再確認できます。江戸土産作品の書き入れによれば、三保の松原に見立てられて造営されているということなので、したがって、塚の中腹辺りの一本松は、羽衣の松に擬えられていると解するべきでしょう。天女が降り立った羽衣伝説が富士塚に付会され、しかも浅間神社の祭神・木花咲耶姫を象徴する桜の花が咲く風景が中景に描写されているのですから、富士講の信者を相当意識していることは間違いありません。広重の名所絵の根元には、神々の世界や物語を写すという思いがあるように思われます。なお、床机に座し、富士山と丹沢山系(大山)を眺める薙髪の人物は、取材に訪れた広重自身の姿かもしれません。

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63 目黒太鼓橋夕陽の岡

安政4年4月(1857)改印
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 DVD『江戸明治東京重ね地図・上中目黒』を参照すると、目黒川崖線の東側の永峯町より川下に向かうと急坂の「行人坂(ぎようにんざか)」に出ます。坂の中腹にあった「大円寺」を創建した行者(行人)に因んだ名前です。さらに下ると、目黒川に架かる石橋があって、その姿が太鼓の胴に似ていることから「太鼓橋」と呼ばれています。「夕陽の岡」は、本作品左側背後に見える急勾配の台地で、「明王院」の紅葉に当たる夕日が大変に美しいことからの命名です。太鼓橋を右手に進むと、「目黒不動堂」(泰叡山滝泉寺)の表参道に至ります。本作品は、目黒川上流を前景にする構図です。『絵本江戸土産』7編の図版「其三同太鼓橋夕日の岡」には、「江都にこの名の聞こえたるは 亀戸菅廟(かめどかんびよう)の社前にありて筑紫宰府を摸(うつ)せりとか 爰は それとは縡変(ことかわ)り 石橋(せききよう)にして他に異なる ただ 幽邃(ゆうすい)の地にありて普く人の知らざるは 実に工人の遺憾とせんか」と書き入れられています。

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 江戸百作品では見落としがちですが、江戸土産作品を見ると太鼓橋の右詰めに一軒の建物があることに気付きます。『江戸名所圖會』巻之三の図版「太鼓𣘺」(『新訂江戸名所図会3』p112~p113)によれば、そこには「しるこ餅」を提供する「正月屋」という店があったことが分かります。本作品が雪景色として描かれているのは、この正月の温かいしるこ餅という宣伝効果を考慮してでのことではないでしょうか(118「びくにはし雪中」参照)。広重『冨士三十六景』「東都目黒夕日か岡」において、明王院の紅葉が描かれているのとは対照的です。

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 江戸百における名所には、風光の美しさだけではなく、茶店、料亭など地域の有名店がさりげなく選定されていることが少なくなく、この営業的配慮は、絵師というより版元に起因するものではないかと思われます。なお、安政4年4月改印の一連の目黒作品として、目黒不動尊の開帳とその近郊の観光情報を提供する範疇に属します。

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62 目黒新富士

安政4年4月(1857)改印
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 安政4年4月改印の目黒に関する一連の作品は、同年2月28日より60日の間行われた目黒不動尊の開帳に合わせて、近郊の観光情報を広く提供する趣旨と考えられます。地理的観点からは、品川方面(10「品川御殿山」、11「品川すさき」)への取材と同時期と思われます。『絵本江戸土産』7編の図版「同所(目黒)新富士山上眺望」には、「前図の少し傍に 新富士と称うれども何時築立しものやらん その年月も詳にせず 俚俗に新という名は負(おわ)すれど 樹木のありさま 芝生の貌(かたち)宛(さながら)近きものにはあらず 四時の差別はなきものながら この山上より眺望すれば 秋は殊さら眼下の諸木々(もろきぎ) 或いは紅 あるいは黃に染なしたる霜葉(そうよう)の機(はた)ばり広き錦のごとし」と記され、築造の時期等に関して含みのある表現が気になります。

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 「目黒新富士」は、文政2(1819)年、幕臣(旗本)の近藤重蔵が、目黒台の崖線にあった三田村鎗ヶ崎の抱屋敷(私有地)内に築いたものです。三田用水を邸内に引き込み流水を楽しみ、その延長戦上に富士の築山を鑑賞目的で築造したもので、築造を手伝った富士講の人々と同じ信仰心からではなかったと考えられます。ちなみに、近藤は松前蝦夷地御用役として、幕府公式の蝦夷調査を行い千島列島や択捉島を探検し、「大日本恵土呂府」の木柱を立てた歴史的功績を残した人物です。この事蹟は、江戸幕府が北方防衛を従前より果たしていた証拠として領土主権上重要です(『朝日日本歴史人物辞典』朝日新聞社・1994、p701および目黒区HP「歴史を訪ねて」)。

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 江戸百画中の築山の中腹に石碑と祠が見えているのは、富士講再興の祖、食行身禄(じきぎようみろく)(1671〜1733)を祀ったものです。季節は富士の山開きの6月1日ではなく、桜や藤の花が咲く春で、塚を登りあるいは茶屋に訪れる老若男女が写されています。塚の脇を流れる川は、かつての三田上水の名残の用水で、古川(27「廣尾ふる川」)、赤羽川に合流します。絵師の視点は、目黒崖線の高台を走る「祐天寺道」の「別所坂」辺りからと推察されます(DVD『江戸明治東京重ね地図・上中目黒』参照)。故に、本作品の中景の森に囲まれた御堂は、「目黒不動堂」(滝泉寺)ではなく、塁(かさね)の解脱物語で有名な浄土宗「祐天寺」(『江戸名所圖會』巻之三、『新訂江戸名所図会3』p143)と見るべきです。


 後日譚ですが、文政9年(1826)、別荘の管理を任されていた近藤の長男富蔵が、隣家の茶屋の住民との境界争いから7名を殺害する事件が起こり、富蔵は八丈島流罪、重蔵は近江国大溝藩預かりとなります。本作品が茶屋を描いているのはこの事件を彷彿させますし、富士講の信者の宗教心を利用して築いた父親の富士塚が因縁となって、その茶屋を巡って長男が殺人を犯すという結末となっていることは、親の因果が子への報いとなった祐天寺の累伝説と繋がるものと言えます。その意味でも、中景は目黒不動堂ではなく、祐天寺と考えます。さらに深読みすれば、「目黒新富士」の背景にこのような幕臣の絡んだ事件があるので、『絵本江戸土産』は築造に関して含みのある表現を採っているのではないでしょうか。

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61 目黒爺々が茶屋

安政4年4月(1857)改印
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 28「目黒千代か池」において、その場所を「渋谷より目黒へ往還の芝生の岡」と説明しましたが、その往還に沿って、64「目黒元不二」、62「目黒新富士」、本作品、前掲「目黒千代か池」がほぼ1列に並び、目黒川と並行する荏原台地にありました(DVD『江戸明治東京重ね地図・上中目黒』参照)。目黒川側が切り立った崖になっており、富士山眺望に勝れている点が特徴です。『絵本江戸土産』7編の図版「同(目黒)其二爺々が茶屋」の書き入れには、「むかし、寛永の頃かとよ 大樹 この野辺に放鷹(ほうよう)ありて ここに立よらせ給うといふ その頃 老人夫婦あり これを歓待し奉る 因て 爺々が茶屋とよぶ されば今 老夫ならぬも爺ゝという名を負したる いとも殊勝の舊跡なり」とあります。すなわち、大樹、ここでは将軍徳川家光が鷹狩りの帰りに寄った際、1軒の茶店の主人に「爺、爺」と話しかけたことが命名の由来になっています。「目黒のさんま」の噺の土台となった逸話で、このような画題選択には広重の佐幕的心情が感じられます。

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 前掲「目黒千代か池」には、『絵本江戸土産』3編で描いたものを同7編で描き直したという経緯がありましたが、地理的に一体性がある本作品もやはり同7編に元絵があることを勘案すると、本作品は、同時期に広重が実際に目黒方面に出かけた際の一連のスケッチに基づくものと推測されます。本作品中、坂の下で日傘を差した薙髪の人物が富士山を眺めており、この人物こそ旅の途中の広重かもしれません。

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 『武江年表(安政四年)』(『定本武江年表下』p91)によれば、「同(二月)二十八より六十日の間、目黒瀧泉寺不動尊開帳(境内見せもの多く出る。諸人群衆し、奉納物多し)」とあって、本作品を含めた一連の作品の版行意図は、目黒不動尊の御開帳に絡んで目黒方面への観光情報を提供しようという趣旨と理解されます。目黒瀧泉寺は、掲載地図から外れますが、「爺々が茶屋」の南方に位置しています。また、安政4年4月改印の作品群に、富士山に関する題材が続くのは、広重が、富士に関する別シリーズを準備をしていたこととも関係がありそうです。たとえば、広重『冨士三十六景』には、63「目黒太鼓橋夕陽の岡」と同じ「東都目黒夕陽か岡」などがあります。いずれにしろ、広重の目黒方面への富士山取材は確実にあったものと思われます。

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60 高輪うしまち

安政4年4月(1857)改印
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 『絵本江戸土産』2編の図版「高輪の光景」および「同所廿六夜待」の書き入れには、「田町より末 品川宿の入口まで すべて是を高輪といふ 海上の絶景芝浦に同し」、「毎年七月廿六夜 諸人この所に群集して月の出を待つのあひた 或ひは 樓上の酒宴 歌舞音曲 新(噺)し 写し画 辻講釈 その賑ひいふばかりなし」とあります。したがって、本作品は「高輪」の大木戸を入った辺りから近景拡大の技法を使って低い視線で品川宿方向を望む構図であり、描かれていない近景には、7月26日の月を愛でる風習である「廿六夜待」の人々の雑踏があったはずということになります。題名の「うしまち」は、高輪に牛車を使って荷物を運ぶ牛持人足が多く定住していたことから名付けられた俗称で、DVD『江戸明治東京重ね地図・三田高輪』には、「芝車町」と記載されています。

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 早朝に近い月の光の中に阿弥陀三尊の姿を拝むという信仰から一種お祭り騒ぎにもなった廿六夜待(祭)ですが(『東都歳事記』巻之三、『新訂東都歳事記下』p45参照)、本作品の場合は、とりわけ、その日の朝に見えた虹の姿を写しており、月光と日光の両方から生まれた奇瑞を拾い上げ表現する趣旨と思われます。広重は、多くの場合、名所絵の本質として風景の美しさだけではなく、宗教的とまでは行かないにしても、御利益のありそうな、めでたい情景を探し出して構図に組み込もうと努めているように思われ、本作品にもその特徴が表れています。

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 食べ残した西瓜の皮や脱ぎ捨てられた草鞋と戯れる2匹の犬を、「うしまち」を象徴する牛車の車輪の傍らに描いて人々の喧噪を捨象する構図は、祭の後の寂しさを感じさせます。江戸百作品は、近景拡大の構図を使っただけでなく、雑踏風景を細密に描こうとしていない点で、江戸土産作品の延長線上にあると断定するにはやや躊躇を覚えます。

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 おそらく、先行作品・歌川国芳・大判3枚続『東都風景高輪虹蜺』(古賀屋勝五郎・弘化元年~4年・1844-47)から着想を得たと考えた方が自然です。その上で、広重作品の作画当時すでに建設されていた「御炮台場」を描き加えて、品川の最新の名所絵として創作したものと考えられます。深読みすれば、本作品が黒船到来によって様変わりしつつある品川の海を背景にしていることを勘案すると、江戸時代の伝統的な月の祭である「廿六夜待」の様子ではなく、その日の朝の虹を写して、新時代の到来に重点を置いたのではないでしょうか。『武江年表(安政四年)』(『定本武江年表下』p92)に、3月、「蒸気観光丸御船、品川沖へ着」と記され、その場合、牛車の車輪は蒸気船の外輪と重なります。

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59 せき口上水端はせを庵椿やま

安政4年4月(1857)改印
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 本作品は、07「井の頭の池弁天の社」を水源地とする神田上水が、41「高田姿見のはし俤の橋砂利場」を過ぎ、大洗堰(「関口」)に至る手前の、神田上水の岸辺(「上水端」)の風景です。『絵本江戸土産』7編の図版「関口上水端芭蕉庵椿山」の書き入れには、「関口というは この書前の編に図(かずな)したる井の頭の池より東都へひく上水の別れ口にて 一は上水に入り 餘水は江戸川へ落る 本字(ほんじ)堰口(せきぐち)に作るべし させる風景の地ならずといへども 水に望み廣野に望みて 只管(ひたすら)閑雅(かんが)の地なるにより 俳諧者流(しやりゆう)この菴(いお)を作り会合(かいごう)して風流に遊ぶ」とあります。なお、ここに言う「江戸川」は旧利根川の江戸川とは別で、下流にて再び神田川に合流します。

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 「はせを庵」(芭蕉庵)は、作品中景右側に描かれる建物で、松尾芭蕉が若かりし頃、この上水工事事務に従事した際この龍隠庵(りゆうげあん)辺りに住んでいたことから、後に芭蕉の弟子達が庵を造ったものです。DVD『江戸明治東京重ね地図・音羽牛込』には、「洞雲寺持地中龍隠庵芭蕉堂」と記載されています。「椿山」は、芭蕉庵背後の小高い山の「水神・椿山八幡宮」を差すものです。治水対策に椿の植栽には、古来より深い関係がありますが、現在は「駒塚橋」の下流にあった大名下屋敷(上総久留里藩黒田淡路守真和)の庭園が「椿山荘(ちんざんそう)」として名を残しています。なお、桜の手前には、「夜寒の松」と呼ばれる、柄井川柳(からいせんりゆう)縁の松が描かれています。

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 江戸土産作品に比べ、駒塚橋よりさらに芭蕉庵に近づいた構図を採用し、上水の流れをくの字に折り曲げる広重得意の表現です。『絵本江戸土産』7編には、10「品川御殿山」、11「品川すさき」の元絵もあって、動機に狂歌師仲間との品川旅行が想起されたのですが、本作品の元絵も同7編にあることを勘案すると、本作品は、当時誹諧狂歌の世界に遊んでいた広重の交友関係から生まれたということも考えられます。また、本作品が安政4年4月改印ということを考慮すると、この地が「江州瀬田の義仲寺に髣髴たるをもて、 五月雨に隠れぬものよ瀬田の橋 といへる翁の短冊を塚に築き、五月雨塚と号す」(『江戸名所圖會』巻之四、『新訂江戸名所図会4』p173、p178)とある、「五月雨塚」に掛けているのかもしれませんし、龍隠庵の別当であり、上水の守護神を祀る「水神社」の祭礼が、5月15日であることを念頭に置いているのかもしれません。ちなみに、「椿山八幡宮」の祭礼は、8月15日です(同書p178)。

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58 墨田河橋場の渡かわら竈

安政4年4月(1857)改印
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 本作品は、30「隅田川水神の森真崎」の反対岸から描いたもので、渡し船が描かれている背後の風景は隅田堤の桜並木と煙辺りは水神の森でしょうか。『絵本江戸土産』6編の図版「橋場の渡し」の書き入れには、「橋場町の末にあり これそのむかし石浜とよびて 古き戦場の跡なりといふ 隅田川の風光は ここらにまさる所なし」とあります。「橋場の渡」(真崎の渡)は、かつて千住大橋ができるまでは、奥州街道が浅草御門を出て、隅田川に沿って北上し、聖天町、今戸町を越えて、橋場から舟で対岸の向島の寺島村を経由し北上していた頃からの歴史を刻むもので、在原業平の古歌「名にしおはば いざこととはん都鳥 我が思ふ人は ありやなしやと」(『古今和歌集』)の地としても有名です。したがって、本作品中に描かれる8羽の鳥は都鳥(ゆりかもめ)のイメージです。

 DVD『江戸明治東京重ね地図・橋場隅田川』
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 また、『絵本江戸土産』6編の図版「今戸瓦竃」の書き入れには、「この所は 山谷に鄰り 隅田川の西岸なれば 風景元よりよきがうへに この所にて瓦を製す竈幾個が連なりて 口をひらくとき立昇る煙は 蜑(あま)が塩屋に異ならず」とあります。今戸は隅田川西岸の新吉原や東岸の墨堤の桜などの中継地に当たり、船宿や料亭の発展した所であるので、春の風光紹介と合わせて、地域各店への遊客を誘うものと考えられましょう。

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 絵組的には、江戸百作品は2つの江戸土産作品を統合した延長線上に作画されたことがよく分かります。ただし、江戸土産作品とは異なって、江戸百作品には隅田川上流方向に筑波山が描かれ、やはり筑波山が描かれていた前掲「隅田川水神の森真崎」の構成と合わせています。図版「今戸瓦竃」の書き入れが言うように、「かわら竈」の煙を「蜑(あま)が塩屋」と看做せば、筑波山は、北斎作品(『冨嶽三十六景』「東海道江尻田子の浦略圖」)を念頭に置いた場合、塩屋の背後に描かれる富士山に見立てられているということになります。なお、安政地震からの復興という文脈では、手前の竈の煙は家屋敷の瓦を頻繁に生産する復興の煙であり、遠景の大堤の桜は火災で消失した向島の再生と解すこともできます。その場合、筑波山は平和な未来風景(仏国土)の象徴と理解することになり、竈の煙は一種の「送り火」と感じられます。また水神社が火除けの鎮守ということを想起すれば、定火消同心であった広重の火難への思いというものも読み解けるというものです。
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57 廓中東雲

安政4年4月(1857)改印
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 廓中とは、遊廓、ここでは新吉原を指します。『絵本江戸土産』6編の図版「其二娼家(しようか)」の書き入れには、「右仲の町(なかのちよう)の左右に小路あり まず大門(おおもん)を入て右の方の小路を江戸町(えどちよう)一丁めといひ 左の方を江戸町二丁目といふ また 中程に至り左の小路を角町(かどまち)といひ 右を揚屋町(あげやちよう)といふ 行当りに火の見ありて その前の方に秋葉山へ奉納の常灯あり その辺より左を京町(きようまち)二丁目といひ 右を京町一丁目といふ これみな娼家にして その数量るべからず 昼夜絲竹の音絶えず 三千の遊女紅の裳(もすそ)をひるがへして遊客をむかふ 実に昇平の楽国なり」と記されています。

 DVD『江戸明治東京重ね地図・浅草両国』
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 本作品に描かれる場所が新吉原のどこであるかは、小路の背後の薄雲(「東雲」)に重ねられた朱色のぼかしを朝日を考えて、角町方向を見通したものと推測します。というのは、『江戸名所圖會』巻之六の図版「新吉原町」(『新訂江戸名所図会5』p436~p437)を見ると、江戸町2丁目の冠木門には屋根がついており、他方、角町、京町2丁目の冠木門には屋根が葺かれていません。また、新吉原では、大門に近い方、仲の町に近いほうが高級な娼家で、本作品の娼家の佇まいから京町2丁目までは行っていないと判断されます。以上を勘案すると、仲の町と新吉原の真ん中で交差する角町と考えるのが自然です。本作品では、手前の道が仲の町で、左手が大門方向となります。遊女らしき女や、提灯を持った侍女に導かれて、木戸を出て大門に向かう男達の早朝の別れの姿、「後朝(きぬぎぬ)の別れ」が描かれていると分かります。
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 『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p70)によれば、安政地震によって、「吉原町の焼たるは他所より早し。京町二丁目・江戸町壱丁目より火起り、其余、潰たる家々より次第に焼出て、一廓残らず焼亡す」とあり、その後、『武江年表(安政四年)』(『定本武江年表下』p94)によれば、安政4年6月に至ってようやく、「吉原町娼家の僑居(かりたく)、六月を限りとして引払ふべき旨を命じられ、追々に新宅成りて旧地へ帰る」とあります。この観点を強調すれば、江戸百作品は新吉原の営業再開へ向けての宣伝広告と考えることができます。

 しかしながら、江戸百作品は、後朝の別れを墨摺りに近い抑えた表現で仕上げており、新宅の宣伝としてはいささか華やかさに欠ける気がします。その理由を考えてみると、『武江年表(安政四年)』(『定本武江年表下』p93)には、同年4月の事として、「同十九日夜、本所松井町一丁目に僑居(かりたく)の廛(みせ)を開し吉原揚屋町娼家新丸亀屋鉄五郎が抱への遊女玉川・雛次両人・馴致(なじみ)の客両人、合て四人、一間(ひとま)の二階座敷に於て情死す(男は、小田原町と長浜町の魚店につかはるゝ男なりし。吉原開発よりこのかた、四人一時に情死せるためしを聞ず)」と記されているので、この仮宅を舞台にした一大心中事件が影響しているのではないかという見解があります(原信田・『謎解き 広重「江戸百」』p133頁参照)。事件が起こった時刻が「暁八ツ時」なので、それを明け方の「東雲」で暗示し、仮宅を新吉原に変え、幕府による心中事件の取締を避ける工夫を加えつつも、仮宅の心中事件の話題性を利用して、安政4年4月改印の名所絵という形式で版行したいう立論の方が、版元目線ではより説得力があるように思われます。新吉原の再開と仮宅での心中事件の両話題を取り込んだ可能性は否定しませんが…。

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56 四ツ木通用水引ふね

安政4年2月(1857)改印
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 『絵本江戸土産』7編の図版「四ツ木通曳舟道」に「前に記せし掘割は その長きこと二里に餘り 末流新宿の川に入る 適(たまたま)ここを過るの旅客舟に乗て往還すれど 元来幅の狭きによりて その舟に縄を掛け陸にありてこれを引く 因て引舟道(とお)りと唱ふ 水竿(みさお)を操り盧(ろ)をおすより またその容(さま)は風雅なり」との書き入れがあるとおり、「四ツ木通用水」は、本所小梅、向島四ツ木・篠原村、亀有村を繋ぐ水路で、もともとは本所への上水の役割を担っていましたが、水質が悪く廃止されたものです。その後、引舟の水路として利用されるようになり、水戸街道あるいは柴又帝釈天への交通や運搬の要路となり、まさに「引ふね」道と言われる所以です。47「小梅堤」、次に亀有の舟着場の手前辺りを描く本作品、そして52「にい宿のわたし」と地理的に続いていて、一連の作品と理解できます。

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 なお、江戸百、江戸土産作品には、広重によって描法に作為が加えられている点に注意が必要です。第1点は、DVD『江戸東京重ね地図・寺島亀戸』で確認すると明白ですが、本来ならば一直線の水路が左右に蛇行していることです。これは、蛇行させることによって長さを演出する描法です(23「小奈木川五本松」等)。第2点は、篠原村・亀有間の川筋は、広重の作品とは異なって、実際には「古上水堀」と「中井堀」という2本の用水が堤を隔てて並行して走っており、2本の川筋部分が省略されていることです。

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 ちなみに、引舟は、舟の舳先の後方に棒を立て、これに綱を結んで引く方法をとっているので岸にはぶつかることはなく、また浮力を利用しての運搬なので女性でも引くことができました。本作品の上部には、江戸土産作品にはない日光連山の山並みが描かれ、水戸街道に向かう道筋の北方に日光連山を描くのが広重の定番的表現と推測されます(05「千住の大はし」、前掲「にい宿のわたし」)。本作品下部の川岸には梅の蕾が見えており、安政4年2月改印の季節感としては自然な表現です。

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55 南品川鮫洲海岸

安政4年2月(1857)改印
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 本作品とDVD『江戸明治東京重ね地図・品川宿』を対照すると目黒川の南側が「南品川」に当たり、紅葉の名所「海晏寺」辺りが「鮫洲」で、海岸近くを東海道が走り、その両側が「門前」と記されていることに気付きます。つまり、「鮫洲海岸」は海晏寺の記号でもあるということです。『江戸名所圖會』二之巻(『新訂江戸名所図会2』p80)には、「鮫一口漁夫の網にかかりて揚がれり。腹中より正観音の霊像を得たり」とあって、これを聞いた鎌倉の北条時頼は祥瑞として、「その辺りに仏閣を闢かれ、観音の浄土なればとて補陀山(ふださん)と号し、四海安平の義によりて海晏寺とせらる」と記されています。

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 広重の制作動機の先取りですが、「補陀(落)山」とは仏教の世界観では南方海の果てにある観音の浄土を意味しています。故に、本作品の北方の果てに釈迦が説法する霊鷲山を象徴する双耳峰・筑波山を意図的に挿入し、「南品川鮫洲海岸」を希代祥瑞の名所として描き上げているのです。つまり、南北に仏の霊地を見ることのできる名所に位置づけているということです。江戸土産作品と比べると、本作品が中景に海晏寺、遠景に筑波山を意識させる絵組を採っているのもこれが理由です。

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 『絵本江戸土産』2編の図版「南品川鮫洲大森」には、「この海岸の絶景は更なり 多く粗朶(そだ)を建て 海苔をとり この辺の名産とす この海苔 諸国に冠たるものなり」と書き入れられています。江戸百作品でも、遠浅の海に女達を中心に船で粗朶が建てられ、海苔の養殖がなされている風景が続きます。これらの海苔は「浅草海苔」として全国に売られました。海苔の養殖は、秋の彼岸から春の彼岸まで行われ、寒中に採れるものを絶品とするとあり(『江戸名所圖會』二之巻・図版「浅草海苔」解説、『新訂江戸名所図会2』p160~161)、そのためか、本作品は目禄では冬に当てられています。しかし、安政4年2月改印であることを意識すれば、営業目線では、春の彼岸時期に繋げ、浅草海苔の宣伝と、海晏寺の彼岸参りとに掛けて制作されていると考えて良いのではないでしょうか。

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54 みつまたわかれの渕

安政4年2月(1857)改印
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 『絵本江戸土産』2編の図版「中洲三つ俣」の書き入れに、「新大橋より南の方 昔ここに茶屋ありて その賑わひいわんかたなし 今とり拂ひて洲となれど 猶月雪の風景よし」とあり、かつては中洲部分に茶屋や湯屋などがあって繁栄を極めていましたが、上流の洪水対策のため元の中洲に戻されました(『武江年表・安永元年』、『定本武江年表中』p49)。この中洲によって隅田川が2つに分かれ、その下流の箱崎島で支流がさらに2つに分かれるので、中洲と箱崎島の間の辺りを「みつまた」と呼んだと言います。また、「わかれの淵」は、江戸湾の塩水と隅田川の淡水との境界、汽水域であることを意味しています。

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 本作品は、50「鉄炮洲稲荷橋湊神社」と重ね合わせるとよく理解できます。遠景の富士と近景の高瀬船の帆柱を支える綱が創る三角形が相似形を成し、北斎を意識した構図と分かります。広重には、北斎よりも名所絵として自然な絵組であるという自負があったはずです。情景的には、成田詣であるいは行徳からの帰り、小名木川を船でやってきて、万年橋を潜り、ようやく隅田川に着いたなあ…と顔を上げた時、見えるのが本作品風景です。したがって、安政4年2月改印の成田山新勝寺(御開帳)を隠されたテーマとする他の作品群との一体性が窺えます。なお、97「深川万年橋」の橋向こうの景色が、本作品「みつまたわかれの淵」という関係があります。

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 江戸土産作品とは異なり本作品が鳥瞰的視点を採った結果、箱崎川沿いに立ち並ぶ屋敷群、なかでも、画中右側部分の赤い壁の武家屋敷に目が行きます。安政6年夏再板切絵図『日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖』(尾張屋清七)には「堀田備中守(上屋敷)」と記されています。この堀田備中守は、堀田正睦(正篤)のことで、安政地震の際、表猿楽町の上屋敷で被災し負傷した1週間後、当時の老中首座であった阿部正弘の推挙を受けて老中に再任され、かつ、安政3年10月には、正弘から老中首座を譲られ、さらに外国掛老中をも兼務した人物です。つまり、安政地震の復興責任者であり、かつ米国との外交(通商)責任者という重責を担っていた人物なのです。江戸百の制作当時、もし屋敷替えがあったのだとすれば、外交的・政治的選択の分かれ道にあった老中首座堀田正睦と、題名「みつまたわかれの渕」を掛けて揶揄するものなのかもしれません。しかも、富士見の目出度い名所風景を描くことによって、老中首座就任の正睦を寿いでいるという逃げる道も残しているのです。これは、広重というより版元にとっては捨てがたい商機です。

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53 日暮里寺院の林泉

安政4年2月(1857)改印
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 日暮里(20「日暮里諏訪の臺」)は、寛永寺のある東叡山の北西側の台地で、を参照すると、道灌山と谷中の中間に当たり、その台地を利用して多くの寺院があることが分かります(DVD『江戸東京重ね地図・田端駒込』参照)。また、それらの寺院には奇観とも言うべき庭園(林泉)が造られていることでも有名でした。本作品は、『絵本江戸土産』4編の図版「其二同所(日暮里)寺院庭中雪の景」および「其三同所つゞき」の一部を切り取り、季節を春に変え構成したと考えられます。

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 場所は、江戸土産作品の元絵と思われる、『江戸名所圖會』巻之五の図版「日暮里惣圖」(『新訂江戸名所図会5』p107~113)と照らし合わせ考察すると、諏訪の臺を降りて寺院の南西側から林泉を眺望したもので、一体として花見寺と呼ばれる、青雲寺・修性院(しゆうしよういん)・妙隆寺(みようりゆうじ)の中の前2寺院辺りを描いているものと推測されます。中景の富士見坂(?)の左側が青雲寺、右側が修性院で、本作品の中景右隅にある船形をした刈り込みは修性院の呼び物でした。DVD古地図の桜の印が付いているのも、ちょうど修性院の敷地です。なお、近景に描かれる2本の枝垂れ桜の下半分の色摺に関し、初摺では地色に塗りつぶされています。下の境に緑色のぼかしが入っているので葉桜かもしれないという見解もありますが、江戸百作品(後摺)を参照すると単純な摺誤りと見た方が自然です。敢えて言えば、上部の方だけに日の光が当たっているという表現と捉えることもできますが…。江戸百作品中に、前掲「日暮里諏訪の臺」に描かれていたのと同く、薙髪の広重と似た人物が見つかります。

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 本作品は、安政3年3月13日の将軍御成りに関連する前掲「日暮里諏訪の臺」(浄光寺、雪見寺:将軍の鷹狩りの際、中食(ちゆうじき)の場所)のすぐ近くで、安政3年5月改印作品と一体として採り上げられても良かった景勝地ですが、ほぼ同じ場所にあるので、1年後の春に回されたのかもしれません。あるいは、安政4年1月21日の王子筋への将軍御成りに関連する作品に引っ掛けて、安政4年2月改印作品として拾い上げられたとも想像できます。営業的には、桜とつつじの花を見せて、明らかに春3月の花見寺への集客を広告する意図です。広重にとっては、『江戸名所圖會』から『絵本江戸土産』を経由し、その延長戦で作画したものと評価できます。

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52 にい宿のわたし

安政4年2月(1857)改印
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 『絵本江戸土産』7編の図版「新宿の渡し場」には、「前図小梅の引舟を過てこの所へ出る 川幅凡そ一町ばかり 尤夏秋洪水なれば 河原に渺々(びようびよう)として海に似たり これ水戸街道の出口 渡をわたりて名高き料理や等いと賑はし」と書き入れられています。『東都近郊全圖・部分図』を使って地理関係を再確認すると、47「小梅堤」を発ち、56「四ツ木通用水引ふね」の終点から程なく亀有に着き、また千住大橋を渡り、千住宿で北に進む奥州街道と分かれて東に進むとやはり亀有で中川にぶつかり、ここにあるのが「にい宿のわたし」(新宿の渡し)になります。渡しの対岸に新宿という宿場町があるからですが、千住宿と松戸宿の間にできた新しい宿場という意味です。なお、新宿の町中で、水戸への道と佐倉への道とが分岐します。51「中川口」、48「逆井のわたし」そして当該「にい宿のわたし」と、中川を探訪する作品が続きます。

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 江戸土産作品の視点が「水戸街道の出口」新宿側から渡しを眺めるものとするならば、江戸土産作品では近景が新宿であり、対岸が亀有となります。江戸百作品は視点を反対にとって、亀有側からの眺めを描いたと考えられ、旅人の江戸を出発するというという感覚にも適合します。したがって、荷を積む帆船は江戸に荷物を運ぶ情景です。松の中に2階建の料理屋(千馬田屋(ちばたや))が展開する風景は共通しています。その店の川岸には釣りをしている人物が描かれ、『江戸名所圖會』巻之七の図版「新宿渡口」(『新訂江戸名所図会6』p299)の書き入れに、「松戸街道にして、川よりこなたは亀有といへり。この所を流るゝは中川にして鯉魚(こい)を産す。もっとも美味なり」とあるのを受けた描写と思われます。背景のすやり霞に浮かぶ山容は、その形からすると日光連山と推測されますが(05「千住大はし」、20「日暮里諏訪の臺」)、実際はもっと左方向に位置しなければなりません(「広重あるある」)。

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 版行動機は、版元魚栄堂の影響を強く感じますが、新宿の渡しの両岸には有名な料理屋があって、釣り糸を垂れる人々も描かれている点では、前掲「小梅堤」と同じ趣向を感じ、新宿の料理屋の営業広告という位置づけが妥当なのではないでしょうか。同時に、前掲「中川口」、同「逆井のわたし」と並んで、同じ中川に位置する風景であり、彼岸に佐倉への道、つまり成田山新勝寺(御開帳)への道の分岐があることも意識されていると考えられます。

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51 中川口

安政4年2月(1857)改印
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 『絵本江戸土産』初編の図版「中川」には書き入れがあって、「隅田川と利根川の其中間に挟まるをもて名を中川と呼ぶとなん ここには魚の多く在とて 春の末より秋に至り 網船 釣船 日毎に絶えず 諸人遊楽の地といふべし」と記されています。「中川口」は、その中川が小名木川(23「小奈木川五本まつ」参照)と合流する地点を指します。中川と竪川の合流地点は、すでに触れた48「逆井のわたし」に当たり、中川口の上流に位置しています(『東都近郊全圖・部分図』参照)。

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 小名木川およびそれに繋がる新川は、江戸の行徳河岸と下総行徳を結ぶ「行徳船(長渡船)」の航路であり、鴻の台、真間への行楽客や成田不動尊への参詣客を運ぶ目的がありました。したがって、本作品は、江戸川(旧利根川)筋への行楽や参拝の中継地を名所として描いていると理解されます。しかも、前掲「逆井のわたし」解説で触れたように、安政4年2月改印の頃は春の彼岸に当たり、また安政4年が成田山新勝寺の御開帳の年であることをも考えると、それらを受けて一帯の観光地を合わせて紹介しようとの広告目的が自然に導かれます。なお、中川に浮かぶ筏は、震災からの復興の文脈からは、江戸での旺盛な材木需要を表現してると解することになりますが、実際には、震災復興の有無を問わず、従前より行われている情景を写しているのだと思われます。

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 中川口には、中川船番所があり、江戸百作品では、左下隅にその一部が描かれており、そこから判断すると、手前に2艘の船が行き来する川筋が小名木川、絵の中央左右に流れる川が中川、そして、遠方、雲の彼方へ流れる川が新川であることが分かります。中川は作品の右側へ流れて海に至ります。なお、中川船番所といえば、「入鉄砲に出女」を厳しく取り締まる番所として有名でしたが、この時代になると、番所全体の綱紀はそれほど厳しくなく、地域の行楽や参拝を疎外する程のものにはなっていなかったようです。ちなみに、中川の向こう岸近くで釣りをする2艘の船が見えますが、制作の過程を考えると、これは『江戸名所圖會』巻之七(『新訂江戸名所図会6』p272~p273)の図版「中川釣鱚(なかがわきすづり)」を受けて、鱚釣りの様子を描いたものと思われます。「春鱚は三月の末より四月に入りて盛んなり」との解説が付されています。鱚釣りの紹介には、版元魚屋栄吉の影響を感じます。

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50 鉄炮洲稲荷橋湊神社

安政4年2月(1857)改印
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 「鉄炮洲」というのは、隅田川河口の南西側に当たり、霊巌島、鉄砲洲と続き、沖合に石川島・佃島があるという位置関係で(DVD『江戸明治東京重ね地図・築地石川島』参照)、その名の通り、もともとは、低湿地の砂州です。大砲の試射場であったことなど、名前にはいくつかの由来があります。「稲荷橋」は、鉄砲洲と霊巌島の間を流れる京橋川(八丁堀)の河口に架かっていた橋で、霊巌島と八丁堀の間を流れる亀島川(越前堀)と合流する地点にあります。「湊神社」は稲荷橋南東詰にあって、本作品の中で赤い建物がそれに当たります。江戸時代、上方から下ってくる米・塩・酒・薪・炭を初めほとんどの消費物資は鉄砲洲の湊へ入って来きたため、芝浦、鉄砲洲、霊厳島は水上物流の中継地として発展し、同時に、寛永元(1624)年、当地に遷座した鉄砲洲湊稲荷神社は波除稲荷の名前で全国に有名になりました。本作品の近景に描かれる大きな帆柱は、菱(檜)垣廻船や樽廻船のもので、その奥に描かれる背取船や茶船などの小舟に積み替えられ、堀を通って各河岸に運ばれることになります。

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 『絵本江戸土産』2編の図版「鉄炮洲湊稲荷境内の不二」の書き入れには、「この稲荷はいと古くして 鎮座年暦詳ならず その境内に冨士を造り 浅間宮を安置せり」とあって、49「高田の馬場」と同様、富士塚のある場所を選定しています。いずれの作品も、当然、富士山を意識した絵組で、特に江戸百作品は、廻船の帆柱と綱が三角形を造り、その中に相似形の富士山を描き込む北斎風の構図と見ることができ、この点に絵師広重の作画動機があるように思われます。江戸百作品は目録では秋に分類されていますが、燕が飛び回る風景は夏です。富士講の山開きも旧暦6月1日の夏なので、深読みすれば、湊神社の富士塚(の山開き)が隠れた主題とも想像できます。ただし、江戸百作品が安政4年2月改印の版行であることを再認識すれば、版元目線では、湊稲荷神社の初午の行事、あるいは彼岸の社日を広告するものと考えた方が自然です。

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 他方で、『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表』p71)には、安政地震によって、「霊巌島塩町より出火。同所四日市町・同所銀町二丁目・大川端町焼亡」、「築地西本願寺恙なし。鉄炮洲松平淡州侯屋敷より火出て、十軒町へ焼入」とあり、また、『武江年表(安政三年)』(『定本武江年表』p86)には、翌年8月25日の台風によって、築地西本願寺の御堂は、「一時に潰れて微塵とはなれり」、「海岸は殊に風浪烈しく、人家を溺らし、或は逆浪にさそわれて海中へ漂汎し、資材雑具は見るが内に流失たり。諸侯の藩邸も、海岸にある者はこれに同じかりし」と記されています。地震台風の被災という文脈では、物資運搬の興隆を描くことによって、被災からの復興を表現していると評価することになります。

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49 高田の馬場

安政4年2月(1857)改印
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 『絵本江戸土産』4編に図版「高田馬場」があり、その書き入れには「穴八幡の傍にあり この所にて弓馬の稽古あり また 神事の流鏑馬(やぶさめ)を興行せらすことあり 東西へ六丁 南北三十余間 むかし 頼朝卿 隅田川よりこの地に至り勢揃ありしといひ伝ふ」と記されています。江戸土産作品では、馬場の中に2つの的と弓矢の練習をする人々とが小さく描かれていますが、江戸百作品は、近景拡大の技法を応用し、松の木の近傍に大的を写しています。注意を要するのは、その半円形の大的、並びに中景の馬場を走る馬の背後に三角形の冠雪する「無線摺」の富士山が挿入されていることです。この近隣には「高田富士」と呼ばれる富士塚もあって、高田における馬場と富士の眺望という2つの名所要素が採り上げています。

 DVD『江戸明治東京重ね地図・雑司ヶ谷戸塚』
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 高田富士について触れるならば、この富士塚は、安永8(1779)年、高田の馬場の側に住む植木職人の藤四郎が、古稀を迎えた記念として、戸塚村稲荷山の別当宝善寺の境内に浅間(仙元)大菩薩を勧請して、富士の築山を造ったことに始まります。藤四郎は、富士信仰を江戸一円に拡大させた食(じき)行(ぎよう)身(み)禄(ろく)の弟子であり、富士の頂上で浅間大菩薩を拝し、身禄の墓に詣でる目的で組織された富士講の代表格丸藤講を率いた人物です(『江戸名所圖繪』巻之四、『新訂江戸名所図会4』p123、『絵本江戸土産』8編の図版「高田富士山」、62「目黒新富士」、68「目黒元富士」参照)。

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 安政4年1月21日、将軍徳川家定の王子筋への御成があり、飛鳥山での「半的上覧」を先の講座で紹介しましたが、御成と江戸百との対応を調べると、飛鳥山から王子往還を通って金輪寺御膳所への行程は、44「王子音無川堰埭世俗大瀧ト唱」、滝野弁天から雑司ヶ谷を辿り姿見橋を渡った行程は、41「高田姿見のはし俤の橋砂利場」、そして高田の馬場から早稲田、神楽坂、飯田橋、九段、平河門の行程は本作品と関連することが推測されます。いずれも将軍の御成を機縁としての制作とは言え、御成の報道が目的なのではなく、そこから派生した話題性が肝要で、高田の馬場では、将軍の「半的上覧」と関連する弓馬の稽古が意識されているのかもしれません。しかし、江戸庶民には、元禄7(1694)年2月11日、堀部(中山)安兵衛の「高田の馬場での決闘」が有名であって、改印2月の本作品版行の動機には、忠臣蔵の外伝的エピソードの1つであり、講談に有名なこの事件があったとした方がより納得できるのではないでしょう。

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48 逆井のわたし

安政4年2月(1857)改印
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 『絵本江戸土産』初編の図版「逆井の渡」には、「竪川通の末にして 葛西へわたる渡しなり これより先は小松川 かの新宿(にいじゆく)へも遠からず 耕地の在さま 菜園の体 風流好士の遊観なり」と書き入れられており、両国橋の隅田川下流側の河口から東に走る竪川と中川が交差する地点にあった渡し場と分かります。本作品では、対岸に小松菜の漬菜で有名な小松川村の家々が描かれ、その北側の松林は、地元民に三郎兵衛の松、「さぶの松」と呼ばれた場所と思われます。満潮時には、中川が逆流することから逆井と言われる低湿地帯で、それを象徴するように白鷺が葦原で遊んでいます。遠方には、房総の山々が見え、視点を南に取っていることが分かります。

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 対岸の小松川村を東に向かい、小岩田、そして旧利根川(江戸川)を越えると、市川で佐倉街道と出会い、佐倉城下に至ります(『東都近郊全圖・部分図』参照)。佐倉街道はさらに成田山新勝寺に繋がり、江戸庶民は成田詣のための成田街道と愛称していました。つまり、逆井の渡しは、江戸から竪川通りを経て、下総佐倉に通じる元佐倉道の要衝であり、同時に、成田山新勝寺への道程にあるということが重要です。実は、安政4年は、前年の江戸での出開帳に続き(『武江年表(安政三年)』、『定本武江年表下』p83)、新勝寺御開帳の年に当たっています(『成田山の歴史』成田山霊光館図録・1998)。ということで、成田山新勝寺の御開帳と成田詣が本作品の版行動機の背景にあると考えられます。本作品中の渡し船に多くの人々が描かれている理由もここにあります。

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 46「川口のわたし善光寺」が、川口の渡しと荒川の彼岸に善光寺の御開帳を意識していたとすれば、同じ思考において、本作品が、逆井の渡しと中川の彼岸に新勝寺の居開帳を意識していたとすることもそれ程不思議ではないと思われます。もともと、江戸では1月から3月に掛けて御開帳や出開帳が集中する時期なので、それらと関連付けて、安政4年2月改印の作品に成田詣に繋がる名所が採り上げられていると考えられます。なお、成田詣は江戸から3泊4日の信仰と行楽の旅として庶民に広く定着しており、市川團十郎が新勝寺を篤く信仰したことでも有名です。

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47 小梅堤

安政4年2月(1857)改印
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 『絵本江戸土産』7編の図版「小梅の堤」の書き入れには、「この辺總て北本庄といふ 吾妻橋より東にあたり させる勝地にあらずといへども 掘割の水の流れは一條の帯のごとく 農人廣野に耕(たがえ)すさま 筆にもをさ\/及ひなき風流閑静の土地なれば 世を避るの人 とくに住して老(おい)を養なふの便(たつき)とす」とあります。江戸百作品に描かれる川は、小梅村の中を北に延びる「四ツ木通用水」(本作品と同じ安政4年2月改印の56「四ツ木通用水引ふね」参照)のことであり、その堤はこの辺りに梅の木が広く植えられていたことから小梅堤と呼ばれていました。江戸土産作品の視点とは異なり反対岸側から写しています。江戸中心からやや離れていますが、江戸っ子には、大名や商人達の高級な隠居地というイメージがあります。

 DVD『江戸明治東京重ね地図・浅草両国』
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 『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p70)には、「小梅瓦町柏戸小倉庵潰る。出火、近辺焼る」と記され、「小倉庵」という有名な高級料亭を含めた近隣に地震と火災の被害があったことが特記されています。さしたる名所ではないにも係わらず本作品が画題としているのは、有名な高級料亭やその離れあるいは茶屋などが展開する富裕な遊興地域だからです。

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 江戸百作品において手前の橋(八反目橋、以下庚申橋、七本橋)を2人の女性が渡り、また、右の木々の間では子供と犬が戯れています。この平和な情景は、被災・復興という文脈では、一帯の料亭等が従来通り店を再開していることを暗示しています。四ッ木通用水の左側に並ぶ建物は料亭の離れで、その道を南側に少し歩き西側に折れると小倉庵の本館があったという地理関係です。つまり、本作品は、営業が通常に戻った小倉庵などこの界隈の高級料亭を小梅堤の名所要素としています。橋を渡る2人の女性も、料亭関係者と見るべきです。よく観察すると、離れの前にはやはり女衆の姿があり、川岸では釣りをする姿が見え、たぶん、釣った鯉をそのまま活造りにして離れで食べさせてくれるのでしょう。45「蒲田の梅園」が改印2月の梅の花の時期を知らせながら、実は「和中散」の売薬の宣伝も兼ねていたとするならば、本作品でも小梅堤の晩秋の夕暮れ時を告げながら、版元目線では、小梅村の高級料亭等への客足を誘う意図(食欲の秋)があったものと思われます。

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46 川口のわたし善光寺

安政4年2月(1857)改印
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 『絵本江戸土産』4編に同じ題名の図版「川口の渡善光寺」があって、江戸百作品はこの図版の延長線上の作品と思われます。書き入れには、「岩槻へ出るの往還ありて むかしは こかはぐちといひしとなん 渡し場の北に善光寺あり むかし 定尊(じようそん)といへる沙門霊夢によつて中尊阿弥陀を祷奉(いたてまつ)り 後に脇士を祷るとなん その霊験きわめて灼然(いちしか)し」とあります。岩槻街道は、徳川将軍が日光東照宮へ参詣するための専用道「日光御成道」の一部を成し、幸手(さつて)で「日光街道」と合流します。「川口のわたし」は、「木曽街道(中山道)」の本郷追分から北上する日光御成道が荒川と交わる地点にある渡し場で、此岸の岩淵宿と対岸の川口宿とで合宿となっています(『東都近郊全圖・部分図』参照)。

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 建久6(1195)年開基の川口善光寺は、画中、対岸川口宿に描かれる日光御成道の左に見える朱色の本堂で、題名を書いた色紙冊と一部重なっています。『江戸名所圖會』巻之五(『新訂江戸名所図会5』p197~p203)には、「天台宗にして平等山阿弥陀院と号す。本堂には阿弥陀如来・観音・勢至一光三尊を安ず」とあり、江戸でも庶民信仰の篤かった信州善光寺如来を祀る寺院として、江戸近郊近郊にある立地から多くの参詣客が訪れました。

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 江戸百作品では、渡し船の他に多くの筏が目を引きます。上流の川越と花川戸(吾妻橋)の間にあった「川越夜舟」の水運を利用した、秩父方面からの材木流通に目を向けさせるもので、安政地震の文脈で評価すれば、復興需要を表現しているものと見ることができます。ただし、2月改印の時期を考えれば、一般的には、春の彼岸に向けての参拝を勧める作品と理解されます。その際なぜ川口善光寺が選ばれたのかは考える必要があって、44「王子音無川堰埭世俗大瀧ト唱」が将軍の王子筋への御成に関連していたことを思えば、そこから北西方向にあった、道は違えど同じ御成道上の川口善光寺を採り上げるには良い機会と捉えたのかもしれません。さらに深読みすれば、『武江年表(安政五年)』(『定本武江年表下』p100)は、「(3月)同三日より六十日の間、川口善光寺阿弥陀如来開帳(参詣多し)」とあって、本作品は、川口善光寺の御開帳のちょうど1年前の版行であることが分かります。1年先とは言え、「秘仏」の開帳となれば報道の話題性は高く、版元はその点を動機として制作したのではないでしょうか。江戸庶民の善光寺人気に支えられた作品です。

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45 蒲田の梅園

安政4年2月(1857)改印
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 「蒲田」は東海道品川宿から京に向かう(上る)途中の大森の南に位置し、品川より1里半程の近距離にあります(『東都近郊全圖・部分図』参照)。『絵本江戸土産』2編の図版「蒲田の梅園」には、「この辺すべて梅園多し 春如月の頃にいたれば 清香四方に馨(かんば)しく 紅白宛(あたか)もさらさの如く 実に遊観の勝景なり」との書き入れがあります。構図的には、江戸土産作品の右半分程を切り抜いた形式で、そこに近景拡大の技法を応用して駕籠を描き加えています。この駕籠挿入の意図が本作品読み解きの鍵となります。

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 その前に、本作品の「蒲田の梅園」について触れると、現在でも大田区「聖蹟蒲田梅屋敷(公園)」としてその一部が残っており、その「梅屋敷の由来」の説明によると、『梅屋敷は、山本忠左衛門が和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地三千坪に、その子久三郎が文政の頃(1818-29)に、梅の木百本をはじめとしてかきつばたなどの花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたことに始まるといわれています」とあります。もともと「和中散」は近江国梅ノ木村では、庭内に梅の木を植え、茶屋を設けて足を休める客に和中散を売る商法を採っていたので、その形式を久三郎が真似たことが分かります。したがって、本作品は一見すると梅の香の漂いを紅色のぼかしで表現し、それを楽しむ人々が池、茶屋、四阿屋(あずまや)周辺を散策している名所絵と感じられますが、梅園が実は和中散の売薬所でもあることを知れば、和中散の販売広告であると知ることになります。安政4年2月(1857)改印は、まさに梅の開花時期に当たり、それを機縁として和中散の広告を打ったと理解されます。なお、画中に2つの石碑が見えますが、これも久三郎の句碑です。

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 江戸百作品に描かれた藍染めの座布団を敷く駕籠に話を戻すと、東海道から駕籠を走らせてきた客が駕籠の屋根に上着をひょいと載せ、駕籠を待たせての梅見と洒落込んだ様子に見えますが、先客を描くことによって、他の客足を蒲田の梅園に向けさせようとの広告効果を狙った仕掛けなのです。近景の駕籠がまるで宙に浮いているように見える構図上の不自然さは、広重の遠近法の未消化な部分であり、深い意味はないと思われ、本シリーズの他作品にも時々あることを指摘しておきます(03「芝うらの風景」等)。

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44 王子音無川堰埭(えんたい)世俗大瀧ト唱

安政4年2月(1857)改印
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 上野の山から北西に続く台地は、諏訪の台、道灌山、飛鳥山と続き、石神井川に分断され峡谷を成しています。王子権現の麓の辺りでは、この石神井川を音無川と呼び、さらに東流して隅田川に流れ込みます。『絵本江戸土産』四編の図版「音無川の堰 世俗大滝と唱」が江戸百とほぼ同じ構図で、書き入れには、「金輪寺(きんりんじ)の下の堰より落るを大滝といふ 是より水上(みなかみ)所々(しよしよ)に巌ありて 水これが為に鼕々(とうとう)たり 然るに井堰の上は水平らかにして更に聲なし 因て音無の名を負へりとぞ」とあります。王子権現社の別当金輪寺をランドマークとする名所紹介で、実際、江戸土産作品より江戸百作品の方が明確に金輪寺の堂宇の屋根を「大瀧」の後方に描いています。また、先行作品が夏であったものを桜咲く春に変えたことから、音無川(石神井川)入る人々の意味が炎暑を避けた水浴びから、宗教的な水垢離と考えなければならないことになりました。

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 本作品背後の山並みは、DVD『江戸明治東京重地図・滝野川池袋』と対照すると、飛鳥山というよりは金輪寺敷地内の丘と考えた方が自然です。

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 江戸百作品の版行動機を考えてみると、9「王子瀧の川」、14「飛鳥山北の眺望」、16「千駄木團子坂花屋敷」、20「日暮里諏訪の臺」等が、安政3年3月13日の将軍徳川家定の御成りコースから選定されていたのと同様の理由があったものと推測されます。本作品の改印1ヶ月前の1月21日に将軍の王子筋への御成り(半的上覧)があり(『藤岡屋日記』第七巻、p433)、王子権現の別当金輪寺を御膳所としています。とすると、大滝の背後に描かれた金輪寺は、その御成りに反応して版行されたことの記号と考えられます。ただし、本作品の季節のズレからも分かるように、将軍の御成りを直接広報するのではなく、その話題性から王子や飛鳥山一帯の春の行楽を先取り広告とする意図と思われます。音無川の左岸上に茶屋が見えており、これこそ飛鳥山麓一帯に広がる茶屋を暗示しているのかもしれません。なお、正月改印の41「高田姿見のはし俤の橋砂利場」と2月改印の49「高田の馬場」は、御成りの帰りのコースに関連する作品です。

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43 永代橋佃しま

安政4年2月(1857)改印
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 本作品では、佃島は停泊する船の背後に描かれる森の部分に当たり、沖の正面に見えている島は人足寄場(よせば)が設けられた石川島です(DVD『江戸明治東京重ね地図・永代橋木場』参照)。『江戸名所圖會』巻之一(『新訂江戸名所図会1』p197~p200)によれば、寛永年間(1624~1644)、島民が摂津国西成郡佃村から鉄砲洲東の干潟に移り住み、正保元年(1644)に本国佃村の名をとって佃島と名付けられました。佃島の漁民には、幕府御用達の白魚漁を行う免許が与えられ、本作品中に描かれる、永代橋の橋脚背後の篝火と四手網がまさにこの白魚漁の情景を写すものです。『絵本江戸土産』二編には、図版「永代橋」および「佃白魚網夜景」があって、この両図版を1枚に統合したのが本作品と推測されます。前者には、「元禄十一年戊寅(つちのえとら)に始めてこれを架けるといふ 橋の長さ百二十間 或ひは百十間ありといふ 東都第一の長橋なり」、後者には、「永代橋の向ひを佃嶋という ここに住吉明神を祀る この辺 冬より初春に至り四つ手網をはりて白魚を漁(すなど)る 終夜(よもすがら)篝火(かがりび)をたきて 風景詩歌に詠ずるとも余りあるべし」との書き入れがあります。

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 永代橋は、隅田川の最下流に架かる橋で、江戸湊に近接します。安政地震による被害はありませんが、翌年8月25日の台風で崩落し、『武江年表(安政三年)』(『定本武江年表下』p86)に、「永代橋、大船流れ当りて半ば崩れたり」とあり、修理が始まったのは安政4年5月も過ぎた夏からで(同書p94)、修理完了は安政5年3月でした(同書p100)。なお、日本橋川の出入口に当たる重要な起点であったので、幕府の御船手番所がありました。

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 江戸百作品を台風被害という文脈で読み解けば、崩落した橋桁等を避け、橋脚のみを描いたという理解もありえますが、台風被害の前に出版された江戸土産作品において、すでに橋脚のみが描かれている点を勘案すると、広重自身は、隅田川河口の佃島・石川島周辺を描写するために視点を下げ、近景拡大の技法を応用したに過ぎないように思われます。また版元目線でも、橋の崩落の話題は意識しつつも、安政4年2月改印の季節感から、春の風物詩である白魚漁が例年通り始まった様子を伝えるため作品版行に及んだのではないでしょうか。

 ちなみに、夜空に描かれる月は、10日頃の月齢を表しています。これが2月改印の作品ということを考えると、安政4年1月10日がちょうど立春に当たり、節分・立春から頃から始まる隅田川河口佃島の白魚漁の季節感にちょうど合います。そして、安政7年 (1860) 正月、江戸市村座初演の歌舞伎、河竹黙阿弥『三人吉三廓初買』(さんにんきちざくるわのはつがい)の名せりふが聞こえてきそうです。すなわち、「月も朧に 白魚の 篝(かがり)もかすむ 春の空 冷てぇ風に ほろ酔いの 心持ちよく うかうかと 浮かれ烏(からす)がただ一羽 寝ぐらへ帰る 川端で 竿の滴(しずく)か 濡れ手で粟 思いがけなく 手にいる百両 ほんに今夜は 節分か 西の海より川の中 落ちた夜鷹は厄落とし 豆だくさんに一文の 銭と違って金包み こいつは春から 縁起がいいわえ」と。意外にも、歌舞伎に先行する江戸百作品から、お嬢吉三の世界が生まれたのかもしれません…。

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42 真間の紅葉手古那の社継はし

安政4年正月(1857)改印
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 41「高田姿見のはし俤の橋砂利場」が、突き詰めれば「大鏡山南蔵院」を巡る景色であったと同様、本作品は、下総国真間(現在の千葉県市川市)に所在する「真間山弘法寺」を巡る名所要素を1枚の絵に仕立てた上げたものと考えられます。『絵本江戸土産初編』「真間の継橋手子名社 真間の紅楓」も「真間の継橋 手児奈の社 この辺古跡種々あり 秋は紅楓に名高くて 都下の騒人ここに競ふ」と記し、種々の古跡の地であることを述べています。『江戸名所圖會』巻之七の図版「真間弘法寺」(『新訂江戸名所図会6』p346~p348)に、「手古那の社」、「ままの継橋」を見ることができます。「真間の紅楓」については、同書(『新訂江戸名所図会6』p349)に、「楓の樹(釈迦堂の前にあり。いまは古株となりて、その形を存するのみ。むかしは、わたり四、五丈にあまりしとなり。いはゆる真間の楓と称するものこれなり)」とあります。

 『江戸近郊全圖・部分図』
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 江戸百作品を見ると、近景拡大の画法を応用して、経年酸化で黒くなっていますが、「真間の紅葉」に相当する、二股の幹の間から眺望する構図です。「手古那の社」は、幹の間中央左に見える鳥居の辺りで、万葉の昔、この真間の地に住んでいた伝説上の美人手古那の墓の跡です。多くの男子に言い寄られ煩悶して身を投げたと伝わります。山辺赤人や高橋虫麻呂の追悼歌があります。「継はし」は、手古那の社の後方右に見える橋で、弘法寺の大門石段の下、南の小川に架しています。かつては真間の入江と言われていた所です。いずれの場所も、万葉の時代からの歌枕の地であるという文化的重みから、「江戸」の名所シリーズへと選定されたのでしょう。

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 制作の動機は、弘法寺への参詣や真間の古跡への行楽を誘うものですが、安政4年正月改印の5点の作品は、38「霞かせき」の作品を中心として東西南北から構成され、これは江戸百が出版された安政3年2月改印作品と同じ構造で、明らかにシリーズの再出発を宣言するものです。なお、遠景の山々はその形から筑波山と日光連山と判断されますが、南面する弘法寺とは真逆に位置します。故に、すやり霞によって挿入したことを示しています(「広重あるある」)。ちなみに、「真間(まま)」には崖という意味があり、この辺りの地形に由来し、「まま」に「継」という漢字を当てると、継橋(つぎはし)となります。

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41 高田姿見のはし俤の橋砂利場

安政4年正月(1857)改印
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 神田上水に架かる「高田姿見のはし」を同じく画題とする、『絵本江戸土産』四編の図版「山吹の里姿見橋」の書き入れには、「山吹の里は 太田道灌の故事(ふるごと)によつて号(なづ)くとぞ 姿見はむかしこの橋の左右に池あり その水淀みて流れず 故に行人この橋にて姿を摸(うつ)し見たるよりの名なりといふ」とあります。絵の構成はほぼ近似していますが、『絵本江戸土産』の題名・書き入れは、姿見橋の手前方向に当たる山吹の里に関心を示していますが、江戸百作品の方は、姿見橋(俤の橋)を渡った先にある「砂利場」に注意を向けています(DVD『江戸明治東京重ね地図・雑司ヶ谷戸塚』参照)。

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 上記意図を探るため、『江戸名所圖會』巻之四(『新訂江戸名所図会4』p140~p141)の「大鏡山南蔵院」の解説を参照すると、「砂利場村にあり。真言宗にして大塚の護国寺に属す(当寺を大鏡寺と号くるは、昔この寺前におほいになる池ありて、鏡が池と唱へしによりてこの名ありしといへり。この地に姿見、俤など称する橋あるも、これによりて起こる号なりといふ。…)」とあって、すやり霞の下に、「南蔵院」とそれに属する「氷川明神」一帯の下枯れした様子を描くものであることが分かります。また、同図会は、この地域がかつて徳川家光の鷹狩りの場所であったことも記しています。

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 名所絵的分析では、姿見橋の北側は「南蔵院」を介して家光縁の地、南側は「山吹の里」を介して道灌縁の地であり、姿見橋が新旧の江戸を繋ぐ名所地であると分かります。実は、安政4年1月21日、将軍徳川家定の王子筋への御成があって(『藤岡屋日記』第七巻、p433)、その帰路は、雑司ヶ谷から姿見橋を渡り、高田馬場・早稲田・神楽坂・飯田町・九段を通って平河門に戻ったと考えられます。本作品にその地点を求めれば、すやり霞の上の雑司ヶ谷方面から、すやり霞の下の「砂利場」→「姿見のはし(俤の橋)」と辿り、橋を渡って高田の馬場方面から帰城することになります。つまり、将軍の御成の動静によって起こった話題性に反応し、版元は本作品の版行時期を考慮し、この時期に広重に制作を依頼したのではないかと想像されます。安政3年3月13日の将軍・御三家の花見の御成に関連して、複数の江戸百作品が生まれていることを想起して下さい。

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40 増上寺塔赤羽根

安政4年正月(1857)改印
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 近景右側に芝「増上寺」の五重の塔、その背後左側に「赤羽根」の筑後久留米藩有馬中務大輔頼成(21万石)の上屋敷が描かれ、中央を流れる新堀川に掛かる赤羽橋がその2ヶ所を繋ぐという構図の作品です(DVD『江戸明治東京重ね地図・大名小路増上寺』参照)。増上寺に関しては、『絵本江戸土産』七編の図版「芝増上寺」の書き入れに、「芝にありて三縁山(さんえんざん)といふ 本尊は如来 運慶の作 酉誉(ゆうよ)上人開基にて 関東十八ヶ寺談林の中なり 御當家世々の御霊屋あり その尊きこと言語に及ばず 比(たぐい)あらざる仏地あり」と記され、また有馬家の上屋敷内には水天宮があって、『絵本江戸土産』二編の図版「赤羽根水天宮」の書き入れには、「久留米候の内にあり この辺 山に副い 海に近 四時の眺望あるが中にわきて 雪中の景色この地に倍(まさ)るはなし 毎月五日を縁日として都下の老若あゆみを運ぶ」とあります。

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 長屋塀の有馬家上屋敷をよく見ると、すやり霞の背後の屋敷林に火の見櫓が見えており、これは江戸で一番高い火の見櫓(高見の櫓)として知られています。その右側には6本の幟があって、ここに水難除けの水天宮があることが分かります。芝増上寺の五重の塔と有馬家屋敷内の赤羽根水天宮を並列的に捉えた本作品は、増上寺参詣と毎月5日の水天宮の縁日風景を名所要素として制作され、通りを歩く人々の様子からもそれは窺えます。作品の季節は夏とは言え、安政4年正月(改印)にぶつけたものであることは間違いなく、広重の名所表現の季節と作品の販売時期とが相異するという、2重構造が本作品でも見受けられるということです。

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 原信田『謎解き 広重「江戸百」』(p88)によれば、有馬家は増上寺の警備を担当しており、安政地震で被害のあった増上寺の御霊屋(将軍の墓所)の修理を幕府から命ぜられ、その修復が安政3年12月に完了していることを指摘し、その完成引渡しが安政4年正月改印の本作品を制作する動機になったと読み解いています。新年の(御台・名代による)御霊屋参詣が有馬家による御霊屋改修の完了と密接に関連しているのは否定しがたい事実で、それが庶民の話題となったことを利用して、版元が江戸百作品版行を意図したであろうことは当然考えられます。

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39 駒形堂吾嬬橋

安政4年正月(1857)改印
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 題名にある「駒形堂」は、『江戸名所圖會』巻之六(『新訂江戸名所図会5』p274)によれば、「駒形町の河岸にあり。往古は此所に浅草寺の総門ありしといふ。(その頃は左右並木にして、桜花数株を栽ゑまじへ、春時は殊更ながめも深かりしにや。…)」、「本尊は馬頭観音なり」等と記されています。本作品は、吾妻橋から隅田川下流・西岸にあった白壁の駒形堂辺りの駒形河岸から隅田川対岸に視線を送る構図を採っています(DVD『江戸明治東京重ね地図・浅草両国』参照)。また、同『江戸名所圖會』巻之六の図版「駒形堂清水稲荷」(『新訂江戸名所図会5』p276~p277)には、近景に描かれる「紅屋(中島)百助」の赤い旗が写されており、駒形堂前の通り向こう北側にあった「並木町」に、江戸百作品と同じ旗竿が立っているのが分かります。

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 百助は紅・白粉・クコ油等を売る店で、店前の道は「雷神門前広小路」に繋がるので、浅草寺参詣の客が多く訪れたであろうことが容易に想像できます。つまり、本作品は、安政4年新春の浅草寺参詣に絡めた百助の宣伝広告であると理解されます。本来ならば、赤い旗と旗竿は駒形堂の右手にあるべき地理関係ですが、「駒形堂吾嬬橋」という名所絵形式に百助の宣伝を挿入した結果、実景とはやや異なる描写となっています。「入銀作品」と思われます。

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 地震被害からの復興という文脈で読み解けば、浅草駒形堂周辺の経済・環境の回復を描くものと解されますが、広重の意図はもっと別の所にあります。すなわち、本作品背景の夕立と時鳥(ほととぎす)は夏の典型的情景を描写するに止まらず、これに駒形堂が重なると、江戸っ子は、「君は今駒形あたりほととぎす」という、新吉原三浦屋の(二代目)高尾太夫の俳句を思い出す趣向なのです。高尾太夫は仙台藩主伊達綱宗の身請けに対して、遊女の意地を貫いてその意には添わず、そのため最後には命を失ったという伝説を持つ遊女です。本作品は、「駒形堂」、「時鳥」、そして「高尾太夫の涙雨」という3点を描くことによって、歌枕の地としての情緒を作品に呼び込み、その上で、それを百助の宣伝広告に繋げようとしたと理解しなければなりません。「駒形堂吾嬬橋」は、広重目線では高尾太夫の伝説があっての名所であり、版元目線では紅屋百助の繁昌があっての名所であるという、二重構造において制作されています。

 『絵本江戸土産』初編の図版「御厩河岸駒形堂金龍山遠望」
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38 霞かせき

安政4年正月(1857)改印の作品
 江戸百は、安政3年9月改印の作品以後、翌年の正月まで制作中断の期間があります。その理由として、安政3年8月25日の台風被害が指摘されますが、9月改印作品が3点あることを考えると、直接版元等に被害が及んだというよりは、これを機に採り上げる題材やその順番を再考したのではと推測されます。また、安政3年10月2日は安政地震の一周忌に当たり、供養に絡んだ各種行事等が続いて、江戸百の売り時ではないという判断もあってのことではないでしょうか。とにかく、直近の台風と1年前の地震の影響から、気持ちも新たに、翌年正月よりの再開の運びとなったと考えられます。

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 『絵本江戸土産』三編の図版「霞が関」には、「外桜田黒田侯と浅野侯の間の坂をいふ この所古き名所(などころ)にて歌どもあまたあり」と書き入れられています。同図版が両屋敷の描写に視点を置いているのに対して、江戸百作品では、右側に松平美濃守(福岡藩黒田家)の上屋敷長屋部分(初摺は墨色)、左側に松平安芸守(広島藩浅野家)の上屋敷に接する辻番所をそれぞれ描きながらも、築地(築地本願寺大屋根)方面を見通し江戸湾と青空の景色を開放的に表現し、そこに江戸の正月を感じさせる人物群を配置する構成です。

 DVD『江戸明治東京重ね地図・築地石川島』
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 大名屋敷や作品左右に置かれる門松の遠近法的構図は江戸百の開幕を告げ、空に揚がる凧等の正月風景は江戸百の再開を祝するものと思われます。安政4年正月改印作品5枚組の巻頭を飾るに相応しく、凧の「魚」は、もちろん版元の新版の宣伝になっています。作品右手の「払扇箱買い」の商人が活躍するのは正月の行事明けという事情を考えると、門松が飾られている状況にはやや時期的な齟齬が感じられます。そのさらに左に向かって描かれる、羽子板を持った母娘、供を従えた武家、伊勢神宮に奉納する太神楽の一行、万歳の2人、鮨売りなどは、典型的な正月風景です。

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 なお、左遠方に築地本願寺の大屋根が見えます。『武江年表(安政三年)』(『定本武江年表下』p85)によれば、築地本願寺は、安政地震では倒壊を免れましたが、翌年8月25日の台風で本堂が損壊し、建て直しの普請が完成するのは万延元(1860)年、広重死後のことです。したがって、『東都名所』や『江都名所』など、地震・台風被害を受ける前の資料の転用・延長線で作品制制作に及んだことが窺えます。地震・台風からの復興というよりは、福岡藩黒田家と広島藩浅野家の「西」国大名と築地の「西」本願寺を掛けた趣向が優先されているのではと思われます。江戸百を地震・台風被害からの復興という文脈で読み解く際、その点だけに広重の意図があると強調することには注意が必要です。

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37 するがてふ

安政3年9月(1856)改印
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 葛飾北斎『冨嶽三十六景』「江戸駿河町三井見世略図」から分かるとおり、三井越後屋のあった駿河町から富士を遠望する景色は、広重の本作品を待つまでもなく、江戸の名所としてすでに周知されていました。『絵本江戸土産』五編の図版「駿河町」の書き入れにも、「日本橋通り北の方也 この辺 すべて繁華なるうへに 三井前後の店(たな)殊に名高く 見世のかかり 土庫(ぬりごめ)のさま 実に目を驚かせり この所にて西の方を臨めば 冨士が嶺正面にして四時絶景也 ゆゑに駿河町(するがちよう)の名ありといふ」と記されています。ただし、本作品が駿河町を富士見の名所として単純に紹介するものでないことは、同じ安政3年9月改印として、36「下谷広小路」がライバル店の1つ、伊藤松坂屋の新築開店を隠れた画題としていることからも予想されます。

 DVD『江戸明治東京重ね地図・日本橋八丁堀』
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 本作品を見ると、通りの右側に「呉服物品々」、左側に「太物類品々」とあって、絹織物と綿麻織物とが左右別れて売られていたことを知ることができます。「現金無掛なし」や小口の客を大切にする各種の商法で大繁盛しています。安政地震では、越後屋の土蔵には相当大きな被害が出たようですが、店舗自体には被害が少なく、また類焼の被害もありませんでした。したがって、安政2年10月7日には本店、8日には向店が店を開け、同年12月1日よりは冬物販売によって通常の営業に復していたようです(『三井家文書』、『広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~』https://ameblo.jp/cofdm/)。それ故、本作品は松坂屋のように被災後の新築開店を宣伝する趣旨ではなく、松坂屋に対抗する、改印9月以降の秋冬物の宣伝広告の一環と理解すべきと思われます。江戸百の目録では春に分類されていますが、名所絵としての季節感と作品の営業広告時期との不一致は、本作品前の2作品と同様のことです。

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 江戸百作品において富士の裾野に架かる源氏雲の下には、江戸城西の丸御殿や本丸の富士見櫓等が見えるはずですが、それらの景色を隠したのは、幕府への憚りというよりは、富士、駿河町、越後屋が重要な構成要素であることを明確にするためです。つまり、越後屋を江戸の町家、商家の象徴として印象的に描くことができ、宣伝効果においては松坂屋よりは一段上かもしれません。なお、安政3年8月改印以前では「広重筆」が主体であったのに対して、安政3年9月改印以降(安政4年7月改印まで)は「広重画」に変わっており、この時期、制作方向に何か変化があったのかもしれません。少なくとも、安政3年9月改印作品は、3点とも「入銀」あるいは営業重視の広告作品と言うことができます。

 葛飾北斎『冨嶽三十六景』「江戸駿河町三井見世略図」
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36 下谷広小路

安政3年9月(1856)改印
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 「下谷広小路」は、将軍が上野寛永寺へのお参りに通った「御成道」で、上野台地の下に当たり「下谷」と呼ばれ、明暦の大火後、火除地として拡幅され「広小路」となりました。本作品では、道のはるかかなたに「三橋」が見え、さらに奥の右側には寛永寺の入口にある石垣が見え、この石垣の右を行けば上野山下、左に行けば「黒門」となります(DVD『江戸明治東京重ね地図・東叡山下谷』参照)。『絵本江戸土産』五編の図版「上野黒門及三橋の圖」がこれらの地域を描いており、両作品を比較すれば、本作品で広重が注視しているのは、右側の大店、伊藤松坂屋(井の中の藤に丸)であると導かれます。この地域は、安政地震による被害が甚大で、『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p69)によれば、「上野壱丁目裏、組屋敷より出火。小路常楽院・大門町・黒門町・長者町・徳大寺・一乗院・仲御徒士町、その外類焼多し」と記されています。

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 本作品の第一の画題と考えられる、尾張出身の伊藤松坂屋・上野店は、安政2年(1855)10月2日、安政地震のため全焼しましたが、早くも同年12月には本町2丁目の仮店舗で営業を開始し、翌安政3年9月28日には元の上野店で新築開店に漕ぎ着けています。松坂屋では5万5千枚の引札(商品の宣伝や開店披露などを書いて配る広告の札)を江戸市中に配り、9月28、29、および晦日の3日間新築大売出しを行いました。この開店売出しは、江戸中で大きな話題となり、期間中大勢の客が詰めかけ、商い高も、3日間で合計3050両にも達したと言われています(北見昌朗『愛知千年企業 江戸時代編』中日新聞社・2010、http://www.nagoya-rekishi.com/)。

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 版元の魚屋栄吉の絵双紙屋が、同じく下谷の上野新黒門町(本作品の手前枠外)にあったので、松坂屋の開店前に情報を得、9月改印の作品に合わせ、開店の宣伝としたことが推測されます。いわゆる「入銀作品」です。暖簾には、「いとう」「まつざかや」と店の商標が記され、奥には白壁の蔵が見えています。その前の赤丸の紋を付けた障子戸のある小屋は番所です。背後は上野山(東叡山)です。揃いの傘をさして上野山に歩む一行は、当時流行った花見「連」の姿です。広重は上野山への花見という名所絵スタイルを維持しつつ、9月の松坂屋の新築開店宣伝という版元の営業的要望に応えていると考えられます。写実表現ではないので、春の花見連と秋の松坂屋の開店時期とが一致しないのは当然です(35「猿わか町よるの景」の中秋の名月と5月の森田座再興初演の時期が一致しないのと同じ)。「下谷広小路」は、松坂屋あっての名所であるという構成です(27「廣尾ふる川」における「狐鰻」との関係と同じ)。なお、横大判錦絵『東都名所 上野広小路之図』(上州屋金蔵、松坂屋HP: https://www.matsuzakaya.co.jp/corporate/history/edo/05.shtml)参照。

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35 猿わか町よるの景

安政3年9月(1856)改印
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 左図が分かりやすいのですが、「あてなしぼかし」の叢雲に浮かぶ、旧暦8月・中秋の名月に照らされる芝居町(しばいまち)の帰路風景を北方向から見透した作品です。猿若町(さるわかまち)は、現在の東京都台東区の浅草6丁目辺りで(DVD『江戸明治東京重ね地図・浅草両国』参照)、江戸歌舞伎の創始者 「猿若勘三郎」に因んでいます。『絵本江戸土産』六編の図版「猿若町」には、「むかし堺町ふきや町及び木挽町に在し三座の歌舞伎 天保十三年この所へ移され 地名を猿若町(さるわかまち)と号(なずけ)て三町あり 一丁めは中むら勘三郎 二丁めは市村羽左衛門 三丁めは河原崎権之助 この外操座(あやつりざ)あり 早春より年の尾に至り 六換(むつかわり)の興行 人の山をなし 櫓太鼓の音絶ず はんじょう以前に十倍せり」と書き入れられています。

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 本作品の新機軸は、そぞろ歩く人々、犬、天水桶、芝居小屋等に影法師があることで、浮世絵にしては大変珍しく、猿若町が別世界のように映ります。江戸土産作品は、猿若町の芝居小屋を東側から概観し、遠くに浅草寺五重の塔が見える構図で、江戸百作品が描く名月の情景ではありません。つまり、江戸百作品は、この名月描写に広重の拘りがあるということです。常識的には、芝居終わりの夜、月が造る影法師を猿若町の名所情景と捉えられ、「猿わか町よるの景」が生まれたと解されます。しかし、本作品の後版では、初版に比べ月のサイズが一回り大きく変更されていることに鑑みると、この名月にはもう少し深い読み込みが必要です。また、作品手前の天水桶には「森田座」とあり、森田座の芝居小屋に灯りがあることをも考慮すると、名月と森田座との間に何か特別な関係があるように思われます。ちなみに、本来、興行中には御免櫓に幔幕があるものなので、江戸百作品の描写は正確ではありません。

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 安政3年5月に控櫓(ひかえやぐら)の河原崎座が失火で全焼したのを機に、十一代目森田勘彌によって森田座が足掛け18年ぶりに再興され、同月15日に、『新臺いろは書初(四十七文字)』(しんぶたいいろはのかきぞめ)が初演されています(『日本芸能・演劇 総合上演年表データベース』)。芝居が『仮名手本忠臣蔵』物なので、同時に、討ち入り時の満月に掛けての興行設定であったのかもしれません。いずれにせよ、江戸百作品の中秋の名月(十五夜)には、森田座の再興の15日が掛けられていると読み説くことができます。あえて言えば、初版は5月15日の月に近く、後版は8月15日の月に比重があり、また初版は月が高く芝居終わりの時間と合わないので、後版で月をより低く描き直して、中秋の名月らしい名所絵に描き直した可能性を感じます。後版では、森田座の宣伝性をやや抑えているということです。なお、34「両国橋大川ばた」でも触れましたが、安政3年8月25日の台風被害で、三座はその屋根を残らず吹き飛ばされ、各小屋は休演状態となり、たとえば、8月より開演しその後中断していた中村座は9月、森田座は10月から芝居再開となる事情を考えれば、営業的には、9月・10月以降の芝居を宣伝することに力点が変転したと推測できます。安政地震の火災被害の大きかった猿若町という文脈では、御免櫓が並ぶ芝居小屋・芝居茶屋の様子は、森田座を媒介して、復興の報告に繋がるものと解することができます。

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34 両国橋大川ばた

安政3年8月(1856)改印
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 『絵本江戸土産』初編に図版「両國橋」があり、そこには「長さ九十六間あり 万治二年に始て架る むかしは武蔵と下総の境なればかく呼びしを 今は両岸武蔵となりて 只二国はその名のみ 東都第一の繁華にして 観場(みせもの) 芝居 辻講釈 或は納涼花火の景望 夜(や)の遊興絶間なし」との書き入れがあります。明暦の大火の際、隅田川に橋がなく、10万を超える人々が焼死・溺死した反省から、千住大橋に続く2番目の官製橋として建設され、東西の橋詰には、火除地として広小路が確保され、その内、西側の両国橋から下流の霊岸島に掛けてを「大川ばた(端)」と呼びます。

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 本作品とDVD『江戸明治東京重ね地図・浅草両国』を対照すると、両国橋の西岸大川端から東岸の御蔵橋方向に視線を送る構図と分かります。対岸の本所上空には夕景のすやり霞があり、藤堂和泉守屋敷、御蔵橋、松浦豊後守屋敷(嬉の森)辺りかと推測される程度の描写で、明らかに重点は近景の葦簀張りの店々(掛茶屋・水茶屋)の様子にあると理解されます。西岸に視点があることは、江戸土産作品と比べればよく分かります。

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 『江戸名所圖會』巻之一(『新訂江戸名所図会1』p127)は「両国橋」として、「この地の納涼は、五月二十八日に始まり、八月二十八日に終はる。つねに賑はしといへども、なかんづく夏月の間は、もつとも盛んなり」とあります。両国の花火が再開されていないこともあって、おそらく、橋上や船上の人々、掛茶屋の暖簾背後の赤い提灯が連なる様を8月改印の本作品に描き、大江戸の盛時を宣伝しようと考えたのでしょう。ところが、安政3年8月25日、江戸を襲った台風によって、大川端の掛茶屋、広小路の見世物小屋、屋台など大方吹き倒されてしまい、宣伝対象が喪失してしまうという皮肉な事態になりました(『武江年表(安政三年)』、『定本武江年表下』p85)。このような状況があるので、広重と版元が、後日、再び両国橋に関する作品の版行を思い立つのことは不思議ではありません(72「浅草川大川端宮戸川」、115「両国花火」参照)。

 本作品を安政地震の被災および復興の文脈で読み解くならば、本所・向島、浅草・両国は被害の集中した地域なので、細かい被災等の状況説明は避け、両国橋・大川端にかつての納涼の情景が戻て来た様子を抽出して描いたと見ることになりましょう。

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33 八つ見のはし

安政3年8月(1856)改印
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 『絵本江戸土産』初編に図版「八ツ見橋の景」および「其二」あって、その書き入れには、「常盤橋と呉服橋との中央にあるを一石橋といふ 後藤両家左右にあり これを五斗にとりなしてかくは名づくるものなりとぞ 此辺より見わたせば一目に橋の八ツ見ゆる故に里俗にこの称あり」と記されています。また、『江戸名所圖會』巻之一図版「八見橋(やつみはし)」(『新訂江戸名所図会1』p66~p67)にも、「この橋より顧望すれば、常盤橋・銭瓶橋・道三橋・呉服橋・日本橋・江戸橋・鍛冶橋、ことごとくみゆ。一石橋を加へて八見はしととはいふなり」との書き入れがあります(DVD『江戸明治東京重ね地図・日本橋八丁堀』参照)。

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 本作品は題名「八つ見のはし」と言いながらも、実際には一石橋の欄干、銭瓶橋、道三橋のみを写すに止め、あとの橋は作品の枠外にあります。実際には、富士山の麓の夕焼け、柳周辺の雨燕、一石橋上の2つの(雲母摺り)の傘などを勘案すると、夕立直後の一瞬の日差しに浮き上がった冠雪する夏富士の景を楽しむものとの印象です。つまり、本作品の趣向は、8つの橋を名所要素として描きこむことではなく、「八つ見のはし」に掛けて、「八の字」を成す富士山を眺望できる点に名所としての意味を見いだしているのです。

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 また近景の柳の幹も富士山との相似形であり、この手法は、67-46「水道橋駿河台」でも使用されています。深読みすれば、橋上の2つの傘も富士山に相似する円錐形と見ることができます(32-60「深川木場」参照)。傘ではなく菅笠のようにも見えますが、江戸百作品を発想元とする、小林清親『一石橋夕景』(明治10年)でも、2人の人物は傘を差しています。なお、江戸百作品の中景の日本橋川に薪を三角・八の字に積む船と「四つ手網漁」の船が2艘描かれています。後者は、江戸城外堀での禁漁の観点でやや疑問のある描写ですが、これも「四つ」手×2で、「八つ」見に掛けたとも考えられます。いずれにせよ、江戸百作品は名所の要素として、末広がりの「八」を拾い集めたということです。

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 ちなみに、江戸百作品を被災からの復興という文脈で解釈すれば、たとえば『藤岡屋日記』の「安政3年4月4日」の条には(『藤岡屋日記巻七巻』p174)、道三橋の橋台の石垣が崩れた事態に対して、その補修が完了し通行可能になった旨が記されており、一石橋や道三橋の補修完了が本作品版行の動機に係わっている可能性はありますが、それは版元の売り時の問題であって、広重の創作意図とは直接的関係はないように思われます。

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32 深川木場

安政3年8月(1856)改印
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 「深川木場」は、現在の江東区木場公園辺りで、文字通り、材木置き場(貯木場)のことです。火災の多い江戸では、貯木の材木自体が延焼の原因になることもあって、元禄14年(1701)、江戸の材木商達は最終的に9万坪とも言われる深川の広大な敷地に集められました。また、木材は建設資材として大変な需要があって、その資本の蓄積から紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門などの豪商が生まれ、木場の掘割の中に豪商の別荘が建ち並び、風情ある水郷の景色を見せていました。本作品の元絵である『絵本江戸土産』2編の図版「深川木場」にも、「この辺 材木屋の園多きにより 名を木場という その園中 おのおの山水のながめありて風流の地と称せり」と書き入れられています。

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 DVD『江戸明治東京重ね地図・永代橋木場』を参照すると、木場のすぐ近くには、「富ヶ岡八幡宮(永代寺)」や「洲崎弁才天」などの名所地があって、門前町を形成する料理屋・茶屋、また芸妓(辰巳芸者・深川芸者)の存在が容易く想像され、本作品に描かれた景色外をも含めて読み解く必要があります。『江戸名所圖會』巻之七図版「二軒茶屋雪中遊宴之圖」(『新訂江戸名所図会6』p30~p31)には、深川の冬の遊興地としての特徴が語られています。

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 江戸土産作品との相違点に、江戸百作品の創作意図が表れているという視点で読み解くと、ジグザクに折れ曲がる掘割の上部左に2羽の寒雀、その下方右に筏を操る2人の川並(かわなみ)、さらにその下方左に丸々とした2匹の子犬が描かれ、最後に下部中央に「魚」の文字が見え、雪の積もる傘の人物に視点が集約するという構成になっており、結局、版元「魚栄堂」の宣伝効果を高めている遊び心が伝わってきます。上部では雀・子犬・川並衆が1対で描写されているのに、傘だけが1本なのは、版元名を記した傘を広重が差しているすれば、版元・絵師の1対と考えることができ、企画が当たり、冬の遊興地深川の料亭で宴を楽しむ(あるいは楽しみたい)と願う2人の様子が想像できます。

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 他方で、本作品は、印象として、北斎『冨嶽三十六景』「本所立川」をかなり意識した構図のようにも感じられます。そもそも、北斎作品には、立て掛けられた材木等に版元(西村屋)の宣伝が入っているという仕掛けに共通点がありますが、江戸百作品の構図を分析すると、左右に立て掛けられた木材が三角形の山を造形し、雪積もる掘割の堤が逆三角形を成し、逆さ富士のような絵組が見えるのです。もし広重が視点を西に採っていれば、実際に富士を遠望できたはずですし、富ヶ岡八幡宮には富士塚もありました。しかしながら、広重の表現はかなり理想化されているにしても、元絵の江戸土産作品を見れば、江戸百作品が広重の実地の観察に基づいていることは間違いなく、北斎とは異なるこの描写にこそ広重の矜持があるように思われます。

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31 利根川ばらばら松

安政3年8月(1856)改印
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 本作品の題名「利根川」は、15「鴻之臺とね川風景」と同様の用法で、江戸川を指すと考えられます。『江戸名所圖會』巻之七(『新訂江戸名所図会6』p323)によれば、「栗橋より分流して、一流は北総に入り、関宿・木颪(きおろし)等の地に傍(そ)ひて東流し、銚子に至り海に帰す。これを利根川と号く(坂東太郎と字す)。一流は武蔵・下総の間を南へ流れ、国府台の下を行徳の方へ曲流し、海水に帰せり(これを新利根川と称す)」と記されています。『絵本江戸土産』初編に図版「利根川ばらばら松」があり、江戸百作品はそれの発展形に位置づけられます。書き入れには、「坂東一の大河なれば異名を坂東太郎とよぶ 鯉をもて名品とす 川風に揉(もま)れ屈曲して松は自然の振をなし 眺望尤勝れたり」とあり、屈曲した松の枝振りと鯉漁が名所の要素であるとしています。02「堀江ねこざね」が行徳船着場近郊の千鳥の名所(猟場)を捉えたのに対して、本江戸百作品はやはり同所近郊(対岸)の鯉の名所(漁場)を採り上げたという関係にあります。

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 具体的に利根川(江戸川)のどこに「ばらばら松」あるいは鯉の漁場があったのかについて、広重は明確な手掛かりを残していませんが、51「中川口」、52「さかいのわたし」が水路の交錯地点を選択していることから、利根川(江戸川)と新(堀)川が出会う地点、たとえば、「妙見シマ」辺りの眺めではないかと想像されます(『東都近郊全圖・部分図』参照)。江戸百中、唯一名所の場所が特定されていない作品に当たります。

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 江戸百作品と江戸土産作品とを比べると、一番大きな違いは、投網漁の特徴的様子が描かれているかどうかにあります。ばらばら松と投網漁とが一体となって名所絵として構成されるという広重の意図が重要であり、その手法は、29「浅草川首尾の松御厩河岸」における、首尾の松と屋根船との関係と同じであると言えましょう。すなわち、ばらばらと生える松とばらばらと点在する投網漁船とが掛けられているのです。また、同「浅草川首尾の松御厩河岸」の屋根船には影絵の技法が使われていましたが、江戸百作品には投網越しに背景が透視できるような工夫が施されています。ばらばら松は投網漁船があってこその名所であって、広重はそれを発見し絵画表現したということです。

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 なお、この網越しの景色は、北斎『富嶽百景』三編「網裏の不二」もしくは同『千繪の海』「総州利根川」の四つ手網越しの景色構成にすでにあり、広重はそのアイデアをより実景的に応用したものと推測されます。

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30 隅田川水神の森真崎

安政3年8月(1856)改印
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 『絵本江戸土産』初編に図版「隅田堤花盛」「水神の森真崎の社」の2図があり、本作品は近景拡大の構図を応用し、堤の上から見下ろす視点で1作品に仕立てられたものと思われます。書き入れには、「隅田の堤は 吾妻橋より千住大橋の際にいたる いといと長き堤の上に むかし亨保の頃とかや 芳野の桜を植えられしとて 今も弥生の中空には雲か雪かと咲きつづく 実に仙境のさまにも勝れり」、「真崎は浅草の方にして水神は川向ひ也 いずれも古き御社にて物舊神寂(ものふりかんさび)ていと尊し この辺 閑雅(かんが)の風景あり 詩歌の人々常に称す たたく水鶏(くいな)の名所もこの辺にておもしろし」と記されています。

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 本作品の隅田川を下る2艘の船の帆を見ると、右側は正面、左は横向きになり、ここで川の流れが変わっていることに気が付きます。その流れの延長線上此岸に水神社とその森があり、別名「浮島神社」とも呼ばれます。その命名には、水難、火除けの神としての立地と庶民信仰の理由がよく理解できます。対岸には「真崎稲荷」があり、「まっさきに」家運が興隆するという縁起の良い彼岸風景です。堤の桜のすぐ手前には往古の奥州街道を歩く人々が描かれており、道に沿って進めば橋場の渡に行き着き、真崎へと繋がります(DVD『江戸明治東京重ね地図・向島』参照)。隅田川の旧河口に当たる向島・本所一帯は、もともと湿地かつ洪水多発地帯であったので、幕府は洪水対策として隅田堤を築き、土留めも兼ねて桜を植樹し、隅田堤は江戸を代表する桜の名所となりました。

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 あえて花季の遅い八重桜が「極め出し」で強調されているのには理由があって、近景拡大の画法においては、近景と遠景とがイメージで繋がることが多いということが重要です。すなわち、末広がりの「八」重桜の遠景に、「八」の字を成す双耳峰の筑波山を重ねて、縁起の良い構図としているのです。そのうえで、此岸に水神社(森)、彼岸に真崎稲荷という2つの社を配置し、その両者を繋ぐ往古の奥州街道を写し、平穏に隅田川を流れる帆船や筏の眺望があって、「隅田川水神の森真崎」は名所になると広重は読み解きかつ描写しているのです。実際には筑波山は本作品の方向にはなく、たぶん首をもう少し北東に向けなければなりませんが、すやり霞を使ってこの方向に描き加えた広重の絵心の意味は、上記のところにあるということなのです。広重の思いは、風景をそのまま写しただけでは必ずしも名所絵とはならず、名立たる要素を見付け、再構築させて初めて名所絵となるということではないでしょうか。なお、被災・復興という文脈に本作品を置くならば、かつての生活風景が戻ってきたという点を強調することになりましょう。

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29 浅草川首尾の松御厩河岸

安政3年8月(1856)改印
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 浅草辺りを流れる隅田川を「浅草川」と呼び、その浅草にあった幕府の御米蔵の四番堀と五番堀の中間埠堤(ふてい)にあった大きな松が「首尾の松」で、その上流に「御厩河岸之渡」がありました(DVD『江戸明治東京重ね地図・浅草両国』参照)。幕府の厩があったことがその名の由来です。『絵本江戸土産』7編に図版「首尾の松大川端椎の木屋舖」には「隅田川の末流 吾妻橋と両国橋の中間 西の岸にあり 一株の古松屈曲なし 枝は水面に垂(たれ)て遠望すれは 龍の蟠(わだかま)るにも似たり」と書き入れられています。

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 なお、「首尾の松」の謂れについては諸説ありますが、本作品をよく見ると首尾の松の対岸に森が描かれており、それは、平戸新田藩松浦氏の屋敷の先にある、椎の木の森(「嬉の森(うれしのもり)」)なのです。江戸土産作品の題名にも「椎の木屋舖」とあるので、広重が意識していたことは間違いありません。この森に関して、『墨水銷夏録』(三谷一馬『江戸吉原図聚』中公文庫・1992、p67)は、「松浦邸の椎の木を、嬉の森といふは、吉原通ひの人、舟にて帰るに、此所にて暁なれば、帰るに首尾もよく、嬉しといふより名づけたるなり、向うの岸の松を、首尾の松といふも、これと同じ」との説明が参考になりましょう。

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 江戸百作品には、近景に屋根船、首尾の松、埠堤の竹垣、中景に御厩河岸の渡し舟、椎の木(森)、遠景に吾妻橋、上空の星空がそれぞれ浅草川を軸に描かれています。安政地震という文脈に置けば、浅草・本所一帯は大きな被害を受けた場所なので、近景・中景に注意を惹き付け、遠景の吾妻橋から隅田川東岸に広がる地域への関心を減らす工夫と捉え、また宵の時間帯として暗闇と星空によって景色全体を曖昧にしているという読み解きが導き出せます。しかしながら、狂歌仲間との付き合いを大事にしていた広重が、名所の核心に、見立て・掛詞・機知・頓知などの狂歌的発想を置いていたとするならば、別の読み解きが可能です。すなわち、屋根船の舳先に2足の下駄があることから、松のある辺りに屋根船を舫(もや)いつけ、何か用事をこしらえた船頭が陸に上がっている間に、首尾の松に掛けて、札差商人の客と柳橋芸者との船中で「しっぽり首尾をする」情景を想像することも自由であるということです。屋根船の青簾には、初摺りでは女の頭と肩が草色の影法師となって見えるはずですし、後摺りでは明らかに黒々とした影が浮かんでいます。つまり、版元の意図は別として、広重は「首尾の松」と屋根船での「男女の首尾」とを掛け、これこそがここの名所であると読み解いて作画しているのです。

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28 目黒千代か池

安政3年7月(1856)改印
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 目黒にあった荏原台地は北に緩やかに下り古川に至り、南は切り立った崖となって目黒川に接します(DVD『江戸明治東京重ね地図・上中目黒』参照)。27「廣尾ふる川」が前者の地点、本作品が後者の地点を描く作品となります。「千代か池」は、新田義貞の子・義興の妻千代が、夫の矢口の渡しでの戦死に落胆し身を投げたことに由来するという伝説があり、肥前島原藩松平主殿(ともの)頭の下屋敷(別荘絶景観)にありました(『江戸名所圖會』巻之三、『江戸名所図会3』p127、p132~p133)。

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  『絵本江戸土産』3編に図版「千代ヶ崎風景」(左図)があって、崖上から西方を遠望する構成で、「渋谷より目黒へ往還の芝生の岡をいふ この所月雪のながめは元より 四時遊観の地にして騒人群集す」との書き入れがあります。江戸百作品制作の経緯については、『絵本江戸土産』7編に図版「目黒千代ケ池」(右図)があり、そこには「この書前編に 千代ヶ崎の真景を図したれど 紙中隘くて池に及ばす 故に今またその池の図を増補して出すのみ」と書き入れられており、視点を崖下の池に移して新たに描き加えたことが分かります。作品の制作経過が10「品川御殿山」と同じである点で、狂歌仲間との品川旅行に際するものと推測できます。

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 大名屋敷には本来庶民は自由に出入りできないのですが、ここは大名抱地(かかえち)として出入りでき、本作品にも、「千代か池」の命名に関連してか、女性達が景観を楽しむ様子が描かれています。崖地に沿って走る三田用水に流れ込む滝が何段もの流れを繰り重ね、またすやり霞を用いて崖の高さを強調する手法を使って描かれています。なお、目黒と言えば「目黒不動」が有名であり、また目黒川崖上(千代ヶ崎)からの遠望風景が優れていることがすでに知られているにも係わらず(故に、目黒川沿いには富士塚が多くあることになります)、崖下の「千代か池」とそこに流れ込む滝を画題としたのは、新名所を探索する広重の興味があってのことで、これまでもそのような例があったことを指摘しておきます(02「堀江ねこざね」、04「千束の池袈裟掛松」、06「赤坂桐畑」等)。

 江戸百作品において、広重は「目黒千代か池」を新名所として採り上げるに当たって、作品の売りとして1つの工夫を加えています。江戸土産作品(7編)の図版「目黒千代ケ池」と比べると、構図的にはあまり大きな差はないのですが、本作品の池には背後の木々や花咲く桜の姿が影となって写されているという違いがあります。今日の私達の感覚からすると不思議なことではありませんが、陰影を描かない浮世絵という視点では珍しいことです。当時の人々には、江戸百作品は、西洋的技法の応用として目新しさをもって迎え入れられたのではないかと想像します。

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27 廣尾ふる川

安政3年7月(1856)改印
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 玉川上水は、甲州街道最初の宿場町内藤新宿の南側の町家裏を開渠の素掘りを流れ、四ツ谷大木戸の水番所からは石樋を地中に埋めて、暗渠で、1つは江戸城、2つは北方番町方面、3つは平河町・永田町を経て虎ノ門方向に流れています。余水は、大木戸から内藤駿河守の屋敷を通って流れ、上流では渋谷川、広大な野原のあった広尾辺りでは古川、下流では新堀川と名を変え、増上寺の傍らを経て、金杉橋から江戸湾に注ぎます。『絵本江戸土産』7編に図版「麻布古川相模殿橋廣尾之原」があり、「江都第一の郊原にして 人のよく知る所なり されば 四時艸木の花更に人力を假らずといへども 自然咲つづき 月の夜しがら古の歌に見えたる武蔵野の気色は これかと思ふばかり寂寥として餘情深し」との書き入れがあります。古の武蔵野の荒寥とした情緒を思い起こさせる原野の名所として採り上げられているようです。

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 DVD『江戸明治東京重ね地図・三田高輪』と対照すると、本作品は、古川に架かる相模殿橋(四ノ橋)の下流から上流方向に視線を採る構成で、遠くに桜が咲いています(光林寺か天現寺?)。橋の右が麻布台、左が白金台に相当します。橋の袂にある2階建ての料理屋は、狐鰻で有名な蒲焼きの「尾張屋」です。11「品川すさき」を読み解く際、洲崎の風光は料亭「土蔵相模」から見てこそが第一であると分析しましたが、本作品においても同様の思考で、広尾の江都第一の郊原の景は、料理屋「尾張屋」にてこそ楽しむべしと解釈することになりましょう。尾張屋についての情報は、原信田『謎解き 広重「江戸百」』(p169)が、「広重が初めて描く場所だが、狂歌仲間の推挙が働いているようである」と述べるとおりでしょう。『絵本江戸土産』七編の図版「再出 御殿山當時のさま」で描き直しがあり、安政3年5月の序文のある『狂歌江都名所圖會』九編に広重自身が品川の狂歌を載せていることから、広重が狂歌仲間と品川旅行した体験が想起されるのですが、本作品の元絵である「麻布古川相模殿橋廣尾之原」が『絵本江戸土産』の品川と同じ7編に掲載され、また『狂歌江都名所圖會』十二編に「狐鰻」の店が狂題となっている事実を考えると、本作品の作画動機に狂歌仲間からの何らかの情報があったとしても不思議ではありません。いずれにせよ、パブ記事風の営業宣伝臭がします。

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 地震からの復興や幕府の動静から全く離れ、狂歌仲間が物事を滑稽に捉える感性と同じ様に江戸の名立たる要素を江戸百に読み込んでいるのではないかと思われます。たとえば、「廣尾ふる川」が名所なのは、風光だけではなく、実は「狐鰻」の店にあるという諧謔性です。相模殿橋の右奥には毘沙門天(虎)を祀る「天現寺」があり、その参詣客が狐鰻に立ち寄り大繁盛しているのですが、それはまさに「虎の威を借る狐」だと揶揄しているとも考えられます。

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26 角筈熊野十二社俗称十二そう

安政3年7月(1856)改印
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 25「糀町一丁目山王祭ねり込み」のあった半蔵門(麹町1丁目)から西方に走る甲州街道が、内藤新宿で青梅街道と分岐する追分の西、両街道の間に「角筈熊野十二社」は位置します(DVD『江戸明治東京重ね地図・四ツ谷内藤新宿』参照)。新宿都庁舎の西側眼下にある新宿中央公園が、かつてあった「角筈の森」の跡地に当たります。『絵本江戸土産』三編に図版「角筈熊野十二社」があり、その書き入れには、「この社 物舊神寂(ものふりさびさび)て 神威殊に尊とし また 十二相と唱ふ大いなる池ありて 山水自然の絶景なり 実は十二所権現といふ 十二相とは訛れるなるべし この池より落る大瀧あり その図次にあらはす」と記され、続いて「其二大滝」の図版があります。応永10年(1403)、紀州出身のある者が角筈の森に、紀伊国熊野から十二の神社をまとめて勧請・創建したのが十二所権現社の始まりで、後に、「享保の頃、官府に訴えて成願寺奉祀の宮とす。しかありてしより己降、神供厳重に祭祀懈ることなし。九月二十一日を祭祀の辰とす」(『江戸名所圖會』巻之四、『新訂江戸名所図会4』p47)となりました。

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 角筈熊野十二社は、熊野権現を模した古社であり、紀伊国出身の将軍徳川吉宗に縁があるという意味で、江戸百において安全な題材と言うことができます。また、河川・水路・堀川・泉・池などの水源に強い関心のある広重にとっても、相応しい画題と考えられます。本作品では、左角に角筈熊野十二社が見えるのみで、その周辺には2階建ての料理屋や茶屋の葦簀など細かに描かれており、信仰の地としてだけでなく、夏の涼を求める行楽地として遊客を誘っているのだと思われます。背後のすやり霞の奥にはギザギザの山並みが写されていますが、これは特定の山というよりは、水源を守るための古木蒼々とした鎮守の森を表し、同時に紀伊国熊野権現の神苑な雰囲気を仮装すための表現ではないでしょうか。池に残るばれん跡(初摺)は、ここ一連の急ぎ仕事のせいかもしれません。安政3年7月改印の作品には江戸東部域のものが複数あるので、そのバランスから、本作品は江戸西部域より選ばれました。

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 なお、角筈熊野十二社の池と並んで景勝地として知られる十二社の滝は、玉川上水と神田上水とを結ぶ掘り割り工事の際に造られた人工の滝です。『絵本江戸土産』三編図版「其二大滝」には、「近来 この所の池より落る小滝をまうけて 夏月納涼の一助とす 都下の人々こゝに群集し この滝を浴みて逆上を治し 且 發狂等の病を癒さしむ」と書き入れられています。

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25 糀町一丁目山王祭ねり込

安政3年7月(1856)改印
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 江戸百は江戸の名所地を描くのが第一義なので、題名「糀町一丁目」の意味を考えなければなりません。本作品を見ると、日吉山王権現社祭礼の山車などが半蔵門を潜って江戸城内に入るのが、ここ麹町であるという意味で名所に選ばれていると解されます。17「外桜田弁慶堀糀町」では、火の見櫓のある定火消御屋敷を名所の要素と見ていたのとは異なっています。二代広重『絵本江戸土産』十編に図版「山王権現」があって、「山王権現は神田明神に等しく 是を俗に天下祭といふて 何れも上覧あり されば在江戸の諸侯方より 警固の長柄足軽など出されて そのさま尤厳重なり 祭事は六月十五日にこそ」と書き入れられています。詳細は、『江戸名所圖會』巻之一・図版「六月十五日山王祭」(『新訂江戸名所図会1』p166~p167)参照。

 *DVD『江戸明治東京重ね地図・御城』
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 武江年表(安政三年)』(『定本武江年表下』p84)は6月15日のこととして、「山王権現祭礼。恒例の通、神輿(みこし)行列、車楽(ダシ)計り御城内へ入る。附祭(つけまつり)の伎踊(ヲドリ)・邌物(ネリモノ)と御雇大神楽・同独楽廻しは、今年更に出さず。午刻、驟雨・雷鳴あり。神輿の行列のみは、跡に残りて雨にあひたり」と記しており、本作品はこの事実を受けて作画されたものと推測されます。故に、空のあてなしぼかしあるいは一文字ぼかしは、確かに雨天を感じさせるものです。

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 『藤岡屋日記(安政三年)』(藤岡屋日記第七巻』p239)の「六月十五日」の条に、4月11日に、山王祭礼の節は、「常例之通相心得可申候、且又附祭と相唱候躍屋台・地躍之義は、御曲輪内江引入候ニ不及事」と申し渡したのに対して、町年寄より再度附祭は「地震出火ニ付、御免願致し候処」とあり、「先達而相触趣がわからぬかと」と応じた旨の記載があります。幕府の意気込みと氏子達の不承不承の様子が読み取れます。当日の様子については、「神輿行幸・出し等ハ、如例年之ニ御座候得共、氏子中、地震類焼等之災難ニ而、何レも静かなる事共也」との一文があるのみです。

 以上の状況を念頭に置くと、安政3年4月改印の06「赤坂桐畑」が山王権現社の祭礼を事前に宣伝広報する作品とした場合、翻って考えるならば、夕立風景は挙行を不安視する氏子達の気分を表現していると読み解けます。なお、本作品と二代広重の江戸土産作品を比べると、大伝馬町の諫鼓鳥と南伝馬町の神猿の山車の順番が逆になっていることに気付きます。祭礼では、1番目は諫鼓鳥、2番目は神猿と決まっているので、イメージ優先の近景拡大の技法を使っているとは言え、一般的には広重の誤りと判断されています。安政3年7月改印の22「吾嬬の森連理の梓」では題名「樟」の間違い、24「亀戸天神境内」(初摺)では橋下の空の色指定の誤り、そして本作品の山車の順番違いと続いており、6月の1ヶ月の休みがあったにも係わらす、制作者側に混乱が感じられます。「地震安政見聞誌出版一件」の影響で、版行順や構成内容の再検討が必要になり、急ぎ制作した事情が垣間見えます。出版の時期という観点では、本作品や「亀戸天神境内」は6月版行の方が良かったはずです。

 浮世絵の読み解きには、文脈が大切であり、地震による半蔵門の崩落という観点では幕府施設の現況報道という意図が大事ですが、くわえて「地震安政見聞誌出版一件」を考慮すれば、半蔵門ではなく、その前方の「糀町一丁目」に目を向けさせるために近景拡大の構成が採られているという理解になります。他方、天下祭と呼ばれ、将軍が上覧する山王権現社の祭礼が地震後初めて催されたという観点では、先とは反対に、幕府の意向に添って、例年とは変わらない祭風景・庶民生活を描くという佐幕的思考を読み取ることになります。その場合、「糀町一丁目」は安寧な江戸の象徴的名所となります。幕府御家人であった広重と相当な投資を覚悟している町人魚屋栄吉にとっては、言うまでもなく、後者こそが江戸百を無事完結させる道となります。

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24 亀戸天神境内

安政3年7月(1856)改印
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 地震被害のあった浅草・本所から、21「浅草金龍山」、22「吾嬬の森連理の梓」、23「小奈木川五本まつ」に続いて、同じ地域の1つとして本作品も採り上げられています。『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p70)は、10月2日、「本所の地は殊に震動烈しく、家々両側より道路へ倒れかゝりて、往来なり難かりしと。死亡幾百人なるを知らず。又焼亡の場所多し」と記しており、地震被害からの復興意識が本作品の根底にあることは間違いありません。しかし、「地震安政見聞誌出版一件」もあって、江戸の歴史的名所の従前と変わらぬ情景を静かに描き、余計な詮索を避けるような構成です。つまりは、『絵本江戸土産』初編の図版「亀戸(かめど)天神の社」を視点を大きく変えつつも、転載する方針と考えられます。書き入れには、「筑紫に名高き御社をここに摸して東宰府 その神徳はいふも更なり 池の辺の藤の花 波の底にも紫のゆかりをうつす水の面 見る人我折りて反(そ)りかへる その反橋(そりはし)も亀戸の名物とやいふべからん」とあります。

 *DVD『江戸明治東京重ね地図・寺島亀戸』
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 上野(寛永寺)の清水堂が京都の清水寺の舞台を模して建設されたと同様、亀戸天神も太宰府天満宮を模して建てられており、『江戸名所圖會』巻之七の解説・図版(『江戸名所図会6』p113以下)によれば、神職大鳥居信祐が太宰府天満宮の神木「飛梅(とびうめ)」で作った菅原道真像を祀ったことに始まり、その後、本所の再開発に伴い、新しい土地において、殿宇、太鼓橋、心字池などが造営・整備されたとあります。春の梅花はもちろん有名なのですが、あわせて夏の藤花の名所でもあり、本作品では、近景拡大の技法を使って、東側から手前の藤棚と松の枝越しに心字池に架かる「一の反橋」を見通す視線で描いています。橋下には、さらに反対側の藤棚と赤い提灯のぶら下がる茶屋と藤を見上げる人々が描写されている点に注意が必要です。

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 江戸土産作品では反橋は3組の橋桁で支えられた構造になっているのですが、江戸百作品では4組の橋桁に改変され、中央部分が広く開放されており、藤棚の下、縁台に座って花を楽しむ庶民を遮ることなく見ることができます。太鼓橋とも言われた橋の構造に注目点があるように見せながら、橋下に広がる庶民の行楽風景にこそ関心が払われているのです。亀戸天神への遊客を誘因することを目的とした絵であることがよく分かります。なお、初摺作品では橋の内側が池と同じ藍色になっていますが、この部分は橋の上の空と一体となるところなので、色指定の誤りと推測されます。後摺では訂正されています。そもそも、亀戸天神は本所再開発の折、本所の鬼門(北東)を守る神として建設されたものなので、多くの人々の参詣・行楽の姿が描かれるのは当然のことです。多くの被災民の死を偲ぶ後ろ向きではなく、今に生きる庶民の「藤(無事、不死)」を歓ぶ前向きの作品と思われます

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23 小奈木川五本まつ

安政3年7月(1856)改印
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 DVD『江戸明治東京重ね地図・猿江十万坪』を参照すると、「小奈木川」(小名木川)は、西は万年橋から、東は中川番所までのおよそ1里20町(約5km)の直線の堀川です。行徳から江戸に塩を運ぶ水路であり、また銚子以北からの物資を運ぶ経路として発展し、さらに行徳や房総(成田詣)などへの観光路でもありました。名前の由来には諸説がありますが、徳川家康の命により、慶長年間(1596~1615)、「小名木四郎兵衛」が開削したとの見解が有力です(その他、「女木三谷」、「うなぎ沢」等。『江戸名所圖會』巻之七の「五本松」、『新訂江戸名所図会6』p52解説参照)。「五本まつ」(五本松)については、「九鬼家の構へのうちより、道路を越えて水面を覆ふところの古松をいふ(昔、この川筋に同じほどの古松五株までありしとなり。他は枯れて、ただこの松樹のみいまなほ蒼々たり)」と記され、図版「小名木川五本松」には月の名所として描かれています。なお、「九鬼家」とは、丹波(京都)綾部藩九鬼式部少輔大御番頭1万9千5百石の下屋敷を指します。

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 『絵本江戸土産』初編の図版「小奈木川五本松」が東側からの視点であったのに対して、江戸百作品は西側からの視点で、乗客の顔の向きから、奥より手前、行徳から日本橋方向に進む船の様子と推測されます。その観点からすると、川に浸される乗客の手拭の流れる方向が逆のように見えます。江戸土産作品には、「此の松は かの千年の老松花橘ともいふべきもの歟(か) 実に稀代の名木なり」と書き入れられており、先に紹介した八幡太郎義家の松、日本書紀に登場する連理の楠などと同系列で、歴史的名木・名所を無難に紹介しようとする広重の意図が強く感じられます。「地震安政見聞誌出版一件」からの教訓です。

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 では、幕府の動静や地震・被災復興の現況から離れた作品と考えるとしても、本作品には何か別の趣向が隠されてないのかを探ってみると、江戸百作品では、江戸土産作品では2本であった松の支柱が3本となっており、その下には堀の波除杭が7本打ち込まれています。3本の支柱、五本松の5、7本の波除杭、そして九鬼家の9ということで、縁起の良い陽数が3、5、7、9と並んでいる仕掛けに気付きます。広重は、絵心として小名木川を曲線状に描いていますが、江戸っ子は小名木川が一直線の堀川であることは承知のことなので、さらに1の陽数も加えられましょうか。つまり、本作品は大変縁起のよい陽数の絵組であり、これこそが当地を名所とさせている要素であることを広重は面白く表現しているのだと思われます。

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22 吾嬬の森連理の梓

安政3年7月(1856)改印
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 亀戸の北、吾嬬権現社がある一帯を「吾嬬の森」と呼びます。『絵本江戸土産』初編に図版「吾嬬の森」があって、「橘姫(たちばなひめ)の故事(ふること)人のよく知るところなり 連理の樟(くす)の巌(いはほ)となるまで 千代万代も朽ちせぬ操(みさお) 東都第一の旧跡なり」と書き入れられています。さて、「橘姫の故事」とは、日本武尊が相模国から上総国に渡る際、荒れた海を鎮めるために、妃弟橘媛が海に入水した後、その形見の着物が吾妻の森に流れ着き、武尊がここに廟を建てたとい縁起を指します。その際、武尊が食事に使った箸を廟の東に立てたところ、枝葉が出て一根二幹の樟に成長し、男女の契の深いことを表す、「連理の樟」と呼ばれるようになったと言います(『江戸名所圖會』巻之七の解説「吾嬬権現社」および図版「吾嬬森吾嬬権現連理樟」、『新訂名所図会6』p142~p145)。なお、広重の題名は「連理の梓」となっていますが、「樟」と「梓」との書き間違い(彫り間違い)と思われます。

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 本作品は、江戸の名所の中でも歴史の草創期と係わる古跡を画題とするもので、幕府動静からは時間的に最も遠い場所を対象としている点が注目されます。DVD『江戸明治東京重ね地図・浅草両国』を参照すると、浅草寺に近隣する「吾妻橋(大川橋)」の東方に、中川に近隣する「吾妻権現社(吾妻の森)」が位置し、両者の命名に関係があることが推察されます。その間を北十間川が流れており、本作品近景に2艘の船が浮かんでいる川がそれに相当します。

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 19「八景坂鎧掛松」の樹齢800年を超える松の大木に変えて、「東都第一の旧跡なり」という、さらに古い伝承を持つ連理の樟を採り上げ、当時の社会状況とは無関係な伝統的名所を描くという安全策に出たものと考えられます。やはり、「地震安政見聞誌出版一件」の影響があったと解する他はありません。本作品においては、参道の桜が咲いていること、境内に向かう道の両側に願が叶ったことへのお礼の幟が多数立っていることなど、江戸土産作品とほぼ同じ構図ですが、一ヶ所異なっている部分があります。それは、手前に流れる北十間川に浮かぶ2艘の船が、左右に離れて行く様子が描かれていることです。江戸百作品の画題は明らかに「連理の梓(樟)」であって、2本の樟が一対同根の強い繋がりを示していることが肝要であるにも係わらず、その手前の川を進む船が離ればなれになって行くことのおかしさが描写されているのです。幕府の動静も、地震からの復興も関係なく、この諧謔性こそが広重の隠された思惑なのです。

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