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版元魚屋栄吉

◇版元の立場

 当時の出版界には、手っ取り早く稼ぐには、絵双紙問屋で当てて稼ぐに限るという状況があり、魚屋(さかなや・ととや)栄吉は、安政の江戸地震が起こる2ヶ月程前に地本双紙問屋に加入し、しかも、地震の被害は受けていなかった可能性が高く、江戸の名所を百枚描くという新企画をもって、大儲けを狙ったと考えられます。「あてなしぼかし」などの微妙な摺り、雲母摺り、布目摺りなど多用され、名所絵にしてはかなり高度な彫摺の技術が駆使されていて、その数も百枚以上ということからすると、投下資本からしても相当大きな販売を期待していたことが推測されます。

◇『今様見立士農工商 商人』歌川(三代)豊国/大判三枚続/横川彫竹/魚屋栄吉(魚栄堂)/安政4年8月(1857)
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 上野広小路にあった魚屋栄吉の絵双紙屋の店頭風景です。左手奥に、『名所江戸百景 大にしき百番つゝき』という宣伝文句が見えています。また、その隣には、『名所江戸百景』の「浅草金龍山」と「玉川堤の花」が飾られています。同「玉川堤の花」には、後で詳しく触れますが、作品制作の前提となる事実にトラブルがあったはずで、それがそのまま目玉商品として売られている様子には、それほど問題視されなかったというよりは、かえって話題になったのかもしれない等々色々と想像してしまいます。なお、本作品の安政4年8月改印という時期は、先のトラブルの関係者である、老中首座阿部正弘の死去後のことであり、本作品制作の動機に何か関係があるかもしれません。

 絵師が三代豊国ということもあり、どうやら、役者絵を店の前方に置いて販売していたようです。役者絵は、基本的に歌舞伎の上演期間までがその商品価値と考えれば、短期間に販売する都合上、目につくところに置かれるということでしょうか。とすれば、幕府に忖度し、下に置いて目立たないように売らなければならない「シタ売」という指定には、販売規制としてある程度の効果があることが分かります。

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