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03 芝うらの風景

安政3年2月(1856)改印  彫師:彫千(後摺では削除)
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 『絵本江戸土産』二編に図版「芝浦」および「其二」があって、それの発展形が本作品と考えられます。書き入れには、「田町辺の惣名(そうみよう)なり この所より見わたせば 海水渺々(びようびよう)として 安房上総を望み 右に羽田の森幽(かすか)にて 遠く見ゆる白帆のさま 常に月雪にます絶景なり」とあり、「其二」には、「増上寺」と「神明宮」(芝大神宮)が記名されて描かれています。つまり、芝浦とは東海道の芝口橋から金杉橋辺り一帯の海岸(芝浜)を指し、将軍家の別荘御浜御殿(浜離宮庭園)のあったことで有名です。

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 本作品の特徴は、左近景および左中景に水路標識澪標(みおつくし)を大きく描き、右側に御浜御殿、紀州和歌山藩下屋敷、陸奥二本松藩蔵屋敷、陸奥会津藩下屋敷の石垣を並べ(DVD『江戸明治東京重ね地図・築地石川島』参照)、それに沿って荷船、屋根船、弁才船、帆を降ろす多数の弁才船の停泊姿が一点透視遠近法を使って表現されている点にあります。ただし、左の近景拡大の画法と右の遠近法とに破綻があって、中景の澪標が異常に大きくなっています。見落としてはならないのは、右遠景に品川から羽田までの海岸線風景が続くのに対して、左遠景に2つ石垣と1つの土盛りの島があまり印象なく描かれている点です。都鳥(ゆりかもめ)が、近景・中景・遠景に列をなして飛ぶ姿に目を奪われ、ほとんど気が付かない程です。

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 改印と同じ月の2月2日のこととして、『藤岡屋日記』第七巻(p112)に「今五時之御供揃ニ而、浜御庭江被為成」と記されており、将軍徳川家定の御成りがあって、安政地震で御浜御殿の海側の石垣が崩れた事情を勘案すると、その被害状況や(修復の)様子を視察した可能性があります。したがって、将軍の御成りが版行の動機に影響を与えた可能性があり、さらにその延長線で推測すると、反面で広重に幕府施設の描写に対する禁忌(タブー)意識が働き、将軍の御成りや御浜御殿(修復)の情報発信を役人に悟られないようにするため、背景に小さく挿入するに止め、澪標と都鳥を近景に大きく写したと読み解くこともまた可能です。確かに、江戸土産と江戸百とを比較すると、先行作品に描かれていない御浜御殿等の石垣が後行作品に写されている点では、この推論に理由はあります。しかし、これは浮世絵師の幕府施設に対する一般的注意事項であって、本作品を際立たせる核心部分ではないように思われます。なぜならば、もう一度江戸土産と江戸百の両作品を比較すると、先行作品には描かれていない3つの島(砲台場)が後行作品の画中左側遠景に見えていることに気付きます。こちらの部分に注目すれば、広重作画の動機は、この「御台場」が「芝うらの風景」の新名所であることを示す意図であると端的に捉えた方が名所絵師の立場としては自然です。

 嘉永6年(1853)、ペリー艦隊が来航して幕府に開国を要求し、脅威を感じた幕府は、老中首座阿部正弘の命で品川に砲台場(御台場)を築造します。翌年にペリーが2度目の来航をするまでに一部は完成し、結果、ペリーは横浜から上陸することになります。時代の大きな潮流の変化を暗示する御台場の建設とその新風景こそ広重および庶民の最大関心事であって、御浜御殿の石垣でさえ、御台場を隠す道具に使われているのではないかと想像します。将軍の御成り、御浜御殿の石垣(修復)は、版元的には話題として作品を売り出す動機になりますが、絵師的には御台場が見える芝浦を新名所として紹介することの方が作画の意義が高いはずです。なお、将軍の御成り報道にあまり重心を置くと、町絵師が将軍の動静を監視しているような疑いを生んでしまいます。

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