広重の年譜
寛政9年(1797):三十俵二人扶持の定火消同心・安藤源右衛門の子として、江戸八代洲河岸の定火消屋敷に生まれる。幼名徳太郎、後に重右衛門、鉄蔵、徳兵衛。
文化6年(1809)
:2月13日、母(安藤十右衛門の娘)没。同月、父源右衛門隠居し、同心職を継ぐ。
:12月27日、父死亡。
文化8年(1811):歌川豊国に入門を希望するも断られ、歌川豊広に入門。
文化9年(1812):師豊広より、歌川広重の画名を許される。
文政6年(1823):11月、定火消同心職を祖父の後妻の子仲次郎に譲り代番となる。鉄蔵と改名。
天保元年(1830):斎号・一幽斎
天保3年(1832):斎号・一立斎
天保4年(1833):『東海道五拾三次』(保永堂)版行開始。
天保13年頃(1842):南伝馬町東の大鋸(おが)町に転居。
弘化3年頃(1846):大鋸町から京橋方向の常磐町に転居。
嘉永2年頃(1849):大鋸町近くの中橋狩野新道に転居。
嘉永6年(1853)
6月3日:アメリカの東インド艦隊ペリー提督が4隻の黒船率いて浦賀沖に到着。
7月18日:ロシア大使プチャーチン、開国通商を求めて長崎に来航。
*江戸幕府・老中首座阿部正弘、朝廷を始め外様大名や市井を含む諸侯有司に対しペリーの開国通商要求への対応策を下問。ペリー来航を期に品川に砲台を築く工事を開始、翌年に完成。お台場と呼ばれる。
嘉永7年(1854)
1月16日:ペリーが前年に引き続き江戸湾に再来。
3月3日:日米和親条約締結。
4月6日:京都大火(御所焼ける)。
11月4日:安政東海地震。
11月5日:安政南海地震。東海地震の32時間後に発生。
12月21日:日露和親条約締結。
*同年中に安政へ改元されたため、嘉永7年を安政元年と解釈し「安政」を冠して呼ばれる。
安政2年(1855)::10月2日:安政江戸地震
安政3年(1856):2月より『名所江戸百景』(魚栄堂)版行開始。翌3月28日、剃髪して法体。
7月21日:ハリスが下田に着任。
8月25日:台風で江戸に猛烈な暴風と高潮。死者10万人。
安政5年(1858)
6月19日:江戸幕府、日米修好通商条など、「安政の五か国条約」に無勅許調印。
8月頃:コレラが大流行(安政7年にかけて)
9月5日:大老井伊直弼による反対派弾圧が始まる(安政の大獄)。
9月6日:広重、早朝に病没。
辞世「東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見む」
埋葬 浅草新寺町の東岳寺(浄土宗、現在は曹洞宗)
安政7年(1860)
3月3日:大老井伊直弼が江戸城桜田門外で暗殺される(桜田門外の変)。
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