11 品川すさき
安政3年4月(1856)改印
『絵本江戸土産』七編の図版「品川冽嵜辨天の祠芝浦眺望」とほぼ同じ構成の作品で、右背後に第一期工事によって完成した砲台場が描き加えられている点が相違しています。書き入れには、「深川にも同名あり 思ふにここには元地なるべし 元来海の出洲なれば風景はいふに及ばず この後ろは妓楼の正面或ひいは綾羅(りようら)の袂をかざし 糸竹の音の賑はしきも 岸によせくるささら浪の音に和して いと興あり」とあって、近景左下に妓楼の2階が見えており、風光のみならず、北の新吉原に対して南の品川と呼ばれた、遊興の地であることが名所の重要な要素となっています。
DVD『江戸明治東京重ね地図・品川』で確認すると、本作品制作時点では、すでに第二期工事の「御殿山下砲台場」が建設終了しているはずですが、全く描かれていません。その理由については、1つは、幕府軍事施設である砲台場を遠景はともかく、近景にアップすることから発生する幕府規制の可能性を避けたという考え方です。もう1つは、第一期工事が終了し、第二期工事が始まる前の洲崎の風景を描き残したという考え方です。10「品川御殿山」で、土が削り取られた御殿山をそのまま描いている広重の態度を一貫させるならば、広重は見たままを描き、それを作品にしたという可能性は十分あります。既述のとおり、第二期工事が始まる前、狂歌仲間と品川に行った旅行体験に基づく思い出あるいは庶民馴染みの風景と判断されましょう。
江戸百作品を詳細に見てみると、目黒川が江戸湾に注ぐ、細長い洲状の一帯は品川洲崎(天王洲・兜島)と呼ばれており、その先端には弁財天社(現利田神社)があります。俗に、「浮弁天」とも称され、この辺は潮干狩りが楽しめる場所としても知られています。左下の料亭風の建物は、品川を特徴づける海鼠(なまこ)壁の「土蔵相模(どぞうさがみ)」と呼ばれた施設と思われます。そして、鳥海(とりみ)橋を渡った先に弁財天社があるという位置関係の作品です。画題は、まさに、弁財天社を中心とした洲崎の風光明媚な景色ということになりますが、それは妓楼・遊廓から眺めるに尽きると言っているように感じられます。大きな変化を見せた御殿山と対比して、遊興の地としては変わらぬ品川洲崎であるということでしょうか。ちなみに、洲崎は、幕府に魚介類を納める「御菜肴八ヶ浦(おさいさかなはちかうら)」の一つなので、版元「魚屋」との縁も浅くはありません。
安政地震との関連では、御台場の被害は小さくなく、『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p71)には、「品川沖御台場の内、建物潰れ土中に入り、剰(あまつさえ)火を発したり」とあります。しかし、本作品が御台場のみを第一の画題としているとは考えにくく、庶民による浮世絵購買を期待できるという訳でもないので、姿は変わっても御殿山の花見は変わらず、御台場建設によっても洲崎の遊興は変わらずという意味で、品川への遊客を誘う作品と理解できます。
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