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08 上野清水堂不忍ノ池

安政3年4月(1856)改印
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 『絵本江戸土産』五編の図版「(上野)其三 上野清水堂花見」には、「右の山王に隣る 舞台高欄悉く朱塗りにして荘厳美を尽くせり この傍彼岸桜の大木数十株ありて 春時の一奇観更に雲の如く雪に似たり 都下の老若競ひあつまり 割籠(わりご)を携え小竹筒をひらきて賑ひことばに尽しがたし」とあって、京都清水寺を模した朱塗りの舞台からの不忍の池眺望と花見の景地であることが分かります。不忍の池については、『江戸名所圖會』巻之五(『新訂江戸名所図会5』p47、p52)に、「東叡山の西の麓にあり。江州琵琶湖に比す(不忍とは忍の岡に対しての名なり)。」また、不忍の池の中島には中島弁財天が祀られ、「江州竹生島のうつし」とあります。この地が、京都・近江の景勝地を江戸に再現した一帯であることが理解できます。『絵本江戸土産』と比べると、江戸百の本作品が清水堂(舞台)の高さを相当強調していることが確認できます。左側に円を描く枝振りの松が描かれていますが、この清水堂の名木については、78「上野山内月のまつ」にて詳述します。

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 月の松の背後に中島に通じる道の一部と鳥居が描かれています。DVD『江戸明治東京重ね地図・東叡山下谷』を参照すると、その先に中島弁財天があることを暗示する広重の省略画法であることが分かります(「広重あるある」)。安政地震の被害との関連では、『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p69)には、「東叡山諸堂別段なし」、中島付近は、「不忍池石橋崩れ落ち、境内茶屋残らず焼る」とあります。この点につき、広重が弁財天の社自体を描いていないことを意図的なことと考えれば、被災の実態部分を避けた結果となります。ただし、江戸百版行開始に際して、01「玉川堤の花」が幻の花見図となってしまったことから、典型的な花見の景地を描き加えようとしたことが第一であって、弁財天の社が描かれていてないのは、本作品が竪絵であるという構成上の要請ではないかと推測します。

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 なお、版元目線で想像すれば、本作品は、安政3年3月の将軍・御三家による花見の御成りと関連している可能性があります。『藤岡屋日記』第七巻(p152)の「安政三月」の条に、「明十三日、板橋筋江被為成候ニ付、御供揃五ツ時之旨、被仰出之」とあって、3月13日に将軍徳川家定公が御成りしている記述があります。この御成りが契機となって、寛永寺の桜を画題とする作品の版行が計画されたのではないかと考えられます。03「芝うらの風景」の版行理由として、やはり、2月2日の将軍家定の御成りが想定されることと同様の理由です。安政地震の被災と復興の状況を視察するのが本来の目的ですが、選ばれた道筋や時期などから勘案すると、花見も兼ねていることは想像に難くありません。広重の作画自体は将軍の御成りを報道することが目的なのではなく、版元が御成りの話題を販売に利用しようとして版行に至ったという思考です。

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