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06 赤坂桐畑

安政3年4月(1856)改印
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 2月に5枚の作品を出版した後、1ヶ月の中断があり、4月から再び作品版行が始まります。安政3年に還暦を迎えた広重は、3月28日に「薙髪(ちはつ)の会」を開いています(『大日本古記録 齋藤月岑日記六』岩波書店・2007、p102)。剃髪して人生の再出発を宣言する行為と考えられ、名所絵師としての活躍を心に誓ったのではないかと想像されます。安政3年4月改印の作品は薙髪後初めての8枚に当たり、それ故、今後の広重の作画方針を占うものであると理解されます。

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 本作品は、赤坂方面から東南方に広がる溜池を虎ノ門方面に望むものです(DVD『江戸明治東京重ね地図・赤坂麻布』参照)。時期は、背景上部の黒雲から判断して、夏の夕立直前と見えます。中央の溜池は、もともとは自然の湧水であったものに、江戸時代初期、虎ノ門に洗い堰が築かれ、切り立った崖を利用して江戸城外濠の構成要素として活用され、江戸城の外堀に水を供給する溜池となりました。承応3(1654)年に玉川上水が完成するまでは、池の南の江戸市中に上水を供給する役目も担っており、享保年間(1716〜1736)に溜池の土手を補強するために桐の木が多く植えられ、一帯は桐畑と呼ばれました。

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 『絵本江戸土産』三編に「赤坂桐畑永田馬場山王社」と題する図版があって、それを再構成するに当たって、すやり霞の上部にあった「山王社」部分をカットし、視線を低く落とし、完成された近景拡大の画法を導入して描いたものと考えられます。同図版には、「この辺すべて山水の景地なりといへども 常に見なれて 人是を称することなきぞ遺憾なるべき」という書き入れがあります。この書き入れは重要であって、江戸百において、多くの人が見落としていた景地を広重が意図的に採り上げ組み入れた経過が浮かび上がってきます。つまりは、これこそが広重の発見した(新)名所、すなわち『名所江戸百景』の名所であると宣言しているのです。しかも、その方法として、完成された近景拡大の画法が応用されているのです。本作品の重要性は、日常景がその切り取り方によって名所絵になるということを示したことです。そのことは、広重没後、二代広重が、同じ画題の、119「赤坂桐畑雨中夕けい」で江戸百を締めくくっている事実からも確認できます。江戸百119枚の中で特別な地位を占めている本作品は、薙髪後、心機一転して制作した最初の1枚であり、見慣れた景色を近景拡大の画法によって名所として意識させ、その手法を完成させ、晩年の大作『名所江戸百景』完結に向けての実質的出発点となったメモリアルな位置づけを得ているということです。

 なお、版元目線に立てば、本作品の左側背後の山王台にある日吉山王権現社(日枝神社)が隠された画題である可能性は十分あって、その場合は、同年6月15日、地震以来初めて再開される山王権現祭礼を予告し期待を煽っていると解釈することができます。日が隠れ夕立が来そうな花桐に祭礼への期待と不安を仮託することは、日吉山王権現には相応しい構成選択であり、確かに作品の商機を生み出しています。さらに深読みすれば、近景の花桐は豊臣秀吉(五三の桐)、そして幼名日吉(丸)となり、日吉山王権現と繋がります。山王権現の使いは「神猿(まさる)」なので、端的に猿で繋がるといった方が分かりやすいかもしれません。神猿は、「勝る」、「魔去る」という語感であって、そこに庶民は御利益を求めたので、本作品は縁起の良い図柄と感じられたはずです(25「糀町一丁目山王祭ねり込」参照)。いずれにしろ、単純な名所絵ではありません。

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