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01 玉川堤の花

安政3年2月(1856)改印
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 当時は場末感のあった甲州街道の宿場・内藤新宿にあった旅籠の背後を流れる、玉川上水の堤に咲く桜並木を描いた作品です。信州高藤藩内藤家下屋敷のあった内藤新宿の裏手とも言われています。桜並木の左側背後は、内藤家家臣達の住む武家屋敷一帯で、DVD『江戸明治東京重ね地図・四ツ谷内藤新宿』によれば、火消役渡辺図書助辺り、画中右側の冠木門は天龍寺の門前辺りかと思われます。夕景を表す紅のぼかしと玉川上水の藍の拭きぼかしの対比が美しいと言えます。旅籠の2階に赤い着物の女達が見えますが、飯盛女(遊女)の姿です。玉川上水を挟んだ対岸の桜並木の下に揃いの傘を差した一行が描かれているのは、稽古事の師匠に連れられた花見をする弟子の一行と思われます(36『下谷広小路』、117『上野山した』参照)。
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 本作品には非常に特殊な事情があります。それは、「内藤新宿桜樹一件」と呼ばれるもので、『藤岡屋日記第七巻』(P110~P112)の「安政三辰年二月」の条に、次のような記述があり、要約して紹介します。
 すなわち、01goyoboku
 「新宿南側裏手、玉川上水土手通三丁目程江、桜樹大小二月十三日ゟ植初メ、凡七十五本植附、下へ芝を敷、丸太にて駒寄を構へ、如此木札ヲ建ルなり」とあって、左の図版が掲載されています。そして、「上野の花、浅草の群集、向島の見物、深川開帳仮宅の賑ひ」を羨ましく思っていた宿場の人達は、「桜を植、三光稲荷の池を広ろげ杜若を植込なバ」、同じ玉川のさらに遠方にある小金井でさえ桜の名所になったのだから、「上野之桜、堀切の花菖蒲ニもおさ\/劣るまじ」、「吉原仮宅もなんぞの四ツ谷新宿、馬尿(いばり)の中に菖蒲咲くとハしほらしく」、大勢の客を惹き付けられると読んだのです。「吉原の仮宅」という言葉があるのは、安政地震の火災によって吉原は焼失し、深川で仮の営業をしているので、吉原の地盤低下している今がチャンスだという訳です。策を進めるに当たって、勘定奉行配下の代官に手配をすませたのですが、同じ配下の「御林奉行」については軽役と考えて届けをしませんでした。これに対して、御林奉行から差配があって、上水端は杉を植込む場所であり、届もなく桜の大木を植えただけでなく、「御用木」と書いた制札まで建てたのはいかなる所存かと咎められたのです。その後、「三月十六日阿倍伊勢守殿御始にて、跡役人乗供共凡百騎計、小金井辺へ遠乗有之候処、右新宿の桜大評判故ニ、御老若始諸役人上水場へ乗廻り候処に、桜の苗木を植候積り之処、古木之大木を植有之、殊ニ御用木との高札ハ何れより免し有之哉と被仰候より、早速取払被仰付候よし、扨三月廿七日ゟ取懸り四月四日迄に不残引払候よし」となりました。

 玉川堤に桜の木を植え始めたのが2月13日、広重作品の改印が同じ2月、事前の構想に基づいて桜の季節3月前に出版されたとしても、3月中には桜並木はほぼ取り払われており、本作品が描いた「名所」を庶民がどの程度目にしたのか疑問とするところです。また、これ以降その名所は存在しないのですから、『名所江戸百景』(以下「江戸百」と略す)の最初の企画としては散々なものです。とはいえ、安政4年8月改印の前掲『今様見立士農工商 商人』(本講座「版元魚屋栄吉」参照)に、本作品が江戸百の代表的作品の1つに採り上げられていることを勘案すると、発禁にはならなかったどころか、逆に幻の名所を描いた人気作品になっていた可能性すらあります。なお、絵師である広重や版元側が咎めを受けなかったとしても、震災のどさくさに紛れた内藤新宿の営業宣伝に協力する形式での作品制作に危険性が潜むことを広重は自覚したのではないでしょうか。他方で、美しい風景がそのまま名所となるのではなく、背後にある事件・物語が名所を作るということをも感じたでしょう。以後の江戸百の制作において、作品の人気を支える事件・物語をあからさまには表出させないような気配りをしたことが容易に想像されます。それは、本講座が画題設定と版行動機とを区別して読み解こうとする理由でもあります。

 なお、「内藤新宿桜樹一件」では何が幕府方を怒らせたのかについて重ねて考える必要があって、桜の樹(若木)を植えたことなのか、桜の大木(古木)を植えたことなのか、「御用木」と書いた制札を建てたことなのか、いずれであるのかということです。前掲『藤岡屋日記』には、「右桜樹大木之分ハ薪木ニ伐、中位の分ハ最寄之屋敷・天龍寺前稲荷社、又は百姓地抔へ引取植候よし」とあり、桜の大木に厳しい処置があるところを勘案すると、桜の大木を植栽したことに重き事由があったように推測されます。後日譚として、同『藤岡屋日記』に、「右桜の木の中ニ壱本大樹有之、之は大久保同心年来持居候木ニて、同心の妻売る事をおしミ候処、無是非思ひ居り、此桜掘捨ニ相成時より、妻熱発し元の地所江桜植候様、うハごとを日夜申居るよし」と記されていることとも付合します。同『藤岡屋日記』には、小金井の桜並木の参考資料として、「上水両縁江植付候儀ニ有之、数珠之桜木繁茂致、根深く蔓(はびこ)り候得ば、両縁欠崩之憂無之、桜は水毒を消候ものニ付、花実上水へ落入、自然水毒之憂無之」という趣意書が掲載されており、上水の堤に桜樹を植えることには恩恵があることが指摘されています。

 つまり、両事実を照らし合わせ考慮すると、玉川堤に桜樹を植え付けることには堤の強化、上水の殺菌効果など恩恵があるものの、若木を植え付け、年来を掛けるべきであって、桜の大木を植え付けることは、(桜の観賞が優位してのことなので)許されないということなのでしょう。しかも、無許可で「御用木」と書いた制札まで建ててしまっているのですから。幕府としては、上水保護という「公」に付随して庶民が桜を楽しむことは甘受できるとしても、大木の桜を愛でそれを利用して集客し、「私」に走る行為は許されないという発想だと思われます。ところで、内藤新宿の再開発を実行する資金について、同『藤岡屋日記』は、「先年ゟ新宿女郎屋ニ異変之節、雑費入用之積金致し置候処ニ、近年無事平穏にて多分之掛り等も無之故、貯金溜り山如く積有之」とあって、内藤新宿の飯盛女(遊女)達の稼いだ金が元手となっていることが分かります。宿場経営における飯盛女の役割の重要性を語っており、各宿場の架橋や道路建設などの場面でも度々指摘される事実ですが、「内藤新宿桜樹一件」では、それが前面に出過ぎてしまったと考えられます。このことを浮世絵の出版にからめて言い直せば、入銀作品のスポンサーやその他作品の販売利益などに過度に配慮した制作には危険性があって、あくまでも幕府規制の範囲内で穏当に制作するという「表向きの構え」が肝要であるということです。繰り返しますが、本講座が画題設定と版行動機とを区別して読み解こうとする所以です。

 シリーズ最初の目玉作品「玉川堤の花」が思いも寄らない門出となったにも係わらず、百枚目のシリーズ中に「四ツ谷内藤新宿」が再び採り上げられていることは決して偶然ではなく、制作者側は両作品を一対と見ていたということが推測されます。この点については、100「四ツ谷内藤新宿」の読み解きに際して改めて検討する予定です。

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