12 砂むら元八まん
安政3年4月(1856)改印
『江戸名所圖會』巻之七に図版「砂村冨岡元八幡宮」(『新訂江戸名所図会6』p36~p37)があり、その書き入れには、「洲崎弁天より十八丁あまり東の海濱にあり。深川八幡宮の旧地なりといへり」と記されています。洲崎と言えば、江戸っ子には品川ではなく、深川の方が有名で、本作品は、その深川洲崎からさらに東端に位置する湿地と埋立地であった砂村の元八幡の鳥居を基点とした景色です。題名に「元八まん」とありますが、その鳥居のみを描いて左手前側にある社殿を暗示させる手法を採っています(「広重あるある」)。中景左側に延びる道は中川岸(荒川放水路)に向かい、反対方向は洲崎弁天・富岡八幡宮等のある深川方面に至ります(DVD『江戸明治東京重ね地図・八郎右衛門新田』参照)。遠景左側の突き出た岬は江戸川河口辺りではないでしょうか。広重としては、10「品川御殿山」、11「品川すさき」の江戸湾西側に対して、反対東側の風景を採り上げようとの意図ではないかと思われます。
本作品に見るとおり、松が生い茂り、海浜に面した参道の桜並木は有名なのですが、江戸中心部からは離れていることも事実です。しかし、歌舞伎『東海道四谷怪談』の「戸板返し」の場面で、戸板の裏表に打たれたお岩と小仏小平の死体が流れ着いたのが砂村「隠亡堀(おんぼうぼり)」ということなので、名場面の場所としてよく知られていたと言うべきです。浮洲の広がる江戸湾と遠景の房総を眺望する構図を選択したのも、歌舞伎の情景を想像させる工夫かもしれません。境内には富士塚があるので、富士の眺望も可能と分かります。
地震との文脈で見れば、『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p71)に、「富岡八幡宮恙(つつが)なし。別当永代寺は大方潰れたり」とありますが、元八幡については不明です。しかし、安政地震によって深川一帯が大きな被害を出したことは周知のとおりで、このような状況を踏まえて作品の視線を洲崎の海岸線に転じたと推測することはできます。他方、広重の名所を新規開拓しようとの意図を考慮すると、「元八まん」それ自体よりは「すな村」に力点があったように感じます。砂村は、上述のとおり、歌舞伎『東海道四谷怪談』の戸板返しの場面、隠亡堀の場所として有名で、その砂村には元八幡という観光スポットがあることを結果として採り上げているというような思考を感じます。つまり、今日で言うところの「聖地巡礼」を応用した構成ということです。この点については、本作品の発展形に位置づけられる、68「深川洲崎十万坪」で再び採り上げたいと思いますので、ここまでにしておきます。
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