« 09 王子瀧の川 | トップページ | 11 品川すさき »

10 品川御殿山

安政3年4月(1856)改印
Meishoedo100_10
 「御殿山」は、北品川宿の地籍に存し、品川の海に対面する小高い丘を指します(11「品川すさき」掲載古図参照)。『絵本江戸土産』二編に、図版「御殿山の花盛」と「其二」があって、「寛文の頃とかや 和州吉野の桜木をここに移されたりしより 盛の頃の賑わひは他に比ぶるかたもなし」、「慶長元和のそのむかし 省耕(せいこう)の殿ありしにより御殿山とぞ名におへる 左に深川洲崎を望み 右は遥に安房上総かすめる春は殊更興あり」とそれぞれ書き入れがあります。海浜の風光に勝れ、春の花見の名所として知られていたことが分かります。

10edomiyage4
 08「上野清水堂不忍ノ池」の桜に対して、南の桜の名所を採り上げる趣旨かもしれませんが、『絵本江戸土産』二編に描かれた構図とは明らかに異なって、海側から御殿山方向に視線を置いていることが重要です。

10edomiyage3
 その経緯については、『絵本江戸土産』七編の図版「再出 御殿山當時のさま」の書き入れ、「嚮(さき)にこの図を出しし後 蕃鎮の為にとて蒼々たる大洋に御台場を築かれしとき この山の土を取りそのさま昔に変りぬれば 今また図して参考の便とす」が参考となります。つまり、品川湊の沖に砲台場を築くため、御殿山の土を削り崖が形成され、その風光が大きく変わったことを知らしめようとの意図であるということです。江戸百の本作品も同趣旨です。

 幕府の手によって、かつての花見と月見の名所であった御殿山が大きく変容してしまった事実を、『名所江戸百景』という枠組みの中に昇華させて表現しており、もちろん、幕府の軍事施設たる砲台場を直接描いた訳ではありませんが、03「芝うらの風景」に比べても、広重にしては積極的な制作態度であると感じられます。ただし、同時に、後掲「品川すさき」の連作があるので、江戸百における品川の名所としての採り上げ方は、両者一体として判断しなければならないと考えます。したがって、本当に広重が報道的態度で制作したのかどうかについては、同作品の読み解きの場で再確認したいと思います。ちなみに、安政3年5月の序文のある『狂歌江都名所繪圖』九編に、広重は挿絵と合わせ、「東海堂歌重」の名で品川における狂歌を載せており、広重が狂歌仲間と品川に行った旅行体験が直接の作画動機となっているという指摘があります(原信田『謎解き 広重「江戸百」』p49、p165以下参照)。

|

« 09 王子瀧の川 | トップページ | 11 品川すさき »

名所江戸百景」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 09 王子瀧の川 | トップページ | 11 品川すさき »