21 浅草金龍山
安政3年7月(1856)改印
金龍山浅草寺は、伝法院と号し、浅草観音とも言われ、推古36年(628)創建とされる、江戸随一の古刹です(詳細は、『江戸名所圖會』巻之六、『新訂江戸名所図会5』p225以下参照)。明暦3年(1657)の大火の後、吉原遊郭が浅草北西の日本堤南側に移転し、また天保12年(1841)の大火をきっかけに、歌舞伎の江戸三座(中村、市村、森田)が猿若町に引越しさせられ、さらに浅草寺の本堂裏手一帯は通称奥山と呼ばれ、見世物小屋など立ち並び、浅草寺一帯は、江戸でも屈指の繁華街となっていました。つまり、浅草寺およびその周辺は、庶民にとって、信仰、年中行事、行楽、遊興の一大中心地であったと言えます。(DVD『江戸明治東京重ね地図・浅草両国』参照。)
従来の制作の流れの中で、安政3年7月改印の本作品の位置づけを考えるならば、近景拡大の技法を使用しているという点に何か思いがあるとして、幕府動静ではなく、より庶民目線で江戸の名所を紹介していくという方向性が宣言されているように感じられます。作画過程は、『絵本江戸土産』六編の図版「其三雷神門(かみなりもん)」の一部を切り取って発展させたものと思われます。その書き入れには、「金龍山浅草寺の総門なり 左右に風雷の二神を安置す 因て俗に雷門といふ」とあります。前掲『今様見立士農工商 商人』(本講座「版元魚屋栄吉」参照)に描かれる版元の店頭風景に、本作品と覚しき「浅草金龍山」が飾られているところから、人気作品の1つであったことが推察できます。
さて、『武江年表(安政三年)』(『定本武江年表下p83、p84』)に、「同(三)月、浅草寺仁王門修復始る」、「同(五)月、浅草寺五重塔の九輪、地震の時、傾たるを修理す」と記述あることと、本作品が仁王門と五重の塔の九輪を雷門越しに描いていることとの関係を考えてみます。浅草寺は、先に述べたように、江戸の庶民信仰第一の中心であって、被災や修理は十二分に庶民的話題となることを想像すれば、これらの修理が特に版元目線での販売動機となっていると評価することは当然です。この読み解きは、原信田『謎解き 広重「江戸百」』(p56以下)の核心部分ですが、本講座では、広重というよりは版元の動機と断っておきます。
他方で、広重にとって、本作品作画の直接動機は江戸土産作品からの発展形(錦絵化)であるとしても、先行作品とは違った視点を盛り込む意気込みであると思われます。浅草寺の赤い色調と降り積もる雪の白色との対比は美しく、歳の市頃、雪の時期の浅草寺こそ名立たる所であるという見方を提示しているのです。結果として、紅白の対比は、水引きのごとくおめでたい雰囲気を醸し出し、仁王門や九輪の修理を寿いでいるようにも見えますが、安政3年7月改印の時期の浮世絵として、雪景色によって涼を誘うという描写方法は、ある意味では古典的手法と言うことができます。深読みすれば、風雷神門(雷門)から仁王門と五重の塔を望む構図には仕掛けがあって、手前の大提灯に「(し)ん橋」とあるのは、普請に参加した新橋の屋根職人が奉納したことを暗示し、広重の遊び心はこの点を褒め称えるところにこそあったのかもしれません。
「地震安政見聞誌出版一件」から導き出されるのは、幕府施設・構築物に直接触れることは危険であり、とくに被災・破壊・損傷などの現況を報告することは絶対避けなければならないということです。反対に、庶民を対象とする施設・構築物ならば安心して触れることができ、また近景拡大によって大きく描くこともできるというこに帰着します。安政3年7月改印以降の作品については、ある時期までは、従来に比べエッジの利いた表現が少なくなっているような気がします。江戸百のさらなる作画・版行の変化については、後に別の作品に絡めて述べてみたいと思います。
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