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21 浅草金龍山

安政3年7月(1856)改印
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 金龍山浅草寺は、伝法院と号し、浅草観音とも言われ、推古36年(628)創建とされる、江戸随一の古刹です(詳細は、『江戸名所圖會』巻之六、『新訂江戸名所図会5』p225以下参照)。明暦3年(1657)の大火の後、吉原遊郭が浅草北西の日本堤南側に移転し、また天保12年(1841)の大火をきっかけに、歌舞伎の江戸三座(中村、市村、森田)が猿若町に引越しさせられ、さらに浅草寺の本堂裏手一帯は通称奥山と呼ばれ、見世物小屋など立ち並び、浅草寺一帯は、江戸でも屈指の繁華街となっていました。つまり、浅草寺およびその周辺は、庶民にとって、信仰、年中行事、行楽、遊興の一大中心地であったと言えます。(DVD『江戸明治東京重ね地図・浅草両国』参照。)

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 従来の制作の流れの中で、安政3年7月改印の本作品の位置づけを考えるならば、近景拡大の技法を使用しているという点に何か思いがあるとして、幕府動静ではなく、より庶民目線で江戸の名所を紹介していくという方向性が宣言されているように感じられます。作画過程は、『絵本江戸土産』六編の図版「其三雷神門(かみなりもん)」の一部を切り取って発展させたものと思われます。その書き入れには、「金龍山浅草寺の総門なり 左右に風雷の二神を安置す 因て俗に雷門といふ」とあります。前掲『今様見立士農工商 商人』(本講座「版元魚屋栄吉」参照)に描かれる版元の店頭風景に、本作品と覚しき「浅草金龍山」が飾られているところから、人気作品の1つであったことが推察できます。

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 さて、『武江年表(安政三年)』(『定本武江年表下p83、p84』)に、「同(三)月、浅草寺仁王門修復始る」、「同(五)月、浅草寺五重塔の九輪、地震の時、傾たるを修理す」と記述あることと、本作品が仁王門と五重の塔の九輪を雷門越しに描いていることとの関係を考えてみます。浅草寺は、先に述べたように、江戸の庶民信仰第一の中心であって、被災や修理は十二分に庶民的話題となることを想像すれば、これらの修理が特に版元目線での販売動機となっていると評価することは当然です。この読み解きは、原信田『謎解き 広重「江戸百」』(p56以下)の核心部分ですが、本講座では、広重というよりは版元の動機と断っておきます。

 他方で、広重にとって、本作品作画の直接動機は江戸土産作品からの発展形(錦絵化)であるとしても、先行作品とは違った視点を盛り込む意気込みであると思われます。浅草寺の赤い色調と降り積もる雪の白色との対比は美しく、歳の市頃、雪の時期の浅草寺こそ名立たる所であるという見方を提示しているのです。結果として、紅白の対比は、水引きのごとくおめでたい雰囲気を醸し出し、仁王門や九輪の修理を寿いでいるようにも見えますが、安政3年7月改印の時期の浮世絵として、雪景色によって涼を誘うという描写方法は、ある意味では古典的手法と言うことができます。深読みすれば、風雷神門(雷門)から仁王門と五重の塔を望む構図には仕掛けがあって、手前の大提灯に「(し)ん橋」とあるのは、普請に参加した新橋の屋根職人が奉納したことを暗示し、広重の遊び心はこの点を褒め称えるところにこそあったのかもしれません。

 「地震安政見聞誌出版一件」から導き出されるのは、幕府施設・構築物に直接触れることは危険であり、とくに被災・破壊・損傷などの現況を報告することは絶対避けなければならないということです。反対に、庶民を対象とする施設・構築物ならば安心して触れることができ、また近景拡大によって大きく描くこともできるというこに帰着します。安政3年7月改印以降の作品については、ある時期までは、従来に比べエッジの利いた表現が少なくなっているような気がします。江戸百のさらなる作画・版行の変化については、後に別の作品に絡めて述べてみたいと思います。

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江戸百版行の中断

 5月に7枚の版行の後、6月には1ヶ月の中断があり、7月に8枚の版行が再開されます。3月の中断に際しては、広重の「薙髪の会」が挙行されていましたが、7月の中断に際しては、安政地震の被災状況を広く纏めた『安政見聞誌』に関する、北町奉行吟味の一件が落着しています。この「地震安政見聞誌出版一件」については、『藤岡屋日記』(『藤岡屋日記第七巻』p199~p200)の「安政三年辰四月」の条に、詳しい記述があります。その他に、『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p74)参照。

 一件の概要は、次のとおりです。 すなわち、『安政見聞誌』を3月下旬900部摺って4月8日に売り出し、さらに2000部増刷したところ大評判になりました。しかし、無許可の出版だったことから、25日になって「懸名主」が動き出し、5月7日に「板木取揃」を申しつけたものの、版元は時間を稼ぎ、その間に摺り増しし、少しでも多く売り抜こうと画策したようで、5月17日に「初呼出」の運びとなりました。版元は、板木と冊子の没収および500貫文の過料位と軽く考えていたようですが、6月2日に北町奉行所が下した処分は、意外に重く、版元は「所払」(入墨)、絵師の歌川芳綱は「見附之崩れ候を書候ニ付」(壊れた半蔵門を描いた)ことから、画料(1両)没収および過料(500貫文)、作者は作料(1両2分)および過料(500貫文)、摺師は摺料(2両3分)・手間賃(銀3朱)および過料(500貫文)、板元は彫料(7両2分)過料(500貫文)にそれぞれ処せられることとなりました。

 「安政にならで地震がゆり出し さて板元がうめき三河や」

 01「玉川堤の花」では老中阿部正弘も係わる「内藤新宿桜樹一件」に絡み、03「芝うらの風景」では崩れた御浜御殿の石垣と御台場を描き入れ、06「赤坂桐畑」では近景に何やら他意がありそうな桐を描き、10「品川御殿山」では敢えて御台場建設のために削り取られた崖状の御殿山を表現し、17「外桜田弁慶堀糀町」では半蔵門方向「糀町の倒れた火の見櫓の修復」後の姿(?)を遠景に置き、その他将軍の御成りの動静に係わるような複数の作品を制作してきた広重が、「地震安政見聞誌出版一件」の仕置きはかなり重く受け止めたことは間違いなく、当然、以後の江戸百の制作にどうのような影響や変化があったかを見定める必要があります。少なくとも、6月の版行中断は、この仕置きを考慮・検討する時間であったというのが、本講座の推論です。

 なお、『名所江戸百景』は、9月改印作品以後、翌年1月まで刊行されません。その理由は、安政3年8月25日の台風による被害の影響を広重または版元等が受けた可能性があります。『武江年表(安政三年)』(『定本武江年表下』p85、p86)によれば、築地西本願寺の御堂 が、「一時に潰れて微塵となれり。」とあり、また、永代橋は、「大船流当りて半ば崩れたり」、大川橋欄干は、「吹損じたり」とも記されます。江戸一円に強風と高潮などで大きな被害がありました。なお、10月(以降)というのは、安政2年10月2日に起きた安政地震の一周忌に当たり、各種関連行事が行われる、江戸百の売り時ではないとの判断があったかもしれません。とにかく、両方の理由が絡まって新年から再開となったようです。

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20 日暮里諏訪の臺

安政3年5月(1856)改印
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 DVD『江戸明治東京重ね地図・田端駒込』で確認すると、上野山から飛鳥山へと続く山手台地の一番高いところに位置するのが道灌山です。眺望抜群で、常陸国の筑波山まで見渡せます。その道灌山から麓へと続く一帯は、もともとは開拓地を示す新堀(にいぼり)という地名でしたが、享保期(1716-36年)に日暮里と記されるようになりました。付近には寺社が多く、桜など四季の花々が植えられ、行楽地として発展し、日の暮れを忘れさせるほどの地域という意味で、「ひぐらしの里」と呼ばれました。本作品は、桜咲く諏訪神社(別当浄光寺)の境内から二本の杉越しに北および北東方向を眺めるものです。人々が登ってくるのは地蔵坂で、その下にはまさに日暮里村が見えています(『江戸名所圖會』巻之五「日暮里」および図版「日暮里惣圖其一から其四」、『新訂江戸名所図会5』p106~p114参照)。

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 制作の過程は、『絵本江戸土産』四編の図版「日暮里(ひぐらしのさと)諏訪の臺(すわのだい)」から発展した作品と推測されます。同作品中の注釈に、左「日光」と右「ツクバ」とあるので、江戸百作品の背景の山もそれと同じ、日光連山と筑波山であることが確認できます。同図版中の書き入れには、「四時の眺望あるが中にも 春は殊さら賑わひて 音曲の師門人を引連れここに憩ひて餉をひらく 実に遊楽の地といふべし」とあります。

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 江戸百作品の版元視点での版行動機は、容易に理解できます。安政3年3月13日の将軍徳川家定の御成りのコースに係わっていると考えられるからです。その時の道筋は、『藤岡屋日記(安政三年)』の「三月十二日」の条(『藤岡屋日記7巻』p152)によれば、江戸城・平川門を出て飯田橋、神楽坂、早稲田町、雑司が谷の鬼子母神を経て、池袋村、その後下板橋を経て、王子を流れる滝野川(石神井川)と並行して飛鳥山に至り、諏訪の台のある道灌山、新堀居村耕地道、千駄木植木屋、白山前町、水道橋を経て江戸城・一ツ橋門に至ると概括できます。つまり、飛鳥山から上野山までの台地を回遊するものと考えられるので、09「王子瀧の川」→14「飛鳥山北の眺望」→当該「日暮里諏訪の臺」→16「千駄木團子坂花屋敷」と続く、一連の作品がこれにに包摂されます。また、上野山遊覧に係わることから、08「上野清水堂不忍ノ池」、13「湯しま天神坂上眺望」も、この御成りの話題に起因する作品と見てよいと思われます。ただし、御成りのコースや幕府の動静を直接報道することが目的なのではなく、御成りを行楽の解禁を告げるもとして理解し、その話題を作品の商機に繋げる機会として捉えているというのが本講座の立場です。

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 なお、『齋藤月岑日記』(『大日本古記録 齋藤月岑日記6』P100)に、「廣重来る、此頃剃髪之由」とあります。江戸百作品中に、筆を持つ薙髪の男が床机に座している姿が描かれていますが、これは広重自身かもしれません。広重が当地に足を運んで本作品を描いたとなれば宣伝効果は上がるかもしれず、ちょっとしたサービス精神です。また、人々は桜の向こうに日光連山と筑波山を眺めており、いすれも信仰の山なので、そこには、江戸庶民の行楽の深層にある信仰心を読み取ることができます。

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19 八景坂鎧掛枩

安政3年5月(1856)改印
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 04「千束池袈裟懸松」は、中原街道の池上(本門寺)周辺に新名所を探索する作品でしたが、その池上と品川を結ぶ池上道の新井宿と大井宿の間にあったのが、八景坂です(『東都近郊全圖・部分図』参照)。その坂に樹齢800年を超える松の大木があり、平安時代後期の武将、源義家が休息し鎧を掛けたという伝承がありました。本作品の中央部分に枝振りよく描かれるのが、その松です。手前の坂が八景坂、背景の海岸線に見える松並木の辺りが東海道、そして左の半島部分が品川宿と洲崎です。その背後は房総半島で、さらにその先には双耳峰の筑波山のような山容も遠望されます。『絵本江戸土産』三編に図版「八景坂(はつけいざか)鎧懸松」があり、次のような書き入れがあります。すなわち、「むかし 八幡太郎義家朝臣奥州征伐のとき 鎧をかけ給ふといふ この松 六七丈に及びぬれど 枝をたれて地より四五尺を隔つあり 尤たぐひ稀なるべし かかる大樹なれども動かすときは枝葉供に震ふ 因て震松(ふるひまつ)とも名づく 木原山にあり 此辺の絶景八つ見ゆるをもて名とせり」と。

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 江戸土産作品の松の幹や枝振りなどと共通しており、その発展形と考えられますが、江戸百の本作品は幹が鋭角的に折れ曲がり、明らかに鎧が掛けられるカギを連想させる点が相異しています。その遊び心の部分に焦点を当てれば、10「品川御殿山」、11「品川すさき」の制作にも関連する、狂歌師仲間との品川旅行が想起されます。崖の上に赤い提灯のぶら下がった茶屋が描かれ、辺りでは旅人達が寛ぎながら風景を楽しむ姿があり、茶屋の営業と絡めて、カギ状の松という新たな視点での名所紹介が広重の意図でしょうか。ただし、樹齢800年の松には見えませんが…。この辺りには将軍の鷹場もありますが、将軍御成りの事実は確認できません。当時海防の中心地となった品川の変わったところ、変わっていないところを、幕府からの批判を薄める作用を期待し、地誌を利用して垣間見るという態度に感じられます。

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 小池・池田『広重 TOKYO名所江戸百景』(p184)は、「八景坂は、雨が降ると深く削られたため薬研坂と呼ばれた急坂であった。その『やげん』が『やけい』と訛り、やがて八景の文字をあてたという」と解説していますが、『江戸名所圖會』巻之二(『新訂江戸名所図会2』p100)の「鎧懸け松」の項には、「八景坂(やけいざか)にあり」、「土俗、八景(やけい)を誤りて、やげん坂と唱へたり」とあって、前掲書とは逆の記述となっています。いずれにしても、八幡太郎義家が鎧を掛けたという事蹟は、「八幡」と「八景」とを掛けた言葉遊びから生まれた伝説のような気がします。

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18 日本橋雪晴

安政3年5月(1856)改印
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 『絵本江戸土産』五編の図版「日本橋」とほぼ同視点の構図ですが、竪絵なので日本橋の橋下の情景を加え、北詰にあった魚河岸や日本橋川を逆上る押送船等が描かれています。富士山と千代田城の風光だけではない、経済的に活況を呈する商都としての側面も「雪晴」の中に描かれています。紅白仕立ての大変お目出度い雰囲気の作品です。同図版の書き入れには、「この橋を以て江都の中央となし 諸方への道法ここを本とす 毎朝魚市ありて橋の南北群集夥し 誠に江都第一の繁華也 橋の長さ凡そ二十八間 葱宝珠(ぎほうしゆ)の銘に万治元年戊戌(ぼじゆつ)(つちのえいぬ)九月造立とあり」とあります。

 *DVD『江戸明治東京重ね地図・日本橋八丁堀』
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 日本橋が魚河岸を基点にして商経済の中心地であるという観点は、版元の魚栄堂の意向に添うものであり、下総国の02「堀江ねこざね」、15「鴻の臺とね川風景」や品川宿の10「品川御殿山」、11「品川すさき」など、海運を仲介して日本橋と深く関わる名所を先に採り上げたのも、本作品に結び付ける伏線であったことが分かります。また、2月改印の作品の03「芝うらの風景」は幕府施設・御浜御殿や御台場の風景、4月改印の作品の06「赤坂桐畑」は外堀に繋がる溜池、5月改印の作品17「外桜田弁慶堀糀町」は内堀といった具合に(御浜御殿→外堀→内堀)、段々と千代田城に近づき、本作品でついに西の丸御殿や櫓等が遠景ではありますが、描かれるに至っています。したがって、浮世絵の作画・版行については、広重は武士の出身らしく幕府構築物に配慮し、版元魚栄堂は町人らしく町人社会の関心に重点をおいて、それぞれ制作に加担しているという複眼的視点とその読み解きが必要になります。

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 広重としては、江戸土産作品という元絵があることを考えると、江戸の象徴である日本橋周辺の変わらぬ盛況な姿を描きたいというのが本音なのではないでしょうか。たとえば、その表れが「雪晴」にあって、これは(再)出発や浄化の記号と理解でき、また川の「八の字」に見えるぼかし表現も、末広がりの江戸の発展を願うものと解されます。雪晴、紅白仕立て、富士、千代田城、八の字などを用いて、江戸日本橋に名所(などころ)の要素を数多く見つける趣向なのです。なお、武運長久(武士)と大漁安全(町人)を祈願する「神田明神の水神祭」(魚河岸水神祭)の存在は気になるところで、もし安政3年5月(1856)改印の時期に重なるならば、販売の商機に関連があるかもしれません。(現在は5月に行われているようですが、江戸時代につては時期不明です。)

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17 外桜田弁慶堀糀町

安政3年5月(1856)改印
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 本作品は、桜田門の外側にあって「外桜田」と呼ばれ、当時「弁慶堀」、今日「桜田堀」と称され、半蔵門方向に繋がる内堀とその周辺の風景です。『絵本江戸土産』三編の図版「外櫻田辨慶堀糀町」を見ると、「糀町」(麹町)側からの眺めは、築地本願寺の大屋根やその背後の海の景色が見通せ、風光に優れた名所であることが分かります。書き入れには、「井伊侯の前より半蔵御門の間のお堀なり 両岸高く芝生にして碧緑眼を遮り 向ひには古松森然として 眺望また外に像なし」とあります。しかし、逆方向糀町に視線を向ける本作品は何を名所として捉えているのでしょうか。

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 『江戸名所圖會』巻之三に図版「栁の井」「櫻の井」があり、解説として「桜が井 井伊侯の藩邸表門の前、石垣のもとにあり。亘り九尺ばかり、石にて畳みし大井なり。釣瓶の車三つかけならべたり」、「若葉井は同所御堀端番屋の裏にあり、柳の木をうゑしゆゑに柳の水ともいへり。いずれも清冷はる甘泉なり」と記されています。確かに広重はこの両井戸を写しているので、本作品のような視線になることは已むをえないと思われます。本作品中央左の朱門の武家屋敷が彦根藩井伊家の上屋敷で、その背後は三河国田原藩三宅家の上屋敷です。赤門の前にある番所と3つの鶴瓶を吊るした井戸が「桜の井」で、その先の辻番所の裏には植えられた柳によって「柳の井」の所在が分かります。

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 江戸土産作品とは視点を反対に採った構成に本作品の特徴があり、結果として、「糀町」の高台にあった、定火消御屋敷内の火の見櫓が遠景に描かれていることになりました。このことにつき、原信田『謎解き 広重「江戸百」』(p180)は、「地震で被害の出た麹町の火消し屋敷の修復工事が三月二十日に始まったことが、この場所を選ぶきっかけとなった」とし、題名にある「糀町」という言葉をその暗号と理解しています。確かに広重の作画動機に火消し屋敷の修復工事があったかもしれませんが、それを報道することにどれだけ浮世絵販売上の利益があったかには再度考えなければなりません。そもそも火の見櫓、池、滝、井戸、水神の社など、水に関係ある施設に広重が強く関心を示したていることには間違いなく、この個人的関心を名所絵という形式に昇華するため、たとえば、井戸や火の見櫓のある風景は防火都市の描写として新名所たり得ると提言しているのかもしれません。視点を変えれば従来見落とされてきた所に新名所が発見されるという思考で、本作品は新しい名所絵を提案したのかもしれませんが、絵組がそれに追いついていないような気がします(94「馬喰町初音の馬場」参照)。火消し屋敷の修復工事がもし江戸っ子の話題となっていたとするならば、それは版元的には版行の十分な理由になります。

 なお、本作品の右側の土手は鉢巻土居(はちまきどい)で、芝土居の上に石垣が鉢巻のように巻かれた特徴ある景色で、その内側には西の丸御殿があり、井伊家の朱門と合わせ、これらの構築物を以前と変わらぬ姿で描くことは、一般論として、復興による安寧な環境を表現するものと言うことはできます。ちなみに、ここは次々と登城する大名行列を庶民が真近で見物できる稀有な場所であり、故に、万延元年(1860)3月3日、大老井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」の事件現場となるのです。

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16 千駄木團子坂花屋敷

安政3年5月(1856)改印
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 『絵本江戸土産』巻之七に図版「千駄木團子坂花屋鋪」「其二紫泉亭より東南眺望」があって、その書き入れには、「元来植木屋の園なるに 近頃様々の花を培て 四時の遊観となせり」、「 傍の岳に浴室を作り 遊人をして沐浴せしむ この楼より眺望すれば 図する所の勝地眼下にありて 実に絶景いわんかたなし」と記されています。「図する所の勝地」としては、天王寺、谷中、幡随院、上野、池之端、神田などの名が挙げられています。「千駄木」とは雑木林のことで、この辺りが山ないしは高台であったことが想像できます。そこに東側に下る坂があって、千駄木坂、遠く佃島が見えるので潮見坂とも呼ばれ、また団子が転がるような急な坂という意味で「團子坂」と称されました。「花屋敷」については、『武江年表(嘉永五年)』(『定本武江年表下』p36)の記事に、「二月十九日、千駄木七面坂下紫泉亭(植木屋宇平次といへる旧家なり)梅園を開く。また四時の花を栽へ、盆種の艸木を育て、崖のほとりに茶亭を設け眺望よし。諸人遊観の所となりて、日毎に群集するもの多し」とあり、植木屋宇平次が開いた「紫泉亭」が本作品の題名の「花屋敷」に当たります。なお、『小石川谷中本郷繪圖』(『切絵図』p38~p39)に「タンコサカ」とあり、「千駄木町」と記される所に「花屋敷(紫泉亭)」は位置しています。

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 本作品の中央部分に、「すやり霞(源氏雲)」が描かれ、情景が上下に分かれています。これは、高台にあった花屋敷の高低差を強調しつつ、異なる風景を接合させる浮世絵技法で、上景は梅園、下景色は、江戸土産作品を参照すると、鳥居が見えるので、南に位置する「根津権現清水観音」境内の桜を描いると考えられ、上下の季節も異なっているようです。安政地震では、本作品の中央に描かれる四阿(あずまや)は倒壊したものの、右方の3階建ての建物は無事であったようですが、これは立て直された風景を報道するというよりは、江戸土産作品を元絵として流用したものと見るべきでしょう。

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 ちなみに、上掲切絵図に徳川家定の御成の行程を矢印で記入しましたが、その隣接する位置関係から、本作品の他に、08「上野清水堂不忍弁天社」、13「湯島しま天神坂上眺望」が御成り関連作品であり、行楽地として解禁された話題を利用して、当該地域へ遊客を誘うためのものであることが一目瞭然です。版元視点では、花屋敷が営業物件であることを忘れてはなりません。

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15 鴻之臺とね川風景

安政3年5月(1856)改印
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 『絵本江戸土産』初編に図版「國府之臺眺望」があって、「利根川に臨む赤壁にて 四方万里を一目に見する 里見家の城跡あり 北条勢と戦ひし兵どもが夢の跡 漫(すず)ろにむかし思はるる 古跡の瞻望(せんぼう)いと興あり」と書き入れられています。両図版を見比べると、崖状の部分の向きが異なっていることが分かります。本作品は「とね川」(江戸川)の上流から下流に視線を送る絵組み、すなわち南を向いての構図ですが、富士山は西方に見えるはずなので、正確性という観点では、江戸土産作品あるいはその元絵の『江戸名所圖會』巻之七の図版「國府臺断岸之圖」(『新訂江戸名所図会6』p338~p339)の方が地理に適っています。横絵と竪絵の違いもありますが、広重は、実景よりは観光情報の提供に比重を置いているのです。しかし、作品の購買者に誤解を与えないように、富士山の裾野に「すやり霞」を描いて、挿入したものであること明示しています(「浮世絵あるある」)。

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 02「堀江ねこざね」は江戸川河口の行徳近郊の風景ですが、その江戸川を上った下総台地の西端に「鴻の臺」はあります(『東都近郊全圖・部分図』参照)。かつては、下総国の国府、国分寺が置かれ、「国府台」と書かれていました。また、題名に「とね川風景」とあるのは、幕府の河川工事によって、利根川の流れのほとんどは銚子から太平洋に向けられましたが、一部が関宿(せきやど)から江戸湾に注がれていたので、引き続き(旧)利根川と呼ばれていたからです。関東以北で生産された物資の多くが、銚子→利根川→関宿→江戸川→行徳(新川・小奈木川)→江戸(日本橋行徳河岸)に運ばれるので、鴻の台の下を流れる(旧)利根川には白帆の高瀬舟が多数見られのです。なお、同じ安政3年5月改印作品の中に、18-1「日本橋雪晴」があるのも、また下総国にある「鴻の臺」が江戸百に採用されているのも、このような強い歴史的・経済的な結びつきが理由です。

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 ちなみに、江戸百作品中、かつて古戦場でもあった崖の上で僧侶が2人の男に何か物語っているように見えるのは、上野山、江戸城、浅草の森、富士山等を遠望する視点を代理する人物であるとともに(「広重あるある」)、この辺り一帯が安国山総寧寺の境内に当たるので、風光や土地の歴史などを語っている僧侶の姿を入れたのだと思われます。崖の紅葉は、「国府台(こうのだい) 総寧寺の辺より真間の辺までの岡をすべてかく称するなるべし」(同巻之七、『新訂江戸名所図会6』p328)とあって、近隣の名所・42「真間の紅葉手古那の社継はし」を暗示させる工夫であり、実りの秋の記号として高瀬舟と結び付けて、江戸への力強い物流・ライフラインの変わらぬ姿を描写する狙いであると想像します。

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14 飛鳥山北の眺望

安政3年5月(1856)改印
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 『絵本江戸土産』四編に図版「飛鳥山花見」「其二」があり、書き入れには、「この辺すべて芝生の丘にして櫻数百株あり 毎春滿開のとき貴賎老若ここにつどひて遊観の地とす」、「この所地形高くして三河嶋の耕地を見下し 冨士及び諸々の山々宛然(さながら)掌中に在が如し 眺望春時のみにあらず 夏涼秋草冬雪のをり/\に随いてその景あり むかし豊嶋左衛門尉飛鳥の神社を祀りしよりこの岳の名となれりとぞ」と記されています。江戸土産作品は、飛鳥山から西方の富士を眺める構図を採用しているのに対して、江戸百作品は、題名には「北の眺望」とはありますが、北東方向にあった筑波山を眺める構成です。まさに、「諸々の山々宛然掌中に在が如し」を受けた表現です。なお、筑波山は関東平野を見守る神仏の坐す山という素朴な信仰の対象地であり、2つの峰を持つ双耳山であることがその特徴です。双耳山には、釈迦が説法する「霊鷲山(りようじゆせん)」というイメージがあります(68「深川洲崎十万坪」参照)。

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 本作品から、飛鳥山はそもそも桜の名所であることが理解されます。将軍徳川吉宗によって、庶民の行楽地のためにも桜が植栽された経緯があり、『江戸名所圖會』巻之五(『新訂江戸名所図会5』p157)には、「遊観の便(たつき)として」とあります。上野山の桜とは異なり、酒宴、踊りなども許されたので、庶民は様々な趣向で楽しみました。本作品にもその一端が示されており、よく見ると山の切れる辺りで、「土器(かわらけ)投げ」をしている親子が発見されます。この親子と同様の姿が『絵本江戸土産』四編の図版「道灌山」にも描かれているので、本作品に流用されたことが分かり、また、江戸百が江戸土産作品の発展形であることが再確認されます。なお、土器投げは、厄よけなどの願いを掛けて、高い場所から素焼きや日干しの土器の酒杯や皿を投げる遊びで、高台にある花見の名所などでの酒席の座興として広まったとされています。DVD『江戸明治東京重ね地図・板橋宿』からも確認できますが、飛鳥山の下には田地が広がるので土器投げの適地です。しかし、農地保護のために、水を吸って土に返る日干しの土器でなければならないという規制があります。

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 09「王子瀧の川」において、作品が安政3年3月13日の将軍徳川家定の御成りに触発されて版行されたことを述べましたが、上野山、道灌山から続く台地上にあった飛鳥山は王子の北部に位置している地理を勘案すると、本作品も同じく、将軍家定の御成りを機縁に版行されたであろうことが推測されます。正確に表現すれば、将軍の御成という幕府動静を直接報道するということではなく、版元目線において、将軍の御成によって飛鳥山への行楽が解禁された事実を話題として、作品の購買動機に結び付けようとしたということです。

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13 湯しま天神坂上眺望

安政3年4月(1856)改印
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 『絵本江戸土産』五編に図版「湯島天神雪中之圖」「同所坂上眺望」があって、それぞれ、「むかし太田道灌ぬしの勧請也といふ この社地また石階ありて見はらし神田明神におなじ 別して雪の景色によろしく 境内水茶屋楊弓等ありて常に賑はへり」、「石階の上に至りて遠見すれば 東叡山の堂社は手に取る如く 不忍辨天池中の風光掌(たなごころ)に在が如し 東門跡浅草寺また隅田川両岸の樹立等その眺め尽る時なし」と書き入れられています。江戸幕府成立以前からの信仰の場所であり、東方を望む風光に優れた名所であったことが分かります。湯島天神は、本郷台地の東側の高台に位置し、そこには、男坂、女坂と命名された緩急2つの坂があります。本作品は、その女坂から見返して不忍池とその中央にあった中島弁財天を望むものです(DVD『江戸明治東京重ね地図・東叡山下谷』参照)。女坂に合わせたのか、参詣する女達3人の姿が描かれています。近景左側の鳥居が湯島天神へ向かうもので、社殿を描かないのは広重得意の描法です(「広重あるある」)。近景右側には「男坂」と書かれた石標と石階段が見えています。

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 興味を惹くのは、08「上野清水堂不忍ノ池」と本作品を対照させると、前作品ではカットされていた中島弁財天が、被災した石橋部分は避けつつも、茶屋を含めて他は被災前と変わらぬ姿に描かれている点です。安政地震の被害から復旧したことを暗示する表現と理解するならば、神社施設の赤色と雪の白色との紅白仕立てにして、修復完了のお祝いの宣言と見ることができます。他方で、江戸土産の2作品を発展させ、女坂へ向けての視線に重心を置き、書き入れのごとく、「別して雪の景色によろしく」ということで、2図版を1作品に纏め、旧来の風景を描いただけなのかもしれません。地震からの復興が進み、各名所への遊興や行楽を勧誘するという意図は否定しませんが、本作品の制作過程は江戸土産作品の流用です。

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 江戸百作品に関して、面白い指摘があります。すなわち、学問の神として信仰の対象であった湯島天神も、広重の頃までには行楽地となっており、「茶屋の赤い提灯を見ても明らかだ。特に湯島の陰間茶屋が有名で、ひょっとしたら女坂を登ってくる稚児体の人物も、鳥居の前にたたずむ女も、男娼かもしれない」(ヘンリーDスミス・前掲『広重 名所江戸百景』117図解説)というものです。本作品は、名所絵の形式を借りた、(陰間)茶屋の宣伝広告であるという読み解きで、版元視点からは納得のものです。11「品川すさき」において洲崎弁財天と妓楼(生弁天)とを対と見たのと同様に、本作品では中島弁財天と(陰間)茶屋が対と考えられ、その版行目的は歓楽への誘因であったと推測できましょう。

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12 砂むら元八まん

安政3年4月(1856)改印
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 『江戸名所圖會』巻之七に図版「砂村冨岡元八幡宮」(『新訂江戸名所図会6』p36~p37)があり、その書き入れには、「洲崎弁天より十八丁あまり東の海濱にあり。深川八幡宮の旧地なりといへり」と記されています。洲崎と言えば、江戸っ子には品川ではなく、深川の方が有名で、本作品は、その深川洲崎からさらに東端に位置する湿地と埋立地であった砂村の元八幡の鳥居を基点とした景色です。題名に「元八まん」とありますが、その鳥居のみを描いて左手前側にある社殿を暗示させる手法を採っています(「広重あるある」)。中景左側に延びる道は中川岸(荒川放水路)に向かい、反対方向は洲崎弁天・富岡八幡宮等のある深川方面に至ります(DVD『江戸明治東京重ね地図・八郎右衛門新田』参照)。遠景左側の突き出た岬は江戸川河口辺りではないでしょうか。広重としては、10「品川御殿山」、11「品川すさき」の江戸湾西側に対して、反対東側の風景を採り上げようとの意図ではないかと思われます。

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 本作品に見るとおり、松が生い茂り、海浜に面した参道の桜並木は有名なのですが、江戸中心部からは離れていることも事実です。しかし、歌舞伎『東海道四谷怪談』の「戸板返し」の場面で、戸板の裏表に打たれたお岩と小仏小平の死体が流れ着いたのが砂村「隠亡堀(おんぼうぼり)」ということなので、名場面の場所としてよく知られていたと言うべきです。浮洲広がる江戸湾と遠景の房総を眺望する構図を選択したのも、歌舞伎の情景を想像させる工夫かもしれません。境内には富士塚があるので、富士の眺望も可能と分かります。

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 地震との文脈で見れば、『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p71)に、「富岡八幡宮恙(つつが)なし。別当永代寺は大方潰れたり」とありますが、元八幡については不明です。しかし、安政地震によって深川一帯が大きな被害を出したことは周知のとおりで、このような状況を踏まえて作品の視線を洲崎の海岸線に転じたと推測することはできます。他方、広重の名所を新規開拓しようとの意図を考慮すると、「元八まん」それ自体よりは「すな村」に力点があったように感じます。砂村は、上述のとおり、歌舞伎『東海道四谷怪談』の戸板返しの場面、隠亡堀の場所として有名で、その砂村には元八幡という観光スポットがあることを結果として採り上げているというような思考を感じます。つまり、今日で言うところの「聖地巡礼」を応用した構成ということです。この点については、本作品の発展形に位置づけられる、68「深川洲崎十万坪」で再び採り上げたいと思いますので、ここまでにしておきます。

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11 品川すさき

安政3年4月(1856)改印
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 『絵本江戸土産』七編の図版「品川冽嵜辨天の祠芝浦眺望」とほぼ同じ構成の作品で、右背後に第一期工事によって完成した砲台場が描き加えられている点が相違しています。書き入れには、「深川にも同名あり 思ふにここには元地なるべし 元来海の出洲なれば風景はいふに及ばず この後ろは妓楼の正面或ひいは綾羅(りようら)の袂をかざし 糸竹の音の賑はしきも 岸によせくるささら浪の音に和して いと興あり」とあって、近景左下に妓楼の2階が見えており、風光のみならず、北の新吉原に対して南の品川と呼ばれた、遊興の地であることが名所の重要な要素となっています。

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 DVD『江戸明治東京重ね地図・品川』で確認すると、本作品制作時点では、すでに第二期工事の「御殿山下砲台場」が建設終了しているはずですが、全く描かれていません。その理由については、1つは、幕府軍事施設である砲台場を遠景はともかく、近景にアップすることから発生する幕府規制の可能性を避けたという考え方です。もう1つは、第一期工事が終了し、第二期工事が始まる前の洲崎の風景を描き残したという考え方です。10「品川御殿山」で、土が削り取られた御殿山をそのまま描いている広重の態度を一貫させるならば、広重は見たままを描き、それを作品にしたという可能性は十分あります。既述のとおり、第二期工事が始まる前、狂歌仲間と品川に行った旅行体験にに基づく思い出あるいは庶民馴染みの風景と判断されましょう。

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 江戸百作品を詳細に見てみると、目黒川が江戸湾に注ぐ、細長い洲状の一帯は品川洲崎(天王洲・兜島)と呼ばれており、その先端には弁財天社(現利田神社)があります。俗に、「浮弁天」とも称され、この辺は潮干狩りが楽しめる場所としても知られています。左下の料亭風の建物は、品川を特徴づける海鼠(なまこ)壁の「土蔵(どぞう)相模(さがみ)」と呼ばれた施設と思われます。そして、鳥海(とりみ)橋を渡った先に弁財天社があるという位置関係の作品です。画題は、まさに、弁財天社を中心とした洲崎の風光明媚な景色ということになりますが、それは妓楼・遊廓から眺めるに尽きると言っているように感じられます。大きな変化を見せた御殿山と対比して、遊興の地としては変わらぬ品川洲崎であるということでしょうか。ちなみに、洲崎は、幕府に魚介類を納める「御菜肴八ヶ浦(おさいさかなはちかうら)」の一つなので、版元「魚屋」との縁も浅くありません。

 安政地震との関連では、御台場の被害は小さくなく、『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p71)には、「品川沖御台場の内、建物潰れ土中に入り、剰(あまつさえ)火を発したり」とあります。しかし、本作品が御台場のみを第一の画題としているとは考えにくく、庶民による浮世絵購買を期待できるという訳でもないので、姿は変わっても御殿山の花見は変わらず、御台場建設によっても洲崎の遊興は変わらずという意味で、品川への遊客を誘う作品と理解できます。

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10 品川御殿山

安政3年4月(1856)改印
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 「御殿山」は、北品川宿の地籍に存し、品川の海に対面する小高い丘を指します(11「品川すさき」掲載古図参照)。『絵本江戸土産』二編に、図版「御殿山の花盛」と「其二」があって、「寛文の頃とかや 和州吉野の桜木をここに移されたりしより 盛の頃の賑わひは他に比ぶるかたもなし」、「慶長元和のそのむかし 省耕(せいこう)の殿ありしにより御殿山とぞ名におへる 左に深川洲崎を望み 右は遥に安房上総かすめる春は殊更興あり」とそれぞれ書き入れがあります。海浜の風光に勝れ、春の花見の名所として知られていたことが分かります。

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 08「上野清水堂不忍ノ池」の桜に対して、南の桜の名所を採り上げる趣旨かもしれませんが、『絵本江戸土産』二編に描かれた構図とは明らかに異なって、海側から御殿山方向に視線を置いていることが重要です。

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 その経緯については、『絵本江戸土産』七編の図版「再出 御殿山當時のさま」の書き入れ、「嚮(さき)にこの図を出しし後 蕃鎮の為にとて蒼々たる大洋に御台場を築かれしとき この山の土を取りそのさま昔に変りぬれば 今また図して参考の便とす」が参考となります。つまり、品川湊の沖に砲台場を築くため、御殿山の土を削り崖が形成され、その風光が大きく変わったことを知らしめようとの意図であるということです。江戸百の本作品も同趣旨です。

 幕府の手によって、かつての花見と月見の名所であった御殿山が大きく変容してしまった事実を、『名所江戸百景』という枠組みの中に昇華させて表現しており、もちろん、幕府の軍事施設たる砲台場を直接描いた訳ではありませんが、03「芝うらの風景」に比べても、広重にしては積極的な制作態度であると感じられます。ただし、同時に、後掲「品川すさき」の連作があるので、江戸百における品川の名所としての採り上げ方は、両者一体として判断しなければならないと考えます。したがって、本当に広重が報道的態度で制作したのかどうかについては、同作品の読み解きの場で再確認したいと思います。ちなみに、安政3年5月の序文のある『狂歌江都名所繪圖』九編に、広重は挿絵と合わせ、「東海堂歌重」の名で品川における狂歌を載せており、広重が狂歌仲間と品川に行った旅行体験が直接の作画動機となっているという指摘があります(原信田『謎解き 広重「江戸百」』p49、p165以下参照)。

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09 王子瀧の川

安政3年4月(1856)改印
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 上野の山から飛鳥山まで北西に延びる台地を荒川水系の石神井(しやくじい)川が王子辺りで断ち、景勝の峡谷をなしています。上流の崖地には幾筋もの滝が流れ、石神井川は「瀧の川」と名を変え、その下流の王子権現社を流れる部分は「音無川」と呼ばれました(44「王子音無川堰埭世俗大瀧ト唱」)。本作品は、その滝の1つ弁天の滝と松橋(岩屋)弁財天辺りの情景を描いています(DVD『江戸明治東京重ね地図・王子飛鳥山』参照)。『絵本江戸土産』四編に「王子滝の川」「其二 同所滝 岩屋の弁天」の図版があり、それを1つにまとめた構成です。書き入れには、「此処の景他に比すべきなし 故に都下の騒人春秋夏冬ともに群集す 就中水辺なるにより春夏尤も賑はへり」、「石神井川の流れに臨みて 自然の山水を備ふ松橋弁財天は 弘法の作にて霊験尤新たなり」とそれぞれあって、行楽と信仰の地として人気のあったことが分かります。

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 本作品中、滝の川に架かる橋が松橋、その右下の鳥居の奥に据えられているのが松橋弁財天で、洞窟内にあったことから岩屋弁天とも呼び慣わされていました。江戸における弁財天信仰の影響の深さが偲ばれます。崖の右隅に描かれるのが弁天の滝となり、滝浴びをしている人が見えます。なお、弁天の滝の左手には休憩所があり、さらにその左手には川浴びをしている人がいますが、水垢離(みずごり)かもしれません。また、家族連れが渡る松橋の右崖上に見えるのは、「滝河山金剛寺(りゆうかざんこんごうじ)」(松橋院(しようきよういん))で、通称「紅葉寺」と呼ばれ、紅葉の名所として有名です。そのため、本作品では秋の滝野川風景となっています。ところが経年劣化で紅色の顔料(鉛)が酸化して黒くなっているので、紅葉の赤を想像して鑑賞して下さい。松橋の左崖上に続く道は王子権現社に至り、やはり、紅葉の中に茶屋の建ち並ぶ様子が描かれています。王子権現社の北には、王子稲荷社があって、飛鳥山を含め、この辺り一帯が信仰と行楽の地であり、都下から離れているとはいえ、多くの人々が集まったことが想像できます。

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 この地は台地上にあったので、安政の地震による被害を示す特段の資料はありません。広重の作画動機は別として、本作品の版元サイドの版行動機は、前作品の解説で触れた『藤岡屋日記』によるところの、安政3年3月13日の徳川家定による江戸北部板橋筋への御成りと考えられます。コースは、江戸城平川門、飯田橋、神楽坂、早稲田町、雑司が谷(鬼子母神)、池袋村、そして下坂村を経て、王子を流れる滝野川(石神井川)に並行して飛鳥山へと至るものでした。将軍の御成りがあったことで、到来する各季節の行楽が解禁されたことを庶民は感じ取り、そのメッセージをさらに発信するために版行されたものと推測されます。ちなみに以下に解説する、14「飛鳥山北の眺望」、16「千駄木團子坂花屋敷」、20「日暮里諏訪の臺」の各作品も、家定の御成りの話題性から生まれた作品と考えられます。

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08 上野清水堂不忍ノ池

安政3年4月(1856)改印
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 『絵本江戸土産』五編の図版「(上野)其三 上野清水堂花見」には、「右の山王に隣る 舞台高欄悉く朱塗りにして荘厳美を尽くせり この傍彼岸桜の大木数十株ありて 春時の一奇観更に雲の如く雪に似たり 都下の老若競ひあつまり 割籠(わりご)を携え小竹筒をひらきて賑ひことばに尽しがたし」とあって、京都清水寺を模した朱塗りの舞台からの不忍の池眺望と花見の景地であることが分かります。不忍の池については、『江戸名所圖會』巻之五(『新訂江戸名所図会5』p47、p52)に、「東叡山の西の麓にあり。江州琵琶湖に比す(不忍とは忍の岡に対しての名なり)。」また、不忍の池の中島には中島弁財天が祀られ、「江州竹生島のうつし」とあります。この地が、京都・近江の景勝地を江戸に再現した一帯であることが理解できます。『絵本江戸土産』と比べると、江戸百の本作品が清水堂(舞台)の高さを相当強調していることが確認できます。左側に円を描く枝振りの松が描かれていますが、この清水堂の名木については、78「上野山内月のまつ」にて詳述します。

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 月の松の背後に中島に通じる道の一部と鳥居が描かれています。DVD『江戸明治東京重ね地図・東叡山下谷』を参照すると、その先に中島弁財天があることを暗示する広重の省略画法であることが分かります(「広重あるある」)。安政地震の被害との関連では、『武江年表(安政二年)』(『定本武江年表下』p69)には、「東叡山諸堂別段なし」、中島付近は、「不忍池石橋崩れ落ち、境内茶屋残らず焼る」とあります。この点につき、広重が弁財天の社自体を描いていないことを意図的なことと考えれば、被災の実態部分を避けた結果となります。ただし、江戸百版行開始に際して、01「玉川堤の花」が幻の花見図となってしまったことから、典型的な花見の景地を描き加えようとしたことが第一であって、弁財天の社が描かれていてないのは、本作品が竪絵であるという構成上の要請ではないかと推測します。

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 なお、版元目線で想像すれば、本作品は、安政3年3月の将軍・御三家による花見の御成りと関連している可能性があります。『藤岡屋日記』第七巻(p152)の「安政三月」の条に、「明十三日、板橋筋江被為成候ニ付、御供揃五ツ時之旨、被仰出之」とあって、3月13日に将軍徳川家定公が御成りしている記述があります。この御成りが契機となって、寛永寺の桜を画題とする作品の版行が計画されたのではないかと考えられます。03「芝うらの風景」の版行理由として、やはり、2月2日の将軍家定の御成りが想定されることと同様の理由です。安政地震の被災と復興の状況を視察するのが本来の目的ですが、選ばれた道筋や時期などから勘案すると、花見も兼ねていることは想像に難くありません。広重の作画自体は将軍の御成りを報道することが目的なのではなく、版元が御成りの話題を販売に利用しようとして版行に至ったという思考です。

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07 井の頭の池弁天の社

安政3年4月(1856)改印
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 『絵本江戸土産』三編に図版「井の頭の池辨財天社」があって、本作品は、中之島にあった弁財天の祠に至る橋を正面に据える修正を加え、秩父あるいは日光の山並みはすやり霞の向こうにそのまま描いています。同書き入れには、「神田上水の源也 この池東南へ曲がりて三百歩ばかり巾は百歩にあまる この池の中に清泉の涌出る所七ツありとぞ いかなる旱魃にも涸ることなし 則中嶋に弁財天を祀り上水守護の神を崇む」と記されています。江戸西外れの内藤新宿からさらに遠方の(『東都近郊全圖・部分図』参照)、「井の頭の池」が江戸百に組む込まれたのは、江戸っ子の象徴・神田上水の水源に他ならないからだと想像できます。徳川家光が「井頭(いのがしら)」と命名した所以です。

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 祠に至る橋の上には参拝者の姿があり、弁財天、井の頭の池が信仰と行楽の地として人気を集めていたことが示されています。なお、社の前の太鼓石橋や脇の石灯篭はじめ奉納された石造物には、神田上水の下流にあった、湯屋・染物屋・薬屋等、水に関わる江戸の商人の名が多く刻まれ(三鷹市HP)、神田上水の源流にあった弁財天の人気およびこの作品の受け手がよく理解できます。つまり、ここに作品の販売理由があることが分かります。

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 地震という観点に触れるならば、01「玉川堤の花」、06「赤坂桐畑」と並んで、江戸を支える水源地を名所として捉え、一般論として、ライフラインの安全な状況を報道していると言うことができます。ただし、『江戸名所圖會』巻之四(『新訂江戸名所図会4』p72~p73)に、井の頭池の水源が涸れないように、「毎年三月十五日より四月十五日まで水加持あり」と記されているので、この時期に版行・販売したのは、これを直接の動機と考えた方が自然ではないかと思われます。

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 ちなみに、本件『絵本江戸土産』の図版は、明らかに、『江戸名所圖會』(『新訂江戸名所図会4』p74~75)の図版「井頭池弁財天」を写したものであることは間違いなく、前掲「赤坂桐畑」に引用した『齋藤月岑日記』からもわかるように、広重と『江戸名所圖會』の編者斎藤月岑との交流があって、その資料を元として生まれたと推測することができます。つまり、『江戸名所圖會』→『絵本江戸土産』→『名所江戸百景』という関係があるということです。このような経緯から生まれた作品は、江戸百の初期作品には比較的多い形式と言うことができます。

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06 赤坂桐畑

安政3年4月(1856)改印
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 2月に5枚の作品を出版した後、1ヶ月の中断があり、4月から再び作品版行が始まります。安政3年に還暦を迎えた広重は、3月28日に「薙髪(ちはつ)の会」を開いています(『大日本古記録 齋藤月岑日記六』岩波書店・2007、p102)。剃髪して人生の再出発を宣言する行為と考えられ、名所絵師としての活躍を心に誓ったのではないかと想像されます。安政3年4月改印の作品は薙髪後初めての8枚に当たり、それ故、今後の広重の作画方針を占うものであると理解されます。

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 本作品は、赤坂方面から東南方に広がる溜池を虎ノ門方面に望むものです(DVD『江戸明治東京重ね地図・赤坂麻布』参照)。時期は、背景上部の黒雲から判断して、夏の夕立直前と見えます。中央の溜池は、もともとは自然の湧水であったものに、江戸時代初期、虎ノ門に洗い堰が築かれ、切り立った崖を利用して江戸城外濠の構成要素として活用され、江戸城の外堀に水を供給する溜池となりました。承応3(1654)年に玉川上水が完成するまでは、池の南の江戸市中に上水を供給する役目も担っており、享保年間(1716〜1736)に溜池の土手を補強するために桐の木が多く植えられ、一帯は桐畑と呼ばれました。

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 『絵本江戸土産』三編に「赤坂桐畑永田馬場山王社」と題する図版があって、それを再構成するに当たって、すやり霞の上部にあった「山王社」部分をカットし、視線を低く落とし、完成された近景拡大の画法を導入して描いたものと考えられます。同図版には、「この辺すべて山水の景地なりといへども 常に見なれて 人是を称することなきぞ遺憾なるべき」という書き入れがあります。この書き入れは重要であって、江戸百において、多くの人が見落としていた景地を広重が意図的に採り上げ組み入れた経過が浮かび上がってきます。つまりは、これこそが広重の発見した(新)名所、すなわち『名所江戸百景』の名所であると宣言しているのです。しかも、その方法として、完成された近景拡大の画法が応用されているのです。本作品の重要性は、日常景がその切り取り方によって名所絵になるということを示したことです。そのことは、広重没後、二代広重が、同じ画題の、119「赤坂桐畑雨中夕けい」で江戸百を締めくくっている事実からも確認できます。江戸百119枚の中で特別な地位を占めている本作品は、薙髪後、心機一転して制作した最初の1枚であり、見慣れた景色を近景拡大の画法によって名所として意識させ、その手法を完成させ、晩年の大作『名所江戸百景』完結に向けての実質的出発点となったメモリアルな位置づけを得ているということです。

 なお、版元目線に立てば、本作品の左側背後の山王台にある日吉山王権現社(日枝神社)が隠された画題である可能性は十分あって、その場合は、同年6月15日、地震以来初めて再開される山王権現祭礼を予告し期待を煽っていると解釈することができます。日が隠れ夕立が来そうな花桐に祭礼への期待と不安を仮託することは、日吉山王権現には相応しい構成選択であり、確かに作品の商機を生み出しています。さらに深読みすれば、近景の花桐は豊臣秀吉(五三の桐)、そして幼名日吉(丸)となり、日吉山王権現と繋がります。山王権現の使いは「神猿(まさる)」なので、端的に猿で繋がるといった方が分かりやすいかもしれません。神猿は、「勝る」、「魔去る」という語感であって、そこに庶民は御利益を求めたので、本作品は縁起の良い図柄と感じられたはずです(25「糀町一丁目山王祭ねり込」参照)。いずれにしろ、単純な名所絵ではありません。

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05 千住の大はし

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 『絵本江戸土産』六編に「千住川大橋」と題する図版があって、それを竪絵に再構成した作品と考えられます。順番からすると、同『絵本江戸土産』五編担当の場所から画題が選ばれるのが自然ですが、同五編は日本橋や上野など江戸の中心的名所を対象としており、有名な場所を採り上げるにはまだ早すぎるし、安政地震の被災の後遺症という観点からも避けたいということことだと思われます。江戸百の「江戸」という枠組みを提示するという目的から、江戸北部を代表して「千住の大はし」が選ばれました。同図版の書き入れには、「日光街道の出口にして隅田川の川上なり 奥羽(おうう)及び常陸(ひたち)下野(しもつけ)みなこの所より行くによりて 宿(じゆく)の賑ひ品川に次ぐ」とあります。

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 本作品は、隅田川に架かる千住大橋南岸から、橋越しに、名を変えた荒川上流西方を望んでいます(DVD『江戸明治東京重ね地図・橋場隅田川』参照)。橋の上には乗り掛け馬を中心に多くの旅人が渡る姿が描かれており、日光、奥州、水戸街道などに向かう人々と分かります。橋を渡った北岸に千住宿が発展しており、上流秩父方面から筏によって運ばれた材木が積まれている様子まで細かく描かれています。大型の帆船の行き交う様子に、物流の拠点であることも示されています。遠景すやり霞の上に見える山容は、材木という観点からすると、秩父連山かと思われますが、千住宿が第一に日光街道の出発点であることを勘案すると、方向に相異がありますが、絵心として、到着点の日光の山並みと考えるべきでしょう。日光東照宮の聖地を千住大橋から望み、また同時に江戸はその守護と恩恵を受けるという庶民信仰に訴えかけた吉祥図と言うことができます。もとより、「すやり霞」は異なる物や場所を接合する仕掛け(技法)なのです。

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 千住宿一帯は、安政地震およびその直後の火災の被害に際して必ず名前が挙げられる場所であり、そのことからすると本作品は以前と変わらない堅牢な千住大橋の姿を描きながら、一方では千住宿の震災からの復興を告げていると見ることもできます。他方では、もう少し積極的な意図があると読み解くことも可能であって、たとえば、同じ最初の5枚組の1枚に、内藤新宿の「玉川堤の花」があることを合わせて考えると、地震後の火災で焼け出された吉原(仮宅)の地盤低下を奇貨として、内藤新宿と同じ「四宿」の1つ千住宿が飯盛女(遊女)を利用して客を呼び込もうとしたことへの応援歌かとも推測できます。前掲図版の書き入れに、「宿の賑ひ品川に次ぐ」とあり、やはり飯盛女(遊女)を置くことのできる四宿の1つ品川の名前が出ていることも傍証となります。

 南部の束池、中央部の彫の芝浦、北部の住大橋とで、江戸の南北の大枠を縁起の良い「千」という言葉で把握し、また、東部の堀江猫実からの富士山と西部の玉川堤の桜という縁起物を並べて東西を捉え、これらの間を大まかに江戸(名所)の範囲とし、以後、広重はその枠内の名所を順次紹介していくという構造です。なお、深読みすれば、富士浅間神社の祭神木花開耶姫命は桜を象徴するので、東西は桜繋がりかもしれません。また、堀江猫実に描かれる鳥は鳥です。

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04 千束の池袈裟掛松

安政3年2月(1856)改印
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 『絵本江戸土産』三編に「千束池袈裟掛松(せんぞくのいけけさかけまつ)」と題する図版があって、それを竪絵に再構成した作品と考えられます。書き入れには、「むかしこの池に大蛇すみて人を害す よつて七面大明神に祀る 日蓮上人腰掛の松と称(とな)ふるあり 池の廣さ東西三丁斗り 南北一丁たらず むかしは猶大いなりしとぞ」とあります。「千束の池」は、現在の「洗足池」(大田区)のことで、虎ノ門と平塚の中原とを結ぶ脇街道・中原街道沿いにあり、江戸南西部に位置する周囲1km程の湧水池です。この辺り一帯の古名・荏原郡千束郷が、その名の由来と考えられます。


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 「袈裟掛松」については、日蓮上人が久遠寺から中原街道を東に向かう途中(『東都近郊全圖・部分図』参照)、疲れを癒やすため傍らの松に腰を掛けた松を指し、その際日蓮上人が脱いだ袈裟を松に掛けたと敷衍して、広重は題名を「袈裟掛松」としたと考えられます。近隣に日蓮上人の涅槃の霊地・池上本門寺があるにもかかわらず、それを避けたことは、広重の画題選択においてはよくあることです(「広重あるある」)。いずれにせよ、日蓮上人伝説の地であり、江戸における日蓮宗信徒の増加において、一定数の作品購買が期待されるという意味で、新名所の提言を意図する試みと評価できます。


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 江戸百作品中、手前に描かれた広い道が中原街道で、往来の人々で賑わう様子が見えます。右側には茶屋があって、女が休憩をとっているようです。中景の松の廻りには保護用の柵があって、その左には日蓮上人の年忌を示す石塔があります。また、左遠景の森の中には千束八幡神社が覗いています。池の藍に浮かぶ白鷺3羽が効果的です。なお、遠景の山並みは大岡山付近の丘陵地や武甲山などの秩父連山を構図的に強調して配置したものかもしれません。目録では冬に分類されていますが、青々とした木々などの様子からはそのようには見えず、後から制作された目録が、必ずしも広重の意図を汲んでいる訳ではないという一例です。

 01「玉川堤の花」は、内藤新宿の玉川堤に桜の新名所を売り出す営業宣伝に一役を買うものであり、02「堀江ねこざね」は、行徳近郊に千鳥と富士見の新しい名所を見つけ出すものであり、03「芝うらの風景」は、芝浦に開国に繋がるお台場という新しい海の名所を紹介するものであり、そして、当該「千束の池袈裟掛松」は千束に日蓮上人縁の松を広く知らしめる意図の作品と考えられます。つまり、旧来からの名所をただ拾い上げることを目的とするだけではなく、広重の視点において、新たな名所を選定しようとの意欲から生まれた各作品なのです。以上の作品群には、江戸百の巻頭を飾る作品としてかなり積極的な構想力が感じられます。もちろん、その積極性と同時に、「内藤新宿桜樹一件」やペリー来港と係わる「御台場」など、幕府施策に抵触する危険性も内在しており、本作品においても、日蓮宗(不受不施派)への幕府弾圧の事実を忘れてはなりません。なお、「日蓮上人腰掛の松」が「袈裟掛松」となり広重によって有名になり、さらに、日蓮上人が足を洗った伝説が付与され、今日、「千束池」が「洗足池」となったことには大変興味が惹かれるところです。

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03 芝うらの風景

安政3年2月(1856)改印  彫師:彫千(後摺では削除)
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 『絵本江戸土産』二編に図版「芝浦」および「其二」があって、それの発展形が本作品と考えられます。書き入れには、「田町辺の惣名(そうみよう)なり この所より見わたせば 海水渺々(びようびよう)として 安房上総を望み 右に羽田の森幽(かすか)にて 遠く見ゆる白帆のさま 常に月雪にます絶景なり」とあり、「其二」には、「増上寺」と「神明宮」(芝大神宮)が記名されて描かれています。つまり、芝浦とは東海道の芝口橋から金杉橋辺り一帯の海岸(芝浜)を指し、将軍家の別荘御浜御殿(浜離宮庭園)のあったことで有名です。

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 本作品の特徴は、左近景および左中景に水路標識澪標(みおつくし)を大きく描き、右側に御浜御殿、紀州和歌山藩下屋敷、陸奥二本松藩蔵屋敷、陸奥会津藩下屋敷の石垣を並べ(DVD『江戸明治東京重ね地図・築地石川島』参照)、それに沿って荷船、屋根船、弁才船、帆を降ろす多数の弁才船の停泊姿が一点透視遠近法を使って表現されている点にあります。ただし、左の近景拡大の画法と右の遠近法とに破綻があって、中景の澪標が異常に大きくなっています。見落としてはならないのは、右遠景に品川から羽田までの海岸線風景が続くのに対して、左遠景に2つ石垣と1つの土盛りの島があまり印象なく描かれている点です。都鳥(ゆりかもめ)が、近景・中景・遠景に列をなして飛ぶ姿に目を奪われ、ほとんど気が付かない程です。

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 改印と同じ月の2月2日のこととして、『藤岡屋日記』第七巻(p112)に「今五時之御供揃ニ而、浜御庭江被為成」と記されており、将軍徳川家定の御成りがあって、安政地震で御浜御殿の海側の石垣が崩れた事情を勘案すると、その被害状況や(修復の)様子を視察した可能性があります。したがって、将軍の御成りが版行の動機に影響を与えた可能性があり、さらにその延長線で推測すると、反面で広重に幕府施設の描写に対する禁忌(タブー)意識が働き、将軍の御成りや御浜御殿(修復)の情報発信を役人に悟られないようにするため、背景に小さく挿入するに止め、澪標と都鳥を近景に大きく写したと読み解くこともまた可能です。確かに、江戸土産と江戸百とを比較すると、先行作品に描かれていない御浜御殿等の石垣が後行作品に写されている点では、この推論に理由はあります。しかし、これは浮世絵師の幕府施設に対する一般的注意事項であって、本作品を際立たせる核心部分ではないように思われます。なぜならば、もう一度江戸土産と江戸百の両作品を比較すると、先行作品には描かれていない3つの島(砲台場)が後行作品の画中左側遠景に見えていることに気付きます。こちらの部分に注目すれば、広重作画の動機は、この「御台場」が「芝うらの風景」の新名所であることを示す意図であると端的に捉えた方が名所絵師の立場としては自然です。

 嘉永6年(1853)、ペリー艦隊が来航して幕府に開国を要求し、脅威を感じた幕府は、老中首座阿部正弘の命で品川に砲台場(御台場)を築造します。翌年にペリーが2度目の来航をするまでに一部は完成し、結果、ペリーは横浜から上陸することになります。時代の大きな潮流の変化を暗示する御台場の建設とその新風景こそ広重および庶民の最大関心事であって、御浜御殿の石垣でさえ、御台場を隠す道具に使われているのではないかと想像します。将軍の御成り、御浜御殿の石垣(修復)は、版元的には話題として作品を売り出す動機になりますが、絵師的には御台場が見える芝浦を新名所として紹介することの方が作画の意義が高いはずです。なお、将軍の御成り報道にあまり重心を置くと、町絵師が将軍の動静を監視しているような疑いを生んでしまいます。

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02 堀江ねこざね

安政3年2月(1856)改印
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 01「玉川堤の花」が『絵本江戸土産』四編に相当する江戸西部から選択されていたのに対して、02「堀江ねこざね」は『絵本江戸土産』初編に相当する江戸東部から選択された作品と見ることができます。両作品を対照すると、広重が江戸百によって採り上げようと意図する名所の東西の大まかな範囲・外縁を知ることができるということです。安政3年2月に版行された5点の作品群は、後述する江戸南北部の作品と合わせて、以後描かれる江戸百の範囲をおおまかに確定する導入部という位置づけです。

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 「堀江ねこざね」が江戸百の最初の作品群の1つに選ばれた理由については、不詳であるとされることが多いのですが、『東都近郊全圖・部分図』(弘化4年・1844)を見てのとおり、堀江も猫実(ねこざね)も行徳領下にあったことを知ることができ、江戸の小網町と行徳の間を結ぶ行徳船の往来が思い浮かび、その河岸場(発着場)周辺の名所として採り上げられているということが分かります。本作品を見ると、江戸川から分岐する境川が中央を流れ、その左(南)側が堀江村、右(北)側が猫実村に当たり、両村を境橋が繋いでいます。猫実村背後の松林から覗いているのは豊受神社で、その神社付近の堤に松を植林し、繰り返される津波や水害による海水・川水がその「根を超さぬ」が訛って「ねこさね=猫実」になった因縁の場所です。境川の分岐する辺りに帆柱が見えており、江戸川にあった行徳の河岸場を示すものと思われます。その遠景背後には富士山があって、その風光はまさに名所絵に相応しいと言えましょう。

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 近景には、千鳥の猟の様子が描かれ、猟師が無双網を砂に隠し、千鳥笛を使って誘き出した千鳥を網を引いて被せて捕獲する様子です。行徳と言えば、塩浜による塩の生産や遠浅の海を利用した漁業が盛んで、『江戸名所圖會』巻之七(『新訂江戸名所図会6』P314~P319)にも、「行徳汐濱」「行徳塩竈の圖」などが掲載されていますが、広重はそれを避けて(「広重あるある」)、同名所図会の図版「行徳鵆(ちとり)」(『新訂江戸名所図会6』P320~P321)を本作品の参考資料としていると考えられます。同図版では千鳥の飛ぶ海岸の風光が主体ですが、江戸百の本作品ではより実利的に千鳥の捕獲に焦点を絞っています。この鳥肉は、小名木川と新川(合わせて行徳川)を使って、江戸に運ばれるのです。行徳の名物紹介、それが江戸百「堀江ねこざね」の面白さを支えています。近景の千鳥、中景の豊受神社の松、遠景の丹沢山系から突き出た富士山をそれぞれ重ねた構図は、縁起の良い題材を選び、江戸百の版行を寿ぐ構成となっています。本作品は、『絵本江戸土産』それ自体ではなく、その先行資料である『江戸名所圖會』からの着想と言うことができます。

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01 玉川堤の花

安政3年2月(1856)改印
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 当時は場末感のあった甲州街道の宿場・内藤新宿にあった旅籠の背後を流れる、玉川上水の堤に咲く桜並木を描いた作品です。信州高藤藩内藤家下屋敷のあった内藤新宿の裏手とも言われています。桜並木の左側背後は、内藤家家臣達の住む武家屋敷一帯で、DVD『江戸明治東京重ね地図・四ツ谷内藤新宿』によれば、火消役渡辺図書助辺り、画中右側の冠木門は天龍寺の門前辺りかと思われます。夕景を表す紅のぼかしと玉川上水の藍の拭きぼかしの対比が美しいと言えます。旅籠の2階に赤い着物の女達が見えますが、飯盛女(遊女)の姿です。玉川上水を挟んだ対岸の桜並木の下に揃いの傘を差した一行が描かれているのは、稽古事の師匠に連れられた花見をする弟子の一行と思われます(36『下谷広小路』、117『上野山した』参照)。
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 本作品には非常に特殊な事情があります。それは、「内藤新宿桜樹一件」と呼ばれるもので、『藤岡屋日記第七巻』(P110~P112)の「安政三辰年二月」の条に、次のような記述があり、要約して紹介します。
 すなわち、01goyoboku
 「新宿南側裏手、玉川上水土手通三丁目程江、桜樹大小二月十三日ゟ植初メ、凡七十五本植附、下へ芝を敷、丸太にて駒寄を構へ、如此木札ヲ建ルなり」とあって、左の図版が掲載されています。そして、「上野の花、浅草の群集、向島の見物、深川開帳仮宅の賑ひ」を羨ましく思っていた宿場の人達は、「桜を植、三光稲荷の池を広ろげ杜若を植込なバ」、同じ玉川のさらに遠方にある小金井でさえ桜の名所になったのだから、「上野之桜、堀切の花菖蒲ニもおさ\/劣るまじ」、「吉原仮宅もなんぞの四ツ谷新宿、馬尿(いばり)の中に菖蒲咲くとハしほらしく」、大勢の客を惹き付けられると読んだのです。「吉原の仮宅」という言葉があるのは、安政地震の火災によって吉原は焼失し、深川で仮の営業をしているので、吉原の地盤低下している今がチャンスだという訳です。策を進めるに当たって、勘定奉行配下の代官に手配をすませたのですが、同じ配下の「御林奉行」については軽役と考えて届けをしませんでした。これに対して、御林奉行から差配があって、上水端は杉を植込む場所であり、届もなく桜の大木を植えただけでなく、「御用木」と書いた制札まで建てたのはいかなる所存かと咎められたのです。その後、「三月十六日阿倍伊勢守殿御始にて、跡役人乗供共凡百騎計、小金井辺へ遠乗有之候処、右新宿の桜大評判故ニ、御老若始諸役人上水場へ乗廻り候処に、桜の苗木を植候積り之処、古木之大木を植有之、殊ニ御用木との高札ハ何れより免し有之哉と被仰候より、早速取払被仰付候よし、扨三月廿七日ゟ取懸り四月四日迄に不残引払候よし」となりました。

 玉川堤に桜の木を植え始めたのが2月13日、広重作品の改印が同じ2月、事前の構想に基づいて桜の季節3月前に出版されたとしても、3月中には桜並木はほぼ取り払われており、本作品が描いた「名所」を庶民がどの程度目にしたのか疑問とするところです。また、これ以降その名所は存在しないのですから、『名所江戸百景』(以下「江戸百」と略す)の最初の企画としては散々なものです。とはいえ、安政4年8月改印の前掲『今様見立士農工商 商人』(本講座「版元魚屋栄吉」参照)に、本作品が江戸百の代表的作品の1つに採り上げられていることを勘案すると、発禁にはならなかったどころか、逆に幻の名所を描いた人気作品になっていた可能性すらあります。なお、絵師である広重や版元側が咎めを受けなかったとしても、震災のどさくさに紛れた内藤新宿の営業宣伝に協力する形式での作品制作に危険性が潜むことを広重は自覚したのではないでしょうか。他方で、美しい風景がそのまま名所となるのではなく、背後にある事件・物語が名所を作るということをも感じたでしょう。以後の江戸百の制作において、作品の人気を支える事件・物語をあからさまには表出させないような気配りをしたことが容易に想像されます。それは、本講座が画題設定と版行動機とを区別して読み解こうとする理由でもあります。

 なお、「内藤新宿桜樹一件」では何が幕府方を怒らせたのかについて重ねて考える必要があって、桜の樹(若木)を植えたことなのか、桜の大木(古木)を植えたことなのか、「御用木」と書いた制札を建てたことなのか、いずれであるのかということです。前掲『藤岡屋日記』には、「右桜樹大木之分ハ薪木ニ伐、中位の分ハ最寄之屋敷・天龍寺前稲荷社、又は百姓地抔へ引取植候よし」とあり、桜の大木に厳しい処置があるところを勘案すると、桜の大木を植栽したことに重き事由があったように推測されます。後日譚として、同『藤岡屋日記』に、「右桜の木の中ニ壱本大樹有之、之は大久保同心年来持居候木ニて、同心の妻売る事をおしミ候処、無是非思ひ居り、此桜掘捨ニ相成時より、妻熱発し元の地所江桜植候様、うハごとを日夜申居るよし」と記されていることとも付合します。同『藤岡屋日記』には、小金井の桜並木の参考資料として、「上水両縁江植付候儀ニ有之、数珠之桜木繁茂致、根深く蔓(はびこ)り候得ば、両縁欠崩之憂無之、桜は水毒を消候ものニ付、花実上水へ落入、自然水毒之憂無之」という趣意書が掲載されており、上水の堤に桜樹を植えることには恩恵があることが指摘されています。

 つまり、両事実を照らし合わせ考慮すると、玉川堤に桜樹を植え付けることには堤の強化、上水の殺菌効果など恩恵があるものの、若木を植え付け、年来を掛けるべきであって、桜の大木を植え付けることは、(桜の観賞が優位してのことなので)許されないということなのでしょう。しかも、無許可で「御用木」と書いた制札まで建ててしまっているのですから。幕府としては、上水保護という「公」に付随して庶民が桜を楽しむことは甘受できるとしても、大木の桜を愛でそれを利用して集客し、「私」に走る行為は許されないという発想だと思われます。ところで、内藤新宿の再開発を実行する資金について、同『藤岡屋日記』は、「先年ゟ新宿女郎屋ニ異変之節、雑費入用之積金致し置候処ニ、近年無事平穏にて多分之掛り等も無之故、貯金溜り山如く積有之」とあって、内藤新宿の飯盛女(遊女)達の稼いだ金が元手となっていることが分かります。宿場経営における飯盛女の役割の重要性を語っており、各宿場の架橋や道路建設などの場面でも度々指摘される事実ですが、「内藤新宿桜樹一件」では、それが前面に出過ぎてしまったと考えられます。このことを浮世絵の出版にからめて言い直せば、入銀作品のスポンサーやその他作品の販売利益などに過度に配慮した制作には危険性があって、あくまでも幕府規制の範囲内で穏当に制作するという「表向きの構え」が肝要であるということです。繰り返しますが、本講座が画題設定と版行動機とを区別して読み解こうとする所以です。

 シリーズ最初の目玉作品「玉川堤の花」が思いも寄らない門出となったにも係わらず、百枚目のシリーズ中に「四ツ谷内藤新宿」が再び採り上げられていることは決して偶然ではなく、制作者側は両作品を一対と見ていたということが推測されます。この点については、100「四ツ谷内藤新宿」の読み解きに際して改めて検討する予定です。

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参考資料一覧

教科書
小池満紀子・池田芙美『広重 TOKYO名所江戸百景』2017・講談社

参考図書
ヘンリーDスミス『広重 名所絵江戸百景』岩波書店・1992
『名所江戸百景 新・今昔対照』太田記念美術館・1992
『嘉永・慶応江戸切絵図 江戸・東京今昔切り絵図散歩』人文社・1995
『江戸切絵図で歩く 広重の大江戸名所百計散歩』人文社・1996
東京伝統木版画工芸協会『浮世絵「名所江戸百景」復刻物語』芸艸堂・2007
『秘蔵岩崎コレクション 広重|名所江戸百景』小学館・2007
原信田実『謎解き 広重「江戸百」』集英社・2007
メラニ-・トレーデ ローレンツ・ビヒラー『歌川広重 名所江戸百景』タッシェン・ジャパン・2008、2010
『広重名所江戸百景 望月義也コレクション』合同出版・2010
堀口茉純『EDO-100 フカヨミ! 広重【名所江戸百景】』小学館・2013
『別冊太陽 太陽の地図帖 29 広重「名所江戸百景」の旅』平凡社・2015
太田記念美術館『広重 名所江戸百景』美術出版社・2017
『古地図で巡る 広重の名所江戸百景』Japan Books and Collectibles・2022

Kindle版『名所江戸百景』

参考HP
『広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~』
『広重 Hiroshige「名所江戸百景」時空map』
森川和夫『古写真で読み解く広重の江戸名所』
森川和夫『広重と「江戸名所図会」』 
『浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」』 

『絵本江戸土産 について』 
『みんなの知識ちょっと便利帳 絵本江戸土産・くずし字を読む』

その他資料
斎藤幸雄・幸孝・幸成(月岑)・長谷川雪旦画『江戸名所圖會』初帙3巻・天保5年(1834)、後帙4巻・天保7年(1836)、全7巻20冊 【国立国会図書館デジタルコレクション】:『新訂江戸名所図会1~6』ちくま学芸文庫・1996~1997

斎藤月岑編・長谷川雪旦画『東都歳事記』全4巻5冊・天保9年(1838)【早稲田大学図書館デジタル資料】:『新訂東都歳事記上下』ちくま学芸文庫・2001

斎藤月岑『武江年表』正編8巻、前4巻・嘉永2年(1849年)、後4巻・嘉永3年(1850)刊行、続編4巻・明治11年脱稿:『定本武江年表上中下』ちくま学芸文庫・2003、2003、2004

天明老人内匠編・立斎廣重画『狂歌江都名所圖會』全16編14冊・安政3年(1856)序刊 【国立国会図書館デジタルコレクション】:花咲一男刊『狂歌江都名所図会』近世風俗研究会・1960

『藤岡屋日記(安政二年十月~安政四年八月)』 『近世庶民生活資料藤岡屋日記第七巻』三一書房・1990
『藤岡屋日記(安政四年九月~安政六年九月)』 『近世庶民生活資料藤岡屋日記第八巻』三一書房・1990

『嘉永・慶応江戸切絵図(尾張屋清七板)』人文社・1995
DVD『江戸明治東京重ね地図』エ-ピーピーカンパニー・2004

浅野・吉田編『浮世絵を読む5 広重』朝日新聞・1998
内藤正人『もっと知りたい 歌川広重』東京美術・2007
『傑作浮世絵コレクション 日本の原風景を描いた俊才絵師 歌川広重』河出書房新社・2017

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広重の年譜

寛政9(1797)年:三十俵二人扶持の定火消同心・安藤源右衛門の子として、江戸八代洲河岸の定火消屋敷に生まれる。幼名徳太郎、後に重右衛門、鉄蔵、徳兵衛。
文化6(1809)年
:2月13日、母(安藤十右衛門の娘)没。同月、父源右衛門隠居し、同心職を継ぐ。
:12月27日、父死亡。
文化8(1811)年:歌川豊国に入門を希望するも断られ、歌川豊広に入門。
文化9(1812)年:師豊広より、歌川広重の画名を許される。
文政6(1823)年:11月、定火消同心職を祖父の後妻の子仲次郎に譲り代番となる。鉄蔵と改名。
天保元(1830)年:斎号・一幽斎
天保3(1832)年:斎号・一立斎
天保4(1833)年:『東海道五拾三次』(保永堂)版行開始。

天保13(1842)年頃:南伝馬町東の大鋸(おが)町に転居。
弘化3(1846)年頃:大鋸町から京橋方向の常磐町に転居。
嘉永2(1849)年頃:大鋸町近くの中橋狩野新道に転居。

嘉永6年(1853年)
6月3日:アメリカの東インド艦隊ペリー提督が4隻の黒船率いて浦賀沖に到着。
7月18日:ロシア大使プチャーチン、開国通商を求めて長崎に来航。
*江戸幕府・老中首座阿部正弘、朝廷を始め外様大名や市井を含む諸侯有司に対しペリーの開国通商要求への対応策を下問。ペリー来航を期に品川に砲台を築く工事を開始、翌年に完成。お台場と呼ばれる。
嘉永7年(1854年)
1月16日:ペリーが前年に引き続き江戸湾に再来。
3月3日:日米和親条約締結。
4月6日:京都大火(御所焼ける)。
11月4日:安政東海地震。
11月5日:安政南海地震。東海地震の32時間後に発生。
12月21日:日露和親条約締結。
*同年中に安政へ改元されたため、嘉永7年を安政元年と解釈し「安政」を冠して呼ばれる。

安政2(1855)年::10月2日:安政江戸地震
安政3(1856)年:2月より『名所江戸百景』(魚栄堂)版行開始。翌3月28日、剃髪して法体。
7月21日:ハリスが下田に着任。
8月25日:台風で江戸に猛烈な暴風と高潮。死者10万人。
安政5年(1858年)
6月19日:江戸幕府、日米修好通商条など、安政の五か国条約に無勅許調印。
8月頃:コレラが大流行(安政7年にかけて)
9月5日:大老井伊直弼による反対派弾圧が始まる(安政の大獄)。
9月6日:広重、早朝に病没。
 辞世「東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見む」
 埋葬 浅草新寺町の東岳寺(浄土宗、現在は曹洞宗)
安政7年(1860年)
3月3日:大老井伊直弼が江戸城桜田門外で暗殺される(桜田門外の変)。

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版元魚屋栄吉

◇版元の立場

 当時の出版界には、手っ取り早く稼ぐには、絵双紙問屋で当てて稼ぐに限るという状況があり、魚屋(さかなや・ととや)栄吉は、安政の江戸地震が起こる2ヶ月程前に地本双紙問屋に加入し、しかも、地震の被害は受けていなかった可能性が高く、江戸の名所を百枚描くという新企画をもって、大儲けを狙ったと考えられます。「あてなしぼかし」などの微妙な摺り、雲母摺り、布目摺りなど多用され、名所絵にしてはかなり高度な彫摺の技術が駆使されていて、その数も百枚以上ということからすると、投下資本からしても相当大きな販売を期待していたことが推測されます。

◇『今様見立士農工商 商人』歌川(三代)豊国/大判三枚続/横川彫竹/魚屋栄吉(魚栄堂)/安政4年8月
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 上野広小路にあった魚屋栄吉の絵双紙屋の店頭風景です。左手奥に、『名所江戸百景 大にしき百番つゝき』という宣伝文句が見えています。また、その隣には、『名所江戸百景』の「浅草金龍山」と「玉川堤の花」)が飾られています。同「玉川堤の花」には、後で詳しく触れますが、作品制作の前提事実に関するトラブルがあったはずで、それがそのまま目玉商品として売られている様子には、それほど問題視されなかったというよりは、かえって話題になったのかもしれない等々色々と想像してしまいます。なお、本作品の安政4年8月改印という時期は、先のトラブルの関係者である、老中首座阿部正弘の死去後のことであり、本作品制作の動機に何か関係があるかもしれません。

 絵師が三代豊国ということもあり、どうやら、役者絵を店の前方に置いて販売していたようです。役者絵は、基本的に歌舞伎の上演期間までがその商品価値と考えれば、短期間に販売する都合上、目につくところに置かれるということでしょうか。とすれば、幕府に忖度し、下に置いて目立たないように売らなければならない「シタ売」という指定には、販売規制としてある程度の効果があることが分かります。

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歌川広重『名所江戸百景』

◇読み解きの視点

 安政2(1855)年10月2日、広重は、安政地震に遭遇し、江戸の震災と火災の大被害を体験し、その翌年に『名所江戸百景』の版行が始まることを考えると、被災と出版との間に深い関係があることが推測されます。ただし、ここで注意を要するのは、江戸の被災状況の報道は幕府の治安情報に該当し、浮世絵制作のタブーに触れるということです。実際、江戸城半蔵門の壊れた様子を伝えた、『安政見聞誌(あんせいけんもんし)』が安政3年6月2日(1856)に発禁処分となっています。したがって、もともと幕府定火消同心であった広重が、幕府規制に抵触する虞を犯して、報道的視点で『名所江戸百景』を制作することを強調するのは危険です。従来広重が穏当に描き続けてきた『名所絵』という枠組みを大きく逸脱することはないということです。


 『名所江戸百景』の版行を考えるに当たって、重要な広重の絵本資料があります。それは、『絵本江戸土産』と言われる10巻の絵本で、嘉永3年(1850)から慶応3年(1867)にかけて出版され、1~7巻は初代広重、8~10巻は二代広重が手掛けています。『名所江戸百景』との関連では、1~7巻の初代広重の部分が大事で、『名所江戸百景』の絵とおよそ7割の被写地が重なり、『名所江戸百景』の下絵的資料と想定されているからです。(頁数、序文は、初編25頁・金水陣人、2編27頁・松亭漁父、3編26頁・金水道人、4編25頁・一立斎広重、5編頁24頁・金水陣人、6編25頁・松園主人梅彦、7編25頁・金水道人。)

 『名所江戸百景』に先行する『絵本江戸土産』の存在を知れば、草稿やスケッチに簡易な解説を付けた観光案内・江戸土産的性格を持つ絵本を大判の「錦絵化」するという制作の発展過程に気付きます。安政地震の被災や復興の情報を伝えることを目的に、広重が急に江戸の名所を描くことを思い立ったという分析には無理があります。さらに言えば、『絵本江戸土産』自体も後掲『江戸名所圖會』のビジュアル簡易版と見ることもでき、江戸の出版界の大きな流れの中に『名所江戸百景』を位置づけなければなりません。また、広重自身の画業という観点でも、『保永堂版東海道五拾三次の内』の前に、実は「幽斎がき(川口版)東都名所」シリーズを出版している事実があって、そのことは江戸あるいは東都名所の浮世絵は広重にとってライフワークの1つであるということを意味しています。

 ここで、原信田説(原信田・後掲『謎解き 広重「江戸百」』参照)について触れておきます。原信田説というのは、「絵の制作とできごとが対応しているとすれば」こう読めるという仮説に基づいた読み解きです。典型的事例として「浅草金龍山」(後掲書p77)を挙げると、五重の塔の九輪修復という出来事を受けて、遠景にその五重の塔を、近景に塔と深く関連する雷門をそれぞれ描き入れて名所絵とし、地震で傾いた五重塔の修復完了というおめでたいできごとに対して、冬の白い雪と金龍山の建物の紅色と対比させ、紅白(水引)仕立てで寿いでいると読み解いています。安政地震による被災の事実と震災からの復興とが『名所江戸百景』のテーマになっているという主張です。大変説得力のある見解ですが、『名所江戸百景』は広重のライフワークの一環であるという本講座の立場との摺り合わせをどうするかが問題となります。

 本講座では、次のような考えで各作品を読み解いていくつもりです。すなわち、広重は、絵師として、江戸名所絵の集大成として描くのが主な意図であり、他方、版元は広重の作品を商品としてどう売り出すかを思案し、たとえば、先の「浅草金龍山」を例にとるならば、商品の売り出しを考慮して、五重の塔の修復が成ったことが世間の話題となっている時点で版行するという、制作者として当然の行動を採るということです。しかし、五重の塔の修復自体が主たる画題なのではなく、それ故、作品の紅白仕立ても修復完了が理由ではなく、江戸っ子には、歳の市など積雪時の浅草寺が有名なので、その典型的情景として雪の景が選ばれたということです。しかも、まだ残暑の厳しい旧暦7月に、涼を誘う雪景色・歳の市の浮世絵を販売することは、従前からのよくある営業戦略です。原信田説に修正を加えるならば、絵の制作「動機」(きっかけ)と出来事が対応していることはあっても、絵の画題と出来事は常に対応してるという訳ではないということです。それ故、本講座では、各作品全てに亘って安政地震等からの復興を動機として神経質に読み込むということにはなりません。

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