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97.月百姿 梵僧月夜受桂子

Tsuki97
明治24年(1891)6月印刷・出版/画工 月岡米次郎(大蘇印)/板元 秋山武右エ門/彫工 山本刀

 目録には「阿羅漢」とあるので、阿羅漢(あらかん)が月夜に桂の子(かつらのみ)(金木犀の種)を受けるという図です。「25.つきのかつら(呉剛)」で触れたように、月には高さ500丈の桂の大木があって、春に花が咲き、秋に子(種・実)が成るという伝説があります。「月の桂の子」が中国に降ったという伝承について、曲亭馬琴『俳諧歳時記栞草』(『増補 俳諧歳時記栞草下』岩波文庫・2000、p124)参照。本作品は、阿羅漢がその降ってくる子を鉢で受けているものと分かります。阿羅漢とは、ここでは釈迦の弟子を意味し、迷いの輪廻から脱して涅槃に至ることができる、修業者が到達する最終の地位にある人のことです。「十六羅漢」、「五百羅漢」とも称され、1人図として作画されることも少なくありません。比べると、龍神を自在に扱える「半託迦尊者(はんだかそんじゃ)」を描く、北斎戴斗『羅漢図』(東京国立博物館)、八十七老卍・紙本著色『羅漢図』(弘化3年・1846・太田記念美術館)等から着想を得たのかもしれません。

 北斎作品では、捧げる鉢から立ち上る湯気が雷光とともに現れた龍神のようにも見え、阿羅漢が最高の悟りの境地に達していることを感じさせる表現です。他方、芳年は、龍神に代えて月の桂の子を鉢で受けるという構成を採って、阿羅漢の最終境地を絵にしたものと思われます。北斎と芳年が同じ状況を描いていることは、芳年作品の阿羅漢の袈裟に龍紋が描かれていることから確認できます。阿羅漢の頭部には大きな光背(後光)が描かれ、阿羅漢の悟りの高さを示していますが(「65.南海月」の観音参照)、同時に、直接は描かれていない名月に見立てられていることは言うまでもありません。

 「29.破窓月」、「61.悟道の月」などとも合わせて考えると、月(光)は、芳年にとっては、悟りの世界・境地を象徴する記号としての意味を有していると思われます。それ故、『月百姿』では、悟りの世界からの光に照らされ、人はそこに至るまでの因果因縁を思い出し、その過去を清算しているように感じます。思いに拘れば無明世界に落ち、色即是空となります。無心に光に照らされれば、空即是色となって、月の不思議にて、月の桂の子さえ降り注ぐという予期せぬ果報を受け取るのです。未来を照らす日の光とは反対に、月の光が過去を照らすものと分かれれば、近代明治が見落とした江戸以前の善きもの、弱きもの、優しきもの、哀しきもの、あるいは美しきもの等々を偲ぶものとして、芳年は各作品を制作しているものと理解されます。これらの作業は、に因縁する月岡芳年だからこそできることなのです。

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Hokusai_rakanzu_otakinen

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コメント

初めまして。74歳東京在住の西郷隆盛漢詩研究者で、西郷南洲顕彰会年刊市誌「敬天愛人」に毎年論文を寄稿中のところ、3年後の生誕二百年に際し海外広報/電子書籍用の全209詩209話の英語版をほぼ脱稿➡発刊前の姉の嫁ぎ先ブラジル日系人三世らのモニター意見も受け入れ、右内の月テーマの西郷31詩31話に同時代の芳年月百姿に唐詩も加え別途「東方月夜噺」150話ほどの英語版・電子書籍用の著述も今月開始➡Wikipedia画像挿入予定も、貴殿ブログ方に明瞭な良い画像も多くあることに気付き、画像使用許諾をお願い申し上げたく連絡しました。お返事お待ちしております。なお貴殿の解説文は実に正確で興味深く実に勉強になりました。併せて御礼申し上げます。電話は090-8809-9491です。

投稿: 柳澤宗夫 | 2024年5月18日 (土) 10時21分

 お返事遅くなり申し訳ありません。
 本ブログ掲載の画像は、見やすくするために明度など一部加工がしてあります。学術・研究などの論稿に使用の場合は、本シリーズ最初のブログ頁に挙げてある、デジタル資料:Kindle『月百姿』、国立国会図書館デジタルコレクション等に直接お問い合わせ下さい。同程度の画像が見つかると思います。
 本ブログにおいては、画像よりは解説の独自性に重きを置いています。解説を褒めていただくことを大変嬉しく思います。

投稿: | 2024年5月22日 (水) 10時57分

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