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狂歌入り東海道に聞く!

 『狂歌入り東海道』の絵を見ていて強く思うことがあります。それは、東海道が日本橋から三条大橋まで続く一本の街道ではなく、川で分断し、追分で分岐するいくつもの脇街道を持つ大道であるということです。広重が、宿場それ自体よりは、橋梁、船渡し、徒歩渡し、そして何よりも、度々追分を制作の基点に置いていることからも十分に確認できます。実際、旅行者には名所風景よりも、それらの方が重要な情報だからです。したがって、たとえば、掛川宿の作品では、秋葉街道への追分の鳥居が絵の主題になっており、同時に、狂歌も秋葉街道を詠っているという訳です。

 ところが、四日市宿において、広重は伊勢街道の日永の追分(鳥居)を主題から外しています。江戸からお伊勢参りに向かう際、四日市宿がその拠点となることは誰しも知っていることとは言え、絵にしないで良い程の重要度なのでしょうか。そこでもう一度作品を見返してみると、三重川に架かる土橋の手前側に、柄杓を持つ抜参りの少年3人と、猿田彦(天狗)の面を背負う金比羅参り(代参)の男が橋を渡ろうとしているのに気付きます。実は、前掲『東海道中膝栗毛 五編上』(岩波文庫p36以下)に、追分の茶屋で弥次さんと金比羅参りの男が饅頭の賭け食いをする場面があって、結局は弥次さんは300文騙し取られるのですが、弥次さんは抜参りの少年達がその饅頭を男から貰って食べているのを見て、これも功徳だとして溜飲を下げ、伊勢へと向かうのです。これが日永の追分(鳥居)脇の茶屋でのことと分かれば、四日市の作品にも間違いなく、伊勢街道の追分情報が入っていると言うことができます。

 『狂歌入り東海道』の狂歌を見ていていくつかの事を学びました。たとえば、戸塚宿の狂歌では「とつかは」という言葉が、あわてて動作をする意味として地口に使われています。つまり、戸塚宿には元から何か慌ただしい雰囲気があるということです。これを念頭に置くと、保永堂版において侍が馬から飛び降りる様子が描写され、女一人旅が敢えて描き入れられている理由も、とつかはとする情景描写と読み解くことができます。また、袋井宿の狂歌から「袋井」の地口として、「ふく」(膨、吹、腹など)があることを知ります。とすると、保永堂版において竈(かまど)からもうもうと煙が上がっている情景も、風もしくは煙「吹く袋井」という地口をベースにした表現と読み解くことができます。

 『狂歌入り東海道』は、絵による意外にも正確な街道情報と、狂歌による地口・ユーモアの遊びの部分との組み合わせで構成されています。この後者の部分が『狂歌入り東海道』の特徴なのは言うまでもないのですが、重要なのは、その特徴を使って他の東海道シリーズを読み解くことができるという点です。これは、構想的性格が強い保永堂版を理解するにはかなり優れた視点です。ただし、本講座の中心的課題ではないので、いくつかの具体例を提示するに止めておきます。その余の議論については、国貞『東海道五十三次之内』(美人東海道)をも利用して、また機会を改め提言したいと考えています。

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〈56〉東海道大尾 京 内裏

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「おもひ立 さい先よしと いそ五十路 こえてみやこを けふみつの空 紅翠亭郡子」

 「内裏」とはありますが、御所門前を描く狂歌入り版です。やはり、中判揃物である、国貞『東海道五十三次之内』(美人東海道)にも56枚目に「京都ノ圖」があって、平板な狂歌入り版の様子がよく分かる作品となっています(下記図版参照)。石積みの上に屋根付きの土塀があり、一段奥まった門前に板塀があり、参内する人はこの板塀の両脇から入って行くのでしょう。門前の道路には、公家を駕籠で運ぶ行列が見え、その奥には被き姿の2人の女とお供を従える女将風な女が描かれています。束帯姿で笏を持つ2人の公家は、あるいは武士が御所に参内する正装なのかもしれません。武士と小姓が日傘を差し掛けています。江戸ではあまり見られない風俗として紹介されています。重要な点は、都には公家やその頂点をなす天皇が居り、武士階級の上に存在していることが暗示されていることです。同じことは、お伊勢参りによって、伊勢神宮に皇祖天照大神が坐すことを江戸庶民が自覚する点にも当てはまります。江戸時代末期、将軍家から天皇家への大政奉還が庶民に自然に受け入れられる下地も、ここにあります。

 狂歌は、「おもひ立 さい先よしと」、つまり、思い立ったが吉日と、いそいそと「五十路」(50の宿路)を越えて、ついに都に今日で(50と)3つ目の空を見るという内容です。「いそ五十路」でいそいそと五十路(いそじ)、「けふ」で今日と京、「みつ」で見つと3つをそれぞれ掛け、また、みやことけふ(京)の縁語を用い、十二分に言葉遊びを堪能するものとなっています。くわえて、50+3で、東海道五十三次を詠い込んでおり、狂歌の最後を飾るに相応しい秀歌で締めくくっています。都を象徴するような「紅」(赤)と「翠」(緑)を組合わせた狂歌師の名前も、粋な命名です。

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〈55〉東海道五拾三次 京 三条大橋ノ圖

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「鳴神の 音にきこえし 大橋は 雲の上ふむ こゝちこそすれ 鶴の屋松門」

 東海道の西の起点、鴨川に架かる三条大橋を正面から粟田口方向を見据える構図での作品です。近景の擬宝珠の並ぶ高欄の背後、中景には京都を代表する東山三十六峰が描かれ、右側中腹に清水寺の大屋根が確認できます。通例、画中に五重塔「八坂塔」が描かれることが多いのですが、狂歌入り版では見付けることができません。なお、広重『東海道風景図会』「京三條大橋」には、嵐雪の「蒲団着てねたるすがたや東山」という句が紹介されており、これが江戸っ子が思う東山を象徴しているのかもしれません。遠景には都の北東鬼門を守る、比叡山のイメージが写されています。三条大橋の三条が仏教用語「三乗」(声聞乗、縁覚乗、菩薩乗)に通じ、その橋が仏教の聖地比叡山(延暦寺)と一直線に繋がっている構成は、京都が仏都(浄土)であることを強く感じさせます。したがって、三条大橋を僧侶が渡ってくる姿も京都ならではの情景です。橋を渡る人々は、江戸日本橋と対比されており、柴や梯子を売る大原女、被き姿の女性達、茶筅売り、日傘を差す武家の一行などが行き交う様子があり、都の風俗を紹介する趣旨です。言うまでもなく、京都には多くの名所・見所がありますが、それらは、広重『京都名所之内』に譲ることとなります。

 狂歌は、「鳴神の音」(雷鳴)のように天下にその名を轟かせる三条「大橋」を渡るのは、まるで「雲の上」を歩むような「こゝち」(心地)がするという、高欄の三条大橋を詠ったものです。「雲」は「鳴神」の縁語ですが、「天」にも通じ、御所のある京都への憧れも隠されているのかもしれません。日本橋の狂歌「日本橋 たゞ一すぢに 都まで 遠くて近き はるがすみかな」を思い起こすと、日本橋では春霞に隠れていた都が、三条大橋ではついに雲の上から見通すことができるまで間近になった感激が伝わり、狂歌の呼応関係も読み取ることができます。前掲『東海道風景図会』の柳下亭種員の跋詞には、「日毎/\に京着(きょういり)の、旅人にぎはふ東山、兜軍記に由縁ある、清水寺や五條坂へも間近き三條大はしが、即ち巻の終にて」とあり、普通ならば、ここで東海道五十三次の揃物シリーズは終わるのですが、狂歌入り版は中判揃物なので、大判1枚で2丁摺るということから、次に紹介する「大尾」作品がさらに続き、56枚目での完結となります。

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〈54〉東海道五拾三次 大津

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「君が代の たからを積みて 門出の 仕合よしと いさむうしかひ 常磐園松成」

 琵琶湖の大津湊を描いていることは分かりますが、狂歌入り版が実景とするならば、いったいどこの場所でしょうか。ヒントは、画中右端に見切れる石場の常夜灯です。前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「大津」を参照すると、湖畔の膳所(ぜぜ)城(「城主本多下総守」)の西側に「ばせをつか」「義仲寺」があり、それを過ぎたところに「立ハ石場」とあります。湖側に「矢ばせより舟つき」とあり、この辺りを前景にして、中景に「大津町九十八丁」、遠景に「三井寺」のある比叡山と比良の山々を一望する視点構成と思われます。近景の茶屋と大津湊から堅田浦の遠望が、何か前掲「品川」にも似た雰囲気を醸し出しています。品川は旅の見送り・出迎えの宿場(湊)であり、また、大津も旅人との再会を祝う「酒迎(さかむか)え」の宿場(湊)として知られています。

 琵琶湖周辺には多くの名所がありますが、具体的情景は広重『近江八景之内』に譲ることとして、狂歌入り版は単純な湊の茶屋風景です。ここの茶屋では、おそらく、背景の堅田浦で獲れた「源五郎鮒」の鮓(すし)が名物として売られていたはずです。『東海道名所圖會 巻の一』(前掲『新訂東海道名所図会上』p155)に、「むかしより淡海の名産に、源五郎鮒というあり。これは佐々木家一国を領せし時、家来に錦織(にしごり)源五郎という者、漁者(ぎょしゃ)を司る」、「これによってその支配司を、魚の名に呼ぶならわしとはなりにけるとぞ聞こえし」とあります。なお、同図鑑にはこの辺りから「阪本道」、「三井寺道」があることが記されており、戦国時代の坂本城、比叡山焼き討ちが想起され、明智光秀の見ていた風景が思い浮かぶばかりです。

 狂歌入り版の場所から西方に進むと東海道は宿場内を左に折れ、上り坂となります。この情景を描いたのが、広重『木曽海道六拾九次之内』「大津」です。そして、その坂道を上り終わり、下った所にあったのが山城国に近い「走井」で、それを画題とするのが保永堂版副題「走井茶店」です。そこには、大津湊に集積された各地の物資が牛車で東海道を通って京都に運ばれる様子が描かれています。まるで狂歌は、この保永堂版を見て詠っているかのような内容です。この世の(大事な)宝物を積んで、牛飼いが「仕合」「吉」の腹掛けを牛に着け、勇んで「門出」(出発)する様子です。「仕合」「吉」「門出」はいずれも荷牛・馬の腹掛けに染め抜かれた文字で、縁起を担いで、荷物の安全到着を願ったものと考えられます。

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〈53〉東海道五拾三次 草津

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「たのしみの 日数かさねて 春雨に めぐむ草津の 旅の道芝 芝口屋丘住」

 草津宿の西にあった「矢倉」立場の風景で、有名な「うばもちや」「うばか餅」(姥が餅)の店の活況を描いています。作品の右側の軒先には、琵琶湖の矢橋(やばせ)湊へ至る矢橋街道との追分道標があるはずですが、大きな荷物を背負う馬と馬子が立っており、よく見えません。代わりに、「京橋仙女香」の看板が掛かっており、店とスポンサーの宣伝を優先させたことが分かります。他方、草津宿の東側には、東海道と中山道との追分の道標があって、こちらは、広重『木曽海道六十九次之内』「草津追分」の題材となっています。保永堂版は副題「名物立場」として、『東海道名所圖會 巻の二』の図版(前掲『新訂東海道名所図会上』p246~p247)を元絵としており、また狂歌入り版でも、視点を空中においてほぼ同様の店先風景を写しています。同名所図会、保永堂版(構想図)、狂歌入り版(実景図)のいずれもほとんど同じ定番の情景ですが、その理由は、姥が餅屋がいずれの作品においても、強力なスポンサーになっていると考えれば不思議ではありません。

 なお、荷を背負う馬の左側に、先導者と2人の瞽女が店から出てくる姿が描かれており、保永堂版「二川」の「名物かしは餅」を買い求める瞽女一行と同じ趣向と分かります。姥が餅については、近江源氏(六角氏)に連なる人物あるいは由緒ある家柄の幼児を、乳母が密かに養育するために売り出した餅に始まると言われています。前掲名所図会(p246)の図版には、「春風の吹くにつけてもあがれ/\ さたうをかけて姥がもちやくちや」とあるので、甘い餅であったと推測できます。ちなみに、室町時代後期の連歌師宗長が「武士(もののふ)のやばせの船は早くとも いそがば廻れ瀬田の長橋」と詠んだことから、「急がば回れ」という言葉が生まれたそうです。


 狂歌は、楽しい旅を重ね、春雨に芽吹く「草津」宿の草が旅の道案内(道芝)をしてくれるという程の意味で、春に絡めて「草津」の「草」と「道芝」の「芝」の縁語で遊んでいます。前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「草津」には、「湖水南北十九里東西八九里或は一里斗の所形琵琶に似たるゆゑびは湖といふなり」と記され、「矢橋」(矢橋の帰帆)、「のぢ」(野路の玉川)、「瀬田大橋」(瀬田の唐橋)など風光に優れる名所・歌枕の地が多く、確かに旅の道案内も必要でしょう。

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〈52〉東海道五拾三次 石部

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「都女の はらをかゝへて わらふめり はらみ村てふ こゝの名どころ 頭巾亭鈴掛」

 狂歌入り版の「水口」「石部」の両図は、保永堂版の「旅人留女」を描く「御油」、「旅舎招婦ノ圖」を描く「赤阪」に対応しているように感じられます。とすると、狂歌入り版「石部」において、近景の部屋で按摩に肩を揉ませ寛ぐ男の前で手を突く女は遊女(飯盛女)でしょうか。頭に多くの飾りを付け、大きな帯を締める姿は芸者風に見えます。若い女であることは確かです。左奥の部屋では、2人の男が内風呂を使っており、「火の用心」の注意書きが見えています。庭には梅と椿の花が咲いています。この季節ならば、本来は障子は閉められているはずですが、旅人達の様子を伝えるため、描法として開いています。

 「京発ち石部泊まり」という言葉があるように、京都を発った旅人の1泊目が石部宿であることから選ばれた画題と思われます。くわえて、この宿が、人形浄瑠璃・歌舞伎『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』(お半・長右衛門)や『恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)』(重の井の子別れ)などの舞台であったことから推測すると、近景の若い女と中年男との出会いの場面は、京都信濃屋の娘・お半と呉服商帯屋・長右衛門の見立てと読み解けます。『東海道名所圖會 巻の二』「目川」の図版(前掲『新訂東海道名所図会上』p253)を写す、保永堂版よりも構想的です。なお、お半と長右衛門はこの石部で同衾し、お半は妊娠して桂川での心中事件へと発展します。

 石部の西側、立場「梅の木」と「目川」の間に、「てはらみ」(手孕・手原)という地名があります(前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「石部」)。狂歌は、「はらをかゝへて」と「はらみ村」との地口を楽しみ、京都と石部を舞台としたお半・長右衛門を前提に、「都女」が「こゝの名どころ」(石部の名所)である「はらみ村」でお半が「孕む」のもむべなりと笑うだろうと詠んだのです。石部はらみ村に行けば、それは孕むでしょう(笑い)という訳です。

*「てはらみ」から「ほぶくろ」に向かう辺りで、近江富士「三上山見ゆる」となります(前掲図鑑参照)。

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〈51〉東海道五拾三次 水口

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「四つ五つ ふればあがると 子供等が みな口/\に いひてあそべり 梅花堂煉方」

 水口の旅籠街を描く作品で、箱根峠と並ぶ難路鈴鹿峠(雨の土山)を無事越えてきた安堵感を表現する1枚と思われます。絵に写された状況は、夕暮れ時の旅人と留女の賑やかな攻防戦で、旅人が旅籠の前を通り過ぎることは峠越えよりも難しそうです。水口には「水口石」(力石)という大石があって、「大井子」という怪力の女が動かしたという伝説があります(歌川国芳『東海道五十三對』「水口」参照)。これを踏まえると、留女が旅人を捕まえて旅籠に引き入れることは簡単なことです。水口の伝統芸(?)と言えましょう。画中左端に町役人が御用提灯を持つ姿があるのは、公用の客を迎える準備です。留女の動とは対照的な静を表しています。

 広重が旅籠や茶屋を大きく描く場合、大抵、仙女香(スポンサー)、版元、広重自身などの宣伝が入っています。本作品にも、左の2階屋には「歌川や」、右の旅籠には「さの屋」(佐野㐂)とあることに気付きます。もちろん、絵師と版元の宣伝であることは間違いありませんが、その宣伝の対象は狂歌入り版シリーズそのものです。箱根峠を越えて雪の三島から新シーズンが始まったように、鈴鹿峠を越えて水口の旅籠で一休みして、いよいよ最終シーズンに向かうという雰囲気を感じます。なお、水口から京都まであと1日程度の道程です。狂歌はこの事実を念頭に、東海道を双六に見立て、あと駒を4つ、5つ進めれば上がり、京都に到着すると双六に興ずる子供達がみな口々に言っているという分かりやすい内容です。「みな口」は「水口」の地口です。

 これに対して、保永堂版は副題「名物干瓢」として、水口城主加藤家が下野から持ち込んだ干瓢の製法を描いています。『東海道名所圖會 巻の二』(前掲『新訂東海道名所図会上』p271)には、「名物は葛籠(つづら)細工の店多し」、前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「水口」には、「きせる 藤こり どせう」、「しらきく 名酒」とあり、なぜ広重は干瓢を選んだのか不思議です。保永堂版は構想図という観点に立ち返れば、干瓢の細長い皮の連なりを東海道の宿場の繋がりと見立てているようにも感じます。とすると、綴ってきた東海道シリーズも、干瓢に掛けてもう少しで終わる(完)という感慨が伝わってきます。

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〈50〉東海道五拾三次 𡈽山 鈴鹿山之圖

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「急ぐとも 心してゆけ すべりなば あと戻りせん 雨の土山 柴の門茶女」

  保永堂版「𡈽山」は副題「春之雨」が示すように降雨の景色ですが、これについては、『鈴鹿馬子唄』の「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」を意識したものであると言われることが多いようです。この観点からすると、狂歌入り版には雨の土山とそうでない作品がありますが、雨の土山の方が自然であるということになりそうです。しかし、狂歌入り版には「鈴鹿山之圖」という書き入れがあることに注意しながら、もう一度、鈴鹿馬子唄を読み直してみると、坂(下)は晴れ、鈴鹿(峠)は曇り、(坂下に相対するあるいはかつての間・あいの宿)土山は雨と唄っているので、鈴鹿峠は曇りでよいと気付きます。つまり、鈴鹿峠では土山の雨を前提に雨具を身に付ける旅人の姿および曇天を表す墨色の一文字暈かしで十分であるという訳です。その場合、狂歌入り版・雨の土山は、保永堂版・雨の土山の人気に推された後摺りと見ることになりましょう。雨の土山の方が、確かに売れそうです。

 『東海道名所圖會 巻の二』(前掲『新訂東海道名所図会上』p288)によれば、沢村の立場入口が、「近勢(近江・伊勢)国堺」とあり、前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「坂下」には、坂下の西方に「上り坂八丁廿七曲」の急坂、「立バさは」、「いせ近江の界」があり、そこを過ぎると「かにか坂」の下り坂になるとあるので、狂歌入り版はこの国境辺りの様子と推測できます。茶色の合羽姿の2人は雨の土山からやって来た旅人、その後ろの青色の合羽と簔姿の旅人は雨の土山に向かう旅人と考えられます。茅(藁)葺きの屋根は、峠の茶屋でしょうか。前掲「阪之下」と同様、構図は西洋遠近法、タッチは漢画風「米点(べいてん)」(米法山水)を駆使した作品です。ちなみに、保永堂版は構想図なので、土山に雨が降るのは、画中に描かれている坂上田村麻呂を祀った田村神社の神威がなせる業と理解できます。前掲名所図会(p286~p287)の図版中に、鈴鹿の鬼退治に際し、「千の矢さきが雨となり 酒ともなりて鬼殺しなり」と書き入れられています。


 狂歌は、旅を急いでいても落ち着いて行こう、足が滑るならば後戻りしよう、雨の土山では、という旅の注意喚起となっています。箱根峠に匹敵する難路と言われる所以です。

*上記浮世絵画像は、上図が慶応大学メディアセンター、下図が国立国会図書館デジタルコレクションのものです。

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〈49〉東海道五拾三次 阪之下 筆捨山之圖

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「すゞか山 ふる双六は たび人の さきへ/\と いそぐ驛路 森風亭波都賀」

 「筆捨山之圖」という書き入れがあり、関から坂下に向かう途中にある筆捨山が画題であることが分かります。保永堂版は、『東海道名所圖會 巻の二』の図版(前掲『新訂東海道名所図会上』p298~p299)を写した感がありますが、狂歌入り版は、墨の点を打ち重ねる「米点(べいてん)」(米法山水)を使いながら、より簡略的に実景を表現しているということができます。同名所図会(p293)に、鈴鹿川は「幾瀬もあるゆえ八十瀬の名あり」と、また同名所図会(p295)に、筆捨山は「麓に八十瀬川を帯びて、山頭まで所々に巌あり。その間々(あいあい)みな古松にして、枝葉屈曲にして作り松のごとし。本名は岩根山という」と記されています。したがって画中に見える川は八十瀬川です。関から坂下に進むという視点では、関の西方に「大黒石・蛭子石・観音岩・女夫岩」や「転石」などの奇岩が続き、さらにその西側に筆捨山が見えることになります。

 室町時代後期、狩野派に新しい作風を完成した狩野元信が東国に下る途中、天候の激しい変化に山を描く筆を捨てたという故事から、筆捨山という名が付いたと言われています(前掲名所図会p295参照)。筆捨山の方を指差す俳諧(狂歌)師は、こんな故事を話しているのかもしれません。遠景に描かれているのが伊勢国と近江国との境界をなす鈴鹿山でしょうか。

 また坂下は絵だけでなく、鈴鹿川、鈴鹿山、鈴鹿の関などを題材として、多くの歌が詠まれている歌枕の地でもあります。たとえば、広重『東海道風景図会』「坂の下」には、藤原俊成(新勅撰)の和歌「降そめていく日(か)に成りぬすゝか川 八十瀬もしらぬ五月雨の頃」が掲載されています。注目点は、「降る(ふる)」と「鈴(すず)」という縁語関係です。狂歌入り版の狂歌にも、「すゞか山」と「ふる双六」という言葉があって、鈴を振るという縁語を用い、古代律令時代の旅の合図である駅鈴を想起させています。そして、最後の「駅路」に繋がるという訳です。つまり、鈴鹿山に至り、旅の駅鈴が促し、上がりを目指し賽子を振る双六遊びのように、旅人は駅路を先へ先へと急ぐという程の意味になります。実際、鈴鹿を越えれば近江国に入り、もう少しで、上がりの京都に至ります。

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〈48〉東海道五拾三次 関

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「くゞつめに 引とめられて 定宿の 言訳くらき 関の旅人 森の屋御影」

 保永堂版「關」が副題「本陣早立」なので、狂歌入り版も同様に本陣早立を描いていると見る解説も少なくないのですが、駕籠に同行する武士一行が一文字笠を脱いでいること、行列の先頭に立つ槍持ちと挟み箱担ぎが後ろに控えていることを勘案すると、駕籠が本陣に到着し、迎えの武士や宿役人が待ち受けている様子を描いているものと解されます。幔幕を広重を意味する「ヒ」と「ロ」を組み合わせた紋で飾るのは、保永堂版で広重の父の実家「田中」を意匠する紋を付けた仕掛けと同じユーモアです。

 関宿は、愛発(あらち)・不破とともに、古代3関の1つ鈴鹿の関の置かれた場所で、名前もそこに由来しています。また、宿場の東には伊勢街道との分岐があり、西には大和街道との分岐があって、それぞれ、東の追分、西の追分と呼ばれており、交通の要所に発展した宿場であることが重要です。それ故、繁栄する宿場を表現する観点から、保永堂版・狂歌入り版ともに宿場を代表する本陣を描いているのです。関宿では、川北本陣と伊東本陣が道を挟んで向かい合っており、保永堂版の方は川北本陣、とすると狂歌入り版は伊東本陣かと解説されることが多いのですが、広重の意図は、保永堂版で『東海道名所圖會』などを参考に構想した本陣を狂歌入り版で実景表現の本陣に描き直して、取材的根拠を事後的に補完するつもりであったのではと思われます(アリバイ作り説)。つまり、狂歌入り版が伊東本陣とは限りません。

 関には東西に追分があるだけでなく、隣の亀山が堅苦しい武家の城下町であったことから、宿場として相当の繁昌を見せ、「関は千軒、女郎屋は估券 女郎屋なくして関たたん」と歌われる程、多くの飯盛女がいました。「くゞつめ」(遊女)が目的で関を定宿とする旅人の後ろめたい気持ちを詠ったのが、本狂歌です。絵(武士)と狂歌(遊女)の見事な棲み分けです。

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〈47〉東海道五拾三次 亀山

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「さえぎりて 長閑に見ゆる 亀山の 松に羽をのす 靍の一こゑ 三巴亭静山」

 亀山宿は地理的制約があって、亀山城下の武家町がまた東海道の宿場の機能も兼ねているという特殊な構造をしています。したがって、街道の大木戸である、宿場東の江戸口と西の京口が城を防御する門の役目を担っており、狂歌入り版・保永堂版ともにこの西側の大木戸を描いています。その左側背後に多聞櫓があり、背景の山影との対比が美しく感じられます。城の本丸は、両木戸の中央辺り、東西に走る東海道の北側にあって、そこから大手門を経て行くことができます。本作品を見れば分かるとおり、一般庶民が門を潜り抜けているので、城の門ではなく、大木戸の出入口であることが確認できます。東の江戸口の方は、街道の両側に家屋が建ち並ぶ情景となっており、本図はやはり京口です。白壁の美しい城で、粉蝶城とも呼ばれていました。

 亀山宿は、城の美しさの他に、庶民には「亀山の仇討ち」で有名です。これは、赤堀源五右衛門(水右衛門)に父石井宇右衛門と兄三之丞を殺された石井半蔵・源蔵兄弟が、元禄14年(1701)、亀山城下で仇を討った事件です。それを受けて、人形浄瑠璃・歌舞伎に「亀山の仇討物」と呼ばれる演目が数多く作られ、浮世絵にも受け継がれています(歌川広重『東海道五十三對』「亀山」、三代豊国・広重『雙筆五十三次』「亀山」参照)。それ故、亀山を描く保永堂版が副題「雪晴」の景色を写しているのも、仇討ち成就の目出度さを雪晴に仮託しているからだと思われます。『仮名手本忠臣蔵』においても、主君の仇討ちに成功した義士達は雪晴の中を帰路に就きます。とは言え、狂歌入り版の絵には松並木の坂を上る旅人の様子はあるものの、特段吉祥の地であるという雰囲気はありません。となると、狂歌がどうなっているかが気になるところです。

 「松に羽をのす靍」という言葉において、松で羽を伸ばす鶴を詠むのですから、松に鶴という縁起の良い組み合わせが発見できます。もちろん、第一義は松に囲まれた亀山城を松の上の鶴に例えているのでしょうが、その根底には、そもそも亀山が仇討ち成就の吉祥地であるという感情があるように思われます。発句の「さえぎりて」の意味に関しては、長閑に見える亀山の松で羽を伸ばす鶴が、静寂を遮って一声鳴くと読み解きたいところです。

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〈46〉東海道五拾三次 庄野

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「宿入に それとしらせて 名物の まづかうばしく 見ゆる焼米 浦廼門觀湖」

 近景に4人の駕籠舁きが、遠景に2人の早飛脚が一里塚脇の東海道を慌ただしく駆け抜けていく様子が描かれています。おそらく、近景の駕籠は前掲「石薬師」の問屋場前から出発したものだと思われます。駕籠の左背後に描かれる3人の百姓を子細に見ると、内2人が背中に薦筵(こもむしろ)を着けており、また空に灰色の雲が流れているので、雨が降った直後なのかもしれません(嶋田・前掲『広重のカメラ眼』p306)。街道を走る人足達が足早なのも、その雨も手伝ってのことでしょう。つまり、狂歌入り版は、同じく庄野を描く保永堂版副題「白雨」の直後を写していると考えられます。保永堂版は名図の誉れが高いのですが、他方、場所も特定できない想像図とされることもあるのに対して、広重は実景からの構想図であるとのアリバイ作りをしたものと思われます。左背後の丘陵の麓に民家があって、その後ろに竹林があるとするならば、狂歌入り版は明らかに保永堂版を事後的に実景表現した作品と言えます。

 伊勢参りの道筋から離れるためか、庄野自体は小さな宿場ですが、当時、日本武尊の陵(みささぎ)・白鳥(しらとり)塚やその他尊に関連するいくつかの塚があると信じられており、『東海道名所圖會 巻の二』(前掲『新訂東海道名所図会上』p313)にも、「このほとり『日本紀』に見えたる能褒野(のぼの)なり」とあります。したがってこれらの点を勘案すれば、庄野に降る白雨は、日本武尊(白鳥塚)の存在を暗示する神威と見るべきでしょう(本講座34、二川の岩屋観音の雨)。言い換えれば、尊の雨に祟られた様子が表現されているということです。それに付合するように、狂歌入り版の左背後に灰色の丘陵として、高宮村にあった白鳥塚の一部が描かれています。

 狂歌は絵とは全く趣向を異にして、庄野名物「焼米」を話題にしています。前掲図会(p312)には、「この駅の名物は俵入の焼穀(やきこめ)を売るなり」と記されており、青い小俵に焼米を入れ、青い緒で強く締めた握り拳程の大きさのものです。鼓の一種である「倫子(りうご)」に似ているとあります(浅井了意『東海道名所記2』平凡社・東洋文庫・1979、p65)。狂歌は、庄野の宿に入ったところ、それとなく、焼米の香ばしい匂いがした状況を詠っています。なお、広重の絵にあった、青い田圃や薦筵姿も俵入りの焼米の布石と考えられなくもありません(本講座28、花筵)。

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〈45〉東海道五拾三次 石薬師 問屋場ノ圖

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「石薬師 瓦と黄金 まく人は 瑠璃の玉とも 光る旅宿 友垣真連」

 副題「問屋場ノ圖」とあるように、石薬師宿の中央西側にあった実際の問屋場を実景的に表現した作品です。保永堂版「藤枝」に副題「人馬継立」があって同じく問屋場が描かれていますが、狂歌入り版の方が熟(こな)れた構成になっています。御用提灯のぶら下がる問屋場内で荷物の発送を申し込み、それを受け付ける様子、外(左)で駕籠舁き、飛脚、馬方に指示し、人足が積み荷などの準備をする様子、外(右)で継立てを終えた人足や馬などがくつろぐ様子と、一連の仕事を紹介するような描き方となっています。杖衝坂を上り、石薬師宿で人馬継立てを行い、鈴鹿山麓の庄野宿に向かう実景的地理関係が想像できます。ところで、宿名石薬師は、宿場の南端東側にあった「高富山瑠璃光院石薬師寺」に由来します(『東海道名所圖會 巻の二』前掲『新訂東海道名所図会上』p317参照)。その石薬師寺が広重の絵に描かれていないということは、狂歌の方に委ねられているであろうと容易に推測できます。

 上記の視点で狂歌に目を転ずると、「瑠璃の玉とも光る」という言葉は、まさに「瑠璃光」院石薬師寺を受けているということが分かります。つまり、狂歌は、石薬師で、寺に瓦を寄進し、黄金を喜捨する人は、仏教の七宝の1つ瑠璃のように光っているという内容になります。さらに噛み砕けば、石薬師が瑠璃なのではなく、喜捨・寄進してくれる旅人が瑠璃であり、旅の宿で光り輝いているという諧謔的狂歌と理解できます。もう一歩を進めれば、石薬師寺に喜捨・寄進するよう旅人に勧めているのかもしれません。もしそうならば、狂歌を詠んだ友垣真連は石薬師寺関係者の可能性がありますね。

 ちなみに、保永堂版「藤枝」の方は構想図なので、「人馬継立」に込められた構想性を読み解く必要があります。すなわち、藤枝の宿場(熊谷直実縁の蓮生寺・地名おおぎ)が歌舞伎『扇屋熊谷』と重なることに気付けば、歌舞伎において平敦盛が扇屋の娘に入れ替わった経過を人・馬を取り替える「人馬継立」に掛けていると読み解くことができます。「人馬継立」自体は、石薬師を含めどこの宿場(問屋場)でも行われていることなので、それだけを以て藤枝宿を特徴づけるものとすることにはほとんど意味がありません。

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〈44〉東海道五拾三次 四日市

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「梅が香に 袖ふりあふて 泊り村 つえつき坂を のぼる旅人 緑庵松俊」

 四日市の宿場の手前(北側)を流れる三重(三瀧)川に架かる土橋を構図の中心に置いた作品です。したがって、橋の後方に描かれる家々が四日市宿に当たります。土橋の左方向に四日市湊および「那古海(なごのうみ)」が見えるはずです。おそらく、その風景を描いたのが、保永堂版「四日市」の副題「三重川」で、保永堂版は構想図なので、強風の様子を写し、「神風の国」伊勢を表現しているものと思われます。

 実景表現を基本とする狂歌入り版では、手前より柄杓を持つ抜参りの少年3人と、猿田彦(天狗)を背負う金比羅参り代参の男が橋を上り、対面するように伊勢参りの帰りと思われる女3人(母娘と付き人か?)と巡礼の一行が橋を渡って来ます。四日市の宿場、あるいはその三重川に架かる土橋を現世と宗教世界との結界地と看做した作品です。作品中の花は梅でしょうか、桜に見えますが…。ところで、宿場の先にある「日永の追分」で、左・伊勢参宮道、右・東海道とに分かれ、これこそが四日市宿最大の特徴なのですが、広重はその追分を描かず、橋を渡る人々の違いによってそれを暗示するに止めています(「広重あるある」)。

 狂歌は、「泊り村」と「つえつき坂をのぼる」という言葉によって、旅人が泊まり、杖を衝きながら坂を上る様子を詠み込み、同時に、「泊村」と日本武尊縁の「杖衝坂」という地名に掛けています(前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「四日市」参照)。狂歌を一読すると、梅の香りの初春に、旅人が袖を振り合い歩み、泊まり、その泊村から杖を衝きながら杖衝坂を上り、京に向かう様が素朴に詠まれていると感じます。ところが、泊村と杖衝坂の間に日永の追分があることに気付けば、その追分には触れないながら、追分で京への道を選択したことが分かる狂歌構成です。狂歌入り版「蒲原」の狂歌(本講座16)と共通の趣があります。

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〈43〉東海道五拾三次 桒名 富田立場之圖

Kyokairit42
「乗り合の ちいが雀の はなしには やき蛤も 舌をかくせり 楳の門鬼丸」

 神風の、美(うま)しの、伊勢国に入ります。狂歌入り版には、「富田立場之圖」という副題が付いています。前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「桑名」によれば、宿場の南西方向の、「町屋川」、「砂川」、「ほし川」、「朝明川」などいくつかの川を渡った先に、「西冨田」、「立ハ東とみた」があり、「焼蛤ならつけ香物もちふく」などが名産物として紹介されています。木曽川・長良川・揖斐川の河口デルタに発展した桑名湊より、四日市に近い場所と言えます。旅人や駕籠舁き達が「名物焼はまぐり」と書いた看板の掛かる茶屋街で休憩する様子です。前掲『東海道中膝栗毛 五編上』(岩波文庫p16)にも、「爰はことに燒はまぐりのめいぶつ、兩側に茶屋軒をならべ、往來を呼びたる聲にひかれて、茶屋に立寄」と記されています。旅籠や茶屋を描く際にはスポンサーの宣伝があることが多いのですが、本作品でも、「京橋仙女香」の看板が掛けられています。保永堂版に見られるように、通例は桑名湊のランドマーク桑名城と帆を張った廻船を描くのですが、狂歌入り版は例外的表現です。その実景的描写を楽しむとするならば、左端で蛤を焼く女の太鼓帯が京舞妓風で、店先を歩く男や向かい側の男達が見ているのが焼蛤なのか、それともその女なのか曖昧なところが面白いと言えましょう(嶋田・前掲『広重のカメラ眼』p288)。

 狂歌に話を進めると、「乗り合の」とあって、宮から桑名の海上七里の乗合船での状況であることが分かります。広重が、本作品で海上の渡船や湊の桑名城を描いていない理由もこれで理解できます。やはり、狂歌と浮世絵の棲み分けがあって、しかも、狂歌の方が優先されているように感じられます。「ちいが雀の はなしには」とは、チイチイ鳴く雀の話という意味の他に、これを「知音(ちいん)」、すなわち親友の、「雀のはなし」、すなわちお喋りと例えていると考えられます。乗合船でまるで雀が鳴くような同行の友のお喋りに、桑名の焼蛤も舌を巻く程であると詠ったものです。伊勢、熱田を参詣する客達が船中で打解け、和気靄々と話に花を咲かせる様子が目に浮かびます。また、中国の諺「雀入大水為蛤」を下敷きにしているとすれば、雀と蛤とが対になっており、また、諺の季節は晩秋なので桑名名物「時雨(しぐれ)蛤」の季節感と一致することも確認できます。時雨は晩秋降る雨だからです。さらに、ここで「舌切り雀」の噺を思い起こすと、ぱっくり貝(口)を開いた焼蛤が「舌をかくせり」というのも頷けます。

*知音(ちいん):中国春秋時代、琴の名人伯牙は親友鍾子期が亡くなると、自分の琴の音を理解する者はいないと愛用の琴の糸を切り再び弾じなかったという故事から、親友の意味。

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〈42〉東海道五拾三次 宮

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「わたつみを 守れる神の みやの舩 なみぢゆたかに こぎかへるみゆ 松の屋満俊」

 狂歌入り版は、熱田神宮の浜鳥居を中心に桑名へ渡る「七里の渡し」の渡船場(熱田湊)を描くものです。保永堂版副題「熱田神事」の鳥居が明神鳥居であるのに対して、狂歌入り版が神明鳥居であるのは、前者が神前の鳥居であり、後者が浜鳥居であるという場所の違いの他、実景に基づく狂歌入り版において保永堂版の誤りを修正したという事実もあります。当時、鳥居は全て神明形式だったからです。浜鳥居の背後の湊には停泊する船、海上には帆を上げる船が描かれています。狂歌入り版の左側に建つ矢倉は、尾張藩の東御殿の一部で、前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「宮」には、「名古屋の御城六十一万九千石 尾張殿なごやの丁一里半」とあって、名古屋が東海道の宿場ではないことが分かります。また、続いて同図鑑には、「風の気遣あらば潟田へ乗るべし」、「悪風ならば佐屋へ廻るべし」と記されており、そうそう簡単な海路でなかったことが想像されます。

 『東海道名所圖會 巻の三』(前掲『新訂東海道名所図会中』p18以下)には、宮は熱田宮の略訓なりとして、「熱田太神宮」の祭神五座に「天照太神、素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命(みやすひめのみこと)(日本武尊皇妃)、建稲種命(たていなたねのみこと)(宮簀媛命の御兄、尾張姓、熱田神宮大宮司の祖神なり)」を挙げています。日本武尊の東征を助けた、「草薙宝剣」が御神体として祀られていることはよく知られていますが、狂歌との関連で重要なのは、熱田神宮大宮司が尾張氏である点です。尾張氏は、津守(つもり)氏(大坂「住吉大社」)や海部(あまべ)氏(丹後「籠神社」)と同族で、日本を代表する海神(わたつみ)族なのです。したがって、「わたつみを 守れる神の みや(の舩)」、つまり、「海を守る神の宮である熱田(の舩)」で狂歌が始まるということになっているのです。その船が波路豊かに往復し帰ってくるのを見るというのですから、熱田湊とその宿場の繁栄を願っての狂歌であることが分かります。

 ちなみに、保永堂版副題「熱田神事」は、尾張、西三河で行われた代表的祭礼習俗「馬の塔(おまんとう)」を題材にし、神社へ献馬する夕景を写しています。しかしながら、海神としての熱田の宮の本質からすると、いささか周辺部分の話題を拾った感があります。

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〈41〉東海道五拾三次 鳴海

Kyokairit40
「たがぬひし 梅の笠寺 春さめに 旅うぐひすの 着てや行らん 果報坊寝待」

 本作品から、尾張国に入ります。『東海道名所圖會 巻の三』(前掲『新訂東海道名所図会中』p58)によれば、「鳴海」は、「むかしは鳴海潟を見わたし、浜づたいに、宮より鳴海まで往来しけるなり」とあって、まさに海鳴りが聞こえた宿場であったことが想像できます。狂歌入り版と保永堂版とはおそらく同じ店舗辺りを描いていると思われます。手前の店舗は寄棟(よせむね)造りの桟(さん)瓦葺きで、2階には黄色の塗籠(ぬりごめ)の連子(れんじ)窓が付いており、その隣の店舗は白壁造りで、2階には白色の塗籠の連子窓が付いています。狂歌入り版の方がより実景性が高く、右側近景に崖上の法面が見えており、海に近い鳴海の状況ではないことが分かります。鳴海宿の東1里にあった「有松」の町並みだからです。それ故、保永堂版には「名物有松絞」という副題が付いています。同名所図会(p63)には、「名産有松絞」とあって、「細き木綿を風流に絞りて、紅藍(くれあい)に染めて商うなり。この市店十余軒あり」と記されています。つまり、広重は、東海道沿いにあった、括り染めの一種である有松絞の店舗を描いたという訳です。なお、手前が京都方向に当たります。

 狂歌にある「梅の笠寺」は、前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「鳴海」を見ると、宿場を出て、天白川に架かる「でんばく橋」を渡った所に、「立ハ笠寺村」、「笠寺くわんをん」とあります。前掲名所図会(p57以下)によると、正式名称は「天林山笠覆寺(てんりんざんりゅうふくじ)」と言い、「本尊十一面観音」です。さらに、「あるとき一村雨来たりて、霊像たちまち雨水に浸す。かの侍女これを悲しみ、みずから被(かず)く菅(すげ)の笠を着せまいらせけり」と続き、「この由縁によって、本尊は今において笠を被きたまうゆえ、世人笠寺という」と記されています。結局、この侍女は高貴な人と結婚する観音霊験譚なのですが、この伝説を前提に狂歌を読み解くと、梅の花咲く笠寺にやって来た鶯が、春雨の中、梅の花笠を着て旅に行くのだろうよという意味になります。「梅の笠寺」は、「梅の笠」と「笠寺」を掛けるものです。和歌などでは、しばしば、梅の花は鶯の笠に見立てられます。ところで、初句の「たがぬひし」は、「誰が縫ひし」と解すれば、誰が縫ったのだろうか、梅の花笠を着けてとなり、狂歌内容は一貫します。絵は有松絞、狂歌は被衣(笠)で、衣繋がりの作品です。ちなみに、笠を縫うとか、笠を着るという言葉は現代の語感とは違いますが、笠を身分の高い人が顔を隠す被衣と同一視していると考えれば、納得できるのではないでしょうか。

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〈40〉東海道五拾三次 池鯉鮒

Kyokairit39
「春風に 池の氷の とけそめて 刎出る鯉や 鮒も花なる 狂歌亭真似言」

 保永堂版「藤川」に描かれていた八朔御馬進献の一行をやや砕けた感じで写しています。見附はありませんが、榜示杭と関札があり、「池鯉鮒」(知立)の宿場の東口に到着した様子です。おそらく、岡崎宿の引率者が池鯉鮒の宿役人に到着の挨拶をしているところで、その後、一行は宿役人の案内で本陣に向かうのかもしれません。広重が旅籠や茶屋を大きく描く場合、スポンサーや版元の宣伝をすることが多く(「鞠子」参照)、本作品にも仙女香の文字や浮世絵が見つかります。狂歌入り版「池鯉鮒」が八朔御馬進献の儀を描いた目的は、保永堂版とは事情が異なります。保永堂版は構想図なのでその構想の意味が重要ですが(本講座38の解説参照)、狂歌入り版は実景表現なので一行の旅の状況を読み解くことが大切です。すなわち、一行は、杜若(かきつばた)で有名な「八橋」への分岐道と保永堂版「池鯉鮒」に描かれた「首夏馬市」の野原を過ぎて到着しており、このまま宿場内を進むならば、西口にあった「知立神社」に至ることが想像できます。なお、池鯉鮒は馬市や談合松など馬に縁のある宿場なので、八朔御馬進献の図は、藤川より池鯉鮒の方が題材に適っていると思われます。

 前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「池鯉鮒」によれば、「ちりう大明神」について、「神前の御洗に鯉鮒多きゆへ所の名とせしとぞ」とあり、また偶然かもしれませんが、本作品の表題「池鯉鮒」が横書きにされていることを勘案すると、広重は宿場名そのものに興味を絞ることとし、その他は省略してしまったようです(「広重あるある」)。そして、狂歌は、春風に知立神社の池の氷が溶け始め、飛び刎ねる鯉や鮒も春咲く花と同じであると詠っています。言うまでもなく、池の鯉と鮒で池鯉鮒を詠み込んでいます。前掲『五種競演』(p246)は、紀友則の和歌の本歌取りと述べていますが、それよりは、知立神社のお神籤(みくじ)仕立てではないかと考えています。春の訪れに錦の鯉と鮒の花が咲くのですから、これは「吉」でしょう。

*実際の神社のお神籤には、以下のようなものがあります。すなわち、第二十八番 小吉「春風に池の氷も とけはてゝ のどけき花のかげぞうつれる」(女子道社)と。なお、「狂歌亭真似言」も意味深です。

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〈39〉東海道五拾三次 岡崎 矢はぎのはし

Kyokairit38
「宿毎に 夕化粧して 客をまつ こころもせはし ぢよ/\のぢよん女郎 千歳松彦」

 岡崎宿と言えば、徳川家康出生の岡崎城と東海道随一の長橋矢作(矢矧)橋が定番の構図です。『東海道名所圖會 巻の三』(前掲『新訂東海道名所図会中』p100)には、「岡崎の城、旧名竜(たつ)ガ城という。…城下の町員(かず)およそ六十余町二十七曲という。当国都会の地にして、商人多く繁昌のところなり」とあり、また同図会(p96)には、矢作橋は「矢矯川に架す。長さ二百八間、高欄頭巾金物、橋杭七十柱、東海第一の長橋なり」とあります。「五万石でも岡崎様は、城の下まで舟がつく」と謡われるように、城下町でありながら、矢作川の舟運を利用して東海道でも駿府に次いで賑わう商都でもありました。狂歌入り版では、橋下から橋と城を見上げる視点で、橋の東側半分に乗尻馬の武士一行を先頭に、多くの旅人が描かれています。背後に描かれる山並みは、実際より高さを強調して描く広重を前提にすると(前掲「舞坂」等参照)、三河富士とも呼ばれた村積山(標高256.9m)ではないかと思われます。富士を遠望できる、日本橋の景色をなぞっているように感じられるからです。

 狂歌には「宿毎に」とありますが、『宿村大概帳』(1843)からは旅籠屋112軒の繁華の町であることが分かります。それ故、前掲図会に「岡崎女郎衆と、小歌にも諷(うた)えば」と記されるように花街も発展し、その帰結として、岡崎女郎衆が夕化粧していそいそと客を待つ情景が狂歌に詠われることになります。ところで、江戸時代、三味線稽古あるいは獅子舞の曲として『岡崎女郎衆』が流行り、「〽岡崎女郎衆、岡崎女郎衆、岡崎女郎衆は、良い女郎衆」と歌われました(童謡「うさぎうさぎ」と似たメロディー)。この三味線の音を変換し、「ぢよ/\のぢよん女郎(ぢょろ)」と表現しつつ、「(岡崎)女郎」に掛けたのが狂歌の結句となっているのです。三味線の音を狂歌にそのまま応用する発想を楽しむ狂歌です。(普通は「チン・トン・シャン」ですよね…。)

 前掲『東海道中膝栗毛 四編下』(岩波文庫p298)に、「三味せんの駒にうち乗歸るなり 岡崎ぢよろしゆ買に來ぬれば」という狂歌が掲載されています。これも、岡崎女郎衆と遊んだので、三味線の駒ならぬ(空尻)馬=駒に乗って帰っていると詠うものです。構図の整った広重作品からは全く想像ができない情景ですが、その反面、狂歌が名勝地岡崎における遊興の雰囲気を十分に伝えていると言うことができます。

*村積山は、『東海道分間延絵図第14巻』「岡崎~池鯉鮒」には「村住山」と表記され、持統天皇が「花園山」と命名したことで知られています。なお、背景の山を奥三河の段戸山(岡崎高校校歌参照)や三河の最高峰・本宮山とする見解がありますが、高さを強調する広重の描法には注意が必要です。

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〈38〉東海道五拾三次 藤川

Kyokairit37
「行過る 旅人とめて 宿引の 袖にまつはる ふぢ川の駅 常磐園繁躬」

 保永堂版副題「棒鼻ノ圖」の平らかな風景とは全く異なる、雪の降り積もる山間を描写する狂歌入り版です。実を言うと、保永堂版は藤川宿の東口を描いているのに対して、狂歌入り版はさらに東方にあった「山中」の里を写しています。山中の里は、南北朝時代から知られた古い宿場で、別名「宮路山」と呼ばれていました。『東海道名所圖會 巻の三』(前掲『新訂東海道名所図会中』p108)には、「宮路山を今はただ山中とのみいう。むかし持統天皇行幸(みゆき)ならせたまいて、頓宮(かりみや)ありしところなれば、宮路山というとなん」と記され、古歌「君があたり雲井に見つゝ宮路山」とあるように、空高き、山深き地というイメージがあります。広重は、その仮宮・歌枕の地を雪によって覆い、別世界の里として表現しています。次の宿場が徳川家康の出生地である岡崎であることを思案すると、ここで一旦居住まいを正すという意味合いもあるかもしれません。

 狂歌は、宿場を通り過ぎようとする旅人の袖を宿の留女が引っ張って纏わり付く様子を詠うものですが、留女が「袖にまつはる」だけでなく、「まつはる ふぢ」と繋げて、その掛け合いが巻き付く藤蔓のようだとも表現しています。静寂な雪の風景を描く浮世絵と嬌声が聞こえそうな日常景を詠み込む狂歌とは、真逆の内容です。これは、狂歌入り版シリーズ共通の棲み分けです。ただし、絵との関連に重心を置くと「袖にまつはる」のは「雪」と考えることも可能で、留女の客引きを纏わり付く雪に例えたと読み解くこともできます。もし狂歌が先にあって、その内容を受けて、広重は雪の降る峠越えの情景を選択したのだとすると、「雪の藤川」は狂歌から生まれたということになります。

 ところで、保永堂版副題「棒鼻ノ圖」がなぜ藤川を象徴する作品となるのかについて触れておきます。狂歌入り版が山中の里、別名宮路山を描いていること、「国初将軍家御手習いの御硯水」の「二村山(にそんさん)法蔵寺」がその山中にあること(前掲図会・p110)がヒントです。つまり、宮と家康に縁のある藤川宿であるので、家康が入府した8月1日を記念し、将軍が朝廷(宮)に馬を献上する八朔御馬進献の儀が棒鼻に描かれ、町役等が一行を迎え入れているのです。

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〈37〉東海道五拾三次 赤坂

Kyokairit36
「双六と ともにふり出す 髭奴 名を赤坂の 宿にとゞめて 鳴門静丸」

 赤坂宿東側の見附の情景です。御油と赤坂との16町(1.7km)の短い街道には美しい松並木が続き、画中の松はそれを彷彿とさせるものです。とは言え、目立つのは下枝打ちした杉の木立で、街道を左右に挟んで、門の役割を果たしているようです。明月に照らされる静かな宿場風景ですが、保永堂版の「御油」「赤阪」を見れば分かるとおり、激しく客引きをする「旅人留女」と化粧する「旅舎招婦ノ圖」が両宿場の実態です。つまり、この絵は、夕方から夜にかけての狂騒が収まり、寝静まった旅籠風景なのです。風景を真写することを本旨とする広重としては、狂歌入り版の表現の方が自然なのかもしれません。実景を離れた構想部分は狂歌に任せれば良いという点が、狂歌入り版の優れているところです。

 狂歌に「双六」が登場するのは久しぶりです(保土ヶ谷」「戸塚」等参照)。宿場「赤坂」と掛けて、日本橋を振り出した「髭奴」・別名「赤坂奴」と解いたのですが、狂歌の前提には大名双六があって、その一行に奴がいるので、「ともにふり出す」という句が使用されています。髭奴というのは、武家奴が男伊達として、奴頭(やっこあたま)、立髪、鬼髭などの風姿をしていたことに由来します。武家奉公人の中間(ちゅうげん) の俗称で、武士が出かける時の荷物持ちなどの雑務をこなし、参勤交代の時には大勢の奴が必要です。とくに「赤坂奴」と呼ばれるのは、赤坂八幡の祭礼を手助けし、江戸の呼び物、名物となったからと言われています。また、山の手の大名に雇われ、山の手奴とも呼ばれます。前掲『五種競演』(p228)は、「ふり出す」を賽子(さいころ)を振ると舞踊「奴振り」が掛けられていると読み解いています。さらに深読みするならば、奴振りをしているのは髭奴というよりは、赤坂の遊女(飯盛女)、つまり赤坂奴なのではないでしょうか。こちらの理解の方が、艶っぽい赤坂宿の風俗とも一致し、狂歌に情緒が生まれるのは確かです。

 前掲『東海道中膝栗毛 四編上』(岩波文庫p279)では、御油・赤坂間で弥次さんが喜多さんを狐と思い、後ろ手に縛り上げる事件が起こります。本作品の静謐な満月は、そこに明確な意図があるならば、狐が人を騙すかもしれない不思議な夜の予兆なのかもしれません。

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〈36〉東海道五拾三次 御油

Kyokairit35
「此ゆふべ 櫛やけづらむ 妹が髪 あげ油てふ 宿につく夜は 真米垣児春」

 堤に生える柳の大木の前に架かる橋を、長持を担ぐ3組の人足が渡る様子を描く作品です。橋の右側、街道脇に榜示杭が立っており、本作品でも東海道の追分地点を写し取ろうとする意図です。前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「御油」で確認すると、御油宿の東方にある(音羽)川に「まざいこばし」(御油橋)が架かり、そのさらに東側に「鳳来寺道」との追分があることが分かります。この道を「野口村」で右に折れると、浜松の茅場(かやんば)の追分に出る本坂越となります。なお、野口村から本野が原を経て豊川に至る旧道は「二見道」(本野原)と呼ばれ、『東海道名所圖會 巻の三』(前掲『新訂東海道名所図会中』p116)に、「北条平泰時本野原の道標にとて、柳を多く植えられたり」とあるので、本作品中央部の柳の大木もかつての歴史を語る記号と見ることもできます。

 橋を渡る人足達の長持には、御幣、扇子、紅白の飾りの付いた傘などが立てられており、何か慶事の品を運んでいると推測されます。おそらく、近在する八面明神、御油の北西にある豊川稲荷、あるいは吉田神社(6月15日天王祭)の祭事への奉納品ではないかと思われます。柳の葉から見て、夏祭りのはずです。人足の後ろにいる筵を体に巻き付けた男は、おこぼれを期待する乞食のユーモラスな姿でしょうか。

 「御油に赤坂吉田がなくば何のよしみで江戸通い」という戯れ歌があるように、狂歌は御油の女衆(遊女)を詠うものです。夕べに櫛で梳(くしげず)る、髪を梳(す)く女衆が、旅人が宿に着く夜頃には髪を上げているという意味です。女衆の出迎えを期待する旅人の心理を詠んでいます。なお、「あげ油」は、御油の語源である「天皇献上油」、すなわち宿場名「御油」と髪を「上げ」るとを掛けたものです。したがって、「あげ油てふ 宿につく夜は」は、御油宿に着く夜はという意味になります。前作品「吉田」における絵と狂歌の関係と同じように、絵の雰囲気と狂歌の内容に隔たりが感じられますが、この距離感が狂歌入り版の面白いところです。

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〈35〉東海道五拾三次 吉田

Kyokairit34
「もてなしは いかによし田の めし盛や しやくしづらでも うまくのむ酒 花垣市心」

 豊川の河畔にある吉田城とその豊川に架かる吉田橋を描く、吉田宿の典型的構図です。奥三河、熱田・伊勢との舟運の拠点として発展した湊町でもあります。したがって、筵を掛けた船が何艘も描かれているのは自然です。近景に描写される吉田橋は、矢矧橋、瀬田唐橋と並ぶ、東海道3大橋の1つで、前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「吉田」には、「長百廿間」(約216m)と記されています。東海道を江戸から上ってくると、最初の大橋ということになり、吉田宿のランドマークとして浮世絵の定番要素となります。

 ところで、橋上には、3人の盲人(座頭?)と2人の瞽女が擦れ違う様子が描かれており、この人物表現は気になります。嶋田・前掲書(p240)は、座頭の一行は琵琶法師と見ているようですが、琵琶と三味線を持って門付けする諸国遍歴の旅人がなぜ吉田橋の上にいるのでしょうか。保永堂版を始め、その他の広重作品では大名行列か武家の一行が描かれることが多いのですが…。大橋に大名行列を描くのは、安全な川越しと橋の長さを強調するのにちょうどよい題材という印象があります。同様に考えれば、盲人を橋上に描くのもやはり橋に関する何らかのメッセージがあるはずです。差別的な表現かもしれませんが、「盲人の川渡り」(北斎『北斎画譜』「盲人の川越」参照)という言葉があります。つまり、目の不自由な人が川を徒歩で渡るのが大変なことを揶揄する言葉です。逆に言えば、吉田橋のお陰で盲人も安全に川を越えることができるという含意があって、吉田橋をアピールする意図での表現かと思われます。前掲『東海道中膝栗毛 三編下』(岩波文庫p219以下参照)にも、座頭と弥次喜多との徒歩渡りを巡る事件が面白おかしく採り上げられています。

 話が吉田橋の方に流れてしまいましたが、旅人にとっては、吉田は大勢の遊女(飯盛女)がいて、旅籠の2階から遊女が鹿の子の着物の袖を振る宿場として有名でした。こちらを題材にしたのが狂歌で、飯盛女のもてなしが「よし田」(「良し」と「吉田」の掛詞)とし、多少「しやくしづら」(杓子面)でもうまい酒が飲めるという戯れ歌です。「めし盛」と「しやくしづら」は、「飯」と「杓子」という縁語繋がりです。ついでに、「酒」も繋がりましょうか。

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〈34〉東海道五拾三次 二川

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「女夫石 見るにつけても ふるさとは こひしかりけり ふた川の宿 東方垣真艶」

 二川より三河国です。狂歌入り版「雨の二川」は、保永堂版「雨の庄野」を彷彿とさせる図柄です。空に時鳥(ほととぎす)が舞い、夏の白雨を描いた作品で、急な雨に駕籠舁きなどが筵を被って茅葺きの茶屋に逃げ込もうとする様子やすでに旅人など先客がいる情景が描かれています。さて、本作品からどうやって二川宿の要素を見つけ出すかです。狂歌入り版は基本的には実景図であるという視点から出発すると、街道の切り株の右奥に榜示杭があり、その手前(茶屋の後ろ辺り)から左方向山側に道が続き、その先に鳥居があることに気付きます。前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「二川」と対照すると、二川の宿場の西方に「大岩村」があり、そこが「いわやくわんをん道」の追分になっていることが分かります。過去、度々、狂歌入り版では広重が東海道との追分を描写している事実を考えると、おそらく、本作品でも大岩の追分を描いたものと推測できます。

 『東海道名所圖會 巻の三』(前掲『新訂東海道名所図会中』p144~p145)によれば、山上にあった岩屋観音には、行基作の千手観音が祀られ、岩窟内外には石仏群が、堂の背後の岩山(亀岩)山頂には観音像が立っているとあります。また、前掲図鑑を見ると、猿が馬場から岩屋観音にかけて、「立岩」「鏡石」「尉と姥石」などの記載があって、この辺りが奇岩の名勝であったことも分かります。にも拘わらず、広重が白雨に隠しそれらの岩や石の1つも描いていない点に、逆に特別な意図を感じます。つまり、狂歌が岩(石)を題材にしているので、構想を邪魔しないよう、それを敢えて避けたということです。

 狂歌は「女夫石(めおといわ)」を詠うものですが、これは、おそらく、大岩の追分を越えた東海道「火打坂」の途中にあった「尉と姥石」(道祖神?)を指すものです(広重『東海道張交絵』「二川」参照)。「女夫」という言葉には、妻と夫の「二人」という含意があるので、「二川」の縁語となります。女夫石を見て、「こひしかりけり」は、故郷の妻を「恋し」く思うという意味が1つです。もう1つは、「女夫石」だけに故郷は「小石」であるという言葉遊びです。なお、本作品が白雨なのは、名石奇岩を雨で隠すという目的の他に、岩屋観音の追分であるので、水に縁する岩屋観音の雨を降らせているのです。その先に、水とは反対の火打坂があるにも拘わらずです…。

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〈33〉東海道五拾三次 白須賀 汐見阪ノ圖

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「人真似に 我も喰はなん 白須賀の さるが馬場の このかしは餅 繁廼門雛昌」

 白須賀の名所と言えば、狂歌入り版の副題にもなっている「汐見阪」です。白須賀宿は、元々は坂を形成する台地の下にありましたが、元禄年中(1688~1704)の津波によって流され、台地の上に移転しました(前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「白須賀」参照)。本作品では、左手後方薪を背負って登ってくる人が描かれている奥側が「元しらすか」、茶屋がある手前側が白須賀のある方向です。『東海道名所圖會 巻の三』(前掲『新訂東海道名所図会中』p149)には、「汐見坂 白菅の東の坂路をいう。眼下に滄海を見れば、汐見阪の名あり。いわゆる遠州七十五里の大灘(だいなん)、眸(まなじり)に遮り、弱水三万里の俤あり。渚の松は緑こまやかにして、沖にこぎつれる漁舟は、雲の浪にみえかくれ…」とあり、本作品はその景色を写したかのようです。

 さて、茶屋では子供を背負った女が湯を沸かし、旅人は名所の風光を楽しんでいます。その内、手前の縁台に腰掛けて顔を上げる旅人は、手元に何かを持っているように見えます。これが白い紙ならば、スケッチを撮っている広重かもしれませんし(嶋田・前掲書p229)、浮かんだ狂歌などを記している狂歌師なのかもしれません。いずれにしろ、作品を見る者を画中に引き込むアイコンであることは確かです。茶屋の後方に鳥居と幟、そして2つの祠が見えています。汐見坂の手前に観音坂があるので(須原茂兵衛等再刻『五海道中細見記』安政5年・1858参照)、道中安全を守る観音の祠なのかもしれません。

 狂歌は、単純に「さるが馬場」にある名物「かしは餅」を詠み込むものです。前掲図鑑を参照すると、白須賀宿の西側に遠江国と三河国の境をなす境川があって、その東側に「猿が馬場」が見つかります。その脇に、「名物かしはもち」と記されているので、狂歌はこれを詠ったということでしょう。前掲図会(p148)には、「左右原山にして、小松多し。風景の地なり」とあり、おそらく、保永堂版「二川」の「猿ケ馬場」の着想は同図会から来ていると思われます。しかし、狂歌は、「さるが馬場」の「かしは餅」は二川ではなく白須賀にあって、猿が馬場に引っ掛け、猿が人真似するように、私も、そして誰もが真似て食べたくなる地元名物だと強調しています。保永堂版がその典型ですが、猿が馬場の柏餅を二川で描くのは、白須賀の汐見坂の風景がどうしても外せない程の名所だからです。

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〈32〉東海道五拾三次 荒井

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「見渡せば 遠つあふみも なみたゝで 名にしあらゐの 関も戸ざゝず 朝霞亭波音」

 海上1里の船旅が終わり、船が着岸し、大名一行が幔幕の張られた荒井(新居)の関所に向かう様子が描かれています。「入鉄砲出女」の厳しい取調べが待っているので、絵に緊張感が漂っています。保永堂版で船中の中間達が居眠りや欠伸をしているのも、着岸後の緊張を予見し、それと対比的に表現しているからです。ここでの関所改めが終わると、冠木門を過ぎて荒井の宿に入って行くことになります。女改めの検閲が厳しく、女は上りも下りも関所手形が必要で(前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「荒井」には、「御関所上下旅人女切手(形)御改」の記述あり)、荒井の関所を嫌い、船渡しの危険や縁起の悪い言葉「今切」を避けたい女達は、浜松の茅場(かやんば)の追分から御油までの13里半の本坂越を歩きます。別名「姫街道」とも呼ばれる所以です。

 『東海道名所圖會 巻の三』(前掲『新訂東海道名所図会中』p165~p166)には、国号遠江は浜名湖(はまなのみずうみ)に基づき、琵琶湖のある近江を「ちかつあふみ」と言うのに対して、浜名湖のある遠江を「とほつあふみ」と呼ぶことに由来すると記されています。ちなみに、「あふみ」とは「淡海」の字を当て、淡水湖という意味です。しかし、洪水によって今切の地が生まれ、潮が入って浜名湖は淡水の湖ではなくなってしまいました。狂歌に「遠つあふみ」とあるのは、ここでは本来の意味での浜名湖それ自身のことを指しています。

 狂歌の内容は、見渡す浜名湖に波も立つことはなく静かで、「あらゐ」(「荒い」と「荒井」の掛詞)という名の関所の戸も閉ざすことなく開いているということです。「関も戸ざゝず」の意味は、船旅が良好で関所の改め時間(明け六つに開き暮六つに閉じる)に間に合うというよりは、関所の厳しい詮議もなく無事通過できるという趣旨ではないかと思われます。

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〈31〉東海道五拾三次 舞坂 今切舟渡

Kyokairit30
「揚雲雀 落る雲雀の 舞坂を 横に今切る 舟渡しかな 桃實園雛壽㐂」

 狂歌入り版には副題「今切舟渡」とあり、帆を張った船が浜名湖の今切を通過し舞坂の船着場に到着する様子を描いています。船中の旅人が武士一行ならば、石垣と石畳を敷き詰めた北雁木(きたがんげ)、一般庶民だと南雁木(みなみがんげ)が船着場になります。帆掛け船の背後の松原の岬のような部分は、弁天島の一部であり、さらに、その背後の山は浜名湖北岸にあった丘陵を写すものと考えられます。保永堂版には副題「今切真景」とあるのに、そこに描かれる黒い山は実際には存在しないと言われることがしばしばですが、実景描写を基本とする狂歌入り版にも写されているところからすると、舞坂からは少し離れた北部の丘陵や岩山を背景描写に利用しているのだと推測されます。

 『東海道名所圖會 巻の三』(前掲『新訂東海道名所図会中』p168)に、「今切 後土御門院御宇、明応八年六月十日(1499)。大地震して、湖と潮(しおうみ)とのあいだ切れて、海とひとつになりて入海となる。これを今切という」と記されています。さらに要約すれば、永正7年(1510)、元禄年中(1688~1704)にも、山崩れ、地震津波があって、遠州灘の波が直接浜名湖に入って海が荒れ、渡船の災いとなることから、宝永年中(1704~1711)に、今切の波頭に数万の杭が打たれ、舞坂から海中に波除けの堤が築かれ、風波を穏やかにして安全な船渡しができるようになったとあります。保永堂版の画中近景に描かれる杭が、まさにその波除けの杭です。狂歌入り版では、2艘の船の屋根に道中笠が置かれており、舞坂・荒井間のとてものどかな船渡し風景と分かります。

 狂歌には、「揚雲雀(あげひばり)」と「落る雲雀」とあって、春の穏やかな風情を語りつつ、上昇する雲雀と下降する雲雀とで縦の動きを見せています。しかし、その後の句で「今切」の地名を利用して、舞坂を横切る船渡しの様子を示し、横の動きを対比的に用いています。縦と横の視覚的動きを交錯させ、かつ想像させる狂歌です。前回「濱松」は音を想起させたのに対し、今回は雲雀の声の他に視覚的往復運動を想像させ、言葉遊びを超えた映像の技を感じさせる狂歌となっています。舞坂に春の雲雀が飛ぶ様を広重の絵に重ねると、深みのある新たな趣が作品から浮かび上がってきます。

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〈30〉東海道五拾三次 濱松

Kyokairit29
「春の日の あゆみもおそき あしたづの かすむすがたや ちよの濱まつ 紀廣持」

 東海道と城に向かう三叉路辺り、浜松城下を描いた作品です。旅籠の前で留女がかしましく客引きを行っている一方、江戸方向から来た旅人達が背を丸めトボトボ歩いている様子は目立ちます。年寄りの一行でしょうか。城の背後や城に繋がる道筋などに多くの松の大木が描かれているのと合わせて深読みをすれば、(浜)松と(寿)老人を掛けているのかもしれません。浜松は、徳川家康が岡崎から入り、駿府に移るまでの17年間(元亀元年~天正14年・1570~1586)在城した所であり、その繁栄の描写には広重の幕府御家人としての忖度を感じます。

 元々、「引馬(ひくま)」と呼ばれていた地域が浜松と呼ばれるようになった機縁は、まさに「颯々の松」(ざざんざのまつ)と呼ばれる松です。『東海道名所圖會 巻の三』(前掲『新訂東海道名所図会中』p194)には、「野口村の田圃の中に松林あり。…伝にいわく、足利義教(よしのり)公富士見に下向のとき、この松の下にて『浜松の音はざゞんざ』と諷い、酒宴したまうより名附け初(そ)めしなり」とあって、これを絵にしたのが保永堂版「濱松」副題「冬枯ノ圖」です。他方で、同図会(同掲書p182)は、「音羽松 海道の南、小沢渡(こさわわたり)村にあり。古松にして、枝地に垂れて、砂に這い、また立ち延びて、風流の名木なり。野口村のざゞんざの松を兄とし、こゝを弟として乙松(おとまつ)ともいう」とあって、その後の広重作品の「颯々の松」は後者の「音羽松」を描いています。おそらく、浜辺の松なので、浜松には音羽松の方が絵になるからでしょう。

 狂歌は、明けるのが遅い春の朝、浜の松に鶴が飛んで春霞に霞んでいるなあという程の意味です。旅の歩みも遅いのかもしれません。「あしたづ」は「朝」と「葦田鶴」(鶴の異名)が掛けられ、「ちよの濱まつ」は「千代の浜の松」と「浜松(宿)」が掛けられ、「(千年)鶴と千代の松」とで縁起の良い対語となっています。また、「ちよの濱まつ」とは、縁起言葉というだけでなく、ここでは「颯々の松」、とくに「音羽松」を指すものと考えられます。その理由は、「あしたづの」は「音(ね)になく」の枕詞なので、「音」羽松に「ざざんざとなく」と読み解けるからです。つまり、鶴の鳴き声に音羽松がざざんざとなき、浜辺の波音も重ねて聞こえてくる情景です。この狂歌は、鶴の声、松の葉音、波音など自然の音を詠み込んだ浜松宿賛歌です。

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〈29〉東海道五拾三次 見附 天龍川舟渡し

Kyokairit28
「むかしたり 初てこゝに ゆびさして 見附の宿の ふじのいたゞき 朝霞庵於㐂金」

 狂歌入り版「見附」には、「天龍川舟渡し」という副題が付いています。なぜなら、嘉永4年(1851)の前掲『東海道風景図会』に「天龍川は見付けより上一り半はかりに有」と記されるように、宿場から相当離れた所を天龍川が流れていたからです。同風景図会は、さらに、「川はゞ十丁斗。一ノせ二ノせの二りうとなる。是を大天龍、小天龍といふ。信州諏訪湖より出て、末は海にそゝぐ」と続けます。狂歌入り版が天龍川東岸・池田村側から西岸・中の町方向を望むものならば、乗懸の旅人と大天龍を高瀬舟を使って渡る人々の情景を描いていると言えます。また、小天龍は対岸の川岸を下る人々によって暗示されるに止まっていると考えられます。なお、天保13年(1842)の前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「見付」を見ると、中洲の東側を小天龍、西側を大天龍としていますが、「あばれ天龍」との異名があるとおり、洪水によって瀬の位置が頻繁に変わり、呼び名も時々に変わった証拠と見るべきでしょう。安政5年(1858)の『五海道中細見記解題』は同風景図会と同じです。

 宿場としては、「見附」の手前の「袋井」が江戸からも、京からも27番目で真ん中に当たります。これに対して、距離(60里)としては、前掲図鑑は、天龍川西岸の「中の町」が「京と江戸の真中と云」と記しています。いずれにしろ、旅人達は、天龍川の船渡しを終えてやっと旅の半分まで来たと感じたに違いありません。

 さて狂歌内容は、昔のことですが、初めてここに来て指差して富士の頂きを見付けたのが見附宿であるという由来を語るものです。『東海道名所圖會 巻の三』(前掲『新訂東海道名所図会中』p216)に、「富士山あらわに見ゆるゆえ見附台という」とあって、京より下った旅人が、ここで初めて富士山の雄姿を見付けたのが地名の元であると伝えています。狂歌はまさにその由来をそのまま歌にしたものです。天龍川からは富士山は見えず、見附宿に至ってようやく富士が見えることを前提として、広重は天龍川を描き、狂歌師は見附台(見附宿)を詠い、それぞれ役割分担していることが窺えます。この趣向の延長線上に、三代豊国・広重『雙筆五十三次』「見附 天龍川舩渡」(安政元年・1854)の美人の見返り図があります。

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〈28〉東海道五拾三次 袋井

Kyokairit27
「せんべいの やうな蒲団を きせられて 客のふくれる 袋井のやど 豊林堂鄙住」

 袋井は、東に掛川、西に見付の大きな宿場があったので、東海道を旅する者は主に休憩に利用したと言います。しかし、法多山(はったさん)・可睡斎(かすいさい)・油山寺(ゆさんじ) の遠州三山への追分宿として大勢の参詣客を迎えるという側面もありました。前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「袋井」に「東あらや」とあり、「可睡斎 油山やくし道」の記載があるので、今までの広重の手法を念頭におくと、宿場の手前のこの辺りが作画のポインになるのですが…。他方で、画中の右手に描かれる家々が袋井の宿場ならば、宿場の西側にある1軒の農家を基点にして、東海道とその松並木、敷地の杉などを写し、袋井を特徴づける丘に囲まれる田園風景を描写していると考えられます。

 農家の前では街道を使用して、男が筵(むしろ)に何かを干しており、また子守の女が大量の荷物を背負う馬を牽く馬方と話をしています。保永堂版は副題「出茶屋ノ圖」であり、西側の棒鼻辺りでやかんを掛けた竈(へっつい)からモクモクと煙が立つ滑稽な構図でした。これを茅葺きの農家に替えたことに特別な意図があるとするならば、やはり、筵に注目すべきではないでしょうか。なぜならば、『東海道名所圖會 巻の三』(前掲『新訂東海道名所図会中』p219)に、「名産花筵 沓部村の名物として、花筵を織りて諸国へ賣う」とあり、広重はこの農作業姿によって、袋井の名産花筵を暗示していると考えられるからです。

 狂歌は、せんべい蒲団に寝かされた宿泊客が不満顔でふくれる様子を詠い込むものですが、前掲「掛川」の狂歌の「吹」が「袋井」の頭韻を踏んでいることを思い起こすと、本狂歌の「ふくれる」がやはり次の「袋井のやど」と頭韻を踏んでいることに気付きます。また、あえて「せんべいのやうな蒲団」と表現するのは、「客のふくれる」と対立させるための技法です。つまり、薄いと厚いという対立表現です。さらに、深読みすれば、袋井の宿(やど)の蒲団がせんべいのようなのは、薄い筵が袋井の名産品だから仕方がないことなのかもしれません。

*前掲『東海道中膝栗毛 三編下』(岩波文庫p229)では、弥次さんは「こヽに来てゆきゝの腹やふくれけん されば布袋のふくろ井の茶屋」と興じています。同様な発想で、「ふく」という言葉に拘るならば、保永堂版の出茶屋も風が煙を吹く様を表現するもので、「(風、煙、火)吹く袋井」というユーモアと読み解くべきでしょう。

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〈27〉東海道五拾三次 掛川

Kyokairit26
「秋葉てふ 道の名あれど 春風は かけしくずぬの うらヽにぞ吹 鴟尾鳴陰」

 保永堂版「掛川」は橋の彼岸部分にあった秋葉道への追分を描かず、それを補うものとして、副題「秋葉山遠望」にあるように本来は見えないであろう秋葉山を画中に描き込むという方法で、掛川が秋葉山への入口にある宿場であるという特徴を示しています。これに対して、狂歌入り版は実景に即し、秋葉道の入口にあった鳥居と唐銅(からがね)製の灯籠を彼岸に描くという手法を選択しています。構想性が強い保永堂版と実景性が強い狂歌入り版との違いです。『東海道名所圖會 巻の四』(前掲『新訂東海道名所図会中』p232)には、「江戸の方より参詣するには、掛川の宿より北へ入って、森の宿へ赴き、一の瀬へ至る。…略…掛川より秋葉山まで九里半なり」と記されており、「秋葉山遠望」には相当な無理があります。なお、秋葉山には当山を鎮守する権現の社があって、火伏せの団扇を持つ天狗の姿(三尺房)としてよく知られています。保永堂版の扇子を持つ老僧は、この天狗見立てと考えられます。

 狂歌入り版は、掛川宿の西側にあった二瀬川に架かる橋を渡る六部の僧、勧進僧を写すとともに、秋葉道入口の鳥居の辺りに杖を持つ秋葉詣からの帰りの旅人をも描いて、掛川宿が秋葉山への追分であることを物語る構成です。もちろん、狂歌も発句で秋葉山(秋葉講)に触れるのですが、結句に向かっては春風に揺れる「くずぬの」(葛布)を登場させます。『東海道名所圖會 巻の四』(前掲『新訂東海道名所図会中』p236)に、「名産葛布 葛布を色々に染めて、呉服の市店に出す。多くは、鞠袴に用う。これ掛川の名産なり」とあるので、意図的に名産品を歌に織り込んでいることが分かります。前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「掛川」にも、「名物 くす布」とあります。つまり、狂歌は、「秋」葉という道の名があるけれど、「春」風は「かけ」(駈け)、「かけしくずぬの」(干し掛けた、かつ掛川の葛布)が「うらヽにぞ吹」かれている(吹は同時に袋井の掛詞)と洒落ているのです。広重も、絵の背景を緑の田園風景として表現し、春の狂歌の雰囲気を壊さないようにしています。

 なお、狂歌では「うらヽにぞ吹」風が、この地方では大抵はもっと強く吹き、遠州凧を空高く舞い上げることになります。春の風物詩です。こちらは、保永堂版の情景です。

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〈26〉東海道五拾三次 日阪

Kyokairit25
「あたらしく 今朝にこ/\(にこ)と わらび餅 をかしな春の 立場なるらん 倭園琴桜」

 狂歌入り版「日阪」は、一見すると難路「佐夜の中山」と呼ばれた峠道を描いているようなのですが、たえば、保永堂版では、「夜啼石(よなきいし)」と「無間山(むげんやま)」を合わせ描いて佐夜の中山を表現しています。ところが、その両要素とも排除されているこの峠道は本当に佐夜の中山なのでしょうか?夜啼石は峠で山賊に襲われた妊婦の霊が取り憑いたものという伝説があり、またその妊婦から生まれた子は「水飴」によって無事養育されたという子育観音霊験記としてつとに有名です(歌川国芳『東海道五十三對』「日坂」参照)。それ故、本作品が佐夜の中山を描くものであるならば、峠の茶店で売られているのは当地の名物である水飴ということになります。

 しかし、狂歌の題材は「わらび餅」です。このわらび餅は、『東海道名所圖會 巻の四』(前掲『新訂東海道名所図会中』p240)によれば、「いにしえより新坂のわらび餅とて、その名あるものなり」とあり、さらに蕨餅という名前ですが、実は葛粉で製しているという点にまで触れています。前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「新坂」には、「さよの中山」に「水あめ」、「新坂」の宿場に「わらびもち」と記されています。これらの点を勘案すると、広重が描く茶店は宿場近くの茶店でなければ狂歌との間に齟齬が生じてしまいます。したがって、本作品は佐夜の中山を直接描くものではなく、本作品近景の橋に注目すれば、日坂の宿場(旅籠)の西方の川橋か、もしくは宿場から佐夜の中山に向かう茶店の辺りかと推測できます(同図鑑参照)。狂歌は、朝仕事として「にこにこ」笑いながら、「わらび餅」(笑ひ餅)を作ったのは、「をかしな」(風情のある、可笑しな、さらにはお菓子の)春の立場であるとの意味です。なお、宿場でなく、立場なのは、「春立つ」という言葉遊びのためですが、また春の蕨を彷彿とさせる工夫を感じます。さらに、「にこにこ」には蕨餅が2個、2個にも掛けられているのでしょう。

 ちなみに、狂歌入り東海道の特性として浮世絵と狂歌がそれぞれ役割分担し、広重は夜啼石と無間山を直接描かない抑制的な形で佐夜の中山峠の茶店(水飴・飴の餅)を写し、狂歌は独自に日坂の名物蕨餅を詠ったという可能性は十分にあります。その場合、広重は狂歌の内容を斟酌して、意図的に峠の茶店の営業風景を控えめに描いたという推論が成り立ちます。

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〈25〉東海道五拾三次 金谷

Kyokairit24
「大井川 渡る金谷に 旅ごろも 雲と水とに 身をまかせけり 関口俊吉」

 嶋田宿より遠江国に入ります。狂歌入り版の「嶋田」は大名行列の一行が嶋田から金谷に向かって川越しをしていました。保永堂版「金谷」も金谷側の川岸に到着する大名一行を描いています。したがって、狂歌入り版「金谷」も何となく大井川の金谷側に到着した様子を描いているように見えますが、川岸近くの川越し人足の動作を子細に見てみると、腕を伸ばして何かを受け取っているような仕草をしている人足達が複数います。人足は川札を渡河の前に客から貰い、渡河後その札を札所で現金に換えるのが原則です。したがって、上掲作品はその川札の遣り取りを描くものと想像されるので、金谷から嶋田への川越し風景を描くものと考えられます。とすると、先の人足達の後ろで武家に平伏している2人の男は、おそらく、川会所の役人が大名一行を見送りに来て挨拶をしている情景でしょう。川岸に乱雑に置かれた輦台は、これから駕籠、人、荷物を積み込む準備のために組み立てられた輦台を一旦解いたものと推測されます。広重の綿密な観察とスケッチがあっての作品です。

 狂歌は、「雲と水とに」身をまかせるの意味がやや難しいと言えます。ただし、「雲」に関しては「箱根」の狂歌に「雲ともいへる」とあって、山駕籠あるいは駕籠舁きのことと分かります。そこから推察すれば、「水」は川越し人足であると想像できます。つまりは、旅人が自分の身を駕籠舁きと川越しの人足に任せたという意味になります。ところで、その旅人は具体的に誰なのかは、「旅ごろも」という言葉から判断することになります。ここでは、およそ一般の旅姿の人ではなく、漂泊の僧侶と考えられます。なぜならば、雲と水を合わせた「雲水」は漂泊の僧を指す言葉だからです。狂歌は「水」という言葉によって、大井川の川越し風景と川越し人足に注意を向けています。したがって、広重の絵も大名行列の川越しというよりは、それを手伝う川越し人足に視線を送って細かく描写しているのだと思われます。

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〈24〉東海道五拾三次 嶋田

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「大井川 渡りいそげば 宿の名の 妹がしまだの 目にはとまらず 森泉亭廣規」

 保永堂版とは視点を逆に採って、狂歌入り版は大井川の西方・遠江側から見た川越し風景を描いています。それ故、遠景に富士山が見えます。前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「嶋田」には、大井川は、「道中第一の川なり。歩渡し。駿河遠江の界。此川甲州より流れ出る。北より南へ流るヽ也」と記されています。いよいよ駿河国最後の宿場まで来たということです。なお、同図鑑には大井川を輦台を使って川越しする様子が描かれていますが、広重は狂歌入り版でほぼこれと同じ構図を採用しています。近景には2台の輦台に載った駕籠を中心とし、中景にはやはり輦台や肩車の武家など、遠景には荷を輦台に載せる一行が描かれています。槍や毛槍などが見えているので、大名行列の川越しを描いているようです。

 大井川の水かさが増して川越しが危険になると、「川留」となります。そのため、駿河側の島田宿と遠江側の金谷宿には多くの旅籠があって繁盛することになります。そして、「島田女郎衆」と呼ばれる飯盛り女の出番となるのです。江戸時代、広く流行の「島田髷」は、この島田宿の遊女の髪型が始まりとも言われています。いずれにせよ、島田宿と言えば、大井川の川越しと島田女郎衆とが思い浮かぶということが大事です。狂歌は素直な内容で、大井川を急いで渡ると、宿場の名前でもある島田の女衆(島田女郎衆)の目には止まらないということですが、深読みすれば、慌てないで島田宿で遊ぶことも一考ですよと投げかけているのではないでしょうか。

 なお、前掲図鑑に、「川こし銭七十七文まで馬ごしあり。七十八文より馬ごし留る。かちこし九十五文まで」と記されています。推察するに、水深が胸までなら馬が使え、それを越えると馬は使えず歩行(肩車・輦台等)になり、それも水深が脇を越えると川留になるということを渡し賃側から説明したものです。渡し賃は、川会所で川札を買って人足に払い、人足は川越しが終わると札所で現金に換えるという仕組みです。ただし、実際には直接交渉も横行していました。また人足を雇わないで自力で渡る者もいて、もちろん違法ですが、「目こぼし」されました。上流では桶を使った川越しもありました(北斎『富嶽百景』「大井川桶越の不二」参照)。

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〈23〉東海道五拾三次 藤枝

「口なしの 色をばよそに かしましく あきなふ妹が 瀬戸の染飯 清室真寿実」

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 対岸の家々の屋根が藤枝の宿場とすると、その西側手前を流れる瀬戸川の歩行渡しの様子を描くものと思われます。ここでは旅人を背負う形での川越し風景です。画中右手の仮橋は中洲の所で、戸板によって止められています。したがって、旅人は川越し人足に人足賃を払って川を渡ることになります。従来の作品構成を考えると、「瀬戸川」と副題が記されていてもよい情景です。前掲『東海道中膝栗毛 三編上』(岩波文庫p196-197)では、「瀬戸川を打越、それよりしだ村大木のはしをわたり、瀬戸といふ所にいたる」とあって、藤枝から島田に向かう途中に、瀬戸という場所があることが分かります。前掲『東海道名所圖會 巻の四』(前掲『新訂東海道名所図会中』p274)には、「名物染飯(そめいい)」として、「瀬戸村の茶店に売るなり。強飯(こわいい)を山梔子(くちなし)(赤味を帯びた濃い黄色)にて染めて、それを摺りつぶし、小判形に薄く干し乾かしてうるなり」と紹介されています。

 広重は瀬戸川の歩行渡しを描いていますが、狂歌はその西方にあった瀬戸村の山梔子を使った染飯が題材です。おそらく、広重は藤枝の瀬戸川を描いて、瀬戸の染飯を暗示させる作戦を採ったものと想像できます。染飯は腰の疲れに効いたようですが、今日伝承されていないところをみるとあまり美味しくないのかもしれません。狂歌は、瀬戸の染飯は山梔子で染めるものではあるけれど、「口なし」と言いつつ女衆が口やかましく売っているという意味です。「口なし」の地口遊びを通して、名物染飯を紹介する趣向です。『東海道名所圖會 巻の四』(前掲『新訂東海道名所図会中』p277)には、「山吹の花の染飯喰しやれと いへどこたへずくちなしにして 誹諧歌 簾相法師」という歌があり、前掲『東海道中膝栗毛 三編上』(岩波文庫p197)には、「やきものヽ名にあふせとの名物は さてこそ米もそめつけにして」とあるなど、藤枝の宿場では「瀬戸の染飯」が歌枕となる程有名であったことが分かります。その他、前掲『春興五十三駄之内 』「藤枝」図版および狂歌参照。

*藤枝には、熊谷次郎直実縁の蓮生寺があるだけでなく、前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「藤枝」には「おゝぎばし」とあって、「おゝぎ」という地名が発見されます。2つを合わせると、歌舞伎『扇屋熊谷』が想起され、そこに登場する扇折りの娘に化けた平敦盛を人が替わると見て、保永堂版では人馬を取り替える「人馬継立」が主題となるのです。つまり、「人馬継立」は、人が入れ替わる、直実縁の歌舞伎の説話から読み解くことができるということです。

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〈22〉東海道五拾三次 岡部 宇津ノ山ノ圖

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「草臥(くたびれ)て こしをうつヽの うつの山 岡部のやどに 夢もむすばず 森冨亭満葉」

 本作品は、前掲「戸塚」、「蒲原」と共通する構図に基づいています。手前両側の崖の切り込みがかなり強調されているので、より遠近感が明確です。山駕籠が進む先に半身だけの2人の旅人が見えています。これは、坂道を上ってくる人を表現するもので、反対に手前の杖を持つ旅人は坂を下る様子であることが分かります。とすると、右手の敷地にある茅葺き屋根の茶屋は、いわゆる頂上部にあった峠の茶屋(上立場茶屋)を描くものであると理解できます。副題「宇津ノ山の圖」とある、宇津ノ谷峠のことです。その峠を越えると、岡部の宿場に至ります。前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「岡部」を参照すると、手前が鞠子側で、奥の方が岡部側であると想定されます。同図鑑には、鞠子側に「立バ宇都ノ山」「十(とお)だんご」と記されており、団子を数珠の形にした十だんごがこの辺りの名物であると知ることができます。食用というよりは、峠の地蔵に祀るなどし、道中安全のお守りとして使用したようです。たぶん、画中の峠の茶屋でも売っているはずです。保永堂版は、峠を下る途中の様子を岡部側から描いています。

 宇津ノ谷峠の旧道は、「蔦の細道」とも呼ばれた難路で(前掲図鑑参照)、その様子を詠った歌も少なくありません。たとえば、『伊勢物語』では、在原業平が「駿河なる宇津の山辺のうつつにも 夢にも人に逢はぬなりけり」と詠んでいます。比べると、狂歌はこの和歌を本歌としていると分かります。狂歌の意味は、「こしをうつヽの」で疲れて腰を打つと夢現(ゆめうつつ)の2つの意味を掛け、そんな「うつの山」を越えて岡部の宿に泊まれば、疲れ果てて夢を見ることもないと結んでいるのです。宇津ノ谷の峠越えの大変さを詠い込んでいるという訳です。

 ちなみに、雨の宇津の山路で滑って転んだ弥次さんは、「降りしきる雨やあられの十だんご ころげて腰をうつの山みち」と詠んでいます(『東海道中膝栗毛 二編下』岩波文庫p184)。滑稽本に挿入された狂歌なので、弥次さんの方が面白さでは上かもしれません。しかし、狂歌入り版のそれは、情緒において優れた感があり、狂歌師に紀行文学的意図があるのかもしれません。

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〈21〉東海道五拾三次 鞠子

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「通りぬけ するかごもあり とまつたり 神楽のきよくの まりこ宿とて 松園庵芝守」

 保永堂版は、副題「名物茶店」としてとろろ汁を出す山里の茶屋風景を描いていましたが、狂歌入り版も同様に「名物とろヽ汁」の店先です。ただし、保永堂版が弥次喜多を彷彿させる人物を写して構想的であったのに対して、狂歌入り版は、石垣を組んだ西口の見付脇にあった店の状況を実景に比重を置いて描写しています。店先に置いた山駕籠の駕籠舁きがとろろ汁を食べる客と交渉している様子や、木に馬を繋いだ馬子が思案げに佇む姿など、茶屋が客待ちの場所となっている情景表現として興味深く感じられます。鞠子と岡部の間には、宇津ノ谷峠があるので、山駕籠の存在等は確かに現実的です。なお、店内の壁には、「仙女香 京ばし坂本氏」という白粉の広告が見えます。また、名所絵2点、役者絵、美人絵各1点が貼られています。これらは、実景というよりは、スポンサー・版元などの営業的宣伝と考えられます。

 狂歌は、通り抜ける駕籠もあれば、止まる駕籠もある。なぜならば、鞠子では神楽が催されているので、といった内容です。遊びとして、「するかごもあり」に「駿河」を、「と(止)まつたり」に「まったり」を掛けています。重ねると、この狂歌は、駿河の神楽はまったりしている、つまりこくのある味わいであると詠っていることが分かります。実は、「駿河神楽」は駿河の神楽一般を意味しているのではなく、安倍川流域山間部や大井川左岸山間部に伝承されている神楽を指した特定名称と理解した方が良いように思います。鞠子は、安倍川水系の丸子川に添った山間部にあって、東海道中で最も小さな宿場です。その名物は、松尾芭蕉の俳句「うめ若菜丸子の宿(しゅく)のとろろ汁」や十返舎一九『東海道中膝栗毛』に登場するとろろ汁だけではなく、この地域一帯に盛んな神楽もあるぞと狂歌は言っているのです。その意味では、広重の絵の方が芭蕉の句からの本歌取りと言ってもよいと思われます。本作品は、狂歌と浮世絵とがそれぞれ棲み分けて、宿場の名所・名物を紹介するという形式の好例です。

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〈20〉東海道五拾三次 府中 二丁町廓之圖

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「たび人も こひをするがの 二丁まち おもひはふじの 雪とつむらじ 皎月楼演子」

 副題「二丁町廓之圖」からも分かるように、狂歌入り版は駿河二丁町の遊廓を描いています。府中から24、5丁も離れた「みろく」に大門があって、「阿部川」(安倍川)のすぐ近くです(前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「府中」参照)。造りは、江戸の吉原とほぼ同じであったようです(十返舎一九『東海道中膝栗毛 二編下』岩波文庫・1973、p173参照)。保永堂版は、副題「安部川」の川越し風景を描いていますが、その川際にこのような公許の遊廓があったとは…。府中(駿府)は、徳川家康が大御所として隠居した場所なので、もちろん、特別な場所です。

 狂歌は、「こひをするが」で、「恋をする」と「駿河(国)」を掛けています。そして、その駿河を受けて、遊女への恋心は駿河の富士山の高嶺ほどではなく、雪が積もることはないと結んでいます。つまり、旅人の遊女への「おもひ」に決して負けることがないと、駿河国の秀峰富士山の自慢をしているということです。廓の遊女とは一夜の遊びですからね。

 広重の絵に戻ると、顔見世を覗く、鍬を担ぐ百姓姿が描かれていますが、前掲『東海道中膝栗毛』の挿絵にも棒を肩に担ぐ同様の人物が描写されています。狂歌入り版は実景表現に基づくとはいえ、弥次喜多人気を利用した構想部分も多分にあることが分かります。その他に、引手茶屋の女に案内されて入楼する紋付き姿の客、仕出しを運ぶ人物、禿か手伝いの子供の描写など、共通するところがあり、おそらく広重はこれらを意識しながら、自身で新たに描いたスケッチから、さらに数多くの人物を組み合わせてオリジナリティーを演出したようです。ただし、人物が静止画像のような棒立ち姿(?)なので、生き生きとした遊廓の賑わいが伝わってこないのが残念なところです。満月の宵に浮かび上がる遊廓表現は、『東都名所』「吉原仲之町夜櫻」(天保5~10・1834-39)にすでに見られたものの応用です。

 個人的には、大門の中の、しかも遊女店から離れた後ろ(冷やかし道)で、両手に何かを持つ少女(赤い着物)、風呂敷包みを持つ少年(青い着物)の存在が気になります。遊廓にこんな子供まで出入りしていたのかと、江戸の風俗を改めて再認識した思いです。

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〈19〉東海道五拾三次 江尻

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「花の旅 駕をつらせて ゆた/\(ゆた)と うばが江尻に 見ゆる児ばし 花垣家寿子」

 旅籠などの家並みが大木を境に途切れ、その先を荷物を担いだ旅人が歩いています。おそらく、江尻の宿場の西口辺りを描いているものと推測されます。保永堂版は海側の清水湊と美保の松原を眺望する視線でしたが、狂歌入り版は反対方向の富士遠望図となっています。狂歌入り版を前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「江尻」と対照すると、「ともへ(巴)川」を渡り、「追分」に向かう前後かと思われます。富士山の位置も含めて、同図鑑の絵と同じであることが確認できます。狂歌に触れる前に、本作品の中景に描かれる3つの山の情景を解説しておきます。松の木が何本か描かれているところと対比すると、この山には木々が生えていないことが読み取れます。そして、東海道の背後が田園風景とすれば、これらは畑のように感じられます。松尾芭蕉が句集『炭俵』で「駿河路や花橘も茶の匂ひ」と詠んだこと、北斎が『冨嶽三十六景』で「駿州片倉 茶園ノ不二」を描いていることなどを勘案すると、山地で栽培される茶畑を広重流の手法で描写しているものと推測できます。江尻の茶畑という名所風景を画中に織り込んでいるということです。

 狂歌の最終句に「児(ちご)ばし」とありますが、前掲図鑑の「ともへ川」には「ちご(稚児)ばし」が架かっている旨記されており、橋渡りの儀式に際し、招かれていない稚児(河童の化身)が渡ってしまったという伝説を持つ橋を詠み込んでいます。この「児(ちご)ばし」を見るのが、駕籠でのんびり旅をする「うば」というのですが、『東海道名所圖繪 巻の四』(前掲『新訂東海道名所図会中』p322)に、「姥ガ池」という湧水池が「(東)海道平川地村、田畑の中にあり」と記載されています(同図会p316~p317の図版および北斎『冨嶽三十六景』「駿州江尻」参照)。前掲図鑑の「ひらかはら」がそれに相当します。つまり、狂歌には、さらに江尻の「姥ガ池」も詠み込まれていたということです。それ故、広重は両名所のある江尻の西口側を描いたものと考えられます。ただし、稚児橋と姥が池を直接描くことはしていません。これは、狂歌と浮世絵との役割分担を計算した狂歌入り版の特徴です。また、お得意の「広重あるある」と言うこともできます。

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〈18〉東海道五拾三次 興津 興津川

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「風ふけば 花にこゝろを 興津川 あさき瀬にだに 袖はぬれけり 年垣真春」

 副題に「興津川」とあるので、薩埵峠を越えて、宿場の手前(東側)にある興津川であることは間違いないのですが、どちら方向から描いているのかが問題です。嶋田・前掲『広重のカメラ眼』(p126)は、作品の左側中景の谷筋に見えている家々の屋根を奥津の宿場と理解しています。しかしながら、狂歌入り版とほぼ同一構図の『五十三次名所圖會十八』(安政2年7月・1855)が「興津 おきつ川さつたの麓」と記しているので、作品正面の岩肌を見せる2つの小山は薩埵峠に繋がる地形と推測されます。つまり、画中手前から川を渡る旅人達は川の西岸から東岸に向かう一行であり、前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「奥津」を参照すると、その家々の屋根は「ほら村」の集落と考えられます。保永堂版も同じ構図ですが、視点は川の上流から河口方向の浜辺を遠望しているのだと思われます。

 興津川は歩行渡りの川であり、広重は、人足が旅人を肩車によって運ぶ様子に焦点を当てて描いています。肩車された旅人達が足を前にまっすぐ伸ばしている姿が不思議です。狂歌入り版は、薩埵峠からの風光には触れず上記の情景を描いているのですが、これはもちろん狂歌を意識したものであることに注意が必要です。

 「風ふけば」で始まる狂歌は、『伊勢物語』や『古今和歌集』などに収録されている和歌「風吹けば沖つ白波たつた山 夜半にや君がひとり越ゆらむ」からの本歌取りです。つまり、「風ふけば」を「興津(おきつ)」で受けることになります。そこに「花にこゝろを興(おく)」を重ねて掛けています。さらに、「興津川」は歩行渡りの川なので、本来は深い川ではなく、「あさき瀬に」となる訳ですが、最後の句は「袖はぬれけり」という意外な落ちとなります。その意味は、「瀬」が「逢瀬」に掛かっていると読み解いて初めて理解できます。すなわち、深い逢瀬が適わなかったので、悲しく涙にくれて袖を濡らしているというのです。峠越えや川渡りは、恋の難儀や逢瀬の困難によく例えられますが、本狂歌は、薩埵峠越えを控える「興津川」の歩行渡りをその材料としてうまく使ったということができます。狂歌がもし歩行渡りより薩埵峠越えに比重を置くならば、広重の絵も峠の風景を描くものであったかもしれません。

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〈17〉東海道五拾三次 由井 由井川

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「ふみ込ば 草臥足(くたびれあし)も 直るかや 三里たけなる 由井川の水 結城亭雛機」

 右側中景に家々の屋根が見えますが、これらは由井の宿場と推測されるので、駿河湾に南流する由井川を宿場の西側此岸から眺めていることが分かります。由井川は歩行渡りの川で、渇水時川筋に架けられた仮橋を旅人達が渡る様子が描かれています。中洲には飛脚、その後ろには長持を運ぶ人足がいます。保永堂版に描かれていた副題「薩埵嶺」は、前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』によれば、さらに次の宿場「奥津」近くの風光明媚な峠なので、奥津方向からやって来て、難路薩埵嶺を越えてやっと由井宿手前の由井川まで来たという感じなのかもしれません。あるいは、由井の宿場を西に発った視点とすれば、これからいよいよ峠に向かうという幾分かの決意を表現するものなのかもしれません。いずれであるかは、狂歌を読めば推察できます。

 狂歌にある、「三里たけなる由井川の水」の意味が問題です。「足三里」と言い直せば、その意味が明らかになります。松尾芭蕉『奥の細道』にも登場する程に有名なツボ(経穴)の1つで、たとえば、旅立ちに際し、「もも引の破れをつづり笠の緒付替えて三里に灸するより…」とあります。実際には、膝の皿の下、靭帯の外側にあるくぼみから指幅4本分の所にあり、食欲を高めて足の疲れを取るツボと考えられています。ということは、歩行渡りの由井川の水かさがちょうど膝よりも下の、足三里にあるということを表し、「ふみ込ば草臥足(くたびれあし)も直るかや」の発句に対応させ、由井川の歩行渡りと長旅の疲れを上手く織り込んだ狂歌と言えます。この狂歌を受けて、広重は、素直に渇水期の由井川の歩行渡りを描写したということです。

 芭蕉が旅に先立って足三里に灸をしたことを勘案すると、狂歌は旅立つ準備に比重があると思われ、それ故、広重の構図は、「由井」から「奥津」に向かう時間の流れを前提にすると考えられます。

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〈16〉東海道五拾三次 蒲原

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「春風に 向て田村を すぎ行けば 真袖に匂ふ 梅がかん原 梅香居」

 保永堂版は副題「夜之雪」とあり、広重の最高傑作です。当然、狂歌入り版にも多くの期待を寄せるのですが、その平凡な風景に残念と言わざるを得ません。湧き立つ入道雲、聳える富士山、その富士山を凌駕する欅の大木といった情景は、『名所江戸百景』にその完成形を見る近景拡大の構図です。ところで、この風景はどこかで見覚えがあり、遠景の富士山を鎌倉山に代えれば「戸塚」の構図とほぼ同一と看做すことができます。「戸塚」は宿場手前の柏尾の追分辺りを描いていました。とすると、「蒲原」も宿場手前の東海道との分岐点を描写している可能性があります。

 吉原から蒲原へ向かう場合、第一の名所スポットは富士川です。前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「蒲原」は、「冨士川は道中第一の早川也信州八ヶ岳よりながれ出て甲州釜なし川油川早川へ落合て大河となれり又水の出時によりて出口かはる也」と詳細に説明しています。また同図鑑を見ると、その富士川の対岸(西側)には間の宿「岩淵」があって、さらに右(北)に折れる「身延道」が記されています。すなわち、本作品は、この岩淵の追分(一里塚)辺りを描いていると考えられます。富士川の船渡風景を描かないのは、「広重あるある」です。同図鑑には、蒲原宿を過ぎると「新田村」「向田村」とあり、これと狂歌を合わせると、春風に向かって田村を過ぎるとの発句で地名「向田村」と遊び、蒲原は「真袖」(両袖)に梅が香(匂)う宿場であると結んでいます。広重が向田村の梅の花を描いていれば狂歌と完全に一致するのですが、そうなっていないのは、狂歌が構想世界だからです。基本的には実景描写の広重には描きようがないということです。したがって、蒲原手前の岩淵の追分から宿場を想像させるという手法を選択したのでしょう。また、狂歌師の名が「梅香居」とあるので、「梅が(香)かん原」は、自己宣伝なのかもしれません。

 なお、前掲『東海道風景図会』の蒲原は「当所吹上の浜に浄るり姫の塚あり」として、藤原定家の和歌「汐風の吹上の浜のゆきにさそはれて…」と記しています。本当に蒲原の浜を詠んだのか疑義がありますが、保永堂版はこの浄瑠璃姫伝説から雪の景を描いたと考えられます。

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〈15〉東海道五拾三次 吉原 左り冨士ノ縄手

Kyokairit14
「行来する 人のいく度 詠めても あしと思はぬ 冨士はよし原 栄寿堂金信」

 狂歌入り版の副題「左り冨士ノ縄手」は、表現・タッチに違いはありますが、保永堂版の副題「左富士」と同一の視点・構図と思われます。前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「吉原」を見ると、「川合橋」を渡った「十町たんぼ」の先、「依田村と云中吉原村」辺りで東海道は北上し、江戸出発以来右に見えていた富士がここでは左に眺望できることが分かります。歌枕の地として有名な場所で、前掲『東海道風景図会』には、「風になひく不二の煙の空にきえて ゆくへもしらぬわかおもひかな」という西行の和歌が引用されています。おそらく、広重(さらには狂歌師)の心には西行ゆかりの地という思いがあったように想像します(三代豊国・広重『雙筆五十三次』「吉原」参照)。西行ゆかりの地であるからこそ、保永堂版は西に向かうお伊勢参りの一行(三宝荒神)を近景に描き入れ、国貞『美人東海道』は西国巡礼の美人を重ね合わせたのだと考えられます。

 狂歌は、単純に「あしと思はぬ 冨士はよし」と詠み、「あ(悪)し」と「よ(良)し」の反対語を楽しみつつ、「よ(良)し」を「吉」原の宿場に掛けて遊ぶというものです。「行く人」と「いく度」の掛詞を含めて、やや言葉遊びに過ぎるように思われますが、「行来する人」に西行を思い浮かべれば、この地で和歌を詠まざるをえなかった西行、そしてその心境に影響を与えた富士山の良き景色というものが深みを持って浮かび上がってきます。

 広重の絵は、旅人と馬の両脇に荷物を載せる、保永堂版以来の「乗尻(のりしり)」の他、街道を行き来する多くの人々が描かれています。個人的には、旅人の数が少ない方が西行的情緒が醸し出されるように思うのですが、これは、狂歌の「行来する人のいく度詠めても」という句を受けて、多人数を描き入れたのだと考えられます。西行1人ではなく、吉原を旅する人々は誰でも、また何度でも左富士に感嘆するという、かなり解説的描写です。狂歌入り版の情景は、挿入された狂歌と不即不離の関係にあることがよく分かる事例です。深読みですが、街道の一番手前に虚無僧が描かれているのは、僧体の西行に敬意を払ったものでしょうか。

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〈14〉東海道五拾三次 原

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「けふいくか 足よ腰よと あゆみ来て 見あぐるはらの 不二の大さ 数寿垣」

 正面に富士山、右手に愛鷹山、そして前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「原」に「沼」と記される浮島が原を間に挟んで東海道が手前を走っています。おそらく、保永堂版と同じく、柏原の立場あたりの風景と想像されますが、実景性に比重を置く狂歌入り版なので、その表現に大きな違いを見せています。保永堂版は『仮名手本忠臣蔵八段目』「道行旅路嫁入」の戸無瀬と小浪の情緒を描き入れています。これに対して、狂歌入り版は歌舞伎の構想性とは関係なく、狂歌の情緒をどう絵の構成に結びつけるかを懸案としています。忘れてはならないのは、実景を楽しむことだけが作品の目的ではないということです。富士を真正面に見据え、茶屋をシンメトリーに配置し、街道を歩く旅人をかなり単純化し、碧瑠璃の空に天を突くばかりの赤富士を際立たせることが広重の意図です。北斎の『冨嶽三十六景』「凱風快晴」(赤富士)を意識しているのは間違いないでしょう。

 狂歌は、「今日」と「京」を掛け、「足」下まであるいは「腰」下まで来たのかと言っているうちに、「腹」=「原」まで来たと洒落ています。そして、そこで見上げた富士が、掛詞を使って腹のように大きいと感嘆しているのです。狂歌の言いたいことは、ただ原から見る富士山が雄大であるという感嘆だけです。広重は、この狂歌の感嘆に対して、1つに、富士山の頂を雲よりも高く、絵の枠をも越えて、天に至る姿で描いています。もう1つに、街道を旅する人々を極端に単純化し、対比的に富士の大きさを表現しています。注意しなければならないのは、狂歌があることを忘れてしまうと、たとえば、雄大な自然と小さな人間との二項対立といった現代的感覚で本作品を理解してしまう虞があるということです。狂歌入り版の意図は、原で眺める富士山は腹みたいに大きいと俗っぽく驚いているだけなのです。

 なお、東海道の浮世絵シリーズ(たとえば、歌川広重『東海道五十三對 原』参照)では、原の宿場で『竹取物語』を題材として、都の天皇と富士山との因縁を述べることがしばしばあります。本作品で、「けふ(京)いくか」と歌い、枠を越えた天に至る富士山が描かれているのも、こうした伝説的背景があるのではと想像しています。

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〈13〉東海道五拾三次 沼津

Kyokairit12
「名にしおふ 沼津堤の 花見酒 泥のごとくに 酔しひとむれ 東雲亭於㐂保」

 沼津宿より駿河国となります。江戸でも駿河町や駿河台など、駿河と名の付くところは富士の眺望に優れるところです。その原点が沼津に始まる駿河国にあることは言うまでもありません。ただし、『東海道名所圖會 巻の五』(『新訂東海道名所図会下』ぺりかん社・2001、p90)に「富士隠れ」という言葉があって、沼津の東は、地形が低く、「愛鷹山に遮られて富士見えず。故にふじがくれという名をよぶ」とあるので、本作品は沼津の西側であると推測できます。そのうえで画中には榜示杭と関札が描かれているので、宿場の西外れであることが分かります。宿場の外れには休憩用の茶屋があるのが通例です。本作品では、その茶屋の背後に、田仕事をする人を含む田園、愛鷹山、そしてこれでもかという程大きな富士の半景が描かれています。

 狂歌に目を転じると、沼津堤の花見酒に泥酔する人々を歌い、「沼」と「泥」という縁語で遊んでいます。問題なのは、「沼津堤」がどういう所で、どこにあるのかということです。ヒントは、「名にしおふ」(名前を持つ、有名である)とある点です。前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「沼津」を参考に、宿場の西側で富士を背にして探ると「千本松原」と記されている場所を発見します(『東海道名所圖會 巻の五』(前掲『新訂東海道名所図会下』p81参照)。この海浜の松原を「沼津堤」と詠んでいるのだと思われます。千本松原の堤と敢えて呼ばないのは、「沼」津と「泥」酔とで遊びたいからです。また、千本「松」原を避けたのは、「桜」の花見酒と合わないからです。かなり技巧的な狂歌です。この狂歌に対して、広重は宿場の西外れの茶屋風景を描いたのですが、その意図は、茶屋で休憩した旅人の眼前に千本松原が広がって見えるはずという想像力を駆使させたのです。狂歌の構想を実景から想像して下さいと丸投げしてしまったという訳です。同様の方法は、小田原ですでに行われていました。

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〈12〉東海道五拾三次 三嶋

Kyokairit11
「今も猶 夢路をたどる 心ちかな はなとみしまの 雪の曙 立川伊志女」

 箱根の墨色に対して、三島は白を基調とする雪景色です。狂歌入り版は実景に基づくと考えられますが、広重の東海道の旅景色をそのまま写したと考える必要はありません。シリーズの構成上、三島では雪景色が必要であったとした方が自然です。その理由は、雪によって季節が1つ終わり、新たに再び春が始まるという意味において、雪は出発や再出発を表現する手段として使われることがあるからです。本シリーズに当て嵌めれば、天下の険・箱根峠を越え、相模国から伊豆国にまで至り、この後さらに駿河国へと出発するのですから、三島宿は再出発の地なのです。英泉・広重『木曾街道六拾九次』「日本橋 雪の曙」と並行的に捉えて良いと思われます。したがって、作品背景の雪の富士も、旅の継続と作品の刊行を祝福する縁起物としても描かれています。

 前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「三嶋」によれば、箱根の西側の坂を下り、東見付を過ぎると宿場の手前に大場川に架かる「かん川ばし」があり、その橋を渡ると、三島宿・三嶋明神へと至ります。おそらく、狂歌入り版はその橋と背後の雪積もる富士の景を描いているのだと思われます。これに、早朝、宿場を発ちその景色を眺めれば、降り積もる雪が花のように見えたという内容の狂歌を合わせる仕立てです。「三島」と「見し」が掛詞となっています。狂歌は、雪の三島を旅立つ前提で作られているので、橋の上の旅行く人々の他に、橋の左の旅籠の前では2人の旅人が出立前の別れの挨拶をしているような様子が描かれています。個人的には、シリーズの構成上、先に宿場の雪の景が構想され、それに合わせて狂歌が詠まれたような感想を持ちます。

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〈11〉東海道五拾三次 箱根

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「ことわざに 雲ともいへる 人なれや かゝる山路を 夜るも越ゆく 冨黄園満春」

 保永堂版は箱根の東側の坂を登り切り、伊豆と相模の国境から芦の湖に向かって下る権現坂を描いていますが、狂歌入り版は登り切る手前の石畳の崖道です。おそらく、畑の立場を過ぎた辺りの一番きつい場所でしょうか。向かいの山の谷筋に川の流れが見えています(前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』にいくつかの川筋が記載されています)。嶋田・前掲『広重のカメラ眼』(p85)は「間違いなく芦ノ湖」と特定していますが、すやり霞なしに手前のここに持ってくる理由は何もありません。2つの松明に照らされ、2組の山駕籠が夜道を進んでいます。一見すると、かなり異例な情景と思われます。保永堂版では大名行列でしたが、広重の他のシリーズのほとんどは、実は山駕籠で峠を越える構図となっています。

 画中の山駕籠は、辻駕籠と言われる「四つ手駕籠」に比べて粗末な作りで、竹の網駕籠に座布団を敷いた程度のもので、宿駕籠とも言われます。この宿駕籠は、街道筋の宿駅の日雇い人足である「雲助」が舁くこともあって、「雲駕籠」と呼ばれることもあります。あまり良い意味では使われず、故に、狂歌に「ことわざに雲ともいへる人なれや」と詠まれることになります。なお、雲(助)の原意は、浮雲の行方定めぬところからとも、また、客を取ろうと蜘蛛のように網を張っているところからとも解されています。狂歌は雲の意味が分かれば簡単です。箱根の駕籠舁きは雲とも呼ばれる人であるだけに、雲のかかる、かかる(このような)山路を夜でさえ越えていくということで、「雲」と「かゝる」の掛詞で遊んでいます。この狂歌に対して、広重の絵は、夜にもかかわらず、松明を持った雲(駕籠)が急な坂を越えていく様子を素直に描くというものです。

 ところで、狂歌に歌われ、絵に描かれた、松明を照らしての夜の峠越えが本当にあったのかどうかということですが、箱根の各立場には松明が売られていたことからも事実と考えられます。箱根の関所は、「明け六ツ」(午前6時)から「暮れ六ツ」(午後6時)が開門時間であったため、早朝一番に間に合うように夜中でも駕籠に乗って急いだことはあったでしょう。関所を越えても、まだ箱根の西側の長い坂があるのですから。

*雲助について、『東海道名所圖會 巻の四』(『新訂東海道名所図会中』ぺりかん社・2001、p248~p249)参照。

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〈10〉東海道五拾三次 小田原

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「小田原の 沖の舩より 見えつらん 霞の海の 城の鯱(しゃちほこ) 繁の門雛昌」

 近景には意図的にくの字に曲げられた街道を旅人達が行き交う様、中景には浜で地引網を引く様、そして遠景には水平線に帆船が浮かぶ様がそれぞれ描かれています。ただし、題名がなければどこの宿場の海岸線か特定し難いのも事実です。保永堂版に見られるように、小田原の宿場の手前には酒匂川があって、その歩行(かち)渡しが代表的風景です。また、宿場の背後の山側には北条早雲が本拠とした名城小田原城があり、その反対の海側に狂歌入り版が描く海浜風景が広がります。なお、箱根の関所を控え、2日目の宿として利用されることが多く、それらの旅人向けに「外郎(ういろう)売り」が有名です。

 さて、酒匂川の歩行渡し、小田原城、そして外郎売りのいずれも描かれていませんが、「広重あるある」として、これらの風景・情景が背後にあると想定して、本作品を楽しむ必要があります。そのうえで狂歌を見ると、沖の船から霞の海に天守の鯱が見えているであろうという素朴な歌となっています。霞を海に見立て、天守の鯱がそこを泳いでいるという情景を想像し、それが海上の船からも見えるであろうというのですから、小田原城を誇っていることは言うまでもありませんし、狂歌の作者が宿場から小田原城の天守を見上げているという状況も目に浮かびます。その小田原城、あるいは天守の鯱を描かない広重の画趣はどこにあるのでしょうか。

 画中で目を引くのは、やはり、海岸での地引網の情景です。その様子を手前の茶色の道中合羽を身につけた旅人が眺めているようなのです。嶋田・前景『広重のカメラ眼』(p79)は、この旅人を広重自身、または絵師の視点と考えているようです。しかしながら、絵だけではなく狂歌と合わせて読み解くならば、初めに、霞の海の鯱と地引網によって引き上げられる魚とが対比されていることに気付きます。次に、海の方向を見つめる旅人がその前後小田原城を見ているはずであることも想像されます。なによりも、狂歌入り東海道なのですから、先の旅人は、絵師広重というよりは、狂歌の作者を代弁する人物と見るべきでしょう。ちなみに、広重のユーモアは、鯱が霞の海にいるならば、船からはその鯱が浜の地引網によって引き上げられているかのように写っているという点にこそあるのではないでしょうか。

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〈9〉東海道五拾三次 大磯

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「うかれ女の 真心よりぞ うそぶける とらといふ名は いしに残れり 冨有亭満成」

 大磯の海岸線は、「小ゆるきのはま」(小揺陵の浜)と呼ばれた景勝地です。狂歌入り版は、その浜越しに真鶴岬や伊豆の山々を遠望する視点で構成されており、これは、大磯宿の京(南西)側に当たります。これに対して、保永堂版は、「高麗寺村」を過ぎて、「けわい坂平地」や「虎がやしきあと」などがあった大磯宿の江戸(北東)側を描いています(前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』参照)。保永堂版には「虎ケ雨」という副題が付いており、曽我十郎祐成の愛妾虎御前に因んだ、仇討ち成就の旧暦5月28日頃に降る涙雨を画題としています。なぜなら、大磯は、虎御前の出身地として有名な宿場だからです。

 狂歌に目を転じると、「うかれめ女」、「真心」、「うそぶける」など大磯の遊女が歌われていることが分かります。これは、かつて大磯の遊女であった虎御前に繋げるための発句と考えられ、遊女が真心だとうそぶいて酒を飲んでいる様を「うそぶける虎」(酔っ払い)という言葉で表現しています。そして、祐成を賊の矢から防いだことで「身代わり石」とも呼ばれる石が延台寺にあり、実際の虎御前は、境内にあるその「虎が石」に名を残していると詠んでいます。つまり、本当に真心を貫いた遊女(虎)は、石になってもういないということです。

 大事なことは、上記の狂歌に対応する大磯の情景として広重が何を描いたかです。前景をよく見ると、3軒程の旅籠があることに気付きます。しかも、店先に女が立って旅人を引き留めています。また、一番手前の旅籠の2階では、開いた窓から人の姿が望めます。つまりは、遊女(飯盛女)のいる旅籠と想像できるということです。広重は、「うかれ女」あるいは「あそび女」の雰囲気を作品に描きこんだのです。なお、北斎『春興五十三駄之内』「大磯」(享和4年正月・1804)には、下記狂歌とともに虎が石が描写されています。

*一粒亭萬盃「石の名の とらには起ん うぐひすの ねにはふすべき 人もあらしな」

*浅流菴清志「大磯や 鴫立沢の さはさはと 竹の葉音も 軒の春風」

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〈8〉東海道五拾三次 平塚 馬入川渡舟

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「大礒へ いそぐえき路の すゞのねに いさむ馬入の 渡し舩かな 芦原満邦」

 広重・前掲『東海道風景図会』の平塚には「馬入川」が描かれており、平塚を名所的視点で採り上げれば、馬入川の船渡し風景が第一と考えられます。したがって、狂歌入り版が、富士山と大山の遠景に「馬入川渡舟」を描くことは自然です。ところで、広重にはこのような定番の名所を敢えて外すことが時々あるということを知っていれば(「広重あるある」)、保永堂版の景色の前には馬入川の船渡し風景があり、そこから平塚の宿場に向かう「縄手道」を描いていることが分かります。しかも、保永堂版は、新吉原の日本堤(八丁縄手)を舞台とする歌舞伎『鞘当て』を下敷きにして、高麗山と大山、飛脚と空の駕籠舁との鞘当て風景を表現しているのですが、なかなか理解の難しい構想となってしまったようです(国貞・美人東海道への忖度か?)。

 そこで、狂歌入り版では原点に戻って「馬入川渡舟」を端的に描くということになったと考えられます。ただし、「馬入川」という書き入れがなければ、川崎宿六郷川の船渡し風景かと思ってしまいます…。なお、平塚と次の宿場大磯の間は、27町(3km弱)という短い距離なので、客引き競争がかなりあったことが想像されます。平塚の狂歌なのに、次の大磯が入っている背景です。ちなみに、馬入川は、山中湖を水源とし、上流では桂川、下流で馬入川(相模川)と呼ばれます。また、建久9年12月(1198)、橋供養の際、水上に悪霊が現れ、雷電霹靂として、源頼朝が落馬し、その馬が水中に入り死んだので、馬入川と呼ばれるようになったという俗話があります(歌川広重『東海道五十三對 平塚』参照)。狂歌入り版の画中において、乗船者の視線が川の中に向けられているのも、馬入川伝説を暗示しているのかもしれません。

 狂歌は、「大礒(いそ)」へ「いそ(急)ぐ」、「いさ(勇)む馬」と「馬入川」との言葉を掛け、平塚から大磯へと急ぐ馬に付けられた鈴の音が響く様を歌っています。まわり双六に見立てて、東海道を急ぐ様子を歌った狂歌が多いように感じます。狂歌が馬入川を見所とする平塚ということで馬を材料にしたことに応じて、広重の絵は馬入川を渡る船上に1頭の馬を乗せています。馬入川では、馬で運送する荷物「荷駄」を乗せる船は「馬船」で、旅人を乗せる船は「平田船」としていましたが、広重はこの辺りの区別を意識して2艘の船を描いています。

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〈7〉東海道五拾三次 藤澤

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「うちかすむ 色のゆかりの ふぢ沢や 雲井をさして 登る春かな 松吟庵清風」

 境川に架けられた大鋸(だいぎり)橋、その先南(左)側に江の島道の入り口に当たる第一鳥居と石標があり、反対方向には旅籠が続き、東海道と大山寺(石尊社)へ続く道となっています。狂歌入り版を子細に見ると、橋上には従者を連れた女と女2人旅の姿があって、芸能の神・江の島弁天への参詣と想像がつきます。旅籠の方向に歩む男の1人は、大山寺に奉納する木太刀を肩に担いでいるので、大山参りの一行と思われます。おそらく、背景に描かれる山が大山です。大鋸橋の手前にあった一遍上人が始めた時宗の総本山遊行寺は、保永堂版とは異なって描かれていません。視点が街道の進行方向にあるということでしょう。

 狂歌は、ずっと霞がかかって、紫色の藤の花のような藤沢だなあ。雲に日が差し昇る春だから、といった内容でしょうか。朝日に色づく藤沢宿の美しさを詠んだ歌と思われます。「藤」の掛詞の他に、「雲井(居)」という表現によって、現実の空と雲の上の都を暗示し、都に上るということも合わせて表現していると思われます。なお、狂歌には、「昇る」や「上る」ではなく、「登る」という漢字が使われている点が気になります。

 そこで広重の作品をもう一度見返すと、大鋸橋の向こう、青色のすやり霞の背後に大山が描かれていることに気付きます。日が昇る、都に上るだけでなく、大山に登るための宿場が実は藤沢であるということが描かれ、同時に狂歌に詠み込まれていたことがここに明らかになります。藤沢宿にはいくつもの名所がありますが、本作品は大山参りをその中心に置いたということです。ちなみに、嶋田・前掲『広重のカメラ眼』(p60)は、この山を大山ではなく、写真構図的に、江の島であることを示唆しています。しかし、狂歌入り版は確かに実景図と捉えることができますが、一方ですやり霞を応用して、違う場所の風景を重ね合わせる、浮世絵の伝統的技法を捨て去ったわけではないことも考えておく必要があります。なぜなら、風景画ではなくて、名所絵であるからです。狂歌を基礎に据えれば、江の島に「登る」という表現には、まったく意味も遊びもなくなってしまいます…。浮世絵の本質および狂歌と絵との関連性を見誤っています。

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〈6〉東海道五拾三次 戸塚

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「霞日を とつかの驛路 とつかはと いそぎて旅を 双六のうへ 遊竹館一調」

 切り通しの街道を旅人が行き交う様子が描かれています。狂歌入り版が実景図だとすると、場所の特定ができるはずです。遠くに見える家々が戸塚宿を表すものならば、その手前で道が2つに分かれているように見えます。前掲『東海道風景図会』には、「柏尾追分」とあって、「大山みち、街道の西の方にあり」と記されています。おそらく、この柏尾(かしお)の追分付近からの宿場とさらに先の鎌倉山の遠望を描いているのだと思われます。僧侶風の2人が道を上って来るようですが、大山寺とそこに繋がる大山道の記号と考えれば、柏尾の追分とする推理の証拠ともなりましょう。保永堂版が柏尾川に架かる吉田橋とそこから分岐する鎌倉道に重点を置いているのとは異なっています。

 狂歌は、「とつかの驛路」(戸塚の宿場)と「とつかはと」(あわてて動作する様のとつかわ)とを掛けて遊んでいます。つまり、東海道の旅を「まわり双六」に見立てて、急いで旅をしていると詠み解いているのです。たびたび狂歌に双六がでてきますが、そこには急いでいる、せかせかしているなどの意味合いが持たされています。前掲「保土ケ谷」の狂歌と同様に狂歌自体にはそれほど深い遊びが施されている訳ではありません。しかしながら、広重の浮世絵と合わせて、さらに作品を楽しむ必要があることも、やはり、前掲「保土ケ谷」と同じであることが肝要です。

 そこでもう一度広重の絵に戻り、街道上で交錯する3人の男に注目してみましょう。とくに戸塚方向に進む2人は、それぞれ棒先に荷物と書状をつけて褌一枚で駈けています。飛脚の典型的スタイルです。言うまでもありませんが、飛脚が描かれているのは、急いでいるという意味を持つ「とつかは」「戸塚」の宿場だからです。また、反対方向から荷物を担いで歩いてくる男は、急ぐ飛脚の様子を際立たせるための道具と考えれば辻褄があいます。狂歌入り版は、東海道の街道風景にたまたま狂歌が並べられているのではなく、両者が1つとなって、面白おかしい狂歌世界を形作っていると理解する必要があります。なお、保永堂版に侍が馬から飛び下りる様子や女の一人旅が描かれているのは、とつかわとしている風情なのかもしれません。

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〈5〉東海道五拾三次 保土ケ谷 境木立場

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「諺の まはるもはやき 双六や いそげばいそぐ 程がやのえき 遊鶴亭千代子」

 新町橋を渡る旅人を描く保永堂版とは随分と趣が異なっています。峠の茶屋風景と見られますが、広重も右側の大木の横に「境木(さかいぎ)立場」と注意書きを入れているので、通例とは違う場所を描いているという自覚はあるのかもしれません。宿場を過ぎて、西方の権太坂という坂の上にあった立場で、鎌倉山が遠望できる場所でした。なぜ広重が新町橋ではなく、権太坂を上った先の境木を描いたかは当然考えなければならない問題です。

 狂歌は、「まはるもはやき双六や」という諺を発句として、いそぐ程にすぐに「程がやのえき」に到着したと詠み解いています。程(保土)を掛けた言葉遊びです。しかし、これではこの狂歌の遊びはあまりに小さ過ぎます。そこで、前掲『五種競演』(p36)の解説は、仮名の「ほ」はいろはの5番目、また保土ケ谷も東海道5番目の宿場と「いろは双六」に掛けて読み解いています。確かに前宿〈4〉「加奈川」では「いろは双六」が題材になっていましたが、当宿〈5〉「保土ケ谷」は「まわり双六」とあるに止まります。それに「保土ケ谷」は東海道4番目の宿場ですので、いずれにしろ、解説は当てはまりません。廣重狂画『伊勢参宮膝くりげ道中壽語録』参照(『古地図・道中図で辿る東海道中膝栗毛の旅』人文社・2006)。

 まわり双六の楽しさは、一番早く上がることです。つまり、早いことが最重要なのですが、それを受けて、狂歌は、単純に、急ぐ程にもう程がや(保土ケ谷)に着いてしまったと歌っているだけです。これに境木の立場を描く広重の絵を合わせると、武蔵と相模の「国境」である境木の立場に着いてしまったというトピックスを遊んでいることに気付きます。狂歌と広重の絵を重ね合わせることで、遊びの幅が広がるという仕掛けです。広重が敢えて画中に「境木立場」と書いた所以です。前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』の「程ケ谷の地蔵堂」が実際の境界です。

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〈4〉東海道五拾三次 加奈川

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「双六の 旅もいろはの かな川に あがるもたのし 春雨の空 松本亭篶躬」

 保永堂版には「臺之景」という副題が付いていますが、狂歌入り版もその神奈川台と、そこからの入海の眺めを描いています。横浜村(緑色)、本牧の断崖(墨色)、三浦半島(灰色)の遠望が続き、帆掛船が遠近法を応用して並べられています。近場の海には、2艘の漁船と1艘の客船が浮いています。手前の街道には、左側に二階建ての台の茶屋、右側に葦簀張りの出茶屋が描写され、やはり、神奈川宿は神奈川台からの景色を楽しむ場所であることを物語っています。出茶屋では縁台に腰を下ろす2人の男、孫と遊んでいるように見える地元の漁師(?)、そして店番の女など、小さい画面ながら平和な様子が描かれています。街道を歩く旅人達を見ると、街道はやや右下がりの坂になっているようです。前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』にも、神奈川台の手前(江戸方向)に「上り坂」と記されています。

 狂歌は、東海道の旅をいろは(道中)双六に見立て、双六の「上がり」と春雨の「上がり」を掛け、また、いろはの「仮名」と「かな(加奈)」川を掛けて遊んでいます。しかし、この狂歌の面白さが2つの掛詞だけと見ることには、何か物足りない気がします。なぜならば、敢えていろは双六を神奈川宿に持ってくる理由が説明し尽くされておらず、言い換えれば、広重が描いた台の茶屋からの風光といろは双六との関係が突き詰められていないからです。

 「いろはのかな川」とは、仮名とかな(加奈)の掛詞以外に、いろはの3番目と東海道3番目の宿駅・神奈川とが掛けられています。または、上がりの京都に対して、まだまだいろはの振り出しに近い神奈川という対比もあります。さらに、「あがるもたのし」には双六と春雨が上がるという意味の他に、神奈川台(さらには台の茶屋)に上がり、その眺めを楽しむという含意があります。以上のように解さないと、狂歌と浮世絵との間の一体感が損なわれてしまいます。狂歌入り版を読み解くには、狂歌と浮世絵との関連性を意識することが肝要です。嶋田・前掲『広重のカメラ眼』は詳細な解説で大変有用ですが、残念ながら、まったく狂歌を意識していないようです。

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〈3〉東海道五拾三次 川崎

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「春霞 ともに立出て めをとばし わたりつるみの 心のどけし 春園静枝」

 川崎と言えば、六郷(多摩川)船渡し風景が定番で、保永堂版でも品川(八幡塚村)側から富士山の遠望と合わせて描かれています。狂歌入り作品は、すでに川を渡り終えた川崎側から渡船場と船渡しを見返す視点です。また、六郷川に浮かぶ帆船(高瀬舟)もしばしば描かれる風物です。此岸の街道に2人の女が立ち話をしているようです。この女2人旅姿は六郷ではほとんど川崎大師参りの記号となっており、保永堂版でも船中に女2人旅の姿が見えます。左隅には、船場会所があり、旅人と渡し賃のやりとりをしている様子です。他には、従者を連れた武士と町人が左側川崎方向に歩んでいます。作品が川崎側に視点を置き、近景に旅人がその先に進んでいるのを描いているところに、視線の流れを利用した広重の創意を感じます。

 さて、その創意とは何かということですが、狂歌を重ね合わせると読み解けます。狂歌には、「めをとばし」と「つるみ」という言葉が使われています。『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』(天保13・1842年)を参照すると、川崎宿はこの後、市場の「めうとばし」、鶴見の「つるみばし」と続きます。狂歌に詠まれた地名を暗示させる描法を広重が採ったということが分かります。なお、狂歌は「春霞」で始まりますが、ここから想像できることは、狂歌入り作品の背景の灰色の横筋と青色のぼかし部分は、春霞を表現する趣旨であるということです。嶋田・前掲『広重のカメラ眼』(p31)は、高曇りの空、雨対策の油紙の話題に触れますが、狂歌への意識がないように思われます。

 川崎宿と神奈川宿の境に架かる2本の石橋・夫婦橋を渡ると、鶴見に至り、夫婦がつるみ(和合して)、春霞の中、夫婦の心が溶け合う(心の溶けし)というのが、狂歌の意味となります。六郷船渡し場は東海道と川崎大師に至る大師河原道との分岐点に当たり、その川崎大師が女の厄落としで有名であることを考えると、夫婦の和合(女の幸せ)を歌った狂歌もその状況に合わせた題材選択であるということです。さらに、狂歌の作者は女性かもしれません。

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〈2〉東海道五拾三次 品川

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「送り来る 旅の別も 親舟を 見かへりながら 過る品川 花前亭友頼」

 品川宿背後の御殿山へ連なる高台から鳥瞰する視点の作品です。手前には、天水桶を置く、2軒の店が開いている様子が描かれています。中央の店にはちゃぶ台が置かれ、店前の街道でも同じちゃぶ台を男が運んでいるところから推察すると、この2軒の店は膳を用意して接客する貸座敷と推測されます。品川宿には飯盛女(遊女)を配する旅籠の喧噪が容易に想像されるにもかかわらず、広重はそれを避けています。早朝ということもありますが、保永堂版でも、さらにはその他の品川作品でも、「北」の新吉原に対する「南」の品川というイメージを意図的に回避しているようです。「広重あるある」です。

 海上に目を向けると、帆掛け船、帆を降ろした大船(弁才船・千石船)、小舟、そして網を干す漁師町の風景があって、実は品川を特徴づけるのは湊町・漁師町であることを示唆しています。江戸湊は遠浅のため、貢米船や廻船は佃島沖から品川沖に停泊し、瀬取 (せどり)と呼ばれる、親船から小舟に積み替える方法で物資を江戸湊・品川湊に送っていました。名所絵として、品川の主題は、遊女だけでなく、海・湊・漁(海苔の養殖)も重要であって、広重は後者を選択したということです。

 狂歌も、遊女ではなく、瀬取をその内容としています。親船から小舟を使って瀬取する様子を、親船と子船の別れに見立て、旅立ちを見送る親子の別れと詠み解いています。つまり、品川宿には、旅の別れの寂しさ、反対に旅からの帰還の喜びという情緒があるということです。狂歌によって、そのことが明らかとなった訳です。狂歌が見送り(送別)をテーマにしていることから、広重も送別会を開く貸座敷を画題に据えたのだということが理解できます。瀬取と見送りを題材にする狂歌が初めにあって、次に広重作品があるのではと感じられ、ここに広重作品の制作上の秘密があるのかもしれません。国貞・美人東海道と広重・保永堂版との関係にも同様な制作上の秘密があることは、すでに過去のブログに掲載した浮世絵講座で度々指摘したとおりです。

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〈1〉東海道五拾三次 日本橋

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「日本橋 たゞ一すぢに 都まで 遠くて近き はるがすみかな あのや幸久」

 日本橋川下流・東側から日本橋、江戸城、富士山を眺める視点です。保永堂版が日本橋の南側から描いていたのとは異なっています。やはり、江戸城あるいは富士山を画中に据えた構図には捨てがたいものがあります。橋の左側には天秤棒を担ぐ魚河岸の男達、右側には毛槍が目を引く大名行列が描写されており、これら人物像は保永堂版と同じです。橋下には多くの荷を積む高瀬船や屋根船が見え、左右の倉庫群と合わせ、江戸の経済的繁栄を表現しています。

 狂歌を読み合わせると、日本橋は都まで「一筋」の東海道の起点ですが、日本橋の「二」と一筋の「一」との数字遊びにまず気付きます。「遠くて近きはるがすみ」には、遠いようでも近い、近いようでも遠い「春霞」という情景描写の他に、都が「遙かに霞む」という意を掛けて、日本橋から都までの旅路の遠さを詠み込んでいます。狂歌に、数字遊び、掛詞という仕掛けが施されていることが分かります。狂歌から感じることは、江戸・日本橋が出発地であり、京の都が一筋の思いの果ての地であること、つまり、現世と極楽、穢土と浄土という関係性において捉えられていることです。これに広重の絵を合わせると、京都にはない江戸城と富士山が江戸を特徴づける存在であること、また、江戸が京都に優越する経済の集積地であるという自負が読み取れます。富士山と将軍様のお膝元の経済的繁栄を自慢する、江戸っ子の心情が見えてきます。

 歌川広重画・柳下亭種員文『東海道風景図会』(嘉永4年・1851)の日本橋には、「名城と名山はれて江戸の春」と記されています。上記と同趣旨でしょう。富士山は江戸でこそ見ることができ、琵琶湖にも負けない存在であるというのが江戸っ子の自負です。とはいえ、上野に琵琶湖に模した不忍池が造られる次第なのではありますが…。

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広重の狂歌入り東海道

◇総説

 広重の『狂歌入り東海道』は、保永堂版東海道の次に版行されたシリーズで、天保13年(広重46歳)頃、版元・喜鶴堂(佐野屋喜兵衛)から横中判錦絵として制作されています。京都が2図構成になっているので、総計56枚あります。おそらく、2作品で1枚摺りという制作的合理性と画帳にすると見開きで楽しめるという娯楽的便益に適っているからでしょう。やはり、国貞の『東海道五拾三次之内』(美人東海道)も、同じく、中判で総計56枚となっています。

 詳細は、狂歌入り東海道・各説に譲りますが、本シリーズは、東海道の名所風景に狂歌が添えられるという形式を採っています。この文字に表された狂歌を通して、絵によって表現しようとした広重の制作意図や作品の背景を探ろうというのが、本講座の目的です。私達は、現代人として江戸時代を想像して浮世絵を鑑賞していますが、その理解が正しい方向にあるのかどうかを確認し、あらためて江戸時代の人々の心情に思いを巡らせようとの企画なのです。なお、過去に本講座で採り上げた、広重の保永堂版東海道、国貞の美人東海道他のシリーズも思い出しながら、東海道五十三次鑑賞の旅に出立したいと思います。

◇絵入り狂歌本の流行

 天保期(1830~1844)に入ると、名所・風景を主要画題とする浮世絵が北斎・広重等によって制作され、流行するようになります。その要因として、街道整備に伴う旅行者の増大(伊勢講・富士講)、および紀行文学(『東海道中膝栗毛』)、名所案内・地誌出版(『東海道名所圖會』、『江戸名所圖會』)の興隆などが挙げられます。ただし、浮世絵を商業出版物と理解するならば、それ以前もしくは同時期にあった商業的成功の見込みという観点を忘れてはなりません。そこでは、名所・風景を挿絵とする狂歌集がすでに多数出版されているという事実に注目する必要があります。つまり、狂歌ネットワークの全国的広がりがあって、そこから各地の風景を題材にした『絵入り狂歌本』が生まれ、それらが独立した名所絵(風景画)に発展したという道筋を考えているということです。

 北斎作品に存在する何か説明不足の部分、広重作品から感じる説明しにくい情緒の部分は、いずれも、俳諧世界も含めて、広く狂歌世界が前提にあるからではないでしょうか。したがって、北斎・広重の名所絵(風景画)には狂歌世界が内在し、前提にされているという視点で各作品を見直してみたいと思うのです。

◇狂歌と俳諧

 狂歌とは、五七五・七七の音で構成した短歌(和歌)形式に、社会風刺・皮肉などの諧謔滑稽を盛り込んだものです。明和4年(1767)、大田南畝(蜀山人)が著し、平賀源内が序文を寄せた『寝惚先生文集』がきっかけとなり、社会現象化しました。明和6年(1769)には、唐衣橘洲(からころもきっしゅう)の屋敷で初の狂歌会が催されています。狂歌には、『古今和歌集』などから本歌取りした作品が多く見られます。大田南畝、唐衣橘洲、朱楽菅江(あけらかんこう)などが有名です。なお、広重・英泉の『木曽街道六拾九次』の参考資料とした『壬戌紀行』も、大田南畝の手によるものです。

 狂歌と俳諧とは全く異なったものと思うかもしれませんが、江戸時代の俳諧は、笑いの文学と言ってもよく、必ず「仕掛け」が施され、たとえば、古典、掛詞、見立てなど、頓知やパロディーがあって、どちらかというと「言葉遊び」でした。したがって、狂歌世界と俳諧世界とは互いに交錯していたと言うことができます。この言葉遊び(「ただごと句」)の俳諧を「心象風景への共感性」の文学に高め、仕掛けがなくとも成立するものにしたのが、松尾芭蕉『奥の細道』の俳句なのです。蕉風の俳句が興隆した結果(俳諧評判記『花見車』の「桃青」についての記述参照)、狂歌と俳諧とは別ものと思われがちですが、原点に帰れば、ともに同じ世界、すなわち、人間関係やネットワークの中にあったものと言えましょう。芭蕉が、「軽み」に拘ったのも、俳諧が元は笑いの文学であったからです。翻って考えれば、狂歌には、元々の俳諧と同じく、笑いの要素が継承されているということです。また、五七五の発句に七七の連句を合わせれば狂歌になるのですから、狂歌と俳諧は共通の構造の中にあるということが肝要です。

 結果として多くの『絵入り狂歌本』が制作されたのも、各地の名所絵と狂歌との間に深い親和性があったからで、読み解けば、浮世絵を楽しむような一般庶民は、仕掛けのない芭蕉の句よりも、ある意味で、仕掛けのあった狂歌により親しみを感じていたからです。

◇参考資料

大型本『歌川広重 東海道五十三次 五種競演』(中山道広重美術館所蔵作品)阿部出版・ 2017/10/1

嶋田正文『広重のカメラ眼―佐野喜版東海道の旅』沖縄図書センター・2001/4/5

大型本『広重 東海道五十三次―八種四百十八景 (慶応義塾 高橋誠一郎浮世絵コレクション)』小学館・1988/11/20

【デジタル資料】
Kindle版『東海道五十三次: 【二】佐野喜版(狂歌版) 東海道五十三次全集 』M-Y-M WorldCalendar

*国立国会図書館デジタルコレクション

*慶応大学メディアセンター資料

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