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3-41.大尾一筆の不二

Fugaku3_028

 鈴木・前掲書(p205)は、「第三編の薄墨の色ざしが北斎自身の手によって行なわれたものかどうか」について、私見と断ったうえで、「北斎の手ではなく、名古屋住の北斎門人中のたれかの所為と見ている」と述べています。その見解を尊重すると、本作品の濃い墨が北斎の意図する部分と考えられます。それ故、富士が黒墨によって一筆書きで描かれていると理解して、本作品を読み解いていきます。

 『富嶽百景』「大尾」の作品から分かることは、「形」という視点では、富士は一筆書きで表現できるということです。ところが、初編・2編・3編に百に及ぶ富士が描かれているという事実に目を向けると、百に及ぶ富士は決して「形」という視点だけでは描かれていないということが分かります。作品制作の出発点に富士講信仰がありますが、その観点からすれば、『富嶽百景』の百に及ぶ富士の多くには、じつは富士の恵みや御利益が描かれているということに気付きます。また、北斎の個人的な妙見信仰の観点からは、富士を地上の北辰星と看做し、庶民世界をその周りを巡る北斗星に擬えて、結局は恵みや御利益の「根元」を富士に求めていることが分かります。さらに、一見すると名所を描いていると思われる作品も、読み解けば、富士の恵みや御利益が感得できる場所を発見し、その奇景を描いているのです。本稿の立場では、以上を総括して、百に及ぶ富士は「富士と人との近しい関係」を描いていると理解しています。そして、その「近しい関係」をある人は富士講信仰から、またある人は妙見信仰からという具合に、それぞれ各人の心情において感得するのです。

 「木花開耶姫命」から始まり、「千金富士」で終わる、初編31作品、「井戸浚の不二」から始まり、「谷間の不二」で終わる、2編30作品、そして、「赤澤の不二 河津三郎祐安 脵野五郎國久」から始まり、「蛇追沼の不二」で終わる、3編40作品のすべてが、「大尾一筆の不二」に内包される富士の本質から生まれています。富士それ自体を超えて、富士世界というものを構想し、この宇宙の全てが富士世界に包摂され、誰もが気を付ければ生活の中に富士世界を見つけ出すことができるということを、北斎流の仕掛け、からくり、地口などを駆使して描き上げたのが『富嶽百景』です。したがって、単なる絵手本としてではなくて、富士世界を語る絵本として読み解くことができます。

 富士を「三国の根元」とする富士講の思想は、当時の江戸っ子の気分に非常に添うものでした。そこで、北斎はそのような江戸っ子の素朴な自尊心に訴えかける方法で、『富嶽百景』の制作を行ったと考えられます。しかし、北斎自身が富士講信者であったかと言えば、否と答えることになりましょう。北斎は、「画狂老人卍」なのです。

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