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2-27.武邊の不二

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 文人を採り上げた「文邉の不二」に対し、武人と深く係わる富士を紹介する趣旨です。描かれているのは、源頼朝が富士の裾野で催した巻狩りにおいて、士卒を傷つけた手負いの大猪を退治した伝説を持つ、仁田四郎忠常(にったしろうただつね)です。平家物語では、「にたんのただつね」と呼ばれています。猪の背中に飛び乗り、止めを刺す勇猛果敢な武者姿が、富士を背景に表現されています。文化3年(1806)、北斎が現・木更津市須賀日枝神社に旅した際、やはり、忠常の猪退治の作品(画狂人北斎旅中画『板絵着色富士の巻狩図絵馬』139.3×180.4㎝)を奉納しています。比べると、百景作品の方では猪が倒れかかっており、よりダイナミックです。

 作品の構造に目を向けると、右頁で士卒の持つ棒や竹がいくつかの三角形を作っていますが、猪の胴体から右下に流れる竹と忠常の右足が作る三角形は猪の体を取り込んで肉厚な富士を形成しています。忠常と猪の組討ち自体が近景に富士を形作っていると見るべきでしょう。言い換えれば、忠常と富士の組討ちを描くことが、北斎の趣向です。富士頂上が作品の枠外に出ているのも、富士の高さ表現だけではなく、暴れる猪あるいはそれを取り押さえる忠常の桁外れた力を示すものです。なお、猪の毛並み、忠常の行縢(むかばき)の毛筋の微細な表現は、彫りの技術と合わせて非常に優れています。

 ちなみに、忠常は、『曾我物語』に、建久4年(1193)の曾我兄弟の仇討ちの際に、兄の祐成を討ち取ったとあるだけでなく、『吾妻鏡』によれば、建仁3年6月3日(1203)、源頼家の富士の巻狩りの際、富士の人穴を探索し、人穴の奥に大河があり、波が逆巻いていて渡れず、そこで松明で川向うを照らした先に奇特を見たとの伝説を持っています。つまり、「浅間大菩薩の御在所」を実体験した人物なのです。したがって、富士講の信者からすれば、猪と組討ちし、また祐成を討ち取った荒武者ということよりは、人穴で富士神霊と出会った体験者として有名です。その意味において、「武邊の不二」に忠常を採り上げることは、富士講信者には納得のことです。上述須賀日枝神社も富士塚のある神社として、富士講の地域的拠点なので、北斎は、忠常を主人公にする絵馬を奉納したと理解できます。これ程の人物ですが、将軍頼家への謀反の疑いで北条氏によって滅ぼされてしまいました。

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2-26.文邉の不二

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 百景「文邉の不二」は同「武邊の不二」と1対になっている作品で、文学に現れた富士という程の意味でしょうか。この観点から富士を考えると、山辺赤人の万葉集の和歌「田子の浦ゆ うち出でて見れば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける」が第一に思い浮かびます。北斎の発想も同様と思われ、左頁に座る歌仙風の人物は、その赤人を表現するものです。北斎は、浜辺に「塩焼き」(塩田)の情景を加えています。

 なお、くずれ麻の葉模様の大和雲によって背景と区切るデザインの印象が新古今調ということから、新古今和歌集に採られ、後に百人一首に採用された「田子の浦に うち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ」の方を想定しているという見解があります(鈴木・前掲書p234)。北斎が『百人一首 うはかゑとき』「山辺の赤人」を手掛けていることをも勘案すると後説の方が妥当かもしれません。前作品「雪の且の不二」が赤良の狂歌風世界を描いていた流れを受けて、赤人の百人一首風富士を描いたということです。庶民文化に根付いた富士という意味では、まさに富士と庶民との一体世界を採り上げています。

 三十六景「東海道江尻田子の浦略圖」は、百景「文邉の不二」の赤人の部分を取り除いた作品として理解できます。三十六景作品は「多くの大きな間違いを描いている」という批判がありますが(有泉・前掲『楽しい北斎』p97~p100)、百景作品では、塩焼きの情景なども相当整理されています。重要な点は、三十六景作品には「略圖」という言葉が付け加えられていることです。なぜ、田子の浦の風景ではなくて、その略図であるのかというのは、百景作品と合わせて考察すると、「赤人の和歌に見立てた作品ですよ」という正直な題名を付けたからです。したがって、「略圖」は、「りゃくず」ではなく、「やつしえ」と読むべきでしょう。ちなみに、鳥文斎栄之『風流略源氏』も「ふうりゅうやつしげんじ」と読むのが通例です。

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2-25.雪の且の不二

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 「雪の且」と題する作品は、三十六景「礫川雪ノ且」が先行しており、共通する制作意図があると考えてよいでしょう。北斎は、「旦」(あした)を「且」と表記するクセがあるようです。三十六景作品では、料亭で遊ぶ内、気付けば降り積もった雪の朝を迎え、富士も江戸も白銀に覆われ、富士と一体化した世界が出現した驚きを描いた作品と理解されます。この三十六景の世界観を前提にして、百景「雪の且の不二」を見ると、本作品の仕掛けがより明確になります。

 雪かきをする男が積み上げた雪山を雪の富士塚と看做し、富士と見立てる趣向は大変分かり易く、雪を載せた簑笠の男と頭巾姿の男が見つめる様子は、実は三十六景作品の料亭から雪の富士を眺める粋客と同じ心情と理解しなければならないでしょう。また、その雪山に喜び駆け上る2匹の犬は、前作品「月下の不二」の狼を受けていることは間違いなく、江戸を守る(雪)山の神に見立てられているはずです。したがって、その喜ぶさまは、江戸の里が平和と安寧の世界にあることを暗示していると理解できます。北斎が作品の流れを意識していることが明確になり、百景2編を「想の趣くままに作成した」と理解することが誤りであることがここでも再確認されます。

 なお、雪の積もった大きな笠を被った酒買いの小僧は、この前後宴会か何かの会があったことを想像させる記号です。酒徳利には「四方」(よも)とあり、神田新和泉町の酒屋四方久兵衛の銘酒「瀧水」と推測されます(下掲『江戸買物獨案内』文政7・1824)。天明期の文人太田南畝(蜀山人)が狂歌師として「四方赤良」(よものあから)を名乗ったことは有名で、その連を「四方連」と呼んだことを考えると、この日、狂歌の会があったのかもしれません。とすればこの雪山は狂歌の題材にするために意図的に制作されもので、静謐な雪景色とは対照的に酔狂な世界を描いていると読み解くことができます。雪かき跡や雪中の足跡もその感をいっそう強めます。単純な風俗表現ではなさそうです。

Kaimonoannai_yomo

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2-24.月下の不二

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 本作品の読み解きのキーポイントは、右頁の遠吠えする犬のような動物をどう理解するかに掛かっています。有泉・前掲「楽しい北斎」(p190)は、北斎の『画本彩色通 2編』(嘉永元年)および同『弘法大師修法図』(西新井大師総持寺所蔵)を参考資料として、「狼」と断定しています。この動物の背後に石の祠があり、2本の木の間にしめ縄が張られていることから察すると、おそらく、神として祀られている動物を暗示しているので、鈴木・前掲書(p233)が言うような「野犬」ではないと思われます。関東一円広くに信仰されていた御岳山・御嶽(みたけ)講の神「大口真神(おおぐちまかみ)」、すなわち、日本狼ではないかと推測されます。日本武尊を助け、また村々を守る山の神として古来より信仰されており、江戸では火伏せの神としてその護符が家々に貼られる程でした。ちりめん本日本昔噺シリーズ『竹篦太郎』の主人公でもあります(下掲図版参照)。

 「オイヌさま」とも呼ばれる狼が遠吠えしている姿は、威嚇的風景ではなく、村を見守る神を表現しており、それ故、中景に描かれる前庭で「砧打ち」をする2人の女も、夜に外で行うというのは現実的ではありませんが、「六玉川」の「調布の玉川」を暗示し、平和な農村風景を意図するものと捉えるべきでしょう。月下、多摩川の川面にのどかに浮かぶ2雙の舟も、同様の表現意図です。本作品は、「大口真神」の石の祠、およびその実体としての「オイヌさま」を依代として、月下の富士の御利益が中景の村に及ぶ様子を描くもので、狼が村々を見守るがごとく、富士が庶民を見守り、平和な世界が実現するという思いを表現するものです。狼は山の神であり、山の神の第一の根本は富士であるという理解が前提となっています。なお、猿をやはり山の神と見て、富士の依代として利用したのが、百景初編「烟中の不二」です。

 ちなみに、人に危険な狼が村を守る神として祀られるのは実利的理由もあって、畑に現れる猪や鹿を捕食する狼は大変ありがたい存在であるからです。したがって、狼の守り札は、猪鹿除け・害獣除けの目的が最初で、ここから、盗難除けが派生し、さらに、武蔵野などの焼畑耕作に絡んで、火難除けの効能が加わったのではないかと想像されます。また、狼信仰の神社としては、三峰山に詣でる三峯(みつみね)講が今日でも有名です。上述した御岳山の信仰は、主に山を南に多摩川水系を下って関東平野一帯に広がりを見せ、三峰山の信仰は逆に北に山を伝って甲州(笛吹川・釜無川・富士川)、信州(千曲川・天竜川)、上州(利根川)、さらに東北へと広がっています。ということは、信州・光前寺の竹篦(早)太郎伝説は三峰山系統のものとなります。詳細は、小倉美惠子『オオカミの護符』(新潮社・2011)参照。

Shippeitaro

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2-23.筧の不二

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 下掲・魚屋北渓『北斎道中画譜』「沼津」に、三島宿の外れにあった「千貫樋(せんがんどい)」を描いた作品があります。木製の樋が谷を越えて水を対岸に導き、その背後に富士が遠望できるという名所です。同作品では、旅人達が興味深くその眺めを楽しんでいます。同作品と「筧の不二」の主要人物が共通しているので、おそらく、北斎はこの千貫樋を想定して描いたのではないかと思われます。とすると、流れる川は、伊豆国から駿河国に入る場所にあった境川ということになります。

 百景シリーズでは、近景に富士世界を展開させるために、相似する形象(三角形)や依代となるもの(祠・鳥居)等を描き、視覚に訴えるという手法を採ることが多いのですが、本作品の場合、そのような仕掛けを見つけ出すことができません。筧から落下する水の曲線は、確かに、夕景の富士の稜線に相似しますが…(三十六景「隠田の水車」参照)。もちろん、筧と川という、2編の副テーマである水が題材になっており、水の根源である富士と筧・川とは直結し、その川の水が手前に流れてくるということによって、遠景の富士と近景の街道の旅人達とは一体化しています。富士を根源とする龍(水)神世界が描かれているという意味で、近景に富士世界が出現しているという作品です。しかしながら、どちらかというと、船が潜れる程、そして富士を抱く程の巨大な筧があるという名所紹介になっているように感じられます。落下する水流で船が沈みそうに見える筧の表現は、北斎の人を驚かそうとする過剰なサービス精神の発露です。

 ちなみに、戦国時代の沼津周辺は北条、武田、今川三国によるせめぎ合いの地で、千貫樋は、三家間で和睦が成立した際に北条氏康から今川氏真に贈られたものと言われています。伊豆の水を駿河に送る樋を作り、水の不足する当地を潤し、和睦の土産にしたという訳です。これを、富士の御利益、龍(水)神の恵みというように意味付けすることは、富士講信者には自然なことです。 付言すれば、本作品は、「冩真の不二」、「夕立の不二」などと合わせて、「登龍の不二」の現実の姿を表現したものです。

Gafunumazu

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2-22.遠江山中の不二

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 百景初編「山中の不二」、本作品「遠江山中の不二」、そして三十六景「遠江山中」は、いずれも、画面左上から右下斜めに大木、材木が横切り、その背後に富士が眺望できるという共通の構図です。たとえば、三十六景「遠江山中」は、山中で巨材を鋸引く職人達の姿を捉えて、鳥居仕立ての2本の支柱の間に富士を置き、画面の対角線上に置かれた巨材が造る斜辺を富士の稜線に相似させ、近景に富士世界を出現させています。また、鋸引く職人が富士より高い位置で仕事をしている奇観表現によって、富士を眼下に置き、富士を身近に感じたい庶民欲求に応えようとしています。ただし、絵組の構想があまりに優先されすぎている不自然さには批判があって、それを避けるためか、百景初編「山中の不二」では、猟師の男達と茸狩りの女達を朽ちた古木と合わせて描くことによって、山中らしい自然な情景に再構成しています。

 本作品「遠江山中の不二」もその流れを受けて、三十六景「遠江山中」にあった絵組の構想はそのまま維持しながらも、3人の樵を登場人物として山中に相応しい自然な表現を選択しています。北斎の富嶽作品では、綱・糸・紐などが描かれている場合、それらを使って近景に富士に相似する三角形を作り出して、富士世界を導き出す手法がよく使われます。その点で、本作品でも大木に括りつけられた綱がいくつかの三角形を構成し、近景に富士を導き出す記号になっています。

 その上で、次の視点を指摘しておきます。それは、背後に描かれる富士の山腹前に樹木が立ち、その葉が富士の山肌のように重ねられていることです。つまり、富士と樹木が同一化しているということです。遠景の富士がそうならば、前景の富士も同じように見るべきでしょう。すなわち、綱の作る富士は、その山腹が斜めに傾く大木からできているのです。前景全てが富士の見立てであったという訳です。3人の樵は完全にこの富士世界に包まれ一体化しており、樵仕事が富士の御利益であることが一目瞭然です。

 なお、切り株に腰を下ろす者、木に登って綱を確認する者、身を逆さまにして斧を振るう者とが、1人の一連の作業工程のように見えるという巧みな描き分けは、北斎得意のものです(鈴木・前掲書p232参照)。また、木に登って綱を確認する者と身を逆さまにして斧を振るう者とは、大木を挟んで左右対称的表現です。斧を振るった際に飛び散った木屑が富士の裾野を飛ぶ2羽の鳥に変じる手法は、前掲「海上の不二」の千鳥と同じです。

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2-21.夕立の不二

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 雷鳴閃光の下、驟雨に逃げ惑う人々の様子を描く作品で、右頁に鐘堂が見えているので、寺院とその周辺の民家のある場所であると思われます。茅葺き屋根の茅が激しく揺れており、風の吹きすさぶ様子も荒々しいと言えます。墨の地ぼかしが激しい雷雲を表現しています。三十六景「山下白雨」には描かれていない、地上に近い部分に視点を引き寄せて表現されたものと思われます。

 左頁の雷光が富士の右稜線に見立てられているという仕掛けに気付けば、この夕立が背後にある富士からの恵み(御利益)であることが分かります。百景2編の副テーマが富士からもたらされる水であることを最も良く表現する作品です。「夕立の不二」は龍(水)神としての富士を描くもので(前掲「冩真の不二」参照)、前掲「登龍の不二」をより現実的に描き直したものであると言うこともできます。一般庶民には、夕立の中に富士に向かって登り行く龍の姿が見えたに違いありません。

 ちなみに、『江戸名所圖會巻之五』(前掲『新訂江戸名所図会5』p133、p138)の「富士浅間の社」(駒込富士)の解説には、「祭る神木花開耶媛一坐なり」、「毎歳の六月朔日祭礼にて、前夜より詣人多く道路に充てり。この地の産物として麦藁細工の蛇…などを鬻(ひさ)ぐ」とあります。富士塚で行われる浅間の社の祭礼では、駒込富士に限らず、「麦藁細工の蛇」が売られるのが通例です。これは、富士の祭神が龍(水)神の性格を持つものと考えれば、しごく自然に理解できます。洪水などの災厄を避けるために、治水を司る開削の神「木花開耶姫命」に願うのは当然ですが、祭礼土産として龍や蛇を買い求めるのは、水の根源が富士にあるという信仰から敷衍して説明できます。

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2-20.不二の麓

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 題名がなければ、特段富士に関する作品とも思われないのではないでしょうか。農民達が背負う竹籠ばかりに目が行ってしまいます。この竹籠の中身について、富士講の御師に伝わる、「富士の徳も備わった霊薬」という説がありますが(山形美術館図録『北斎 富士を描く』p96)、初編「山中の不二」を参考にすると、おそらく茸と考えられます。それが、薬草であろうと茸であろうと、富士からの御利益であるという点を間違わなければ、それ程詮索することもないでしょうが。山中あるいは富士の麓で採れた茸を運んでいる道中、修行者と擦れ違った様子を描いています。

 さて、本作品の制作意図はどこにあるのでしょうか。山麓で採れた茸を富士の御利益と考えて、全体の姿が描かれていない富士を想像させ、富士と近景を1つの富士世界へと帰結させようとしていると考えられます。さらに、鈴木・前掲書(p232)は、「人物たちが皆同じ型の竹籠を担っているのが意味ありげ」と述べていますが、この視点は重要です。なぜならば、右頁の4つと左頁の3つの竹籠とで、柄杓型の北斗七星となり、また、先頭の竹籠が北辰星(北極星)となり、北斎が信仰する妙見思想を読み取ることができるからです。北斎自身は、富士への信仰を富士講信仰とは異なって、妙見(日蓮宗)信仰から根拠付けている節があり、本作品はそれが表出したものと考えられます。三十六景「諸人登山」において、富士講の信者を描いた際にも丸い笠が7つあって、やはり北斗七星を表し、富士信仰を妙見信仰から意味付けしていると示唆されます(百景「七橋一覧の不二」参照)。

 なお、百景3編「八堺廽の不二」と比較すると、本作品では農民達の背後が谷あるいは窪地になっているように見え、まるでお鉢廻りをしているかのようです。くわえて、4人もの女達が描かれている点に着目すれば、富士頂上の「八堺廽の不二」が男の富士講信者達のものであるのに対して、「不二の麓」は女達も参加できるお鉢廻りが表現されていると読み解くことができます。日蓮宗信者の女達を描いた、百景「大石寺の山中の不二」の根底にも、同様の仕掛けがあります。ちなみに、北辰星・北斗七星を北斎自身の暗号と捉えれば、これらと富士との組み合わせは、「富士の前に北斎立てり」(北斎こそ地上の富士である)という自負の表れと理解できます。

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2-19.嶋田か鼻 夕陽不二

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 題名を抜きにして作品を一見すると、前景には大小の水除杭が多数打たれた隅田川河畔で釣りをする人々、中景には川面に浮かぶ屋根船、荷を運ぶ船、四つ手網を上げる船、遠景には柳橋辺りの料亭・船宿が描かれ、江戸の夕暮れ時を切り取った情緒を感じます。それ故、この風景は隅田川東岸・両国の百本杭辺りを写す作品であるという見解があります(山形美術館図録『北斎 富士を描く』2008、p95参照)。ただし、両国辺りの隅田川程の広大さは感じられません(三十六景「御厩川岸より両國橋夕陽見」参照)。

 北斎の題名に素直に従えば、「嶋田か鼻」、すなわち、江戸島田町の境界から夕日に浮かぶ富士を見ている作品です。島田町は、切絵図『本所深川繪圖』(前掲『嘉永・慶応江戸切絵図』p52~p53)を参照すると、深川にあって、東は木置場、西は三十三間堂を挟んで富ヶ岡八幡宮、南は入船町等に接しています。本作品の左端に「定杭」(じょうくい)が立ち、境界規定の定点を保護するために覆いが施されているのが確認できます。この境界地の対岸の方向は、おそらく西側と推測されます。なぜならば、西側は富ヶ岡八幡宮の門前町に繋がる地域で、川岸に多くの屋根船が停泊しているのも、門前に料亭・船宿があるためと理解できるからです。本作品に幾分かの場末感があるのも、両国ではなく、深川だからです。本作品は、島田町と富ヶ岡八幡宮の門前町との境界辺りで多くの庶民が釣りを楽しむ背後に、夕日に浮かぶ富士が展望できるという情景を描くものです(鈴木・前掲書p231)。 

 さて問題は、北斎がどういう方法で近景に富士世界を出現させているかですが、左から右に高くなる杭と定杭の隣で釣りをする男の竿糸とが巨大な富士の左稜線を作っているのが分かります。また、中景の四つ手網と背後の富士が墨一色で摺られ、まるで1つの網のように見えます。富士を網の一部に見立てて、中景に富士世界を導き入れているのです(色による富士と景色の同一化については、前掲「三白の不二」参照)。これらの手法によって、庶民生活が富士の一部であることが見事に表現されています。なお、前掲「洲嵜の不二」で、深川八幡宮の元宮に江戸でも有名な富士塚があることを指摘しましたが、これが、名所として有名な両国の百本杭からの富士風景と考えなかった理由でもあります。ちなみに、定杭は土地だけでなく、富士との結界という意味もあるのかもしれません。

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2-18.大石寺の山中の不二

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 三十六景「身延川裏不二」、百景「裏不二」は甲州身延から見た富士の情景であり、日蓮宗の身延山久遠寺に対する北斎の信仰的関心から題材選択がなされていると考えられます。なぜならば、北斎は柳島の妙見堂(日蓮宗法性寺)を篤く信仰しているからです。このような観点から本作品を見直せば、日蓮の弟子日興が開基した、多宝富士大日蓮華山大石寺に対する北斎の信仰的関心から生まれたと見るのが自然です。

 広く富士を信仰・敬愛する人々は、富士講信者に限られたことではなく、富士は日蓮宗の信者にとっても重要な存在で、本作品は日蓮宗の信者の視点から見た富士を描いていると考えられます。したがって、険しい山道を歩き、奇岩の背後の富士を眺望する旅人達は、大石寺参拝に向かう日蓮宗の信者ということになります。左頁に2人の女性信者が描かれていて、この点からも女人禁制の富士登頂ではないことが確認できます。なお、鈴木・前掲書(p231)は、大石寺は、「富士山を本門の戒壇に擬して創建された」とする見解を紹介し、富士と大石寺の緊密な関連を指摘しています。

 本作品では、蟹の鋏のような岩山の背後にある富士の頂上をも奇岩風に表現しており、江戸から見た優美な表情とはかなり異なった富士姿です。反対に、中景にある岩山を富士頂上の証(富士塚)と看做せば、大石寺参詣の人々がまるで富士の頂上廻りをしているかのように見え(3編「八堺廽の不二」参照)、2つの意味を持つからくり絵であると読み解くことができます。富士を相対化し、富士と一体化した世界を描くという北斎の視点は、ここでも確実に生きています。

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2-17.七橋一覧の不二

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 本作品は、河村岷雪『百富士』「橋下」、北斎『たかはしのふじ』、三十六景「深川万年橋下」の系譜に当たるものと言えます(鈴木・前掲書p231参照)。霊峰富士が橋の下にあるという奇景を狙った構想性の強い作品です。橋脚を神社の鳥居と見立てれば、神なる富士を遠望する発想であり、橋自体を富士と看做せば、近景に富士世界を導き出す構想であり、橋下を流れる水に注目すれば、水の根源たる富士と近景の川が龍(水)神で繋がるという百景2編の副テーマに添う論理です。いずれにしろ、富士と一体化した平和な田園風景を描いていると言えます。

 本作品の特徴は、題名に「七橋一覧」とあるように、7つもの橋が画中に描かれていることです。「七」という数字を選んだ点には、北斗七星を信仰の中核に置く北斎の妙見信仰が表出していると考えられます。富士を地上の北辰(北極)星と見立て、その周りを北斗星に見立てた7つの橋が廻る情景こそが、この世界を象徴するものであるという思想が読み取れます。さらに、遠景の富士と近景の橋を相対化する北斎の視点からすれば、富士も橋と看做され、実は本作品には8つの橋が描かれていることになります。江戸庶民には、「八橋」の方が縁起良く、受けがよいのではないかと思われます。一例として、「八橋」(前掲『新訂江戸名所図会1』p65の「一石橋」の解説)、広重『名所江戸百景』「八ッ見はし」等参照。

 なお、北斎『諸国名橋奇覧』「三河の八ッ橋の古圖」では、題名は「八橋」ですが、人物が被る丸い笠の並びは北斗七星を暗示しているように見えます。北斎は、8よりも7の数字が好きなのかもしれません。あるいは、北斎の妙見信仰を考えれば、8を北辰星1+北斗星7とに分解して理解しているのかもしれません。ちなみに、小島の松の側にに石標が建っていますが、ここが杜若(かきつばた)で有名な歌枕の地であることを示すものです。名所案内の記号として、前掲「冩真の不二」の読み解きに応用しています。

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2-16.冩真の不二

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 3人の供を連れた絵師が、2本の筆で富士を写し取っている作品です。ただし、絵師の視線は、どちらかというと、手前にある泉(池)の小島に生える松とそこに建つ祠に向けられているようです。目を惹くのは、先端に小鳥が留まる右頁の榜示杭です。おそらく、この泉が名所になっており、その名前等を示す役割を担っているものです。つまり、本作品は、ただ絵師が富士を写し取っている様子を描いているのではなくて、その名所に行楽も兼ねて訪れている情景が表現されています。同時に、この名所を北斎が選んだということが重要で、そこから、富士の本質が語られる可能性があるということです。その意味で、「冩真」=正写(しょううつし)と読むことにします。

 富士の周辺部には、富士の雪解け水が地上に湧き出した美しい湧水池がいくつかあり、特に長谷川角行系の富士講信者は、富士登山の際、これらの湧泉を廻る「八海廻り」を行いました。古くは登頂前にここで水行(水垢離)を行ったのですが、後に各湧泉に「八大龍王」が祀られ、巡礼路が整備されるようになります。「忍野八海」、「内八海」(富士五湖が含まれる)、「外八海」(諏訪湖が含まれる)などが有名です。北斎は、この「八海廻り」を題材にして、湧泉に祀られる龍神祠と神木の松越に富士を描いていると推測されます。湧泉の規模を考えると、「冩真の不二」は忍野八海の1つの湧泉と想像されます。

 富士の雪解け水が湧き出す場所なので、当然、この地は水を通して富士と繋がり、また、龍神(水神)祠と神木の松が富士の依代となって、この地が富士世界に包含される場所であることを物語っています。逆に、富士に龍神(水神)を見ていると言うこともできます。ここに富士の本質があります。「冩真の不二」は、百景2編が水をテーマにしていることにも適う作品です。

 三十六景作品では、たとえば、「駿州江尻」の画面中央部分に祠が描かれていますが、これが入江あるいは池の龍神祠であると見抜けば、それだけで、近景が水の根源である富士と深く繋がります。また、同「信州諏訪湖」の前景には2本の松と祠が描かれていますが、これもこの龍神祠を使って、水の根源である富士と水を湛える諏訪湖とを繋げようという意図であると読み解けます。百景「冩真の不二」を含め、いずれも富士の本質を龍神(水神)と捉える同系列上の作品であるということが分かります。

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2-15.不二の室

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 富士講信者が富士山頂を目指す場合、山中の石室にて1泊してから向かいます。本作品は、その1つの石室に休憩・宿泊している信者達を描いています。「八合目石室」の写真(有泉・前掲『楽しい北斎』p185)、あるいは浮世絵(歌川貞秀『三国㐧一山之圖』3枚続・辻岡屋文助・弘化4年~嘉永5年・1847~1852、参照)に描かれる富士山中の所々にある室と比べると、造形にかなりの違いがあります。本作品は自然にできた洞窟に若干の石を積み上げた構造に見えます。この点を捉えて、有泉・同書は、富士山中の石室ではなく、「富士塚の『御胎内』と呼ばれる洞窟」であると結論付けています。

 「御胎内」とは、富士の北西の麓にある「人穴」と呼ばれる自然洞窟で、浅間大菩薩の「御在所」と考えられてきました。「仁田四郎忠常」がこの人穴に潜って浅間大菩薩に出会った草紙が有名です(後掲「武邊の不二」参照)。この人穴信仰は富士信仰の重要な要素であり、人工富士である富士塚にもそれを模した洞窟が造られるのが常です。ただし、修行姿の富士講信者達の富士登頂と下山を描く初編「不二の山明キ」、同「辷リ」の2作品と一体として判断すると、「不二の室」は富士の人穴、ましてや富士塚の人穴ではないことが導かれます。富士講信者にとっては、身禄が入滅した地の石室で宿泊する追体験(登頂行程)が重要で、その描写こそ第一優先事項と思われるからです。

 しかしながら、北斎の表現に実際の構造との乖離があるのも事実です。これをどう説明するかです。鈴木・前掲書(p230)は、「実景の写生というよりも頭脳で描いた感じがする」と述べています。この点からすると、北斎には富士登頂の実体験がないことが推測されます。そこで、身近にあった富士塚の人穴から想像して描いたとするのが、説得力ある解決策です。善意に解釈すれば、室の壁を取り払って中に信者がひしめき合っている様子を見せるために、北斎が考案した技法と言うことができます。源氏絵における「吹抜屋台」の応用です。

 次に、なぜ「松越の不二」と同じ見開き頁に掲載されているのかに触れておきます。右頁で富士を松と同一視しているという点がヒントです。すなわち、左頁の富士石室の点苔表現に目を向けると、まるで松の幹に空いた穴に信者が屯しているように見えます。右頁で富士を松と見立てたからこそ、左頁の松の幹のような富士描写が成立するのです。石室を松の洞(うろ)に擬えているということです。深読みすれば、富士の石室で待つ信者が、翌日、それを越えて山頂を目指すのですから、「待つ」、「越えて」の富士、すなわち、「松越の不二」の地口ともなります。少なくとも、三十六景「諸人登山」を単純に転載しただけではありません。反対に、「松越の不二」は、左頁の「不二の室」での信者の「待つ・越える」姿から生まれた地口作品と位置づけることも可能です。

 ついでながら、三十六景「諸人登山」についてもう少し触れておきます。比較すると、「不二の室」と「諸人登山」の石室とはほぼ同じ辺りを描いていることが分かります。ただし、「諸人登山」では、「不二の山明キ」から石室に向かうまでの行程も一部加えられている点が違います。「諸人登山」の作品中央下部分に、梯子を登る信者が描写されているので、実際に長い梯子が掛かっていた駒ケ嶽辺りと推測する見解もあります(日野原・前掲『北斎 富嶽三十六景』p197)。富士講の信者視点で「諸人登山」を見ると、いよいよ頂上だというところで終わっている感じです。そこには理由があって、火口部と頂上周囲の回廊部分は神聖な場所なので、浮世絵作品としては、敢えて描くのを避けたのだと思われます。

 なお、百景「不二の室」に際しての議論と同じですが、「諸人登山」は「富士塚と呼ばれるミニチュアの人工富士山を描いている」という見解は(有泉・前掲『楽しい北斎』p147)、男性だけの行者スタイルの富士講信者を描いている点で、女性や子供でも登れる富士塚ではないと考えられます。しかしながら、北斎が作画する際には、実際の富士ではなく、富士塚に関する知識から推測して描いた可能性はかなり高いでしょう。画中左下の「背の高い広葉樹」は富士頂上部では生育しない事実も、北斎の読み込み間違いとしてならば十分理解できます。

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2-14.松越の不二

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 富士と松との組み合わせは、三十六景・百景シリーズではわりによく目にします。たとえば、三十六景「東海道程ヶ谷」では、双樹の松間から富士が遠望でき、松を鳥居と考えれば、富士が中央に位置し、神聖なる存在として描かれているという印象を受けます。常緑の松と不死を意味する富士の組み合わせは、いずれにせよ、長寿の吉祥図であることは間違いありません。しかし、画中に仕掛けを施す北斎にしては、「松越の不二」に含みが足りないと感じられるのも確かです。

 ところで、「松越の不二」には面白い特徴があります。すなわち、同作品では富士と松とがかなりな部分で重なり合い、富士が松の枝や松葉に隠れているのです。どちらかというと、松の方が主役となっています。また、前景の松の方が富士頂上より高く、逆に「不二越の松」と表現してもよい程です。これはユーモアでしょうか。このような構図は、前掲「紺屋町の不二」でも見られたもので、富士と長布、富士と松との前後関係を曖昧相対化させ、長布あるいは松が富士を形作っているように見せ、近景に富士世界を展開させる手法です。

 北斎は、富士自体を描くことが目的ではなく、富士と前景との相関関係を写しているので、当然、広重流の名所絵とは異なった構図となります。そのため、主役たる富士が松と一体化し、富士が松の1枝もしくは松葉にさえなっているような表現にまで至ります。なお、有泉・前掲『楽しい北斎』(p181)は、後掲「冩真の不二」において、画中の絵師が描いている作品こそが「松越の不二」であると指摘しています。画中画というからくりですが、これは十分に首肯できる見解です。さらには、本作品が、見開き左頁の「不二の室」と1対であるという視点からまた別の解釈もありそうなので、最終結論は「不二の室」に先送りします。

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2-13.掛物の發端

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 ハタキを腰に差した料亭の使用人が障子を外すと、そこにまるで絵に描いたような富士の姿が現れ、それを見た客人が感嘆している様子を表現した作品です。遠景の富士を近景の掛物の富士に見立て、窓の外に見える風景がまさに1幅の掛物のようであるという意味で、「掛物の發端」と題されています。言うまでもなく、料亭の部屋の中に富士世界が展開し、料理や酒なども富士からの恵み(御利益)であるということが容易に読み取れます。

 料亭の場所はどこかと言えば、隅田川河口に架かる永代橋越しに富士が眺望できる絵なので、深川辺りかと想像できます。『江戸名所圖會巻之七』の図版「二軒茶屋 雪中遊宴之景」(『新訂江戸名所図会6』ちくま学芸文庫・1997、p30~p31)には、「この地は江都東南の佳境」とあり、遊客の楽しみに名画の如き美しき富士の鑑賞が1つ加わったことになります。窓右横に掛かる漢詩「旅閣窓明眼所景 雨風周来嶺之峯」を揮毫する額が、まるで画賛のように見えます。腰に差した使用人のハタキがその漢詩を指し示す役割を担っている点には、北斎の細かい配慮が読み取れます。

 なお、類例を挙げると同頁前作品「三白の不二」はそもそも掛物仕立てなのかもしれませんし、後作品「松越の不二」も画中の絵師が描いた作品として、画中画仕立ての可能性があります(後掲「冩真の不二」参照)。また、三十六景作品では、たとえば、「東海道吉田」では、茶屋の窓際に座る2人の美人が眺める富士は、梁(はり)や柱に区切られて、画中画あるいは額縁に収められた絵のように描かれています。これも、近景に富士を引き付けるための技法です。そもそも、北斎の『冨嶽三十六景』自体が、絵に描かれた富士塚としての役目を担っていたと考えられます。

 ちなみに、三十六景「東海道吉田」において、白い揚帽子を被る2人の美人は、富士山頂に擬えられている可能性があり、その他の人も含めて着物の藍色は、背後の富士山腹と同系色に合わせられていると考えられます。富士が茶屋の中に見えるという意味で、まさに「不二見茶屋」です。

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2-12.三白の不二

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 前作品「夢の不二」が富士を含め3つの縁起物を並べたのを受けて、「三白の不二」では、白雪の富士を加えた3つの白い物が揃う奇景を描いています。問題は、ただそれだけのことなのかということです。『富嶽百景』においては、多くの場合、遠景の富士と近景の富士とに相似関係を見出し、遠景の富士を近景の富士姿に見立てるという手法が採られています。その目的は、富士と一体化した世界を描くことにあります。このような視点で、本作品を見返すと、白雪の富士、白雪の積もる松の枝、白鷺の白繋がりに、何か別の意味が見つかるかもしれません。

 最も分かり易い見方は、左下の雪に覆われる松の枝を富士に見立て、そこに2羽の白鷺が止まっているという理解です。近景に展開しているのが富士頂上世界ならば、逆に、遠景の白き富士は、白鷺が止まる松の枝ということになりましょうか。富士と、雪の降り積もる松の枝とを同一視し、富士と富士、あるいは枝と枝の中に白鷺がいるという一体世界を描いているのかもしれません。さらに、北斎が白雪の富士を白鷺止まる松の枝と見立てているとすると、富士の頂に並び舞うという天女伝説に重なります(前掲「盃中の不二」解説参照)。映像的には、鈴木春信に代表される浮世絵作品「鷺娘」を思い浮かべてしまいます。

 次に、三十六景「礫川雪ノ且(旦)」を参考にして、上記の理解とは異なる見方を探ってみます。江戸に雪が降った朝、料亭の2階から富士を眺望する作品です。料亭の2階を雪の積もった富士頂上と見立て、此岸に彼岸の富士世界を見出す趣向ですが、同時に、江戸に降り積もった雪によって、遠景の富士と近景の富士も含めて、江戸全体が白銀の世界となり、富士と一体化した世界が描かれている点に注目する必要があります。つまり、富士に積もる雪、江戸に積もる雪、その雪によって2つの世界が繋がるという発想です。遠景に降る雪と近景に降る雪、それが同じ雪であり、同じ世界にあるという三十六景「礫川雪ノ且」の見方を、百景「三白の不二」に応用すると、富士と松の枝は、同じ雪の世界にあることになり、たとえ松の枝が富士に相似する三角形でなくとも、雪を通して富士世界との一体化が計られていることが分かります。

 なお、見開き左頁の作品が「掛物の發端」であるので、「三白の不二」は掛物として考案されているのかもしれません。

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2-11.夢の不二

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 縁起の良い初夢、「一富士二鷹三茄子」を絵にした作品です。右頁背景に富士を描き、その手前に左右の頁を使って雉子を捉える猛禽の鷹が、まるで見得を切るかのような姿で力強く表現されています。その周辺にある植物は茄子で、その実と花があり、また白黒の色を使って葉の裏表がよく描かれています。ただし、花に関してはまるで菊のようですが、『北斎漫画3編』の「茄子」の作品を見ると、北斎は茄子の花として描いていることが確認できます。なお、捉えられた雉子を描き加えたのは、「雉子=喜事を捉える」という地口(言葉遊び)です。ちなみに、富士は不死で不老長寿の象徴であり、鷹は賢く高く飛び高貴であり、茄子は子孫繁栄を意味し、「事を茄子」という意味もあって、いずれも縁起のよい言葉の組み合わせです。順位付けについては、徳川家康が好んでいた順番とも言われています。

 富士講は、食行身禄(寛文11年1月17日~享保18年7月13日)(1671~1733)の教えによって、江戸で急速に発展します。身禄は、享保18年6月10日(1733)、63歳の時、駒込の自宅を出立し、富士山7合5勺目(現在の吉田口8合目)にある烏帽子岩で断食行を行い、35日後にそのまま入定しました。その身禄の自宅があった駒込には、駒込富士と呼ばれる富士塚があって、江戸で一番古い富士塚と言われています。『江戸名所圖會巻之五』には、「冨士淺間社」と「六月朔日冨士詣」の2図版が掲載されています(『新訂江戸名所図会5』ちくま学芸文庫・1997、p139~p141)。また、切絵図『東都駒込邊繪圖』(『嘉永・慶応江戸切絵図』人文社・1995、p72~p73)を見ると、「冨士 本々真光寺」(駒込富士)の近くには、「御鷹匠屋敷」「御鷹部屋」があって、将軍の鷹狩りの拠点であったことが分かります。さらに出来過ぎた話ですが、駒込は駒込茄子の産地としても有名で、駒込を謳った川柳に、「駒込は一富士二鷹三茄子」という作品がある程です。

 つまり、百景「夢の不二」は、初夢の縁起物を描いたという意味を超えて、身禄ゆかりの地であり、富士講の拠点であった駒込を暗示する題材であり、その観点からも、富士講信者の目を意識(受け狙い)する本シリーズに掲載されても不思議のない作品です。前作品「洲嵜の不二」の背景に深川八幡宮元宮の富士塚の存在があり、「夢の不二」の背景に駒込富士あるいは駒込に住した身禄の存在があるということです。当然、富士講信者的には、「雉子を捉える」のも、「事を茄子」のも、すべて富士からの御利益という理解となりましょう。

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2-10.洲嵜の不二

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 百景「洲嵜の不二」と似た考案に基づくのが、三十六景「上總の海路」です。弁財船の帆柱に結び付けられた綱が作る三角形の中に遠景の富士を取り込んだ構図で、遠景と近景に富士を形作り、富士と庶民生活との一体化を見せる点で、分かり易い作品です。「洲嵜の不二」では、やはり、中景の弁財船の帆柱に結び付けられた綱が三角形を作るだけではなく、近景の堂宇の屋根、あるいは近景の松の姿もまた富士に相似する三角形を想像させ、富士と一体化した世界が描かれています。さらに、陸の堂宇の富士から海の弁財船の富士まで飛翔する海鵜(?)が、両者を見事に繋いでいます。海上ではなく、天空の趣があります。弁財船によってもたらされる物資が富士の御利益であることが、一目瞭然です。

 ところで、「洲嵜の不二」に描かれる洲崎は、実際にはどこと想定されているのでしょうか。候補地としては、品川洲崎と深川洲崎とが考えられます。三十六景「上總の海路」に近いのは、深川です。弁財船には、行徳、木更津河岸等と上総・下総・安房(房総)を結ぶというイメージがあります。くわえて、深川八幡宮の元宮には、天保4年(1833)までに、富士講のひとつ山吉講によって造られた富士塚があって、二代広重『絵本江戸土産9編』を参照すると、風景に共通するものがあるという印象です。とすると、題名「洲嵜の不二」は、元宮に建設された富士塚からの眺望かもしれません。さらには、元宮の富士塚それ自身を暗示しているのかもしれません。もちろん、品川目黒川沿いにも多くの富士塚があるので、同じ理屈は目黒川沿いでもある程度通用しますが。

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2-9.海上の不二

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 『富嶽百景』シリーズの特徴として、遠近の距離感が相対化されていること、遠景と近景とに意味的な相似性があること、そして遠景の富士を近景の見立てにしていること等が指摘できます。これらの視点で、本作品を読み解くと、遠景の富士が左頁の白い波の飛沫から生まれていること、近景右頁の黒い波から生まれた飛沫が富士に相似しており、その結果として、遠景の富士が近景の波飛沫に見立てられていることが理解できます。さらに加えて、近景の波飛沫が千鳥に変じているように見える工夫があります。千鳥が暗示する豊穣世界が(波飛沫の)富士から生まれたというメッセージが謳われています。

 本作品には人物が描かれていませんが、先行する三十六景「神奈川沖浪裏」の続編と考えることが十分にでき、江戸に鰹を運ぶ押送船が波間を走っている情景が容易に想像できるはずです。この海の恵みは、言うまでもなく、富士の御利益です。

 下掲・広重『冨士三十六景 駿河薩タ之海上』の富士、波飛沫、千鳥を中核とする構図は、北斎の三十六景「神奈川沖浪裏」、百景「海上の不二」の影響を受けていることは間違いないと思われます。「画面下半分は波が重なり合う勢いのある海の景観、上半分は泰然自若とした富士と広く透き通るような空の景観で、粗と密、静と動のバランスが絶妙」との評価を受けています(謎解き浮世絵叢書『歌川広重 冨士三十六景』二玄社・2013、p64)。しかし、この評価を北斎作品にも同様に応用することは誤りとなります。なぜならば、北斎は、遠景の富士を波濤に見立て、近景の波濤を富士に見立て、相互の距離感をなくし、富士と一体化した世界を描くことが目的だからです。北斎は富士講信仰に沿った展開が主眼ですし、広重は名所絵の確立を意図し、富士と波濤との意味的相似性を特に問題としていません。ただし、情緒的表現は、広重の方が卓越しています。頭脳の北斎とハートの広重の違いです。

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2-8.盃中の不二

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 海岸の1本松の前に腰を下ろす漁師の持つ盃に、おそらく背後にあるであろう富士の姿(逆さ富士)が映っているという作品で、まさに「盃中の不二」ということになります。近景に富士世界が展開して、漁師がその世界に包摂されていることが一目瞭然の分かり易い作品です。ただし、北斎の仕掛けはこれに終わっているだけでなく、漁師が持参した籠の中に不思議なものが入っており、その点にもっと大きなからくりが仕掛けられています。先に触れておけば、この籠の中身が富士の御利益だったのかもしれません。

 籠の中身が何かは、下掲の三代豊国・広重『雙筆五十三次 江尻』や広重『東海道五十三對 江尻』を参照すれば、明らかとなります。大きな鳥の羽、尾羽、長い布、帯などを合わせると、天の羽衣と想像できます。つまり、三保の松原にあった「羽衣の松」伝説を絵にしたものなのです。海浜の三保の松原で仙女と出会った漁師と見るべきです(鈴木・前掲書p227~p228)。

 『東海道五十三對 江尻』の「三保の浦 羽衣松の由来」には、「江尻の東 清水の湊より海濱を廻りて壹里余 三保の洲崎へ至る駿海(しゆんかい)一の名所にして風色世に知る所なり。羽衣松は同所にあり。里言にいふ むかし天人降りて松に羽衣をぬき置しを 漁師(れふし)ひろひ取て返さず。天女かりに漁師が妻となり 辛労(くらう)して羽衣を取りかへし 天に帰りしと言傅ふ。羽衣の松 今猶存せり」とあります。

 すでに前掲「竹林の不二」で『竹取物語』のかぐや姫伝説を、そして本作品で「三保の松原」の羽衣伝説を画題として、富士にまつわる「仙女」2人を登場させていることが重要です。平安中期の都良香『富士山の記』(前掲『新訂東海道名所図会下』p16以下)に「仰ぎて山の峯を観るに、白衣の美女二人有り、山の嶺の上に雙び舞う」と報じられており、富士山頂に天女の舞う姿は古くから知られていた事跡です。また、鎌倉時代(貞応2・1223年)の紀行文『海道記』(岩波文庫・1935、p98)は、この天女と『竹取物語』のかぐや姫の話を並記して、「彼モ仙女也、此モ又仙女也」と記しています。この文脈で言いたいことは、盃の中に富士を捉えた漁師の姿は、その富士山頂に舞う仙女を捕まえたことを暗示しているということです。漁師が満面に笑顔を浮かべているのは、富士を捉え、仙女を捕まえ、わが妻とすることができるからです。これは、大満足の富士からの御利益です。

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*描かれている天女のイメージは、『阿弥陀経』において極楽に住むとされる極楽鳥、迦陵頻伽(かりょうびんが)が元になっていると思われます。だから背中に翼があり、また尾羽もあります。北斎の本作品も同様です。

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2-7.紺屋町の不二

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 日本橋の北、今川橋を過ぎた辺り一帯は職人町として発展し、なかでも「紺屋町」(1~3丁目)は、神田鍛冶町の東側にあった染物職人の集まる場所でした。この辺りには、染物に由来する「藍染川」が流れています(『新訂江戸名所図会1』ちくま学芸文庫・1996、p113)。藍で染めた浴衣地や手拭地の長布などが干場に多数垂らされており、そこに、下から布を上げている竿が1本見えており、竿を持つ人物が省略されていることが分かります。藍染には布洗いや布晒しに多くの水を使用するので、2編の副テーマである水に縁のある画題であることを確認しておきます。

 北斎の2つの富嶽シリーズでは、遠景と近景の富士との間に相似関係を見出すなど、視点を相対化して、作品中にからくり絵や見立て絵を組み込む手法を採っているのが、1つの特徴です。したがって、本作品を鑑賞するに当たっては、干場に干された染物の長布の背後に富士が見えるという面白い情景を描いているのはもちろんのこと、さらに、からくりや見立てがないかを見つける努力が必要です。

 単純な構図なので、近景に富士に相似する三角形を発見することができないことは明らかです。しかし、垂らされた布と背景の富士を見る視点を相対化して、布の方が背景で、富士の方が布だと考えると、裁断された富士が布の模様となって干場に垂らされていると見えてきます。一種のだまし絵で、これこそ「紺屋町の不二」なのです。こうして、紺屋町に富士世界が展開され、富士から流れる水が藍染川となって、紺屋(染物屋)を潤すのです。

 広重の『名所江戸百景』「神田紺屋町」と比べると、広重は、遠景の富士と近景の紺屋の情景を明確に区分しており、名所絵として構成しています。これに対して、先行する北斎は、富士と紺屋の布を全く重ね合わせ、遠近の境を意図的に曖昧にしていることが分かります。広重作品が北斎作品に倣ったことは間違いありませんが、北斎の見立て絵的手法(からくり)までは継承していないと言えます。なお、北斎の「紺屋町の不二」は墨摺りで着色されていません。しかしながら、紺屋町ということを考えれば、背後の富士の山腹は藍色でなければならないでしょう。他方、広重の富士が藍色でないのは、名所絵として制作しようとする広重の矜持故と考えられます。広重は、北斎の『富嶽百景』がからくりあるいは見立て絵であることに気付いていなのかもしれません。もし意識していれば、『富士見百図』自序の「不二は其あしらひにいたるも多し」という言葉はなかったはずです。

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2-6.容裔(ウ子リ)不二

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 水の流れやその表情変化が副テーマとなっている百景2編の構成に沿って、本作品は海の波のうねりとそこに映る逆さ富士を描いています。遠景の富士は作品の枠外にあるという表現方法を採っています。おそらく、三十六景「東海道江尻田子の浦略圖」を想定して重ね合わせれば、全体像が浮かび上がるのではないでしょうか。なお、有泉・前掲『楽しい北斎』(p97~p98)は、同「東海道江尻田子の浦略圖」に描かれる押送船(和船)の漕ぎ手の船を漕ぐ方向に、「大きな間違い・出鱈目」があるという正しい指摘をしていますが、百景「容裔不二」では、その点は訂正されています。

 変化するうねりに映る逆さ富士の上を進む船、ここにはどんな制作意図があるのでしょうか。おそらく、船が実際の富士の上を進み、船が天空にあるかのような姿に見立てるところに核心があると思われます。うねりの上を進む押送船が富士世界に包摂されていると見れば、漁で得られ、押送船で運ぶ鰹などの魚介は、富士の御利益となります。それは、庶民に普及する富士講信仰の世界観にまさに適合するものとなりましょう。

 ところで、百景「容裔不二」を近景に富士世界を描く作品と理解した場合、その分析方法を三十六景「東海道江尻田子の浦略圖」に応用すると、次のような視点が得られます。近景の2隻の押送船が富士世界に包摂されることを示すからくりが、ここにあるはずだということです。作品を見直すと、一番手前の船の側面が描く曲線が、遠景の富士の左側稜線が作る曲線と相似であることが分かります。次に、その後ろの船の側面が描く曲線が、やはり遠景の富士の右側稜線が作る曲線と相似であることが確認できます。これは、おそらく、2隻の押送船を使って、近景に富士に相似する三角形を作ろうと試みたものと推測されます。ところが、要素を分解しすぎたために、だれもが気付くような富士には見えないという結果に至っています。その反省から、百景「容裔不二」においては、逆さ富士という比較的馴染みやすい方法を選び、船の漕ぎ手の不都合と合わせて修正したと考えられます。その意味で、三十六景は、必ずしも完成品ではないのです。なお、三十六景「東海道江尻田子の浦略圖」が、なぜ「略圖」という言葉を使っているのかについては、同じ2編の後掲「文邉の不二」において触れることにします。

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2-5.登龍の不二

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 富士の山頂下にある、渦を巻く黒雲の中に登龍が描かれています。明らかに想像図ですが、中国的題材の龍を西洋銅版画風の渦巻き雲と合わせて表現する技法は、注目点です。また、登龍と富士との組み合わせは、富士の神秘性を高める効果があり、時至りて天空に昇る出世の吉瑞を描くものとして人気があったことは容易に想像できます。では、百景2編中に、想いのまま挿入された、洋風趣味を加えた吉祥図なのでしょうか。

 本シリーズを読み解くに当たって、遠景の富士と近景の富士との間に形だけでなく、意味においても相似関係があること、そして富士に包摂された世界には富士からの御利益があること、とくに2編では冒頭と最終作品からその御利益は「水」と想起されるということを確認しておきます。この観点で本作品を見ると、近景の登龍は雲から頂上を突き出す富士に見立てられていることが分かります。また、漢字の「山」のようにも見えます。逆に、遠景の富士は雲を突き抜け天空に昇る龍見立てなのです。ここから理解できることは、三十六景「山下白雨」は富士を登龍(龍神)に見立て、実景(風景画)風に描いた作品であるということです。

 遠景と近景の富士に包摂された世界が富士から得られる御利益は何かといえば、龍神に雨乞いをする事実を思い起こせば、雨=水であることは明らかです。百景2編に一貫する意図があることがここに検証されます。後掲「夕立の不二」は、この理をやはり実景風もしくは風景画的に描いたものです。詳細は、後述します。なお、北斎館所蔵の最晩年の肉筆画『冨士越の龍』は、富士を龍に見立てたというよりは、龍を北斎己(おのれ)自身に擬え、百景初編の跋文にあったように、「九十才にして猶其の奥意を極め一百歳にして正に神妙ならん欤」という覚悟を表現したものと考えます。なぜなら、富士を越えた龍がまさに描かれているからです。

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2-4.堤越の不二

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 「堤越の不二」という題名から堤と富士がテーマであることは当然ですが、作品のもう1つのテーマは、明らかに、川に架けられた丸太の橋によって2分される水流の表情変化です。右は直線的、左は曲線的流れです。富士と水流変化という、2つの要素が1画面に収められているのを北斎の「想の趣くまま」と見るのは誤りであって、意図的な描写と考えるのが本稿の立場です。

 作品枠をはみ出る立木の後ろに、堤越しの富士を小さく描き、その堤を旅人達が「よいしょ」と越え、下ってきます。この様子は、右方から流れて来る川の水が丸太の橋に当たって、潜り抜け流れ出て行く様子に擬えられています。また、左頁の堤の上には、籠を下げた棒を肩に担ぎ、馬の手綱を持つ馬子が描かれています。これは丸太の橋の上で、荷物を入れた桶を頭に載せ、やかんをぶら下げた鍬の柄を持ち、子供を背負う母にやはり擬えられています。つまり、丸太は堤なのです。堤は丸太なのです。

 とすると、堤に見立てられた丸太の背後に、そして馬子に見立てられた母子の視線の先に、富士に相似する三角形が見つかるはずです。左端・向こう岸の杭、そこに結ばれた綱、左頁・近景の砂上の籠に入れられた棒がいくつかの三角形を作っています。その内の1つあるいは複数が富士を表す記号になっていることが分かります。つまり、本作品においても遠景と近景に「堤越の不二」が描かれているという、シリーズ共通の構想を発見できたことになります。

 なお、丸太を渡る母子に関しては、三十六景「相州仲原」、『百人一首 うはかゑとき』「春道列樹」の中に同じ姿を見つけ出すことができ、同じ着想の中にある一連の作品と看做すことができると思われます。

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2-3.竹林の不二

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 竹林越しに富士を眺望する構図です。そのうえで、『富嶽百景』をからくり絵本と特徴付けるならば、近景にも「竹林の不二」が隠されているのではないかと考えることになります。この観点では、右頁の太い斜めの竹が富士の左稜線を形作り、遠景の富士と相似していることが分かります。まさに、竹林に富士が出現したことになります。竹の太さにばらつきがあるのは不自然であるとの指摘がありますが(有泉・前掲『楽しい北斎』p171参照)、作品読み解きのヒントとして敢えて極端な遠近法が導入されていると見るべきでしょう。

 本作品には、珍しく人物が登場していません。この点には、隠された意図があるように思われます。すなわち、『竹取物語』の「かぐや姫」伝説を想起させようとの意図です。『東海道名所圖會』(前掲『新訂東海道名所図会下』p25以下)には、『竹取物語』「登天段」に触れて、かぐや姫が入内を断り、「不死の薬を捧げて上天(しょうてん)したまいけり。これぞふじの山という縁(もと)といえり」と、あるいは帝が不死の薬を峰にて燃やすように命じ、「そのよしうけたまわりて、兵者(つわもの)あまた具して山へのぼりけるよりなん、その山をふじの山とは名づけゝる」とあります。後者は、富士を多くの士=兵者(兵士)と読み解いています。いずれにしろ、竹取の翁の娘・かぐや姫が富士命名ゆかりの人物(天女)であることを知れば、「竹林の不二」を理解するには、当然、『竹取物語』の世界が前提になっていると考えることになります。

 近景の竹林の富士にかぐや姫を見れば、遠景の竹林越しの富士には、そのかぐや姫が昇天した天界に一番近い山としての神聖性が意識されます。反対に、富士に天界を感じるならば、近景の竹林の富士にも天界への道を見つけることができ、かぐや姫がなぜ竹林で誕生し、後に天界に帰ったのかの秘密も同時に知ることができます。「かぐや姫」伝説が富士と結びつく理由は、富士の祭神が「木花開耶姫命」という女神であることと深く係わっていると思われます。

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2-2.信州八ヶ嶽の不二

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 題名にある「八ヶ嶽」は長野県佐久地域から諏訪地域、そして山梨県に跨る南北30kmの火山列で、主峰は海抜2,899mの赤岳です。本作品において、近景に描かれる水面が湖なのか川なのかによって、想定される場所が変わってきますが、諏訪湖からの遠望ならば高島城を入れるのが通例なので、ここは川と考えて、信州を代表する千曲川が流れる佐久地域の風景として議論を始めましょう。当時千曲川は暴れ川として有名でしたので、このような水の流れも日常的に見られたのかもしれません。

 さて、木をくり抜いた舟に3人の男達が乗って、網を投げ漁をしている情景です。ここで注目すべきは、左図の舳先に立っている漁師の姿です。三十六景「甲州石班澤」の岩場に立つ漁師を彷彿とさせます。「甲州石班澤」は、漁師の持つ投網の綱、漁師、童、岩が大きな三角形を作り、遠景の富士と相似した構図が傑作であると賞賛されています。百景「信州八ヶ嶽の不二」においても、漁師の持つ綱に富士の姿を発見することができます。

 遠景の富士は八ヶ岳の峰々の後ろに描かれています。綱でできた富士が近景に見えるとして、近景の八ヶ岳はいったいどこに隠されているのでしょうか。このからくりについては、舟が丸木をくり抜いたものであり、ゴツゴツした木肌をそのまま残している点がヒントになっています。つまり、この舟の側面が八ヶ岳の山肌を表しているということです。そして、八ヶ岳を特徴付ける連続する峰々はというと、舟に乗る2人の漕ぎ手が櫓を持つ姿に注目する必要があります。その2つの櫓と2人の姿が2つの峰を形作っているのが分かります。

 遠景の八ヶ岳越しの富士と近景の八ヶ岳越しの富士によって、遠景も近景も全てが富士世界に包摂されていることが表現されており、富士と人(漁師)との一体感という富士講信仰の本髄が十分に見て取れる作品です。なお、千曲川の河畔から八ヶ岳越しの富士を見るという本作品の構図は、もちろん実景ではなく、構想図です。千曲川、八ヶ岳そして富士という名所を1枚の浮世絵にコラボさせて描き上げる手法は、浮世絵や版本の挿絵などにはしばしば見られます。三十六景「身延川裏不二」における、身延川と裏不二の描法にも表れています。

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2-1.富嶽百景二編・井戸浚の不二

◇本稿の視点

 『富嶽百景二編』は、「天保六乙未年春三月發行」とあるので、初編発行の翌年(1835)に出版されたことが分かります。

 鈴木・前掲書(p203)は、初編について、「編成の企画性が当初はあったことを窺わせる」としながらも、「しだいに自由奔放な奇想奇趣が構図や題材を支配し、一貫した意図をさぐることは困難となる」と述べた後、「二編に至ってこの傾向はいちじるしく」、「何か想の趣くままに作成した感が深い」と続けています。確かに、2編を概括してみると、一貫性にいくらか欠け、題材を寄せ集め、絵本としてまとめ上げた観が無きにしも非ずで、従来的視点では1冊の本としての完成度は高くないと評価されても仕方がないかもしれません。しかしながら、初編を読み解く前提とした、次の3つの視点で再度見直して、本当に「想の趣くまま」の制作なのかどうか検証してみたいと思います。なお、3つの視点とは、①庶民共通の富士講信仰の視点、②北斎の個人的妙見信仰の視点、③浮世絵界に新たに生まれた名所絵の視点です。初めにこのような問題提言をするということは、ある意味、別の帰結を期待しているということです。


◇井戸浚の不二

  「井戸浚(いどさらえ)」とは、井戸の水を汲み上げて、水の澱みを取り除き、井戸を掃除することです。2編の最初に描かれた作品であるので、軽く考えてはいけません。2つの梯子を組み合わせ、そこに丸太を固定させ、頂点に滑車を取り付け、綱を掛け、桶で井戸の水を浚う人足の姿を描いています。江戸の井戸の水質はあまり良いとは言えないので、「井戸浚」はとても重要な作業です。

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 鈴木・前掲書(p225)は、「滑車の綱の作る三角形内に富士の三角形を収めた幾何学的構図が眼にこころよく映ずる」と述べていますが、その幾何学的構図が庶民にどのようなメッセージを伝えようとしているかがより重要です。なぜならば、初編の1頁「木花開耶姫命」と同様、2編の1頁目の作品として、そこには象徴的意味があると考えられるからです。これは問題解決の先取りなのですが、2編の最後の作品「谷間の不二」では、杣人の1人が岩間に湧く清水を柄杓に受け、桶に移しています。命の水がテーマであることがよく分かります。

 近景の井戸の富士塚から水が汲み出される様子は、水が富士の御利益であることを示しています。富士神霊(「木花開耶姫命」)は水神であるというメッセージから、2編は始まります。

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30.千金富士

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 高く積み上げられた米俵に白い覆い(筵?)が被せられ、こぼれた米を雀が啄き、積み上げられた2つの米俵の山の間から富士が覗いているという情景です。前作品「豊作の不二」の余韻を受けていることは間違いなく、構想優先の作品です。鈴木・前掲書(p224)の「俵の山の三角形と富士の三角形とが相似形の重畳を見せる幾何学的構図法は合理主義的視覚をもつ北斎の好んで用いる所である」という言葉は簡易明瞭な解説です。付け加えるならば、富士を宝(千金・豊作)の山の「根元」と見る富士講信者の思いが前提になっていることを忘れてはなりません。近景にあるのは、米俵でできた富士塚であるということです。

 本作品が百景初編の締めとなるのですが、「木花開耶姫命」から始まり、「千金富士」で終わる頁構成には深い意味があります。富士の祭神「木花開耶姫命」は、開削の神であり、桜咲く季節に始まる農業(日と水)の神であり、収穫される作物の神であること等を知ると、最終頁に米俵の富士塚が描かれていることは、富士の真の姿を一貫した論理に基づいて映像化したものであると分かります。富士の祭神「木花開耶姫命」の最大の御利益は、米俵の「千金富士」であるということです。作物(さくもつ)という言葉に意味があります。

 江戸に富士講の隆盛を導いた食行身禄の思想の根本は、人の命は「食」に尽き、「食」ということにおいて皆平等であること、そして、人が食するその米は「仙元大菩薩」(「木花開耶姫命」)の御利益であるという点にあります。人は、富士に坐す「仙元大菩薩」(「木花開耶姫命」)の御利益である米を食して生きるのであるから、「仙元大菩薩」(「木花開耶姫命」)、富士、米、人は全て一体であるということを意味します。本作品「千金富士」の富士は、北斎の単純な思いつきや前作品からの流れ(だけ)から制作されたものではなく、当時の富士講信者一般の思いや信心を素直にすくい上げて表現されていると読み解かなければなりません。

 さらに議論を進めると、身禄は、「不二は三国の根元」と述べており、対世界との関係で、富士が日本人の精神を支える存在であると理解していることが分かります。つまり、米俵の富士塚に象徴される富士が日本人の精神的支柱であり、その富士が日本の、いわば「国体」もしくは「国柄」と化しているということでもあります(狩野・前掲『“赤富士”のフォーロア』p63参照)。人は富士と一体となって生きているという、日本の国柄を北斎が前提としつつ、個人的には妙見信仰において富士を地上の北辰星と意識しているという要素を重ね合わせて創作したのが、北斎の富嶽シリーズであるというのが本稿の出発点であり、以下の作品を分析する視点でもあるということです。いずれにせよ、富士と庶民生活とを「自然と人間」という二項対立的に理解する、欧米的あるいは現代的北斎観には立脚しないということです。

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29.豊作の不二

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 一見すると、まるで原野か草原のような風景ですが、これが北斎の表現する稲だと思われます。富士の裾野に田園風景が広がる作品です。注意点は、近景にいかなる相似する富士が見つけられるかですが、本作品の場合は簡単で、まるで富士塚のような地形が屈曲する街道の間に大きく描かれています。頂上部に祠と神明の鳥居があるので、この神社を富士神霊の依代として利用しています。

 豊かな実りを予想させる田園の中に見える遠景の富士と田圃の中の神社を頂上とする近景の稲の富士塚とを等しく「豊作の不二」と捉え、その周辺の街道や縄手道に庶民を配し、全てを富士世界に包摂させる構図です。近景の富士塚のような形をする田圃が水平ではなく、物理的にはありえないはずですが、これは富士塚の造形を優先させた構想図であることの証拠です。したがって、描いた場所を詮索することにあまり意味はありません。

 馬子が手綱を引く2頭の腹掛等に、「仕合吉」と「大一大万大吉」とあるのは、道中の安全を祈願する言葉です。なお、後者は石田三成が旗印に使っていたことでも有名で、「皆が1人に、皆(1人)が万人に尽くせば、皆が吉(幸)になる」という意味と解されています。近景に豊作の富士があることを暗示する言葉選びなのかもしれません。ちなみに、左図の街道の曲がり角に、羽の付いた変わった笠(唐人笠)を被り、チャルメラ(唐人笛)を吹く棒手振りの男が描かれています。異国情緒を客引きの手立てに飴を売る、「唐人飴売り」です。異国人の視点を画中に挿入することによって、「豊作の不二」に展開される田園風景こそ、日本(大和)だという北斎の感覚が示されているように思われます。

 北斎の文化8年頃(1811)の中判作品『絵本驛路鈴』シリーズ『東海道五十三次 十四 原』(伊勢谷利兵衛)に朝鮮通信使を描いたものがあります。この作品から考えると、異国人に見せたい富士の姿は、北斎にとっては「原」辺りが最適なのかもしれず、百景3編「来朝の不二」も同一場所が想定されているように思われます。さらに深読みすれば、百景「豊作の不二」も構想図としても、同じ場所を念頭に置いているのかもしれません。いずれにせよ、北斎が異国人・異国風俗を登場させる理由は、情景が日本を代表するものであることの裏返しであり、「豊作の不二」も、瑞穂と富士との組み合わせが日本の典型的風景であるという感情が根本にあるからだと思われます。

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28.花間の不二

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 右図左上部から左図上部に掛けて桜樹が描かれ、その花の下には、芸者の三味線に耳を傾け、酒を酌み交わし、観桜の宴に興じる男達がいます。他方、桜樹の間からは富士頂上部がひょっこり顔を覗かせています。まさに、題名「花間の不二」です。この部分だけで作品としては完結しているにもかかわらず、近景には、崖の上の厨(くりや)と思われる家屋、川を挟んだ反対側には茅葺きの建物が描かれ、その間に渡された綱には料理を入れた重箱などを運ぶ籠がぶら下げられ、男が手前に引っ掛け棒で引いています。崖の下辺にも多くの桜が咲いていることも見逃せない点です。作品の構成を考えると、近景にこそ北斎の関心があるのではと感じられます。

 前掲「蘆中の不二」や同「木枯の不二」で確認したように、作品中に描かれた糸・紐・綱などが富士に相似する三角形をなしている場合、多くは近景に富士世界を導くための仕掛け(からくり)です。本作品の場合も、川の両岸に渡された綱が遠景の富士の左稜線に相似していることが分かります。そして、その綱の周辺にも多くの桜が咲いていて、綱の富士が花の間に描かれているこに気付きます。つまり、近景にも「花間の不二」の奇景があることが表現されているのです。反対に、富士の稜線も川に渡された綱のごとくに見えるということでもあります。遠景と近景との相似関係を本作品でも、また発見することができました。

 本作品の場所に関して、広重『絵本江戸土産4編』「飛鳥山花見」の「其二」には、掲載図版の説明に、「この所、高くして三河嶋の耕地を見下ろし、冨士及び諸々の山々宛然(さながら)掌中に在が如し」などと記されていることもあって、「飛鳥山」との想定もありえますが(鈴木・前掲書p223参照)、三十六景「東海道品川御殿山ノ不二」が、同じ「花間の不二」を主題にしていることを考えると別段「品川御殿山」を排除する必要もないと思われます。いずれにしろ、百景「花間の不二」は、絵本として、実景ではなくて構想としての性格が強い作品です。

 三十六景「東海道品川御殿山ノ不二」では、百景「花間の不二」と共通して、富士の祭神「木花開耶姫命」の世界が描かれています。近景品川御殿山に、この世の「木花開耶姫命」の世界があることが主題です。百景「花間の不二」のような明確なからくりを発見できないのは、実景描写だからかもしれません(百景3編「田の不二」参照)。この点で、百景の方が構想(絵本)性がより進化しています。

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27.雲帯の不二

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 帯状の雲が富士の山頂下から中腹付近に棚引く様子を描く作品です。北斎の三十六景・百景作品に共通するのは、遠景の富士の姿と近景の庶民の様子に緊密な相似関係があり、富士と庶民が一体的世界の中にあることを謳っている点です。したがって、作品を読み解く方向は、富士と庶民との近しい関係を作品中に探し出すことにあると言えます。

 右図には、僧を背に乗せ橋を渡る牛の姿が描かれ、左図には、大きな荷を運ぶ3人の人足と2人の警護役が描かれています。肝要なのは、右図の僧と牛が富士に相似する三角形をなし、同時に牛方が手綱を懸命に引っ張っていることです。これは、帯雲が富士を懸命に引っ張っていると北斎が認識していることの表れです。また、左図で棒に括りつけられた大きな荷物を運んでいる様子は、帯雲が大きな富士を運んでいるという北斎の見立てがあってやはり意味を持つのです。しかも、2人の人足が支える棒と後ろの人足の持つ杖が逆さ富士を形作っています。残りの棒は帯雲見立てです。3人で荷物を運ぶ不思議な構図の理由はここにあったことが分かります。つまり、遠景の富士の姿と近景の庶民の様子とに緊密な相似関係があることが明らかになり、富士を親しみのある存在として描こうとする北斎の意図も読み取ることができるのです。細かいところを見れば、牛の歩き方、荷物の運び方、重力に反する水流など不正確な表現がありますが、北斎が作品に仕込んだ「遊び」の部分を読み取ることの方がより重要ですし、庶民はその点を間違いなく楽しんだはずです(鈴木・前掲書p223参照)。

 なお、中景の水車小屋の情景は、三十六景「隠田の水車」を彷彿とさせます。また、川に架かる松の表現は、三十六景「隅田川関屋の里」の街道の松に似ています。さらに、富士山腹に掛かる帯状の雲は、三十六景「遠江山中」の富士に巻き付く雲の様子と共通するものがあります。三十六景「遠江山中」の富士山腹に巻き付く雲は、童が焼べる焚き火の煙と相似するものとして描かれていると見るべきで、これは近景の木挽されている斜めの角柱が富士稜線に相似すると理解して初めて重要な意味を持ちます。つまり、遠景の富士と近景の富士との近しい関係が読み取れるということです。この両者の緊密な関係を見落とすと、広重『富士見百図』の自序中の言葉、「絵組のおもしろきを専らとし、不二は其あしらひにいたるも多し」という誤解に至るのです。

 北斎は、富士だけを描いているのではなく、富士と庶民との相関関係を描いており、その関係性の中に富士世界を見ているというのが本稿が強調したい視点です。

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26.笠不二

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 富士などの独立峰の山頂付近に現れる笠か帽子をかぶせたような形の雲を「笠雲」と呼び、雨が降る前兆現象と理解されています。この「笠不二」を背景に、前面の川を徒歩で渡る人々を描いたのが本作品です。不自然に長い、束ねた棒か竿を背中に積んだ牛の難儀する様子が目を惹きつけます。運ぶ材料が蘆や竹ならば、あるいはもう少し丈の短い棒竿ならば、作品に違和感なく適合するのですが…。

 作品を読み解く糸口は、笠を被った富士と川を徒歩で渡る人々とがどう係わるのかを考えることです。まず、近景に富士に相似する三角形がないかどうかを確認すると、左下の三角の茅葺き屋根に囲炉裏の煙抜きが乗っており、まるで笠を被った富士のように見えることが確認されます。実際の「笠不二」とそれに見立てられた茅葺き屋根との間にある川を人々が渡っている構図は、2つの富士に挟まれた人々が富士世界に包含されていることを表現するもので、北斎の富士作品にはしばしば発見される手法です。

 では、次に、川を渡る人々の様子をもう少し詳細に見てみましょう。既述した、長竿を背負った牛を引く牛方、獅子舞の親子、駕籠を横にして運ぶ駕籠舁、鍬などの農具を肩にかける子連れの夫婦、糸巻きを抱え、荷物を担ぐもう1組の夫婦が描き込まれています。いずれも、担ぎ、手に持ち、頭に載せる各種の物を濡らすまいとして徒歩渡りをしています。この姿は、「笠不二」の様子と明らかに対照されています。流れる川間の庶民が肩に色々なものを担ぎ、頭に載せ、手に持つ姿を、流れる雲間から覗く山頂に笠を被る富士に擬えているということです。ここに北斎の「戯れ心」があると言えましょう(鈴木・前掲書p223参照)。なお、不自然に長い棒竿を牛が背負っているのは、この背負う姿が本作品読み解きのヒントであることを強調する趣旨です。北斎の富士作品の特徴は、富士と庶民との心理的距離感を縮める構想にあることが、本作品からも強く感じられます。

 ちなみに、川を渡る旅人を描いた作品に、三十六景「東海道金谷ノ不二」があります。この作品の場合は、大井川の流れの中に多数の旅人達が川渡りをする姿が写されています。読み解きとして重要なのは、川の流れが大きな波を形作って、遠方の富士に相似する水の富士となっている点です。そこには、旅人の川渡りそれ自体が、富士の山容に包まれ、富士世界に包含されていることが物語られており、富士が旅人の身近にあるという北斎のメッセージが示されているのです。

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25.裏不二

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 三十六景「身延川裏不二」は、百景「裏不二」がいったいどこにあるのかを知るために役立つ作品です。これによると、甲州身延から見た富士を、北斎は「裏不二」と呼んでいることが分かります。岩場の間から尖った富士山頂が覗いている風景は、両作品に共通しています。なお、百景2編「大石寺の山中の不二」も身延から大石寺に向かう途中の作品と見れば、かなり似た山容を描いており、岩場の中にゴツゴツした富士山頂部が展開しています。「裏不二」が身延地方とすると、この地域は、甲府と東海道興津宿を結ぶ駿州往還があり、また身延山久遠寺参詣への身延道もあります。身延川、波木井川、富士川に向かって岩場が迫り(有泉・前掲『楽しい北斎』p130参照)、その間から富士が見え隠れするのが特徴です。江戸表から目にする優美な富士の姿とは異なって、富士を岩場の1つとして描く点に「裏不二」の趣向があります。

 有名な竜王煙草に絡めて、煙草の葉干し、馬洗い、子守をしながらの糸取りなど、平穏な農家の日常が細かく描かれ、またこぼれた穀類をついばむ雀の姿は豊かさの象徴であり、富士の裏側にも富士世界が見事に広がっていることが表現されていると見るべきでしょう。干された煙草の葉がちょうど舞台の幕になっているようで、その舞台裏が近景に描写されているのだと思われます。当然ですが、煙草の葉の見えている側が裏(葉)と想定され、そこから見える富士ということで、「裏不二」という地口が成立します。また、馬の尻、馬を洗う男の背、子を背負う女の後ろ姿なども、「裏不二」に合わせた表現です。なお、作品右側の杵と臼などの道具の脇に置かれた棒が明らかに三角形を作っており、近景が富士世界であることを示す記号となっています。深読みすれば、雀が屯する背後の坂は、富士の前に立つ岩肌に擬えられているのかもしれません。

 ちなみに、三十六景「身延川裏不二」は、日蓮終焉の地・身延山久遠寺に対する北斎の個人的関心(妙見信仰)から制作された作品です。同作品は、身延川に並行する身延道の参詣風景と富士川左岸からの富士眺望を中景の湧き立つ雲で結びつけた構想図です。浮世絵にはよくある手法です。さらに、百景2編「大石寺の山中の不二」も、弟子日興が開基した多宝富士大日蓮華山大石寺への個人的関心から生まれたものと考えられます。久遠寺は山梨県南巨摩郡身延町、大石寺は静岡県富士宮市にそれぞれ所在しています。

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24.鏡臺不二

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 海辺の景色が展開しているところを考えると、富士の頂上にちょうど夕日が沈む地域(江戸から東方)の風景で、ダイヤモンド富士を描くものと思われます。その夕日を鏡に、富士を鏡台に例えて、題名の「鏡臺不二」となります。構図の分析に入る前に確認しておくと、本作品は、中国「瀟湘八景」「漁村夕照(ぎょそんせきしょう)」に見立てて、夕焼けに染まる漁村の風景を描くものであるということです。中景に、帆を降ろす船や仏塔なども見えているので、「遠浦帰帆(えんぽきはん)」および「煙寺晩鐘(えんじばんしょう)」の要素も兼ねているかもしれません。中国絵画の影響を感じます。

 近景には、山形の板橋が架かっており、その上に櫓を肩に担ぐ漁師が描かれ、櫓の前には何かの包み、後ろには酒徳利をぶら下げて家路についている様子です。手に持つ籠に入っている魚の臭いにつられて、犬が付いて来ています。橋脚の低い橋の下には、窮屈そうに船を潜らせている漁師2人が描かれています。おそらく、左図の樽の生簀に魚を運んでいる情景でしょう。これら漁師の様子から、やはり、夕方の仕事終わりであることが確認されます。

 北斎が、遠景において夕日を鏡に、富士を鏡台に例えるならば、近景において山形の板橋を富士(鏡台)に、船底の曲線を夕日(鏡の円)に擬えているであろうことは当然に推測されます。板橋の上に1人の漁師が立ち、また橋下に2人の漁師がいる様子がその鏡の中に映し出されていると見るべきなのです。そして、富士から得た果報は、当然、今日の漁で獲れた魚介です。豊漁に感謝し寿ぐ作品と読み解けます。なお、色彩を補って想像すると、西方極楽浄土とは、こんな世界なのかもしれないと思わせる作品です。

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23.江戸の不二

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 江戸城には天守閣がないので、(西の丸)御殿か、(富士見)櫓の屋根の鯱越しに富士を遠望する作品です。一般的な見方としては、富士山頂より高い江戸城の鯱が、本来ならばその権威を示したいところ、その鯱の尾の頂点に百舌が止まっているという諧謔嗜好の作品と読み解けます。鯱の困ったような表情が奇抜です。

 人が描かれていない作品ですが、武家を象徴する城の鯱が擬人的に表現されているところが肝要です。鯱が富士の依代となっており、近景に富士世界が展開しているとすると、鯱の上に百舌がいる、すなわち、武家の上に百姓を暗示する百舌がいると読み解けます。この発想は、食行身禄が説く富士講の思想と一致する点で、本来的にはやや危険な表現です。絵本ならばともかく、1枚絵の浮世絵としては版行が難しいのではないかと思われます。なお、視覚的には、鯱の尾と背景の富士とが相似しており、これは、近景と遠景の富士世界が交錯していることを物語っています。故に、富士山頂下の雪の斑模様が、鯱の水しぶきにも見えます。

 百景「元且(旦)の不二」と同「江戸の不二」の作品を見開き1頁として素直に見れば、ともに江戸の正月風景と感じられますが、右側に三河万歳、左側に尾張名古屋でこそ有名な鯱が描かれ、三河・尾張を窺わせる内容設定には別の一体性を感じます。版元の「尾州名古屋 永樂屋東四郎」を意識しているのでしょうか。ちなみに、歌川(二代)広重『諸國百景尾張名古屋真景』(安政6年・1859)は、北斎の本作品に倣ったものです。しかし、鯱の尾に百舌を止めることなく、場所も徳川本家江戸城から尾張徳川家の名古屋城に差し替え、忖度して、月に雁という無難な名所絵に落とし込んでいます。

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22.元且の不二

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 門松の間を、三河万歳の太夫と才蔵、猿回し、鳥追いなどの門付(かどづけ)芸人や裃を着けた門礼者(かどれいしゃ)等が歩き、「元且(旦)」の長閑な雰囲気を醸し出しています。門礼者とは、祝詞だけを玄関先で述べて辞する人のことです。概況としては、正月に富士を見る縁起の良さを描いていると言えます。しかしながら、もう少し分析的に観察してみましょう。

 縁起の良い文字「富」と書かれた左下の凧は、他方で「富士」をも意味していると思われます。また、三十六景「東都浅艸本願寺」、同「江都駿河町三井見世略図」などには、富士頂上よりも高い天空を飛んでいるかのような凧と富士の稜線に相似するかのような凧糸の描写があって、北斎にとって凧は富士世界を暗示する道具であることがよく分かります。この点を踏まえると、近景に敢えて置かれている凧と富士の右稜線に平行的な凧糸は、門松の間を歩いている人々が富士(頂上)世界にいることを表しています。これこそ、富士の御利益です。かりに凧が描かれていないとしても、門松が富士神霊の依代となっているので、いずれにしろ、近景に描かれているのは、単なる正月風景ではなくて、富士世界であるという理解が必要です。さらに深読みすれば、凧糸の作る三角形が隣り左頁の富士の裾野へと繋がります。

 猿回しの持つ長い柄の道具の先端にある丸い部分を太陽の見立てと考えれば、旭日に富士という大変目出度い構図となります。太夫と才蔵の着物の「丸に三」の紋は、縁の大きく欠けたものを除くと計7つで北斗七星、猿回しの道具の丸を北辰星とそれぞれ見ることもでき、この点には、北斎の妙見信仰を読み取ることができましょう。

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21.木枯の不二

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 烈風吹き抜ける冬枯れの農村の遠景に、富士が泰然と構えているという印象でしょうか。右図には鼠返しの付いた小屋があって、その屋根の三角形は富士に相似し、もし中に収穫物が納められているならば、富士からの果報を意味します。ただし、大木の切り跡脇にある立地を考えると、祠の可能性もあり、もし神仏に係わるものならば、富士神霊の依代(富士塚)としてここに描かれていることになります。道行く棒手振りの丸い笠と籠が印象的で、富士、小屋の屋根、3つの丸という具合に、三角形を重ねる構図優先の表現です。

 右図だけでかなり完結した構図であるのに対して、左図にはどんな意味が持たされているのでしょうか。収穫の終わった木枯らしの時期に、鳥追いの鳴子が強風に揺れているのも不思議な光景です。麦でも蒔かれていると考えるとしても、このような強引な選択を北斎がしたのは、どうしても描き加えたかった仕掛けがあるからだと仮定してみましょう。そうして、鳴子を吊るした綱(藁紐)に注目すると、左側の竿の上部から左右に延びる綱が背後の富士に相似する綺麗な三角形をなしていることに気付きます。強風に吹かれる「鳴子の綱の富士」と表現することができ、他方、富士もまた竿に括り付けられ、強風に吹かれ揺れる同じ綱に見えるのです。左図の構図に視点を置けば、背後の富士は木枯らしに揺れているようにも感じられるはずです。富士と庶民との近しい距離感は、富士講信者には非常に大事な要素で、北斎が敢えて木枯らしに揺れる鳴子の綱を描き込んだ意図もこの点にあるものと思われます。

 本作品のからくりは、鳴子の綱の創る富士にあります。これによって、木枯らしに吹き晒される庶民と同じく木枯らしに吹き晒される富士とを並置し、2つの間に緊密な共感関係を生み出させる趣向なのです。

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20.蘆中筏の不二

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 『富嶽百景』を鑑賞する場合、遠景の富士に相似する三角形が近景にないかと探るのが、からくりを読み解くコツの1つですが、本作品はそうではないようです。有泉・前掲『楽しい北斎』(p163)は、川を流れる5艘の筏と対岸の蘆の高さを比べ、北斎らしい「出鱈目」と述べています。また、鈴木・前掲書(p220)は、「遠近感の不合理描写」と記しています。問題は、この事実を北斎の過ちと捉えるのか、それとも北斎流の何かの仕掛けと読み解くかです。北斎の「逆さ富士」の描法についての前作品解説を思い起こせば、もちろん、本稿は後者の見地に立って話を進めるつもりです。

 川岸に桁(けた)のように重ね置かれている材木の先に童が腰を下ろし、富士を見上げています。童を基点にすれば、対岸の蘆の高さは不自然なものではなく、その蘆原越しに富士の頂上部を眺望する作品と理解できます。ところが、作品の題名は「蘆中の不二」となっており、筏に基点を置かざるをえません。ここで左図の筏をよく見ると、漕ぎ手2人が長い棒を持って筏を走らせており、さらに筏中央の筵(むしろ)の背後にはもう1人(煮炊き番?)います。ここが考えどころなのですが、近景には、積まれた材木に座る2人の釣り人が描かれ、長い竿を持っており、先の童と合わせると3人になります。つまり、近景の積まれた材木が中景の川を進む筏に見立てられているということなのです。題名の筏とは、実はこの岸辺に積まれた材木を指し、そこに乗る童の視点で蘆中の富士を見ているということが分かります。川に流れる5艘の筏は、本作品に仕掛けられたからくりのヒントであり、また、童の頭に浮かぶ筏の川下りを、マンガの吹き出しのように映像化したものと考えられます。

 童の目の前に位置する筏に乗る先頭の男は富士を見返していますが、たぶん、童はこの男の立場に身を置いて富士を眺めているはずです。一見遠近法を無視した筏の表現は、筏を操作する童の気持ちを吹き出し風に挿入したものと思われます。浮世絵作品には、時々見られる手法です。

 さて、『富嶽百景』は、近景に描かれた庶民と遠景の富士とが密接に繋がっているという構成が常道です。本作品の場合、近景に富士の要素(富士に相似する三角形、富士塚、富士の御利益など)が見つからないのは不思議です。そこで、もう一度、作品を丹念に眺め尽くしてみると、釣りをする2人の男が持つ釣竿が富士の稜線を形作り、なんと、そこに逆さ富士が浮かび上がってくるという大きな仕掛けがあったことに気付かされます。近景の筏に擬えられた部分が、まるで「天の釣船」のように、天空にあって富士の上に浮かんでいるように見えます。川下る筏も富士山腹に浮かぶ筏となります。また、擬えられた筏が2艘ならば、計7艘の筏(北斗七星)となり、丸い笠は北極星でしょうか。北斎の妙見信仰が表出しています。なお、童の隣に川鵜を描いた趣旨も天空を表すもので、釣竿の作る富士を生かすための術です。いずれにしろ、なんと縁起の良い絵でしょうか。

 ちなみに、本作品と三十六景「武州千住」とには共通の仕掛けが施されています。「武州千住」は、水門近くで釣りをする男達とそれを覗く馬子の向こうに、富士を配置する構図です。「蘆中の不二」での読み解きを参考にすると、作品中の釣竿に注目する必要があります。「武州千住」の場合、左の男の釣糸が富士の左側の裾野と繋がって、大きな富士が隠されていることに気付かされます。しかも、馬子の持つ手綱が三角形を作り、背景の富士に対して、逆さ富士となっています。これによって、庶民の傍らに富士世界が展開しているというメッセージが発信されるのです。構想優位の情景が描かれている理由は、千住近郊には富士講信者が多くおり、江戸の拠点になっていたことと深く関係しています。なお、水門のような工作物は元宿堰にあった逆流防止の堰枠のようですが、神社の鳥居仕立てになっており、富士を祀っているかのように見えます。

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19.田面の不二

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 題名「田面の不二(たのものふじ)」は、古来から和歌の慣用句になっている「田面の雁(頼むのかり)」という言葉を意識したものです(鈴木・前掲書p220参照)。この慣用句を受けて、田面に2羽の雁が描かれるのですが、題名は「田面の不二」です。つまり、田面にさらに富士が映っている吉景を加え、「富士に頼むのかり」という祈りの吉兆図にしたところに、北斎の仕掛けがあります。

 構図を見ると、右図は百景「尾州不二見原」の10羽の群鶴図を彷彿とさせます。ただし、本作品では、手前に5羽、遠くに5羽の雁に替わっています。また、三十六景「相州梅澤左」の鶴の足元が水面だったら、このような情景が展開していたかもしれないと感じさせます。他方、同「相州梅澤左」の水辺の5羽と富士に向かう2羽の鶴という構図が、「田面の不二」では反転されて、水辺の5羽と富士に向かう2羽の雁に入れ替わっています。水際にいる10羽が飛翔する2羽に嘴を向けており、次々と飛び立っていく一瞬なのかもしれません。

 ところで、北斎の「逆さ富士」の描き方には特徴があって、本来は水面を境に線対称となるのが科学的ですが、ピンホールカメラか遠眼鏡で覗き込んだような点対称になっています。北斎が光学的知識に疎いということではなく、カメラやレンズなど、西洋の先進知識を誇り、新しい視点を作品に提供し、新規性を打ち出そうとしていると考えるべきでしょう。言い換えれば、実景描写よりは、西洋的世界観を垣間見せようというサービス精神がより強いということです。それ故、たとえば、三十六景「青山圓座枩」などが典型ですが、作品の画趣が壊れてしまい、ただのからくり絵に堕してしまうという批判もありえます。しかし、本稿では、これが北斎のユーモアであり、遊び心だという観点で肯定的に捉えたいと思います。

 話を戻すと、本作品の逆さ富士は、もちろん、水面に映る実景表現に重心があるのではなくて、近景に富士世界を導き出すための依代として利用されていると考えます。詳しくは、百景3編「蛇追沼の不二」で再び触れる予定です。

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18.烟中の不二

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 「青面金剛」と書かれた庚申塚の前で、旅人2人と馬子とが紅葉の落ち葉で焚き火をしている様子が描かれています。そして、その「烟」の中に富士が浮かび上がり、その富士の前で手綱を放された馬が休んでいます。前掲「霧中の不二」の霧を「烟」に変えただけの作品でしょうか。もしそうだとしても、紅葉散る中に富士を眺望する構図は、その色彩を想像するだけでも、大変、インパクトがあります。「紅葉散る不二」とでも改題した方が良さそうです。

 しかしながら、単純な風景描写に満足しない北斎だとすると、作品中に何か仕掛けが施されていないのか、もう少し観察してみましょう。左図、庚申塚の石の台座付近に、「三猿(さんざる)(見ざる・言わざる・聞かざる)」が刻まれ、焚き火をする旅人と馬子が似たような格好をしていることに気付かされます。3人の男達は三猿に見立てられているようです。元々、庚申塚は、仏式の「青面金剛」、神式の「猿田彦」などを習合して、家内や道中の無病息災等を守るもので、そこから派生して三猿も庚申の神として祀られます。ここで大事なことは、馬の護り神と言えば「馬頭観音」が有名ですが、実はこの猿こそ、山の神(山王)の使者として、古くから馬の護り神とされてきたことです。この事実は、日光東照宮の三猿の彫り物が、神馬(しんめ)を収納する神厩(しんきゅう)と呼ばれる厩舎(うまや)の長押(なげし)に飾られていることからも推察できます。

 三猿に見立てられた男達と馬、つまり、猿と馬は大変縁起の良い組み合わせであり、さらに背景に富士が加われば、庚申の神仏と富士神霊(浅間大菩薩)とが重なり合うことを意味し、故に、本作品は吉祥図であると言えます(前掲「尾州不二見原」参照)。では、なぜ題名が「烟中の不二」となっているのでしょうか。焚き火の「烟」を富士に被せないでも、十分に吉祥図としては完成しているのに…。

 焚いた「烟」の中に何か姿が浮かぶという現象は、歌舞伎の「浅間物」などの見せ場に登場します。たとえば、起請文を燃やすと、その「烟」の中に将来を誓った遊女や恋人が浮かび上がるというものです。この趣向を応用すると、山の紅葉で焚き火をしたところ、その「烟」の中に山の神である富士が映し出されるという演出で、神秘的な富士を強調しようとしたと考えられます。富士が風に舞う紅葉に覆われ、美しく飾られているのも、紅葉の落ち葉の焚き火から立ち上った「烟」だからです。本作品のからくりは、「烟」のマジックで、富士が庚申塚の生き霊(?)として現れたというところにあると言えます。さらに、富士を庚申塚のやつし姿と捉えて良いかとも思われます。

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17.松山の不二

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 松と富士の組み合わせという観点では三十六景「青山圓座枩」が思い浮かびます。富士が築山のように描かれている点では似ているかもしれませんが、百景3編に「青山の不二」があるので、比較対象はそちらに委ねることにします。

 さて、「松山の不二」は、若松が多数生えるどこかの丘陵の道を多くの人々が歩いている様子を描いています。よく見ると、左図の男が頭の上に掲げる笠の中に茸が入っていることに気付きます。つまり、画中に描かれる人々は、どうやら茸採りが目的でこの松山に来ているようなのです。若松だけの山は存在しないし、その山に松茸が生えることもないと全くの否定的見解もありますが(有泉・前掲『楽しい北斎』p161参照)、山が再生する初期にはまず松が生えること、くわえて、松山に生える茸は松茸だけではないことを勘案して、ここは北斎の絵を肯定するところから始めて、その作品意図を探ってみましょう。ちなみに、ジコボウとか落葉(茸)と呼ばれる、ヌメリイグチの代表格ハナイグチは、若松の根元などにも生えます(わが家の庭でも収穫したことがあります)。

 茸採りに多くの人々が集まる前景の松山と実際には遠方にある富士とを視覚的に重ね合わせるこの方法は、北斎の定番といっても過言ではありません。本作品の場合、まるで富士山腹で茸採りをしているように見えます。また、常緑の若松(五葉松・姫小松)と富士の組み合わせは縁起がよいことは言うまでもありませんが(3編「野州遠景の不二 男體山行者越の松」参照)、そこに茸という果報まで加わるのですから、当然、吉祥図です。富士の御利益を直接受けることができるという意味で、富士講信者だけでなく、一般庶民の気持ちをも掴みとることでしょう。

 さらに読み解けば、背後の富士さえ松山の一部のようであるだけでなく、富士が松山に生える茸のように感じられるところにも、一種仕掛けがあると考えられます。野趣好きの北斎を前提にすれば、「茸と化した富士」のやつし姿も決して過剰な演出ではないはずです。

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16.洞中の不二

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 百景「尾州不二見原」と同「山亦山」とは1対の作品でした。同じように、前作品「大森」と本作品「洞中の不二」との間にも左右1対の関係があると推測されます。それ故、また、「洞中の不二」と「山亦山」とは、先の2作品と並行的に読み解くことができると予想されます。

 「山亦山」は秀峰富士を表現しています。ところが「洞中の不二」では、北斎は、その秀峰が洞窟の中に入っているという非現実的世界を描き、その事実をもって見る者を驚かそうとしているようです。本来、富士は洞窟の外に聳えていますが、題名「洞中」からも分かるとおり、富士をまさに洞中に収めてしまいました。合わせて、洞窟の出入り口付近で憩う2人の杣人も一景に収めてしまい、富士と杣人が同じ洞中にあるかのように見せています。三十六景「尾州不二見原」と同じ構図を採ることによって、富士と人との心理的距離を相当縮め、富士が身近な存在になり、1つの世界の中にあることを示しています。富士講信者には、これもまた吉祥図となります。洞窟が富士本体に通じるという思想は、元々、富士の「人穴伝説」に根ざすものです。北斎は、洞窟の内と外の視点を反転させることによって、その人穴伝説を現実世界に発見したとも言えましょう。

 なお、斧を持っている杣人の周りには、枝を集めた薪用の粗朶(そだ)が置かれています。この粗朶を海苔養殖ではヒビと呼ぶことが分かれば、「大森」と「洞中の不二」は、ともに粗朶もしくはヒビ繋がりであったこと、つまり、1対の作品であったことがより明確になります。ただし、粗朶ならば、杣人が持つ道具は、斧よりも鉈(なた)の方が自然ですが…。さらに、深読みすれば、交差する斧の柄が作る三角形は遠景の富士を近景に導き出す記号と捉えることもできます。

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15.大森

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 『江戸名所圖會巻之二』(『新訂江戸名所図会2』ちくま学芸文庫・1996、p159)には、「大森 鈴の森の南、不入計村(いりやまずむら)に隣れり」とあって、「浅草海苔」、「麥藁細工」、「大森和中散」の3つの図版が掲載されています(同書p160~p165)。つまり、この3つが大森の土産物の代表格で、北斎はそこから「浅草海苔」を画題に選んだものと思われます。品川宿の南に「さみづ」(鮫洲・さめず)という場所があり(前掲『東海木曾两道中懐寳圖鑑』の「品川」参照)、ここが海苔養殖で有名な所です。

 『東海道名所圖會』掲載図版(前掲『新訂東海道名所図会下』p300~p301)の解説には、「浅草海苔を取るは、大森より北品川までのなぎさにて秋の彼岸より春のひがんまで取るなり。浅きところは歩行にて深きは船にてゆき、十町二十町あるは一里も出でて、ヒビという物を海底へさし込み満潮につれ/\て、海苔これにとどまるなり。寒中に取るを最上とす。至って美味なり」とあります。本作品を見ると、海岸に葦でも生えているように描かれているのが、木々の小枝や柴を搦めたヒビを表現するものと思われます。2艘の船は、ヒビの管理か、海苔の採取の作業風景を表現する趣旨でしょう。

 構図的観点では、手前の帆船の帆柱から船に縛られている綱が富士に相似する三角形を作っている点が重要です。近景に船の富士塚があるとも言えますし、反面、遠景の富士が海苔養殖の作業をする帆船のようにも見えます。作品中央部の船は、前後2つの富士に挟まれているという点に面白さがあります。これが、本作品に仕込まれたからくりです。

 なお、『東海道名所圖會』(前掲『新訂東海道名所図会下』p298)を見ると、「大森」の項の後は「長栄山本門寺」となっており、日蓮宗の池上本門寺があることに注意する必要があります。品川宿から大森へ行く途中に池上道への分岐点があるのです(前掲『東海木曾两道中懐寳圖鑑』の「品川」参照)。北斎が大森を画題に選んだ理由は、池上本門寺参拝途中に海岸を見た体験、もしくはその知見から来ていることは十分にあり得ることです。

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14.山亦山

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 本作品は、近景から中景にかけて地から湧き出たように山々を積み上げ、その頂きに富士が聳え立つ様子を描き上げるもので、全ての山に秀でる富士、つまり「秀峰富士」を表現しています。本作品を単独で読み解けば、ただそれだけのことです。鈴木・前掲書(p219)が、「地名はないが、題名から何となく足柄山あたりが連想される」と述べる感想にも、このかぎりでは同感です。

 それでも、付言すれば、右頁・鶴の群に対して左頁・山の群、右頁・野原に対して左頁・山々という比較対照はできます。では、この両頁1対の観点を発展させて、百景「山亦山」と同「尾州不二見原」の左右を入れ替え、見開き1頁として眺めると、三十六景「相州梅澤左」とかなり似ていることに気付きます。「相州梅澤左」に関しては、大磯宿と小田原宿の中間にあった立場の実景という評価よりは、シリーズ版行を祝う吉祥図と捉える説が主流です(日野原・前掲『北斎 富嶽三十六景』p93参照)。その考えを前提にすると、百景「山亦山」は、同「尾州不二見原」と一体となって、秀峰富士と群鶴という要素を重ねる吉祥図であることになります。ただし、1枚の作品を単純に2分するのでなく、「山亦山」に関しては山をより明確に湧き出たように積み上げ、「尾州不二見原」に関しては鶴の富士塚と北斗七星を重ね合わせるという手法で、構想を一層深めていることが分かります。その分、実景表現からは相当離れてもいます。結論としては、百景「山亦山」は、同「尾州不二見原」と一体となって、百景シリーズ版行を祝う吉祥図として制作されていると推測されます。

 なお、三十六景「相州梅澤左」に戻って、北斎がなぜ富士の名所でもない立場梅沢を作品の舞台にしたのかは、次のように説明できます。すなわち、身延山に向かった日蓮が酒匂川の増水で足止めになった際、法船寺地蔵堂の導きで無事渡河できたという事蹟があって、妙見(日蓮宗)信仰者の北斎にとって、この事蹟の地・梅沢に個人的関心があったからです(百景「袖ヶ浦」解説参照)。前掲『東海木曾两道中懐寳圖鑑』にも、「元梅沢」、「立バ梅沢」の東側に「地蔵堂」が記されており、北斎の個人的動機を推察させます。

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13.尾州不二見原

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 三十六景に「尾州不二見原」という同一題名の作品があります。桶職人が作る大桶の中に遠景の富士を見るという、構図重視の作品です。北斎は、文化9年(1812)、文化14年(1817)に名古屋に滞在しているので(飯島・前掲『葛飾北斎伝』p110以下、p128以下参照)、その際に知り得た知識に基づいて構想したものと想像されます。なお、実際に富士見原で見えるのは、富士に似た聖山であって、富士そのものではありません。

 三十六景「尾州不二見原」は、当地で富士が見えるという知見から生まれた構想図なので、大桶が10羽の群鶴に変わって百景作品となってもそれほど不思議ではありません。同じからくりなどの技法を重ねることを嫌う北斎が、本作品ではどんな工夫をしているかを検証してみましょう。

 まず最初に気付くのは、群鶴上部中央の1羽の鶴の首を中心に富士に相似する三角形が作られており、富士見原に群鶴の富士塚が出現しているということです。遠景の富士の御利益が、近景の富士のあるこの地にも到達することを感じることができ、大変おめでたい構図です。また、首を伸ばす7羽の鶴の頭が北斗七星を形作り、北斎の妙見信仰が重ねられています。その場合、富士を地上の北辰星と看做すことになります。初編前半の早い段階で「尾州不二見原」が採り上げられている動機の内には、おそらく、本シリーズだけでなく、『北斎漫画』も含めて、版元「尾州名古屋 永樂屋東四郎」への忖度が存在するものと考えて差し支えないでしょう。北斎にとって、尾州は作品の版行が進展する縁起の良い土地柄で、それ故、富士と群鶴を重ねた吉祥図を構想し、シリーズの売り上げ向上を合わせて祈念したものと思われます。

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12.袖ヶ浦

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 明確に地名が入っているのに、従来、「袖ヶ浦」について十分な特定はなされていないようです。天保6年頃の「前北斎卍筆」の団扇絵に、『勝景奇覧 相州袖ヶ浦』という作品があって(『別冊太陽 北斎決定版』平凡社・2010、p42参照)、ほぼ同じ構図なので、相州(神奈川県)であることは確認できます。飯島・前掲『葛飾北斎伝』(p141)は、「同年の冬か六年の春、北斎故あり、江戸を去りて、相州浦賀に潜居」していたとするので、天保5、6年当時の実体験から生まれた作品の可能性があります。

 ところで、この富士の前景にある屏風岩のような構図は、三十六景『相州七里濱』の中にも発見できます。もし同じ場所を描いたものであるならば、袖ヶ浦は鎌倉と江の島を結ぶ道の、七里ヶ浜近辺の断崖あるいは岩場の1つと想定できます。次に、『東海道名所圖會』掲載図版「七里浜」(前掲『新訂東海道名所図会下』p188~p189)を見ると「袖ノ浦」との記載があり、同書の解説には、「稲村崎の海浜袖のごとし。故に名とす」とあります(同『新訂東海道名所図会下』p193)。稲村ヶ崎は七里ヶ浜の東側にあるので、鎌倉を起点に考えれば、「袖ヶ浦」=「袖ノ浦」(稲村ヶ崎)、七里ヶ浜、そして小動(こゆるぎ)岬を越えると江ノ島に至るという地理関係になります。

 百景「袖ヶ浦」は、木々の生える断崖越しに富士を遠望するもので、断崖背後の家々も含めて、実景に基づいているという感覚を持ちます。ところで、本作品をもう1度見返すと、断崖となる岩場の下部に岩を四角にくりぬいた部分があるのに気付きます。巌屋洞窟のようになっています。これを背後の富士と重ね合わせると、富士の胎内洞窟と看做すことができ、富士講信者には重要な情報です。そもそも、屏風のような絶壁全体が富士に相似する三角形を作っていて、近景に富士世界を導き出す依代になっているとも思われます。また、海岸近くに描かれる民家の各屋根が三角形なのも、富士世界を表す記号です。

 では、北斎は「袖ヶ浦」に富士の胎内洞窟同様の洞窟があったことから、富士講信者に向けて本作品を制作したのでしょうか。この点については、すでに北斎は富士講信仰というよりは、妙見(日蓮宗)信仰に篤いと述べました。この視点からすると、七里ヶ浜にある「行合川(ゆきあいがわ)」は日蓮上人竜ノ口の難に際して、鎌倉への注進と北条時頼の赦免の使いが行合った川であり、日蓮袈裟掛松があるなど日蓮ゆかりの場所であることが確認できます。つまり、富士講信仰(だけ)ではなく、妙見(日蓮宗)信仰という観点で画題に選ばれたと考えた方が自然です。三十六景「相州七里濱」が、江ノ島を描く際の通例の構図ではない理由は、北斎が江ノ島よりも日蓮ゆかりの「袖ヶ浦」に強い関心があり、そもそも違う場所を描いているからです。さらに、海面に反射する日の光も、日神としての富士というイメージもありましょうが、本心は日蓮を象徴させる意図であったかもしれません。なお、前作品と本作品は、七夕、七里ヶ浜ということで、「七」繋がりにおいて1対です。

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11.七夕の不二

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 見開き1頁の作品が続いた中で、本作品から半頁作品が掲載される点を踏まえると、富士創世などの総論部分が終わって、これより富士の様々な景色を展開する各論部分が始まると見てよいでしょう。その場合、やはり、一旦は江戸が起点になるのも頷けます。

 画題の「七夕」は、中国の牽牛・織女の星伝説と日本古来の「棚機津女(たなばたつめ)」の信仰が習合して生まれた星祭と言われています。江戸時代には五節句の1つとされ、青笹竹に五色の短冊、色紙で作った網、吹流しなどを飾り付け、七夕飾りを高く掲げることを競い合うようになりました。本作品も、物干し台か物見台に括りつけられた七夕飾りが描かれています。その屋根は立派な瓦葺きなので、裕福な商家なのかもしれません。なお、歳時記(旧暦)的には、庶民は、6月1日の富士の山開き、7月7日の七夕、7月15日の盂蘭盆会という意識の流れの中にありました。

 家々に飾られた七夕飾りの背後に富士を望むという、遠近法を強調した構図です。一見すると、その一景を切り取っただけの絵のようですが、詳細に検討すると、やはり、北斎らしいからくりが隠されています。画面上部の笹竹の飾りとして、末広がりの扇子が風に靡いています。背後の富士も末広がりの三角形をなしていることに気が付けば、扇子と富士とが対照されており、笹竹に富士を飾り付けたとも見えますし、背後の富士は七夕を祝う扇子の飾りとも見えます。極論すれば、富士を七夕の飾り付けの1つにしてしまったところが北斎の狙いと言えましょう。富士が7月にもかかわらず冠雪しているのも、扇子に合わせたデザインと考えれば納得できます。この仕掛けによって、富士と庶民との心理的距離は随分と縮まっています。

 北斎考案の百景「七夕の不二」を江戸の風景の中に落とし込んだのが、広重『不二三十六景』「大江戸七夕祭」(佐野屋喜兵衛・嘉永5年頃・1852)であり、安政地震後、その作品をさらに江戸の名所絵として再構成したのが、『名所江戸百景』「市中繁栄七夕祭」(魚屋栄吉・安政4年7月・1857)です。当時大鋸町にあった広重自身の家の物干場から西方富士を望んで、南伝馬町の四方蔵(しほうくら)背後の商家に飾られた七夕飾りを写したと言われていますが、発想は北斎作品に倣ったと見るべきでしょう。ただし、本作品にあった「からくり絵」的要素は排除され、盂蘭盆会の前行事を描く、広重流の情緒的「名所絵」に発展させられています。つまり、趣向には大きな相違があるということです。

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10.柳塘の不二

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 「塘」とは、柳の木の生えた土手という程の意味です。作品の主題は、「霧中の不二」、「山中の不二」と同系列と理解すれば、柳の木々、枝々に隠された深遠な富士を描く趣旨と理解されます。右図上部には土手に腰を下ろして富士を眺める2人の男がおり、その煙管を咥える男ともう1人の男が本作品を見る者の視点を代弁しています。作品構成としてはそれで十分なのですが、さらに土手の上、その下、さらには石標から右に分岐する道に多くの旅人や地元民を配して、主要な街道沿いであることを示しているようです。

 鈴木・前掲書(p217)は、「北斎のよく用いるケレン味が少しもない」と指摘しています。多様な人物が描かれているので、まったくケレン味(大仕立て)がないという訳でもありませんが、確かに北斎にしては大人しい作品に見えます。前掲「霧中の不二」で、北斎でさえ現地の風景を見てしまうと、実景表現から離れることがなかなか難しいと述べたことを思い起こすと、本作品は構想図ではなくて、北斎の実体験に基づくものである可能性が高いのではないでしょうか。

 本作品左図の右下に石標が見えます。「右かまくら道 ○○村」と読めます。これを前提とするならば、東海道戸塚宿前後の場所と想定できます(「左りかまくら道」の石標を描く、広重・保永堂版東海道『戸塚』「元町別道」参照)。右図の右下には水鳥が浮かぶ池が描かれています。戸塚宿周辺において池で有名な場所と言えば、藤沢宿と戸塚宿の間に「影取池」があります。渓斎英泉『東海木曾两道中懐寳圖鑑』(天保13年・1842)には「立バかけとり」として記載されています。石標と影取池との組み合わせから、本作品は、影取の立場辺りからの実景に富士の眺望図を加えたものなのではないかと推論されます。

 ちなみに、影取池には名前の由来となった、人の影を食べる白い大蛇が棲み、住民を悩ませていたところ、鉄砲の名手が現れ、その手によって退治されたという伝説があります(藤沢市教育委員会『藤沢市教育文化センター』HP参照)。この白蛇を池の主と見るならば、柳樹の向こうに見える真白き富士の化身とも考えられ、意味的には深く関連します。さらに深読みすれば、作品を2分する土手の遠景にある三角の富士と近景にある三角の池とが視覚的にもシンメトリーの関係にあるというのは考えすぎでしょうか。この池こそ、「塘の不二」なのです。もしそうならば、十分にケレン味があります。

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9.山中の不二

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 三十六景に「遠江山中」という作品がありますが、百景2編にも「遠江山中の不二」という作品があるので、本作品「山中の不二」は三十六景作品とは直接関係がないものとして読み解きます。他方、本作品は、前作品「霧中の不二」との流れから考えて、霧立つ深き山々に囲まれ、人が目にすることが少ない神秘的な富士を主題にするものと考えられます。「遠江」ではなく、まさに「山中」の富士なのです。

 左側に傾く古木を使って画面を作品の対角線で大胆に2分し、近景に猟の準備のため鉄砲に火薬を詰めている2人の猟師を、対して遠景に富士を配するという遠近法強調の構成です。本来ならば、この対比表現だけで、山奥深くにあってなかなか目にすることができないという富士の神秘性表現は十分に達成されています。しかしながら、北斎の過剰なサービス精神は、もう1つ画中に仕掛けを施させたようです。倒れかけた古木は、幹の内側が洞(うろ)になっており、そこに生える茸を女達が収穫している様子なのです。古木と一体となっているので、やや気付きにくい描写なのですが、これこそが北斎のからくりなのです。数えてみると、5人の女達が隠れています。「隠し絵」あるいは「騙し絵」風に仕立てたところが、北斎の遊び心なのです。

 富士が霧深く、山深くに存在するということを表現することが目的で、その霧の中に川船が隠れていることや山中の古木に女達が隠されていることはその派生的描写に過ぎないのですが、後者に目が行ってしまって、作品意図を忘れさせてしまうところが北斎の「筆才」、「筆力」なのです。なお、本作品の右頁に3人、左頁に4人の人物が配置されていて、線で繋げば北斗七星になる点は、北斎の内心に潜む、富士講信仰というよりは妙見信仰の顕れなのかもしれません。

 飯島虚心『葛飾北斎伝』(岩波文庫・1999、p54)には、「北斎辰政(ときまさ)」の画号に関し、「妙見を信仰するをもて名づく。妙見は、北斗星、即北辰星なり。其の祠、今本所柳島にあり。又嘗て柳島妙見に賽せし途中、大雷のおつるに遇ひて、堤下の田圃に陥りたり。其の頃より名を著はしたりとて、雷斗と名づけ、又雷震といふ」と記されています。柳島の妙見堂(日蓮宗法性寺)への信仰が北斎にとってかなり重要であったことを窺わせる記述です。

 法性寺の妙見堂に安置される妙見大菩薩は、北極星を意味する「北辰星」を具現化する仏で、「七曜」(北斗七星)を表した7条の光をまとい、右手に智慧の剣を掲げ、左手に宝珠を持ち、足元に亀と白蛇を踏まえています。北斎が「柳嶋妙見堂」「妙見宮」等の作品を残しているのも、その信仰の顕れと思われます。北斎の富士への関心は、富士講信者としてよりも、富士を地上の北辰星と看做す思考、また日蓮宗信者としての関心(百景2編「大石寺の山中の不二」参照)の方が強いように感じられます。ちなみに、妙見堂は、歌川豊国・中村仲蔵などの絵師や役者が篤く信仰していました。『江戸名所圖會巻之七』図版「柳嶋妙見堂」(『新訂江戸名所図会6』ちくま学芸文庫・1997、p154~p155)参照。

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8.霧中の不二

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 手前の険しい坂道を農民達が登り、朝仕事に出かける様子を点苔描法を使いながら描いています。題名から霧に隠れる富士を主題にしていることが分りますが、眼を凝らしてよく見ると、川霧の中に数艘の船が陰影表現を使って描かれています。おそらく、北斎の意図は、霧中に富士と川船を隠し、何もないと思わせながら、実はそれらが見つかるという驚きを狙ったのではないかと思われます。「川霧は太陽が昇ると共に消失」するので(有泉・前掲『楽しい北斎』p157)、それを待っての舟運が常識的なのかもしれませんが…。

 前作品「宝永山出現」によって、富士の創世部分が終わり、いよいよ、富士の百態に重心が移るはずですが、その最初がなぜ「霧中の不二」なのかについて少し考えておきます。『東海道名所圖會』に、「ある説には、大むかしこの山雲霧深くしていまだ現れず、人民も少なくして、尋ね登ることなし。孝霊の御時、初めて霧はれ、見顕しけるとぞ」とあります(前掲『新訂東海道名所図会下』p51)。前掲「孝霊五年不二峯出現」との関連において、富士が人々に発見されるまで霧に包まれていたという創世の歴史を受けて、本画題が選ばれていることが分かります。つまり、富士の神秘性が導入口になっているということです。

 次に、本作品と共に川霧が作品の要素になっている、三十六景「甲州犬目峠」と同「甲州伊沢暁」との間に何か関係があるのかを検討します。「甲州犬目峠」では、手前に峠道があり、そこからの富士眺望が主題ですが、峠と富士の間には桂川が流れ、そこに湧き立つ川霧が描かれていて、百景本作品と構図的にはほぼ同一と考えられます。また、「甲州伊沢暁」では、手前に石和(いさわ)宿があり、遠景の富士との間には、笛吹川の川霧が描かれ、要素に違いがありますが、やはり、百景本作品とほぼ共通の構想です。しかし、後者の作品はよく見ると、川に架かる橋が霧に隠されているかのような表現になっています。作品を時系列に並べると、「甲州犬目峠」では峠から見える川霧を描くに止め、「甲州伊沢暁」では橋の一部のみを川霧に隠すに止めているのは、いずれの作品も、その内容が北斎の実体験に基づいているからと推測されます。これらに対して、「霧中の不二」では、川霧は川船だけでなく、対岸の富士までも隠しています。絵画表現的には、こちらの方が趣が深いと考えられますが、おそらく、実景ではなく、構想を進めた結果完成された、狙い通りの作品です。三十六景時点ではまだ不十分であった構想を、百景で完成させたものと想像できます。百景が絵本である所以であり、同時に、北斎でさえ現地の風景を見てしまうと、実景表現から離れることがなかなか難しいということを物語っています。

 なお、北斎が実際に甲州を訪れたという確実な記録はありませんが、『北斎漫画7編』(文化14年・1817)には、「甲斐の巴山」、「甲斐の猿橋」、「甲斐 鰍澤」、「甲州 矢立杦」、「甲州三嶌越」と、甲州各地をいくつも描いています。なかでも、「甲斐の巴山」はそれほど有名な場所ではないことから、北斎が甲州旅行中に知ったという可能性が高いと言えます。日野原健司『北斎 富嶽三十六景』(岩波文庫・2019、p37)は、「甲斐の巴山」が三十六景「甲州犬目峠」の元絵となっていると指摘しています。

 ちなみに、香蝶楼国貞の大判錦絵『霧中ノ山水』(山口屋藤兵衛・天保時代・1830~1844・前期頃)について、北斎「霧中の不二」の模倣であるという説があります(小島烏水『冨嶽百景』藝艸堂・1948の解説参照)。確かに、川霧の中に隠れる川船と富士を、拭きぼかしと叩きぽかしの技法を使って陰影表現する構成は、「霧中の不二」を彷彿とさせるものです。これに対して、鈴木重三『葛飾北斎 富嶽百景』(岩崎美術社・1986、p216)は、「説得性のある比較例示が足りない」と否定的見解です。

 しかしながら、三代豊国『江戸名所百人美女』「大川橋里俗吾妻はし」が『北斎漫画12編』「千人切」に倣った可能性が高く(長野浮世絵研究会『市民の浮世絵美術館』HP参照)、想像以上に、三代豊国が北斎を研究していることを知るならば、浮世絵界に名所絵のブームが起こった天保初期、先行していた北斎の絵手本・絵本を国貞時代の三代豊国が参考にしたことは当然ありうべきことと思われます。両者の関係を否定するのではなく、肯定するところから議論を進めるべきです。なによりも、『北斎漫画』に対して、『豊国漫画』シリーズさえ版行しているのですから。

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7.其二

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 前作品「宝永山出現」を受けて、富士の中腹部に生じた宝永山の様子を描いています。宝永山が右・東側に見えているので、東海道側からの視点であることが分かります。手前の山が愛鷹山ということになります。

 街道を旅する人々が宝永山を眺めている姿が前面に大きく描写されていますが、この人々の関心が既述した富士講信者の増加に一役買ったことがよく理解できる一景です。右頁では、右側の男が富士の方を指差しています。そして、その隣の同伴の男は中央部に描かれている鍬を持つ農家の女の尻辺りを指差しています。腰を少し屈める女の尻の部分がやや出ているように見えるので、これは、男2人が宝永山と女の尻とを比べて揶揄している状況です。左頁では、中央の男の頬っぺたに瘤があるので、指差しながら富士を眺める男は宝永山を「瘤みたいだ!」と言っており、左端の男もそれに同意している様子です。富士にできた宝永山が瘤や尻みたいだということを、北斎は丁寧にも絵で表現したということです。富士と庶民との距離が相当縮まった描写ですが、その諧謔性には賛否もありましょう。ただし、本作品も、今日的意味での「一コマ漫画」と見れば、その先見性は評価できます。

 『冨嶽三十六景』では、「凱風快晴」「山下白雨」など富士をアップして描く場合、宝永山がある峰辺りでカットされており、またその他の作品では、まるで宝永山など無いかのような描写となっています。百景の本作品から想像できることは、北斎には、宝永山は「瘤」、「尻」と感じられ、意識的に排除されたことが窺われます。なお、『冨嶽三十六景』の版元「西村屋与八」(永寿堂)は、販売戦略上、富士講信者を当然意識していますが、北斎自身に、講元とも言われる版元と同程度の関心があったかどうかは不明です。北斎の富士への興味は、妙見信仰など他の心理的関心、あるいはそうでなければ制作上の関心に基づいているようであり、野趣溢れる表現もそこに原因があるのかもしれません。たとえば、百景の本作品では、右頁4人+左頁3人の計7人で、これがもし北斗七星(柄杓)を暗示するならば、北斎心理の妙見信仰への傾斜が認められます。

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6.宝永山出現

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 本作品は、旧暦宝永4年(1707)11月23日に始まった宝永大噴火を題材にしています。徳川綱吉の時代です。頂上火口ではなく、富士南東部の側火口での爆発的噴火で、第一宝永火口は富士山最大の規模です。江戸市中でも降灰が記録されています。本作品を見ると、家の瓦や造作、家財道具、農具、家畜などと共に人々も吹き飛ばされています。家の柱などの下敷きになっている人もいます。本作品からは相当多くの人々が死傷したであろうと想像されます。しかしながら、実際には、噴火による第一次的な人的被害はありませんでした。ということは、北斎の過剰な演出ということが分かります。

 作品の制作過程を想像するに、おそらく、天明3年(1783)7月8日の浅間山の天明大噴火(被災)の記憶に基づいているのではないかと思われます。村々が溶岩流・火砕流に飲み込まれ大被害を被り、ほぼ全滅に近い状況にもなっています。その時の溶岩流の跡が「鬼押出」です。また、土石流の発生によって、利根川や江戸川下流域に多くの死体が流れ着いたという記録もあり、当時24歳の北斎に事態の深刻な記憶が刻まれたと考えられます。ちなみに、浅間山の天明大噴火の影響で、東北地方を中心に10万人の餓死者が出たとされる天明大飢饉が発生しています。

 宝永大噴火は、その被害というよりは、噴火が江戸でも体感できたという意味で、別な形で江戸庶民に大きな影響を与えています。つまり、皮肉にも、噴火が世間の富士への関心を高めたということです。宝永大噴火が、富士講中興の祖・食行身禄(じきぎょうみろく)の生きた年代(1671~1733)とちょうど重なることも重要です。また、具体的影響例として、噴火の翌年の宝永5年(1708)には、再建された須走村に富士参詣客が殺到し、翌年以降も同様の傾向が続いたと言われています。『富嶽百景』の作品掲載順を考察すると、金剛杖をブレーキ代わりに使いながら須走口に下る様子を描いた「辷リ」の後に、「宝永山出現」が登場します。これは、宝永火口が須走村地区にあるからです。本作品は、過剰な表現ですが、富士講信者の参拝行程を意識した構成として納得できるものです。

 ただし、百景2編「不二の室」で詳しく触れますが、実際には富士に登頂していないと考えられる北斎には、宝永火口を描くだけの知見がなく、実景表現ができなかった事情も垣間見えます。キャッチーな表現をすれば、広重は東海道を旅することなく保永堂版『東海道五拾三次』を描き、北斎は富士に登頂することなく『冨嶽三十六景』および『富嶽百景』を描いたということになります。

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5-1.不二の山明キ 5-2.辷リ

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 呪術的修験道を離れ、富士信仰を庶民にも分かるような形で説いたのが、富士講中興の祖、俗名・伊藤伊兵衛こと、食行身禄(じきぎょうみろく)(1671~1733)という人物です。「不二は三国の根元なり」と説いた身禄の言葉が庶民の心に火を点け、富士の頂上で「仙元」(浅間)大菩薩を拝し、富士で入滅した身禄の墓を詣でる目的で富士講が組織されます。その富士登山互助会とでも言うべき富士講は、「江戸八百八講」と呼ばれる程多数生まれます。富士講は新規の宗教を認めないという幕府政策に反し、何度も禁止されますが、逆に、ますます拡大していきます。それどころか、関東一円に富士を模した富士塚が造られ、新たな信仰の拠点となる程でした。

 富士の山開きは毎年(旧暦)6月1日で、その富士講の信者達が富士を登り下りする姿を描いたのが、本2作品です。右図には40人前後の富士講信者が岩間を登る様子が、左図には4人の富士講信者が須走口を金剛杖をブレーキ代わりに使いながら下る様が描かれています。右図はS字、左図は逆S字で、対象的です。本作品は、神仏が座す百景「快晴の不二」があって初めて成立するもので、その理は、三十六景「諸人登山」が同「凱風快晴」があってこそ成立するのと同じです。『富嶽百景』および『冨嶽三十六景』が、富士講とその信者の存在を前提にしているというシリ-ズ構造は非常に重要で、作品の読み解きに際しては、富士講信者の目にどう映るかを常に意識する必要があるということを意味します。

 なお、富士講信者の旅の往復の行程は、通例、新宿大木戸を発って甲州街道を歩き、八王子・高尾山から小仏峠を経て甲州路に入ります。大月、富士吉田を経て、吉田口から登り、富士山中の石室にて1泊して頂上に向かいます。そして、須走口へ下り、足柄峠を越え、大山に詣でて、藤沢、品川と東海道を利用して戻ります。全行程8日です。本作品「不二の山明キ」は、おそらく、法螺貝を吹く御師に導かれながら、身禄ゆかりの烏帽子岩辺りから8合目を経て、頂上へ向かう信者一行の姿です。本作品「辷リ」は、頂上から須走口へ下る様です。その間の信者の様子は、後述する、百景2編「不二の室」と同3編「八堺廽の不二」に示される構成になっています。各編に富士講関連の作品が散らされていることは、営業上の理由もありますが、『富嶽百景』の各作品が富士講信者の受け止めと密接に関連していることの証拠と思われます。

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4.快晴の不二

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 富士の祭神、出現、信仰に関する伝説を離れ、実際の富士を描いたのが本作品です。題名に「快晴の不二」とある点から考えて、三十六景「凱風快晴」を意識した後継作品であること、そして太陽に照らされた富士が最初の富士風景に位置づけられていることが読み取れます。

 作品の進化という観点から見ると、「凱風快晴」では山頂付近に焦点が当てられていたのに対して、ほぼ全景が描かれているので、描いた地点を推測することができます。『東海道名所圖會』掲載図版(前掲『新訂東海道名所図会下』p32~p33)を参照すると、東海道吉原宿辺りの太平洋側(駿河湾)からの視点と思われます。また、三十六景「東海道江尻田子の浦略図」、百景2編「文邉ノ不二」を参照すると、江尻辺りの田子の浦も含まれましょう。いずれにしろ、駿河湾からの眺めです。

 次に問題なのは、本作品の富士が赤富士なのかどうかという点です。夏の「凱風快晴」とは異なって山頂の積雪がかなり多く、冬に近いと考えた方がよいかもしれません。季節が違う点も含め、本作品の富士を赤富士と看做さなければならない理由はとくにありません。しかし、青空に流れる雲の表現は共通しており、「凱風快晴」を彷彿とさせる点をどう理解するかです。「凱風快晴」も、「快晴の不二」も、いずれも快晴であって、赤富士であることは個別作品の属性に過ぎないと考えれば、「快晴の不二」が実際の富士として最初に登場することの意義に北斎の力点があると理解すべきではないでしょうか。富士の祭神・木花開耶姫命は御神鏡を手にしており、日神を象徴しています。また、優婆塞によって開かれた富士修験道の基点・富士浅間神社の浅間大菩薩の本地は、大日如来です。富士信仰の中核に「日」(火)があることの方が重要です。とすれば、これを象徴する風景として、「快晴の不二」が描かれていると読み解けます。

 北斎が点苔(てんたい)描法を使って描いた「快晴の不二」には、日神あるいは本地を大日如来とする浅間大菩薩が坐(ましま)す姿が表現されているのです。こう理解することによって、後作品「不二の山明キ」、「辷リ」に写されている富士講信者の遥拝を目的とする姿と繋がるのです。ちなみに、「凱風快晴」が『冨嶽三十六景』の版行において、最初なのか、最後なのかが議論になりますが、『富嶽百景』の構成に従えば、やはり、最初と見るべきでしょう。

 なお、三十六景「凱風快晴」の、いわゆる赤富士の意味について補足しておきます。赤富士を見ることができるのは、冬の東海道箱根、三島、蒲原辺りからで、積雪に早朝の日の光が反射して紅玉となる「紅玉芙蓉」がつとに知られています(狩野博幸『"赤富士”のフォークロア 凱風快晴』平凡社・1994、p64以下参照)。他方、夏の山梨県吉田口側辺りから、富士の赤茶けた土に早朝の日の光が重なって見える赤富士も有名です(有泉・前掲『楽しい北斎』p14~p15)。ちなみに、河口湖畔から夕日に照らされる富士を見たことがありますが、赤富士というイメージからは遠かった記憶があります。

 三十六景「凱風快晴」は富士が赤色に描かれていることで有名ですが、百景「快晴の不二」と対比すると、実は富士が朝日に照らされていることが重要なのであって、赤色は北斎の人を驚かそうとするサービス精神の発露に過ぎません。手段(技法)が目的(本質)を上回ってしまったと考えられます。言い換えれば、富士の山頂部分が拡大されて描かれているのは、光に象徴される神仏坐す世界を描こうという意図であって、そこで重要なのは後光のような朝日に照らされている姿なのです。そこに、木花開耶姫命を見る人もいましょうし、浅間大菩薩、大日如来、さらには天女や古代の火の女神を感じる人もいましょう。いずれにしろ、富士の本質は、神仏坐す「三国一の山」というところにあるのです。『東海道名所圖會』図版(前掲『新訂東海道名所図会下』p58~p59)に書き込まれている、秋里籬島の「嗚呼 我が富士 釈迦の生まれし 国になし」という言葉が印象的です。

 富士の本質が神仏坐す山であることから、「凱風快晴」以下『冨嶽三十六景』の各作品に、富士=神仏と人々との様々な係わりが絵となって描かれることになり、また、「快晴の不二」以下『富嶽百景』の各作品に、富士=神仏と人々との多様な関係が写されることになるのです。ただし、何分にも他を圧倒する画力と過剰なサービス精神が仇となって、以下の広重『富士見百図』(安政4・1857年改印・安政6・1859年刊)の自序が言うような誤解も生まれてきます。すなわち、「翁が例の筆才にて、草木鳥獣器財のたぐひ、或は人物都鄙の風俗、筆力を尽し、絵組のおもしろきを専らとし、不二は其あしらひにいたるも多し」と。

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3.役ノ優婆塞富嶽草創

 

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 「役ノ優婆塞(えんのうばそく)」とは、役の小角(おづの・ぬ)あるいは行者と呼ばれる修験道の開祖の名前です。優婆塞とは、在野の信仰者という意味です。『続日本紀』に「丁(ひのと)丑。役君小角流于伊豆島」、「小角能役使鬼神。汲水採薪。若不用命。即以咒縛之」とあって、文武天皇3年、伊豆大島に配流されたこと、鬼神を使役して、水を汲ませたり、薪を採らせたりし、もし鬼神が彼の命令に従わなければ、彼らを呪縛したなどとあります(『北斎漫画』10編参照)。歴史書に登場するほどの人です。また、仏教説話集『日本霊異記(にほんりょういき)』では、伊豆大島に流された際、昼だけ伊豆におり、夜には海上を渡って富士山に行って修行したと記されています。これがために、富士の山岳修験道の開祖として、ここに描かれているのです。

 後世、呪術者として様々な伝説が付与されていますが、北斎も岩に座し、印を結ぶ修行僧のような姿として表現をしています。杖が絵の枠を超えているところは、、前作品「孝霊五年不二峯出現」と対照して、北斎流の表現への昇華が明確です。着物の大胆な襞表現は、前掲「木花開耶姫命」と共通する、北斎の特徴とするところです。「実用不可能な出鱈目な高下駄に向かって真剣な表情で修法を行わせて」いるという見解もありますが(有泉豊明『楽しい北斎の 冨嶽三十六景 富嶽百景 動植物画他』目の眼・2017、p151)、作品の面白さはその点にあるのではありません。

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 優婆塞ばかりが目につきますが、背後の雲の方に目を向けることが重要です。とくに数珠の房に重なる部分の雲は、よく見ると優婆塞と同じ杖を持っている鬼のようにも描かれており、まるで幽体離脱したかのような表現です。さらにその他の雲々も、鬼のような鋭い視線を放つ顔の集まりであることに気付きます。優婆塞は前鬼、後鬼の鬼達を使役する行者なので、鬼が居ても不思議はありません。つまり、鬼を従える優婆塞伝説が描かれているのです。ここにあるのは、良く言えば北斎の遊び心であり、悪く言えば野卑とも批判される過剰なサービス精神です。

 

*以下の論述においては、たとえば『冨嶽三十六景』「凱風快晴」を三十六景「凱風快晴」と、また『富嶽百景』「快晴の不二」を百景「快晴の不二」とそれぞれ略します。

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2.孝霊五年不二峯出現

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 富士出現に関し、『東海道名所圖會』には、「むかし孝安帝九十二年、この山初めて現ずとも、また孝霊帝五年、近州琵琶湖とともに一夜に現ずともいい伝えたり。ある説には、大むかしこの山雲霧深くしていまだ現れず、人民も少なくして、尋ね登ることなし。孝霊の御時、初めて霧はれ、見顕しけるとぞ。これらも都氏の記に見えざれば、正説にあらず」という記事があります(前掲『新訂東海道名所図会下』p50~p51)。さらに、同書は、林羅山『神社考』(本朝神社考)を引用し、「孝安天皇九十二年六月、富士山湧出す。初めは雲霞飛び来て、穀の聚まるがごとくにして嶮岨なし。後、頂上に五盤石出ず。その落ち下れる趾、渓壑と作れり。郡の名を取りて富士山という」と続けています(同『新訂東海道名所図会下』p53)。なお、孝安天皇は神武天皇から数えて6代目、孝霊天皇はその子で7代目に当たり、いずれも、「欠史八代」の天皇です。

 さて、本作品では、北斎が、「孝霊(天皇)五年」説の方に則って富士出現図を描いていることが分かります。「孝霊(天皇)五年」説を紹介する江戸時代の資料としては、次のようなものが挙げられます。

*浅井了意『東海道名所記』(寛文元年頃・1661) :朝倉治彦校注『東海道名所記2』(東洋文庫・1979)p100~p101参照。
 「諺に、むかし、富士権現、近江の地をほりて、富士山をつくりたまひしに、一夜のうちに、つき給ヘり、夜すでにあけゝれば、簣(もつこ)かた/\を。爰にすて給ふ。これ三上山なりといふ。さもこそあるらめ  いにしへ、孝霊天皇の御時に、此あふミの水うみ、一夜のうちに出きて、その夜に、富士山わき出たり。その時しも。三上山も出来にけり。一夜の内に山の出き。淵の出き、又ハ山のうつりて、余所(よそ)にゆく事、物しれる人/\は、ふかき道理のある事也。故なきにハあらずと、申されし」

*寺島良安『和漢三才図会』(正徳2年・1712)56巻p23(早稲田大学図書館古典籍) :島田勇雄・竹島淳夫・樋口元巳訳注『和漢三才図会8』(東洋文庫・1987)p54~p55参照。
 「相伝、孝霊帝五年始見矣。蓋一夜地拆、為大湖、是江州琵琶湖(ミツウミ)也。其土為大山、駿州之富士也」

 では、北斎がこれら資料に倣って制作したのかというと、それよりは、天明元年の川柳「孝霊五年あれを見ろ/\」などが典型例ですが、巷間、庶民の口に上っていた伝聞・伝承を受けてのことだと考えた方が自然です。本作品を見ると、江戸時代の風俗である点も含めて、検分の役人と案内の村人が富士の頂上一点を凝視していて、この表現自体が先の川柳を意識していることがよく分かります。他に、山頂が作品の枠外に突き出ているところに画趣を見出すこともできます。もちろん、富士が絵の枠を超える作画方法は、先に広重の保永堂版東海道『原』「朝之富士」に見つけることができますが…。

 ただし、富士と人物との位置関係には大きな違いがあります。すなわち、広重では女2人が立ち止まり富士を見返す仕草が描かれていますが、その視線は実際の富士には向けられていません。にもかかわらず、作品を見た人は、街道で振り返って富士を眺めている構図であると感じます。なぜならば、そもそも本作品は、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』8段目「道行旅路嫁入」を受けて、戸無瀬と小浪の母娘が京へ上る情景を写しているからです。舞台の観客目線で絵を見れば、役者は観客側を意識して芝居をするので、このような虚構が許されるのです。言い換えれば、富士は舞台の書割の役割を果たしているということです。浄瑠璃や歌舞伎と一体となって発達した浮世絵の性格を考えれば、浮世絵作品には舞台で発展した虚構が応用されているということです。

 ところが、北斎作品では、検分の役人も案内役の村人も、全員視線を富士の頂上部辺りに向けています。構図的には、視線の流れを遠近法の消失点に合わせて、より合理的に表現しています。歌舞伎舞台の虚構から離れた構図という意味では、近代的精神を見出すことができますが、富士山頂の急勾配や富士自体の異常な大きさなどに誇張があって、単純な風景画ではありません。その意味で、人を驚かそうとする北斎流の絵本となるのです。歌川派は歌舞伎のスタイルを踏襲しますが、北斎はそれを捨て去ったようです。ここに、北斎流の作画の核心を1つ発見できます。

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1.木花開耶姫命

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 富士の祭神・富士浅間大神は女神で、その名を「木花開耶姫命」(このはなさくやひめのみこと)と言います。そこには、桜の花の咲くように咲き栄える女性という意味があります。当時の富士講信者の気持ちを惹き付けるためには、『富嶽百景』の巻頭を飾るに相応しい題材です。『古事記』では本名を神阿多都比売(かむあたつひめ)、別名を木花之佐久夜毘売とあり、『日本書紀』では本名を神吾田津姫(かむあたつひめ)、神吾田鹿葦津姫(かむあたかあしつひめ)、別名を木花開耶姫とあります。

 古事記の神話において本女神の性格を語る上で重要な点は、天照大御神の孫・邇邇芸命に求婚された際、父の大山津見神が邇邇芸命に姉の石長比売と共に差し出したところ、邇邇芸命が醜い石長比売を送り返し、美しい木花之佐久夜毘売だけを受け入れた話の中にあります。すなわち、大山津見神が「石長比売を妻にすれば天津神の御子の命は岩のように永遠のものとなり、木花之佐久夜毘売を妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうが、木花之佐久夜毘売だけと結婚したので、天津神の御子の命は木の花のように儚くなるだろう」と告げているところです。なお、木花之佐久夜毘売の孫が天皇家初代の神武天皇に当たります。

 桜の木は古より農業を司る神木とされていたので、その桜を象徴する神名である木花開耶姫命には農業神・水神的性格が付与されていると考えられます。富士を見る庶民の感情の中には、山の神である大山津見神の娘が祭神である側面では崇高な神山と畏敬すると同時に、農業神・水神的側面では豊穣や繁栄を生む母性を慕う気持ちが包含されていると想像されます。本稿においても、富士に対する畏敬と慕情の両観点から、北斎作品を読み解いて行きたいと考えています。

 ちなみに、都良香『富士山の記』には、「仰ぎて山の峯を観るに、白衣の美女二人有り、山の嶺の上に雙び舞う」とあります。また、『竹取物語』「登天段」に触れて、かぐや姫が入内を断り、「不死の薬を捧げて上天(しょうてん)したまいけり。これぞふじの山という縁(もと)といえり」と、あるいは帝が不死の薬を峰にて燃やすように命じ、「そのよしうけたまわりて、兵者(つわもの)あまた具して山へのぼりけるよりなん、その山をふじの山とは名づけゝる」とあります。後者は、富士を多くの士=兵者(兵士)と読み解いています(以上、前掲『新訂東海道名所図会下』p16以下参照)。いずれにせよ、富士に、仙女や天女を見出す考え方で、その原点は、木花開耶姫命を富士の祭神とする思考と同様と言ってよいでしょう。さらに、その淵源は、縄文あるいはアイヌの火の女神の信仰にも繋がっていると思われます。

 本作品では、木花開耶姫命は、右手に神鏡、左手に榊を有しています。神鏡は日神の象徴であり、天照大御神の孫・邇邇芸命に嫁した帰結ですし、榊は神の依代です。巫女(神女)の衣装を身に着けており、その衣の襞(ひだ)は、北斎の美人図によく見る力強い描写表現です。背景の雲は、瑞雲として描かれています。

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富嶽百景と北斎の富士

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◇総説

 北斎は、初めから完成形の作品を描くというよりは、技法・材料・題材選定等を時々に更新・進化させながら制作しているという様子が窺えます。したがって、一個の作品の読み解きに際しては、そこに至るまでの制作の流れと積み重ね全体をよく理解する必要があります。たとえば、『冨嶽三十六景』の版行後に、絵本『富嶽百景』が出版されているという事実に鑑みて、各作品の意図を捉えるならば、『富嶽百景』に加えられたもの、『冨嶽三十六景』から削られたものを比較対照しながら、読み解くという方法論が必要であるということです。言い換えれば、『冨嶽三十六景』も『富嶽百景』の時点に立てば、まだまだ未完成な部分があったという視点です。

 『富嶽百景』は半紙本3冊からなり、初編は天保5年、2編は同6年に江戸の版元西村屋祐蔵から出版され、3編は、2編出版後程なく、名古屋の永楽屋東四郎から発刊されたと考えられています。『冨嶽三十六景』が天保2年から天保5年までには刊行が終えているとされるので、その好評を受けての発刊と思われます。概括的に見れば、初編・2編は富士の本質を先に捕まえて、そこから富士の姿を導き出しており、3編は多くの富士図から逆に富士の本質に迫ろうとしているように感じられます。初編が「木花開耶姫命」に始まり、3編が「大尾一筆の不二」に終わっていることがその象徴なのですが、その具体的意味内容は各作品の解説の中で触れていく予定です。

 なお、参考資料として、『富嶽百景初編』(「丹青之妙」「成堂」「發兌之記」)の「序文」、「跋文」、「書林」を以下に掲載します。


◇序文

契冲か富士百首は突兀(とつこつ)として顯れ東潮か不二百句は綵雲にかくれて見えす今新に百嶽を図するは前北齋翁也此山や獨立して衆峰の巓を出つ翁の畫も又獨立して其名高き事一千五百丈に過なむ画帖諸國にわたり懐藏する者最多し豈十五州の壯観而巳(のみ)ならむや不二の十名を秘藏抄に載たり先生屢名を改むかそへなは十名にも滿へしそれかれ因あれはにや此岳を愛ること年あり近く田子の浦に見あけ三保か崎に望は隈なき月盛なる花のこゝちして風情薄とて歟遠く富士見原に杖をひき汐見坂に駕をとゝめ柳の絲になたれを透し稲葉の戰きに高根を仰き逆浪巖を碎くの大洋白雲谷を埋る羊膓嶮阻に上り危に下り真景を寫されたれは翁の精神此巻に止まり端山しけ山世にしけき畫本の峯巓を突兀と出む事阿闍梨の百首に劣らめやと
 天保甲午綠秀
 柳亭種彦敬白 董齋盛義書


◇跋文

 七十五齢 前北齋為一改 画狂老人卍筆

己六才より物の形状を写の癖ありて半百の比より数々画図を顯すといへども七十年前画く所は実に取に足ものなし七十三才にして稍(やゝ)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり故に八十才にしては益/\進み九十才にして猶其奥意を極め一百歳にして正に神妙ならん欤百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん願くは長壽の君子予が言の妄ならざるを見たまふべし
 画狂老人卍述


◇書林

天保五甲午年春三月發行

尾州名古屋 永樂屋東四郎・江戸麴町四丁目 角丸屋甚助・同馬喰町二丁目 西村與八・同 西村祐藏


*上掲「序文」に富士の「十名」とありますが、『秘蔵抄』は、「藤岳(ふじがたけ)・鳴沢高根(なるさわのたかね)・常盤山(ときわやま)・塵山(ちりやま)・二十山(はたちやま)・三重山(みえやま)・新山(にいやま)・見出山(みだしやま)・三上山(みかみやま)・神路山(かみじやま)」と記しています(『新訂東海道名所図会下』ぺりかん社・2001、p29参照)。


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