2-27.武邊の不二
文人を採り上げた「文邉の不二」に対し、武人と深く係わる富士を紹介する趣旨です。描かれているのは、源頼朝が富士の裾野で催した巻狩りにおいて、士卒を傷つけた手負いの大猪を退治した伝説を持つ、仁田四郎忠常(にったしろうただつね)です。平家物語では、「にたんのただつね」と呼ばれています。猪の背中に飛び乗り、止めを刺す勇猛果敢な武者姿が、富士を背景に表現されています。文化3年(1806)、北斎が現・木更津市須賀日枝神社に旅した際、やはり、忠常の猪退治の作品(画狂人北斎旅中画『板絵着色富士の巻狩図絵馬』139.3×180.4㎝)を奉納しています。比べると、百景作品の方では猪が倒れかかっており、よりダイナミックです。
作品の構造に目を向けると、右頁で士卒の持つ棒や竹がいくつかの三角形を作っていますが、猪の胴体から右下に流れる竹と忠常の右足が作る三角形は猪の体を取り込んで肉厚な富士を形成しています。忠常と猪の組討ち自体が近景に富士を形作っていると見るべきでしょう。言い換えれば、忠常と富士の組討ちを描くことが、北斎の趣向です。富士頂上が作品の枠外に出ているのも、富士の高さ表現だけではなく、暴れる猪あるいはそれを取り押さえる忠常の桁外れた力を示すものです。なお、猪の毛並み、忠常の行縢(むかばき)の毛筋の微細な表現は、彫りの技術と合わせて非常に優れています。
ちなみに、忠常は、『曾我物語』に、建久4年(1193)の曾我兄弟の仇討ちの際に、兄の祐成を討ち取ったとあるだけでなく、『吾妻鏡』によれば、建仁3年6月3日(1203)、源頼家の富士の巻狩りの際、富士の人穴を探索し、人穴の奥に大河があり、波が逆巻いていて渡れず、そこで松明で川向うを照らした先に奇特を見たとの伝説を持っています。つまり、「浅間大菩薩の御在所」を実体験した人物なのです。したがって、富士講の信者からすれば、猪と組討ちし、また祐成を討ち取った荒武者ということよりは、人穴で富士神霊と出会った体験者として有名です。その意味において、「武邊の不二」に忠常を採り上げることは、富士講信者には納得のことです。上述須賀日枝神社も富士塚のある神社として、富士講の地域的拠点なので、北斎は、忠常を主人公にする絵馬を奉納したと理解できます。これ程の人物ですが、将軍頼家への謀反の疑いで北条氏によって滅ぼされてしまいました。
最近のコメント