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90「人形町」

藤岡屋慶次郎  安政5年3月

資料  「日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖」  江戸百に対応図版なし


9008 こま絵を見ると、「人形町」とあります。しかし、人形町は、町名ではなくて、通り名もしくはその通りに面する町々を指します。切絵図を参照すると、日本橋北の東方向、江戸橋北を越え、「親父バシ」「ヨシ丁」と続き、その突き当りの南北の道が「人形丁通リ」に当たります。『江戸名所図会1』(p138)には、「いま俗に、このところを人形町と字(あざな)するは、人形屋多く住むゆゑに、しか唱へたり」と説明されています(雛人形店の多い前掲57「十軒店」との混同に要注意)。人形町の中で重要なのは、堺町・葺屋町にあった歌舞伎芝居小屋です。同江戸名所図会(p135以下)には、中村座、市村座、その他、人形浄瑠璃や操り人形の小屋(結城座、薩摩座)など多数あった旨の解説があります。「人形丁通リ」の東側にあったこれら芝居小屋等は、天保の改革の一環で、周知の通り、猿若町に移転されます。他方、西側には、「吉原町の旧地 和泉町・高砂町・住吉町・難波町等、その旧地なり」があり(同江戸名所図会p139)、明暦の大火後、浅草北部の日本堤(新吉原)に移転されます。つまり、人形町からイメージされるのは、芝居小屋や遊郭などの旧地、かつての歓楽街ということです。同江戸名所図会掲載図版「堺町 葺屋町 戯塲(しはゐ)」(p140~p141)が当時の様子を物語っています。

 こま絵の看板には「菊露香」という文字が見え、その直下の暖簾には「丸に結綿」の紋とその左に菊の花が染められています。暖簾の奥には、店頭風景が覗いています。これらを総合すると、人形町通りにあった(三代目)瀬川菊之丞の白粉の店頭風景であることが判ります。瀬川菊之丞は、(四代目)岩井半四郎と並ぶ女形の名優で、その人気を利用して、白粉など化粧品の店を副業としていました。歌舞伎俳優が芝居小屋近くで、白粉などの化粧品店・グッズ店を経営することは珍しいことではありません。團十郎(村松町)、菊之丞(人形町)、菊五郎(瀬戸物町)、羽左衛門(葺屋町)、幸四郎(木挽町)など18軒程の店があり、商品には、俳優の屋号を使った「音羽屋白粉」「門之助洗い粉」などの名が冠されていました(花咲一男『川柳江戸名物図絵』三樹書房・1994、p255)。役者が経営する店には、店本来の目的の他に、出会茶屋代わりに利用するという秘密の使い方もあったようです。なお、瀬川菊之丞と言えば、その俳名「仙女」から名付けた「美艶仙女香」が有名ですが、これは、京橋南伝馬町三丁目の稲荷新道にあった坂本氏から発売されたもので、数多くの浮世絵作品によって宣伝されています。

 さて、前景の美人に目を移すと、白粉の「寿々女(すずめ)香」を手にして思案顔です。床にも他に3点ほどの化粧品が置いてあります。つまるところ、人形町の菊之丞の店で、白粉など化粧品を購入しようとしている宣伝ポスターと考えられます。島田髷に鼈甲の花簪をしており、振袖の柄は裏梅に鳥をあしらった京友禅のようです。梅に鶯か、「寿々女香」にあわせて雀かもしれません。卍と宝相華模様の黒地帯は縦結びです。左手は袖の中に隠されています。かなり裕福な美人として描かれているようです。前掲3「猿若町」でも指摘したとおり、芝居関係者の周りには、こういったファンがいたことが判ります。なお、女の命、髪の手入れについては後掲96「今川はし」、襟足の化粧については後掲99「御殿山」などを参照。いずれも、化粧風景に絡めて美人姿を描いているところに制作者の工夫を感じます。

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89「鎧のわたし」

辻屋安兵衛  安政5年2月

資料  「八町堀靈岸嶋日本橋南之繪圖」  江戸百「鎧の渡し小網町」


8998 「鎧のわたし」は、切絵図を見ると、「松平和泉守」の屋敷裏東側と日本橋川対岸の小網町を結ぶ渡しと確認できます。『江戸名所図会1』(p160)には、かつてこの場所が大江であった時、源義家が奥州征伐に向かうため下総国に渡る際、荒れる海を鎮めるために「鎧一領」を海中に投じたことがその名の由来とあります。こま絵には、火の見櫓が建つ大名屋敷と、川を渡る渡し船が描かれています。この大名屋敷は三河国西尾藩松平和泉守の上屋敷ですが、こま絵によって武家屋敷が宣伝されることはないので、おそらく、対岸の白壁の倉庫が並ぶ小網町辺りに前景美人と繋がる何かがあると予想されます(同江戸名所図会掲載図版「鎧之渡」P162~p163参照)。

 既婚女性の典型的髪型である丸髷を結う美人は、足の甲(行間(こうかん))に「灸」を据えています。ここは女性特有の病気(更年期など)に効く場所なので、前景美人もその位の年齢ということでしょう。江戸時代、体の経穴(つぼ)を刺激する灸は、血液循環をよくする手軽な健康法として広く試みられています。『守貞謾稿』には「近江伊吹山ヲ艾ノ名産トス」とあり、「江戸ハ専ラ切艾ヲ用フ。小網町ニ釜屋ト云艾店四五戸アリ。名物トス」と記されています。つまり、江戸名物の切艾店「釜屋」が小網町にあることが、前景美人の灸姿の理由であるということです。

 灸は小さく切った艾(もぐさ)に火を点けて行いますが、このような「切り艾」を江戸で最初に売りだしたのは、小網町3丁目に店のあった近江出身の釜屋治左衛門です。小網町で荷積問屋を営んでいたこともあって、近江からの船便で江州伊吹山の艾を入荷し、それを撚って粒状に加工した「切り艾」を販売し好評を博しました。そして、複数の店が本家・元祖争いをするほどの名物になります。たとえば、『江戸買物獨案内』(文政7・1824年)を見ると、小網町3丁目に「釜屋治左衛門」、小網町2丁目に「釜屋佐次右衛門」が「本家」として「かまやもぐさ」を宣伝・販売しています。店にとっては、どちらが本家かは重要なことですが、前景美人を読み解くには、「鎧のわたし」を渡った小網町に切り艾の有名店があるということを考慮すれば十分です。その切り艾を受けて、黒襟の紋付を着る美人は、線香を立て、箱から黒盆に切り艾を出し、行間に灸を据えているという訳です。


*小網町3丁目の「釜屋治左衛門」は『江戸買物獨案内』で次のような注意を喚起しています。すなわち、「…近年私家名かまやもぐさ之名目にて紛敷類見世同町に二軒同弍丁目に二軒御座候間小網町三丁目本家釜屋治左衛門と家名能々御吟味之上御求ヲ可被下候…」と。ただし、元はと言えば、「江州柏原伊吹山の麓、亀屋佐京のきりもぐさ」が出発点なので、「釜屋」という屋号自体にも類似との批判がありえましょう。

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88「あさぢがはら」

若狭屋与市  安政5年2月

資料  「今戸輪淺繪圖」  江戸百に対応図版なし


8896 「あさぢがはら」について、『江戸名所図会5』(p415)は、「浅茅原」として、「総泉寺大門のあたりをいふ」と記しています。同江戸名所図会掲載図版「妙亀明神社 浅茅か原 玉姫稲荷」(p400~p401)を参照すると、「妙亀堂」、「妙亀庵」に接した辺りにあります。その松原の間に石像のようなものが見えていますが、これは、こま絵に描かれた、笠を被った地蔵菩薩に相当するものと思われます。さらに注意すべきは、こま絵には遠景に櫓を組んだ屋根が見えていることです。切絵図とも照らし合わせると、おそらく、これは新吉原の郭内を表現するもので、用水桶などの防火施設を描いて、火事の多かった新吉原を暗示させるものです。遠景に新吉原、近景に地蔵菩薩、近接して梅若丸ゆかりの妙亀尼を祀った塚があるということで、何かストーリーが描けそうです。

 浅茅が原と言えば、「一ツ屋の老婆」を思い出しますが、これは浅草寺「姥が池」の縁起に関連する観音霊験譚で、本件は地蔵菩薩なので直接の関係はないと思われます。また、新吉原と地蔵との組み合わせでは、三浦屋の小紫と白井権八をやはり思い出しますが、権八地蔵の場所は熊谷宿荒川土手なのでこれも無関係です。とすると、残るのは、子を思う母心が主題である梅若丸と妙亀尼の伝説(前掲87「鏡が池」参照)との関連で読み解くことになりましょう。もとより、地蔵は子供を救い導く菩薩であるので…。

 こま絵から、前景美人は新吉原の遊女であると判ります。髪型は、前髪を括って若い娘風に左右に撥ねていますが、「三つ輪」なので、年増の遊女なのかもしれません。三宝に載せた供物と灯明を袋棚に仮設された仏壇(神棚)に捧げ、真剣に祈っています。こま絵の地蔵菩薩は、子育て地蔵として親しまれ、また、3m程の大きさがあって、願いが大化けするということで、橋場の「お化け地蔵」とも呼ばれています。この点から考えると、美人は、子供の成長や延命を一心に祈っていると考えるのが自然です。遊女が子を持つことはないわけではなく、「子持ち高尾」や「瀬川五京」(前掲72「千束」参照)など人気がある花魁にその例を見ます。その場合は、たいていは禿にするか、里子(養子)に出したりします。また、子を置いて家族のために遊女屋に売られることもあります。いずれにしろ、離れ離れになってしまった子の健やかな成長をこっそり祈っていると想像できます。客には見せない顔です。

 妙亀尼(花御前)自身については、前掲87「鏡が池」ですでに描いているので、本作品では、子を思って地蔵菩薩に祈る新吉原の遊女を妙亀尼に見立てていると思われます。打掛の背には源氏香模様、袖口・裾回しには二つ葵と片輪車があって、京風平安朝のデザインなのは、往古、上方から下った妙亀尼を意識していると考えられますが、反面、場末感も感じられます(後掲94「千住」、また後掲100「内藤新宿」参照)。

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87「鏡が池」

丸屋久四郎  安政5年2月

資料  「今戸輪淺繪圖」  江戸百に対応図版なし


8795 『江戸名所図会5』(p416)には、「鏡が池」は、「妙亀山総泉寺」の「西南の方にあり。伝へいふ、妙亀尼、梅若丸の跡をしたひ京よりさまよひ来りしが、梅若丸身まかりしことを聞きて、この池に身を投げてむなしくなりぬとぞ。傍らに鏡池庵と号くる小菴あり。弁財天を安ず。これも妙亀尼をまつるところなりといへり」とあります。同江戸名所図会掲載図版「法源寺鏡か池」(p402)を見ると、池の中島に橋が架けられ小さな祠が描かれており、こま絵の景色とほぼ同じであることが確認できます。こま絵の祠は弁財天を祀る「鏡池庵」でしょうか。ともかく、「鏡が池」は、この妙亀尼(梅若伝説)の暗号として捉えるべきです。

 なお、切絵図によれば、「総泉寺」、「鏡ヶ池」、「浅茅ヶ原」は橋場の渡しの背後に近接して所在しています。この橋場の渡しの対岸にあるのが、向島の梅若丸の塚がある木母寺です(前掲19「木母寺」参照)。妙亀尼(母)と梅若丸(子)が、隅田川を挟んで別々に祀られていることになります。『江戸名所図会6』(p236~p237)によって、梅若丸伝説を再確認すれば、京北白川吉田少将惟房の子・梅若丸が、商人陸奥の信夫藤太に騙され、隅田川河畔に連れて来られ、その地で病で亡くなったところ、その1周忌に母がたまたま探し尋ねて、わが子を埋めた塚に出合うという内容です。梅若丸の末期の有名な和歌が、「尋ねきてとはばこたへよ都鳥すみだ河原の露と消えぬと」です。貞元期(976~978年)の古い話なので事実なのか、能「隅田川」などに脚色された説話なのかは判りませんが、前景美人の尋常ならざる様子は、少なくとも、妙亀尼(花御前)を描くものと理解して不都合はないと思われます。

 美人は、紫の「病鉢巻」を締めてはいますが、髪は結うことなく背中の後ろまで伸ばした「垂髪(すいはつ)」です。垂髪は江戸時代の結髪より前の、また上方を想起させる髪型です。平安時代、京北白川吉田少将惟房の妻であった妙亀尼には相応しい髪型です。手に扇と笹の枝(狂い笹)を持っているのは、謡曲「班女(はんじょ)」などから引き継がれた、大切な人を思ってさまよい歩く「狂女」の定番姿です。山吹色のしごき帯で止めた紫色の着物の上半身は脱ぎ、その裾には隅田川を象徴する水の流れと都鳥が描かれているのは、まさに河畔を彷徨する心ここにあらずの人物表現となっています。美人の視線の先には、池の水面に映った自分の顔があり、それを梅若丸と見誤り、何か会話をしているのだとすれば、大変悲しい姿です。本作品は、能や歌舞伎に登場する「狂女」の典型的姿を描くものとして記憶に止めておく必要があります。

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86「四ツ谷」

遠州屋彦兵衛  安政5年2月

資料  「千駄ヶ谷鮫ヶ橋四ッ谷繪圖」  江戸百に対応図版なし


8694 「四ツ谷」とは、『江戸名所図会3』(p300)には、「四谷御門の外より西の方、内藤新宿のあたりまでの惣名なり」と記されています。こま絵は、同江戸名所図会掲載図版「四谷大木戸」(p310~p311)と対照すると、まさに石垣の残る四谷大木戸(跡)であることが判ります。大木戸を出ると追分があって、甲州街道と青梅街道とに分岐します。こま絵で注目すべきは、大木戸の石垣の前に立札が3本あって、「開帳」という文字が読めることです。つまり、近在の寺社で秘仏秘宝などが公開されるという案内が出ており、おそらく、これが前景母子の情景を読み解くヒントになるのでしょう。なお、同図版には、一方で女衆とその同行者が参詣する姿が描かれ、他方でそれとは逆に子供を抱いたお内儀を乗せた駕籠が帰ってくる様子も写されていて、四谷の方向に参詣すべき場所があることが想像できます。さらに、同江戸名所図会(p301以下)を参照すると、四谷を代表する寺社として、「牛頭天王社」、「鬼子母神」(日宗寺)、「妙典山戒行寺」、「潮干観世音菩薩」、「篠寺」等々の掲載があります。切絵図によれば、これらは、いずれも四谷通りの南側(伝馬町から鮫ヶ橋周辺)にあり、また、近くには「於岩イナリ」もあるといった混み具合です。

 前景に目を移すと、手拭いを肩に掛け、格子縞の着物を着た母親が櫛を口に咥えて、子供の剃り残した頭頂部の髪を結っています。2人の周りには、剃刀が入った箱、砥石、水の入った大鉢などが置いてあります。子供は後頭部と耳上の毛が残っているので、頭頂部以外全てを剃った「芥子坊主(けしぼうず)」よりは年齢が上の男の子です。猫と戯れています。これから母子でお参りに出かける身支度の様子を描いたものです。参詣場所は、母と子をテーマにした描写自体が暗示していて(前掲85「溜いけ」参照)、子を抱く母が本尊霊像である日宗寺の「鬼子母神」である可能性が一番高いと思われます。前掲江戸名所図会(p301以下)は、「鬼子母神」として、「(四谷)坂の下、南寺町日蓮宗日宗寺に安置せり」、「本尊鬼子母神の像は日法上人の彫像なり。相伝ふ、文永元年十月三日、日蓮上人母君を拝せんとし、旧里安房国小湊に帰る。母君悦びのあまり頓死す。上人おほいに歎きて生活の祈念をせんとして、まづ徒弟日法上人に命じてこの本尊を造らしむ。よつてこの本尊に祈願し奉るに、験ありてその暁蘇生したまふ」と記しています。このような縁起のある鬼子母神(像)を前提にして、前景に母子の愛情深い交流を描いているのです。鬼子母神では入谷、雑司ヶ谷が有名ですが、四谷の、別名夜明鬼子母神も人気があったことが判ります。

 なお、山田(前掲書p209)は、美人の髪型を「おばこ」とし、既婚者が少し改まったときにする髷と説明しています(前掲36「今戸」、前掲80「鉄炮洲」、後掲98「今戸」参照)。

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85「溜いけ」

辻屋安兵衛  安政5年2月

資料  「麴町永田町外櫻田繪圖」  江戸百「赤坂桐畑」、「赤坂桐畑雨中夕けい」


8593 「溜いけ」とは、赤坂御門から南東方虎之御門(永田町馬場)まで広がる溜池のことで、『江戸名所図会3』(p42)は、「赤坂御門の外より山王の宮の麓を東南へ繞る。昔、神田・玉川の両上水、いまだ江城の御もとへ引かせたまはざりしその以前は、この池水を上水に用ひられしとなり」と記しています。重要なのは、「山王の宮の麓」にあるという点です。山田(前掲書p208)は、「コマ絵は日枝(ひえ)神社側から見た赤坂方面です」と指摘していますが、江戸百「赤坂桐畑」の景色とほぼ同じであり、また、こま絵左側に描かれた台地を登る石段は、切絵図の「星ノ山日吉山王大権現社」「智光院」背後の石段に相当することを勘案すると、赤坂桐畑辺りから日吉神社(山王大権現)のあった山王台の方向を望むものと理解すべきでしょう(同江戸名所図会掲載図版「溜池」p44~p45参照)。

 前景の母子に目を移すと、母親は格子縞の前掛けを外し、松葉と裏梅の格子縞の着物の中に赤子を抱いて、直接肌で温めています。冬の寒い日と思われ、炭を入れた火鉢に軍鶏(しゃも)籠を被せて、赤子の着物を温めているようです。着物の背の部分に紫色の背守りが付いています。宝尽くしの柄ともあわせて、子供の背中側から魔が忍び寄らないようにとの親心のお守りです。美人の髷は、銀杏崩し(山田・前掲書p208)あるいは割唐子(割鹿子、ポーラ文化研究所図録p179)などと解されますが、子育てならば割唐子の方が簡易に結えて自然です。この心温まる母子の絵とこま絵との関連をどう読み解くかが、次の問題です。背守りがある点から考えて、日吉神社の御利益と係わりがありそうです。

 同江戸名所図会(p17)には、「日吉山王の神社」として、「永田馬場にあり。江戸第一の大社にして、別当は天台宗僧正にして観理院と号す」、「御祭礼は隔年六月十五日なり」とあり、本社祭神は、「比叡の二宮小比叡大明神を勧請す。垂迹は国常立尊にして天地開闢第一の神なり」と記しています。しかしながら、庶民にとっての関心事は、その神の使いが猿であるということです。実のところ、日吉神社の社殿には夫婦の神猿像が祀られており、「魔がさる」「えんを結ぶ」との掛詞と、猿の母性の強さと安産に寄せて、子授け・安産・子育て・開運などのご利益があるとされています。何よりも、雌の神猿像は子猿を抱く姿に造られており、母子像となっていることが重要です。つまり、本作品の子供を抱く美人は、その神猿像の見立てとなっているということで、溜池のこま絵が暗示する日吉神社と繋がるのです(美人を神狐と見立てた例として、前掲37「王子稲荷」など参照)。

 なお、軍鶏籠にも隠された意図があるようです。すなわち、朝「日」の訪れを告げる一番鳥(鶏)を「日」吉の神の先導役と見るという考え方に気が付けば、鶏も日吉神社の神鳥というわけです。したがって、本作品の母子像とあわせて、火(日)の入った軍鶏籠が描かれているのです。ちなみに、江戸百「糀町一丁目山王祭ねり込」では、近景に大伝馬町の諌鼓鳥(鶏)、遠景に南伝馬町の猿の山車が描かれていて、鶏と猿が日吉神社の神の使いであることがよく判ります。ただし、山車の順番が逆であるとの指摘もあって、2代広重は『絵本江戸土産10編』でそっと訂正しています。

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84「海晏寺」

大黒屋金之助  安政5年2月

資料  「東都近郊全圖」  江戸百に対応図版なし 


8488 『江戸名所図会2』(p70以下)には、「補陀山海晏寺」は、品川南本宿にあって、「海道の右にあり。曹洞派の禅宗にして」、「本尊鮫頭観世音」とあります。鎌倉執権北条時頼や梶原景時縁の古刹ですが、何よりも紅葉狩りの名所として知られています。同江戸名所図会(p72以下)には、図版「海晏寺」、「海晏寺紅葉見之圖」とあわせて、「楓樹 江戸丹楓の名勝にして一奇観たり。晩秋の頃は、満庭錦繍を晒すがごとく、海越しの山々は、紅の葉分けに見えわたり、蒼海夕日に映じては、また、紅を濯ふがごとく、書院・僧房もその色にかがやき、この地遊賞の人酔色ならざるはなし」との説明があります。地理的な観点では、御殿山の桜樹、品川宿の遊廓(飯盛女)と経路的に繋がっていることに注意が必要です。こま絵は、紅葉の朱色が酸化して黒くなっていますが、まさに海晏寺山中より品川沖を望むものです。

 前景美人は埃よけの手拭いを姉さん被りして、分銅模様のしごき帯を締め直しています。剃りたての青い眉にお歯黒をし、松葉と松笠の小紋には裾に折り鶴が散らされ(後掲97「上野山下」参照)、紫色の帯などから想像すると、大店のお内儀のようです。海晏寺の茶屋の貸席で紅葉を楽しみ、そろそろ帰ろうかと支度をしている様子と見えます。花茣蓙の左側の風呂敷包みには、紅葉が一枝挿してあるので持って帰るのに間違いないでしょう。紅葉と美人の着物の色の対比が綺麗で、両者共に美しく感じられます。ところで、徳利や猪口の向こうには旦那がまだ座っているようで、美人の視線がそちらに向けられています。旦那にとっては、帰路、品川宿を通るというのが思案のしどころです。お内儀を先に帰し、旦那は品川(遊廓)で紅葉狩りの続きをしようかという魂胆ですが、疑っているお内儀は視線でそれを咎めているという状況が想像できます。

 敢えて言えば、海晏寺と言えば紅葉、紅葉と言えば高尾、高尾と言えば三浦屋の高尾太夫ということで、海晏寺の後は、高尾の紅葉狩りという諧謔でしょうか。


*海晏寺の紅葉

川柳: いと早し日暮をいそぐ紅葉狩   / 紅葉狩聟やるまいぞやるまいぞ
   紅葉狩り例年行けどもいまだ見ず / 海晏寺真っ赤な嘘のつきどころ

端唄: あれ見やしゃんせ海晏寺 真間や高雄や竜田でも 及ぶまいぞえ紅葉狩り
   -「真間」は下総(弘法寺)、「高雄」は京都、「竜田」は奈良の紅葉の名所。

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83「栁島」

大黒屋金之助  安政5年2月

資料  「本所繪圖」  江戸百「柳しま」


8386 「栁島」のこま絵を見ると、松の蔭に鳥居があり、その奥に大きな屋根の堂宇があります。これは、『江戸名所図会6』掲載図版「柳嶋妙見堂」(p154~p155)と対比すると、「影向松(ようごうまつ)」、鳥居、「妙見堂」と一致することが判ります。つまり、こま絵は柳島の妙見堂を描いているということです。同江戸名所図会は、「妙見大菩薩」として、「(横十間川の)同じ川端、橋を越えて向かふ角にあり。日蓮宗法性寺に安ず。本尊の来由詳らかならず。近世霊験著しとて、詣人つねに絶えず」とあります。北極(北辰)星を天の中心として信仰するもので、妙見菩薩信仰に篤かった北斎が、「北斎辰政雷斗」を名乗る機縁となったことでも有名です。なお、妙見には優れた視力という意味があり、絵師には相応しい信仰対象です。切絵図をよく見ると、「柳島橋」を渡った北十間川沿いに灰色の町家部分があります。この橋の袂にあったのが、『江戸高名會亭盡』や『東都高名會席盡』等に紹介される、会席料理茶屋「橋本」です。江戸百では、「柳しま」の題名の下、橋本を画面の中心に置いて描いている点は、本作品の理解の助けになります。

 こま絵は妙見堂を描いているので、直接、橋本を宣伝する趣旨ではないようです。しかし、前景美人が寛いでいる場所は明らかに橋本の2階座敷と思われます。右手に懐紙、左手に爪楊枝、そして画中右下の盃洗には猪口が2つ浮いているので、2人で料理を楽しんだ後の様子です。それにしても、髪は後ろで結んだだけの「馬の尻尾」(ポニーテール)で、切った前髪を毛羽立て、横櫛をし、だらしない感じがよく出ています。黒襟の着物は弁慶格子で、中着は網代格子、献上博多の帯を引っかけにして立膝で座っています。このスタイルは、歌舞伎『お染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』に登場する「土手のお六」そのままの姿です。初演時、5代目岩井半四郎がお染久松はもちろん、土手のお六など合わせて7役を演じた、早変わりの舞台が特徴です。というわけで、お染久松の「心中翌の噂」を下敷きにする前掲53「三圍」を見返すと、当代では3代目岩井粂三郎が主役を務めており、その顔姿を写す土手のお六であると思われます。

 前景美人が悪事を働く中年女、歌舞伎における「悪婆」の代表格土手のお六として、なぜ、柳島の橋本の2階座敷に座っているのかを説明しなければなりません。歌舞伎『お染久松色読販』の序幕は、「柳島妙見の場」、「橋本座敷の場」、「小梅煙草店の場」と進み、2幕目へと続いていきます。向島の名所を巡る舞台進行の中で、柳島の橋本がその一場として登場するという訳です。土手のお六は夫の鬼門喜兵衛と煙草屋を営み、慎ましい生活を送っているのですが、故あって、百両をゆする計画を立てます。その悪事を働く際に凄みのある毒婦を演じるのが、悪婆の真骨頂です。ちなみに、4代目岩井半四郎の「三日月お仙」、5代目岩井半四郎の「土手のお六」、坂東志うかの「鬼神のお松」、3代目沢村田之助の「切られお富」などが悪婆として著名です。

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82「小梅」

辻屋安兵衛  安政5年2月

資料  「隅田川向嶋繪圖」  江戸百「小梅堤」


8284 広重『絵本江戸土産7編』「小梅の堤」には、以下のような解説があります。すなわち「この辺総て北本庄といふ。吾妻橋より東にあたり、させる勝地にあらすといへども、掘割の水の流れは一條の帯のごとく、農人広野に耕すさま、筆にもをさ/\及ひなき風流閑静の土地なれば、世を避る人とくに住して老を養なふの便(たつき)とす」と。その閑静な様は江戸百を見るとよく判り、田園の中、四ッ木通用水に沿った道脇に茶屋が何軒か建っており、芸者達が橋を渡っています。次に切絵図を参照すると、その橋の先には「小倉庵」と記されている場所があります。この小倉庵は、「小梅の小倉庵」として有名な会席料理屋で、広重『江戸高名會亭盡』「本所小梅小倉庵」にも紹介されている程です。こま絵の風景は、この小倉庵を紹介する趣旨であることが明確です。こま絵が小倉庵の宣伝ならば、前景美人の読み解きもそれ程難しくはありません。

 小倉庵では、建物が1棟毎に独立していて、人煩いがないという利点があります。また、前掲81「竪川」で高級会席料理屋には屋敷風呂などの自前のサービス施設があることを紹介しましたが、小倉庵にも同様な持て成しがあり、それが本件の前景美人の浴衣姿から窺えることが重要です。美人は、湯から上がり、瓢(ひさご)模様に小倉と書かれた浴衣を着て、やはり同じ模様の入った手拭いを首筋に当てています。徳利の袴にも瓢模様に小倉とあります。美人の髪に関しては、両手髷(山田・前掲書p189)、しの字髷(島田くずし)(ポーラ文化研究所図録p151)のいずれかと思われます。ともに島田髷をアレンジした髪型で、本シリーズの傾向からすると玄人筋に多い髪型でもあるので、美人は元芸者ではないかと考えられます。しかも、お歯黒をし、剃りたての青眉なので、旦那に囲われた年増の妾と想像します。同『絵本江戸土産』に「世を避る人とくに住して老を養なふ」とあり、この辺りは妾を囲う別宅・別荘・隠居地が多い地域であることを踏まえての判断です。なお、美人の着物は菊柄の小紋で、一見すると無造作に脱ぎ捨てられていますが、これは小梅の堤の側にあった小倉庵ということを考えると、小梅堤を象徴しているのではないでしょうか。また、手前の盃洗には猪口が3つ浮かんでいるので、美人が湯に入っている間に、旦那(ご隠居)とその連れは先に酒を飲み始めていた様子と解することもできますが、盃洗には「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)」の「遠浦帰帆(えんぽきはん)」らしい風景が写されているので、杯を船に見立てて、美人の帰還と船の帰帆を掛けて遊ぶ、旦那の粋な対応なのかもしれません。

 本作品から、小倉庵の売りは、自前の浴衣や手拭いが用意されており、店に行けばそのまま湯に浸かり、会席を楽しむことができるというサービスにあることが判ります。江戸の料亭・料理茶屋を宣伝する浮世絵は意外に多く、このことからも商売上の競争が激しいことがよく理解できます。そのために、本作品は、小倉庵の宣伝ポスターとして制作されたということです。

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81「竪川」

丸屋久四郎  安政5年2月

資料  「本所深川繪圖」  江戸百に対応図版なし


8182 切絵図を見ると、「竪川」は両国橋南側、隅田川東岸に河口を持ち、本所を東西一直線に流れています。広重『絵本江戸土産6編』「其二 向両国茶屋 元柳橋濱町」には、隅田川東岸に竪川に架かる「一つ目はし」が描かれ、川の両側に数多くの材木が並ぶ風景があります。両国に近く、柳橋・元柳橋の対岸にあり、材木問屋などが立ち並ぶ地区となれば、金回りのよい商人を対象にした料亭・料理茶屋などが近在する環境が想像できます。

 こま絵を仔細に見ると、桟橋に2艘の屋根船が停まっており、川岸の竹垣の奥は料亭茶屋の趣が感じられます。船で乗り付けることができる料亭です。掲げられている看板提灯には「清勢滝そば」と書かれているので、これは竪川1つ目橋と2つ目橋の間にあった松井町の通称「滝そば」を描いているものと思われます。名前は蕎麦屋ですが、三代豊国・広重『東都高名會席盡 滝そば 飯沼勝五郎』にも採り上げられている、江戸でも有名な高級料亭です。したがって、本作品は宣伝ポスターという観点で読み解いていくことになります。

 『守貞謾稿』(嘉永6・1853年)によれば、江戸の料理茶屋では会席風に盛りつけ食事を提供し、要望があれば料理茶屋で特別に造った(屋敷)風呂にも入れ、余った料理は笹折に詰め、夜ともなれば提灯を持たせて送り出す程の持て成しぶりであったと記されています。以上の情報を念頭に置けば、前景の美人は、料亭滝そばが用意した浴衣に着替え、風呂で汗を流そうとしているところと見受けられます。浴衣に藍で「楚者」(そば)と染められているのは、滝そば側が用意したものであることを意味します。料亭の格に合わせたのか、美人の着物は花を囲む亀甲の小紋の肩口に陰の七曜紋が付き、帯は鳳凰に雲といった具合で高級感が漂っています。丸髷(勝山髷)、青く剃りたての眉、お歯黒などを考慮すると大店の内儀という雰囲気です。年増女の色香を見せつけようというのが、1つの意図です。

 ただし、本作品には、もう1つの趣向が隠されており、こちらが本題かもしれません。浴衣の藍染の縞模様は、美人の肩を借りて「滝」の流れを表現しており、小紋の着物は、さしずめ、滝の水が流れる岩場に擬えられていると考えられるからです。そして、滝の流れの浴衣に「楚者」という文字が染められているのですから、合わせれば、「滝そば」となり、こま絵の料亭滝そばを判じ物として宣伝するという仕掛けです。なお、中着の青海波の模様も、水に因んだデザインと言えましょう。美人を使って「滝そば」を涼やかに視覚表現する方法は、言うまでもなく、こま絵が料亭の宣伝になっていることと不可分の関係にあります。ちなみに、三代豊国の実家は、この竪川の「五ノ目渡シ」の渡し船の株を持つ材木問屋であったと言われています。したがって、裕福な町人の出身であり、この辺りの事情通であることが想像できます。

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80「鉄炮洲」

遠州屋彦兵衛  安政5年2月

資料  「八町堀靈岸嶋日本橋南之繪圖」  江戸百「鉄炮洲稲荷橋湊神社」


8064 「鉄炮洲」は、もとは京橋川が隅田川に流れ込む河口に広がった砂州で、『江戸名所図絵1』(p196)には、「南北へおよそ八町ばかりもあるべし。伝へいふ、寛永の頃、井上・稲富ら大筒の町見を試みしところなりと、あるいは、この出洲の形状、その器に似たるゆゑの号なりともいへり」とあります。こま絵の景色は、同江戸名所図会掲載図版「湊稲荷社」(p194~p195)と見比べると、社内に築かれた富士塚の際から海側を望む視線であることが判ります。河口に立てられた材木の背後には、沖に停泊する弁財船の帆柱が見えています。同江戸名所図会(p189)は、「湊稲荷の社」として、「高橋の南詰にあり。鎮座の来由は、詳らかならず。この地は、廻船入津の湊にして、諸国の商ひ船、普くここに運び、碇を下ろして、この社の前にて、積むところの品をことごとく問屋へ運送す」と記します。荷の積替え場所なので、帆を降ろした帆柱がこま絵に描かれているという訳です。切絵図には、海運関係者の信仰を集めたことから、「鉄砲洲浪ヨケイナリ」との記載があります。また、同切絵図には、対岸に「御船手向井将監」とあって、幕府御船奉行の屋敷には相応しい場所柄です。

 江戸湊の入口部分に当たり、海運関係者の出入りも頻繁なので、近在に船宿などが発達していたであろうことは容易に想像でき、前掲50「江戸はし」と似たような環境を感じます。屋根船に乗る美人は、右手で簪を挿し直し、暗くなってきたのでしょうか、左手で提灯を提げようとしています。美人の髪型は「おばこ」でしょうか(前掲56「首尾の松」、後掲98「今戸」参照)、百人美女シリーズの傾向から判断すると、年配もしくは粋筋の髪型なので、美人は旦那持ちの芸者かと思われます。着物は、市松模様に花柄が入った小紋で落ち着いた雰囲気です。着物の柄や模様などに特別の意図も感じられないので、品川なのか、鉄砲洲近在なのか、どこの芸者なのかはあまり問題ではないのでしょう。美人の脇には、炭火の入った行火(あんか)が置かれ、暖の必要な季節ということですが、気になるのは、行火の転倒防止用の木枠には「あらいや」とあり、提灯にも「井桁」に「荒」で「荒井」とある点です。江戸の料亭・会席亭にその名が見つけられないので、山田(前掲書p149)の指摘するように、品川歩行新宿にあった鰻屋の名と判断します。芝辺りまで江戸前の味との評判が高く、落語「居残り佐平次」にも登場する有名店であったそうです。仕出し料理と共に船道具一式を貸出したのかもしれません。

 さて、本作品が鰻の荒井屋の宣伝であるとしても、問題となるのがこま絵「鉄炮洲」の湊稲荷との関連です。広重『絵本江戸土産2編』「鉄炮洲湊稲荷境内の不二」には、「この稲荷はいと古くして鎮座年暦詳ならす。その境内に冨士を造り浅間宮を安置せり」との説明があり、これが解決のヒントとなります。こま絵をよく見ると、稲荷の赤い囲いの後ろには、溶岩を積み上げた大きな富士塚が描かれています。この形状と美人の前にある行火と提灯を比べると、行火は明らかに稲荷の赤い囲いに相当しますし、開きかけで円錐形の提灯は富士塚に近似していることが判ります。鉄砲洲の船遊びで、荒井屋の鰻を食べながら、行火と提灯の組合せを湊稲荷の富士塚に見立てた趣向を旦那と楽しんでいるのです。

 美人は、旦那に向かって、「あらいやだ!」とでも言っているのではないでしょうか。

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79「白髭明神」

藤岡屋慶次郎  安政5年2月

資料  「隅田川向嶋繪圖」  江戸百に対応図版なし


7963 「白髭明神」は、『江戸名所図会6』(p208)には、「白髭明神社」として、「隅田河堤の下にあり。祭神は猿田彦命なり。祭礼は九月十五日に執行せり」と記されています。同江戸名所図会には、図版「白髭明神社」(p210~p211)に続いて、「隅田川渡」(p214~p215)および「隅田川堤春景」(p216~p217)が掲載され、橋場への渡口となっていたこの辺りに船で客が押し寄せて、桜の花を愛で遊ぶ様が紹介されています。こま絵にも、桜越しに本社が描かれているので、白髭明神自体というよりは、堤の花見・春祭り風景を念頭に置く必要があるかもしれません。切絵図を見ると、「渡シ塲ハシバエワタス」とある寺島村の南に「シラヒゲ」がありますが、さらに南には「料理家平石」が、逆に北には「木母寺梅若塚」があって、そこには料理屋「植半」(前掲19「木母寺」参照)がありました。このような地理感で本作品を読み解いてみましょう。

 前景美人の右側には、目鬘(めかつら)を売る屋台が描かれています。正月には白髭明神を寿老人に見立てた七福神祭りがありますが、季節が合わないので、春祭りの屋台風景の一端でしょう。鬼、金太郎、町娘、奴、天狗、三番叟などが並んでいます。『江戸年中行事図絵』(明治26・1893年)を見ると、桜並木の下で、目鬘を付けた花見客達が三味線の音にのって俄を演じている情景が描かれています。道端に描かれる目鬘売りは、花見の酔客目当ての商売なのでしょう(三谷・前掲『彩色江戸物売図絵』p172~p173)。本美人は明らかに左褄を取る芸者姿で、旦那と一緒に花見に来たと思われます。旦那が酔った勢いで俄を演じているのでしょうか?山田(前掲書p148)は、吉原俄と関連付けたのか、美人を吉原芸者と見ていますが、吉原芸者の遠出は見番に事前に届けるなどなかなか大変なことです。したがって、船で橋場に渡れば今土橋・山谷堀が間近という地理関係から、ここは堀の芸者が向島に旦那と一緒に遊びに来たと考えた方が自然です。

 男物の煙草入れと懐中物を手にする美人の顔も少し赤いので、どこかの料理茶屋で遊んだ帰りなのかもしれません。既述した料理茶屋以外にも、向島には「大七」、「武蔵屋」などがありますが、この美人と旦那はどこの店に入ったのでしょうか。美人の着物の柄は、中着も合わせて、二枚貝の小紋ですし、帯も水の流れを意識した模様になっています。これをヒントにすると、隅田川の蜆料理に舌鼓を打ってきたのではと想像がつきます。向島の蜆料理で有名な店と言えば、木母寺の門前にあった植半(植木屋半右衛門)です。江戸百「木母寺内川御前栽畑」に描かれる料亭がこれに当たります。隅田川の蜆は「業平蜆」と言われ、まるで蛤のように大型なものでした。花見をし、植半で蜆料理を賞味し、酔い醒ましを兼ねて白髭明神にお参りをして帰り船という運びではないでしょうか。白髭明神は、祭神が猿田彦命なので、本来は旅の安全を第一に守ってくれる存在です。本作品では、さっそく御利益があり、旦那が懐のものを忘れたことに美人が気付いてくれた様子です。もしくは、旦那が俄に興じているのを美人が呆れて見ていると解した方が、作品としてはさらに面白いですが…。花見には、唄、踊り、俄狂言は付きものです(前掲41「墨水花臺」参照)。

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78「駒形」

山口屋平吉  安政5年2月

資料  「東都淺繪圖」  江戸百「駒形堂吾嬬橋」


7862 「駒形」について『江戸名所図会5』(p274)から抜き書きすると、「駒形堂 駒形町の河岸にあり。往古はこのところに浅草寺の総門ありしといふ。本尊は馬頭観音なり」、また「駒の形を作り物にして堂内へ奉納す。ゆゑに駒形堂と唱へ、地名もまたこれによつておこる」等とあります。切絵図には「竹町之渡」と記され、駒形が隅田川からの入口に当たることがよく判ります。さらに、同江戸名所図会掲載図版「駒形堂 清水稲荷」(p276~p277)を参照すると、駒形堂の筋向かいには2階屋の店舗が建ち並んでいるのが確認できます。こま絵は江戸百作品とほぼ同じ地点から描いたと推測されるもので、駒形堂の屋根とその筋向かいにあった、長竿の赤い布が目印の紅屋の屋根が見えています。遠景は向島です。

 こま絵から、駒形にあった紅や白粉などの小間物屋、紅屋(中島屋)百助(ひゃくすけ)の宣伝であることが窺われるので、前景美人の読み解き内容はほぼ想像できます。なお、紅屋百助はかなりの有名店で、山東京伝『人間一生胸算用』(寛政3・1791年)にも「アゝ、いゝにほひだ。百助が所のくこをつけたそふだ。ちつと、こきくではなをかんでかぐべい」などとあり、その他に、『放蕩虚誕伝(ほうとうちょちょらでん)』、『埜良玉子(のらたまご)』の中にも登場しています。このような視点から前景美人の仕草を見ると、左手の懐紙を取って、右手で襟足辺りの汗を拭っており、おそらくこの懐紙にクコ油が染み込ませてあっていい香りが漂っているのだろうということに気付かされます。ところで、美人の髷は松葉返しとされ(山田・前掲書p145)、玄人筋に多い髪型でしょうか。格子柄の着物を着て、中着は扇面(せんめん)散らしで、帯は黒と赤い縞の昼夜帯です。しゃがんだまま一休みといった様子ですが、その足元では、鍋が火に掛けられており、レンゲの置かれた蓋に「初ふし」とあり、同じく酒徳利の袴(袴替わりの枡?)には「川升」とあります。初富士と川升(かわます)は、いずれも駒形にあった人気の料理茶屋です(高村光雲『幕末維新懐古談』岩波文庫・1995、p50、p202参照)。場所柄、鯉やどじょうなどの川魚の料理で有名でしたが、おそらく、本作品は「どぜう鍋」、柳川でしょう。なお、美人は前掛けをしていないので、下働きの女中というよりは料理屋の若女将と判断します(前掲55「呉服ばし」参照)。

 初富士の鍋に川升の酒徳利の袴(枡)というのは、山田(前掲書p145)も指摘するように、「本来は一つの座敷に同居するのはおかしい」のです。川升に関連して、次のような話があります。すなわち、「さて、駒形堂から後へ退(さが)って、『川升』という料理屋が大層流行り、観音の市の折りなど、それは大した繁昌。客が立て込んで酔興な客が、座敷に出てる獅噛火鉢(しがみひばち)を担ぎ出して持って行ったのさえも気が附かなかったという一ツ話が残っている位、その頃はよく有名なお茶屋などの猪口とか銚子袴などを袂になど忍ばせて行ったもの、これは一つの酒興で罪のないわるさであった」というものです(高村・前掲書p50、p51)。この話を本作品に当てはめると、料理茶屋のあまりの忙しさに、客がいたずらをして酒徳利の袴を他店の枡と入れ替えても、女主人さえも気付かず、しゃがんで汗を拭うのがやっとという嬉しい悲鳴状態を描いていることになります。酒徳利の袴が(枡に)「川(り)ます」という地口もあるかもしれませんが。商売大繁盛の駒形の料理茶屋に、紅屋百助のクコ油が匂い立つ風情を描いた作品です。なお、百助(ひゃくすけ)が百助(ももすけ)横町の始まりなのかについては確証がありません(高村・前掲書p49)。

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77「第六天神」

山口屋藤兵衛  安政5年2月

資料  「東都淺繪圖」  江戸百に対応図版なし


7759 「第六天神」は、『江戸名所図会5』(p289)には、「浅草橋の外にあり。昔は大倉前森田町にありしを、享保四年火災の後、いまの地に移る。祭神は面足尊(おもたるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)なり(天神六代の神なり)」と記されています。当時は、神仏習合時代なので、四王天、忉利天(帝釈天)、夜摩天、兜率天、化楽天と数えて第6番目に位置する、六欲天最上界の「他化自在天」を祀った神社とされました。他化自在天は、欲界の最上位にあることから第六天魔王とも言われる一方で、他者を楽しませる事を楽しむ天として知られています。なお、こま絵の鳥居の巴紋は勾玉と同形で、神霊を象徴する神社紋です。切絵図には、「浅草御門」の北側に「第六天」「第六天門前丁」と記されていますが、柳橋に近在することを見落としてはなりません。広重『絵本江戸土産6編』「両国柳橋料理屋會席」は、柳橋について、「神田川末流既に大川へ出る方に架たるを柳橋といふ。この辺料理や多く殊に両国に近くして常だも賑わふ。況(まい)て夏月の納涼また秋冬にいたり海川の漁船多くこの所より出る」と解説をしており、料理屋の多い柳橋の一角にある「第六天神」ということからすると、前景美人も誰なのかおおよそ見当がつきます。

 本作品に描かれる美人は柳橋芸者です。潰し島田で、中剃りがあり、前髪を短く括って左右に分けており、若いお侠(きゃん)な美人と判断されます。結綿、櫛、簪などの赤色も若さを強調するものです。他方で、帯は宝相華(唐花)柄のかなり高級そうな品物です。着物は青海波の地紋に白と薄紫(?)の市松模様の小紋で、五三桐の紋が入っています。裾回しには縹色(はなだいろ)という淡い藍色が使われ、その裏地に赤い瓢箪が描かれるという奇抜なデザインです。何よりも気になるのは、美人が左腕に付けている濃紺の腕輪のようなものです。これは腕守りというもので、起請文や神仏のお札が縫い込まれたお守りの一種なのです。芸者筋に流行りましたが、浮世絵では恋人がいることの暗号として使われることが多いと言えます(前掲52「花川戸」参照)。

 こま絵「第六天神」のある「柳橋」の芸者を描くのはもちろん自然なことですが、美人絵の大家・三代豊国がそれだけの趣向で満足するとも思えません。そこで、もう少し深読みをすると、着物の裾の裏地にある、縹色に瓢箪の意匠が注目点となります。すなわち、これは、水に浮かぶ瓢箪を表し、「水に瓢箪」、「瓢箪の川流れ」という言葉があるように、移り気な芸者姿を暗喩していると考えられます。また、着物の青海波の地紋に白と薄紫の市松模様は隅田川の流れと水飛沫を、帯の宝相華(唐花)柄は河畔に咲く花・柳橋芸者をそれぞれ表現しています。これに腕守りの意味を組み合わせると、隅田川に咲く花・柳橋芸者は、裏に移り気なところもありますが、一人の恋人に誠を尽くす意気地を隠し持っていると読むことができます。浮世「絵」というのは、これだけのメッセージを一瞬にして伝えることができるのです。

 しかしながら、三代豊国はこれだけでも、まだ満足していないようです。箱の引き出しに入っている三味線の「糸」がさらなる仕掛けです。柳橋芸者を登場させる歌舞伎は少なくないのですが、糸つながりで思い出されるのが、柳橋の芸者小糸と神田連雀町の鳶頭の佐七との悲恋物語です。祭りで名を上げ「お祭り佐七」と呼ばれた佐七が、悪侍から逃げてきた長襦袢姿の小糸を助けたのが出会いです。結末は、小糸が佐七にわざと愛想尽かして別れたのが原因で、佐七が小糸を殺めるという悲しい事件に発展するのです。その直後、佐七はお糸の真意を知ることになるのですが、柳橋芸者の意気地を貫いたこの小糸こそが本作品のモデルなのではないでしょうか。なお、三代豊国『戀合端唄尽 小糸佐七』(万延元・1860年6月)において、三代目沢村田之助が小糸を、三代目市川市蔵が佐七を演じる見立作品が描かれています。このような考えに従えば、第六天神の美人により具体的肉付けができるのではないでしょうか。

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76「栁はし」

湊屋小兵衛  安政5年2月

資料  「東都淺繪圖」  江戸百「浅草川大川端宮戸川」(両国舩中浅草大川景)


7658 神田川の下流、浅草御門の入口に浅草橋が架かっており、『江戸名所図会1』(p126)には、「この東の大川口にかかるを柳橋と号く。柳原堤の末にあるゆゑに名とするとぞ(このところ、諸方への貸船あり)」とあります。ここから新吉原や深川、両国(舟遊び)などへ向かう猪牙舟が出ており、船宿があった橋の北部地域も柳橋と呼ばれていました。遊興の拠点であったこともあって、さらに貸席・料亭茶屋が発達し、必然的に傘下の芸者達も数多くいたということです。こま絵には、柳橋の北側にあった料亭らしい2階屋が描かれ、隅田川には屋根船、猪牙舟、釣り船などが浮かんでいます。広重『江戸高名會亭盡』「柳ばし夜景」と対照すると、「狂句合 万八の二階 夏とはよそのやう」とあるので、こま絵の料亭は、「万八」(万屋八郎兵衛)であることが判ります。江戸百に描かれているのも、この有名料亭です。

 こま絵が柳橋の料亭万八であるとすれば、前景美人の読み解きは容易です。美人は桜模様と菱形に唐花を描いた着物に、袖口が分銅繋ぎになった麻の葉模様の中着姿です。そして、半身を中着のまま、合わせ鏡で襟足を見ています。しかし、作品の肝は、美人が白粉の塗り忘れを確認している様子を描く点にあるというよりは、その実、中着が開け胸が見えそうな様子を表現するところに目論見があります。所謂、「あぶな絵」の範疇に属するものとして評価する必要があります。また、島田髷の前髪部分が小さく括られて2つに分かれている様子などからすると、お侠(きゃん)な女性として表現されています(前掲2「五百羅かん」、前掲60「白銀樹目谷」等参照)。鏡台には、牡丹刷毛、紅猪口、白粉包などが置かれています。簪を1本挿しているだけなので、おそらく、柳橋芸者というよりは、こま絵の万八で配膳仕事や芸者の案内をする美人という想定なのでしょう(前掲75「芝神明前」参照)。一心に化粧をする美人のスキを捉え、その色香を描くことによって、料亭遊びに人を誘う目的の作品であり、端的に言えば、万八の宣伝ポスターということです。

 ちなみに、柳橋芸者が持て囃されるようになった理由には、天保の改革で深川芸者がその根拠地を失ったことが大きく影響を与えています。改革後、屋根船・猪牙舟の発着の拠点であった柳橋に深川芸者が流れ、柳橋の花柳界が伝法肌の辰巳芸者の芸風に塗り替えられたことが重要です。こうして、柳橋芸者は江戸の町芸者の中で群を抜いてその意気地を誇ることになりました(三田村鳶魚『花柳風俗 鳶魚江戸文庫26』中公文庫・1998、p271以下参照)。

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75「芝神明前」

若狭屋与市  安政5年2月

  「口南西久保愛下之圖」  江戸百「芝神明増上寺」


7557 「芝神明前」は、切絵図を参照すると、「飯倉神明宮」と東海道の間の地区を言い、「神明前ト云」と記載されています。具体的には、「三島丁」「門前丁」「七軒町」辺りになり、飯倉神明宮の門前町ということです。『江戸名所図絵1』(p239以下)には、「飯倉神明宮」に関して2つの図版を掲載していて、1つは「飯倉神明宮」であり、もう1つは「九月十六日飯倉神明宮祭礼」です。前者の図版は神明宮の境内の様子を詳細に描写しており、そこから百人美女・前掲「芝神明」の矢場の美人を描く作品が生まれています。後者の図版は、神明宮門前の各店の賑わいを描いており、たとえば、「太好庵」という薬店が宣伝されています。パラレルに考えれば、百人美女のこま絵「芝神明前」は、まさにこの門前町の店を紹介する趣旨であろうことが推測できます。

 こま絵に目を移すと、店舗の暖簾前に赤い布が掛けられており、これは紅を売る店であることの証です(前掲74「浅草すは丁」参照)。暖簾に店の紋と何か文字が書かれていますが、残念ながら、不文明です。しかしながら、前景美人の化粧台横に置いてある「花の露」という小物から考えて、こま絵の店舗は、芝神明前にあった林喜左衛門(喜右衛門とも)の「花露屋(はなのつゆや)」と思われます。『江戸買物獨案内』(文化7・1824年)には、「根元元祖 御花の露 御伽羅之油 紅粉 白粉 芝神明前花露屋」と紹介されています。同獨案内には「三つ柏」の家紋が掲載されていて、こま絵(暖簾・三つ折れ松葉?)の紋と相違がある点に疑問はありますが、芝神明前という場所柄から花露屋と見て間違いないでしょう。花の露というのは、今日で言う化粧水に当たり、「この香薬水は、化粧してのち、はけにて少しばかり面へぬれば、光沢を出だし、香いをよくし、きめを細かにし、顔の腫物をいやす」もので、いばらの花から蒸留抽出し、丁子や白檀などの香料を加えて製造します(『都風俗化粧伝』東洋文庫・平凡社・1982、p243)。こま絵がその化粧品などの小間物屋を描いているとなれば、前景美人の読み解きも比較的容易です。花の露など化粧品の宣伝となるようなポーズをとっているはずです。なお、本作品の版元が、同所芝神明前の「若狭屋与市」であることにも注目すべきです。版元が地元の有名な伝統店を推奨し、自ら持ち込んだ企画である可能性があるからです。

 前景の美人は、剃刀(かみそり)を使って眉の下辺りを整えているようです。髪は潰し島田で、絞りの手絡を使った結綿で比較的若い女性です。着物は網代模様に桜が描かれ、花の露を捕まえるという寓意があるのかもしれません。帯も桜模様の昼夜帯で、化粧台横の花の露や、鏡台に掛かった店の暖簾と同じ模様が描かれた糠袋などから判断して、美人は料理屋(配膳)などの客商売の女性と考えられます。背後の高足膳の下にあるのがうがい茶碗ならば、膳の上の木箱には房楊枝などの歯磨き道具が納められているはずです。

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74「浅草すは丁」

湊屋小兵衛  安政5年2月

資料  「東都淺繪圖」  江戸百「駒形堂吾嬬橋」


7454 「浅草すは丁」は、浅草寺雷門前を南進する大通りの両側にあり、駒形堂(駒形町)の南部に展開しています。町名の由来は、同所にある「諏訪明神社」にあると考えられます(『江戸名所図絵5』p281)。こま絵には店舗らしき建物が描かれているので、前景の美人も含めて、本作品は宣伝が主目的であると推測できます。こま絵の店舗前の看板には「○○白粉問屋」とあり、暖簾には宝結びの紋があって、『江戸買物獨案内』(文化7・1824年)と照らし合わせると、「白粉紅問屋 紅粉屋諌蔵」、「京都白粉 御伽羅之油 化粧紅粉 紅屋諌蔵」と2ケ所の宣伝欄で確認できます。また、美人の足先に置いてある紙には、同じ宝結びの紋と「御うす化しやう 紅粉屋諌蔵」という文字が読めるので、こま絵の建物は、紅や白粉を販売する小間物屋であることが重ねて判ります。こま絵の紅色の柱・暖簾も紅を宣伝するものです。なお、その隣りも店舗と思われますが、店の意匠(△に大)からは特定できませんでした。江戸百では、駒形堂の筋向いにあった中島屋百助が宣伝されています(後掲78「駒形」参照)。駒形町、諏訪町辺りには、紅や白粉などの小間物屋が何軒もあり、同時にそれらを求める客も多かったことが窺えます。

 前景の美人に目を向けると、横兵庫を小型化した唐人髷を結った比較的若い娘で、着物を脱ぎ捨て、上半身は手拭いで隠し、下半身には牡丹柄の浴衣を付けています。風呂上がりに、鈴の付いた和鋏で手の爪を切っているようです。足元には、羽子板状の爪やすりが置かれています。ここからさらに江戸時代のマニキュアである「爪紅」(鳳仙花)を塗るのか、それとも白粉を襟元・首筋等に塗るのかなど想像できますが、いずれにしても、こま絵にあった「白粉紅問屋 紅粉屋諌蔵」を宣伝する趣旨と看做されます。前髪に挿した今にも落ちそうな櫛など、おそらくこの美人姿は、浅草芸者が身支度を整える情景を伝えるものだと思われます。敢えて言えば、「湯上りお俊」とも呼ばれた、「芸者お俊」を彷彿とさせます(前掲52「花川戸」参照)。こま絵が店などの宣伝になっている場合、前景の美人はその宣伝の趣旨に沿った仕草をしていることが定番です。


『江戸買物獨案内』 (文化7・1824年)

 江戸の各店舗から出稿料を取り、出稿料を払った分に応じたスペースで掲載した宣伝本です。上下2巻は薬種問屋等の商店名をいろは順に、3巻目は飲食関係の商店をそれぞれ掲載しています。

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73「三田聖坂」

山口屋藤兵衛  安政5年2月

資料  「芝三田二本高輪邉繪圖」  江戸百に対応図版なし


7350 『江戸名所図会1』(p288)は、「三田」について、「古へ、神領に寄せられし地を、御田と書きたる由」とあり、また同江戸名所図会(p296)は、「竜谷山功運寺」に関連して、「聖坂とは、むかし、この地に高野聖多く住みて、開きたりし坂なれば、かくいふとぞ」と記しています。切絵図によれば、その聖坂は、東海道の1本西側の道、「濟海寺」と「大増寺」「功運寺」の間にあります。こま絵には、坂の中途に石段で上がる、忍び返しの付いた黒塀に囲まれた寺門と本堂のような建物が描かれていて、これは、同江戸名所図会(p306~p307)と対照すると「魚監(ママ)観音堂」であることが判ります。ところが切絵図に戻ると、魚籃観音堂は、聖坂とは別の(魚籃)坂の中程に描き込まれています。この齟齬に関しては、聖坂が有名なので、こま絵は「三田(聖坂)」辺りという包括的意味で使っていると理解して話を進めます。しかし、何か含意がありそうです。

 魚籃観音堂は、同江戸名所図会(p304以下)には、「浄閑寺といへる浄刹に安置す。本尊は木像にして六寸ばかりあり(面相唐女のごとくにして、右の御手に魚籃を携へ、左の御手には、天衣を持したまへり)」と記され、次のような縁起が紹介されています。すなわち、中国唐の時代、魚を籃(かご)に入れて売る美人がおり、多くの男が言い寄ったのですが、仏の道にある者を夫にすると言い、結果、馬という男が夫となりました。ところが、すぐに美人は亡くなってしまいます。その後、仏僧の助言で美人の塚を開けてみると、そこには観音の金鎖のみがあったとあります。つまり、魚籃の美人は欲望を昇華させるために現れた、観音の化身であったという観音霊験譚です。

 前景の美人に目を移すと、桜模様の藍染の浴衣を着て、表が草色、裏が黒色の半幅の献上博多帯をし、網代柄の着物を羽織っています。前掲27「新はし」、前掲63「神楽坂」など、浴衣は岡場所の女郎の記号であることが少なくないので、本件もその可能性が高いと言えます。「さく」という名前を書いた木札を持っている仕草は、寄せ場に名札を首位に掛ける「板頭」(吉原の御職女郎に相当)を表現しているのではないでしょうか。福草履が履けるのは、揚げ代を稼ぐ人気第一の女郎を意味しています。また、髪が解(ほつ)れ、帯が緩いのも、看板女郎として早朝から客が来ているのか、または複数の客を取る「廻し」の状態にあることを物語り、美人が視線を送る、「やす」「ひて」「はつ」など他の女郎達の名札はまだ掛けられてもいません。今風に言えば、タイムカードが押されていないという状況です。

 では、こま絵・三田聖坂の魚籃観音堂と前景・岡場所の美人女郎との関係をどう読み解くかですが、これは簡単です。前景美人を魚籃観音に見立てているのです。美人の首に胸守りの鎖が覗くのは観音の鎖に擬えられ、また、右手で着物を持つ仕草も籃を持つ魚籃観音の姿を写すものと感じられます。同江戸名所図会(p280以下)に、「芝浦 本芝町の東の海浜をいふ」とあり、「この地を雑魚場(ざこば)と号け、漁猟の地たり。この海より産するを芝肴(しばざかな)と称して、都下に賞せり」と記されますが、この雑魚場の漁師関係者が多く信心していたのが魚籃観音で、参詣後は、聖坂を田町方向に下った三叉路あるいは横新町辺りにあった「三田の三角」と呼ばれた岡場所で遊んで帰りました(国貞『江戸姿八契』「三田三角」3枚続参照)。三田の魚籃観音への信心が、聖坂下にあった岡場所の女郎への情けに変じてしまったという訳です。つまり、美人は(魚籃)坂ではなく、「三田聖坂」の観音なのです。なお、山田(前掲書p121)は品川の遊女と見ていますが、簪や笄などを1本も挿していないのはやや不自然です(前掲25「品川歩行新宿」参照)。

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72「千束」

湊屋小兵衛  安政5年2月

資料  「今戸輪淺繪圖」  江戸百に対応図版なし


7245 こま絵の「千束」は江戸百「千束の池袈裟懸松」の地ではなく、浅草千束のことです。かつては浅草寺北側から千住橋南側辺りにあった千束池一帯を指しましたが、ほとんどの場所が「田地」になってしまったので、『江戸名所図会5』(p343)には、「千束郷(せんぞくのごう)」として、「竜泉寺町の辺り、いまわづかの地をいへり」と記されることになります。切絵図を見ると、その竜泉寺を北に進み坂道を下った所に「三(ノ)輪丁」とありますが、日本堤と一本道で繋がるこの場所は遊郭と深い係わりがあります。すなわち、「箕輪の寮」と呼ばれる大見世の別荘があって、全盛の遊女が病気・妊娠した際には療養に使われるなどしました(三谷・前掲『江戸吉原図聚』p480以下)。こま絵に描かれた建仁寺垣に囲まれた2階屋は、そうした施設と判ります(前掲46「根岸」参照)。

 前景美人は、後光のように簪を何本も挿し、お歯黒をし、襟は緋縞、裾は市松模様に菊花、紫地に桜模様の紋付を着て、花魁クラスが履く高級な福草履姿で、高位の遊女として描かれています。その背後には着物や反物が積まれており、美人はそれらの品々に視線を送っているようです。これらは、身請けする旦那が花魁に贈る結納の品々だと思われます。この他に、遊女屋には別に千両に近い身請け金を支払うことになります。つまり、前景には身請けされる花魁の思案げな様子が描かれているということです。

 遊女の身請けについては、体重分の小判で身請けした「三浦屋の高雄」などいくつかの逸話がありますが、本作品では、「松葉屋の瀬川」が主題になっています。 松葉屋の瀬川の身請け噺に絡めて、安政3(1856)年4月、江戸中村座で歌舞伎『一曲奏子宝曾我(ひとかなでこだからそが)』が上演されていて、これが本作品の構想の元になっていると考えられるからです。この狂言は、安永7(1778)年版行、田螺金魚の洒落本『契情買虎之巻(けいせいかいとらのまき)』を脚色したもので、洒落本自体は、安永4(1775)年、鳥山検校が松葉屋の5代目瀬川を身請けし、当時の人々を驚かせた事件を機縁として刊行されています。なお、鳥山検校は、安永7年に悪辣なる高利貸として処罰された人物です。いずれにせよ、事実譚・瀬川鳥山噺に脚色が加わり、後日譚・瀬川五京噺などが生まれた訳ですが、物語の要素として、一貫して瀬川は出産したことになっています。歌舞伎の題名に「子宝」と入っているのもその為です。他方、「曾我」という言葉はこの狂言が仇討ち噺でもあるからです。ただし、これは、夫の仇討ちを遂げた2代目瀬川に関する伝説ではないかと思われます。

 こま絵の千束は出産した花魁瀬川を暗示するものとして、前景の美人が思案げに結納品を見る様子は鳥山検校に身請けされた瀬川を表現するものとして、そして美人の容姿は、先の歌舞伎で瀬川を演じた三代目岩井粂三郎(相手役の五京は八代目片岡仁左衛門)を写すものであるということができます。

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71「大音寺まへ」

丸屋久四郎  安政5年2月

資料  「今戸輪淺繪圖」  江戸百「浅草田甫酉の町詣」


7144 「大音寺まへ」を切絵図で確認すると、新吉原の裏手西側に当たり、「下谷龍泉寺町」を別として、「田地」と「畑」に囲まれた地域で、浅草裏田圃と言われる所以です。江戸百を見ても、鷲大明神の周辺に田圃道、遊廓近くに若干の茅葺き屋根の家々があるばかりです。こま絵の情景は田圃風景ではなく、瓦屋根の2階屋の間に藁(茅)葺屋根の家が木立と共に描かれていて、おそらく下谷龍泉寺町の家並みに焦点が絞られているように思われます。実は、大音寺前には、田川屋(駐春亭)という有名な料理屋があって、『江戸名物詩』(天保7・1836年)に、「田川屋料理 金杉大恩寺 風炉場は浄め庭に在り 酔後浴し来れば酒乍ち醒む 会席薄(うす)茶料理好し 駐春亭は是れ駐人の亭」と記され、また、『魚鳥料理仕方角力番附』に西の関脇として「青鷺茶碗」と掲載されています(他に、『江戸買物獨案内』文政7・1824年参照)。川柳に「泥水の帰り 田川の鷺でのみ」とある程です(泥水とはどぶに囲まれた新吉原のこと)。つまり、大音寺参拝客というよりは、専ら新吉原帰りの人々が訪れ庭内の浴場や茶室を利用していたことが想像でき、そこに青鷺料理が出されていたということなのです。

 大音寺前の田川屋は宣伝上手です。例えば、英泉『當世料理通』、広重『江戸高名會亭盡』(大をんし前・駐春亭)、三代豊国・広重『東都高名會席盡』、国芳『東都流行三十六會席』、そして明治の芳年『東京料理頗別品』などの背景にも描かれて、いずれも、藁葺屋根の席亭が描写されているという特徴があります。したがって、こま絵は、明らかに、この田川屋を狙っています。では、藁葺屋根の席亭があり、青鷺料理を出していた田川屋と前景の美人とはどういう関係があるのでしょうか。

 大音寺前は新吉原裏という地理的関係にあるという意味では、前景美人は新吉原の遊女と考えて間違いないでしょう。吉原の風習でお歯黒をした年増遊女とすれば、大きな蛽(ばい)髷(前掲25「品川歩行新宿」参照)を結うには自毛だけでは足りず、右手に持つ髢(かもじ)(足し毛)も年齢相応と言うことができます。左手の太く長い煙管も年月を重ねた遊女の格を表すものです。ただし注意すべきは、打掛(別名しかけ)と中着の裾模様に水草の間を泳ぐ魚が描かれ、美人を中心に回遊しているように見える点です。そして、その上に2本の簪の付いた髢を垂らす姿をどう読み解くかです。打掛の紋に2つ重ね雁金が入っていることをヒントにすると、美人は川の魚をついばむ鳥の姿に擬えられているのではないでしょうか。髢は嘴(くちばし)・首、2本の簪は羽根、煙管も鳥の足を暗示しているのかもしれません。なぜこのように解釈するかと言えば、大音寺前の田川屋は鳥(青鷺)料理の名店だからです。こま絵が店などの宣伝になっている場合、前景美人はそれに関連する仕草をすることが本シリーズでは通例です。ちなみに、山田(前掲書p109)は、こま絵の藁葺屋根の葺き方と髢の足し方が似ているという理解です。田川屋は藁葺屋根の席亭が特徴的なので、その限りでは面白い読み解きですが、着物の裾模様と髢の関連性はかなり弱いことになります…。


樋口一葉『たけくらべ』(明治28・1895年)

 「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き」

 作中に登場する龍華寺のモデルは、浄土宗寺院の大音寺と考えられています。

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70「とりのまち」

湊屋小兵衛  安政5年2月

資料  「今戸輪淺繪圖」  江戸百「浅草田甫酉の町詣」


7043 「とりのまち」とは、11月の酉の日に行われる鷲大明神の祭礼、すなわち、酉の祭り、酉の市のことです。広重『絵本江戸土産6編』「浅草酉の町」には、「浅草大音寺前に在り。日蓮宗長国寺に安置し給ふ。鷲(わし)大明神と世にはいへど、実は、破軍星(はぐんせい)(北斗七星の柄の先端の星の名)を祀りしなりとぞ。十一月酉の日には、参詣の諸人群衆なし、熊手と唐の芋(とうのいも)(里芋)をひさぐを当社の例とす」と記されています。江戸百には、新吉原の遊女屋の窓から酉の町を遠望する情景が描かれており、これは、酉の町の日に新吉原が大門以外の門も開いて自由に参詣客を往来させた際の状況です。したがって、鷲大明神の酉の町は、他方で吉原祭(?)の意味もあって、相互に人気が集まったことは当然です。酉の町では、一の酉の日を重んじ、三の酉のある年は火事が多く、吉原通いは要注意とされています。実際は、月に3度も新吉原に遊びに行くなという女房達からの警告であり、酉の町詣では吉原通いの隠語でもあるということです。なお、浅草の鷲大明神に繁栄を奪われた、葛西花亦村にあった「正一位鷲大明神社」については、『江戸名所図会5』(p379以下)参照。

 こま絵には、鷲大明神前の狭い田圃道を縁起物の熊手や唐の芋を持った参詣客の帰り姿が描かれています。また、前景の美人は手には唐の芋を持ち、足元には黍(きび)餅・粟(あわ)餅・白餅を3段に重ねた餅菓子が置かれ、そちらに視線が向けられています。これらのものは、いずれも、酉の町の縁起物のお土産です。唐の芋はやつがしらとも呼ばれる里芋のことで、唐=頭で頭(かしら)になれる、餅菓子は黍の黄金色から金持ちになれる、他におかめの面が付いた熊手は福を掻き集めるなどの意味があります。先の江戸百からも判るように、美人は新吉原の遊女で、参詣の帰り客がすでにお土産を持って複数立ち寄ったことが窺われます。髪が乱れ、中着姿のままで、半幅の帯も解けそうな様子を見ると、客を何人も取るいわゆる「廻し」の状態で、大繁盛といったところです(前掲24「新吉原満花」参照)。まさに、鷲大明神(唐の芋)のご利益で人気頭といったところでしょうか。

 はるをまつ事のはじめや酉の市 其角

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69「吉徳稲荷」

若狭屋与市  安政5年2月

資料  「今戸輪淺繪圖」  江戸百に対応図版なし


6940 『江戸名所図会5』の図版「新吉原町」(p436~p437)を参考にすると、手前に葦簾張りの掛茶屋や物売りが並ぶ日本堤があり、そこから「大門(おおもん)口」に折れる道があって、「見かへり柳」から、「えもん(衣紋)坂」、そして「五十軒(間)」道と進むことが判ります。その道の右側には「高札」場があり、その後ろの杜が吉徳(玄徳)稲荷の場所に当たり、よく見ると鳥居が描かれているようです。こま絵の情景は、この高札場と吉徳稲荷の鳥居・本社越しに、郭を取り巻く板壁・郭内建物の屋根を望むものと思われます。なお、切絵図を見ると、郭内にも稲荷社が3ヶ所(実際は4ヶ所:榎本・明石・開運・九郎助)あって、吉徳稲荷も含めて5つの稲荷が新吉原を守っていると言えます。

 前景の美人は、撥を口に咥え、三味線の棹を右手に持ち、左手で糸巻きを捻り、調律している様子です。これは、遊女(花魁)とは一線を画し、歌、楽器、踊りなどを専門にする、新吉原の芸者姿であると判ります。足元に鼓が置かれているのは、『義経千本桜』「道行初音旅」(鼓→狐→稲荷)を思い起こせば、(吉徳)稲荷との関連を示唆する道具でもあります。すなわち、吉徳(一説には、九郎助)稲荷の祭礼にあわせて、新吉原内でも八朔(8月1日)から晦日まで、「俄(にわか)」、「吉原俄」と呼ばれる祭礼行事が催され、芸者や幇間(ほうかん)(太鼓持ち)達が屋台を曳きながら即興芝居・滑稽話(俄狂言)を演じるのです。舞台の先導役は、神田明神・山王権現の祭礼(付祭)と同様、木遣り姿を真似ており、浮世絵には獅子舞姿などが描かれることが多いです。前景の美人が男装の手古舞島田を結い(前掲23「山王御宮」参照)、また着物の前合わせの間から化粧回し(懸帯前【けんたいまえ】)を覗かせているのは、この俄に参加する芸者姿であることを表しています。言い換えれば、化粧回しは神前に立つ正装であり、男装の手古舞島田は、宮入りを禁止されていた女達が神の加護を受けるための方便とも考えられます。なお、この俄の時だけは郭内に女や子供がおおっぴらに入ることができました。三谷一馬『江戸吉原図聚』(中公文庫・1992、p540~p545)、渡邉晃『江戸の女装と男装』(青幻舎・2018)参照。

 本作品には、初代豊国『五人美女』の1枚に全く同じ構図のものがあり、師の構図を受け継いだことが確認されます。前景美人の着物は黒地に青海波模様、襟は太い縞、帯は輪繋ぎ(金棒の輪?)、そして腰には白手拭いをぶら下げ、相当男っぽい装いと言えましょう。浮世絵において手古舞姿で三味線を弾いたりしている姿はあまり見たことがなく、珍しい作品です。ちなみに、吉原俄には、かって歌舞伎女が江戸に下った頃の原初的遊郭風俗の残照を見ることができます。その後、女歌舞伎が禁止され、歌舞伎と(遊)女が分かれ、一方は男歌舞伎・芝居小屋、他方は廓・吉原として発展をしたと理解できます。

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68「浅草田町」

遠州屋彦兵衛  安政5年2月

資料  「今戸輪淺繪圖」  江戸百「よし原日本堤」


6839 日本堤は新吉原へ歩いていく場合の主要路で、『江戸名所図会5』(p433)には、「日本堤」は「聖天町より簑輪に至る、その間およそ十三町ほどの長堤なり(俗に八丁縄手といふ)」と記されています。その日本堤と浅草寺随身門脇の道を北上する旧馬道が出合う場所が「浅草田町」で、日本堤の南東側に並行して延びています。また切絵図を見ると、浅草寺裏門から北進する道と日本堤がぶつかる辺りに「アミカサ茶ヤ」という地名があります。新吉原に馬で通う場合、堤では馬を使用できず、馬を降りて歩かなければなりません。その際、他見を憚る者は、田町の茶屋で編笠を借りて大門に入ったことから、この編笠を貸す茶屋を「編笠茶屋」と呼んだそうです。天保以前は田町から堤へ上がる両側に10軒程ありましたが、その後なくなり、田町の編笠茶屋という地名だけが残ったということです。こま絵の風景は、堤に上がる道の両側にあった編笠茶屋と堤の上に見える満月の夕景を描くものと判ります。

 編笠茶屋では、客は一服して腹ごしらえや同行者との待ち合わせなどをして遊郭に向かいます。前景美人は、前掛けをしており、編笠茶屋から遊郭に箱提灯を持って案内する女中と思われます。美人は、遊女や若い女性に流行った天神髷(前掲62「するがだい」参照)を結っており、中剃り、中着の弁慶格子、遊女(半四郎)下駄などを合わせると、流行に敏感なお侠(きゃん)な娘に描かれています。着物は黒襟の木瓜柄小紋で、松の紋が入っており、赤と黒の昼夜帯を縦結びにしています。目を引くのは、手にする木瓜紋の入った箱提灯で、このような大型サイズは、編笠茶屋、引手茶屋、新吉原(花魁道中)に特有なものです。客の道案内に使われる場合は、行列よろしく見せることで客の心理をくすぐる効果もあります。なお、箱提灯の木瓜紋や帯の文字は、特定の編笠茶屋を宣伝している可能性がありますが、詳細は不明です。ちなみに、本作品制作当時、すでに編笠茶屋はその役割を終えており、もし茶屋があるとするならば、その役割は遊郭に客を斡旋する(客の手を引くようにして案内する)引手茶屋に替わっているはずです。ただし、その中心は、大門前の五十間道辺りに移っています。江戸百と比較対照するならば、日本堤上に展開する葭簀張りの茶屋は掛茶屋で、一番左側の2階建ての建物辺りが編笠茶屋でしょうか。

 本作品の箱提灯の隣に子犬が2匹描かれています。案内する美人の後を歩く客の姿を暗示しているのか、その存在がかなり気になります。国貞の美人東海道「平塚圖」、水野年方『三十六佳撰』「編笠茶屋 寛永頃婦人」などにも登場していて、何かの符牒と考えられます。たとえば、編笠、箱提灯、大門前に向かう2人(子犬)とくれば、編笠を被った不破伴左衛門と名古屋山三の鞘当の場面が目に浮かびます。つまり、本作品は、こま絵の浅草田町にあった編笠茶屋の美人を睨み合う子犬と重ねることによって、『浮世柄比翼稲妻』「鞘当」の場面に見立てているのです(前掲24「新吉原満花」の裾模様参照)。

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67「京ばし」

辻屋安兵衛  安政5年2月

資料  「八町堀靈岸嶋日本橋南之繪圖」  江戸百「京橋竹がし」


6738 「京ばし」は、日本橋を発った東海道に架かる最初の橋で、そこを流れる京橋川の下流は八丁堀川に繋がる通船堀です。その名には、京への出発点という程の意味があるようです。こま絵には、擬宝珠のある京橋の背後に塔のように高く聳え立つ竹竿の様子が描かれています。これは、切絵図を参照すると、橋の北岸、東方(下流)に位置する「竹川岸」を表現するものであると判ります。広重『絵本江戸土産6編』「京橋 竹川岸」の説明文には、「日本橋の通り南の方京橋の左右諸国の竹林を伐てこの所に聚め鬻(ひさ)ぐ。大小の竹竿(ちくかん)幾億千万夥(おびただ)しともいはん方なし。遥に是をうち望まば信濃の国に在という園原山の木鍬だにかばかりならじと見ゆるなるべし」とあります。言うまでもなく、前景美人とこま絵の京橋あるいはその背後に見える竹問屋との関連を読み解くことが、次の作業です。

 前景美人の髪型は背中側に自然に垂らした垂髪(すいはつ・たれがみ)と呼ばれるもので、平安貴族以来の歴史があります。江戸時代には武家の結髪の影響を受けた髪型に変化し、垂髪(すべらかし)と呼ばれるようになります。公家の女性達の典型的な髪型です。本作品では、額に書き眉をし、打掛(小袿【こうちぎ】)に、顔料の酸化のため黒ずんでいますが、本来は緋(朱)色の長袴を付けていて、宮中の女官姿を表現しています。白木の三宝に食べ物を載せ捧げ、神儀を執り行っているようにも見えます。深読みすれば、「雨乞小町」をモデルにしているのではと考えられます。もし京橋の京に掛けて宮中の女官姿というだけならば、あまり深みのない構想ということになってしまいます。そこで、以下、もう少し地域の歴史に目を向けてみます。

 こま絵に描かれた竹河岸の背後の地域、すなわち、具足町、炭町、柳町一帯は、元吉原に遊郭が創設される前の慶長(1596年~1615年)の頃、江戸で最初に傾城町が置かれた場所と言われています(『江戸名所図会5』p440、『江戸名所図会1』p144)。つまり、元元吉原です。明暦の大火後に新吉原が誕生する2つ前の時代のことですが、三田村鳶魚『江戸の花街 鳶魚江戸文庫13』(中公文庫・1997、p45以下)には、「その時分そこへ来る客というものは、町人なんていうものは一人もなくて、いずれも皆、幕府の家来、もしくは諸大名の家来というような人達で、皆武士であった」とあります。他方、当時の遊女はどういう女性かといえば、出雲の阿国歌舞伎が京で一世を風靡した後、江戸に多くの歌舞伎女が下って来る時代です。したがって、雅なサービスを提供する上方、京の高級遊女達が相手でした。結論的には、京橋にあった江戸で最初の遊郭は、京娘の高級な接客から生まれたことから、本作品はノスタルジーとして宮中の女官姿を描いているということです。この点からすると、京橋の命名由来も、京女、京娘の屯する地であったと考えた方が自然です…。

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66「御船蔵前」

湊屋小兵衛  安政5年2月

資料  「本所深川繪圖」  江戸百「大はしあたけの夕立」


66362 切絵図を参照すると、新大橋の北側、隅田川東岸に、「御舟蔵」と書かれた一画があります。幕府の御用船を係留する格納庫があった場所で、とくに将軍の御座船「安宅丸(あたけまる)」に因んで辺りは安宅(あたけ)と呼ばれています。江戸百作品では、夕立の新大橋の背後にシルエットで描かれており、よく見ると左側に白色の建物が3棟程あります。これが御船蔵で、こま絵はその内の1棟を夕景の中に拡大し、御船蔵前の川面には猪牙船や屋根船を浮かべています。そして本作品前景に目を向けると、まさにその屋根船で美人が帯を締め直している風情があるという訳です。とはいえ、同作品は幕府御船蔵前の隅田川に浮かぶ、屋根船の美人情緒をただ描いているだけなのでしょうか。

 注目すべきは、美人の着物の裾模様です。裾にかけては降る雨が、その下には杖を突いた按摩、籠を被った男、笠を飛ばされた武士、犬(?)の慌てふためく様子が描かれています。その上部の着物の地色(暈し)部分は暗くなった空、群青色の帯は雨を降らす雲(曇天)にも見えます。赤い紐は稲光でしょうか。これらは、明らかに、江戸百「大はしあたけの夕立」を美人姿を使って表現するものと考えられます。同江戸百の背景は御船蔵のあった安宅を陰影を使って描いており、これは本作品のこま絵の風景と同一です。そして何よりも、この屋根船自体が新大橋に見立てられているということに気が付けば、間違いなく、本作品は同江戸百へのオマージュと思われます。

 では、なぜこのような企画が生まれたのでしょうか。山田(前掲書p93)は、安政5年9月6日に亡くなった広重に対する追悼の意を表すものと理解していますが、本作品の改印は安政5年2月ですからまだ存命中と言わなければなりません。そもそも百人美女は江戸百が100枚目の刊行に至った安政4年11月に版行が始まり、両者共に補完し合いながら販売していくという版元の意図が窺えるので、江戸百の代表作品の人気を取り込むような企画があっても全くおかしくありません。前掲5「梅やしき」では、江戸百「亀戸梅屋舗」に対して、三代豊国は美人を使って臥龍梅を表現する試みに挑戦しています。なお、本作品の後摺では、美人の着物の裾模様が削られています。おそらく、タイアップの時期も過ぎ、かつ洗練されたデザインとも思えないからです。その場合、柳橋辺りの芸者と解される美人が船上で帯を締め直しているのは、こま絵の御船蔵前=安宅(あたけ・る)から想起される「暴れ騒ぐ」という意味を受けて、慌てて船に飛び乗り着付けが乱れたと読み解くことになりましょう。美人の着物の裏地と襦袢の襟には絽が使われ夏の装いですが、この後本当に夕立が来れば、屋根船の簾を降ろして、旦那と碁三昧です…。

 ちなみに、御船蔵の現況はというと、『定本武江年表下』(p70)の安政2年10月の条に、安政地震の結果、「御船蔵前町より出火。此辺一円に武家町家焼る」とあり、また翌年8月の台風被害で複数の御船蔵が大破したと記されています(『安政風聞集』参照)。その修復に関しては、『藤岡屋日記 第8巻』(p6)が安政4年9月2日に修理の褒美を下賜した記録を残しているので、そこから推測すると安政4年8月には修理が完了されていたことになります。このような経緯を踏まえて、江戸百「大はしあたけの夕立」は、安政地震被害の修復(原信田前掲『謎解き 広重「江戸百」』p128)あるいは翌年の台風からの復興(堀口茉純『フカヨミ!広重「江戸百」』小学館・2013、p92)のメッセージの発信と捉える有力説が提起されています。その場合、雨は背後の幕府施設(軍事情報)を隠す方便と看做すのですが、この観点では激しく降る夕立の景色が隠すための副次的手段となってしまいます。ここは素直に、御船蔵のあった安宅とあたける(暴れ騒ぐ)夕立とをかけ、激しい雨模様を主役にした作品と認識すべきです。百人美女のこま絵の「御船蔵前」も、暴れ騒ぐことを意味する安宅という言葉を導き出すための暗号にすぎないという考えです。付け加えれば、前掲58「新大はし」では、安宅(あたけ)は安宅(あたか)の関の地口となっているという理解です。


*本作品の画像は、山田順子『絵解き「江戸名所百人美女」 江戸美人の粋な暮らし』(淡交社・2016、p91)からの転載です。

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65「ふる川」

若狭屋与市  安政5年2月

資料  「目黒白金圖」  江戸百「廣尾ふる川」


6533 玉川上水の余水に端を発し、内藤新宿から南流する川は、その名を渋谷川、古川、赤羽川、新堀川、金杉川と変え、江戸湾に注ぎます。古川辺りの様子について、広重『絵本江戸土産7編』「麻生古川 相模殿橋 広尾之原」には、「江都第一の郊原(こうげん)にして、人のよく知る所なり。されば、四時(しいじ)草木の花更に人力を假(か)らずといへども、自然(おのずから)咲つづき、月の夜しがら(すがら)古への歌に見えたる武蔵野の気色はこれかと思ふばかり寂寥として余情(よせい)深し」とあります。江戸第一の野原の中を古川が流れているという風情です。ところが、こま絵を見ると、川岸背後に赤い提灯のぶら下がった2階屋があって、看板には「をはりや 蒲燒」と書いてあります。実際1階では団扇を使って調理をしている様子が描かれています。2人連れの武士も入店しているようです。野原と繁盛する料理屋とのギャップを説明するには、『江戸名所図会3』(p64~p67)に掲載される図版「廣尾祥雲寺」、「廣尾毘沙門堂」などを参照するとよく判ります。すなわち、近在に多くの寺社があって、その参詣客が途中の野原の風景(草花・虫)を楽しみつつ、また料理屋にも立ち寄るという事情が読み解けてきます。

 切絵図を見ると、古川に架かる「四ノ橋(相模殿橋)」が白金方面の寺社へ参詣する街道上にあることが確認できます。その橋の南詰めに「狐鰻」と記されていますが、これが上記尾張屋に当たります。もともとは「狐しるこ」という有名な店があったのですが、京橋に移転した後は、代わって顔の尖った上質の狐鰻の蒲焼を食べさせる店が継いだという経緯があります。そのため、今まさに売り出し中の店で、江戸百、前掲絵本江戸土産、本作品など浮世絵等を使って大いに宣伝しているのです。こま絵にある狐鰻の店を宣伝することが本作品の目的なので、前景美人の読み解きもその趣旨に則れば簡単です。

 美人の着物の緑地や帯の花柄を入れた市松模様は野原を、紋付と中着の裾にある大小の網代模様と襦袢の襟の波と網模様は古川での鰻漁をそれぞれ表現するデザインと推測されます。いずれにせよ、この高島田髷の美人は芸者と見て間違いないでしょう。着物の歌川派を示す年の丸紋は、本ブログで何度か触れていますが、この美人が、たとえば、深川や柳橋など特定の店の芸者ではないことを意味するものです。その芸者の視線の先には岡持ちが置いてあり、蓋の上の三角に畳んだ紙には赤字で「さがみどの 御蒲」と書いてあります。相模殿とは、尾張屋の古川対岸にあった「土屋采女正」のことですから、この岡持ちの中身は尾張屋・狐鰻の蒲焼(仕出し)と想像ができます。さて、先代店の狐しるこは、狐が人に化けて食べに来るほど美味しいとの評判でした。このキャッチコピーを参考にすれば、本作品の制作意図は至極単純です。すなわち、後継店の狐鰻は、古川(広尾の原)の狐が美人芸者に化けて食べに来るほど美味しいということです。古川沿いの名所・天現寺の毘沙門天(同江戸名所図会p62以下)と合わせると、毘沙門天ゆかりの「寅(虎)」の威を借る狐よろしく、参詣客の多くが狐鰻を食べに足を運んだことでしょう。

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64「三味せんぼり」

藤岡屋慶次郎  安政5年2月

資料  「東都下谷繪圖」、「東都淺繪圖」  江戸百に対応図版なし


6431 三味線堀命名の由来について、台東区(教育委員会)のHPによれば、寛永7年(1630)に鳥越川を掘り広げて造られ、その形状から三味線堀と呼ばれたとあります。不忍池から忍川を流れた水が、この三味線堀を経由して、鳥越川から隅田川へと通じており、堀には船着場があって、下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来していたともあります。切絵図を参照すると、堀を三味線の胴、「松平下總守」の堀を棹と見れば、三味線と見えなくもありませんが…。堀が隅田川を通して柳橋、山谷堀など芸妓の世界に繋がっていることで、江戸っ子が暗喩的に名付けたのではないかというのが個人的見解です。なお、この辺りには大名屋敷が多くあり、たとえば、同切絵図には、「立花飛驒守」、「佐竹右京大夫」、「松平下總守」、「宗對馬守」などの上屋敷が描かれています。この状況に沿うように、こま絵には、近景に堀脇の番屋と遠景右側に佐竹家の白壁の屋敷が確認できます。

 前景の美人は、島田髷に大きな笄、簪、櫛などを挿しており、紋付の紋が桜草に見えるので富本節の師匠筋かと思われ、紫の帯も含めて、粋な芸者姿と判ります。背後の風呂敷包みには、三味線や着替えが入っており、さあ宴席に出かけようとしているところです。紋付の裾に、やじろべえと花模様があるのはかなり気になりますが、そもそも、大名屋敷に囲まれた三味線堀、あるいは逆に三味線堀の大名屋敷(佐竹家)と芸者とはどう繋がるのでしょうか。この後者の問題は、わりと簡単に解決できます。すなわち、諸藩の上屋敷には、江戸留守居(役)が詰めているということです。留守居は、本来、藩主が江戸藩邸にいない場合に藩邸の守護に当たり、藩主が江戸在府中でも御城使として江戸城中に詰め、幕閣の動静把握、幕府から示される様々な法令の入手・解釈、幕府に提出する上書の作成などを行います。その際、他藩の留守居と情報交換するため、遊郭や料亭などを頻繁に利用するということで、芸者に結びつくのです。時代劇では、留守居が藩の財政を無視して芸者遊びなどするため、財政難に苦しむ国許(勘定方)から怨嗟(えんさ)の眼差しで見られ、それがしばしば騒動の発端となるのです。

 前者の問題、やじろべえと花模様に関しては、「お大名の松飾り」(三田村鳶魚『江戸の春秋 鳶魚江戸文庫15』中公文庫・1997、p60以下)に、次のような記述があります。すなわち、三味線堀の佐竹右京大夫は、松飾りをせず、人飾りをするとして、「表門外の敷石の上に、左右二側に足軽三人ずつ、行儀よく立っている。いかなる来賓に対しても、会釈もせず辞儀もしない、棒立ちに立ったまま、身動きもせずに、往来を見張っている」と紹介されています。したがって、やじろべえを人飾りと見れば、佐竹右京大夫を象徴するデザインと解することができます。また、同書には、向柳原の宗対馬守は松飾りの代わりに椿飾りをすると記されており、花を椿と見れば、宗対馬守を象徴するデザインと解することができます。美人の紋付の裾模様が三味線堀近くの佐竹家と宗家を表しているならば、美人は両家の留守居に呼ばれて宴席を受け持つ芸者であると示唆されます。このような経緯を考えると、三味線堀の命名由来は、堀の形というよりは、やはり、同堀に芸者が出入りしていることを江戸庶民が承知していたことに自ずと帰結するのではないでしょうか。

 ちなみに、「踊子を三味線堀ですくってる」という戯れ歌に関しては、1つに、踊子がどじょうの別名と判れば三味線堀でどじょうをすくっているという意味があります。他に、三味線堀の大名家留守居が芸者(踊子)を呼んで遊んでいることを揶揄する含意があります。いずれにしろ、本作品の読み解きについては、三味線堀がまさに隅田川、そして芸妓の世界に繋がっているという事実がかなり重要です。

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63「神樂坂」

遠州屋彦兵衛  安政5年2月

資料  「市ヶ谷牛込繪圖」、「礫川牛込小日向繪圖」、「天保御江戸大繪圖」  江戸百に対応図版なし


6317 「神樂坂」は、江戸城北西、外濠の牛込御門を出てすぐの急坂で、切絵図を見ると、門を出て「牡丹屋敷(舗)」を過ぎた辺りから上りとなって、その先は「酒井若狹守」の屋敷に向かう一本道に繋がっています。そのほとんどは武家地となっている中に、寺社や町家が一部展開しています。『江戸名所図会4』(p88)には、「坂の半腹右側に、高田穴八幡の旅所あり。祭礼のときは神輿(しんよ)このところに渡らせらるる。そのとき神楽を奏するゆゑに、この号ありといふ」とある他、「津久土明神」、「若宮八幡の社」の神楽説も紹介されています。こま絵には、門を出てやや下り、右の町家前辺りから上り始める坂が描かれています。広重の『東都名所坂つくしの内 牛込神楽坂之圖』を写したものと考えられます(前掲61「いひ田まち」参照)。

 同江戸名所図会掲載図版「牛込神樂坂」(p90~p91)を見ると、坂の上に「善國寺毘沙門堂」が描かれ、「月毎の寅の日には参詣夥しく、植木等の諸商人市をなして賑へり」とあります。では、本作品の美人は、この神楽坂の毘沙門堂参りに絡んだ一景でしょうか。ところが、同江戸名所図会は、「松源寺 行元寺 若宮八幡宮」(p92~p93)、「赤城明神社」(p96~p97)と神楽坂付近の寺社を次々と図版紹介していきます。これらがいかなる意味で江戸名所なのかが問題です。当時名の知られた寺社の門前には岡場所(幕府非公認娼婦街、私娼窟)が発達し、幕府も黙認していたので、門前市をなす繁盛を見ていました。赤城明神社や行元寺の境内の茶屋等を描く同名所図会の図版も、これら寺社の裏の顔やその賑わいを紹介するものと理解する必要があります。この観点から、もう一度、前景の美人を検討してみましょう。

 前髪の後ろに青い中剃りがあるので若い娘と思われ(思わせ?)、髪型、髪飾り、帯、下駄などもそれに相応しく若い人好みです。特徴的なのは、素足に当時流行の半四郎下駄を履き、紫の蛇の目傘を差し、浴衣を抱え、左褄を取って振り返っている姿です。これは、表向きは芸者支度、裏向きは岡場所の私娼表現を含むものと考えられます。後に、神楽坂芸者と言われる花街の原風景と見るべきでしょう(前掲27「新はし」参照)。また、岡場所の私娼を俗に猫と言いますが、水辺の両国回向院前などの猫に対して、神楽坂周辺寺社など山の手に現れるものは山猫と呼びます。つまり、善国寺毘沙門堂に因縁する寅(虎)という表の顔に対して、赤城明神社や行元寺周辺の山猫という裏の顔を採り上げたのが、本作品の隠された趣向です。山田(前掲書p56)は夕立の中「湯屋」に向かう見習い芸者と解していますが、若い美人を採り上げて実態を曖昧に表現している点での注意が必要です。本作品理解のヒントは、「猫ぢや、猫ぢやと、おつしやいますが、猫が下駄履いて、傘さして、絞りの浴衣で来るものか」という江戸芸者の唄にあります。

 本作品にはもう1つ重要なメッセージが込められています。紫の濃淡の縞柄の着物と黒地の帯に散らされた文字を拾い読みしてみると、「年の丸に豊」、「陽齋」は絵師、「遠彦」は版元、「新板」、「しん」は版行宣伝、「福」、「大當」、「當」は人気好調のアピールなどであって、これらはシリーズ作品の区切りによく使われる手法です。当ブログの解説順とは異なりますが、おそらく、安政5年2月版行作品の1枚目かもしれません。安政4年11月(12月)以来、しばらく休止していた後半作品の版行がいよいよ再開されるという宣伝意図を強く感じます。そのため作品内容自体もやや冒険しており、後半作品をさらに期待できるものと思わせています。

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62「するがだい」

藤岡屋慶次郎  安政5年2月

資料  「飯田町駿河臺小川町繪圖」  江戸百「水道橋駿河台」、「昌平橋聖堂神田川」


6212 「駿河台」について、『江戸名所図会1』(p103)は、「昔は神田の台といふ。このところより富士峰を望むに、掌上に視るがごとし。ゆゑに、この名ありといへり」と記しています。もともとは、本郷・湯島台と地続きで神田山と呼ばれていた部分の南端に当たります。神田川の付け替え時の掘削によって、分離した台地となりました。切絵図では、水道橋と上水樋の間の「小栗坂」から「表猿楽町」通りに沿って「昌平橋」へ抜ける緩い曲線通りが駿河台の末端に相当します。大名・旗本の武家地であることが明白です。江戸百「水道橋駿河台」においても、端午の節句の幟が数多く立っており、武家中心の地域であることがよく表われています。見落としがちですが、同江戸百の鯉幟と支柱が造る富士に相似する三角形の内側には、火の見櫓(定火消役屋敷、大名屋敷)が3ヶ所に描かれています。これが、本作品のこま絵に繋がります。

 こま絵は、富士山の眺望を捨て、土手越しに火の見櫓を描いています。前掲切絵図から判断して、昌平橋の南側にあった、「定火消役屋舗(松平侶之允)」の火の見櫓に相当するものと思われます。定火消役屋敷には、旗本を筆頭に与力・同心が配属され、火消用具の設備はもちろんのこと、臥煙(がえん)と呼ばれる専門の火消人足が召抱えられていました。火事場で実際に消火活動を行う臥煙は江戸っ子によって組織され、奴銀杏の髷姿にかなりの気性の荒さで有名でした。駿河町の定火消役屋敷からは、裕福な旗本というイメージとあわせて、鉄火肌とか勇み肌といった臥煙の男っぽい気風が伝わってきます。これらが、前景美人を読み解くための情報となります。

 前景の美人は、今まで見てきた島田髷ではなく、天神髷を結っています。普通は遊女や粋筋が結う髷です。梅の枝を手にして銅製の薄端(うすばた)花器に向かって生けようとしていることを考えると、梅と天神(髷)とを掛けているのかもしれません。前掲切絵図の定火消役屋敷の北(昌平橋)側の「ユウレイサカ」、「フミサカ」とある辺りに紅梅の大木があって、紅梅坂とも呼ばれていたと言います(山田・前掲書p45)。つまり、定火消役屋敷の紅梅坂からの連想で、梅の立花を生け、天神髷を結う粋な美人姿が描かれているということです。また、梅という点には、本作品の制作版行が安政5年2月の梅の季節であるということも影響しているはずです。なお、着物が黒地に紅空木(べにうつぎ)の総柄なのはかなりな玄人好みです。ただし、帯は宝相華模様で、武家の娘や御殿女中に定番の「右やの字」結びです。こま絵に夕暮れ時の火の見櫓が描かれており、それにあわせて美人の着物が黒地に緋=火という配色なのは巧みな表現です。他方で、梅の枝を水に浸ける様は火を消す行為と読めそうですし、枝を火消し関連の道具(纏)と看做すこともでき、粋な天神髷を結う美人姿は、まさに消火に向かう臥煙の伊達姿と並列的に見ることができそうです。武家の娘にしても、臥煙の男っぽい気風と粋な雰囲気を相当に強く感じさせる美人像です。画題に共通性があり、同じ武家地の美人を採り上げている前掲61「いひ田まち」とは、かなり雰囲気の異なる作品に仕上がっています。

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61「いひ田まち」

藤岡屋慶次郎  安政5年2月

資料  「飯田町駿河臺小川町繪圖」  江戸百「水道橋駿河台」


6111 「いひ田まち」のこま絵は、実は、九段坂とその左側にあった牛ヶ淵を描いたもので、北斎「くだんうしがふち」、広重『東都名所坂つくしの内 飯田町九段坂之圖』などに描かれている、古典的な構図です。登った坂上の左側が田安門に当たります。なお、広重『絵本江戸土産8編』「九段坂より下町の眺望」は、逆に、坂上から九段坂を見下ろす視点の作品です。切絵図を見ると、外濠代わりの神田川と内濠の間は、ほとんどが大名・旗本屋敷地で、飯田町の一角だけに町家があることが判ります。田安門のあった坂上から堀留に向かって、「九段坂」、「飯田町中坂」、「モチノ木坂」の3本の坂があり、『江戸名所図会1』(p104~p105)の図版「飯田町中坂九段坂」を参照すると、中坂には牛車が描かれているのに、九段坂にはありません。牛車も登れないほどの急坂であり、その左側の牛ヶ淵は、その牛車がかつて途中で落ち込んだことが命名の由来となる程です。

 飯田町の一角に町家が発展しているのは、堀留の先が日本橋川に通じており、武家向けの物資が商人によってその堀留の河岸から一帯に提供されていたからです。こま絵には肩衣袴姿の武士の歩く様が多数描かれていて、旗本等の武家地であるというのが第一印象です。同時にその武家を対象にする商家の住む、経済的に裕福な地域というイメージが当町にはあるということを確認しておきます。さらに、飯田町は狂歌連などの文化的サロンの中心地であり、『南総里見八犬伝』の著者曲亭馬琴が住して文筆活動をしていたことでも有名です。つまり、前景の美人は、旗本等や大店の娘の可能性があり、文化教養に親しむ環境下にあったということです。

 一見して明らかなとおり、お茶の道具を運び、お点前の準備をしているところです。茶道はもともとは男性の嗜みでしたが、江戸時代になるとある程度の地位のある女性にも、教養や礼儀作法を身につける手段として普及しました。旗本や大店の商家の住む飯田町にはまさに相応しい作品内容です。赤い袱紗(ふくさ)を帯に挟み、左手に建水、右手に柄杓と蓋置を持つ立姿には、何か別の意図があるように思われます。島田髷に鼈甲の髪飾り一式をしており、とくに元結部分に、両側の鼈甲細工の花を取り外しできる花笄(こうがい)をしている点で、身分の高い武士の娘の正装姿を表現していると捉えるのが無難でしょうか。また、宝相華と唐草模様の帯を縦に結び、着物は松葉菱の菊紋の真ん中を縞が走るかなり大胆なデザインの絣(かすり)柄です。山田(前掲書p44)には、「武家の娘はあまり絣を着ない」という説明がありますが、本作品の美人は、新作着物の雛形(モデル)として描かれていると理解すれば、着物と帯全体を見せる立姿も頷けます。身分の高さ、経済的豊かさ、教養深さなど飯田町の持つブランド力を利用して、新しい着物デザインを紹介するのも本作品の目的です。

 なお、他方で、着物の松葉菱は松平(徳川)を暗示させ、御殿女中への手掛かりとして茶道を習っていることを仄めかしているのかもしれません。としても、一人前の御殿女中になるためには、飯田町の九段坂を登るように、まだまだ何段もの修練が必要との制作意図を隠しています。

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60「白銀樹目谷」

藤岡屋慶次郎  安政5年2月

資料  「目黒白金圖」  江戸百「廣尾ふる川」、目黒各作品


6009 南北朝時代の国司・柳下上総介の居城があり、白金長者と呼ばれていたことが(『嘉永・慶応江戸切絵図』人文社・1995、p62)、白金台の由来と考えられています。そして、そこにあった地獄谷を樹木谷と言い換えて「白銀樹目谷」となったようです。切絵図を見ると、最下部の中央右辺りに、「此辺樹木谷ト云」と記載されています。なお、その地点から左上に1本の道(かつての「相模街道」、今日の「目黒通り」)があり、「白金1丁目」から「白金11丁目」まであります。その先は、目黒不動尊・龍泉寺に至ります。

 『江戸名所図会3』(p80)に関連記事を探すと、「最正山覚林寺(さいしょうざんかくりんじ) 樹木谷道より右にあり。日蓮宗にして房州小湊の誕生寺に属す」とあります。開山の可観院日延上人については、「昔加藤主計頭(かずえのかみ)清正朝鮮征伐のとき、かの国の王子連枝二人を日本に連れられ沙門となし」、その弟の方が日延上人であると記しています。覚林寺の敷地は、肥後国熊本藩・細川家の下屋敷内に在ります。これは、加藤清正の死後、同藩に移封された細川家が清正の措置をそのまま継承した治政上の配慮と推測されます。前掲切絵図には、覚林寺の敷地に「清正公」と書かれており、豊臣家の家臣加藤清正を祀った御堂があることが示されています。単純に尊敬の念を示すものとして「せいしょうこう」と音読みするというよりは、「東照(大権現)」に対して「西照(公)」と表現して豊臣贔屓の江戸庶民感情を汲み取る方便になっているように思われます。この清正公堂は武運の神として江戸でも大人気となり、「白金の清正公」として人々に参詣されるようになりました。細川家の作戦は、予想以上に上手くいったということです。

 こま絵には「清正公大神」と書かれた幟が立っており、この覚林寺の清正公堂が前景美人を読み解くヒントです。前掲2「五百羅かん」の読み解きを思い起こすと、美人ではなくて同伴の老女とこま絵とに重要な関連がありました。したがって、本作品の場合も、美人の足元にいる幼児とこま絵との関連に注目することが肝要です。覚林寺の祭祀とは別に、清正公堂では、端午の節句の時期、毎年5月4日、5日に葉菖蒲を入れたお守りを参詣者に授けています。菖蒲=勝負に勝つ、「勝守り」と呼ばれるものです。本作品の右下には、鉞、舌出し三番叟、荷車の玩具があって、坊主頭の男児が遊んでいたものと判ります。つまり、美人の足元にいる男児と、端午の節句の清正公堂の勝守りとが第一に繋がるということです。絽の着物を着る美人には、前髪の後ろに中剃りがあって、年若いことが想定され、おそらく男児の姉でしょう。仲夏に当たる端午の節句を祝うため、清正公堂の勝守りを貰い受けに行こうとしている姿です。着物の裾に頭を突っ込む可愛い仕草の弟に、姉も思わずにこりとしてしまった瞬間です。しかし、弟の顔だけでなく、美人の腕も絽の着物から透けて見え、若さ溢れる健康美を描いたところが絵師の腕と言えましょう。帯の裏表が、それぞれ、麻の葉模様と卍崩しになっている点には、健康を祈る両親の愛情も垣間見えています。

 ちなみに、目黒・白金一帯は寺社が多い地域で、覚林寺(清正公堂)近郊には、三代豊国自身も絵師としての尊敬を公言して憚らなかった、「英一蝶の墓」があります。作品の制作動機の深層に、このような事情が影響を与えていたかもしれません。同江戸名所図会(p82)には、英一蝶の墓は、「同所より二町ばかり南の方、二本榎の通り左側、承教寺にあり」と記されています。いずれにしろ、三代豊国はこの辺の地域事情を個人的にも良く知っていたことでしょう。

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59「尾張町」

若狭屋与市  安政5年2月

資料  「京橋南築地鉄炮洲繪圖」  江戸百に対応図版なし


5907 こま絵にある「尾張町」というのは、切絵図を参照すると、京橋と新橋との中間辺りから南側の東海道沿いの地域であることが判ります。現在の銀座5、6丁目に当たります。命名の由来は、江戸時代に、この地を尾張藩が埋め立て工事をしたからです。さらにその東部一帯には、築地本願寺をランドマークとする築地が広がります。この尾張町には、有名な呉服店がありました。『江戸名所図会1』(p218~p219)にも描かれており、「布袋屋」、「亀屋」、「恵比須屋」と明記されています。こま絵の暖簾には明らかに「ゑびすや」とあるので、そのうち、呉服・太物・小間物など布類を一手に扱う当店を指し示していることが判ります。この「ゑびすや」の創業者は徳川吉宗と幼なじみで、屋号は吉宗から贈られた神像に由来し、それ故、その神像を描いた暖簾が掛かっているということです。安永6年に刊行された『富貴地座位(ふきぢざい)』という書物には、江戸名物衣服の部に、「日本橋の白木屋彦次郎」、「するが丁の越後屋八郎右衛門」の次に「尾張町の蛭子屋八郎兵衛」と記されます。なお、後に松坂屋が買収し、松坂屋銀座店となり、現在ではGINZA SIXとなっています。

 こま絵が呉服店「ゑびすや」と判れば、前景美人は当店を宣伝する目的のモデルであると推察されます。こま絵に「げんきん」という文字が見えるので、越後屋に始まった「現金掛け値なし」の定価商売が当店にも広がっていることが読み解けます。右の箱から、5枚1組になった小切れを取って思案する風情を描いているのは、セット価格の安売り商品を目玉として宣伝する趣旨です。美人の髪型は島田髷、結綿は緋の縮緬で、菊模様の漆塗りの櫛を挿しています。前髪の後ろ部分に中剃りが覗いているので、若い娘であることが判ります。言い換えれば、本作品は若い子向けの商品を目玉として宣伝する趣旨と理解されます。襦袢の襟と手にする松葉菱模様の小切れとが同色なので、襟布などを探しているのでしょう。ちなみに、豊広美人絵、国貞の3枚続作品、芳宗の将軍上洛図、三代広重の明治風景画の背景などにおいても、ゑびすやを宣伝する浮世絵は少なくなく、宣伝上手な良きスポンサーであったことが窺えます。

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58「新大はし」

藤岡屋慶次郎  安政5年2月

資料  「本所深川繪圖」  江戸百「大はしあたけの夕立」


5804 『江戸名所図会1』(p150)には、新大橋は、「両国橋より川下の方、浜町より深川六間堀へ架す。長さおよそ百八間あり」、「両国橋の旧名を大橋といふ。ゆゑに、その名によつて、新大橋と号(なづ)けらるるとなり」と記されます。先行する広重の江戸百作品の題名が、「大はしあたけ」とあって、大橋の東詰方向に視点を移していることは本作品理解の重要な指針です。すなわち、こま絵に描かれる新大橋の橋下に展開されている風景は、隅田川東岸の「御舟蔵」辺りであるということです(切絵図参照)。御舟蔵には、廃船となった将軍の御座船・安宅丸(あたけまる)の供養塚があったので、この付近を安宅と呼んでいました。

 さて、前景の美人は、朱縁の巻紙に恋文を書き終えて、舌で唾を付けて折目を千切ろうとしている仕草です。前掲1「湯島天神」と対照すると、縞の着物を締める帯の裏表が色違いの絞りの麻模様になっており、島田髷に結綿、花簪、そして前髪を短く切り、その後ろ部分に青色の中剃りが見えているので、侠(きゃん)風な、商家の若い娘を描く趣旨であることが判ります。その娘が巻紙を長く垂らしている姿に江戸庶民が何を感じたかが絵解きの道筋になります。

 歌舞伎18番の1つに『勧進帳』があります。その「安宅(あたか)の関」では、弁慶が笈の中からありあわせの巻物を取り出して、勧進帳を読み始める名場面があります。本作品は、こま絵の「新大はし」から「安宅(あたけ)」を導き出し、それを「安宅(あたか)」と読ませ、美人が巻紙を垂らす仕草を弁慶が勧進帳を読む姿に見立てているのです。古来より、関所というのは、恋や逢瀬の困難な様子の喩えとしてしばしば使われるものですが、若い娘の恋を安宅の関の弁慶に擬えているとなれば、この恋の行方はなかなか難しいことが想像できますし、少女の可愛い仕草に真剣味と深みも出るというものです。前掲1「湯島天神」と本作品を繋げると、ドラマが1つ生まれてきそうです。なお、浮世絵の制作において、日常景を歌舞伎等の名場面に擬える方法は「絵兄弟」と呼ばれ、しばしば見られる表現手段です。

 翻って考えると、広重の江戸百の作品が夕立の情景を描いている理由として、新大橋背後の雨中に安政地震および翌年の台風で被災した安宅(御舟蔵)の景色あるいはその修復のイメージを、幕府を慮って隠しながら表現したという有力な見解がありますが(原信田実『謎解き 広重「江戸百」』集英社新書・2007、p128)、他方で、新大橋を安宅の関と見立てて、夕立のため橋を渡るのに逃げ惑い苦労する庶民の姿を、勧進帳の弁慶・義経一行の関越えの苦労に重ね合わせて表現しているだけなのかもしれません。当時大流行・大人気の弁慶(市川團十郎)の涙雨の情緒を名所の夕立に取り込んだということでしょうか。本作品の三代豊国、江戸百の広重、いずれも、役者絵の世界を席巻した歌川派の絵師であるという点が肝要です。すなわち、被災や復旧の事実は販売動機の問題であって、制作動機は風景・情景・仕草を歌舞伎舞台の書割と融合させて、その面白さを伝えることにあるように思われます。

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57「十軒店」

藤岡屋慶次郎  安政5年2月

資料  「日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖」  江戸百「大てんま町木綿店」、「大伝馬町こふく店」


5703 十軒店(じっけんだな)は、日本橋の北、日本橋と今川橋とを結ぶ通りの中途辺りにあり、江戸の商家町を貫くこの通りが中山道であることに注意が必要です。江戸百に十軒店を直接描く作品はありませんが、近隣の上記大伝馬町を題材にする作品は、一帯が商業の中心地である雰囲気を良く伝えています。切絵図には、「十軒店本石町」と表記されています。『江戸名所図会1』(p81)には、「本町と石町の間の大通りをいふ。桃の佳節を待ち得ては、大裡雛(だいりびな)・裸人形・手道具等の鄽(みせ)、軒端を並べたり」と記されています。江戸一番の雛市があった場所と言えます。同江戸名所図会掲載図版「十軒店雛市」(p88~p89)がその繁盛の様子を詳細に表現しています。

 こま絵に描かれる商家は、この雛人形を売る店です。幕の模様をよく見ると、右側に歌川派の年丸紋、黒壁の店に掛かる部分には本作品の版元の意匠がそれぞれ描き入れられ、制作者の宣伝にもなっています。このような場合、特定の店を宣伝する趣旨ではないことを暗に示しているにすぎないことが多くあります。こま絵と美人の関係は非常に判りやすく、十軒店の雛市に雛人形もしくは道具・飾りなどを買い求めに来た様子を描いたものと理解できます。島田髷に緋の結綿、花簪、櫛、笄(こうがい)を挿し、青海波の地に、四角、六角、花型の枠に卍・青海波の紋様の入ったデザインを散らした着物で、やはり卍模様の緋地に宝相華(ほうそうげ)模様の帯を縦に結び、帯の下は水色のしごき帯という姿です。前髪の後ろ部分に中剃りが描かれているので、肩に青色の風呂敷を結んでいる無防備な姿と併せ、美人の若さや幼さがよく表現されています。雛人形は嫁入り道具の1つですが、少女にはまだ先のことでしょうか。近郊から雛市に訪れ、内裏雛を前に左手に鳳凰飾りの宝冠を持って、人形の飾りを別注している様子です。

 十軒店の雛市のこま絵に対して、雛祭りの準備(買物)をする美人という組み合わせは、ごく自然な発想です。ただし、本作品の年月改印が安政5年2月であることは重要な点で、本作品が3月3日の桃の節句前の版行に当たり、歳時紹介として本作品の商品性が高まるのはもちろん、十軒店の雛市を営業的に宣伝するにもちょうど良い時期なことが判ります。百人美女シリーズにおいて作品が歳時や宣伝を主目的とする場合、それほど深読みする必要はないのですが、例外的に、次のような政治的背景には触れておきます。すなわち、安政3(1856)年11月、篤姫(天璋院)が徳川家定の正室として大奥に入り、それから6年後の文久2(1862)年2月、皇女和宮(静寛院宮)が家茂に降嫁して公武合体の機運が盛り上がっていく状況です。つまり、将軍家の結婚という慶事が、源氏絵や夫婦雛作品の版行・制作に影響を与えている可能性があるということです。

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56「首尾の松」

藤岡屋慶次郎  安政4年12月

資料  「東都淺繪圖」  江戸百「淺草川首尾の松御厩河岸」


5681 広重『絵本江戸土産7編』「首尾の松 大川端 椎の木屋舗」には、「首尾の松」は、「隅田川の末流、吾妻橋と両国橋の中間、西の岸にあり。一株(いっちゅう)の古松(こしょう)屈曲なし、枝は水面に垂れて遠望すれば龍の蟠(わだかま)るにも似たり」と記されています。切絵図で確認してみると、隅田川の西岸に9本の歯を持った櫛形の「浅草御蔵」があり、その「四番堀」と「五番堀」の間の堤防先に「首尾ノ松」が立っているのが判ります。こま絵には、幕府の御米倉である白壁の建物の前に竹垣で囲まれた松の大木が描かれています。浅草御門を出た街道がこの蔵の前を通っており、街道を隔てた場所を蔵前と名付ける所以です。なお、旗本・御家人に御米倉から扶持米を手数料を取って配るのが札差と呼ばれる商人で、後に金融業に転じて巨万の富を得たことから、この辺りは豪商が住んでいた場所でもあります。

 隅田川河畔に大きな枝を垂らす松の大木をなぜ首尾の松と呼ぶかですが、両国などから吉原へ行く遊客がこの松を見て、今夜の首尾の良いことを祈ったからとも、また、帰りに昨夜の首尾を思い返したからとも言われています。いずれにしろ、松には迷惑な話で、吉原遊びの首尾から派生したということです。この首尾の松周辺の川域は、幕府直轄地から運ばれる米の積み下ろしに際して米が川に溢れ落ちることもあって、肥えた蜆や魚が採れることでも知られていました。前景美人が屋根船に乗って釣りを楽しんでいるのも、その為です。

 美人の髪は、島田くずし(しの字髷)でしょうか(ポーラ文化研究所図録p163)。山田(前掲書p184)は女夫(めおと)髷と解していますが、作品全体の傾向からは前者と判断されましょう。いずれにしろ、年配者や玄人筋が結ったものであるという点で共通です(前掲37「王子稲荷」、前掲44「上野東叡山」参照)。本作品の美人はお歯黒をしているようなので、両国も近いことを勘案して、旦那を持った元柳橋芸者なのかもしれません。着物は「松皮菱に花菱」、帯は宝相華模様で、この美人を首尾の松に見立てたのだとすると、釣竿は水面に垂れる松の枝ということになりましょう。また船の左側にはもう1本の釣竿があって、これは旦那の存在を暗示するものです。場所柄、蔵前の札差など豪商の旦那と解せます。つまり、川柳「名木は米の中から枝を出し」を、美人(名木)が蔵前の旦那の借りた船で(米の中から)釣りをする(枝を出し)と読み解いたということです。さらに、深読みすれば、百人美女は、女性が主役のシリーズなので、旦那ではなく、美人が首尾よく肥えた魚(旦那)を釣り上げたという諧謔を含んでいるのではないかと思われます。

 背後の朱塗りの盆に布巾の掛かった料理が置かれています。日が落ちた後、簾を下ろして「差しつ差されつ」2人で楽しむ様が想像できます。その情景を描いたのが、江戸百「淺草川首尾の松御厩河岸」の屋根船風景なのでしょう。ちなみに、上記の他に、次のような川柳が知られています。たとえば、「首尾の松たびたびみたび不首尾也」、「余の舟で見ればやっぱり唯の松」などです。

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55「呉服ばし」

辻屋安兵衛  安政4年12月

資料  「八町堀靈岸嶋日本橋南之繪圖」  江戸百「八つ見のはし」、「日本橋通一丁目略圖」


5580 江戸城外濠と日本橋川とが交差する地点(一石橋)の南側にあるのが呉服橋で、北側にあるのが常盤橋です。切絵図を見ると、その呉服橋の東側に呉服町とあって、白抜き部分に「後藤」と書いてあります。『江戸名所図会1』(p65)によれば、「呉服所後藤縫殿助(ぬいのすけ)」の宅があると記されています。つまり、幕府御用達の呉服商後藤縫殿助が住んでいたので、武家屋敷並みに名前が書かれているということです。こま絵には、呉服橋御門の見付櫓の鯱が描かれているので、右下に少しだけ見えているのが呉服橋、対岸の2階屋が並ぶ所が呉服商後藤縫殿助の店であることが判ります。黒塀の脇に宣伝看板もしくは幟が立っているのが見えます。

 前景の美人に目を移すと、青色の根掛けで丸髷を結い、黒襟の小格子模様の着物に帯は紫の献上博多を締めていて、かなり地味です。青眉にお歯黒などの様子も併せて考えると、やや年配のお内儀のようです。右手に徳利を抱え、酌をする仕草です。また酒のつまみでしょうか、右下に朱塗りの盆が描かれ、大皿に刺身が並べられています。さらにその前には、「魚仙」と書かれた枡形状の道具が置かれていますが、これは美人が抱えている徳利を入れておく「袴」と呼ばれるものです。宣伝されている魚仙は、生簀(いけす)の魚を「活け作り」で提供する有名な会席亭(料理屋)で、日本橋通りを挟んで呉服町の対面・平松町にありました。文久元(1861)年刊の見立番付『魚尽見立評判会席献立料理通』にも、その名が行司の段に記されています。とすると、このお内儀は、魚仙の女将かもしれません。横櫛に、襟の衣紋を大きく抜き、色気のある様も仕事柄と言えましょう。着物柄など全体に地味に見えるのは、当時の世相からすれば、深川芸者などが好例ですが、かなり粋な感じを醸し出しているはずのものです。

 さて、こま絵には後藤呉服店(呉服町)、前景美人部分には会席亭魚仙(平松町)がそれぞれ宣伝される形になっています。両者とも呉服橋や日本橋界隈の店であるという地域的共通性はありますが、本作品は両者をただ並列的に紹介する趣旨だけなのでしょうか。店の営業を宣伝する場合、本シリーズでは読み解きに苦労する作品はほとんでなく、従来の傾向からすると、こま絵を受けて、前景美人が着物を選ぶなど、もう少し関連性のある題材が選ばれるはずです。そこで、この観点からこま絵と前景美人との関係を、以下にもう一度見直してみましょう。すなわち、後藤呉服店は幕府御用達の店で、侍を相手にする店として高名です。そして、侍とくれば袴です。会席亭魚仙も徳利に袴を穿かせて酒を提供します。ともに袴が大事な商売というわけで、こま絵と美人の仕草とが深く繋がります。袴を主題にした判じ物と考えれば、かなり面白い作品と言えるのではないでしょうか。

 ちなみに、外濠南側呉服橋の後藤縫殿助に対して、北側常盤橋には金座後藤庄三郎の宅があったので、その間の日本橋川に架かる橋を5斗(ごとう)と5斗(ごとう)ということで、足して10斗=一石・橋と名付けた由が記されています(前掲江戸名所図会p65)。この一石橋からは、日本橋、江戸橋、呉服橋、銭瓶橋、道三橋、常盤橋、鍛冶橋が眺望できるので、一石橋を加えて「八橋」となり、一石橋を「八見(やつみ)橋」と呼んだともあります(同名所図会掲載図版「八見橋」p66~p67参照)。このような江戸っ子の洒落た感覚を知らないと、判じ物の浮世絵などを読み解くことはなかなか難しいかもしれません。

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54「永代橋」

丸屋久四郎  安政4年12月

資料  「八町堀靈岸嶋日本橋南之繪圖」  江戸百「永代橋佃しま」


5472 「永代橋」について、『江戸名所図会1』(p188)は、「箱崎より深川佐賀町に掛くる。元禄十一年戊寅【1698年】、はじめてこれを架せしめらる。永代島に架(わた)すゆゑに名とす。長さおよそ百十間余あり。このところは、諸国への廻船輻湊の要津たるゆゑに、橋上至つて高し」と記しています。隅田川最下流の江戸湊出入口の橋であり、まさに「廻船輻湊の要津」なので、船問屋などの大商家、船宿、料理茶店などが発達することは容易に理解できます。こま絵を参照すると、橋の外・佃島石川島側に帆を降ろした大型船のマスト5本が描かれ、さらにその先に品川(洲崎)方向の海岸線が見えている点に注意が必要です。これは、永代橋が舟運確保のために高層建築化されており、眺望に優れるからです。ちなみに、『定本武江年表下』(p86)によれば、安政3年8月25日の条に、「永代橋、大船流当りて半ば崩れたり」とあり、また翌年の夏に始まった修復が終わったのは安政5年3月とありますから(同書p94、p100)、百人美女シリーズ制作中は仮橋の状態であったことを念頭に置いておく必要があります。

 前景の美人を含めた船着場の様子は、前掲「江戸はし」と共通する部分が多く、永代橋袂の船宿から猪牙船に乗って対岸深川などへ遊びに出かける客に対して、女中が炬燵と掛布(布団)を用意するという冬の季節柄を表現するものと思われます。雪形網代格子の着物や雪花文の中着なども、冬を感じさせるデザインです。献上博多の反幅の帯が解けかけ、前掛けも乱れているので、慌てている様子が窺えます。また提灯の明かりで前方を見つめているようなのですが、何か意図があるのでしょうか。なお、丸型提灯の「年玉に豊」、「歌」などの文字は、歌川豊国自身を表す意匠ですが、おそらく、これは、特定の店などの宣伝ではないことを示す記号として使われています(前掲50「江戸はし」の傘の年玉参照)。

 本作品の美人の仕草を読み解く際の重要なヒントは、右肩に担いでいる高麗屋格子の掛布です。前掲52「花川戸」で触れたように、これは、歌舞伎において幡随(院)長兵衛(4代目松本幸四郎)が身に付けていた衣裳模様です。たとえば、歌川国芳『国芳もやう 正札附現金男』の「幡随長兵衛」(弘化2・1845年頃)と対照すると、美人は合羽を肩にかける幡随長兵衛に見立てられていることに気付きます。幡随長兵衛と白井権八とが出合う歌舞伎『浮世柄比翼稲妻』「鈴ヶ森」では、暗闇の中、長兵衛が乗ってきた駕籠提灯の明かりに照らされて、長兵衛と賊を追い払った白井権八が視線を合わせます。そして、逃げる権八。ここで、長兵衛は、有名なセリフ「お若けぇの お待ちなせえやし」と言います。この狂言を下敷きにして考えれば、美人が高麗屋格子の掛布を肩にかけ、暗闇に提灯を持っていることの意味が明確になります。長兵衛に見立てられているのです。となれば、美人は客に向かって、「(お客さん)お待ちなせえやし」と小走りしているというわけです。

 永代橋になぜ幡随長兵衛の見立てかというと、橋の西南方向に品川が遠望でき、その宿外れに鈴ヶ森が位置するからです。これが、橋背後の品川方向の海岸線がこま絵に描かれている所以です。後掲58「新大はし」で、橋背後の安宅が「安宅の関」のヒントになっているのと同じ理屈です。

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53「三圍」

丸屋久四郎  安政4年12月

資料  「隅田川向嶋繪圖」  江戸百に対応図版なし


5370 こま絵にある鳥居は隅田川の堤防脇直近に建ち、川側からはその頭部だけしか見えないという点で非常に特徴的な三囲稲荷のものです。同稲荷に関しては、神供を捧げる際に現れる狐伝説と絡めて、前掲41「墨水花臺」で一度採り上げているので、同稲荷の別の側面を探ってみます。すると、『江戸名所図会6』(p186)に、元禄6(1693)年6月28日、三囲稲荷で雨乞いの祈願が行われた際、その日参詣していた宝井其角が雨乞いの発句を請われ、「夕立や田をみめぐりの神ならば」と捧げたところ、「あくる日、雨ふる」と記されています。つまり、当稲荷が雨乞いの神でもあるという事績です。前景に蛇の目傘が描かれているのは、この関連においてなのでしょうか。さらには、堤防沿いに植えられた桜の花が咲き誇っているところがこま絵に描かれているので、そこに着目すれば、また別の見解も導かれそうです。

 前景美人は、蛇の目傘に顔を隠した男と共に見得を切っているように見えます。赤い手絡(てがら)の島田髷(結綿)に、薄紅色に染めた厚手の和紙を重ねた丈長を巻き、花飾り・両天簪を付け、一見姫君に見えますが(前掲8「霞ヶ関」参照)、赤い前髪括りで結んでいるところから判断すると、かなり裕福な商家の若い娘姿と理解した方が良さそうです。注意すべきは、その目付きとやや受け口の様子から女形の役者と見られる点です。したがって、次に読み解かなければならないのは、元となっている歌舞伎の演題と役名・役者名ということになります。山田(前掲書p161)は、三囲稲荷が狐に縁があり、こま絵に桜が咲いていることなどから、2人を『義経千本桜』「道行初音旅」の静御前と狐忠信主従と解し、美人(女形)を坂東しうか、背後の男(立役)を市川小團次と結論づけています。

 ところが、本作品に先行して、初代豊国の描く、5代目岩井半四郎のお染・久松両人の役者絵があります。先行する浮世絵を辿るという方法論からすれば、「圍」作品は、構図的には、ちょうどこの作品を反転させて描いたとも言えます。つまり、歌舞伎『お染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』「心中翌の噂」のお染と久松が本作品のモデルであるという考えです。この4代鶴屋南北の狂言は、文化10(1813)年3月江戸森田座で初演され、油屋お染(町家の娘)・丁稚久松(若衆)・土手のお六(悪婆)を含め7役を半四郎1人が早変わりで演じたことで有名です(「お染の七役」)。こま絵「三圍」にお染久松が当てられている理由は、実際に大坂であった心中事件の舞台を江戸向島の三囲の土手に置き換えているからです。花を散りばめたお染の振袖や縞模様の久松の着物などからも、「三圍」作品が初代豊国作品の焼き直しであることがよく判ります。

 「三圍」作品の美人の目に愛嬌があるのは、美人の顔が「眼千両」と言われた岩井半四郎の似顔絵であるとすれば、当然のことです。もし当代となれば、3代目岩井粂三郎(8代目岩井半四郎)でしょうか。また、美人の背後の久松の顔は敢えて傘に隠されていますが、同一の役者が演じる舞台を前提としているので、前景美人と同じく、半四郎(お染)です。なお、「三圍」に描かれる蛇の目傘は、心中前(三囲への道行)の相合傘というのがその答えです。

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52「花川戸」

藤岡屋慶次郎  安政4年12月

資料  「今戸輪淺繪圖」  江戸百「吾妻橋金龍山遠望」


5260 切絵図を見ると、「花川戸」は「大川橋」(吾妻橋)の北西岸に当たり、浅草寺の東隣りであることが確認できます。また、『江戸名所図会6』の図版「大川橋」(p182~p183)では、花川戸の川岸に船が停泊する様子が描かれていて、浅草寺参詣などのための船着場であることも判ります。『江戸名所図会5』(p273)には、「浅草川」(隅田川)の説明として、「白魚・紫鯉の二品をこの河の名産とす。美味にしてこれを賞せり。鰻鱺(うなぎ)・蜆もまた佳品とす」とあります。こま絵に魚の振売り(棒手売)風景が描かれているのも納得です。その背後には、赤い提灯を吊り下げた2階建の料亭茶屋が見えますが、店を特定する材料が見当たらないので、浅草川沿い花川戸一般の景観として読み解いていきます。

 花川戸のこま絵が描かれる本作品の美人には、明らかにモデルがあります。たとえば、三代豊国・国久『東都三十六景之内 花川戸』(元治元・1864年)には、副題「げいしやおしゆん 市むら羽左衛門」とあって、羽左衛門演ずる芸者お俊が浅草寺と花川戸を背景に描かれています(その他、三代豊国・国綱『江戸名所図会五 花川戸 おしゆん』嘉永5・1852年参照)。つまり、歌舞伎舞踊(清元『其噂桜色時(そのうわささくらのいろどき)』)の『身替りお俊』の女主人公が美人の正体なのです。花川戸に住む芸者お俊が、湯上がりの洗い髪に浴衣を着た色っぽい姿で舞台に登場するところが見所で、それ故、別名「湯上がりお俊」とも言われています。話の大筋は、お俊と相愛の浪人井筒屋伝兵衛が討ち取ろうとしている園生の前がお俊の旧主人であり、事情を知ったお俊が園生の前の「身替り」となることを申し出るというものです。

 この芸者お俊を前提にすれば、美人は次のように読み解けます。すなわち、鏡掛けの前で島田髷に笄を挿す仕草、鏡の横にある箱に入った簪やその下に化粧道具が置いてある様など、いずれも芸者支度を表現するものと考えられます。山田(前掲書p141)は、「美人は、鰻屋の女中」と解しています。しかし、この大きな笄は玄人筋のものです。また、こま絵が早朝の魚の振売りとするならば、寝起きかもしれませんし、「湯上がりお俊」を前提にすれば、湯上り後の様子と見ることになります。結婚を約束したお守り・起請文を入れる「腕守り」が左の二の腕に覗いている点は、恋人伝兵衛を思い起こさせる仕掛けとなっています。肩当てがある、広袖の部屋着と半幅の帯表には高麗屋格子と呼ばれる格子模様が入っています。お俊の相手役伝兵衛を演じた役者を暗示させるものかもしれません。しかしながら、この格子模様が、4代目松本幸四郎が花川戸出身の男伊達・幡随(院)長兵衛を演じた時の衣裳模様と判れば、花川戸を暗示する地域柄として選ばれたと解する方が自然です(『浮世柄比翼稲妻(うきよがらひよくいなずま)』「鈴ヶ森」参照)。

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51「八町堀」

辻屋安兵衛  安政4年12月

資料  「八町堀靈岸嶋日本橋南之繪圖」  江戸百「京橋竹がし」、「鉄炮洲稲荷橋湊神社」


5152 「八丁堀の旦那」という言葉を時代劇でよく耳にしますが、町奉行所の与力・同心のことを指し、八丁堀に組屋敷があったので親しみを込めてそう呼びます。切絵図では、「鎧ノ渡」のある日本橋川、「中ノ橋」のある京橋川、「海賊橋」「弾正橋」のある楓川、霊岸島に対面する亀島川に、四方を囲まれた地域を通称して八丁堀と言います。正確には、江戸城東側の外濠と東方の江戸湾まで通船堀として開削された8丁の一部(5丁)に限ります。八丁堀と言うと「町御組屋敷」のイメージが強いのですが、切絵図を見れば判るとおり、南側半分(本来の八丁堀)は町家が並ぶ地域で、こま絵にも白壁の蔵と材木が立ち並ぶ商家地区が描かれていることに注意が必要です。

 さて、こま絵の白壁に(て)とあるのが目を引きますが、この屋号が誰のものであるのかが読み解きのヒントです。切絵図には原則として武家の名前しか記されていません。しかし、当該地区に関しては、町家・商家も含めて、この地区に住していた渓斎英泉の詳細な絵図があります。『武蔵豊島郡峡田(はたけ)領荏土(えど) 楓川鎧之渡古跡考』(弘化2・1845年)と題され、おそらく、組屋敷の武士に公事方を頼む際の住所手掛かりと併せて名所旧跡などの文化的情報を提供するものとして制作されたのでしょう。切絵図「本八町堀二丁目」にあたる部分とその絵図とを照らし合わせると、「(て)材木店 大坂屋庄三郎」と記載される敷地があります。すなわち、こま絵の白壁の蔵は、当時八丁堀にあった材木商大坂屋の店をまさに表すものであることが判ります。大坂屋庄三郎(本名・久次米兵次郎)は、阿波(徳島藩)の藍商人として江戸に進出し、その財力で紀伊国屋文左衛門を凌駕するほどの材木商になった人物です。こま絵に多くの材木が描かれている理由も、これで合点がいきます。

 前景の美人は、麻の葉と梅の絞りの襦袢を着て、後ろに吊るされている蚊帳から起きだしてきたところと見え、胸元がはだけた、多少冒険的なカットになっています。白の結綿で結われた島田髷の乱れを櫛で直し、口に御簾紙を咥え、左側に置いてある伊万里の水入れで、歯磨き・洗顔などの支度をしているところと思われます。前掲34「かやば町」、前掲50「江戸はし」など近隣を描く作品と同じく、材木商等大店の商人を旦那に持つ芸者風俗を描く作品系列に属します。色っぽい美人姿からこの地域の経済的な豊かさを表現するのが主眼ですが、こま絵との関連では、八丁堀は「茅」場町の隣りに位置するので、「蚊帳」の隣りに美人を置いた判じ物と考えられます。ちなみに、百人美女シリーズでは、こま絵で呉服・化粧品・人形などの店を宣伝している場合、宣伝に徹し、前面の美人姿にそれほど深い含意は込められていないことが多いようです。本作品も、材木商大坂屋の金満振りを単純に表現しているものと見られます。

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50「江戸はし」

藤岡屋慶次郎  安政4年12月

資料  「八町堀靈岸嶋日本橋南之繪圖」  江戸百「日本橋江戸ばし」


5035 『江戸名所図会1』(p157)には、「江戸橋」は、「日本橋の東にありて、伊勢町より本材木町(ほんざいもくちょう)へ行く間に架す。南の橋詰巽(たつみ)の角に船宿あり。江戸のうち諸方への船場なり。また、同所西の方、木更津河岸と字す。房州木更津渡海往還の船ここに集ふゆゑに、名とす」とあります。つまり、江戸諸方への舟運の拠点であることがその特徴と言えます。また、江戸百を見ると、日本橋と江戸橋の南側に広がる四日市河岸の様子が描かれており、同江戸名所図会に「草物または野菜の類、その余乾魚などの市ありて、繁昌の地なり」と記される場所です。房総半島木更津からもたらされる物資も多いのではないでしょうか。その背後の江戸橋の広小路(四日市)には、楊弓場、水茶屋、講釈場、髪結床などがあって、盛り場を成しています。この他に、同江戸百には江戸橋の背後に白壁群が描かれており、これは、小網町の集船問屋の倉庫と判ります。

 こま絵の江戸橋、前景の桟橋に停泊する猪牙船(ちょきぶね)から、本作品が江戸橋南東側にあった船宿(船場)を舞台にしていると理解できます。そして、藍色(作品によっては、分銅繋ぎ)の袷を着た美人は、風呂敷包みと歌川派の年丸紋が入った蛇の目傘を持って船出の様子です。髪型は、前掲42「堀切菖蒲」と同じ三つ輪髷で、髪を三つの山に結うタイプの髷です。山田(前掲書p92)は、「長船」と呼んでいます。中央の山が大きいのがその特徴です。江戸橋の船宿、猪牙船、桟橋などの船イメージに合わせられていて、よく練られた仕掛けです。いずれも玄人筋に流行ったもので、既婚者の典型であった丸髷に似せた髪型という点から、おそらく、美人は妾という設定になっているのだと思われます。江戸橋界隈に水商売関係の店が多いこと、前掲34「かやば町」で触れたとおり、白壁並ぶこの辺り一帯は、妾を囲う金満家が多いことなどの事情とも一致します。

 本作品は、江戸橋辺りの金満家に囲われた妾が船に乗って出かける姿を描くものですが、道中着をしごき帯でしっかり結び、黒の高下駄を履き、大きな荷物・傘まで用意している点で遠出と考えた方がよいでしょう。したがって、桟橋に停まっている猪牙船ではなくて、木更津河岸の木更津船(五大力船)を利用して、房総の別荘・別宅などへ出かけるものと推測されます。ところが、そう理解すると、ここからまた別の世界が見えてくることに注意を要します。すなわち、金満家、美人の妾、木更津の3要素を、江戸の大店の若旦那・与三郎、赤間源左衛門の妾・お富、および木更津での出合いという言葉に変えると、歌舞伎『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』のお富与三郎の物語が浮かんでくるではないですか。本作品は美人絵ですから与三郎(初演は、八代目市川團十郎)は暗示されるに止められていますが、前景美人は明らかにお富を意識した状況設定になっています。江戸橋が、その南西にある木更津河岸、そして木更津を舞台にした歌舞伎お富与三郎を思い起こさせる装置になっていることに気が付けば、前景美人の正体も明らかになります。妾お富の前身ということです。袷の藍色(作品によっては、袷の地にある波模様)は、江戸と木更津の間にある海(の波)を表すものです。また、袷の襟部分から覗く着物の柄が藍地に瓢箪となっているところも、「水に瓢箪」を意味し、移り気な美人を象徴するものなのかもしれません。


*『与話情浮名横櫛』(よわなさけうきなのよこぐし)「切られ与三」

 「え、御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ。 」
 「しがねぇ恋の情けが仇(あだ)命の綱の切れたのをどう取り留めてか 木更津からめぐる月日も三年(みとせ)越し…」などの台詞が有名です。

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49「染井」

藤岡屋慶次郎  安政4年12月

資料  「染井王子巢鴨邉繪圖」  江戸百に対応図版なし


4910 切絵図を見ると、右中央から左下・板橋宿に向かって1本の道があります。これが中山道です。その上部、中山道から本郷で分岐し、飛鳥山・王子を右から左に曲がりくねって抜け、岩槻宿に向かう道が日光御成道です。その日光御成道の下(南)側に「藤堂和泉守」の下屋敷があり、その上(北)側が染井村に当たります。同切絵図には、「此辺染井村植木屋多シ」と注意書きされています。その右側の駒込村にも、「植木屋」、「百姓地ウヘキヤ多シ」などと記され、巣鴨村も含めて、この辺一帯が植木屋の多い地域であることが示唆されます。染井に植木屋が多いのは、郊外の広大な大名庭園(松平時之助、藤堂和泉守、加州侯など)の手入れを地元の百姓に任せたことがその始まりと考えられています。同切絵図に「テンチウトイウ」とあるのも、将軍の生母が訪れ、さながら殿中のようであったことに因む地名です。なお、桜のソメイヨシノは、江戸彼岸桜と大島桜を交配し、染井の地で生まれ、吉野山桜と区別する意味で、ソメイヨシノと名付けられています。

 植木屋の多い染井の事情と、こま絵に描かれる葭簀(よしず)張りの小屋の菊花壇とを重ね合わせて考えると、これは染井の植木屋で行われる観菊風景を表わしていることが判ります。たとえば、『定本武江年表中』(p339)は、弘化元年の条に、「十月より巣鴨染井、菊の造り物再び始る」とあり、文化より主に花壇のみであったのが、今年は造り物が復活し、さらに弘化2年には、白山・駒込・根津・谷中に至るまで造り物が広がった旨の記述があります。「貴賎の見物、日毎に群集し、猶年々に造りしが、嘉永の今にいたりて少しくおとろへたり」ともあります。また、斎藤月岑『東都歳時記』には、9月の風物として、「染井看菊(きくみ)」の図版紹介があります。こま絵では把握しにくい状況が、当図版で補足できます(その他、広重『絵本江戸土産5編』「染井植木屋」参照)。つまり、染井のこま絵は、9月9日の重陽(菊)の節句の頃の観菊が、前景美人の読み解きのヒントになっているということを物語っています。

 島田髷の美人は、表着も中着も縞模様で、伊達締め(下帯)しかしていません。解いた帯は部屋の中に置かれ、懐紙と手鏡がその上にあります。おそらく、染井の菊花壇を見物して自宅に帰ってきたところと思われます。左下に描かれる桶の水、手にする手拭いを使って汚れた足を拭いているところです。この美人が足を拭う姿が本作品の眼目であることは間違いないでしょう。久米仙人の故事以来、美人が覗かせるふくらはぎは健康美の象徴です。この1点を表現するために、郊外の染井での菊見がダシに使われたのかもしれません。「手入れしたよりも野菊が御意(ぎょい)に入り」といったところです。さらに深読みすれば、美人が振り向いている姿は、こま絵の「菊」に、呼び声を「聞く」を掛けた判じ物と読み解くことができます。

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48「築地門跡」

藤岡屋慶次郎  安政4年11月

資料  「京橋南築地鐵炮洲繪圖」  江戸百「鉄炮洲築地門跡」


48100 『江戸名所図会1』(p205)には、「西本願寺」として、「同所(築地稲葉侯別荘・江風山月楼)、川を隔てて北の方にあり。俗に、築地の門跡とよべり。一向派にして、京都西六条よりの輪番所なり。塔頭五十七宇あり」とあります。こま絵は、鉄炮洲の内側を埋め立て築地と名付けられた場所に建つ、本堂の大屋根を描いていて、菊の御紋が皇族に繋がった位の高い寺院であり、門跡と呼ばれる所以を表しています。江戸百を見れば判るとおり、日本各地から江戸湊に大型船で運ばれてくる物資を小型船に積み替える場所が築地の海岸辺りで、本堂の大屋根はちょうど海上からの目印にもなっていました。ただし、本作品制作当時、大屋根は安政地震の翌年の台風被害によって倒壊しており、こま絵の風景は実景ではありません。翌年の安政5年に至って初めて本堂大屋根の修復は完了します。

 同じ本願寺でも、前掲6「東本願寺」では報恩講の美人が画題になっていましたが、本作品ではかなり趣を異にしています。紺地の着物に白い笈摺(おいずり)を着て、手に手甲、足は脚絆足袋に草鞋履き、右手に柄杓、右腕に数珠、左手に納経帳(朱印帳)を持っていて、これは明らかに巡礼姿ということができます。美人が背負う網代に編まれた葛籠も旅の荷物などを入れるもので、巡礼に必須の道具です。また、眉を剃り、お歯黒をし、帯は「八つ捻じ瓢(ひさご)」、中着は楓模様になっていて、既婚の年配者という設定です。また、髪は島田髷ですが、未婚者ではないので、関西で後家島田と呼ばれるタイプのものと想定されます。つまり、夫を亡くした妻の巡礼姿と見ることができるということです。

 本作品右側には、「きんかん」と蜜柑が参詣帰りのお土産として売られている様子が描かれ、境内ないしは門前の屋台風景が挿入されています。山田(前掲書p221)は、紀伊国屋文左衛門の名を挙げて、江戸の蜜柑が紀州産であることから前景美人が紀州出身であると暗示していると読み解いています。しかし、やや強引な結論です。紀州産の蜜柑が売られ、また関西で後家島田と呼ばれる髪型をした巡礼者がいるのは、この場所が「西」本願寺であるからです。単なる地口ではなく、そもそも築地門跡は、大坂出身者が移住した佃島の門徒達を中心として浅草から移転・再建された歴史があることを忘れてはなりません。言い方を変えれば、築地門跡は京都ゆかりの寺院で、西方極楽浄土の宗教的な出入口であり、海路においても大坂など関西との経済的出入口に位置するということで、関西出身の巡礼の美人と紀州産の蜜柑を合わせて描いているということです。キーワードは、西ということです。

 さらに、前掲6「東本願寺」との対比の観点では、同「東本願寺」が御講のお見合いを題材に将来の結婚など新生活への旅立ち・人生の春夏を謳っているのに対して、「築地門跡」は離別・往生を題材に巡礼への旅立ち・人生の秋冬を表現しています。この点で、蜜柑・金柑も秋冬の季節の果物として選ばれているとも考えられます。なお、巡礼が終わった後、庶民は物見遊山を兼ねて帰路に就きました。つまり、美人は江戸見物も日程に入れていたと思われます。

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47「小石川牛天神」

山本屋平吉  安政4年11月

資料  「東都小石川繪圖」、「小石川谷中本郷繪圖」  江戸百に対応図版なし


4799 『江戸名所図会4』(p161)には、「牛天神社」は、「小石川上水堀の端にあり。一に金杉天神とも称す。この地を金杉と唱ふるによりてしか号く。別当は天台宗にして泉松山龍門寺と号す」とあります。さらに、菅原道真が牛に乗って現れ、源頼朝に2つの幸運(頼家誕生、平家追討)をもたらしたことから、この地に天満宮が勧請されたとあり、その伝説に因んだ「牛石」と呼ばれる巨石が、本社の裏門、坂の下り口隅の方にあるので、牛天神と呼ばれています(同江戸名所図会p164)。なお、水戸藩上屋敷の西隣りという位置関係にあります。同江戸名所図会掲載図版「牛天神社 牛石 諏訪明神社」(p162~p163)を参照すると、こま絵は、表門から急石段と本社を望む構図と思われます。

 前景の美人は、お歯黒は見えませんが、眉を剃り、髪は切髪になっているので、夫を亡くした後室(未亡人)と考えられます。着物は紫地、帯は緋色の幸菱繋ぎに法相華模様、打掛は鳳凰に牡丹唐草の総柄、いずれも高級感があって、美人は小石川辺りに屋敷のあった、身分の高い旗本など武家の家柄かと想定されます。左手に香炉を持って香を聞いています。膝の前にある道具類は、香炉・香箸・火箸(こじ)・香匙(こうすくい)・銀葉挟(ぎんようばさみ)・鶯・羽箒(はぼうき)・灰押(はいおし)、硯などですが、「一、二、三」と書かれた香包みが並んでいるので、何人か集まって、組香の席を楽しんでいるように思われます。武士階級の女性ならば、茶道、華道、香道などは教養の1つとして身に付けるものですが、後掲61「いひ田まち」、後掲62「するがだい」の若い美人が行う茶道、華道とは異なって、本作品には優雅な落ち着いた雰囲気が示されています。

 さて、問題は小石川牛天神と聞香との関係です。天神と言えば梅、そして梅と言えば鶯となります。実際、切絵図の牛天神の近くに、「明地 此下ヲウクヒスタニト云」という記載があって、鶯の声を聞き、楽しめる場所であることが判ります。香道においても、香を焚いた後の香包みを刺し止めておく針のことを鶯と呼び、本作品の美人は、聞香の後、鶯を使うことになります。この点から、牛天神と香道具の鶯を掛けている印象があります。では、なぜ、切髪の後室を作品の中心に据えたのでしょうか。牛天神・別当龍門寺は天台宗(法華経)ですが、仏門に入った後室が法華経を唱えている姿を捉えて、「ホケキョー」と鳴く鶯に喩えているからではないでしょうか。香道具というよりは、聞香に集う後室の美人こそ、梅の香りに集まる鶯に擬えられているということです。着物の総柄も、花に集まる鳥の図で、これも梅香に集まる鶯を暗示するものと理解できます。

 「飽かなくに折れるばかりぞ梅の花 香をたづねてぞ鶯の鳴く」(『続後拾遺集』)

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46「根岸」

藤岡屋慶次郎  安政4年11月

資料  「根岸谷中日里豊島圖」  江戸百に対応図版なし


4697 「根岸」について、『江戸名所図会5』掲載図版(p348~p349)の書き入れには、「呉竹の根岸の里は、上野の山蔭にして幽趣あるか故にや、都下の遊人多くはこゝに隠棲す。花になく鶯、水にすむ蛙も、ともにこの地に産するもの、其声ひとふしありて世に賞愛せられはへり」とあり、上野山の北麓に位置し、文人墨客が優雅に世を過ごす地であると謳われています。こま絵の情景は、広重『絵本江戸土産5編』「根岸の里」とほぼ共通していて、特定の施設を描くというよりは、根岸の里の別荘風景一般を、前景美人を読み解くヒントとして提示していると考えられます。建仁寺垣に囲まれた2階屋の門前で、「遊人」が近隣の住人と何か話をしている様子などが見えます。竹垣、松、杉などの緑が強調されているので、夏の兆しが感じられます。故に、空に飛ぶ鳥は時鳥(ほととぎす)と推測されましょうか。

 前景美人は、二枚重ねの大きな敷き布団と掻巻(かいまき)の掛け布団の間から身を起こして、何か聴き耳を立てているように見えます。袖と襟が小紋の梅柄になっている、藍摺の絞りの夜着を身に付け、襦袢の襟は藍の卍崩し模様、身頃は緋の総鹿の子絞りといった具合で、富裕な様子が窺えます。そして、遊女張りに長煙管を握る粋な姿は、玄人筋を想像させます。金網の付いた金蒔絵の煙草盆とやはり蒔絵の入った箱枕なども、美人が普通の内儀ではないことを物語っています。髪型は手古舞島田風です(前掲23「山王御宮」)。山田(前掲書p216)は後家島田髷(略式)の未亡人と見ていますが、切髪(後掲47「小石川牛天神」)からやや時を経た状態なのでしょう。眉を剃り、お歯黒をしているので、芸者・花魁上がりの内儀か、根岸の里という場所柄、妾かもしれません。江戸時代、向島や根岸の別宅・別荘は、妾暮らしの生活圏という認識が一般的です。

 一人寝の朝、時鳥の鳴く声に目を覚まし、もうそんな季節かと夏の兆しを感じた一瞬を描いたものです。根岸は時鳥の初鳴きの里としても有名です。前掲江戸名所図会図版に「花になく鶯」という書き入れがあるので、鶯の初鳴きという見解もありえますが、こま絵との季節感の一致を考えるとここは時鳥でしょう。こま絵で住人が話題にしているのも、時鳥の初鳴きを聴きましたかなどではないでしょうか。

 「初かりのいなほにおつる声はあれと うゑし田の面になく郭公」(4月の風物、斎藤月岑『東都歳時記』天保9・1839年)

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45「堀の内祖師堂」

丸屋久四郎  安政4年11月

資料  「東都近郊全圖」  江戸百に対応図版なし


4592 ここで言う「堀の内」は今戸橋の架かる山谷堀ではなく、東都近郊全圖に沿って話を進めると、青梅街道の宿場町中野の南西近郊にある「堀ノ内」のことで、「祖師堂」は「妙法寺」を指します。『江戸名所図会4』(p62)には、「日円山妙法寺」として、「堀の内村にあり。日蓮宗一致派にして、すこぶる盛大の寺院たり。宗祖日蓮大士の霊像は世に厄除の御影と称す。日朗上人の作にして、その先は碑文谷の妙法華寺にありしを、元禄の頃、ゆゑありて法華寺を天台宗に改められし頃、この霊像をば当寺に移しまゐらすといへり」と記されています。また、「当寺は遥かに都下を離れたりといへども、霊験著きゆゑに、諸人遠きを厭はずして、歩行を運び渇仰(かつごう)す。毎年七月法華千部、十月十三日御影供(みえいぐ)を修行す。その間群参稲麻のごとし」ともあります。同江戸名所図会掲載図版「堀の内妙法寺」(p64~p65)と対照すると、こま絵は楼門から祖師堂屋根を狙った構図と思われます。

 同江戸名所図会掲載図版には、「都鄙の貴賤日毎にこゝに詣して、百度参等片時絶る事なし」という記述があって、これと前景の美人の様子とを照らし合わせると、お百度を踏んでいる姿であることが判ります。お百度は、寺の門から祖師堂、本堂にお参りし、再び門まで歩いてそれを100回繰り返すものです。仔細に見ると、美人は襟に長い玉数珠をかけ、草履の鼻緒は赤い布で縛って脱げないようにしています。また、手に持っているのは銭緡(ぜにさし)で、本来は銅銭を100枚単位でまとめるための藁紐ですが、ちょうど100枚単位なのでお百度の回数を数えるために使われます。美人の髪は、既婚者が結う丸髷で、剃ったばかりの眉にお歯黒なので、新妻なのかもしれません。着物は網代模様、帯は藍染の亀甲型に鶴模様でいずれも地味な印象ですが、これもお百度に合わせた装いということができます。

 落語「堀の内」は、あわて者の熊五郎が女房の提案で「堀の内の御祖師様」へ毎日お参りに行く話で、一般庶民の信仰心がいかに熱烈であったかをよく示す事例です。同江戸名所図会(p63)によれば、日蓮上人(40歳)が伊豆に配流になった際、弟子の日朗が上人の真像を手刻し赦免を起請したところ、上人42歳にして無事に還ることができたことから、この木像が厄除けの本尊(霊像)になったという経緯が記載されています。この点から考えると、長旅に出た亭主が無事に還ってくるように祈っている美人なのかもしれません。

 ただし、本作品の右側に、「名物 粟(あわ)の水あめ」という札があって、樽に入った水飴を桧の曲げ物や藁に包んだ壺に小分けして売っている様子が描かれています。門前や中野坂辺りで名物として知られた、妙法寺参詣者へのお土産ということなのでしょうが、単なる宣伝と解するだけでは不十分です。なぜならば、当時、飴屋の看板と言えば、渦巻きもしくは同心円の意匠であると気が付けば、お百度を踏む様子と飴屋の意匠とが似ていることに掛けてあると考えられるからです。お百度を飴屋で解く判じ物です(こま絵に飴屋を描いている、後掲96「今川はし」参照)。

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44「上野東叡山」

丸屋久四郎  安政4年11月

資料  「東都下谷繪圖」  江戸百「上野清水堂不忍ノ池」、「上野山した」、「上野山内月のまつ」


4491 「上野東叡山」は、『江戸名所図会5』(p53)には、「東叡山寛永寺」として、「円頓院と号す。人皇百九代後水尾帝の御宇、寛永年中比叡山延暦寺に比せられ、江城の鬼門を護るの霊区として、慈眼大師草創あり」とあります。天台宗寺院として、徳川家の菩提寺であり、8名の将軍の霊が御霊屋に祀られています。こま絵の2階建ての朱門は、「文珠楼」(同江戸名所図会p70)もしくは「吉祥閣」(切絵図)でしょうか、いずれにせよ、桜花に囲まれた春の上野東叡山を象徴する風景が描かれています。将軍の御霊屋があるので、前掲29「しのはず弁天」で触れたように、大奥女中の代参と出会茶屋での密会などが画題になってもおかしくないのですが、本作品の美人の髪型は大奥女中の典型的な髷である片はずしではなく、島田くずし(山田・前掲書p204は女夫【めおと】髷)のようなので、別の観点から読み解くことが必要です。

 美人は眉を剃り、お歯黒をし、落ち着いた装いの着物と帯を付け、隣の少女と一緒にいる姿は一見母子のようです。しかしながら、気になるのは、黒地の着物の胸と袖に付いている紋のデザインです。筆、おさらい帳、習字の手本を重ねた家紋と見え、これをヒントにすると、美人は手習い(寺子屋)の師匠と考えられます。とすると、髪を銀杏くずしに結い、麻の葉柄の着物を着る右隣の少女は、手習いの生徒の1人と捉えたほうがよいでしょう。では、手習いの師匠一行は上野の山に花見(だけ)に来たのでしょうか。ここで作品右下の立札(金札)が重要な役割を果たします。

 寛永寺内のいくつかの施設を念頭に置いて推理すると、立札の文字は、「両大師 (執事)」と読むべきことが判ります。切絵図では、「御本坊」正面に向かって右側に「慈眼(じげん)堂」がありますが、同江戸名所図絵(p84)によれば、「開山堂」が正式名称で、「屏風坂の上にあり。開山慈眼大師の影堂なり」とあります。この開山堂は、寛永寺を開山した慈眼大師天海僧正を祀っている所で、天海僧正が尊崇していた慈惠大師良源(じえだいしりょうげん)僧正も祀っているところから、一般に「両大師」と呼ばれています。そして、両大師像の所在を表すために、立札が門前に立てられていました(同江戸名所図会掲載図版「両大師遷座」p90~p91参照)。つまり、手習いの師匠等は、開山堂(慈眼堂)の門前にあった両大師の立札の前にいることになります。なお、開山堂の初建は慈眼大師の亡くなった翌年・正保元(1644)年で、現在の堂は現・輪王寺の地に平成5(1993)年に再建されています。

 次に、手習いの師弟がなぜ開山堂にお詣りするのかですが、天海僧正が将軍徳川家康の参謀であり、かつ、将軍3代に亘って仕えたことから「知恵」と「長寿」、慈恵大師が度々災厄を免れてきたことから「厄除け」の御利益があると信じられていたことに起因すると考えられます。手習いの師匠一行は、健やかな成長ととくに手習いの向上を祈るために、開山堂に参詣しているのです。少女の指差す先にいるその他の生徒を、師匠は扇子を目印に呼び集めているのかもしれません。

 ちなみに、島田くずしは、島田髷のアレンジの一つで、根を低く取り、根元にクッションを入れないため髷に水引を掛けると髷の前方部分の真ん中が潰れて凹むのが特徴です。その崩れた印象から粋筋に結われたものです。本作品の美人も、帯に差した煙管や着物の裾模様、帯柄などの佇まいからすると、ただの内儀や未亡人ではないのかもしれません。

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43「三縁山増上寺」

上州屋金蔵  安政4年11月

資料  「口南西久保愛下之圖」  江戸百「増上寺塔赤羽根」


4390 『江戸名所図会1』(p222)には、「三縁山増上寺」は、「広度院と号す。関東浄家の総本寺、十八檀林の冠首にして、盛大の仏域たり」とあります。徳川家康によって創建され、上野寛永寺(天台宗)と並んで、徳川家の菩提寺となっていることが重要です。徳川家の墓所は、本堂の北側に、6代家宣(分昭院)、7代家継(有章院)、9代家重(惇信院)、12代家慶(慎徳院)、14代家茂(昭徳院)、および生母・夫人、南側に、2代秀忠(台徳院)および夫人が埋葬されています。同江戸名所図会掲載図版「三縁山増上寺」(p223~228)と切絵図を参照すると、こま絵は、山門、本堂屋根と五重の塔を描いていることが判ります。

 江戸百作品には安政4年1月の改印がありますが、作品の意図に関して、安政地震によって被災した御霊屋(将軍の墓所)の修復が久留米・有馬家によって行われ、安政3年12月に引渡しがなされたことが動機であるとの見解があります(原信田実『謎解き 広重・江戸百』集英社新書p88)。本作品制作の安政4年11月時点でも、同様に、「三縁山増上寺」からは御霊屋の修復完了という事実が読み取られるべきなのではないでしょうか。こま絵を上記のように理解すれば、前景の美人はその御霊屋へ参詣する姿と自然に導き出されます。その装いは、片はずしの髷に揚帽子を被り(前掲6「東本願寺」参照)、典型的な寺社への参拝・外出姿です。また、前掲29「しのはず弁天」の奥女中に、赤の中着と「水に槌車」の総柄の表着(打掛)を着せれば本作品の美人となり、そのことから前景美人が奥女中であることが確認されます。同「しのはず弁天」の奥女中と比べると、眉を剃り、お歯黒をしている点で、成人した武家の年配者であることが想像され、年寄、上﨟、中臈などの上級女中でしょうか。以上を総括すると、命日やお盆などに将軍家に代わってお参りする、代参の奥女中を描いたものであることが読み解けます。

 本作品は、増上寺山門前の石垣辺りに立つ、代参の奥女中ということになりますが、もう少し深読みができないでしょうか。表着の「水に槌車」の総柄は、もともとは水車(の羽根)から発展した魔を払う縁起の良いデザインです。こま絵に描かれる五重の塔の左手に有馬の水天宮があることは周知の事実ですから、それを重ね合わせると、代参後、水天宮に立ち寄ることを暗示しているのかもしれません。ただし、水天宮については、前掲16「赤羽根水天宮」で一度画題として採り上げているので、新鮮味に欠けるのは間違いありません。

 ところで、寛永寺と増上寺の御霊屋への代参それ自体に関しては、「江島生島事件」という幕政上あまりにも有名な事件があります。すなわち、月光院(7代将軍の生母)の代参役を年寄江(絵)島が勤めた帰路、一同が恒例の芝居見物として木挽町の山村座を訪れ、挨拶の役者生島新五郎を交えての宴会に夢中になり、大奥門限に遅れて帰城したという「江島生島事件」です。その結果、江島と生島はもちろんのこと、1400人を超える大奥関係者が粛清されたのです。山村座の廃止や懐月堂派の浮世絵師の追放など、芝居小屋・浮世絵関係者にも多大な影響を与えました。事件の政治的重大性を考えると、本作品がそのことを直接揶揄する意図があると解することには慎重でなければなりませんが、本作品において代参の奥女中が上役であることを考えると、まったく無関係であるとは思えません。大奥女中の代参には、前掲29「しのはず弁天」の出会茶屋の一件を考えても、少なくとも大奥スキャンダルの臭いがするという観点は踏まえておく必要があるということです。この江島生島事件は、結果として、8代将軍徳川吉宗の誕生に繋がることになります。

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42「堀切菖蒲」

山口屋藤兵衛  安政4年11月

資料  「隅田川向嶋繪圖」  江戸百「堀切の花菖蒲」


4289 切絵図上、右下から左上に斜めに走る川が(古)綾瀬川で、その隅田川河口から数えて2つ目の橋を越えたところに、「堀切村 百姓伊右エ門 花菖蒲之名所ナリ」と記されています。これが、こま絵の「堀切菖蒲」に当たります。水路に石橋が架かり、小山の上に葭簀張りの茶屋らしき施設が見え、左側には屋敷廊下が描かれています。近隣の水神の境内には八百松、木母寺境内には植半などの有名料理屋があるという環境です。広重『絵本江戸土産7編』「堀切の里花菖蒲」には、以下の解説が付されています。すなわち、「綾瀬川の東(ママ)にあり、数万株(すうまんちゅう)の花菖蒲(はなあやめ)。その色更に数を知らず。眺望類ひあらざれば、毎年卯月下浣(すえつかた)より皐月に至りて、遠きを厭わす船に乗り、箯(あんだ)に駕して、都下の美女(たおやめ)、競ふときは、いつれか花と見紛ふはかり、水陸の遊観なり」と。

 本作品は、湿地帯の中に花菖蒲が咲く夏の風物詩を素材としており、足元の草履から判断すると、船や駕籠を使ってここに訪れたであろう「都下の美人」を表現するものであることが判ります。前景美人はお歯黒をし眉毛を剃っているので既婚女性ですが、江戸時代の代表的な既婚女性の丸髷を結っていないところが読み解きの手掛かりです。美人の髪型は三つ輪髷で、見た目は丸髷に似ていますが、多くの場合、正式な妻でない女主人(妾)などが世間に遠慮して結う髪型である点が特徴です。また、堀切のある向島が、大店の旦那衆が茶屋や料亭の経営をそのような女性に任せ、かつ別宅を構える地域であるという特性を考えると、美人は、金満家の別宅辺りからやってきた女主人と推測されましょうか。着物は鹿の子の総絞り風の型染め(匹田鹿の子)で、帯は宝相華模様です。前帯を締めているのは、裕福な身分の女主人の外出姿でありますが、元芸者・元遊女であったことをも暗示させているのではないでしょうか。

 堀切の花菖蒲園に立つ美人を描いた本作品の趣向はどこにあるのかが、最後の問題です。これは広重の前掲図版の解説が答えを出しています。すなわち、「都下の美女、競ふときは、いつれか花と見紛ふはかり」という観点です。前景美人が花菖蒲に見立てられているということです。着物地と裏地、帯の紫は花菖蒲の色に合わせたものですし、帯と手に持つ扇の三角形は花菖蒲の花の形を意識したものです。そもそも花菖蒲自体が絞りを連想させる花形です。

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41「墨水花臺」

山本屋平吉  安政4年11月

資料  「隅田川向嶋繪圖」  江戸百「墨田河塲の渡かわら竃」、「真乳山山谷堀夜景」、「吾妻橋金龍山遠望」


4187 こま絵の「墨水」は隅田川、「花臺」は桜が植えられた台地(堤防)を意味していると思われます。慶長の頃(1596年~1615年)、幕府は、向島や本所を洪水から守るために隅田川東岸に大堤防を築きましたが、そこに8代将軍徳川吉宗が桜を植えさせた結果、庶民のための桜の名所が生まれました。切絵図をみると、木母寺辺りから水戸下屋敷に掛けて桜の樹林が描かれているのが判ります。こま絵をさらに詳細に眺めると、川岸に屋根船ともう一艘の船があり、堤防の急な石段の上には石造りの鳥居の頭が覗いています。また、墨堤の下流方向には橋も描かれているようです。この風景は、竹屋の渡しとその堤防の背後にあった三囲稲荷の石鳥居であることは間違いなく、遠方の橋は吾妻橋と特定できます。つまり、こま絵は、三囲稲荷辺りの桜咲く墨堤を前景美人の読み解きのヒントとして提示しているということです。

 『江戸名所図会6』(p186)には、「三囲稲荷(みめぐりいなり)社」として、「小梅村、田の中にあり(ゆゑに田中の稲荷ともいふ)」、「文和年間【1352ー56年】、三井寺の源慶僧都再興す」とあります。同江戸名所図会掲載図版「三圍稲荷社」(p184~p185)の書き入れには、「元禄の頃、當社の境内に一老嫗あり。参詣の徒神供をさゝくる時、この老嫗田面にむかひ拍掌(てをうて)は、一つの狐いつくともなく来り、これを食ふ。老嫗世にあらすなりしより後は、狐もまた出すとなり」という伝説が紹介され、これを受けて、芭蕉の弟子の其角の次の俳句が記されています。すなわち、「早稲酒やきつねよひ出す姥かもと」と。もともと三囲稲荷の名称にも狐が係わっており、先の源慶僧都が社を再建する際、社殿の下から白狐の背に老翁がまたがっている神像が現れ、やがて生身の白狐に変じて社殿を3度回って消え去ったと伝えられています。よって、「三囲」と呼ばれるようになったということです。

 稲荷神社ですから、狐と縁が深いことは言うまでもありませんが(前掲18「妻恋稲荷」、前掲37「王子稲荷」参照)、神供を捧げると狐が現れる伝説やそれを詠んだ其角の俳句を前提にすれば、前景美人の姿態の意味も読み解けそうです。美人は、頭に梅模様の手拭いを被り、肩に三味線を担ぎ、左手で何か振りを付け、唄い踊っている様子です。花見の酒席で酔っぱらい、しごき帯も緩んで、黒花柄の小紋の着物の前合わせが開く程、いい気分であることが判ります。お歯黒、剃りたての青い眉毛、半四郎下駄などから察すると、玄人筋から内儀になり、旦那などと花見の宴を楽しんでいる様子と思われます。美人の右側には、寿酒の酒樽、角樽(つのだる)が積まれていて、これは其角の「早稲酒」の句を想起させる仕掛けと考えなければなりません。三囲稲荷近くの墨堤で花見の酒宴を楽しんでいる美人を、神供の酒を飲みに来た三囲稲荷の狐に擬えて描いた作品です。其角の句の早稲酒は秋の季語ですが、ここは桜の春に変えて表現しています。つまりは、酔った美人を狐に取り憑かれた姿と見ているということです。なお、樽酒の左下辺りに、「ト」と「ヨ」を組み合わせた意匠がありますが、おそらく、トヨ(豊)国の隠し落款かと思われます。

 ちなみに、三囲稲荷は雨乞いの神社でもあって、やはり参詣した其角が雨乞いの発句として「夕立や田をみめぐりの神ならば」と詠んだところ、あくる日に雨が降ったという雨乞い成就の事績がよく知られています。それに関連する作品も別に百人美女にはありますが、詳細は後掲53「三圍」で解説します。

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40「大師河原」

藤岡屋慶次郎  安政4年11月

資料  「東都近郊全圖」  江戸百に対応図版なし


4085 「大師河原」は品川宿を過ぎ、多摩川の六郷渡しを越え、そこからは東海道を分岐して西方向に行ったところにあり、平間寺(現在の川崎大師)があったことで有名です。「東都近郊全圖」には「大師」、『東海木曾兩道中懷寳圖鑑』には「厄よけ大師」と記載されています。『江戸名所図会2』(p188)には、「厄除大師堂」として、「当寺に安置せし大師の霊像は、この地より出現ありしゆゑに、その地を大師河原と号す」、「弘法大師の真作にして、海中より出現ありしゆゑ、仏体ことごとく貝殻相著きてあり」とあります。また、「霊応著しく、つねに詣人絶ゆることなし。正・五・九月の二十一日、別して三月二十一日は御影供修行あるゆゑに、おほいに賑はへり」とあります。こま絵は、同江戸名所図会掲載図版「大師河原大師堂」(p190~p191)が元絵と考えられ、本堂、鐘楼、提灯がぶら下がった茶屋が抜き描きされています。

 前景の美人は、日帰りの行楽地でもあった厄除大師に駕籠でやって来て、門前あるいは境内の茶屋で一休みしている風情です。美人はお歯黒をし、男物仕立ての煙管と煙草入れを持っているので旦那連れの女将さんかもしれません。埃除けの手拭いを姉さん被りして煙管を持つ姿には、気風の良さが滲み出ています。笹色紅をしているのか(山田・前掲書p192)、お歯黒なのか判然としませんが、粋な着こなしや煙管を持つ構えなどから、いずれにしても、元売れっ子芸者などの玄人筋と考えて差し支えないでしょう。

 本作品に先行して三代豊国『通小町』(嘉永6・1853年)と題する1点があります。駕籠を使った構図や煙管などの道具立て、そして年増美人のポーズにかなりの共通性があります。通小町は、男が牛車で女のもとへ百日通いをする行為を、女が駕籠で寺社へお百度する様子に読み替えた作品です。本作品の美女も、先行作品と同様に、この通小町に見立てられていると考られます。粋な女将さんの厄除大師への参詣姿ですが、駕籠を牛車に、駕籠の床を牛車の榻(しじ)に擬えているのです。駕籠の床の前部分が覆いから外されているのは、その部分を牛車の榻に見せようとする明確な意図があるということです。また、男に絡んだ厄落としのために参詣したことが暗示され、なかなか意味深な作品ということができます。男物仕立ての装いも、この点に意味があるのかもしれません。芸者時代の人間関係をきれいに清算したいのか、はたまた、旦那との関係を解消したいなんてことはないでしょうね?

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39「木場」

湊屋小兵衛  安政4年11月

資料  「本所深川絵圖」  江戸百「深川木場」


3983 江戸で頻繁に起こる火事によって材木商は大きな利益を得る一方、材木置場自体が火事の温床ともなるので、元禄14(1701)年、江戸中心部からかなり離れた深川の海岸線近くに材木置場が移転され、それに合わせ、材木問屋も移転し、材木市場が開かれました。これが、木場成立と命名の由来です。材木商と言えば、紀伊国屋文左衛門、奈良屋茂左衛門、河村瑞軒などが有名で、多くの逸話を残しています。こま絵に描かれる木場は、切絵図を参照すると、四方を土手に囲まれた造成地に掘割があり、橋で繋がれ、そこには贅沢な邸宅や庭園が並び、水郷風景の名所と見ることができます(『江戸名所図会6』掲載図版「深川木塲」p38~p39)。

 深川芸者の男勝りで粋な気質は、この木場で働く男達の荒い気性と「気っ風」のよさを受けて成立したもので、当然、同じ深川木場の前景美人を読み解く際にもこの視点は重要です。まず目を引くのは、藍色の絞りの浴衣の模様で、太い綱の付いた船の大きな錨が描かれています。船を止める錨を背負った美人は、とてもかよわい女性には見えません。湯屋帰りの様子で、洗い晒しの髪を使用済みの糠袋を芯にして櫛だけで巻き上げ(櫛巻き)、肩に手拭いを掛けて、簪も挿す途中と見えます。緩く結んだ帯の赤色が数少ない女らしいところですが、湯文字(襦袢?)まで覗かせています。黒い鼻緒の下駄姿とも合わせ、男勝りを絵に描いたような印象です。確かに、周りの男達から「姉御」と呼ばれていたに違いありません。材木商ではなく、川並鳶(材木の管理・運搬などに携わった者)、筏師、木挽職人、荷揚人足などの女将と見るべきでしょう。

 ところで、画中右側に色とりどりの小切れを下げた竹竿が描かれ、布の上には埃よけの風呂敷が掛けられています。これは、「竹馬きれ売り」、「竹馬古着屋」と呼ばれ、古着の小布を木馬状の台に掛け、肩に担いで売り歩く商売です(三谷一馬『彩色江戸物売図絵』中公文庫・1996、p264)。紐など小物の材料を安く提供し、女性には喜ばれる商いです。木場の姉御も、湯文字を覗かせる程慌てて、竹馬きれ売りを呼び止めている風情と解することができます。これには含意があって、古着の小布が掛けられた「布(きれ)の馬」の傍らに立つ深川の姉御、すなわち、「木場」の女と読み解くことが可能です。地口としての完成度はともかく、この「馬」にはさらに読み解きのヒントが隠されています。

 この木場の姉御の名前は、たぶん、「お兼」です。なぜならば、文化10(1813)年6月、森田座で7代目市川團十郎が初演した、歌舞伎舞踊『閏茲姿八景(またここにすがたはっけい)』(晒女、團十郎娘)の「近江のお兼」がモデルになっていると考えられるからです。同歌舞伎は、たらいを持ったお兼が手綱を高下駄で踏み、荒れ馬を押さえるところから始まります。風呂帰りの浴衣姿の前景美人が肩に手拭いを掛け、帯は解けかかり、湯文字まで出して下駄で踏み出す様は、近江のお兼の舞台(浮世絵)を彷彿とさせます。竹馬を馬に擬え、それを呼び止めた姉御を馬を止めた近江のお兼に見立てているということです。船を止める錨模様が、馬を止めた近江のお兼の暗号になっていたようです。

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38「あすかやま」

藤岡屋慶次郎  安政4年11月

資料  「染井王子巢鴨邊繪圖」  江戸百「飛鳥山北の眺望」


3879 飛鳥山は、上野の山から西北へ、諏訪の台と道灌山を経て伸びた台地の上にあって、切絵図に「此所ヨリ筑波山見ユ」とあるように、東方に広がった眺望に勝れた場所です。『江戸名所図会5』(p157)には、「数万歩に越えたる芝生の丘山にして、春花・秋草・夏涼・冬雪眺めあるの勝地なり」とあり、飛鳥の祠があったので飛鳥山と呼ばれた旨が記されています。さらに、8代将軍徳川吉宗の命によって、「桜樹数千株を植ゑさせらる」、「ことにきさらぎ・やよひの頃は桜花爛漫として尋常の観にあらず」と続きます。こま絵の風景は、まさにこの春・桜の季節を描くもので、同江戸名所図会掲載図版「飛鳥山全圖」(p160~p163)を参照すると、飛鳥山の歴史を語る石碑と途中の料理屋辺りを描いているようです。なお、こま絵に描かれている石碑には、飛鳥山はそこに飛鳥の祠があったことが命名の由来であり、また飛鳥の祠は紀伊国(熊野)の神を祀っていることが記されています(同江戸名所図会p158参照)。

 前景の美人は飛鳥山での花見姿です。やや離れた飛鳥山まで歩いてきたので、草履を脱ぎ、花茣蓙に立って、懐紙に挟んだ手鏡を持ち、化粧を直しています。着物の「三つ杵」の紋が目に付きますが、これは長唄家元杵屋の家紋です。つまり、この美人は杵屋流長唄の師匠筋と思われ、裾に散らされた杵模様、中着の三味線の駒と巻いた糸の模様も長唄とその道具三味線に因んだものと判ります。帯は宝巻模様に「竹と膨(ふく)ら雀」が描かれており、芸者などの花柳界を暗示しているものです(前掲21「深川八幡」、前掲24「新吉原満花」参照)。花茣蓙左側の煙草盆、茶碗から察するところ、旦那と同伴しているようです。髪型については、これを天神髷とする見解(ポーラ文化研究所図録p135)に従います。吉原が流行の出発点となった髪型なので、芸者上がりの美人師匠かと思われ、商家の旦那衆などを弟子にとって長唄を教えているのだと想像できます。

 長唄杵屋の師匠である美人とこま絵との関連は、桜に重心を置くと、たとえば、『義経千本桜』「道行初音旅」などの見立てと解く流れになりますが、既述したように、飛鳥山が紀伊国(熊野)の神にゆかりするという観点で評価・推論すると、杵屋の美人師匠こそ杵=紀の女(かみ)と言い換えることができることに気が付きます。つまり、前景美人は飛鳥明神に見立てられているということです。飛鳥山だけではなく、王子稲荷や音無川など一帯が紀伊国に見立てられたリゾート地域であることを前提とした、一種判じ物とも考えられます。ちなみに、鏡を覗く美人姿は歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』7段目「一力茶屋」の場面で、密書を覗き見る芸者お軽を想像させる仕草です。討ち入りは飛鳥(あすか)と洒落ておきます。

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37「王子稲荷」

辻屋安兵衛  安政4年11月

資料  「染井王子巢鴨邊繪圖」  江戸百「王子稲荷の社」、「王子装束ゑの木大晦日の狐火」


3778 王子稲荷に行くには、木曽街道ならば加賀下屋敷の手前、巣鴨の庚申塚を右に折れて王子道を進むことになります。日光街道ならば、染井の庭園を見ながら飛鳥山を目指し、それを通り過ぎると王子権現の北側にあります。切絵図には、飛鳥山の麓辺りから「此辺料理屋多シ」の文言があり、「アスカバシ」を渡った所に、出汁玉子で有名な「扇屋」、次に「海老屋」があり、その先は王子稲荷まで「茶屋多シ」という状況です。『江戸名所図会5』(p181)には、「往古は岸稲荷と号けしにや」とあり、『王子権現縁起』を引用して、毎年大晦日の夜、諸方の「命婦」(狐の化身である身分の高い女性)がこの社へ集まり、その火(狐火)の連なりの様子で、来年の豊凶を占う旨が記され、「命婦の色の白きと九つの尾あるは奇瑞のものなり」とあります。これは、関東一円の狐が1本の榎に集まり、装束に着替え、関東諸国の稲荷社の総司であり、正一位の神格を有する王子稲荷に参詣する、狐伝説を表すものです。同江戸名所図会掲載図版「装束畠衣裳檟」(p184~p185)および江戸百「王子装束ゑの木大晦日の狐火」参照。

 同江戸名所図会(p188)に、「当社は遥かに都下をはなるるといへども、つねに詣人絶えず。月ごとの午の日にはことさら詣人群参す。二月の初午にはその賑はひ言ふもさらなり。飛鳥山のあたりより、旗亭(さかや)・貨食舗(りょうりや)、あるいは丘に対し、あるいは水に臨んで軒端をつらねたり。実にこの地の繁花は都下にゆづらず」とあるのを鑑みると、こま絵の風景は、「正一位王子稲荷大明神」の旗が立つ初午の景色を描くものと思われます。そして、「王子」と彫られた石灯籠の脇に立つ美人は、門前の茶屋か料理屋から出てきて駕籠に乗って帰ろうとしているところと察することができます。髪は、一般庶民の年増が結った島田くずし(しの字髷)のようで、着物は楓と丸に菊の小紋に宝相華模様の帯を前に締め、お歯黒と眉を剃った化粧からは、年配既婚者の外出姿と判断されます。しかも、襦袢の襟が黒地と卍崩し模様とに染分けられており、また手拭いを縛り留め、半四郎下駄を履いているところを見ると、玄人筋と思われます。

 ところで、左手に爪楊枝を持つ姿は、もちろん、食後を表し、酒屋・料理屋の多い王子辺りの雰囲気を受けたものですが、他方で、人を喰ったような、ふてぶてしい、堅気ではない内面を感じさせます。これには含意があるものとして読み解く必要があります。すなわち、王子稲荷とくれば稲荷神の使者の狐となり、その社地近くに立つ女は命婦狐あるいは装束狐に擬えられているということなのです。たとえば、芸者・遊女から大店の内儀となり王子に参詣するまでになった姿を、大化けした女狐(王子狐)と揶揄しているのではないでしょうか。ついには尻の尾も見せず、前帯を締めるまでに化けたということです。とすると、着物の小紋は、狐が頭に載せる木の葉かもしれません。

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36「今戸」

大黒屋金之介  安政4年11月

資料  「今戸輪淺繪圖」  江戸百「墨田河塲の渡かわら竃」


3677 こま絵が「今戸」の題の下に描いているのは、2つの竃から煙が立ち上り、その背後に隅田川の渡し船が漕ぎ行く様です。ほぼ同じ光景を写す江戸百を参照すると、瓦や陶器などを生産する今戸焼の窯の煙と橋場の渡し船であることが判ります。今戸焼は製法上艶を出すために同時に松葉を焼くので、窯からもうもうと立ち上る煙が特徴的でした。『江戸名所図会5』掲載図版「長昌寺宗論芝 隅田川西岸」(p422~p423)に窯焼き風景が描かれています。また、同江戸名所図会掲載図版「今戸焼」(p426)には、「この辺甄者(かわらし)・陶器匠(やきものし)ありて、是を産業(なりはひ)とする家多し。世に今戸焼と称す」と注意書きされています。

 切絵図を見ると、浅草御門を出た奥州街道は浅草聖天町で北西に岐れて千住大橋に向かいますが、聖天町を直進し今戸橋を渡ると「淺草今戸町」、「同橋塲町」に至ります。ここから隅田川を渡って向島の寺島に行くのがかつての旧道で、そこにあった橋場の渡しは最も古い渡し場でした。切絵図には、「此辺瓦ヤクナリ」、「都鳥ノ名所ナリ」、「舩渡塲向島エ渡ル」などの文字が見えます。結論的には、今戸のこま絵から暗示されるものは、岸辺で瓦を焼く煙、都鳥、船渡し、在原業平の東下りなど、隅田川で最も古い橋場の渡しを巡る情緒ということになるのではないでしょうか。

 前景の美人は、膝に唄の教本を置いて三味線を爪弾いているので、いわゆる小唄の練習をしているのだと思われます。天保の改革で芝居小屋以外の三味線が禁止されたので、伴奏なしの端唄が流行り、後に改革の規制が緩んでからは、撥を使わず静かに三味線を爪弾く小唄形式が確立しました。だから、小唄をやっても罰(撥)は当たらないという洒落もあるくらいです。ちょうど本作品は、この小唄誕生の頃を描いていると言えましょう。美人の髪型はおばこで、多くの町家の主婦が結ったものです。これは、髪を束ねて左右に小さい輪を作り、横に笄を挿して、中央を余った髪で巻くものです。黒襟の額仕立ての着物に鹿の子絞りの半幅の帯をして、縞柄の綿入れ半纏を着ているようです。眉の剃り跡が青く残されているので新妻という前提でしょうが、今戸橋界隈の料理屋に出入りする(山谷)堀の芸者の存在、三味線・小唄、そして化粧道具が覗く鏡台や玉を連ねた髪飾りとくれば、芸者上がりの妾と見るのが自然でしょう。

 本作品の読み解きのコツは、絵だけでなく、唄にもあります。すなわち、こま絵の情景などから美人がどんな小唄を歌っているかを想像してみるのも面白いものです。たとえば、

 よりかかりし床ばしら 三味線とつて爪弾きの
 仇な文句の一ふしも 過ぎし昔を しのび駒

*しのび駒とは三味線の糸を持ち上げてぴんと張る台板で、紙駒を入れると低く静かな音になります。中田治三郎『小唄江戸紫』(邦楽社・1948)参照。

 なにしおはば ながめつきせぬ すだづゝみ きみにあふせを まつちやま
 ちらりとかげが 見ゆるぞへ いざこと問はん都どり 在五に名所が あるわいな

*「在五」とは在原の五男、在原業平のことで、東下りして橋場の渡しに際する歌、「名にしおはば いざ言問はん都鳥 吾が思ふ人は ありやなしやと」を下敷きにしています。なお、この古歌は「言問橋」命名の由来でもあります。『江戸端唄集』(岩波文庫・2014、p99)より。

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35「日本はし」

遠州屋彦兵衛  安政4年11月

資料  「日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖」、「八町堀靈岸嶋日本橋南之繪圖」  江戸百「日本橋雪晴」


3573 庶民にとって日本橋と言えば魚河岸を第一に思い浮かべるので、こま絵の暗示する意味は容易に理解できます。すなわち、朝日とともに仕事が始まる魚河岸の様子を描く趣旨ですが、仕事終わりの情景を意図しているのか、売られている魚が少ないのがやや気になります。実景描写というよりは、前景の美人に繋げる記号と解釈しておきましょう。店頭に置かれている鮫や捨てる部位は、農家が畑の肥料に利用します。

 『江戸名所図会1』(p65)は、「日本橋」について、「南北へ架す。長さおよそ二十八間、南の橋詰西の方に、御高札を建てらる。欄檻葱宝珠の銘に、『万治元年戊戌【ぼじゅつ・つちのえいぬ】九月造立』と鐫(せん)す。この橋を日本橋といふは、旭日東海を出づるを、親しく見るゆゑにしか号くるといへり」、「この地は江戸の中央にして、諸方への行程も、このところより定めしむ。橋上の往来は、貴となく賤となく、絡繹として間断なし。また、橋下を漕ぎつたふ魚船の出入り、旦より暮れに至るまで、嗷々として囂(かまびす)し」と記しています。また、「魚市」の項では、「船町・小田原町・按針町等の間、ことごとく鮮魚の肆(いちぐら)なり。遠近の浦々より海陸のけじめもなく、鱗魚をここに運送して、日夜に市を立ててはなはだ賑はへり」ともあります。両国橋(96間)や永代橋(110間)と比べるとそれほどの橋の長さではないのですが、欄干に葱宝珠が付いているのはここと京橋だけなので、江戸っ子の自慢でした。なお、前者の切絵図では、日本橋の魚河岸は、日本橋北詰の右(西)側に「魚カシ芝カシ魚市バ・地引カシ」と書かれている部分に当たります。

 長火鉢の前に中腰で座る美人は、こま絵との関連から、魚問屋の女房であることが想像できます。髪型は山田(前掲書p173)に従えば、髷の部分の髪を二分し、根の左右に輪を作り笄で留める割唐子に当たります。忙しい家の女房や料理屋の女中に多い髷ですし、細い縞の前掛けをする姿も相応のものです。和算や易占に用いる算木を崩したようなので「算木崩し」と呼ばれる柄の着物に、紫の帯と襦袢の襟も紫と貫禄ある女房姿を演出しています。蓮華を添えた鍋は、おそらく亭主が帰ってきてからの用意と思われますが、その前に蛸をつまみに燗酒を一杯飲み、一休みしている風情です。解れた髪の表現など、忙しい魚問屋の女房の日常を切り取った1枚と言えましょう。

 美人がつまむ蛸について、林綾野『浮世絵に見る江戸の食卓』(平凡社・2014、p66以下)は、蛸の江戸煮を描いたものと理解しています。これは、酒と煎茶で蛸を柔らかく煮てから、輪切りにした柚子と醤油を加えてさらに煮る料理と紹介されています。これに対して、山田(前掲書p173)は、大鉢の隣に塩を盛った小皿が見えるので、新鮮な蛸に塩を付けて食べていると判断しています。鮮魚を扱う日本橋の魚河岸がこま絵に描かれているのですから、ここは新鮮な蛸の刺身と理解すべきでしょう。

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34「かやば町」

藤岡屋慶次郎  安政4年11月

資料  「八町堀靈岸嶋日本橋南之繪圖」  江戸百「鎧の渡し小網町」


3475 茅場町を記載する切絵図を参照すると、こま絵に描かれるお堂の屋根は、八丁堀の与力・同心が住む「町御組屋敷」の一角にあった、「山王御旅所・藥師堂」敷地内にある薬師堂の屋根であることが判ります。『江戸名所図会1』(p165)には、薬師堂は、茅場町にあった「永田馬場山王御旅所」の境内にあって、山王権現の本地仏たる薬師如来を本尊とし、「縁日は毎月八日・十二日(正・五・九月二十日には開帳あり)にして、門前二、三町の間、植木の市立てり。別当は医王山智泉院と号す(もとは鎧島山(がいとうざん)と号けしとなり)」と記されています。同江戸名所図会掲載図版「茅塲町藥師堂」(p172~p173)を見ると、こま絵に切り取られた建物の全体像がよく判ります。また続いて、同江戸名所図会には、薬師の縁日の植木(盆栽)市を描く図版(p174~p175)が掲載されていて、「かやば町」のこま絵がこの植木市の暗号であることが強く示唆されます。

 本作品の右脇には、棒手振りの荷台に松の盆栽、万年青(おもと)、地面に南天がそれぞれ置かれており、また美人は福寿草と梅を植え込んだ鉢を右手で持っていて、薬師堂の植木市に来ていることが明らかです。背景に墨色の一文字暈しがあるので夕景と思われます。また、植物の種類から判断して、師走の植木市でしょう。羽織を着るのも頷けるところです。前髪に簪と櫛を挿して、髪を捻って布で巻いており、髷を結う前の姿です。風呂上がりかもしれません。眉毛の剃り跡が青く残っているので新妻と想定されますが、玄人筋に流行った半四郎下駄を履いているので、芸者上がりとも考えられます。茅場町辺りは、日本橋川の対岸の小網町に末広河岸と鎧河岸が並び、その先には行徳河岸があって、関東・奥羽などを商圏とする船積問屋が集まる商業地です(江戸百に描かれる白壁の土蔵群を参照)。となれば、裕福な商人も多く居たことでしょうから、その旦那に囲われた妾という山田(前掲書p172)の推理も当然ありえましょう。囲われた美人で、かつ洗い髪という観点から言えば、歌舞伎『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』のお富さんのように見えます。すなわち、源氏店(玄冶店)のお富さんが前景美人のモデルという可能性があります(同じくお富さんの可能性がある、後掲50「江戸はし」参照)。

 同江戸名所図会(p176)には、「俳仙宝晋斎(ほうしんさい)其角翁の宿」として、「茅場町薬師堂の辺りなりといひ伝ふ」とあって、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」という句が紹介されています。また先に触れた植木市を描く江戸名所図会の図版には、「夕やくしすゝしき風の誓かな」という句が掲載されています。美人が梅の鉢を持つのは前者の句を受けているからですし、同様に植木市が夕景なのは後者の句を受けているからです。「茅場町の夕薬師」と言われる風情はもちろんのこと、本作品読み解きのヒントとしては、その音の響きが重要です。なぜなら、美人が湯屋の帰りに薬師堂の植木市に寄っている様子は、「湯薬師」となるからです。本作品は、「夕薬師」の植木市を「湯薬師」に読み替えた判じ物として理解されます。なお、「生娘と見へて藥師を朝にする」という川柳も、茅場町の夕薬師を念頭に置かなければ意味をなしません。

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33「駿河町」

山口屋藤兵衛  安政4年11月

資料  「日本橋北内神田両國濱町明細繪圖」  江戸百「するがてふ」


3374 切絵図を見ると、日本橋から北を貫く通町(中山道)の両側には今川橋辺りまで商家が続いています。その通りの左(西)側、品川町の北隣が「駿河町」で、商家を代表する大店である呉服店越後屋があります。駿河町は、通りの正面に富士が見えるよう都市計画されており、駿河国の富士に因んで町名が付けられています。こま絵には「呉服物(品々)」という看板が描かれていて、『江戸名所図会1』(p74~p75)の図版「駿河町三井呉服店」と対比するまでもなく、明らかに越後屋を宣伝する趣旨です。越後屋は、現金掛け値なしの店頭販売で大繁盛し、江戸第一の呉服店となりました。安政江戸地震後もいち早く営業を再開しています。

 前景の美人は、島田髷とは逆に後ろから前に結い上げる丸(勝山)髷を結い、お歯黒をし、小紋の着物に茶色の帯を前締めしていて、いずれも、比較的年配の既婚者に多い姿に描かれています。裕福な商家のお内儀でしょうか。左側に煙草盆、右側に三井の意匠の入った火鉢、中央に煙管が置いてありますが、一心に反物などを選んでいるようです。後掲59「尾張町」の「ゑびすや」の小切れを選ぶ美人姿とは異なって、落ち着いた感じで描かれています。安政4年11月の改印と画中の火鉢を考えると、冬あるいはお正月に向けての宣伝広告の一環かと思われます。ちなみに、女性の帯は、江戸初期までは、名護屋帯という組紐や男性同様の平帯を使っておりましたが、時代が下るにしたがって、帯幅がどんどん広くなり、華やかになります。それにつれて、若い女性は帯を後ろで締めるようになりましたが、江戸時代後期でも、動きやすさを気にする必要のない身分の女性、年配者や既婚者は、とくに外出時には、帯を前で結びました。

 こま絵に店頭風景が描かれ、前景に買い物をする美人姿を重ね合わせる構成は、宣伝ポスター的機能を第一義としていて、その趣旨は一目瞭然です。その分、作品の読み解きには、ほとんどひねりがないと言えます。宣伝として判りやすいこと、不用意な内容でスポンサーに迷惑はかけられないことなどを勘案すれば、営業上、仕方がないことです。

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32「天神」

大黒屋金之助  安政4年11月

資料  「本所繪圖」  江戸百「亀戸天神境内」


3271 こま絵を仔細に見ると、(瓊・けい)門あるいは本社の手前に太鼓橋が架かっており、その右手に藤棚があって、それを利用して提灯がぶら下がる茶屋になっている様子が判ります。これは、明らかに亀戸にあった「宰府天満宮」(亀戸天満宮・亀戸天神)と判断されます。『江戸名所図会6』(p115~p117)に図版「亀戸宰府天満宮」があって、こま絵はその鳥瞰図を正面方向から捉えたものと思われます。また、切絵図と江戸百のいずれも、「亀戸天神」の太鼓橋を特徴的に描いています。なお、同江戸名所図会掲載図版に「當社の門前貨食店(りようりや)多く、各(おのおの)生洲(いけす)を構へ鯉魚を畜ふ。業平蜆もこの地の名産にして、尤美味なり」と記されています。これらの状況を踏まえると、前景は、門前に繁盛した水茶屋の美人を描く趣旨であることが容易に理解できます。手拭いと前掛けが茶屋女の定番姿です。

 水茶屋の美人は、前掲13「浅草寺」においても描かれており、そのモデルは寛政3美人の1人、「難波屋おきた」であると推測しました。そのうえで本作品を見ると、もう1人の美人、「高島屋おひさ」風の茶屋娘に見えます。なぜならば、『定本武江年表中』(p154)に、「此おひさは、米沢町ほうとる円の横町に煎餅や今もあり。其家の婦にてありし」と記され、既婚者と確認されるのですが、眉毛を剃り、お歯黒をしている前景美人の容姿と一致するからです。また、髪型も布の代わりに自分の毛を巻く「毛巻島田」で、既婚女性に多いものでもあります。美人は、小紋の着物に片面が黒の昼夜帯を締め、黒い鼻緒の下駄を履いていて、確かに看板娘にしては地味な装いです。亀戸天神の門前茶屋で、藤の花盛りに訪れる参拝者にお茶を汲む婦人というのが第一印象でしょう。

 ところが、美人の眉毛に注視すると、完全に剃っているというわけではなくて、青色の剃り跡が残っていることに気が付きます。天保の改革によって、水茶屋に看板娘などを置いて客引きすることは禁止されたのですが、規制あれば対策ありです。すなわち、三谷一馬『江戸商売図絵』(中公文庫・1995、p175~p177)に「奢侈を禁じられて、急に眉を剃ったり、歯を黒く染めるものが多くなった。人妻の姿はしているが、紅白粉をつけて、美しい着物を着ていた。近頃ではようよう府命も弛んで稀には眉のある女が出ているが、人妻の姿がほとんどである」(守貞漫稿)とあるように、既婚者の姿で水茶屋の営業を続けていた姿を写したものと考えられます。

 じつは、亀戸天神は三代豊国の邸宅に近く、境内の様子をよく見知っていたと思われます。そのため、地元愛もあって天神境内の水茶店におひさを彷彿とさせる美人がいる(かもしれない)と宣伝しているのではないでしょうか。

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31「成田山旅宿」

若狭屋与市  安政4年11月

資料  「東都淺繪圖」  江戸百に対応図案なし


3169 「成田山旅宿」とは、下総国成田山新勝寺の不動明王を江戸に勧請した配札所(出張所)のことで、天保12(1841)年から文久2(1862)年の間、「石清水(いわしみず)正八幡宮」(現・蔵前神社)の境内にありました。遠路参拝する手間が省けるという理由もあるでしょうが、倶利伽羅剣を持った憤怒の不動明王に火伏せの願いを込め、江戸を火事から守るという社会政策的意味もあってのことと思われます。切絵図を見ると、幕府の御米蔵があった「浅草御蔵」、「御厩カシ渡シ塲」の西側に、「成田不動 八幡宮大護院」とあるのが判ります。こま絵には、人々が参拝する姿が描かれており、前景の美人もその1人ということになります。

 江戸庶民にとっては成田山新勝寺は、歌舞伎役者市川團十郎代々が信仰したことで有名であり、それが屋号「成田屋」の所以でもあるので、その旅宿を描くこま絵は、当然團十郎を暗示する記号として理解する必要があります。前掲30「洲崎」では美人を7代目團十郎と見立てて、その姿を(船)弁慶に擬えたものと読み解きましたが、本作品でも、同様に仮に前に立つ美人を團十郎と見立てて推理してみます。ところで、美人の右側にある「水」と書かれた桶について、山田(前掲書p160)は夏の「冷水屋(ひやみずや)」のものと解説しています。しかし、これは防火用水を貯めた「玄蕃桶(げんばおけ)」であり、火災時に「龍吐水(りゅうどすい)」とよばれるポンプへ水を供給するためのものです。おそらく、季節は空気が乾燥し、江戸に火事の多い冬を想定しているはずです。したがって、美人は防寒のために御高祖頭巾を被り、中着を2枚重ねているのです。

 さて、美人は弁慶格子(縞)の木綿の袷を着ています。これに御高祖頭巾を組み合わせると歌舞伎『勧進帳』(安宅の関)の弁慶の法師姿が目に浮かびます。他方、帯地、袷の裏地、襦袢、半四郎下駄の鼻緒の全てが紫色であることを考えると、歌舞伎『助六由縁江戸桜』の助六の江戸紫の鉢巻姿が目に浮かびます。いずれも、團十郎の当たり役です。ということで、この美人は成田山旅宿に信仰上の参詣というよりは、團十郎の歌舞伎演目の大当たりを願って来ていると考えた方がよさそうです。それ故、帯の裏地にも「大當」とあるのでしょう。江戸所払いが許された7代目のためなのか、あるいは嘉永7(安政元)年8月6日に自殺した8代目を偲んでなのか、後に9代目を襲名する河原崎権十郎への期待なのか悩むところですが、前景の美人を思えば、やはり8代目でしょうか。役者絵の三代豊国にとっても、團十郎を中核とする歌舞伎界の興隆は非常に重要で、本作品は歌舞伎宣伝の1枚と見ることができましょう。

 山田(前掲書p160)は、7代目團十郎演ずる助六の相手役、三浦屋揚巻を演じた5代目岩井半四郎を念頭において、当代・7代目半四郎自身がこの美人の正体だと断定しています。しかし、前提となる季節に読み違いがある点で肯定できません。ただし、女形(男)と見た大胆な発想には敬意を表します。

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30「洲崎」

湊屋小兵衛  安政4年11月

資料  「本所深川繪圖」  江戸百「深川洲崎十万坪」


3068 品川洲崎から深川洲崎までの海を江戸前と言い、両洲崎は、春の潮干狩り、秋の月見など行楽の地として有名です。深川洲崎は、とくに初日の出を拝む名所で、三代豊国や広重によってしばしば画題とされています。こま絵を見ると、海上に朝日が描かれているので、ここで言う「洲崎」が初日の出の深川洲崎であることが判ります。したがって、こま絵左隅の鳥居は深川洲崎の弁財天に該当します。切絵図には、「弁天吉祥寺」とあります。元禄13(1700)年、5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院の守本尊の弁財天を祀るために洲崎に建立されました。『江戸名所図会6』(p29)には、「洲崎弁財天社」として、「この地は海岸にして佳景なり。ことさら弥生の潮尽(しおひ)には、都下の貴賤袖を連ねて真砂の文蛤(はまぐり)を捜り、または楼船を浮かべて妓婦の絃歌に興を催すもありて、もつとも春色を添ふるの一奇観たり。また冬月、千鳥にも名を得たり」と記されます。

 こま絵で見落としてならないのは、境内に建つ提灯が吊された2階造りの料理茶屋で、「武蔵屋」として知られた有名店であるということです。古くは、吉田屋、ゑびす屋、いちょう屋、升屋などがありましたが、寛政3(1791)年の高潮で流失してしまいました。こま絵が武蔵屋の宣伝となっていることが判れば、前景の美人はこの料理茶屋との関連で読み解く必要があります。美人は、御高祖(おこそ)頭巾を手拭いでしっかりと留め、梅柄の中着を2枚重ねにし、その上に黄八丈を着て、手を袖の中に入れています。寒中、洲崎弁財天に参詣し、社前の土手に上がって初日の出を拝もうというのでしょう。帯の裏地に「大當」とあるので富籤の当たり、あるいは黄八丈から歌舞伎『恋娘昔八丈』の「お駒才三」を想起して恋の悩み解決などをお願いしているのかもしれません。しかしながら、既述した武蔵屋との関連性がよく見えてきません。

 そこで、帯の表地の丸の中に赤い蝙蝠が描かれている点に着目し、この蝙蝠紋が7代目市川團十郎の愛用という観点から、この美人を仮に團十郎と見立ててみましょう。すると、團十郎と武蔵屋で、團十郎の当たり役・武蔵坊弁慶が浮かび上がってきます。しかも寒中の海岸線に立つ姿は、大物浦から船出した源義経一行が暴風雨に遭い、平家の怨霊に襲われた際、弁慶が一心に祈り法力でその怨霊を退散させた、謡曲「船弁慶」の一場面を見るようです。となれば、帯の裏地の「大當」は、團十郎の歌舞伎演目の大当たりを願っているとも解されます。後掲58「新大はし」では、前面の美人は、「勧進帳」(安宅の関)の弁慶に見立てられていますが、本作品では、「船弁慶」に見立てられているということです。

 なお、前年、深川永代寺では團十郎が信仰する成田不動尊の御開帳があり、多くの人々が参集しただけでなく、團十郎も役者一行と当地に来て大きな話題となったという伏線もあります。武蔵家と弁慶とを繋げて描いた作品に、三代豊国・広重『東都高名會席盡 洲崎風景・武蔵屋・弁慶』がある点を考えても、けっして唐突な読み解きではありません。

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29「しのはず弁天」

山本屋平吉  安政4年11月

資料  「東都下谷繪圖」  江戸百「上野清水堂不忍ノ池」、「上野山内月のまつ」


2967 『江戸名所図会5』(p52)には、「しのはず弁天」、すなわち「中島弁財天」は、「不忍の池の中島にあり。当社は江州竹生島のうつしにして、本尊弁財天および脇士多聞・大黒の二天、ともに慈覚大師の作なり」、また、「昔は離れ島にして船にて往来せしを、寛文の末陸(くが)より道を築きて、参詣の人に便りあらしむ。己巳(つちのとのみ)の日は前夜より参詣群集す」とあります。こま絵を見ると、弁天の祠とその左の聖天の宮が描かれています。ただし、ここで注意を要するのは、祠の手前や対岸に茶屋が並んでいる情景だということです。そもそもこま絵を描いている視点は不忍の池の南西側にあって、そこは切絵図を参照すると「池之端仲町」に当たります。料亭や茶屋が軒を並べる場所です。本来は、いずれも池に植えられている蓮を鑑賞するためなどに設けられた施設だったのですが(同江戸名所図会掲載図版「不忍池蓮見」p58~p59参照)、いつの間にか、出会茶屋で有名になってしまいました。

 三田村鳶魚『江戸の旧跡・江戸の災害 鳶魚江戸文庫21』(中公文庫・1998、p114)には、「出会茶屋、昔の自由恋愛の転がり込む場所なのだ」とあって、「出会茶屋忍ぶが岡は尤もな」などの川柳が紹介され、忍ぶが岡(不忍の池や不忍弁天)が出会茶屋の隠語であることが示されています。なお、同書(p115)は、天保の改革によって出会茶屋は破却されたものの、「水野越前守が失脚して、夜鷹まで復旧する形勢だったから、不忍池畔の水茶屋も、蘇生せざるを得なかった」と記しています。このような前提で、本作品を読み解く必要があります。

 前景の美人は一般女性ではなく、「片はずし」という髷型から大奥(御殿)女中であることが判ります。一の輪、二の輪があって、二の輪の穴に笄が通る形が特徴的です(三田村鳶魚『御殿女中 鳶魚江戸文庫17』中公文庫・1998、p247~p248)。裾部分に柄のない白一色の中着も大奥女中の典型的ファッションです。大奥女中となれば将軍以外の男と知り合う機会がないので、寺社参りなどで知り合った(若い)僧侶・神職がその数少ない対象となります。こま絵にある不忍弁天はまさに寛永寺の西隣にあるので、周辺の寺社も含めてそれらへの参拝を言い訳にして寺社関係者と落ち合い、出会茶屋に駆け込むという顛末です。大奥女中は、目的の寺社への参拝の帰路、不忍弁天にお参りに行くとでも言い訳をするのでしょう。御簾紙を口に咥え、手水鉢で洗った手を拭いている色っぽい仕草ですが、その視線の先には逢瀬を楽しむ相手の男がいるのかもしれません。

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28「日くらしの里」

遠州屋彦兵衛  安政4年11月

資料  「根岸谷中日里豊島圖」  江戸百「日暮里寺院の林泉」、「日暮里諏訪の臺」、「下谷広小路」


2866 『江戸名所図会5』(p106)によれば、「日暮里(にっぽり)」は、「新堀(にっぽり)」が正字で、寛延(1748-51)の頃より日暮里(ひぐらしのさと)と書かれるようになったとあります。同江戸名所図会掲載図版「日暮里惣圖(ひくらしのさとそうつ)」(p107~p113)が7頁に亘っており、同江戸名所図会(p114)には、その解説として、「感応寺裏門のあたりより道灌山を界とす。この辺寺院の庭中、奇石を畳んで仮山(つきやま)を設け、四時草木の花絶えず、つねに遊観に供ふ。なかんづく二月(きさらぎ)の半ばよりは酒亭(さかや)・茶店の几所せく、貴賤袖をつどへて春の日の永きを覚えぬも、この里の名にしおへるものならん」とあります。切絵図を見ると、「天王寺」周辺から「道灌山」「佐竹右京大夫(下屋敷)」にかけて、多くの神社仏閣があることが判ります。その中間辺りに、「此邉日暮ト云」とあり、「此辺寺の庭中景至テ見事也」と書き入れられていることに注意が必要です。

 日暮里は、上野寛永寺の裏地に当たり寺社建設の適地であったところに、明暦の大火災で焼け出された多数の寺社が移転してきました。地形は上野から続く台地上にあり、とくに東の崖際は、荒川沿いの田園風景、背後の筑波山・日光の山々の眺望があり、それを利用して寺社が競って庭園を造り、台地全体が一大庭園のようでした。そのため、参詣や憩いの場として多くの人々に親しまれることになり、各所の風光を楽しむ間に日が暮れてしまうので日暮里と呼ばれたというわけです。雪見寺(浄光寺)、月見寺(本行寺)、花見寺(妙隆寺、修性院、青雲寺)、諏訪台の花見(江戸百「日暮里諏訪の臺」参照)、道灌山の虫聴きなどが有名です。こま絵は、おそらく江戸百「日暮里寺院の林泉」と同じ場所を描いているのでしょう。とすれば、青雲寺辺りでしょうか。こま絵に、同江戸名所図会も記す、酒亭・茶店の床几が描かれている点が前景美人に繋がる布石となります。

 美人の髪は島田髷に玉繋ぎを結び、着物は黒襟の紋付で、袖と裾に石垣模様と宝相華模様が入っています。帯は表裏色違いの毘沙門亀甲繋ぎです。注目すべきは、着物の角木瓜紋で、これは常磐津節の家紋なので、この美人は常磐津の師匠かと思われます。師匠・弟子一行で花見にやってきたということです。江戸百「下谷広小路」を念頭に置くと、広重は常磐津の師匠・弟子一行が下谷から上野山方向に歩いていく図を描いており、三代豊国がそれを前提として一行が日暮里まで来たと想定したとすれば、本美人の様子は非常に辻褄が合います。美人の左側に下谷と書かれた酒樽が見えているのも、下谷方面から歩いてきたことをまさに示すものです。美人は茶屋に酒を持ち込んで、茶碗酒を飲んでいます。立膝で座っているところから察すると、大分酒が回り、庭の床几に座す一行と話しているのかもしれません。江戸百と百人美女との相互関係から読み解ける作品です。

 では、なぜ美人は日暮里でお酒を飲むのでしょうか。上野・日暮里・王子など、江戸の名所の景色風俗に因んだ狂歌51首を載せ、十返舎一九が序文と画を添えた墨摺絵本に『江戸名所圖會』という作品があります。その日暮里の図に記された狂歌が答えのヒントになります。すなわち、「桃さくら鯛より酒のさかなにはみどころ多き日くらしの里」というものです。あまりに見所が多い日暮里を肴に酒を飲むといくら酒があっても足らないということです。前景美人の酔い姿は、日暮里の見所の多さを語らせるものなのです。

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27「新はし」

丸屋久四郎  安政4年11月

資料  「京橋南築地鐵炮洲繪圖」、「口南西久保愛下之圖」  江戸百に対応図版なし


2761 「新はし」は、『江戸名所図会1』(p213)によれば、「大通り筋(東海道)、出雲町と芝口一丁目との間に係(かく)る」とあり、芝口御門ができてからは「芝口橋」と改められましたが、御門が火災により焼亡した後には旧名に復しています。同江戸名所図会掲載図版「新橋汐留」(p216~p217)と照らし合わせると、こま絵は橋の南詰から西方向を見て描いていることが判ります。橋の下を流れる川は、(赤坂)溜池からの水を流すものです。同図版には荷を運ぶ船だけでなく、屋根船なども描かれていて、船宿や料理茶屋の存在が想像できる風景です。また、切絵図からは新橋界隈が各藩の大名屋敷と近距離にあり、公儀の役人や他藩の客人との接待・外交の場として適地であることが読み取れます。

 このような周辺環境に押されて、「金春屋敷」辺りに三味線(常磐津)の師匠が開業した料理茶屋が繁盛したため、新橋の芸妓一般を「金春芸者(こんぱるげいしゃ)」と呼ぶようになりました。本作品制作の安政4年頃は、ちょうど金春芸者が活躍している頃です。天保の改革によって廃業に向かった深川芸者に代わって、柳橋芸者と共に名を知らしめる存在になります。当時の老中太田資始(すけもと)に、芸事の披露と「酌取御免」のお墨付きを貰ったとあります。ちなみに、三田村鳶魚『江戸の旧跡 江戸の災害』(中公文庫p64)は、江戸前の柳橋芸者に相手にされなかった倒幕の官員が、金春芸者の善諾に付け込んで彼女らを女郎のように堕落させたと述べています。

 前景の美人はこの金春芸者なのかに答える前に、この美人はどこに立っているのかを先に解決しておきます。同江戸名所図会(p247)によれば、この辺りには「日比谷稲荷祠」があって、「芝口三丁目西の裏通りにあり(このところ、町幅至つて狭し。ゆゑに、土人日蔭町と字す)」と記されています。また、同江戸名所図会掲載図版「日比谷稲荷社」(p249)には、雨降る門前の様子が描かれています。前景美人の左側にある垣根は、この社のものと思われます。一見すると、本作品はこの図版を切り取ったかのようにさえ感じられます。つまり、この美人は日比谷稲荷の門前に立っているということです。結綿と手拭いの水色、浴衣の桜と源氏車の藍染などコーディネートに気を遣っており、着物は黒襟に加茂神社の神紋双葉葵の小紋で、デザイン的には上方を意識し高級感を出そうというファッションです。帯は表地が黒、裏地が分銅繋ぎの昼夜帯を縦結びにしています。ただし、本作品の美人を仔細に眺めると、口に手拭いを咥え、脇に浴衣を抱え、蛇の目傘を持ち、素足に下駄を履いていて、品良く言えば湯上がりの芸者筋、品なく言えば岡場所の私娼を彷彿とさせるスタイルです(後掲63「神樂坂」参照)。新橋辺りの芸を売る金春芸者のように、また日比谷稲荷に参詣する美人のように見せかけ、実際は、社の門前に立つ私娼を描いていると解すべきなのかもしれません(前掲10「根津権現」参照)。

 日比谷稲荷は、一説には傘屋の藍屋五兵衛の勧請によるとも言われており(同江戸名所図会p247)、美人が傘を持つ姿も自然なものとして言い訳可能です。百人美女の作品表現は、安政4年11月の時点では全般的にかなり苦慮していることが再確認できます。おそらく、美人は金春芸者としてのスタイルが確立する直前の、新橋界隈に居た芸妓あるいは私娼の姿と考えられます。

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26「大川橋里俗吾妻はし」

山本屋平吉  安政4年11月

資料  「本所繪圖」  江戸百「駒形堂吾嬬橋」、「吾妻橋金龍山遠望」、「御厩河岸」


2651 「大川橋」は浅草と本所とを結ぶ橋で、『江戸名所図会6』(p182~p183)の図版「大川橋」には、「吾妻橋とも名つく」と書き入れられています。隅田川に建設された江戸時代最後の橋で、安永3(1774)年に架設されています。切絵図を見ると、「吾妻橋七十六間」とあり、「竹町之渡」の側にあることが判ります。吾妻橋を浅草方向から渡るとその東先には、「吾妻大権現 日本武尊橘姫命相生楠箸御神木」(切絵図『隅田川向嶋繪圖』、江戸百「吾嬬の森連理の梓」参照)があって、おそらくこれが吾妻橋命名の由来であると推測されます。こま絵を見ると、浅草寺の五重の塔が描かれているので、視点は橋の南東側から対岸北西・花川戸町方向にあることになります。

 さて、前景の2人の人物のうち、左手の美人は、黒い着物に手拭いを被り、その端を口に咥え、茣蓙こそ手にしていませんが、典型的な「夜鷹」の姿です。山東京伝『江戸風俗図巻』(小林忠・大久保純一『浮世絵の鑑賞基礎知識』至文堂・1996、p114~p115)には、「蝙蝠のさまして 柳のかげに まうし/\と ゆきゝの人を よびとゞむる 夜鷹といふ 賤妓なり」と書き入れられています。また、『藤岡屋日記 第2巻』(三一書房・1988、p509)には、弘化2年のこととして、「京都ニてハ辻君と称し、大坂にてハ惣嫁と唱ふ、江戸ハ夜鷹と云、是辻売女也」とあり、「近年夜鷹女を抱置候者ハ本所吉田町・鮫ケ橋・下谷山崎町ニも有之、右之女共江同居致居候男を差添、夫々へ出すなり、是をぎうと云也、壱度ニて花代廿四文なり」と説明されています。夜鷹に付き添って、客引き、用心棒などのマネージメントをする男の存在が示唆されていますが、美人の右手の醜男(ぶおとこ)がこれに当たります。牛(ぎゅう)(太郎)と呼ばれ、妓夫は明治以降の当て字です。男が左手に持つ傘に「吉田」とあるので、まさに吉田町に見番を置く夜鷹と牛が歩く姿です。

 本所吉田町は、切絵図では中央下(東)辺りにあります。これを前提にすると、こま絵は吉田町側からの視点なので、吾妻橋を渡って、同『藤岡屋日記』掲載の「護持院ヶ原・石町河岸床見世うしろ・数寄屋河岸・浅草御門内物干場明地・柳原床見世後ろ・下谷広小路・木挽町采女ケ原」など、いずれかに同伴で出向く情景を描いたものと考えられます。美人絵としては夜鷹だけで十分なところ、あえて牛の男が描かれているのは、こま絵の吾妻橋という言葉に掛けて、この両人が事実上の夫婦であることを示す趣旨なのでしょう。なお、本作品は、当該シリーズでは唯一大人の男の全身を描写している点に特徴があります。しかしながら、当時の世相を考えると、牛の男は夜鷹の黒子であって「見ない」、「見えない」存在です。さらに、牛は動物ですから道具立てであって、人(男)ではないのかもしれません。

 ちなみに、夜鷹は天保の改革で厳しく廃絶されたはずですが、弘化の初年頃にはすでに復活跋扈しており、前掲『藤岡屋日記』もそのことを強調する趣旨と考えられます。とはいえ、未だ浮世絵や出版規制は残っており、あまりに夜鷹を喧伝するのは危険なことなので、夜鷹と牛との人情部分に目を向けて、版木没収などの制裁を避けようと気を遣っているのでしょう。というわけで、2人の間に会話が見えてきませんか。一言加えれば、実際、この夜鷹はこの牛の醜男に見合う程度の美人だったのかもしれません…。

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25「品川歩行新宿」

山本屋平吉  安政4年11月

資料  「三田二本高輪邉繪圖」  江戸百「月の岬」


2546 『江戸名所図会2』(p40)には、「品川の驛」について、「江府の喉口にして、東海道五十三驛の首(はじめ)なり。日本橋より二里。南北と分つ」とあり、目黒川を挟んで北を北本宿、南を南本宿と呼びます。その後、北本宿のさらに北側から江戸方面に掛けて茶屋施設が発展し、歩行人足の手配をする場所であったので、歩行新宿(かちしんしゅく)と呼ばれ、以上3宿で品川宿は構成されます。同江戸名所図会には、「旅舎数百戸軒端を連ね、つねに賑はしく、往来の旅客絡繹(らくえき)として絶ず」とあります。川崎大師の厄払い、東海寺参詣、海晏寺の紅葉狩り、目黒不動・新田明神参り、江の島・大山参り等々の道筋にも当たるので、東海道を移動する旅の宿場というよりは、遊興の場として早くから発展し、新吉原の「北」に対して「南」と言われる程の遊郭があったということです。とはいえ、公許の遊女ではないので、旅籠に所属する飯盛女に区分され、一般には女郎と呼ばれました。

 切絵図の「谷ツ山」と書かれる所から、「品川歩行新宿一丁目」、「同二丁目」、「同三丁目」とあって、江戸百もこの辺りからの月の景を描いていると考えられます。こま絵も、同様に品川の海の上に浮かぶ中秋の名月を背景に旅籠屋あるいは料理屋の2階を描いていて、その月見の宴の後が前景に繋がるというわけです。右下の伊万里の徳利がそれを表しています。つまり、屏風前に立つ美人は、いわゆる品川女郎というわけです。右手に御簾(枕)紙を持って、いざ床入りです。

 なお、その髪型は簪に髪を巻きつけた「蛽髷(ばいまげ)」と言われ、遊女に多く結われたものです。また、松葉と梅柄の着物の上に羽織る中着は、胴部分が白と緋色の網代、裾回りは縞に菖蒲と青海波模様となっていて、品川の海辺のイメージを受けたものでしょう。献上博多と鳴子絞りの両面帯をしています。本作品美人がやや地味に見えるのは、敢えて新興の歩行新宿を選んだ結果なのかもしれません。深読みすれば、「床入り」直前の美人姿が捉えられているのは、こま絵の品川歩行新宿という場所から高輪泉岳寺に向かった忠臣蔵47士が想起され、「討入り」が成就したことに引っ掛けられている可能性を感じます。討入りの12月14日はほぼ満月なので、こま絵の状況とも合いますし。

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24「新吉原満花」

藤岡屋慶次郎  安政4年11月

資料  「今戸輪淺繪圖」  江戸百「廓中東雲」


2441 『江戸名所図会5』(p440)によれば、元和3年葺屋町の東側隣接地に官許を得て花街と定められた「元吉原」に対して、「新吉原遊女町」は、明暦2年町奉行所より浅草への移転命令があって、翌年日本堤の下に移転したことによって、「新吉原」と呼ばれるようになりました。同江戸名所図会(p441)には、「この花柳(くるわ)はまことに三都の魁(かしら)たり。その賑はひはとりわけ弥生の花の頃をもて勝れたりとし、春宵一刻の価千金を顧みず」と記され、これを受けて、こま絵は「新吉原満花」と題する桜の頃の情景を写しています。こま絵には、黒い板葺き屋根の冠木門が描かれていて、切絵図と対照すると、鉄漿溝(おはぐろどぶ)に囲まれた敷地の中央部分に記載される、「エモン坂大門中ノ丁」辺りの風景に該当します。つまり、新吉原を北東側の大門(おおもん)から南東側に見ています。また、背後の建物の屋根には、雨水を溜めて防火に用いる天水桶が並ぶ様が描かれています。

 なお、安政2年10月の安政江戸地震で新吉原は壊滅し、その後「仮宅」での営業を経て、安政4年6月までに引き払いを命ぜられているので(『定本武江年表下』p94)、本作品の制作時期安政4年11月は、新宅での営業が順調に行われている頃と思われます。新吉原の各妓楼が営業を再開していたとするならば、本作品は、もちろん営業再開の宣伝を兼ねていることは明らかです。美人は「部屋持ち」の花魁のようです。具体的には、2枚重ねの布団から起き上がり、右手に帯端を持ち、額仕立ての中着に昼夜帯を巻き、その上に雀の裾模様の入った着物を羽織って、口に御簾(みす)(枕)紙を咥え、床から離れようとしています。襦袢の襟の源氏香模様が上品さを演出しています。

 本作品の面白さは、着物の裾に描かれた編笠を被った雀と長提灯を咥えた雀が向かい合っている模様と、袖などに見える対膨ら雀の紋から読み解くことができます。後掲68「浅草田町」を参考にすると判りやすいのですが、1人の遊女の許に通う2人の男が、吉原大門前で箱提灯を挟んで口論する、歌舞伎で有名な「鞘当」を暗示しているのです。遊女が複数の客を相手にすることを「廻し」と言いますが、「鞘当」に見立てることによって、本件遊女が複数の客を取り回していることを示しているのです。したがって、遊女は、床にいる客から離れて、急いで次の客へ向かう準備をしている様子と解することができます。これは客が次から次へと来ていることを意味し、まさに題名「新吉原満花」となるということです。遊女を描く際には、いわゆる「廻し」が隠れた主題になっていることが少なくなく、その表現方法も暗喩的なことが多いようです(後掲70「とりのまち」参照)。

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23「山王御宮」

遠州屋彦兵衛  安政4年11月

資料  「麴町永田町外櫻田繪圖」  江戸百「糀町一丁目山王祭ねり込」


2337 「山王御宮」とは「日吉山王大権現社」(現・日枝神社)のことで、切絵図では赤坂溜池の北の台地上にあります。江戸城南西裏鬼門を守る位置に鎮座し、徳川家の産土神として崇められていました。山王権現御祭礼は、神田明神御祭礼と隔年の6月15日に行われ、天下祭りと呼ばれ、将軍の上覧にも付されて祭礼行列が城内に入る、豪華絢爛たる祭りです。『江戸名所図会1』掲載図版「六月十五日山王祭」(p166~p171)には、各町内から神輿、山車、練り物、花屋台などが出て練り歩く様が詳細に描かれています。なお、こま絵は、永田馬場方向から2つの鳥居越しに、石段上の本殿を見通す構図となっています。

 江戸百作品を見ると、半蔵門の前に猿の山車、近景に鳥の山車があって、その他には花笠の一行が描かれていますが、百人美女前景のような美人を探し出すことはできません。祭礼行列がこれほど盛大になると警固が重要となります。同江戸名所図会(p164)には、「官府の御沙汰として、神輿通行の御道筋は、横の小路小路は矢来を結はしめて、往来を禁ぜらる」とあり、他にも、鳶の者が山車などの警固に当たるという工夫もありました。これを梃前(てこまえ)と呼んだのですが、それが形骸化し、様式化されて、梃前の姿を真似た衣装を着て木遣を唄い、練り歩く女性達が現れます。各町内の芸者衆の晴れの舞台という側面もあって、大いに発展します。前景の美人は、この「手古舞(てこまい)」の姿を描くものです。三田村鳶魚『江戸の生活と風俗』(中公文庫・1998、p70)に、「鳶の景気のいいことは、木遣の流行で知れる。それは明和の末からといってよさそうだ。文政には、吉原はじめ所々に、木遣芸者というのがいて、それを売物にしていた」とあるのも、同じ鳶(木遣)文化の発展流行を物語るものです。

 手古舞の美人は、鳳凰柄の着物を片肌脱ぎにして、緋色の絞りの襦袢をわざと見せ、また脚絆の付いた袴に黒足袋という男姿です。右手には黒骨の扇、左手には鉄輪の付いた金剛杖を持って、これを地面に打ち付けながら歌の拍子をとります。髪型も男髷に近い「手古舞島田」と呼ばれるものです。前掲4「神田のやしろ」の美人が踊り舞台の準備をする商家の素人娘風であったのに対して、本作品では山車や舞台を警固する歌自慢の玄人筋を持ってきたということでしょうか。

 なお、山王祭の氏子の数は約160町、山車の数は45と言われ、1番は大伝馬町の諌鼓鳥、2番は南伝馬町の猿という順番です。この点からすると、江戸百作品の山車の順番がなぜ違うのか、その意図を探る必要があります。

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22「高縄」

若狭屋与市  安政4年11月

資料  「三田二本高輪邉繪圖」  江戸百「高輪うしまち」


2234 切絵図を見ると、海岸に沿って南に進む東海道は、車町(牛町)から高輪を通って品川宿に至りますが、その車町に、街道の左右に石垣をもって築かれた高輪木戸があります。『江戸名所図会1』(p311)には、「江戸の喉口」とあり、繁盛する様子が図版「髙輪大木戸」(p314~p315)として掲載されています。同江戸名所図会には、あわせて図版「髙輪海邉七月二十六夜待」(p316~p317)があって、東側海岸沿いの茶屋・料亭の内外に多くの客が賑わう様、また海上に浮かぶ船々が描かれています。こま絵の遠景に朧に「逆三日月」(26夜月)が描かれている点を考慮すれば、その風景はこの「二十六夜待」を写し取っているものと考えられます。

 旧暦7月26日の月の出には、三尊(阿弥陀・観音・勢至)の仏体が拝礼できるという言い伝えがあって、これが「二十六夜待」です。なお、「待」には「祭」の意味があります。二十六夜待は、高台や海に面して月がよく見える場所で行われ、とくに高輪海岸から品川にかけてが最も賑わいました。そこには大勢の人が集まり、茶屋や料亭ができ、また、西瓜、菓子、餅、寿司などを商う屋台店、その他に虫売りなども出たりします。江戸百は、翌朝の狂騒の終わった「後の祭り」を描くものと思われます。

 以上から推理すると、前景の美人は、高輪の二十六夜待にどこかの座敷に呼ばれた芸者の姿であることが判ります。左手に歌川派の意匠の入った三味線箱を持って、ようやく到着といった仕草です。二十六夜待の月の出は朝方なので、芸者の出仕も遅いということなのかもしれません。右手の撥で口元を隠しながら何か挨拶でもしている風に見えます。襦袢に浴衣地の単衣を緩く着付けて、紫地の献上博多帯を庶民的な「引っ掛け結び」にしています。着物の柄は、網目模様に浜千鳥の組み合わせで、海に近い雰囲気と涼しさを感じさせるファッションと言えましょう。水色の髷かけにも同様のセンスが見えています。

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21「深川八幡」

山口屋藤兵衛  安政4年11月

資料  「本所深川繪圖」  江戸百「深川八まん山ひらき」


2130 『江戸名所図会6』(p15)によれば、「深川八幡」、すなわち「冨岡八幡宮」は、深川の永代島にあり、もともとは当地の東方砂村にあった八幡宮を移設したものです。祭神は応神天皇。別当の永代寺とあわせて広大な敷地を有していました。毎年3月21日、弘法大師の御影供(みえいぐ)を修行し、同28日まで当社別当永代寺の林泉を開放する「山開き」、隔年8月15日に執行する祭礼には多くの群集があります(同書p28)。さらに重要なのは、「当社門前一の華表(とりい)より内三、四町が間は、両側茶肆(ちゃや)・酒肉店(りょうりや)軒を並べて、つねに絃歌(げんか)の声絶えず。ことに社頭には二軒茶屋と称する貨食屋(りょうりや)などありて、遊客絶えず。牡蠣・蜆・花蛤・鰻鱺魚(うなぎ)の類をこの地の名産とせり」と記されている点です。つまり、門前や境内に高級料亭などが発展していたということです。広重『江戸高名會亭盡』「深川八幡境内」にも「二軒茶屋」が紹介されています。ただし、二軒茶屋は天保の改革規制で廃業に処せられているので、本作品との関係では門前の料亭や茶屋が考慮の対象です。

 こま絵を見ると「富ケ岡八幡宮」の掛額がある鳥居と桜が描かれていて、おそらく、二の鳥居から桜の銘木越しに本社方向を望むものでしょう。同江戸名所図会掲載図版「冨岡八幡宮」(p16~p21)と重ね合わせると、立派な船着場があって、水路に恵まれた神社であることがよく判ります。切絵図と対照すると、仲町通り左手方向に一の鳥居があり、その辺りが門前町に当たります。美人は、この門前町の料亭か茶屋の座敷に呼ばれた芸者と思われます。その衣装は前掲20「両国はし」のパターンと似ていますが、三味線箱から三味線を取り出し、撥を歯に挟み、かなり男っぽい仕草を見せています。切絵図で確認できるように、すぐ近くに木場があり、金回りのよい旦那衆の影響で、吉原とは異なる風俗と、色よりは芸、粋や張りを重んじる深川気質(かたぎ)が育ちました。美人の仕草は、まさに粋な羽織で啖呵を切っていた、辰巳芸者の一端を表すものです。

 さて、三味線箱には鳥のような紋が入っていますが、これが山田(前掲書p81)が指摘するように蝙蝠の紋ならば、7代目市川團十郎愛用の紋を意識していると考えられます。團十郎の信仰する成田山不動尊の御開帳が深川の永代寺で度々あって、團十郎と深川とは浅からね因縁があるという意味で、深川芸者の三味線箱に團十郎の紋が拝借されているという訳です。前掲20「両国はし」の意匠が團十郎ゆかりの弁慶格子、当作品が團十郎ゆかりの蝙蝠紋となっているならば、團十郎人気とその人気を取り込んだ芸者の粋なファションを紹介するという趣向は、今様を旨とする浮世絵の面目躍如といったところです。

 しかしながら、もし三味線箱の紋が蝙蝠でなく、たとえば雀ならば、深川芸者の客を深川雀と呼んで、その人気にあやかる気持ちをただ表現しているだけの紋なかもしれません。他の作品を総覧するならば、花柳界に広く使用される膨ら雀の一種と見た方が自然と思われます。

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20「両国はし」

遠州屋彦兵衛  安政4年11月

資料  「日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖」、「東都淺繪圖」  江戸百「兩國橋大川ばた」、「淺草川大川端宮戸川」(両国舩中浅草大川景)、「兩國花火」


2029 「両国はし」は、万治2(1659)年あるいは寛文元(1661)年、幕府によって千住大橋に続く2番目の橋として隅田川に架けられました。明暦の大火の際、橋がないため10万人を超える人々が焼死・溺死したことからの反省です。当時、隅田川を境界として武蔵国と下総国とを繋ぐことから両国橋と言われました。隅田川両岸の橋詰には火除地として広小路が確保されたため、水茶屋、料理茶屋、芝居小屋、土弓場などが数多く建ち、江戸随一の盛り場となっていました。『江戸名所図会1』(p130~p132)の図版「両國」の「元柳はし」には「舟宿多し」、「柳はし」には「料理や多し」、「舟宿多し」とあって、前景美人を探るための重要な情報となります。なお、広重『江戸高名會亭盡』を参照すると、両国の「青柳」、柳橋の「万八」などの料理茶屋が紹介されています。切絵図でこの辺りを俯瞰すると、「長サ九十六間」の両国橋の西岸は大川端、東岸は本所、深川となり、料亭文化の一代ゾーンであることが判ります。

 こま絵には見世物小屋(軽業、芝居)の幟がひるがえる様、葭簀屋根と川岸の材木が描かれていて、おそらく隅田川東岸から西岸両国広小路を眺める構図と思われます。とすると、前景の美人は、大江に臨む「飛楼高閣」、水辺に立て連ねる「茶亭」、一時に水面を覆い隠す「楼船扁舟」(前掲江戸名所図会p127)に勤める芸者の姿と想像できます。絣(かすり)入りの縦縞の着物を三味線箱に脱ぎ捨てて、裾に弁慶格子(縞)が入った座敷着(紋服)に着替えています。中着も弁慶格子です。弁慶格子は、人形浄瑠璃・歌舞伎の弁慶の衣装柄から発展流行したもので、粋筋のファッションと言えましょう。また、足元の懐紙に挟んだ手鏡の房紐、襦袢の襟と島田髷の結綿を青色に統一しているところにも粋な感じがよく出ています。なお、弁慶(團十郎)人気については、後掲58「新大はし」参照。

 紫地の帯には丸く抜いた箇所に松や草花が描き込まれ、帯端には「国マロ製」と書かれていて、三代豊国の弟子「国麿」のデザインであることが読み取れます。大まかなデッサン以外の部分は、こま絵も含めて、弟子が担当する分業システムを敷いている一端が表れています。この後の美人の準備風景は、後掲21「深川八幡」に見ることができます。というわけで、いざ座敷(船)に出陣!

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19「木母寺」

湊屋小兵衛  安政4年11月

資料  「隅田川向嶋繪圖」  江戸百「木母寺内川御前栽畑」


1928 切絵図の右下、隅田川と「あやせ川」との合流地点の南部分に「木母寺」があって、境内に柳の大木がある所が「梅若塚」に当たります。隅田川東岸の名勝地で、水神、橋場への渡し、そして墨堤の桜が同切絵図によって確認できます。『江戸名所図会6』(p227~p240)によれば、「梅柳山木母寺」は「隅田村、堤のもとにあり」、歌舞伎や謡曲を通して、「例年三月十五日忌日」の「梅若丸の塚」の地、すなわち梅若伝説の地として庶民には広く知られ、「大念仏興行あり。この日都下の貴賤群参せり」となります。もともとは梅若寺といっていたのを、梅の字を分けて木母にしたと言われています。なお、梅若伝説(縁起)は、京北白川吉田少将惟房の子・梅若丸が、商人陸奥の信夫藤太に騙され、隅田川河畔に連れて来られ、その地で病で亡くなります。その1周忌に母がたまたま探し尋ねて、わが子を埋めた塚に出合うという悲哀の物語で、梅若丸のいまわの際の和歌、「尋ねきてとはばこたへよ都鳥すみだ河原の露と消えぬと」はとくに有名です。ちなみに梅若丸の歌にもあるように、この辺りの隅田川両岸地域は都鳥をキーワードとする歌枕の地としてつとに知られ、『伊勢物語』の「名にしおはばいざこととはん都鳥わが思ふ人はありやなしやと」がその代表作です。

 こま絵の情景は、木母寺を正面から捉え、正門内右手に梅の木、その奥左手に柳の大木(梅若塚)があり、雪景色となっている点が特徴的です。広重『絵本江戸土産1編』「木母寺料理屋御前栽畑内川」、同『江戸高名會亭盡』「木母寺雪見(植木屋)」ともに雪景色で、内川沿いにあった料理茶屋「植木屋半右衛門」の宣伝になっていることが重要です。この流れを受けて、江戸百においても雪景色ではありませんが、同料理茶屋に船で向かう芸者衆が描かれています。つまり、こま絵の雪景色は、閉鎖されている境内の葭簀茶屋ではなく、暖のある料理茶屋へ関心を向ける工夫と見るべきでしょう。

 以上の状況を踏まえると、前景の美人は、船に乗って植木屋などの料亭茶屋に向かう姿と考えられます。こま絵の雪景色を前提にしているので、藍染の唐草模様の布団を掛けた小さな櫓炬燵に入り、市松模様の被布を防寒用に着ている次第です。その目的はといえば、同江戸名所図会掲載図版「木母寺 梅若塚 水神宮 若宮八幡」の書き入れ(p230)、すなわち「木母寺に哥の會ありけふの月 其角」が参考になります。つまり、歌会あるいは句会等に参加するというわけです。美人をよく見ると、何か歌の書かれた紙(本)に携帯用硯の朱墨で添削している仕草です。女流歌人と思われます。天神髷を結う姿はかなり粋筋ですが、これは木母寺(梅若塚)の梅に因んで選ばれたと考えたいところです(後掲62「するがだい」参照)。なお、船の手前の簾が巻き上げられているのは、隅田川の雪景色を見るというよりは、中の美人を見せるための省略表現と捉えたほうが自然です。

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18「妻恋稲荷」

湊屋小兵衛  安政4年11月

資料  「小石川谷中本郷繪圖」  江戸百に対応図版なし


1827 切絵図を見ると「妻恋稲荷」は、「神田明神社」と「湯島天神」の間に位置しています。『江戸名所図会5』(p38)には、「妻恋大明神の社」は「妻恋坂の上にあり」、「当社は往昔(そのかみ)、日本武尊東征の頃の行宮(かりみや)の地なりと云々」とあります。日本武尊が入水した弟橘媛命を偲んで「吾が嬬はや」と嘆いた事跡を受けて、「東征のときの行宮の地たるによつて、かの尊を鎮(まつ)り奉り、妻を恋ひ慕ひたまふの意を取りて、ただちに妻恋明神と号けしなるべし」と記され、その後、稲荷が合祀されて、妻恋稲荷と呼ばれるようになったと解説されています。こま絵には、「正一位妻稲荷大明神」などの幟が立っていて、妻恋稲荷の拝殿・本殿を描いているものと思われます。

 前景の美人は、浄瑠璃を語る娘(女)義太夫です。浄瑠璃は、三味線を伴奏楽器として太夫が詞章を語る点に特徴があります。女性による義太夫語りは天保の改革で禁止されたので、自宅で稽古を付け師匠として生計を立てる形態になりました。房飾りの付いた漆塗りの見台に床本を置いて、自ら三味線を弾き稽古を付ける美人ですが、碁盤と白黒の碁石をイメージした着物の柄がかなり目を引きます。これはおそらく、「碁盤忠信」という有名な浄瑠璃をここで語っていることを表現するものです。碁盤忠信(たとえば『碁盤忠信雪黒石』など)は、源義経の有力家臣佐藤忠信の最後を飾る英雄譚で、吉野(山)を舞台とした源九郎狐・狐忠信(たとえば『義経千本桜』など)の後日章を語るものです。すなわち、恋する女に会いに出かけた忠信が裏切られ、追手に踏み込まれた際、碁石を踏む音で追手に気付き、碁盤を腕で持ち上げて追い払いながらも、ついには最期を迎えるという内容です。

 「妻恋」稲荷に掛けて、妻(女)に会いに出かけ命を失った碁盤忠信を、また妻恋「稲荷」に掛けて化身の狐忠信を想起させ、それらを語る娘(女)義太夫の美人を描いたのが本作品ということになります。義太夫、人形浄瑠璃、歌舞伎狂言などがこま絵の名所と百人美女とを結びつけるネタになっていることが重要です。

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17「葵坂」

上州屋金蔵  安政4年11月

資料  「口南西久保愛下之圖」  江戸百「虎の門外あふひ坂」


1726 切絵図左上(北西)部分に「溜池」が覗いていますが、その溜池の余水が石堰を越えて外濠に流れる滝が、流れ落ちる水の音から「赤坂どんどん」と呼ばれる所です。その滝の上部にある辻番所から「松平肥前守」中屋敷に添って下る坂が「葵坂」に当たります。辻番所の傍らに葵が植えられていたことに因みます。江戸百作品がその坂を的確に捉えています。こま絵に描かれる上部の木は、溜池築造の記念樹・印の榎と呼ばれる大樹と思われます。また下部には幟旗が3本程見えていますが、切絵図と対照すると「京極佐渡守」上屋敷地内の「コンピラ」に相当することが判ります。この部分は、広重『絵本江戸土産3編』「虎の門金比羅社葵坂」によく描かれていて、讃州丸亀藩(京極家)の敷地内にあった金毘羅大権現の社のことです。書き入れには、「毎月十日参詣夥し」とあります。なお、北斎『諸国瀧廻』「東都葵ヶ岡の滝」参照。

 さて、前景の美人は、前回「赤羽根水天宮」に登場した鳥追いと似ていることに気付きます。相違する点は、編笠が菅笠に変わり、着物は無地の紋付から格子柄となり、やや派手になっています。姿勢も背筋を伸ばしたか否かという違いがあります。これは、期間限定の鳥追いから発展し、1年を通して稼ぐようになった「女太夫(おんなだゆう)」と呼ばれる門付け芸人の姿なのです。富本や常磐津を唄い、三味線を忙しくかき鳴らすのがその特徴とあります(三谷・前掲『江戸年中行事図聚』p54)。江戸百「日本橋通一丁目略図」にも粋な後ろ姿が描かれています。

 「葵坂」と女太夫の関連は、「赤羽根水天宮」と鳥追いの関係から推測できます。後者は、久留米藩(有馬家)上屋敷の門内にあった水天宮を門付けの鳥追いに関係付けたものでした。とするならば、前者は丸亀藩(京極家)上屋敷の門内にあった金毘羅大権現と門付けの女太夫を関連付けたものであることが推測されます。つまり、御利益と縁起の良い詞を唄う美人とを門で繋げた考案ということです。門・屋敷内の私的寺社の江戸庶民への開放は、お賽銭を通して藩の財政を支える重要な経済行為として認識され、結果、各藩においてそれぞれ普及することになりました。

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16「赤羽根水天宮」

山口屋藤兵衛  安政4年11月

資料  「三田二本髙輪邉繪圖」  江戸百「増上寺塔赤羽」


1625 切絵図を参照すると、三縁山増上寺の南側を流れる赤羽川(渋谷川、古川、新堀川、金杉川)に架かる「赤羽橋」を渡ると、右手に辻番所、正面に「有馬中務大輔」の上屋敷が見えるのですが、「赤羽根水天宮」はその屋敷内北西角にあります。久留米藩有馬家は増上寺警護の役目を担っているので、邸内の岡には江戸で一番高い火の見櫓が立っていたことで有名です。江戸百を見ると、増上寺の五重塔越しに火の見櫓が描かれており、その右側に6本の白い幟が覗いているのが水天宮に当たります。筑後川の水神が祀られ、水難除け、安産、水商売等の御利益があるとして、毎月5日は水天宮参りで大変賑わっていました。こま絵にも、屋敷内の火の見櫓と水天宮の幟が描かれています。なお、「赤羽」の呼び名について、『江戸名所図会1』(p275)は、「赤羽橋」に関連して、「赤羽は、赤埴(あかはに)の転じたるならんか」と述べ、赤色の土が産出したことに由来していると推測しています。

 さて、前景の編笠を被り三味線を持つ美人は、無地の紋付を着て、紫地に弁慶格子を花形に染め出した帯を締めています。この姿は「鳥追い」と呼ばれる女芸人の典型的スタイルです。その昔、長者に田園の鳥を追うために雇われた者が、年の初めにその長者を祝って歌ったことから発展・芸能化して、正月1日から15日(小正月)にかけて各家を回って門付(かどづ)けを行うようになったと言います(三谷一馬『江戸年中行事図聚』中公文庫・1998、p51以下参照)。なお、本図の右下の石と石畳は家の門(戸口)を表すものでしょう。山田(前掲書p72)にもありますが、鳥追いは「戸口に立ったとき、その立ち姿が美しいことが売りだった」ので、背筋の通った美しい美人として描かれています。なお、編笠を被っているのは、門付けに際しては顔を隠しているのが礼儀であったことがその理由となっています。

 ところで、こま絵の赤羽根水天宮と前景の鳥追いの美人とはどういう関係があるのでしょうか。正月5日の初水天宮に有馬邸が開門されることと門付けの鳥追いとを関連させたのでしょうか。あるいは、江戸で一番高い火の見櫓と鳥追いの美しい立ち姿を並列させる趣向でしょうか。さらには、鳥追い→鳥の羽→(赤)羽(根)という地口から、鳥追いを赤羽根に結びつけたのかもしれません。後掲17「葵坂」の女太夫もあわせ考慮すると、門内にあった水天宮と各門を回る鳥追いの門付け行為とを関連付けたとしておきます。そうで有馬の水天宮!

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15「赤さか氷川」

遠州屋彦兵衛  安政4年11月

資料  「今井谷六本木赤坂繪圖」  江戸百「赤坂桐畑」、「紀の国坂赤坂溜池遠景」、「赤坂桐畑雨中夕けい」


1524 赤坂御門を出た紀の国坂南側一帯が赤坂と呼ばれる地域で、切絵図によればちょうど絵図中央に「氷川明神」と記される所が「赤さか氷川」に当たります。『江戸名所図会3』(p161)には、「氷川明神社」として、「赤坂今井にあり(このところを世に三河台といふ。天和の頃、松平参河守様御屋敷なりしゆゑに名とす)」とあり、「祭神当国一宮に相同じ。赤坂の総鎮守にして、祭礼は隔年六月十五日、永田馬場山王権現と隔年に修行す」と記されます。同江戸名所図会掲載図版「赤坂氷川社」(p164~p165)を参照すると、こま絵は、鳥居と拝殿・本殿の屋根部分を描いたものであることが判ります。なお、切絵図からは、この地域に武家屋敷が多く、その中に赤坂、今井谷、六本木の町家とその付近に寺社が集中していることが読み取れます。

 赤坂氷川明神は紀伊徳川家の産土神で、赤坂の紀伊家で産まれた8代将軍徳川吉宗の尊崇が篤く、享保年間に屋敷地より当地に遷座されています。前掲10「根津権現」を思い出せば理解できますが、徳川家ゆかりの寺社には岡場所が自ずと発達します。確かに、切絵図にも「氷川門前町」の記載があります。しかしながら、前景美人にはそれ(私娼)を示す暗号は全く見付けられません。

 氷川明神が当地に移転された背景には、ここが廃絶された備後国三次(みよし)藩の下屋敷のあった場所で、赤穂藩浅野内匠頭の妻・遥泉院(阿久理)の実家であったという事情があります(『横から見た赤穂義士 鳶魚江戸文庫3』中公文庫1996、p305以下参照)。つまり、氷川明神から歌舞伎・講談などでお馴染みの『忠臣蔵』が思い浮かぶという点が重要なのです。たとえば、箏(琴)の演奏という観点では、三代豊国『誠忠大星一代噺 二十四』(都澤・弘化4・1847年~嘉永5・1852年)において、侍女おかるが、討入りのため鎌倉に下向する大星由良之助に餞(はなむけ)の爪琴(12弦)を弾じる作品があり、本作品との関連性を強く感じます。また、切絵図にある「南部坂」は、大石内蔵助が遥泉院を暇乞いに訪れた「南部坂雪の別れ」の舞台として脚色されています(国芳『誠忠義心傳 後室瑶心院尼』海老屋・弘化4・1847年~嘉永5・1852年参照)。

 箏は職業としては盲人にのみ許されるものなので、本作品を見る限り、表向きは「武家の娘のたしなみ」を描いたという位置づけになります。前景の美人は、総柄の着物に縦帯をしており、丸爪を使う山田検校の流儀で12弦を弾いているようです。山田(前掲書p69)は大名家に仕える奥女中と解し、花嫁修業の場を紹介する作品と捉えているようですが、氷川明神という土地柄や前掲『誠忠大星一代噺』のおかるが元々腰元であったことを考え合わせると、端的に、忠臣蔵の腰元おかるをモデルにしている、あるいはおかるに見立てているとの理解の方が妥当なのではないでしょうか。

 なお、切絵図の氷川明神裏の武家地に、「勝麟太郎」という文字を発見します。安政6年以降、勝海舟はこの地で生活を送ります。その意味では、確かに江戸城(表)と深い係わりのある地域であることは確認できます。したがって、御殿(奥)女中をまったく排除することも間違いでしょう。

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14「目黒瀧泉寺」

湊屋小兵衛  安政4年11月

資料  「目黒白金圖」  江戸百「目黒太鼓橋夕日の岡」


1423 「目黒瀧泉寺」は、行人坂を下り、江戸百作品に描かれた目黒川に架かる太鼓橋を渡った先の高台にあります。切絵図を見ると、「金毘羅大権現」、「大鳥大明神」、「岩屋弁天」、「蛸藥師」、涅槃釈迦像の「養安(ママ)院」(安養院)、平井権八と小紫の悲恋を哀れんで建てられた「ヒヨクツカ」(比翼塚)などの寺社名所に囲まれています。『江戸名所図絵3』(p107)は、「同所(蛸薬師如来)の西、百歩のあまりにあり。泰叡山滝泉寺と号す。天台宗にして東叡山に属せり。開山は慈覚大師、中興は慈海僧正なり」と記し、「本堂不動明王 慈覚大師の作」とあって、「目黒不動堂」と呼ばれる所以です。こま絵の石段の先に描かれるのが本堂に当たります。石段の左手には水垢離(こり)姿がありますが、おそらく目黒不動の垢離場「独鈷(とっこ)の滝」を表すものと思われます。また同江戸名所図会(p125)には、「この地は遥かに都下を離るるといへども、詣人つねに絶えず。ことさら正・五・九の月二十八日、前日より終夜群参してはなはだ賑はへり。また十二月十三日は煤払ひにて開帳あり。これも前夜より参詣群をなせり」とあります。これにくわえて、この寺で興行する富籤は、谷中感応寺、湯島天神とならんで、江戸三富として有名でした。したがって、「門前五、六町が間、左右貨食店(あきないみせ)軒端をつどへて詣人をいこはしむ。粟餅(あわもち)・飴、および餅花の類を鬻(ひさ)ぐ家多し」となります。同江戸名所図会掲載図版「目黒不動堂」(p122~p123)にも、「門前茶や多し」との書き入れがあります。

 以上の情報を前提にすれば、前景の美人は、門前にあった料亭茶屋の女中の働く姿であることが判ります。塗り盆(硯蓋)に料理を載せ、鉄瓶に酒を入れ、座敷の用意をしているところです。盆に載るのは、蒲鉾、玉子焼、きんとん、羊羹、寒天菓子などでしょうか。会席料理の最初の盆料理(盛り合わせ)となります。縞柄の着物に黒襟、襦袢の襟は市松模様、帯の表地は黒、裏地は亀甲繋ぎで大変落ち着いています。帯の上部を折り曲げ、前掛けをするスタイルは働く女性を表現するものです。前掛けの水色の地に源氏香、源氏車、双葉葵の各柄は京風で、店の格を上げるための工夫です。帯の部分に、「大當」、「はしは」の文字があります。「はしは」は、目黒不動の門前町に入ってくる最初の角、蛸薬師の前辺りにあった有名な料亭茶屋「橋和」のことで、「大當」とあわせて考えると、毎月9日に行われる富籤を目当てに参詣する客を念頭に置いたものと考えられます。料亭茶屋橋和屋の宣伝が目的の作品です。なお、目黒不動一帯はどちらかと言えば健全な遊び場であり、それは本作品の美人を見ていても感じられるところです。

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