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36「今戸」

大黒屋金之介  安政4年11月

資料  「今戸輪淺繪圖」  江戸百「墨田河塲の渡かわら竃」


3677 こま絵が「今戸」の題の下に描いているのは、2つの竃から煙が立ち上り、その背後に隅田川の渡し船が漕ぎ行く様です。ほぼ同じ光景を写す江戸百を参照すると、瓦や陶器などを生産する今戸焼の窯の煙と橋場の渡し船であることが判ります。今戸焼は製法上艶を出すために同時に松葉を焼くので、窯からもうもうと立ち上る煙が特徴的でした。『江戸名所図会5』掲載図版「長昌寺宗論芝 隅田川西岸」(p422~p423)に窯焼き風景が描かれています。また、同江戸名所図会掲載図版「今戸焼」(p426)には、「この辺甄者(かわらし)・陶器匠(やきものし)ありて、是を産業(なりはひ)とする家多し。世に今戸焼と称す」と注意書きされています。

 切絵図を見ると、浅草御門を出た奥州街道は浅草聖天町で北西に岐れて千住大橋に向かいますが、聖天町を直進し今戸橋を渡ると「淺草今戸町」、「同橋塲町」に至ります。ここから隅田川を渡って向島の寺島に行くのがかつての旧道で、そこにあった橋場の渡しは最も古い渡し場でした。切絵図には、「此辺瓦ヤクナリ」、「都鳥ノ名所ナリ」、「舩渡塲向島エ渡ル」などの文字が見えます。結論的には、今戸のこま絵から暗示されるものは、岸辺で瓦を焼く煙、都鳥、船渡し、在原業平の東下りなど、隅田川で最も古い橋場の渡しを巡る情緒ということになるのではないでしょうか。

 前景の美人は、膝に唄の教本を置いて三味線を爪弾いているので、いわゆる小唄の練習をしているのだと思われます。天保の改革で芝居小屋以外の三味線が禁止されたので、伴奏なしの端唄が流行り、後に改革の規制が緩んでからは、撥を使わず静かに三味線を爪弾く小唄形式が確立しました。だから、小唄をやっても罰(撥)は当たらないという洒落もあるくらいです。ちょうど本作品は、この小唄誕生の頃を描いていると言えましょう。美人の髪型はおばこで、多くの町家の主婦が結ったものです。これは、髪を束ねて左右に小さい輪を作り、横に笄を挿して、中央を余った髪で巻くものです。黒襟の額仕立ての着物に鹿の子絞りの半幅の帯をして、縞柄の綿入れ半纏を着ているようです。眉の剃り跡が青く残されているので新妻という前提でしょうが、今戸橋界隈の料理屋に出入りする(山谷)堀の芸者の存在、三味線・小唄、そして化粧道具が覗く鏡台や玉を連ねた髪飾りとくれば、芸者上がりの妾と見るのが自然でしょう。

 本作品の読み解きのコツは、絵だけでなく、唄にもあります。すなわち、こま絵の情景などから美人がどんな小唄を歌っているかを想像してみるのも面白いものです。たとえば、

 よりかかりし床ばしら 三味線とつて爪弾きの
 仇な文句の一ふしも 過ぎし昔を しのび駒

*しのび駒とは三味線の糸を持ち上げてぴんと張る台板で、紙駒を入れると低く静かな音になります。中田治三郎『小唄江戸紫』(邦楽社・1948)参照。

 なにしおはば ながめつきせぬ すだづゝみ きみにあふせを まつちやま
 ちらりとかげが 見ゆるぞへ いざこと問はん都どり 在五に名所が あるわいな

*「在五」とは在原の五男、在原業平のことで、東下りして橋場の渡しに際する歌、「名にしおはば いざ言問はん都鳥 吾が思ふ人は ありやなしやと」を下敷きにしています。なお、この古歌は「言問橋」命名の由来でもあります。『江戸端唄集』(岩波文庫・2014、p99)より。

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