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13「浅草寺」

辻屋安兵衛  安政4年11月

資料  「今戸輪淺繪圖」  江戸百「淺草金龍山」


1322 「浅草寺」について、たとえば『江戸名所図絵5』(p225~p273)には、「金竜山浅草寺 伝法院と号す。坂東順礼所第十三番目なり。天台宗にして、東叡山に属せり」に始まって50頁近い解説があり、図版「金龍山浅草寺全圖共五枚」(p226~p235)という大部のものが掲載されていて、浅草寺のこま絵から提供される情報中何が重要なのかは漠としています。しかし、前景の美人が天目台に載った茶碗を持つ立ち姿から、浅草寺境内・門前に数多くあった水茶屋の美人を描くものであることは容易に理解できます。同江戸名所図会掲載図版(p228~p229)中に、「二十軒茶屋は哥仙茶屋ともいへり。昔はこの所の茶店にて「御福の茶まいれ」とて参詣の人を呼ひけるとそ。今は其家の員二十余軒ある故に俗是をよむて二十軒茶屋といひならはせり」と説明されており、仁王門前の参道にあった二十軒茶屋を題材にしていると判断できそうです。本作品が浅草寺水茶屋の看板娘一般を採り上げているならば、雷門と仁王門の間の仲見世にあった二十軒茶屋と見て間違いないのですが、特定の美人と考えると別の結論に至ります。

 喜多川歌麿「寛政の三美人」のナンバー1、「難波屋おきた」を描いた作品をここで採り上げます。浅草寺随身門脇の水茶屋の看板娘で、歌麿の美人絵に何度も登場しています。『定本武江年表中』(p154)によれば、「浅草寺随身門前の茶店難波屋のおきた・薬研堀同高島のおひさ・芝神明前同菊本のおはん、この三人、美人の聞え有て、陰晴をいとはず此店に憩ふ人、引もきらず。筠庭(いんてい)云、随身門前は見物の人こみ合て、年の市の群集に似たり。おきたが店の前には水をまきたり」との有様です。歌麿が確立したこのおきたの立ち姿を三代豊国がそのまま踏襲している点を考えると、前景美人は難波屋おきたがモデルであるとする方が自然です。逆に、本作品から歌麿作品を思い出さないことこそが不思議です。寛政と安政の時代状況の違いがあって、服装デザインは今様に手直しされていますが、往年の美人絵の大家・歌麿を時の美人絵の大家・三代豊国が敬意を持って写したのが、本作品と考えます。したがって、こま絵は仁王門と五重塔の東側にあった随身門を暗示するものと解します(切絵図参照)。なお、おきたは、愛嬌がよく、お世辞が上手で、茶代が少なくても変な扱いをすることはなく、その人柄が人気に繋がったようです(『江戸の女 鳶魚江戸文庫2』中公文庫・1996、p236)。ちなみに、水茶屋人気も天保の改革による規制で下火となり、かわって遊戯要素の強い楊弓場(矢場)に人気は移っていきます。

 美人の髪型は高島田で、前髪に挿した柘植の櫛が落ちそうに見えるところが男心をくすぐる工夫ですが(前掲9「長命寺」参照)、実際には細紐で髪に括りつけられています。接客を意識したお洒落です。着物は網目模様、帯は表地が献上博多で落ち着いています。ただし、帯の裏地は緋地に三筋格子、前掛けは椿花が白抜きされていてこの点に粋を感じます。胸元の帯に挟んだ手拭い、また手にする茶碗には都鳥の模様があって、隅田川が近いことが想像されます。こま絵の仁王門の屋根に鳥が営巣しているのも同じ理由からです。なお、着物には色柄など幕府の風俗規制が及びますが、裏地や前掛けはその対象外なので、前掛けの流行もここに一因があるようです(同『江戸の女』p261以下参照)。さて、前掛けで注目すべきはその柄で、「國久」、「大當」などの文字を読み取ることができます。版元印などが見つからないので、三代豊国がこま絵を描いた弟子国久をお披露目、宣伝したものと解せられましょう。

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12「芝神明」

藤岡屋慶次郎  安政4年11月

資料  「口南西久保愛下之圖」  江戸百「芝神明増上寺」


1221 「芝神明」は、三縁山増上寺の東方神明町に位置し、正式には飯倉神明宮と呼ばれます。『江戸名所図会1』の図版「飯倉神明宮」(p240~p242)には、「世に芝の神明宮といふ」と説明されています。また、同江戸名所図会掲載図版「九月十六日飯倉神明宮祭礼」(p244~p245)には、「世にしやうかまつりといふ。十一日より廿一日迄参詣群集す」とあって、生姜祭りの賑わいを特別に記しています。こま絵は、楼門辺りから千木(ちぎ)を特徴とする拝殿・本社を描くもので、その様子は江戸百作品では増上寺の大門の右側背景に見えています。しかし、こま絵からの情報で重要なのは、その建物の右手に提灯が下がる茶屋がある点です。同「飯倉神明宮」の図版には、社殿の右側に、「茶や」、「しばゐ」、「吹矢」、左側に、「土弓(どきゅう)」などの記載があって、江戸南部随一の盛り場であった状況が詳細に示されています。神明宮が徳川家の菩提寺増上寺の眼前にあって厚い保護を受けていたこと、また切絵図から明らかなとおり東海道直近で交通の便がよいことを勘案すれば、社地や門前周辺が遊興の地として発展したことは当然のことです(前掲10「根津権現」参照)。

 前景の美人は、弓と矢という道具立てから考えて矢場の美人であることが判ります。同「飯倉神明宮」の図版に記載されていた「土弓」を受けた作品です。本来土弓は的山を弓矢で射る遊戯ですが、楊弓(ようきゅう)の意味も含めて使われます。本作品は、弓(2尺8寸・ 約 85cm)や矢(9寸・ 27cm)の長さから判断して、まさに楊弓場で矢を拾う等のサービスを提供する「矢場女」、「矢取り女」を描いています。実際には客は矢を射ることよりも、彼女達との会話を含めた接待・接客を楽しむことが主目的ということが少なくありません。また、周辺に岡場所がある環境なので隠れて色を売る女も現れます。その他に景品を賭けさせたりもしたので、賭博も絡み、矢場はいささか「やばい」所です。

 前景の美人の、格子と縞と鉄線の花模様の更紗を接ぎ合わせたパッチワークの着物、灰色の地に黒の麻柄模様の襦袢の襟、源氏香と双葉葵を染め抜いた前掛けという姿からすると、健全な矢場の美人と見るべきでしょうか。ただし、美人は愛嬌ある視線を客に向けています。なお、前掛けの柄は京風で、上品な美人であることを強調する意図と思われます。前掛けは本来は仕事用のものですが、装飾ファッションアイテムとしても流行しました(後掲13「浅草寺」参照)。

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11「御茶の水」

遠州屋彦兵衛  安政4年11月

資料  「飯田町駿河臺小川町繪圖」、「小石川谷中本郷繪圖」  江戸百「昌平橋聖堂神田川」、「水道橋駿河台」


1120 「小石川谷中本郷繪圖」を見ると、水道橋の下流「上水樋」の辺りに「御茶之水」と記載があり、ここと昌平橋上流一帯が「御茶の水」と呼ばれる地域となります。名前の由来には、将軍のお茶に供した名井があったことなどいくつかの説があります。慶長(1596~1615)年間の開削、拡幅によってできた神田川沿いの両岸は切り立った崖となっており、「茗溪(めいけい)」(お茶の谷)、「小赤壁」(三国志・赤壁の戦いの地)とも呼ばれる所以です。こま絵は、江戸百の2作品を足したような作品ですが、おそらく『江戸名所図会1』(p106~p107)の図版「御茶の水 水道 神田上水懸樋」を元絵としていると考えられます。したがって、構想上の富士の手前に架かっているのは、不正確な描法ですが上水樋で、右の崖上の建物は森山の水守役もしくは有名な鰻屋の建物かと思われます。よく見ると神田川には船が浮かんでいます。

 さて、前景の美人に目を移すと、絣(かすり)の着物を振り洗いする洗濯女です。(久米)仙人が女の「白い脛(はぎ)」を見て、神通力を失い雲上から墜落した有名な伝説(久米寺縁起)を受けて、洗濯女あるいは晒女は美人絵の典型的主題の1つになっています。険しい崖の間を流れる神田川が造る風景とその間から遠望される富士頂上を仙境(仙界)に例えるならば(国貞『霧中の山水』山口屋参照)、その仙人の力をも封じてしまう洗濯女の自然な美しさを対比的に捉える作品は、十分に理由があります。この後、洗濯女の前に久米仙人が落ちてきますが、その1歩手前で描き止めたところが三代豊国の美意識です。とはいえ、本作品美人の視線は崖の上に向けられているので、上に誰かがいることは想像できます。

 崖の上には昌平坂学問所および孔子とその弟子を祀った聖堂があるのは周知のことなので(『江戸名所図絵5』p13以下参照)、深読みをすれば、洗濯女の所に落ちてくるのは、仙人ではなくて、儒学の教授やその学徒達かもしれません。儒教倫理によって吉原遊郭と芝居小屋は悪所と呼ばれ、それを描く浮世絵師は幕府から厳しい取締りを受けていることを考えると、身分の低い女が洗濯する姿を描いた1枚の浮世絵でもって、儒学の殿堂で教える者、学ぶ者の言動を封印しているとも、挑発しているとも読み取れます。美人絵の大家、三代豊国の自負を感じます。「儒者の不身持(ふみもち)」という言葉を飲み込んでいるのかもしれません。

 なお、『女大学栄文庫』(嘉永4・1851年)によれば、男女を問わず、第1にしなければならないことは学問ですが、女がしなければならない仕事は、1が裁縫、2が洗濯(しわ伸ばし)と記されています。その意味で、洗濯女は儒者に批判されることはない存在のはずです。ちなみに、孔子は父を3歳の時亡くし、その後曲阜に移り住みますが、中国アニメでは、母が洗濯女として生計を支えたとあります!これは孔子が幼少期貧困生活を送ったことからの創作ですが、三代豊国が洗濯女を描いた発想の内にあるものを示唆しています。

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10「根津権現」

若狭屋与市  安政4年11月

資料  「小石川谷中本郷繪圖」  江戸百「千駄木団子坂花屋敷」


1019 「根津権現」は、江戸城の東北鬼門の方角を守る寺社の一団に含まれ、不忍池の北側に位置します。切絵図を見ると、染井、谷中を抜けてきた藍染川(谷田川、谷戸川、境川、蜆川、蛍川)が根津権現の東側を流れ、不忍池に注いでいます。土地柄は、江戸の内と言われる中山道「本郷三丁目」を過ぎていて、「加賀中納言」の上屋敷などの武家地が続き、他は百姓地が広がる農村地域と想像されます。『江戸名所図会5』(p123)には、「根津権現社」として、「上野より五町ばかりを隔てて乾の方にあり。祭神、素戔嗚尊(すさのおのみこと)(御産土神・おんうぶすな)」とあり、「当社境内、始めは甲府公【徳川綱重、家宣の父】御館の地なりしが、根津権現は大樹の(文昭公【徳川家宣、6代将軍】)御産土神にして、御宮参りまでありけるゆゑ、のちに右の御館の地を賜り、宝永年中新たに当社を御造営ありて結構備はる」と記されています。つまり、家宣の将軍宣下をきっかけに、産土神であった根津社が団子坂上の千駄木から館跡地に移され、天下普請によって壮麗な権現造りの社として建立されたということです。

 とはいえ、こま絵に描かれる根津権現の社と前景の機を織る美人とはどう係わるのでしょうか。主祭神が素戔嗚尊となれば、天照大神の岩戸隠れの原因となった、赤馬の皮をむいて織物小屋に投げ込んだ狼藉を思い出します。天鈿女命(あめのうずめのみこと)がエロチックな踊りをし、八百万の神々が大笑いしたところを覗いた天照大神は岩戸から引き出され、再び世界に光が戻ります。同江戸名所図会掲載図版「根津権現社」(p120~p122)に、「當社の境内を世に曙の里といへり」との書き入れがあるのも、この神話を前提としていると考えられます。切絵図にも「此辺アケホノゝ里ト云」との説明があります。前景美人は、神話から導き出された織女というのが表向きの解釈です。

 肝要なのは、同江戸名所図会(p123)が最後の部分で、「ことに門前には貨食店(りょうりや)簷(のき)をならべて詣人を憩(いこ)はしめ、酣歌の声間断なし」と記す点をどう理解するかです。名所図会一般の読み方に関することですが、これは、根津権現の造営に際し、職人や人夫などを相手にした飲食店・飲み屋とともに私娼が入り込み、根津の地が江戸有数の岡場所(私娼街)であった事実を上品に語ったものと評価すべきです。根津の妓楼川島屋の抱えに、身の回りのものすべてを烏(からす)模様で整えた「お岩」という遊女がいた記録があります。理由は烏の「反哺(はんぽ)の孝」を忘れないためですが、売られた身を恨まず親に送金を続けたそうです(森まゆみ『不思議の町 根津』ちくま文庫・1997、p65)。前景美人の襦袢の紫の襟が烏模様になっている理由も、これで解けます。頭に被った手拭いが烏ならお岩の記号ですし、雀ならば「舌切り雀の恩返し」でしょうか。とすれば、機織り姿も、「鶴の恩返し」と解釈した方がおもしろそうです。着物の柄が石臼の目になっているのは、石→岩を想像させる工夫と見ます。美人は、身を売る前のお岩です。

 表の意には、土地柄から農家の娘が機を織る健康美を描きつつも、裏の意には、根津で有名な遊女お岩を通して門前の岡場所(遊郭)を想起させ、根津権現が神話の天鈿女命以来の(正当な)歓楽街であることを表現する1枚となっています。また藍染川にも2つの意味があって、言葉通りの意味ならば、染める綿布を織る機織りの美人図となりますが、門前で「初めて合(遇)う」となれば遊郭もしくは遊女に繋がります。二重構造を利用して、三代豊国がこれほど気を遣うのは、根津の岡場所を取払いとした天保の改革の影響が未だ強く残っていて、シリーズ初めに幕府に睨まれるようなあからさまな表現は避けたいとの事情があったからでしょう。ちなみに、寺社の門前は、初め町奉行の管轄ではなく寺社奉行の管轄で取締りも甘かったので、結果、岡場所が発達して周辺は聖俗併せ持った世界となります。

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9「長命寺」

上州屋金蔵  安政4年11月

資料  「隅田川向嶋繪圖」  江戸百「真乳山山谷堀夜景」、「吾妻橋金龍山遠望」


0918 切絵図を見ると、墨堤に沿って北に進み、「竹屋渡」の背後にある「ミメグリ稲荷社」、次に「牛ノ御前」を過ぎると、「長命寺」があります。「名物サクラモチ」と記されています。こま絵にも、屋根船や渡し船の浮かぶ隅田川の背後堂宇の中に「櫻もち」の旗が立っているので、桜餅を売っていた茶店の宣伝であることが直ちに理解できます。なお、『江戸名所図会6』(p193以下)は、「宝寿山長命寺」として、「長命水(同じ堂の後ろの方にあり。一に般若水といふ)」が有名であり、徳川家光が、猟の途中、体調を崩して寺で休み、庭前の井の水で薬を服用したところたちまち治ったので、「この井に長命水の号を賜り、寺の名をも改むべき旨台命あり」と命名由来を語っています。あわせて、墨堤の桜、牛御前宮と長命寺周辺の「隅田川東岸」を描く図版が掲載されています(同江戸名所図会p190~p192)。この家光ゆかりの名水の寺に茶店があり、寺の桜を使った桜餅が大評判であったことが、前景の美人を読み解くヒントになります。

 本作品の「つぶし島田」の美人は、床几の上の「櫻」と書かれた木箱、右手のお盆、左手のお土産用の桜餅の入った竹籠、そして前掛けをしている姿などから、名物桜餅を売る茶屋の看板娘であることが判ります。対岸今戸辺りは都鳥の名所なので、前掛けの柄が桜に都鳥となっています(歌舞伎『都鳥郭白浪』参照)。帯は表地が藍、裏地が紅で、ともに菊花模様でしょうか。着物は、山田(前掲書p57)の言うように、「味噌漉(こ)し」という格子柄です。作品の背景が水色一色なのは、隅田川もしくは長命水のさわやかなイメージなのかもしれませんが、第一印象はやや現実感に欠けます。

 茶屋の娘は市中の美人を代表する存在として浮世絵にしばしば描かれます。本作品の場合も、長命寺の桜餅として有名な山本屋の娘「おとよ」がモデルとなっています。おとよは、三代豊国によって描かれたことよりは、安政4年6月17日、老中在任のまま江戸で急死した阿部正弘の側室として召されたことで有名です(『大名生活の内秘』鳶魚江戸文庫16・中公文庫・1997)。下屋敷に上がったのはおとよが18歳頃で、安政3年の風刺物では、阿部正弘は、やっかみもあって当然批判の対象です。本作品の版行を考えると阿部正弘の死後のことであり、よく言えば阿部正弘の死亡報告、悪く言えば溜飲を下げるスキャンダルネタとして取り上げているように思われます。いずれにせよ、阿部正弘はこの世にいないので、「死絵」と同様、この世ではないことを表す水色が背景に使われているのではないでしょうか。

 江戸百との関連では、安政4年8月、「真乳山山谷堀夜景」と「吾妻橋金龍山遠望」が視点を隅田川東岸から西岸方向彼岸を眺望する構成で版行されています。なかでも、真乳山の作品は、前景に1人の女性の全身像が描かれるという特徴があります。堀の芸者として名を馳せ、かつ、今土橋の北詰に会席亭有明楼を開業した「お菊」の実像であると言われています(原信田実『謎解き 廣重「江戸百」』集英社新書・2007、p126)。お菊は、仏教界の重鎮と歌舞伎役者とが絡んだ三角関係・スキャンダルの主人公でもありました(詳細は、堀口茉純『フカヨミ!広重名所江戸百景』小学館・2013、p8以下参照)。これに対して、隅田川の此岸である長命寺のおとよという、実在の、やはりスキャンダルの主人公である女性を画題としたのが、安政4年11月版行の百人美女「長命寺」と考えられます。

 さらに、両絵師の知恵比べはこれで終わることはなく、広重は、安政4年12月、「御厩河岸」において、隅田川を渡って柳原の土手に向かう「夜鷹」の出勤風景を描くのですが、その背景に暗示されている景色は、石原町の老中阿部正弘の下屋敷なのです。切絵図「本所繪圖」には、隅田川東岸に「阿部伊勢守」と記されています。なお、船で営業する私娼を船饅頭と言いますが、これが長命寺の桜餅に対して使われているとするならば、かなり辛辣な表現となります。浮世絵が、単に美人や名所を描いたものでないことがよく判るとともに、浮世絵師・版元の間には、依存と対抗の関係がそれぞれあることも十分に理解されたことでしょう。

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8「霞ヶ関」

若狭屋与市  安政4年11月

資料  「麴町永田町外櫻田繪圖」  江戸百「霞かせき」


0816 前景の美人は、三代豊国の源氏絵に登場するような姫君です。こま絵の霞ヶ関といかなる関係があるのかが問題です。

 切絵図によれば、「櫻田御門」の南側、「松平美濃守」の上屋敷と「松平安藝守」の上屋敷の間が「霞ヶ関」と呼ばれる坂道です。広重『絵本江戸土産3編』「霞が関」にも、「外櫻田黒田矦と淺野矦の間の坂をいふ。この所古き名所(などころ)にて哥どもあまたあり」と説明されています。大名名家の並ぶ場所で、東に向かって下り、その先の町家や海岸の景色は江戸百によく表わされています。本作品版行の安政4年11月時点で、描かれた美人に相当する姫君は、広島藩主の嫡男浅野慶熾(よしてる)(1836年~1858年)に嫁し、霞ヶ関の上屋敷に住まう、利姫(1836年~1879年)が第一候補かもしれません。翌年、慶熾は10代藩主となりますが、同年死去し、利姫は未亡人(寿操院)となります。ただし、本作品版行時は、夫妻共に健在です(菊池貞夫『江戸名所百人美女』リッカー美術館図録・1974参照)。

 桜、杜若、牡丹、梅、菊が雲間に散りばめられた華やかな柄の打掛の袖口が広口の「大名袖」になっており、口が開かないように飾り紐で留めてあること、髷は上流の武家娘が結う「奴島田」であり、髷の下飾りに丈長という薄紅色の厚手の和紙が何枚か重ねて巻かれ、前髪部には豪華な銀製の花簪が挿されていることなど、典型的な武家の姫君スタイルです。着物は緋の無地、帯は緑地に宝相華模様で上品です。大名家の姫君をモデルとして採り上げることは、(足利)将軍家の姫君を描く源氏絵の大家である、三代豊国には決して難しくはありません。

 霞ヶ関の大名屋敷に掛けて、百人美女シリーズに大名家の姫君を描き上げる浮世絵師の意図、あるいは版元の動機は十分に理解できるのですが、本作品の評価はそれだけのことなのでしょうか。実は、利姫は、尾張徳川斉荘(なりたか)の娘で、10歳で養子に入った慶臧(よしつぐ)と婚約し、将来は尾張徳川家の奥方になるはずでしたが、婚約者慶臧が14歳で逝去してしまいます。したがって、その後、紀伊徳川家養子を経て、浅野家に嫁したというわけです。ところで、この尾張徳川家の慶臧の遺愛品の中に数々の浮世絵や版本があったことが知られるに至っています。たとえば、北斎の『北斎漫画』12冊、広重の『狂歌入東海道』、同「蔦吉版東海道」、三代豊国・国芳・広重の『東海道五十三對』、国芳の武者絵、三代豊国の源氏絵など、幕末期の浮世絵師の作品が多数あります。とくに、幕政を揶揄する国芳作品が意外に多いという驚きの事実があり(内藤正人『浮世絵再発見』小学館・2005、p99)、慶臧は国芳がお気に入りであった可能性もあります(同『浮世絵再発見』p106)。揶揄や批判の対象となった幕政のトップに立つ将軍家とはある種ライバル関係にあり、将軍次順位にある御三家筆頭尾張徳川家の気風の違いというものを改めて感じます。他方、浮世絵師達も尾張徳川家に親しみを持っていたと言えましょう。深読みすれば、運命のいたずらによって、尾張徳川家から広島藩浅野家に嫁いだ利姫に浮世絵制作者達も関心があって、百人美女シリーズにその幸せな姿を描き留めたと思われます。徳川家出身の姫君なので、源氏の姫君となり、源氏絵風表現には相応しい立場です。

 翻って考えると、安政4年正月版行の江戸百は高く上がった凧など、お正月のおめでたい雰囲気に包まれた霞ヶ関風景となっています。これも、安政地震からの復興という視点よりは、霞ヶ関の浅野家・黒田家に何か慶事があって、それをあわせて寿ぐものであり、その何かの1つが浅野家の婚儀にあったのではないかと想像するところです。

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7「芝あたご」

山口屋藤兵衛(錦耕堂)  安政4年11月

資料  「口南西久保愛下之圖」  江戸百「芝愛宕山」


0715 切絵図を見ると、愛宕山は、「三縁山増上寺」の北側、「此ヘンアタゴ下ヒロ小ジトモ云」の文字の西側にあります。この地域では唯一の独立峰で、眼下の海岸線に向けて広く視野が開けていることが想像できます。この点は、広重の江戸百の背景部分によく表現されており、築地本願寺の本堂大屋根がランドマークとして写されています。『江戸名所図会1』(p253)には、「愛宕山権現社」として、「本地仏は勝軍地蔵尊にして、行基大士の作なり。永く、火災を退けたまふの守護神なり」、また、「別当円福教寺は、石階の下にあり」とあります。急な石段が描かれるこま絵は、「そもそも、当山は懸岸壁立(けんがんへきりゅう)して空を凌ぎ、六十八級の石階は、畳々として雲を挿(さしはさ)むがごとく聳然(しゅうぜん)たり」との解説(同江戸名所図会p263)を受けています。なお、続いて、「月ごとの二十四日は、縁日と称して参詣多く、とりわき六月二十四日は、千日参りと号けて、貴賤の群参稲麻(とうま)のごとし(縁日ごとに植木の市立ちて、四時の花木をここに出だす。もつとも壮観なり)」と記されています。同江戸名所図会掲載図版は、「愛宕下真(ママ)福寺薬師堂」、「其二 愛宕社總門」、「其三 山上愛宕山権現本社図」、「愛宕山圓福寺毘沙門の使」の7頁(p255~p261)に亘っています。

 こま絵には、鳥居の背後の長い石段(男坂)上にある本社が夜景の中に描かれており、本社の左に灯りを点けた茶屋が見えます。前景の美人の右脇には賽銭箱が覗いているので、愛宕権現へのお参りだということはすぐに理解できます。ただし、こま絵があえて夜景である点で、通常の参詣ではなくて、夜参りである6月24日の「千日参り」と判ります。この日のお参りは、1度で千日分のご利益があるとされ、あわせて、6月晦日(みそか)の「夏越(なごし)の祓い」が行われることでもよく知られていました。したがって、「貴賤の群参稲麻のごとし」となるのです。夏越の祓いは、荒ぶる神を祓い和ませるので、「和(なご)し」とも言われ、「茅(ち)の輪」くぐりがその代表的な方法です。これは、茅萱(ちがや)を紙で包み束ねて輪にしたものを鳥居や拝殿などに設け、参詣者がそこをくぐって行われます。輪=和ということでしょうか(『図説 浮世絵に見る江戸の歳時記』河出書房新社・1997、p71参照)。

 愛宕権現への千日参りによって火伏せのご利益を得、同時に、夏越の祓いによって無事に秋を迎えられるようそれぞれ願って、本作品の美人は愛宕山に向かったということです。鼈甲の花笄に簪というのは、この美人が武士の娘であることを表していますが、同切絵図に「愛宕ノ下大名小路」とあり、この辺りが大名屋敷の多い地域であれるという特性を反映していると考えられます。帯に毘沙門亀甲繋ぎに宝相華が散らされているのは、愛宕権現の地主神が毘沙門天だからです(同江戸名所図会掲載図版「愛宕山圓福寺毘沙門の使」p260~p261参照)。着物に梅、笹を散らした中に鹿の子絞りの輪を配しているのは、夏越の祓いの茅の輪を意識してのことです。画中に描ききれない情景を、髪飾り、帯、着物の柄等を通して暗示させている点を見落としてはいけません。

 版行が先行する江戸百では、正月3日の愛宕山円福寺の毘沙門使いの儀式が画題とされているのに対して、三代豊国は、重複を避け、6月24日の千日参りと夏越の祓いを画題に持ってきており、この点に歌川派総帥の矜持を感じます。それにしても、三代豊国の作品制作の用意周到さにはまったく驚かされます。

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6「東本願寺」

若狭屋与市  安政4年11月

資料  「東都淺繪圖」(文久元年)、「今戸輪淺繪圖」(嘉永6年)  江戸百に対応図版なし


0614 嘉永6年の切絵図を見ると、「東本願寺」は、「金龍山浅草寺」の西側、新堀端大通りにあり、また、その前の道に「門セキ前ト云」と記されています。西側、南側の寺町と一緒に明暦の大火後、当地に移転されました。『江戸名所図会5』(p300)には、徳川家康によって本願寺が東西に分かれた経過説明があり、あわせて、図版「東本願寺」(同江戸名所図会p301~p303)と図版「報講」(同江戸名所図会p304~p305)が掲載されています。本作品の版行年月が安政4年11月であることを考慮すると、同江戸名所図会の「開山忌(毎年十一月二十二日より同二十八日までの間、読経・説法等あり。俗にこれを御講(おこう)と称す。一に報恩講ともいふ。そのあひだ門徒の貴賤群参せり)」との関連で版行されたと考えるのが自然です。

 こま絵には、文久元年の切絵図に掲載される冠木(門)が近景にあり、その背後に本堂の大屋根が描かれ、よく見ると菊花紋の上の部分に鷺(さぎ)が巣を作り、周りには寺につきものの鳩が飛び群れているようです。前景の美人の足元にも2羽の鳩がいるので、この美人は、東本願寺の御講に来ていることが判ります。武家など上流の婦人が神社仏閣等外出する際に被る揚帽子(あげぼうし)をし、帯は仏具の「独鈷」と「華皿」の柄という点からも納得できると思われます。それに対して、金魚(琉金)の絵柄の振袖が華やかで、袖に両手を隠す恥ずかしそうな仕草が気に掛かります。これは、同江戸名所図会の図版「報講」を参照し、その全体像を見ると様子が判ります。若い女性が多く、周りから注目を浴びているようで、周囲も何となく気を遣っている風に見えます。実は、御講の機会を利用して、門徒同士が見合いをしている様子を描いているものなのです。灯籠の脇には、心配そうな両親の顔も見えます。

 三代豊国が前景に描いた美人は、このような御講に際して行われた見合いの全体図から切り取られた部分図なのですが、江戸庶民には十分に理解できたことと思われます。美人の足元の鳩も、佇む白鳩とそれを盗み見る灰色の鳩とに描き分けられ、見合い風景を暗示しているのではないでしょうか。深読みすれば、揚帽子(礼装の女性)と肩衣(かたぎぬ)(門徒の礼装の男性)を想像させる工夫です。御講に新しい着物を着ていく習わしを「御講小袖」と呼びますが、参詣用と見合い用の、2つの意味が含まれているはずです。なお、門前には有名な甘酒屋があり、「肩衣と帽子甘酒のんでいる」という川柳があります。また、「いづもより御こうははでなゑんむすび」などの川柳もあり、いずれも、御講の際の見合いが主題です。

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5「梅やしき」

上州屋金蔵  安政4年11月

資料  「本所繪圖」  江戸百「亀戸梅屋舗」


0513 「梅やしき」は、切絵図を参照すると、亀戸天満宮の北東部に位置し、『江戸名所図会6』(p130)には、「清香庵(せいこうあん)」が本来の名称と判ります。こま絵には、梅の大樹の前に立札があるので、水戸光圀が命名し、徳川吉宗も訪れ称賛した、有名な「臥竜梅」を描くものと思われます。『定本武江年表中』(p130)には、寛政4(1792)年7月21日に「旧根、焼失するよし」とあるので、その子孫木ということになりましょうか。同江戸名所図会は、臥竜梅を「その花一品にして重弁潔白なり。薫香至って深く、形状あたかも竜の蟠(わだかま)り臥すがごとし」と表現しています。図版「梅屋敷」(同江戸名所図会p132~p133)の書き入れには、「また花の後、実をむすぶを採り収めて、日に乾かし塩漬けとしてつねにこれを賈(あきな)ふ。味はひことに甘美なれば、ここに遊賞する人かならず沽(こ)ふて家土産(いえづと)とす」との説明があります。この点からすれば、江戸百を代表する1枚である「亀戸梅屋舗」は、梅(臥竜梅)の開花とその梅で作る梅の塩漬けの宣伝が基本部分にあるのではと、まずは当たりを付けることができます。こま絵の梅を薄いピンク色が包み込むように彩色されている点は、江戸百作品と同様、おそらく梅の香を色によって表現したものでしょう。

 梅屋敷の臥竜梅を描くこま絵から、前景の床几に座す美人は、梅見姿であることが判ります。床几にはお茶と火入れが置いてあり、梅を見ながら、お茶を飲み煙管を吸うなどのサービスが提供されています。美人は島田髷に緋布の結綿をし、櫛、簪、笄の全てが鼈甲で、旗本など地位の高い武士の娘と見えます。着物は、菊花と裾には光悦垣(こうえつがき)の柄で、上下染め分けた京友禅でしょうか。帯は、先行作品でも何度かあった卍崩しと宝相華模様で、片輪の縦結びです。綿入りの太い帯締めをしています。床几に美人の赤い包(梅の塩漬け?)が置かれており、右手に持つ扇子を立て、左手で体を支え、たぶん親しい連れと何か話をしている仕草と感じられます。

 梅屋敷(花、実)の宣伝という観点で再検討してみると、本作品の制作版行が安政4年11月という点で疑問が生じます。梅の時期を考えれば安政5年2月(後掲62「するがだい」参照)が自然ですし、江戸百ならば安政4年2月(江戸百「蒲田の梅園」参照)でも良かったと言えます。ところが、三代豊国も広重も、ともに安政4年11月に梅屋敷の作品を制作版行しています。逆にこの事実から推論すると、両浮世絵師とも、臥竜それ自体ではなくて、臥竜梅を重要視しているのではないかと結論づけられます。同江戸名所図会(p130)が、「梢高からず。枝ごとに半ばは地中に入り地中を出でて枝茎を生じ、いづれを幹ともわきてしりがたし」と解説する点を本作品の美人と照らし合わせると、床几に座すのは、「梢高からず」竜が臥すがごとき姿を表し、右手で扇子の頭を持って立て、左手を床几に置くのは、「枝ごとに半ばは地中に入り」を造形し、着物の裾模様の光悦垣は臥竜梅を囲む垣根に該当し、さらに鼈甲の髪飾りは梅の枝に見えます。つまり、前景の美人を臥竜梅に見立てた点に本作品の趣向があるという考え方です。11月・侍(さむらい)月の版行なので、商家ではなく、武士(旗本)の娘を主人公にしたことも付け加えておきます。

 ちなみに、三代豊国の自宅兼仕事場は初代豊国の亀戸の屋敷を引き継いだもので、三代豊国を亀戸(豊国)と呼ぶ所以です。地元作品ということを考えると、今となっては判りませんが、臥竜梅に擬えられた美人にはだれかモデルがあるようにも思えます…。あるいは、『源氏物語』の「梅枝」見立てと考えるならば、薫物(たきもの)の儀を梅の香と掛けているのかもしれません。とすると、前景美人のモデルは、光源氏の一人娘「明石の姫君」でしょうか。

 江戸百について言えば、「亀戸梅屋舗」はちょうどシリーズ100枚目を達成する安政4年11月改印7枚の内の1枚です。広重は、梅ではなく、竜を描いてシリーズ完成を自身で祝したと考えれば、版行時期の不自然さは失くなります。「亀戸梅屋舗」で「竜」、「虎の門外あふひ坂」で「虎」、「浅草田圃酉の町詣」で鷲(おおとり)、「深川万年橋」で亀、合わせると、それぞれの作品は、「青龍、白虎、朱雀、玄武」の四神に対応するものと考えられます。そして、「四ッ谷内藤新宿」の馬の尻が、尻の作品・100枚目を意味しているというのが、本ブログの基本見解です。

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4「神田のやしろ」

若狭屋与市  安政4年11月

資料  「小石川谷中本郷繪圖」  江戸百「神田明神曙之景」


0406 『江戸名所図会5』(p17)には、「神田大明神の社」は、「聖堂の北にあり、唯一にして江戸総鎮守と称す。祭神 大巳貴命(おおあなむちのみこと)・平親王将門(へいしんのうまさかど)の霊、二坐」と記されています。初めは神田橋御門内柴崎村にありましたが、江戸城の開発に促され駿河台へ、最終的には元和2(1616)年に神田川の開削工事によって湯島台地に移転して、今日に至っています。切絵図で確認すると、江戸城鬼門方向を守る神社の1つということが判ります。湯島台地の高台にあるので、眼下に広がる江戸市中の眺望を楽しめる観光名所でもあり、周辺には多くの茶店が並んでいます。同江戸名所図会は、さらに続けて、「祭礼 隔年九月十五日(江府神社の祭礼は、永田馬場山王を第一とし、当社これに次ぐ。いづれも公よりの沙汰として、練物・車楽(だんじり)等、善尽くし美を尽くし町中を引き渡す。これ一時の荘観なり。この日都下の貴賎、桟敷をかけて見物す)」と記し、「神田明神祭禮」と題する図版が、計8頁に亘って掲載されています(同江戸名所図会p20~p27)。天下の将軍が行列を上覧するという意味で天下祭りと称され、神田祭が山王祭とともに江戸の人々に深く親しまれていたことがよく判ります。

 安政4年9月改印の江戸百においては、神田明神の東側から2本の杉越しに初日の出を遥拝する構図となっており、祭礼を前提とした作品ではありません。『定本武江年表下』(p95)の安政4年9月15日の項に、「神輿・車楽(ダシ)等、御城内へ入る。附祭踊伎(ヲドリ)・邌物(ネリモノ)は出さず(御雇大神楽・こま廻しも不出。婦女の警固、一切なし。十六日、礼参り。雨にて淋し)」と記されていて、この時の祭が、安政地震やその翌年の台風の被害によって、まだ十分には往時の壮観さを取り戻していないことが祭礼描写を避けた理由と考えられます。これに対して、本作品では、こま絵は神田明神を鳥居方向から正面に捉え、前景の美人の足元左には花笠と半被が置かれていて、明らかに祭礼の踊りに参加する支度と見えます。2ヶ月程前に終了した現実の祭礼に拘ることなく、従来の景気の良い神田祭を前提に美人を描き上げたものと考えられます(前掲2「五百羅かん」参照)。

 具体的に前景の美人を見てみると、島田髷に簪を1本挿しただけなのは花笠を被るため、献上博多帯をかるた結びにしているのは動きやすさを考慮したため、着物の褄を帯にしっかりと挟んでいるのは着崩れを起こさないため、また、足の親指に力を入れているのも踊りの際に足場を固めるため等々、右手に持った黒骨の扇子を含めて祭り支度へ気持ちが一心に向けられています。踊り舞台に参加して見初められることもあったことを考えれば、女の戦支度にも似た雰囲気を感じさせます。足元右の空の引き出しが準備万端、いよいよ祭りという緊張感を醸し出しています。なお、着物の模様が、源氏香と鉞(まさかり)の組み合わせになっており、山田(前掲書p33)は、「まさかり」と「まさかど」を掛けた可能性を指摘しています。ただし、明神の祭礼ということで、神聖な鉞の一種「よき」紋と雅な源氏香紋を組み合わせたに過ぎないのかもしれません。

  安政4年9月に神田明神の祭礼が行われたことを意識して、同年11月に版行された、時事ネタ作品です。なお、神田明神の祭礼と並ぶ山王祭については、後掲23「山王御宮」参照。

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3「猿若町」

丸屋久四郎  安政4年11月

資料  「今戸輪淺繪圖」  江戸百「猿わか町よるの景」


0305 江戸三座と言われた芝居小屋は、堺町の中村座、葺屋町の市村座、木挽町の森田座を指します(『江戸名所図会1』p135、p212参照)。ところが、これらの芝居小屋が天保の改革の一環で、浅草寺の北東側に一括移転させられた際、その地域を江戸歌舞伎創始者の猿若勘三郎の名に因んで猿若町と呼んだことがその名の由来です。切絵図を見ると、南側より、「中村座」、「市村座」、「川原嵜座」(森田座)と記載されています。道路向い側には、薩摩座、結城座などの人形芝居小屋があります。つまり、江戸百は、森田座が手前右側に見える北方向から描いているのに対して、こま絵の方は、手前に「隅切角に銀杏」の紋を飾った公許の御免櫓が描かれているので、南端にあった中村座を西側から見ていることになります。

 江戸百が足掛け18年ぶりに再興した森田座を媒体にして猿若町の芝居小屋を宣伝していると理解するならば、同様の思考で、本作品は中村座を媒体として芝居宣伝をする趣旨であることが読めてきます。また、本作品の版行が安政4年11月ということは、江戸歳時記上かなり重要な意味を持ちます。すなわち、毎年11月というのは、歌舞伎芝居の顔見世興行の時期に当たるからです。座元が俳優を入れ替え、1年契約の役者を発表する月で、庶民には座専属の新規の顔ぶれが判るということでもあります。芝居小屋関係者にとっては、まさにお正月と言うことができます。となれば、前景に描かれる美人は、単に芝居見物に来たもしくは同行したというのではなくて、顔見世に胸をときめかしてやって来たファン(御贔屓筋)の1人だと理解できます。

 美人は、水の流れに舟模様の振袖に錦織の帯を締め、島田髷の元結に組紐を使用し、つまみ細工の簪を挿すなど、大店の娘と見えます。それに対して、足元の白の捻り緒の草履は、下級武士の履く安物ですが、この場合は芝居茶屋で用意される内履き用のものと思われます。つまり、芝居茶屋で身支度を整えて小屋に移動する御贔屓筋の娘なのでしょう。歌舞伎年代記などを片手に安政4年中村座の顔見世興行を調べれば、美人がだれのファンなのか想像できるかもしれません。本作品は、今様の着物や流行紋様の見本帳としての役割を果たしていますが、芝居小屋を取り巻く御贔屓層の豊かさを感じさせる作品の1つです。安政地震や翌年の台風被害などから再興した、芝居小屋関係者の開幕宣言を兼ねているように思われます。宣伝主体の作品です。

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2「五百羅かん」

藤岡屋慶次郎  安政4年11月

*資料  「本所深川繪圖」  江戸百「五百羅漢さゞゐ堂」


0202 『江戸名所図会6』(p76以下)には、「天恩山五百大阿羅漢禅寺」について、「本所五目(いつつめ)、竪川より南にあり。黄檗(おうばく)派の禅林にして、河東第一の名藍たり。開山は鉄眼禅師、中興は象先和尚、また松雲禅師をもつて開基の大祖と称す」と記され、仏殿の「左右の階壇に列(つら)なれるところの五百阿羅漢の像は、おのおの等身にして、ともに松雲禅師彫刻するところなり」とあります。東西の阿羅漢堂に並ぶ釈迦の500人弟子の像が有名で、同江戸名所図会に10頁にも亘る図版が、500人の尊号とあわせて紹介されています。ただし、こま絵に描かれている建物は、総門の内左の方、天王殿に並ぶ「三匝堂(さざいどう)」の最上階部分です。同江戸名所図会には、「本尊は白衣観音・魚籃の観音および弥陀・勢至・地蔵等を本尊とす。上の繞(めぐ)りは西国、中の繞りは坂東、下の繞りは秩父、以上百番の札所観音の霊跡を摸擬(うつ)して、百軀の観音」等が安置されており、「右繞三匝(うにょうさんそう)にして、おぼえず三階の高楼に登ることを得はべり。俗間栄螺堂(さざいどう)と唱へ、後世三匝堂を造るの規範とす」とあります。木造3階建の非常に眺めの良い高楼で、北斎『冨嶽三十六景』「五百らかん寺さゞゐ堂」にも富士見の名所として紹介される程です。

 本作品の人物2人に目を移せば、若い美女は結綿の島田髷に花簪を挿し、結んだ前髪の辺りには中剃りがあり、帯は麻の葉模様ということなので、年齢の低さを表現しようとしています。縦縞と絣(かすり)を交互に合わせた絽の着物を着て、左手に蛇の目の日傘、右手に地の赤い団扇というのは、いかにも夏の装いです。手前の腰を曲げた老女は、卍模様の渋い着物を着て、左手に風呂敷包み(弁当?)、右手に杖を持ち、孫娘に付き添われてのお参りといった風情です。百人美女シリーズ中、最高齢の美人(?)紹介ですが、花を添えるために孫娘が加えられています。

 当時、五百羅漢の中に1体は見知った顔があると言われており(川田壽『続江戸名所図会を読む』東京堂出版・1995、p205参照、「親のある内は羅漢に気がつかず」)、老女は懐かしい人の面影を探しにお参りするのかもしれません。この時の孫娘は、こま絵に描かれる三匝堂に登って、その眺望を楽しみ、涼を味わうという程度の気持ちなのでしょうが、いずれ、五百羅漢の中に今日の祖母の顔を見つけ出す日が来るのではないでしょうか。それを予見させるため、孫娘が覗き込む老女の顔は羅漢の顔に似せて描かれています。つまり、この老女は、五百羅漢の1人に擬えられているということです。ちなみに、本作品版行の安政4年11月時点では、五百羅漢寺の本堂・阿羅漢堂・三匝堂とも安政2年10月の地震によって被災・損壊し、再建もままならず、お参りはできなかったはずです。とするならば、本作品は思い出の五百羅漢寺を拾い上げたものなのかという疑問が浮かびますが、現実に被災した五百羅漢寺ではなくて、五百羅漢参りそれ自体を画題にしていると考えれば辻褄は合うように思われます。

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1「湯島天神」

辻屋安兵衛  安政4年11月

*資料  「小石川谷中本郷繪圖」  江戸百「湯しま天神坂上眺望」 


0101 こま絵に描かれている「湯島天神」について、『江戸名所図会5』(p40)には、太田道灌が菅丞相(かんしょうじょう)親筆の画像を城外の北の祠堂に安置したことに始まるという説が紹介されています。北野天満宮・天神信仰の東国への流布の結果と考えられます。切絵図を参照すると、不忍池の南西に位置し、不忍池や上野寛永寺が眺望できたことが想像できます。実際の眺望がどうであったかは、男坂・女坂を登り詰めた坂上に視点を置いた、広重作品によって知ることができます。他方、こま絵は、石段と鳥居が描かれている点で広重とはやや異なり、坂上から西方向に視点を採ったものと考えられます。

 湯島天神を有名にしたのは、目黒不動尊、下谷感応寺と並び、「江戸三富」と言われた富籤(とみくじ)です。また、『定本武江年表下』(p28)に、「湯島天満宮社前に氷人石(ひやうじんせき)といふ物を立る」とあり、男女の縁組、迷い子探しなどの仲立ちをすると記されています。『江戸名所図会5』(p42~p43)の「湯島天満宮」の図版には、「表門の通り左右に料理茶屋あり」との書き入れがあります。この辺りは寛永寺など寺が多いこともあって、陰間茶屋などもたくさんありました。しかし、本作品の少女にはどれも無関係のように思われます。

 前景の少女に目を向けると、筆箱、手本帳の置かれた文机に向かっており、その下には反古にされた手習帳が落ちています。手習い中に声をかけられ、書いていた恋文を慌てて袖の下に隠している仕草です。朱縁の巻紙は、恋文の証拠です。島田髷には房飾りのついた花簪(かんざし)を挿し、前髪に可愛い紅紐が結わえてあります。前髪辺りに中剃りがあり、後ろに垂れた長い帯の裏模様が麻の葉の鹿の子絞りになっているのは、この美人がまだ年若い少女(12、13歳)であることを示しています。一言で言えば、典型的な商家の娘姿が描かれているということです。

 学問の神を祀った天神に掛けて、手習いをする美人を描いていると読み解けますが、江戸に数多くある天神のなかでも湯島でなければならない理由が不明です。これを解明するには、もう一つ、江戸庶民共通の認識を持ち出さなければなりません。すなわち、人形浄瑠璃・歌舞伎の演目、『八百屋お七』の物語です。天和3(1683)年、恋人に会いたい一心で放火したお七は、歳を15と言えば許されたのに、湯島天神に奉納した書(掛額)から本当の年齢が判り、鈴が森で火炙りの刑に処せられます。つまり、本作品の恋文を隠す少女は、八百屋お七をモデルに考案されていると見なければなりません。それ故、その表現は、お七髷、お七帯と呼ばれる商家の娘を写す歌舞伎役者の姿と同じであることに気付かされます。裕福な商家の娘が無邪気に恋文をしたためる様は、湯島天神のこま絵と結びつくことによって、八百屋お七自身あるいはその見立てであると示されるのです。本作品読み解きの面白さは、この八百屋お七に気付くかどうかです。

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販売までの紆余曲折

◇『これが江戸 錦繪合』

Photo 嘉永5(1852)年11月から嘉永6(1853)年11月の間に制作された宣伝目録『これが江戸 錦繪合』の行司欄に、13の揃い物の錦絵が宣伝されていて、その中に「百人美女」の記載があります。つまり、すでにこの頃より百人美女の企画があったことを示しています。現実には、安政4(1857)年11月、12月、安政5(1858)年2月、3月、5月の5期に分かれて、計100枚の作品が制作されることになります。同目録掲載のその他の揃い物が、嘉永5、6年中に制作されていることを考えると、例外的に完成が遅かったことが判ります。しかしながら、このことは百人美女には幸運な結果でした。

 『藤岡屋日記 第5巻』(三一書房・1989、p237)の、嘉永6年2月25日に記される「豪華摺物一件」には、次のような事件が紹介されています。要約すると、同目録に記載されていた作品を含む多数の錦絵に対して幕府の「御手入れに相成候」となって、「板元十六人計、版木を取り上ゲられ、於本町亀の尾ニ、絵双紙掛名主立会ニ而、右版木を削り摺絵も取上ゲ裁切候よし」という次第です。豪華版としてかなり高い値段で販売し、それがまた大評判であったことが、その理由のようです。制作が遅れた百人美女には、その類が及ばなかったという意味で、既述のとおり、幸運だったというわけです。ただし、作品版行前にこのような事件があったということは、百人美女の制作に対して相当の心理的影響(トラウマ)を与えたはずで、当然のことですが、版元および絵師は幕府のいたずらな干渉を避けるべく慎重に様々な対策を練ったはずです。したがって、作品を読み解く際には、このような対策(忖度)を拭い去ってから作品を楽しむ必要があります。制作者側の隠された仕掛けを読み解くという意味では、一種謎解きのような面白さがあるのではないでしょうか。

 百人美女の版行がなぜ遅れたのかと言えば、もともと、名前を記すことが許されないなど、美人絵に対する幕府の規制には厳しいものがあって、100枚シリーズともなれば、何らかの綱引きが幕府とあったことが想像されます。そして、安政2(1855)年10月2日の江戸地震の発生、翌安政3(1856)年2月からの歌川広重の江戸百の版行、そして安政4年11月には96~102枚目が版行され、当初の目標であった100景の完成という具合に事態は進行します。そのうえで、同月に、歌川(三代)豊国が『江戸名所百人美女』と題して10の版元から一挙に48枚売り出します。結果として、三代豊国は広重が100枚を描くまで待っていたことになります。時系列を考えれば、江戸百と百人美女との間に因果関係があると思うのが自然です。また、商機に敏感な版元が、一方で名所絵100枚、他方で美人絵100枚の揃い物錦絵のセット売りに挑戦しないわけがないと考えられます。良く言えば、商売上のタイアップであり、穿った見方をすれば、幕府とは穏当な関係を持つ広重の名所絵を隠れ蓑にして、つまり、広重を意識した名所のこま絵を当該作品に入れることによって、三代豊国の美人絵を版行することができたのではないでしょうか。

 このような両者の相互関係には前例があり、広重の保永堂版東海道が伊勢辺りまで完成したのを機に、豊国襲名前の国貞が美人東海道を一挙に56枚の揃い物として版行しているのです。東海道の旅行ブーム(伊勢参り)を借りて、広重の街道名所絵と国貞の街道美人絵とにそれぞれ振り分けて売り出したということです。浮世絵の商品性を考えれば、当然ありうべき事態です。


◇絵師の工房制作

 百人美女の制作方法は、三代豊国とその弟子達による、いわゆる工房制作と言うことができます。三代豊国の手による大まかなデッサン以外の部分は、こま絵も含めて、弟子が担当する分業システムを敷いています。たとえば、百人美女「両国はし」を見ると、背後のこま絵には弟子国久、帯端には「国マロ製」(弟子国麿)の絵師名が入っていて、少なくとも3人の絵師が加わっていることが明白です。本作品1枚が特別なのではなくて、全ての作品がこのような工房制作で、実際に係わる弟子の数はもっと多かったと思われます。


*歌川国貞(三代豊国) 天明6(1786)~元治元(1864)年
 初代豊国門下の愛弟子として、「五渡亭」を名乗り、美人絵で浮世絵界にデビューしました。文化10(1813)年頃の人気番付では、「美人と役者は国貞に限る」と言われるほどの地位を占めています。弘化元(1844)年、「二代豊国」(実際は三代)を襲名。嘉永期(1848~1854)以降、デザイン性に富み、彫り摺りの極致とも言える技巧を駆使した作品を制作し、その代表に『偐紫田舎源氏』の挿絵から産まれた「源氏絵」などがあります。画号として、「一雄斎」、「香蝶楼」、「一陽斎」など。歌川派の総帥として、多数の版元と大勢の弟子を使って、膨大な作品を工房制作しています。

*歌川国久
 百人美女の制作に係わっている国久は、二代国久に当たります。三代豊国の娘と結婚し養子となった人物です。ちなみに、兄弟子の二代国政(二代国貞)も三代豊国の婿養子となっており、後に四代豊国を襲名します。


◇複数版元の共同版行

 ①藤岡屋慶次郎(松栄堂、松林堂)    22点
 ②若狭屋与市(若林堂)         12点
 ③辻屋安兵衛(錦魁堂)         10点
 ④丸屋久四郎              10点
 ⑤湊屋小兵衛(錦船堂)         10点
 ⑥山口屋藤兵衛(錦耕堂)        9点
 ⑦山本屋平吉(栄久堂)         9点
 ⑧遠州屋彦兵衛             9点
 ⑨上州屋金蔵(祥福堂)         6点
 ⑩大黒屋金之助             3点


◇改印による版行時期の違い

 前・第1期 安政4年11月  48点
 前・第2期  安政4年12月   8点(第1期を補うものです)

  後・第3期  安政5年 2月     33点
 後・第4期  安政5年 3月      9点(第3期を補うものです)

 特・第5期 安政5年 5月      2点(「内藤新宿」、「御殿山」)

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歌川(三代)豊国『江戸名所百人美女』

◇はじめに

 美人絵の名手、歌川(三代)豊国は、安政4(1857)年11月から安政5(1858)年5月にかけて、『江戸名所百人美女』(以下、百人美女と略します)と題する美女シリーズ100枚を版行しています。ある意味で、三代豊国が描いた美人絵の総集編とも言いうる作品集です。本ブログは、この百人美女に解説を加え、同時に江戸後期の美人絵の特徴を総括的に学ぼうという意図で始めるものです。

 百人美女に関しては、すでに山田順子『絵解き「江戸名所百人美女」江戸美人の粋な暮らし』(淡交社・2016)という優れた解説書が出版されており、江戸時代の風俗に関する広範な知識からレベルの高い読み解きがなされております。したがって、重複を避けるため、本ブログでは、自身を江戸庶民の身において、当時、その作品を見たら何を面白がったのだろうか、あるいは何に感心して作品を買おうと思ったのだろうかという観点で、遊び心を探るという方向で読み解いてみたいと思います。やはり、浮世絵は販売商品なので、商品としての売りの部分に注目するという方針です。

 なお、村田孝子『浮世絵にみる江戸美人のよそおい』(ポーラ文化研究所・2017、以下、『ポーラ文化研究所図録』と略します)など、ポーラ文化研究所コレクションに関する複数の解説に百人美女が採り上げられており、そこから有益な示唆を得たことを先に述べておきます。また、山田・前掲書を元資料とするホームページ解説や異論を述べるツイートなどもありますが、これらに関しては、各作品解説の中で個別的に紹介できればと考えています。本ブログで紹介する百人美女の画像については、一部は長野浮世絵研究会にも所蔵するものがありますが、作品の均一性を考慮して、国立国会図書館の画像を原則としつつ、欠落する部分については東京都立図書館の画像を使用しています。電子書籍としても提供されているようなので、それらを参照していただいてもよいかと思います。

 ちなみに、『江戸名所図会』を度々引用しますが、これについては、市古夏生・鈴木健一校訂『新訂 江戸名所図会』(ちくま学芸文庫・1996~1997、以下、『江戸名所図会』と略します)を定本として、その巻数と頁を掲載します。『武江年表』については、今井金吾校訂『新訂武江年表上・中・下』(ちくま学芸文庫・2003~2004)を使用します。その他、『嘉永・慶応 江戸切絵図』、歌川広重『絵本江戸土産』、同『名所江戸百景』(以下、江戸百と略します)については、原本図版の題名を示すに止めています。

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平成最後のお正月

 たまたま今回のお正月に、長男、次男、三男と私とで写真を撮る機会があったので、アップします。何しろ、札幌、新宿、長野と別々の場所を拠点としているので、一同集まることがなく、良い記念になったかも。

 長男はEverZOneというグループで芸能活動をしているし、次男は不動産会社の青年社長として飛躍的な成績を修めているし、三男はお土産品の営業の仕事をしています。それぞれ私の血を引いてカッコ良い男なのですが、全員、彼女なしの独身というのはどういうことでしょうか?妻が存命であれば、相当きつく詰められていたことと思いますね。

 酔っ払った勢いで「川原家勢揃い」ということで、唯一、結婚し二人の孫を連れてきてくれた長女が写真を撮ってくれています。早く、孫を連れてきてくれないと、体力的に一緒に遊ぶことができなくなっていしまいそうなのが心配です。今年も、仕事に賭ける一年となりそうです。

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